略歴・概要
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1933年(昭和8年)11月1日発行の『サンデー毎日』に掲載された山手樹一郎の小説『一年餘日』を原作に、伊丹万作が脚本を書き上げ、年をまたいで製作が行なわれて、原作発表後のわずか3か月後の翌年1月31日に早くも公開された。伊丹の前作『渡鳥木曾土産』はそのわずか2週前の同年1月14日に公開されているが、この前作の原作を採用された佐伯清が、その縁で、本作以降の5年間、『巨人傳』までの伊丹の10作品の助監督を務めることになった。日活データベースによれば「東京では『炬火 都会篇』と同時上映された」と記述されており、本作公開におけるメイン館である浅草公園六区・富士館では、『炬火 都会篇』は本作公開の翌日である2月1日から公開されている記録がある。 同年、昭和九年度キネマ旬報ベストテン第4位を獲得、これは、伊丹にとって『國士無双』(第6位、1932年)以来2年ぶりのランクインであり、伊丹の監督作のなかでは次年度の『忠次売出す』(1935年)とタイであり、伊丹にとっては生涯最高位のランクインである。田中純一郎は、木村錦花原作の『研辰の討たれ』(1932年)、長谷川伸原作の『刺青奇偶』(1933年)において「原作の持つ主題を遙かに超えた映畫的表現を示した」と評し、山手樹一郎の原作を得た本作についても「好個の題材を得て、またもや、絕妙の構成を見せた」と評している。伊丹は、同年5月17日に公開された伊藤大輔監督の日活京都撮影所作品『忠臣蔵 刃傷篇 復讐篇』に応援監督として尾崎純とともにクレジットされたのが次作であり、それを最後に片岡千恵蔵プロダクションを退社、新興キネマに移籍しており、本作が同プロダクション在籍時の最後の単独監督作、単独監督作での最後のサイレント映画となった。トーキー作品『戦国奇譚 気まぐれ冠者』(1935年)と同じく『赤西蠣太』(1936年)は、新興キネマからの出向による作品である。 2013年(平成25年)1月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターも、マツダ映画社も、映画『武道大鑑』の上映用プリントを所蔵しておらず、現存していないとみなされるフィルムである。
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略歴・概要
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「伯爵夫人 (田口掬汀)」の記事における「略歴・概要」の解説
小説『伯爵夫人』の初出は、田口掬汀の勤務先が発行する『萬朝報』紙上で、1905年(明治38年)に掲載された。同年、田口の本名である「田口鏡次郎」名義での個人事業として、『伯爵夫人』全2冊が刊行されている。同作、および前年に同じく『萬朝報』に連載した『女夫波』はたいへん人気となり、いずれも映画化されている。 本作は、発表の7年後に、日活への合併を目前とした横田商会で『ルイズの最後』のタイトルで映画化され、その3年後に日活向島撮影所でリメイクされている。 映画『ルイズの最後』は、いずれのヴァージョンも、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されていない。 小説『伯爵夫人』は、2009年(平成21年)12月現在、すべて絶版である。青空文庫にも収録されていない。国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」には、1905年版、1910年版がデジタル画像収録されており、ウェブサイト上で閲覧・ダウンロードが可能である。 ⇒ #ビブリオグラフィ
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「ニッポンシネマコーポレーション」の記事における「略歴・概要」の解説
1945年(昭和20年)8月15日の第二次世界大戦終了以降、日本でもアメリカ映画を中心とした連合国の映画が解禁になり、同社は、1948年(昭和23年)3月、その流れのなかで設立され、広く欧米の映画を日本に紹介した。 アメリカのインディペンデント映画会社であるリパブリック・ピクチャーズと共同で同社の映画を配給するほか、英国映画協会の日本事務所と組んでイギリス映画、イタリフィルムと組んでイタリア映画等を配給したほか、北欧映画、外映協(外国映画輸入配給協会)、日活、大映とも共同配給を行った。戦前に製作された作品も、さかのぼって初公開した。 同社の会長を務めた曾我正史は、戦前の映画監督・振津嵐峡としても知られ、戦後大映の専務取締役、1958年(昭和33年)には大映を退社し、日映を設立した人物である。また会長を歴任した加藤辰彌は外国映画輸入協会会長も務めた。 1957年(昭和32年)、ヘラルド映画が北欧映画と合併し、1960年(昭和35年)からはヘラルド映画とも共同配給を進めたが、1961年(昭和36年)7月、ヘラルド映画株式会社と合併して、日本ヘラルド映画株式会社(現在の角川映画)となり、消滅した。
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「日本映画プロダクション」の記事における「略歴・概要」の解説
日活大将軍撮影所の20歳の美少年俳優・市川市丸にパトロンがつき、1927年(昭和2年)に奈良に設立したのがこの「日本映画プロダクション」である。監督には帝国キネマ芦屋撮影所から阪東妻三郎プロダクションを経て、同年、直木三十五主宰の「連合映画芸術家協会」製作の『一寸法師』を、中川紫郎の「中川映画製作所」で撮っていた志波西果を迎えた。設立第1作は新撰組をテーマにした市丸主演作『宣戦布告』で、同作は同年6月10日に公開された。しかし、新進の剣戟俳優の林長二郎(のちの長谷川一夫)や市川百々之助を擁したメジャー会社の大宣伝に押され、興行的に苦戦した。 同社の設立にあたって、カメラマンの唐沢弘光を帝キネ芦屋から引き抜き、マキノ・プロダクションにいた俳優の鳥羽陽之助が入社したが、志波が2本、スタジオオーナーの中川紫郎が2本撮って、同社は解散した。鳥羽は市丸の出演しない『東海道四谷怪談』で初めて主役を張ったことが救いである。市丸は東京の河合映画製作社へ流れ、志波と唐沢、鳥羽は日活へ流れた。中川はマキノが拾い、提携会社「勝見庸太郎プロダクション」の理事などで遊ばせてくれたようである。
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「日本映画 (映画会社)」の記事における「略歴・概要」の解説
1932年(昭和7年)、京都の等持院撮影所で映画を量産していた「東活」が、東京地区に撮影所を新設しようと本多嘉一郎を派遣、北多摩郡調布町大字布田小島分(現在の東京都調布市多摩川6-1-1、角川大映撮影所)に白羽の矢を立てたが、まもなく「東活」は解散、京都の撮影所は競売に付された。 解散した「東活」を母体に、同社の社長中山貞雄が京王電気軌道(現在の京王電鉄)と提携し、1933年(昭和8年)に設立されたのがこの日本映画株式会社である。ひきつづき「日本映画多摩川撮影所」として建設した。当時のレジャーランド「京王閣」、および「多摩川原駅」(現在の京王多摩川駅)が至近の好立地であった。 1934年(昭和9年)、同社は倒産、建設した撮影所は日活が買収し、「日活多摩川撮影所」となったが、第二次世界大戦時の統制で1942年、合併して「大映多摩川撮影所」となった。戦後、本多は1962年7月の選挙で当選し、第4代調布市長となった。
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「日本映画プロダクション連盟」の記事における「略歴・概要」の解説
1928年(昭和3年)4月、牧野省三率いるマキノ・プロダクションの四国ブロック配給会社・三共社の山崎徳次郎は、阪東妻三郎プロダクションの経営者・立花良介とともに、以前から映画作家系インディーズの興行に熱心であった神戸の菊水キネマ商会の大島菊松らを中心とした全国150館の独立系映画館主に呼びかけ、「日本活動常設館館主連盟映画配給本社」を設立、配給会社の中間マージンを排除し、独立プロダクションへの製作費のダイレクトな出資および興行の方針を打ち出した。 同時期、片岡千恵蔵が先陣を切って退社し、嵐長三郎が牧野にかつて命名された名を返上して退社して嵐寛寿郎を名乗り、また山口俊雄、中根龍太郎、市川小文治、山本礼三郎、武井龍三、尾上梅太郎(「マキノ梅太郎」名返上)ら50数名のスターを中心とした俳優が大挙してマキノ・プロダクションを退社した。同年5月10日、片岡が「片岡千恵蔵プロダクション」(千恵プロ)を設立、嵐、山口、中根、小文治、山本もそれぞれプロダクションを設立、「千恵プロ」、嵐の「嵐寛寿郎プロダクション」(第1次寛プロ)を中心としたスタープロダクション5社が結成したのがこの「日本映画プロダクション連盟」である。 またこのとき、山崎に共鳴したマキノの大道具主任河合広始と撮影技師の田中十三もマキノを退社、京都・双ヶ丘に貸しスタジオ「日本キネマ撮影所」(双ヶ丘撮影所)を設立した。同撮影所は「日本映画プロダクション連盟の撮影所」と呼ばれることもあり、同連盟がもっぱらこれをレンタルし、スタッフ・キャストを共有し、協力して映画製作を行なった。 しかし、製作費の出資と興行をになう山崎の「館主連盟」が同年7月末には早くも瓦解、「千恵プロ」と「寛プロ」以外は解散を余儀なくされた。大島菊松が神戸に経営する「菊水館」を中心に興行に協力する映画館は残ったが、寛プロも翌1929年(昭和4年)2月には解散、嵐は東亜キネマ京都撮影所(等持院撮影所)に入社した。 「千恵プロ」は同年1月に嵯峨野に自前の撮影所「千恵蔵映画撮影所」をオープン、双ヶ丘撮影所を離れて映画製作を続行した。武井龍三は「千恵プロ」から独立、双ヶ丘撮影所に「武井龍三プロダクション」を設立し、3本の映画を製作したが、失敗に終り解散した。解散後のスターを含めたキャスト、スタッフのほとんどは、マキノ以外のメジャー系撮影所に移籍、あるいは舞台出身の者は舞台に戻った。
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略歴・概要
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「丹前風呂」の語源となった堀丹後守(堀直寄)の屋敷は、神田佐柄木町(さえぎまち)にあったとされ、現在の神田小川町、神田淡路町、神田司町2丁目のあたりだという。寛永年間(1624年 - 1645年)に、「摂津国風呂」という大規模な施設ができたという。湯女を多数抱えており、「遊里の趣」があった、つまりは遊廓のようであったという。江戸の他地区、他店と比較しても容色の優れた湯女が多く、身分のある武家の身でありながら身を持ち崩した者も現れたという。 「丹前風呂」に限らず、湯女風呂の発展には目に余るものがあるとして、江戸幕府は、1637年(寛永14年)に1店につき3人以上の湯女を置くことを禁じたが、徹底されず効果はなかった。 有名な湯女・勝山がいたことで知られる紀伊国屋風呂市兵衛の「紀伊国屋風呂」も、寛永年間に始まったとされ、勝山は1646年(正保3年)に同店に入った。1648年(慶安元年)には、湯女を置くことの全面禁止が行われたが、やはり徹底されず効果はなかった。 ほかにも丹前地区にあった風呂屋には、「桔梗風呂」、「山方風呂」、「追手風呂」等があった。「桔梗風呂」には吉野という湯女がいて、彼女が「丹前節」(略称「丹前」)という小唄の流派の元祖とされる。「紀伊国屋風呂」の湯女・市野は、吉野の一番弟子であったが、歌の技術は吉野に優った。「紀伊国屋風呂」の勝山、おなじく采女も吉野に直接指導を受けた。「山方風呂」の幾夜、「追手風呂」の淡路は市野の弟子であった。ほかにも独自の小唄を歌った「山方風呂」の柏木という湯女もおり、いずれも優れた芸であったとされる。 「丹前節」を参照 1657年(明暦3年)には、幕府が200軒に余る江戸全域の風呂屋の経営を禁止し、紀伊国屋風呂市兵衛らをはじめ、「丹前風呂」の業者たちはいずれも廃業に追い込まれた。「紀伊国屋風呂」の勝山および「山方風呂」の幾夜は、同年9月(明暦3年8月)、転じて、新吉原の山本芳潤(山本芳順とも)抱えの太夫となった。「紀伊国屋風呂」の采女は、大店である三浦屋抱えとなった。
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略歴・概要
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記録の上で最初にみられる作品は、1963年(昭和38年)6月18日に「日本シネマフィルム」が配給して公開した本木荘二郎監督の『女のはらわた』(製作巾プロダクション)である。同作の「企画」として鷲尾飛天丸がクレジットされている。本木は前年1962年(昭和37年)11月に公開された初監督作『肉体自由貿易』(製作国新映画)をヒットさせており、同作は4作目にあたるが、邦画五社の1/10の予算で製作した『肉体自由貿易』を配給してヒットさせたのが、「日本シネマ」であるとする資料もある。 初年度においては、富士映画出身の小林悟、同年に監督デビューしたばかりの若松孝二を監督に起用している。1965年(昭和40年)には、同年に監督デビューしたばかりの山本晋也、翌年には前年に監督デビューしたばかりの向井寛をそれぞれ監督に起用している。『映画年鑑 1978』によれば、1966年(昭和41年)7月に「日本シネマ株式会社」が設立されている。同年には、松竹京都撮影所で40作を監督した福田晴一、同じく18作を監督した倉橋良介、1968年(昭和43年)には、ワールド映画出身の奥脇敏夫を監督に起用している。 1975年(昭和50年)から1979年(昭和54年)にかけては、製作本数が激減している。初期に「製作」の鷲尾とならんで「企画」にクレジットされていた千葉実は、1978年(昭和53年)の時点では、ニューセレクトの常務取締役になっていた。 1980年(昭和55年)以降は、稲尾実、梅沢薫らの監督作を多く製作し、1982年(昭和57年)には、向井寛や山本晋也の助監督を務めていた獅子プロダクション出身の新人滝田洋二郎を監督に起用している。 1985年(昭和60年)以降は、渡辺元嗣、深町章らの新人を起用、1960年代から俳優として活動し東活で監督デビューした新田栄の監督作を多く製作し、1987年(昭和62年)12月に新東宝映画が配給して公開された、新田栄監督の『ザ・ペッティング4 舌戯』以降、映画作品は発表されておらず、活動は停止したものとされる。 東京国立近代美術館フィルムセンターは、2012年(平成24年)6月現在、同社の製作・配給された200本近くの作品のうち、若松孝二監督の『逆情』(1964年)をはじめ、約60作の上映用プリントを所蔵している。
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略歴・概要
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東宝映画(現在の東宝)の前身の1社であるP.C.L.映画製作所(現在の東宝スタジオ)が製作し、東和商事映画部(現在の東宝東和)が配給し、1933年(昭和8年)12月31日に、有楽町の邦楽座(現在の丸の内ピカデリー)で公開された短篇アニメーション作品である。トーキー製作のために同年12月5日に発足したP.C.L.映画製作所は、そもそも1929年(昭和4年)に増谷麟、植村泰二らが設立した写真化学研究所(現在の東宝、およびソニーPCL)から分社化したもので、本作はその第1作となった。同社設立以前、松竹蒲田撮影所の現像部長であった増谷麟は、同じく松竹蒲田でカットタイトル用の字幕を書いていた大石郁雄が独立し、「大石光彩映画」という工房を構えて短篇アニメーション映画を製作していたところ、これを吸収したのである。 P.C.L.映画製作所が写真化学研究所とともに1937年(昭和12年)9月10日、合併して東宝映画を形成すると、同製作所は東宝映画東京撮影所になり、大石のセクションは特殊技術課に、さらには航空教育資料製作所に発展したが、第二次世界大戦後の1948年(昭和23年)12月1日、東宝教育映画となった。現在みられる上映用プリントの冒頭に「東宝教育映画株式会社」のタイトルが付されているのは、戦後同社が教育映画配給社(現在の教配)を通じて本作を普及・上映活動を行ったときのものである。 モダンでハイセンスなアニメーション、フライシャー・スタジオからの影響の濃厚な作品と評価されている。 2012年(平成24年)7月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは本作を所蔵しており、2004年(平成16年)に発売されたDVDビデオグラム『日本アートアニメーション映画選集 4 戦前傑作選』に収録されており、現存が確認されている。1933年製作の映画であることに加え、大石が1944年(昭和19年)に死去しており、本作はパブリック・ドメインである。
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略歴・概要
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「日本マンガフィルム研究所」の記事における「略歴・概要」の解説
1933年(昭和8年)、京都の政岡憲三による政岡映画美術研究所を退社した瀬尾光世が設立した。同年11月11日、第1回作品『お猿三吉 防空戦の巻』が東和商事映画部(現在の東宝東和)の配給で公開された。 1935年(昭和10年)には瀬尾は瀬尾発声漫画研究所を設立、アニメーション映画『のらくろ二等兵』および『のらくろ一等兵』を発表している。瀬尾の脱退後、製作が途絶える。 1941年(昭和16年)、大正末年からアニメーションの研究・製作を始めていた岩松洋行の高松豊次郎がプロデュースし、製作を再開する。瀬尾が始めた「お猿三吉」シリーズは、横浜シネマ商会から日本マンガフィルム研究所に移籍したアニメーター・片岡芳太郎が継承した。1943年(昭和18年)7月1日に公開された『お猿三吉 鬪ふ潜水艦』は、監督に片岡のほか、マキノ東京派ことタカマツ・アズマプロダクションの山根幹人が共同監督として名を連ねている。 同年の『お猿三吉 奮戦記』を最後に、1944年(昭和19年)以降の同社の消息は不詳である。『古寺のおばけ騒動』は近年発見され、2008年(平成20年)4月24日、5月11日の両日、東京国立近代美術館フィルムセンターで上映された。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 02:25 UTC 版)
映画批評家のジョルジュ・サドゥール(Georges Sadoul)によって提唱された一部のフランス映画の定義。表現手法としては、大型セットにおけるスタジオ撮影を基本とし、遠近などに関して誇張を行なう場合が多く、そのため画面上におけるパースペクティブに歪みを生じさせることが多い。主にジャック・プレヴェールによって書かれた作品に多いのも特徴的であると言える。表現技法の特徴から、1950年代における、リュック・ベッソン、レオス・カラックスなど、ヌーヴェルヴァーグを支持するカイエ派を断絶した、旧来の「良質フランス映画」への回帰という点から、「新詩的レアリスム」と呼ぶ傾向もあり、今後の研究が待たれる。 なお、特定のジャンルといえるほど明確ではないが、「たいていはパリを舞台にし、厭世的な都市のドラマを描く。設定は労働者階級であり、しばしば犯罪性に伴われた不幸に終わるロマンティックな物語が伴う」という見解もある。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 05:01 UTC 版)
1976年6月5日にオープン。2006年11月に改装し、リニューアルオープン。2011年9月には43店舗を改装・新規入店し、より一新した。天神コアができる前は西鉄街や銀座通り商店街といった商店街であった。また、開業前の1976年6月22日には、テナント組織として「天神コア名店会」を結成している。商店街時代からこの地に店を構え、天神コアに出店している店舗もあった。 「コアとあなたは『暮らすメイト』」をコンセプトに、「新宿、原宿のセンスを福岡に直輸入する」をキャッチフレーズに据えた。天神の中心地においてギャル系ファッションビルとして最先端のトレンドを発信し続け、福岡・天神の「ギャルの聖地」「若者文化の情報発信基地」としての地位を確立していた。来館者数は、平日で約4万人、土日祝日で約7万人。全館売上高は、約129億6千万円(2006年度実績)。 地下2階から6階までと8階はファッションのフロア(地階は飲食店街、福家書店、2階にはヘアサロン)、7階は飲食店街である。屋上は緑化されており、無料で休憩できるスペースとなっている。2007年3月まで6階にて営業していた紀伊国屋書店は、ゆめタウン博多へ移転(その後博多バスターミナルに出店)。2007年9月25日、その跡に東急モールズデベロップメントが運営する109が「109MEN'S 天神コア」として、12店舗の男性向けショップを出店した。天神ビブレも同一のビルに入居しており、渡辺通りに面したビルの西側半分が天神コアである。連絡通路があり、回遊できる。 ルビンの壺をベースとしたロゴマークは、福田繁雄によってデザインされた。「出会い」や「コミュニケーション」の意味が込められたもので、天神のローマ字表記の頭文字「T」を中心に人の顔が向かい合っているというものである。 しかし福岡市が進める天神ビッグバン計画で2020年3月31日をもって閉館。跡地は隣接する福岡ビル・天神ビブレとともに、2024年に商業施設・オフィス・ホテルの大型複合ビル((仮称)福ビル街区建替プロジェクト)に再開発される予定である。
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小説『女夫波』の初出は、田口掬汀の勤務先が発行する『萬朝報』紙上で、1904年(明治37年)に掲載された。同年、東京の出版社金色社から『女夫波』全2冊が刊行されている。同作、および翌1905年(明治38年)に同じく『萬朝報』に連載した『伯爵夫人』はたいへん人気となり、いずれも映画化されている。 本作は、井上正夫ら新派が好んで上演したほか、発表の5年後に撮影所を建設して劇映画製作を開始した吉沢商会を初めとして、3回にわたり映画化されている。 映画『女夫波』は、いずれのヴァージョンも、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されていない。 小説『女夫波』は、2009年(平成21年)12月現在、すべて絶版である。青空文庫にも収録されていない。国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」には、1904年版、1908年版がデジタル画像収録されており、ウェブサイト上で閲覧・ダウンロードが可能である。 ⇒ #ビブリオグラフィ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/22 15:57 UTC 版)
本作は、1969年(昭和44年)、イタリアの映画プロデューサーシルヴィオ・クレメンテッリが代表を務める製作会社クレシ・チネマトグラフィカが企画製作を開始し、同年11月撮影を開始、1970年初頭に完成した。オッタヴィオ・イェンマの執筆した原案を、イェンマとパスクァーレ・フェスタ・カンパニーレが脚本を共同執筆した。イタリアでは1970年1月30日に公開された。DVDは発売されていない。 日本では、2011年(平成23年)2月現在に至るまで劇場公開、テレビ放映、DVD等のビデオグラム販売等は行われていない。劇伴音楽の作曲を行ったアルマンド・トロヴァヨーリのベストアルバム『スパーク・イン・シネマ』(1994年)等が日本で独自に編まれ、『どんな愛をこめて』のタイトルで日本でも知られるところとなる。
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「女がしっぽをなくしたころ」の記事における「略歴・概要」の解説
本作は、1971年(昭和46年)、イタリアの映画プロデューサーシルヴィオ・クレメンテッリが経営する製作会社クレシ・チネマトグラフィカと、西ドイツ(現在のドイツ)の映画会社テラ・フィルムが共同で製作を開始、ローマの撮影所であるチネチッタ内のステージにセットを設営、同年11月1日にクランクイン、同年12月23日にクランクアップ、セット撮影のみでポストプロダクションに入り、翌年初頭に完成させた作品である。前作『女にしっぽがあったころ』の原案にクレジットされた小説家のウンベルト・エーコに代わり、前作で集団脚本執筆に参加したリナ・ウェルトミューラーが原案を執筆、オッタヴィオ・イェンマ、マルチェッロ・コシャ、パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレの3人が脚本を執筆した。 イタリアでは同年2月24日に公開され、西ドイツでは同年12月25日、アメリカ合衆国ではフィルム・ヴェンチャーズ・インターナショナルが配給し、同年に公開されている。イタリアでは、Koch Media が2006年(平成18年)2月1日にDVDを発売した。 日本では、2011年(平成23年)2月現在に至るまで劇場公開、テレビ放映、DVD等のビデオグラム販売等は行われていない。
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略歴・概要
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1948年(昭和23年)、富士フイルム初のカラーリバーサルフィルム「フジカラーリバーサルフィルム」(外型・感度ISO10)を発売、1969年(昭和44年)には内型反転方式のシートフィルムを発売、という前史を受けて、1972年(昭和47年)12月、120フィルムでのフジクロームプロフェッショナル120 タイプD(デイライト)とフジクロームプロフェッショナル120 タイプT(タングステン)を発売して、フジクロームラインがスタートする。 映画用フィルムにおいても、翌1973年(昭和48年)3月、内型反転方式のフジクロームRT200(タングステン、ISO200)を発売している。1975年(昭和50年)3月にはフジクロームR25(デイライト、ISO25)、1976年(昭和51年)4月にはそれぞれのサウンド用フィルム、同年12月にはそれぞれのアフレコ用フィルムを発売し、シングル8用フィルムのラインナップが6種類に増えた。 1978年(昭和53年)10月、フジクローム100プロフェッショナル タイプD(デイライト、ISO100)、翌1979年(昭和54年)3月、フジクローム64プロフェッショナル タイプT(タングステン、ISO64)を発売している。1980年(昭和55年)4月、フジクローム400プロフェッショナル タイプD(デイライト、ISO400)を発売した。 1983年(昭和58年)3月には、「ニューフジクローム」と称したラインナップを発表している。フジクローム50プロフェッショナルD(デイライト、感度ISO50)、フジクローム100プロフェッショナルD(デイライト、感度ISO100)、フジクローム64プロフェッショナルT(タングステン、感度ISO64)、フジクロームデュプリケーティングフィルム(複製専用)の4種である。 1990年(平成2年)3月、ベルビア、1994年(平成6年)2月、プロビアを発表した。 映画用フィルムは、1999年(平成11年)3月1日にラインナップを刷新、従来の6種類を全廃し、フジクロームR25N(デイライト、ISO25)とフジクロームRT200N(タングステン、ISO200)の2種類に絞った。 2000年(平成12年)7月、プロビア100Fプロフェッショナル(RDPIII)、プロビア400Fプロフェッショナル(RHPIII)を発売、同年10月にはトレビ400、翌2001年(平成13年)7月にはトレビ100Cを発売した。2003年(平成15年)7月には、「ベルビア」シリーズに100Fと100、新シリーズ「アスティア」に100F、さらにセンシアIII100を発売してラインナップを刷新した。2004年(平成16年)7月には、「フォルティア」を発売している。 2011年(平成23年)9月5日、「フジクロームセンシアIII100」の135フィルム、タングステン光源用フィルムフジクロームT64の135フィルムが同年12月に販売終了、「フジクロームアスティア100F」の120フィルム、220フィルム、シートフィルム(4×5in判、8×10in判、および4×5クイックロードタイプ)が2012年(平成24年)3月に販売終了することをアナウンスした
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略歴・概要
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遅くとも1920年代には設立されている。1926年(大正15年)には、東京市京橋区三十間堀2丁目1番地(現在の東京都中央区銀座2丁目8番地近辺)に所在した。1924年(大正13年)に合併・設立されたアメリカのメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)の輸入代理店を務め、同社の作品の日本への輸入配給業務を行なった。『映画年鑑 大正十五年版』(1926年)に広告を打ち、同年、MGMの『奇蹟の薔薇』、『キートンの栃面棒』(『セブン・チヤンス』)、『グリード』を公開することを謳う。同年12月22日には、朝鮮キネマ製作、羅雲奎監督・主演作 『アリラン』を公開すべく、配給元として検閲を受けた記録がある。 1928年(昭和3年)6月15日、『踊る英雄』を公開したのを最後にMGM作品から離れ、MGMは同年9月、日本支社を設けている。同年、ポヴァティ・ロウの1社ティファニー・ピクチャーズ(ティファニー・スタール・プロダクションズ)製作の『ワイルド・ギーズ』といった作品の日本への紹介を手がける。その後はマルセル・レルビエ監督の『バラライカ』等、フランス映画の輸入配給を行ない、1929年(昭和4年)には、カール・テオドア・ドライヤー監督の『裁かるゝジャンヌ』を公開している。 1930年(昭和5年)、ドノゲー商会と配給提携し、ワーナー・ブラザースのサイレント作品の輸入を手がける。 1932年(昭和7年)には、ジガ・ヴェルトフ監督の『カメラを持った男』を『これがロシヤだ』のタイトルで公開する等、3作のソビエト映画を日本に紹介している。1933年(昭和8年)8月24日、ドキュメンタリー映画『海底』を公開した以降の配給作品記録は見当たらない。
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トーマス・バークの短編小説集『ライムハウス夜景集』の一遍『中国人と子供』を映画化したものである。 ロンドン・ライムハウスを舞台に、15歳の少女ルーシー(リリアン・ギッシュ)と中国人青年チェン・ハン(リチャード・バーセルメス)の儚い恋を描く。 全編を通じ、美しい映像・詩情にあふれた無声映画の秀作。本作により、映画は第八芸術となりえた、とまで評価された。ユナイテッド・アーティスツ(UA)の第一回配給映画でもある。 本作は2010年現在、著作権の保護期間の満了したパブリックドメインであり、インターネット・アーカイヴで全篇ダウンロードすることが可能である。
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早稲田大学を卒業し、第二次世界大戦前、東宝の前身の東宝映画に入社し、戦後、新東宝の設立に参加した映画プロデューサーの佐藤一郎が、佐藤プロダクション名義で製作した作品である。マキノ・プロダクションのヴェテラン監督並木鏡太郎、山中貞雄が参加したことで知られる脚本家集団・鳴滝組出身の脚本家三村伸太郎といった大御所を新東宝に招き、同年5月6日にマキノ正博(のちのマキノ雅弘)と離婚したばかりの轟夕起子を、同年3月に並木が監督した『右門伊豆の旅日記』以来連続的に起用した。 1947年(昭和22年)に東宝が製作・配給した『女優』に端役で出演した後、ムーランルージュ新宿座の舞台で軽演劇に出演していた、佐藤と同世代で同じ早稲田大学出身の俳優・森繁久彌を主役に抜擢した。
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本作は、公開情報については不明である。 東京国立近代美術館フィルムセンターは本作のプリントを所蔵していない。マツダ映画社も所蔵していない。現状、観賞することの不可能な作品である。
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東亜キネマに吸収されたマキノ・プロダクション等持院撮影所が、再独立直前の一時期「東亜マキノ等持院撮影所」と名乗っていた時期の作品である。 本作は、東亜キネマが配給し、同年5月15日に浅草公園六区・大東京をフラッグシップに全国公開された。同時上映は、直木三十三(のちの直木三十五)が主宰する聯合映画芸術家協会が等持院撮影所で製作した、新国劇の『月形半平太』の最初の映画化で、衣笠貞之助監督、沢田正二郎主演による『月形半平太』であった。 当時を知る映画批評家・滝沢一によれば、「悪魔派」と呼ばれ一世を風靡した一連の作品の最初に位置するといい、主演した岡島艶子によれば、本作のあとに「悪魔派」とされる悪麗之助監督、本作と同じ寿々喜多呂九平脚本の『蜘蛛』がつづいたのだという。 本作の上映用プリントは、現在、東京国立近代美術館フィルムセンターにも、マツダ映画社にも所蔵されていない。現存しないとされる映画を中心に、玩具映画を発掘・復元する大阪藝術大学のリストにも存在しない。現状、観賞することの不可能な作品である。 公開時のポスターの煽り文句は以下の通り。 「恋を弄ぶ魔性の美女と、其美に幻惑されて醜くも鬩ぎ争ふ人々の群れ変態性の女を主材として・・・ 鬼才寿々喜多呂九平氏が得意の鋭き筆に描き出せる凄妖怪奇の物語り・・・」
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エフケのフィルムは、金属銀の含有量が高く、ラティチュード(露光寛容度)が幅広いことで知られる。フォトケミカは、1970年(昭和45年)にドイツのアドックス(アドックス・デュポン)から、フィルム製法についての権利を取得しているが、この製法は、アドックスが1940年代に開発したものである。エフケのフィルムは、他社の白黒フィルムに比して、初心者に扱いやすいとされる。 エフケにおいて特筆すべきは、コダックが1995年(平成7年)7月に製造を終了した127フィルム、いわゆる「ベスト判フィルム」を引き続き製造販売していた点である。ほかには、ドイツのマコが、ローライブランドの127フィルムを、カナダのブルーファイア・ラボラトリーズが「ブルーファイア・ムラノ160」というカラーの127フィルムをそれぞれ製造販売していた。エフケの製品はほとんど日本では出回らなかったが、127フィルムに関しては、クラシックカメラを扱う店で長らく扱われていた。 エフケの日本での正規輸入代理店は、かわうそ商店(北海道斜里郡斜里町)である。同商店により、127フィルム以外の多くのフィルムが日本国内で入手可能になった。 2012年、製造設備が修理不能となり、エフケのフィルムと印画紙はすべて出荷を終了している。
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略歴・概要
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「善良なる王ダゴベール」の記事における「略歴・概要」の解説
本作は1984年、フランスの映画会社ゴーモン、テレビ局フランス3等が出資して製作、フランス国内ではゴーモンが配給して同年8月22日、イタリア国内では同年10月25日に公開された。 日本では、本作に関しては東京日仏学院等での上映を除いては劇場公開されておらず、2010年9月現在、DVD等のビデオグラムも発売されていない。
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略歴・概要
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1979年、当時のカンボジア内戦により急増した難民を助けるために、カンボジアから京都大学に留学していたヘン・パラー氏の呼びかけにより、京都の学生と主婦が中心となって、京都の街頭で募金を集め、それを元にカンボジア難民を支援するための“カンボジア難民救援会(KRRP)”として発足。 以降、1980年代はタイとカンボジアの国境地帯を中心に緊急支援、職業訓練、小規模融資銀行、コミュニティ開発を行う。 1988年、カンボジア以外での活動の広がりに合わせて、日本国際民間協力機関(NICCO)に改称。 1991年、湾岸戦争後のイラクに医薬品等の供与を実施(1993年終了)。 1992年、日本のNGOとして初めて、ベトナムの復興支援を開始。1998年からはパーマカルチャーに基づく村落開発を実施(2005年終了)。 1993年、外務省より社団法人格の許可を受け、社団法人日本国際民間協力会(NICCO)と改称。 1994年、ラオスにて牛銀行等の小規模融資等の支援を実施(2002年終了)。 1995年、阪神淡路大震災の被災者支援のためのボランティア派遣を実施(同年終了)。 1996年、特定公益増進法人格を取得し、寄付金は税制上の優遇措置の対象となる。国連経済社会理事会の特別協議資格(Special Consultative Status)を取得。国際社会でリーダーシップを取れる人材の育成を目的として、インターンシップ制度を開始。以後毎年約20名の若者を受入れ、京都本部と途上国の事業地にて実務研修を実施。(インターンシップ修了生は約200名以上) 1998年、ネパールにて紙漉きによる職業訓練等を実施(2001年終了)。 1999年、イエメンにて洋裁による女性の職業訓練を実施(2002年終了)。 2000年、ジャパン・プラットフォーム(緊急人道支援のためのNGO、政府、財界による協力体)の設立メンバーとして参加。ヨルダンにてパーマカルチャーに基づいたコミュニティ開発を実施(2007年終了)。 2002年、アフガニスタンでの復興支援とイラン国内のアフガン難民の支援を実施。 2003年、イラン・バムの地震被災者への緊急災害支援を実施(2004年終了)。 2004年、インド洋大津波の被災者への緊急災害支援をスリランカにて実施(2005年終了)。 2005年、パキスタン地震の被災者への緊急災害支援を実施(2006年終了)。ヨルダンでのオリーブ農家支援事業から生まれた有機JAS認証を得たオリーブオイル「Royal Nabali Organic」が、日本でも販売開始される。滋賀県大津市にて環境保全、地域活性化、人材育成を目的とした「琵琶湖モデルファーム」の運営を開始(2007年まで)。 2006年、マラウイの飢餓による種子配布を実施。その後農業技術移転、水・衛生、保健医療、収入創出、植林を総合的に行い、「飢餓の起きない村づくり」支援を実施。インドネシア・ジャワ島の地震被災者への緊急災害支援を実施(2007年終了)。レバノンにてイスラエルとヒズボラの戦闘による被災者への緊急人道支援を実施(同年終了)。 2007年、インドネシア・スマトラ島の地震被災者への緊急災害支援を実施(同年終了)。パレスチナ・西岸地区でのオリーブ農家や女性を対象としたコミュニティ開発を実施。ヨルダンのイラク難民に対する心理社会的ケアとカウンセリング支援を実施。 2008年、ミャンマーにてサイクロン被災者への緊急災害支援を実施(同年終了)。中国・四川大地震の被災者への緊急災害支援を実施(同年終了)。「琵琶湖モデルファーム」を新たに滋賀県竜王町に移転し、冬季湛水型の田んぼでの稲作等による、環境保全、地域活性化、人材育成のモデル作りを実施。日本と諸外国との友好親善推進への寄与が認められ、平成20年度外務大臣表彰を受賞。 2009年、パレスチナ・ガザ地区にてイスラエルとハマスの戦闘後の緊急人道支援を実施。その後女性の洋裁訓練と孤児への衣料品の提供を継続。インドネシア・スマトラ島の地震被災者への緊急災害支援を実施。 2010年、パレスチナのオリーブ農家支援から生まれたエキストラ・バージン・オリーブオイル「Tubassee Nabali」が、新宿伊勢丹にて販売される。ハイチの地震被災者への緊急災害支援を実施(2011年終了)。パキスタンの水害被災者への緊急災害支援を実施(2012年終了)。内閣府より公益社団法人格の認定を受け、公益社団法人日本国際民間協力会(NICCO)となる。 2011年、途上国への息の長い自立支援活動が認められ、第18回読売国際協力賞を受賞。タイの水害被災者への緊急災害支援を実施(2012年終了)。東日本大震災被災者支援を実施、現在に至る。 2012年、東日本大震災の被災地域支援活動(ペストコントロール)に対する環境大臣感謝状を受領
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/23 15:17 UTC 版)
本作は、1978年(昭和53年)、ピオ・アンドレッティとアドリアーノ・デ・ミケーリによるイタリアの製作会社ディーン・フィルムが、フランスの映画会社AMLFおよびカナダの製作会社レ・フィルム・プロスペックと提携して製作を開始、同年10月23日 - 同年12月16日にスイスのジュネーヴ、カナダのケベック州モントリオール、イタリアのローマ市内等でのロケーション撮影、同市内のINCIR=デ・パオリス撮影所でセット撮影を行い、完成した。 1979年4月11日にイタリア国内で公開され、同年5月10日 - 24日に開催された第32回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、パルムドールを競ったが、ステファーノ・マディアが助演男優賞を獲得する結果に終わった。同年のダヴィド・ディ・ドナテッロ賞でヴィットリオ・ガスマンが主演男優賞を獲得した。 日本では、本作に関してはイタリア文化会館等での上映を除いては劇場公開されておらず、2010年9月現在、DVD等のビデオグラムも発売されていない。
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略歴・概要
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本作は、1985年、ピオ・アンドレッティ(イタリア語版)とアドリアーノ・デ・ミケーリによるイタリアの製作会社ディーン・フィルムと、クロード・ベリによるフランスの製作会社レン・プロデュクオンが共同で製作、完成した。同年5月8日 - 20日に開催された第38回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、パルムドールを競ったが受賞はならなかった。同映画祭終了直後の5月22日からフランスで、半年後の同年11月20日からイタリアでそれぞれ公開された。 日本では、本作に関してはイタリア文化会館等での上映を除いては劇場公開されておらず、2010年9月現在、DVD等のビデオグラムも発売されていない。 撮影はイタリア語で行われた。主演のコリューシュはフランス人だがイタリアの家系の出自で、軽いフランス語訛りはあったものの流暢なイタリア語をしゃべった。共演のベルナール・ブリエもイタリア語でしゃべって演技したが、フランス語訛りは強かった。ただし彼は度々撮影でイタリアを訪れていた。最終的に、彼らフランス人をはじめとするイタリア人以外の俳優にはイタリア語の吹き替えが当てられている。
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略歴・概要
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フランケ&ハイデッケ(現ローライ)のローライフレックスとは基本的にコンセプトが異なり、ローライフレックスがスタジオでも使えるプロ機であったのに対してイコフレックスは屋外でのスナップ撮影を行なうための手軽なカメラであった。それは搭載されたシャッターやレンズからも判断できる。その後徐々に高級化が進みローライと同様な路線のカメラとなっていく。ただイコフレックスIIIとイコフレックスファボリートを除き、販売価格からローライフレックスではなくローライコードをターゲットにした中級機であると言える。一番の特徴は横送りのイコフレックスIから最終機のイコフレックスファボリートまで一貫して採用した明るいファインダーで、戦前はコンデンサーレンズ、戦後型はフレネルレンズを使って実現している。 アタッチメントはイコフレックスIIIを除く戦前の機種が撮影レンズ、ファインダーレンズともに当初はφ28.5mmカブセで後にφ27mmねじ込みが併設された。イコフレックスIII及び戦後型全ての撮影レンズがφ35.5mmねじ込みまたはφ37mmカブセでファインダ−レンズがφ27mmねじ込みまたはφ28.5mmカブセを使用する。 カメラには「Ikoflex」と表記されるのみであり、また大幅に改変した何代にも渡り同じ番号を使用したため個体認識は困難である。
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略歴・概要
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本作は、1977年、ピオ・アンドレッティとアドリアーノ・デ・ミケーリによるイタリアの製作会社ディーン・フィルムが製作、エミリア=ロマーニャ州モデナ県のカプリ等でロケーション撮影を行って完成、同年12月15日にイタリア国内で公開された。1963年(昭和38年)にマリオ・チェッキ・ゴーリのフェア・フィルムが製作し、ディーノ・リージが監督、ウーゴ・トニャッツィとヴィットリオ・ガスマンが主演したオムニバス映画『怪物たち』の新ヴァージョンとして製作されたものである。1980年(昭和55年)4月14日に発表・授賞式が行われた第52回アカデミー賞アカデミー外国語映画賞にノミネートされている。 日本では、本作に関してはイタリア文化会館等での上映を除いては劇場公開されておらず、2010年9月現在、DVD等のビデオグラムも発売されていない。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/23 15:23 UTC 版)
本作は、1969年、フランコ・クリスタルディが経営するイタリアの映画会社ヴィデス・チネマトグラフィカおよびイタルノレッジオ・チネマトグラフィコが製作、直接にはピオ・アンドレッティとアドリアーノ・デ・ミケーリによる同国の製作会社ディーン・フィルムが請け負って製作を開始、ラツィオ州ローマ県ローマ市内やチュニジアのチュニス等でロケーション撮影を行い、完成した。 同年11月29日、同国の映画会社イスティトゥート・ルーチェの配給によってイタリア国内で公開された。イタリア国内では、ジェネラル・ヴィデオが87分版のDVDを発売している。 日本では、本作は劇場公開されておらず、2011年1月現在、DVD等のビデオグラムも発売されていない。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/23 16:11 UTC 版)
本作は1976年、ピオ・アンドレッティとアドリアーノ・デ・ミケーリによるイタリアの製作会社ディーン・フィルムが製作、ローマ市内等でロケーション撮影を行って完成、同年2月6日にイタリア国内で公開された。同年、ダヴィド・ディ・ドナテッロ賞特別賞を主演のアゴスティナ・ベッリが獲得した。 原題 Telefoni bianchi は複数の「白い電話」を意味し、1930年代ファシズム政権下のイタリアで製作された、中流・下層ブルジョワの生活を描く、ハリウッド映画を模倣したジャンルの映画群「テレフォニ・ビアンキ」に由来する。 日本では、本作に関してはイタリア文化会館等での上映を除いては劇場公開されておらず、2010年9月現在、DVD等のビデオグラムも発売されていない。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/23 16:30 UTC 版)
本作は、1969年、チェッキ・ゴーリ・グループ代表のマリオ・チェッキ・ゴーリが経営するフェア・フィルムが製作、同年完成した。オッタヴィオ・イェンマの執筆した原案を、イェンマ、パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ、サンドロ・コンティエンツァ、ルイジ・マレルバの4人が脚本を共同執筆した。プロデューサーのマリオ・チェッキ・ゴーリが法律家の役で出演している。 本作は、イタリアでは、同年9月12日、西ドイツ(現在のドイツ)では翌1970年(昭和45年)4月24日に公開された。2010年(平成22年)1月19日、「89分」のヴァージョンでDVDがチェッキ・ゴーリ・ヴィデオによりイタリアで発売された。 日本では、2011年(平成23年)2月現在に至るまで劇場公開、テレビ放映、DVD等のビデオグラム販売等は行われていない。
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略歴・概要
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本シングルは、前年1975年(昭和50年)の『港のヨーコ・ヨコハマ・ヨコスカ』のヒットでブレイクしたダウン・タウン・ブギウギ・バンドが、1973年(昭和48年)のデビュー曲『知らず知らずのうちに』の原点に戻ったスローバラード、ブルースである。オリコンチャート最高位16位、21.0万枚を売り上げる。本シングルのB面収録楽曲『ア! ソウ』は、『カックラキン大放送!!』の最後の提供クレジットのバックに使用され、その後1979年(昭和54年)5月26日公開、柳ジョージ&レイニーウッドが劇伴音楽を担当、根津甚八とともに宇崎竜童が主演した工藤栄一監督の映画『その後の仁義なき戦い』の挿入歌として使用された。 『裏切者の旅』は、同年キングレコードから発売された平田満+シャネル・ファイブのアルバム『愛の狩人』で、『裏切り者の旅』のタイトル、土持城夫の編曲により平田にカヴァーされている。その後、西城秀樹、新沼謙治もカヴァーしている。
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略歴・概要
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1946年(昭和21年)1月29日、三木鶏郎(当時本名の繁田裕司)が、NHKラジオ(現在のNHKラジオ第1放送)の新番組『歌の新聞』第1回放送に出演するにあたって、朝川賞郎、秋元喜雄(河井坊茶)とともに、「コメディアン・ハーモニスト」名義で出演したのがさいしょのきっかけで、2週後の同年2月10日、第3回『歌の新聞』から、三木が「三木鶏郎」と名乗り、三木・朝川・秋元(河井)は、「ミッキートリオ」名義でレギュラー出演することになる。 同トリオに、神田千鶴子、三木鮎郎、同年4月にジョージ川口、小野満、鈴木章治らジャズミュージシャンで結成する「三木鶏郎楽団」を加えて「三木鶏郎グループ」となった。同年6月6日、同グループに三木のり平が加入した。同年10月には、丹下キヨ子、千葉信男、小野田勇らが「三木鶏郎グループ」に加わっている。 1947年(昭和27年)10月5日、NHKラジオの番組『日曜娯楽版』が放送開始され、2週目の同月12日から、「三木鶏郎グループ」は出演を開始する。翌1948年(昭和23年)2月1日、「三木鶏郎グループ」が池袋文化劇場を経営を開始、旭輝子、有島一郎らが加入している。同年3月1日、楽器が焼失し、「三木鶏郎楽団」が解散した。 1950年(昭和25年)、新宿ムーランルージュ出身の小崎政房らが、吉本興業資本の東京の映画会社太泉映画(現在の東映の前身のひとつ)で製作した映画『なやまし五人男』と『オオ!! 細君三日天下』、大映京都撮影所が製作した『狸銀座を歩く』に「三木鶏郎グループ」が出演した。同年春、三木のり平が脱退する。 1951年(昭和26年)8月31日、三越名人会に出演後に、「三木鶏郎グループ」は解散した。
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略歴・概要
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映画が発明されたごく初期から、教育への使用は考えられてきた。 日本でも、1919年(大正8年)7月10日、牧野省三が日活から独立し、映画会社「ミカド商会」を設立したが、これは教育映画の製作を中心に行なう会社であった。1921年(大正10年)6月、同じく牧野が再度日活から独立して「牧野教育映画製作所」を設立した。 1931年(昭和6年)には、女優の佐々木清野が「キヨノ教育映画社」を設立。 1939年(昭和14年)に設立された「南旺商事会社」は、大日本児童映画協会を設立して教育映画を製作したが、収益が上がらず、南旺映画という一般映画を製作する会社となった。 1963年(昭和38年)には、岩波映画製作所が土本典昭監督『ある機関助士』を製作した。 1977年(昭和52年)には、チャールズ&レイ・イームズ夫妻が監督した教育映画『Powers of Ten』が製作された。 1970年代以降、道徳教育や太平洋戦争の体験を作中に織り込ませた実写の親子映画が制作されるようになり、1980年代以降は上映会形式によるアニメーション映画(親子映画#アニメーション作品)の制作が行われるようになった。 2003年(平成15年)には、『ママ帰ってこないの』が学映社によって製作された。
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「日本映画演劇労働組合」の記事における「略歴・概要」の解説
第二次世界大戦が集結した1945年(昭和20年)12月に東宝従業員組合(東宝従組)が結成され、翌1946年(昭和21年)2月、東京・砧の東宝撮影所(現在の東宝スタジオ)を舞台に東宝争議が起きる。同年4月3日、産業別組織である全日本映画従業員組合同盟が結成され、他の映画会社の労働組合らが同争議を支援、同年4月28日に結成されたのが、日本映画演劇労働組合(日映演)である。 同組合は、全日本映画従業員組合同盟と東宝従組ほか映画の労働組合、劇団の 95分会、12,662名を結集した産別単組であった。日活労組は不参加、地方小劇場も参加していない。委員長には映画プロデューサーの伊藤武郎が就任した。 同組合東宝支部から脱退した従業員が第二組合を結成して分裂、1947年(昭和22年)5月1日、1,500名が全国映画演劇労働組合(全映演)を結成、全員が東宝第二撮影所に設立された新東宝(現在の国際放映)に入社する。 1948年(昭和23年)4月8日、東宝が撮影所従業員270名を解雇、同15日のボイコットをきっかけに第3次争議が起こり、日映演はこれを指導する。同年10月18日、解雇撤回により争議は終結するが、1950年(昭和25年)、200人が改めて解雇される。 同組合が日本映画人同盟と共同で製作をした映画に、小沢栄太郎出演、山本薩夫監督の『暴力の街』(1950年2月26日公開、大映配給)がある。 1952年(昭和27年)2月28日、第9回組合大会で解散を決定、翌日の同年3月1日、将来の大統一「映演総連合」の結成を目指して、日本映画演劇労働組合連合(略称映演労連)を結成、大映の村山三男が同労連の議長に就任した。同月25日、これを引き継ぎ、映画演劇労働組合総連合(映演総連、現在の映画演劇労働組合連合会)が結成となった。新東宝の労組(現在の国際放映労組)はこれに加盟している。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/09/29 14:05 UTC 版)
本作は、1959年、イタリアの映画プロデューサーグイド・ジャンバルトロメイが、フランスの映画会社フランス・シネマ・プロデュクシオンとの提携によりロヤル・フィルムで製作を開始、パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレおよびマッシモ・フランチオーザの2人が執筆した原案を、カンパニーレ、フランチオーザ、ウーゴ・グェッラ、ジョルジョ・プロスペリ、フランコ・ロッシの5人で脚色し、助監督出身のジュゼッペ・オルランディーニが初めて監督し、完成した。イタリアでは、同年、チネリッツが配給して公開された。 日本では、同年10月6日、イタリフィルムが配給して公開された。同年、若城希伊子の日本語訳による映画と同名の物語本を、秋元書房が発行した。2011年(平成23年)2月現在に至るまで、DVD等のビデオグラム販売等は行われていない。
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1881年、アメリカ合衆国ウィスコンシン州カンブリア(英語版)の農民ピーター・ヒューストンが、世界初のロールフィルム写真機を発明、弟デイヴィッド・ヘンダーソン・ヒューストン(1841年6月14日 - 1906年5月6日)が特許登録を行なった。硬質ではない柔軟なロールフィルムのための最初のホルダーを発明したのは、同地でのことであった。ヒューストンはすでに1880年にダコタ準州ハンター(英語版)(現在のノースダコタ州ハンター)に転居しており、翌年10月11日、カンブリア在住のデイヴィッドに対し、ロールフィルム・ホルダーの特許(米国特許第248,179号、特許名 PHOTOGRAPHIC APPARATUS)が登録されたのであった。デイヴィッドは、1886年にこれを改良更新しており、その特許権をすべて、すでに1888年にボックスカメラ(英語版)にこの発明を使用していたコダックの創立者、ジョージ・イーストマンに対し、翌1889年に5,000ドルで売却している。デイヴィッドは写真機の開発を続け、最初の発明から1902年までの間に、写真機と部品についての21の特許を得ている。デイヴィッドの特許の残余は、1912年にイーストマンに譲渡された。 ロールフィルムは安価なスナップ写真用の写真機のために選択される規格として1950年代末まで中心的に使用され、もっとも一般的であったのは小型カメラ用の127フィルムと828フィルム、中判カメラ用の120フィルムと116フィルムであった。ロールフィルムは、職業写真家のためのスウェーデン製の高級写真機ハッセルブラッド等にも使用された。スナップショット用写真機に使用されるフィルムは、その後、パトローネ入りのフィルムである135フィルムや126フィルムにとって代わられたが、120フィルム、220フィルムが中判カメラ用として残った。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/10/18 12:04 UTC 版)
「菜売」を「菜候」あるいは「菜候売」と呼ぶのは、「菜そう」が「菜そうろう」(「菜ございます」の意)の略であり、「菜そう」という呼び声で売り歩いたことに由来する。このことは1645年(正保2年)に刊行された俳諧論書『毛吹草』にも指摘がある。 室町時代、15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、「鳥売」とともに「菜うり」(菜売)あるいは「なさう賣」(菜候売)として紹介され、頭上に巨大な容器に入った菜を載せて裸足で歩く女性の姿が描かれている。同歌合にピックアップされた32の職能のうち、女性は「菜売」のほかは「桂の女」「鬘捻」のみで、後者はいずれも座っており、「鬘捻」は足が見えず「桂の女」は足袋のようなものを履いている。また裸足で路上を歩いているように描かれているのは、作業上必要とみられる「石切」「大鋸挽」「結桶師」を除けば、「菜売」のほかは、漂泊系の宗教者・芸能者である「猿牽」「胸叩」「高野法師」「巡礼」「薦僧」、運輸業者である「渡守」「輿舁」、物売である「糖粽売」「火鉢売」「材木売」、そして判者の「勧進聖」である。同歌合に載せられた歌は、 春霞 にくくたちぬる 花の陰に 売るや菜さうも 心あらなむ 定めをく 宿もなそうの あさ夕に かよふ内野の 道のくるしさ というもので、前者は春霞が立ち桜が咲く風景に「菜売」の「菜そう」という呼び声が響き渡っており、情趣を理解して欲しいものだという風流人視線の思いを描き、後者は京都の西の外れである「内野」(うちの、現在の京都市上京区南西部一帯)から、朝も夕も通ってくる住所不定の漂泊民のように伺える「菜売」の姿を描いている。 「内野」とは、もともと平安時代(8世紀)には平安京大内裏が存在した地であるが、律令政治が終焉して以降に荒廃し、1227年(安貞元年)の大内裏全焼をもって再建されることなく、原野になっていた地域である。とくに明徳の乱(内野合戦、1391年)以降は、カブ栽培の畑のみが残され、ここで栽培・収穫されるカブを「内野蕪菁」(うちのかぶら)と呼んだ。16世紀末に同地に聚楽第が造営されたが、数年で廃棄されたので、以降ふたたびカブの栽培が行われ、「聚楽蕪菁」(じゅらくかぶら)とも呼ばれた。隣接する地域である壬生で栽培された菜として、壬生菜(ミブナ)がある。「菜売」が京都市街地で売り歩いたのは、これら京野菜の源流となる葉菜類であろうと推定されている。1527年(大永7年)以後に成立したとされる宗長の『宗長手記』によれば、「菜候、芋候、なすび候、白うり候」と、「菜売」(菜候)同様の呼び声で、芋やなすび(ナス)、白うり(シロウリ)の行商が行われたという。 江戸時代(17世紀 - 19世紀)、後期の時点でも「菜売」は存在しており、1813年(文化10年3月)に初演された歌舞伎狂言『お染久松色読販』にも登場している。同作は同時代を描く「世話物」であり、作者の四世鶴屋南北(1755年 - 1829年)の時代の江戸(現在の東京都)には、「菜売」は少なくとも存在したといえる。
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現代にも続く踏歌節会の踏歌が源流である、とする説がある。平安時代末期に勃興し、中世に大いに流行した。2人1組で行う芸で、扇を持って舞う者と鼓で拍子をとる者がいた。 11世紀半ば、1052年(永承7年)前後に成立したとされる『新猿楽記』で、藤原明衡が「千秋万歳之酒禱」(せんずまんざいのさかほがい)と記したのが、最古の記録という。鎌倉時代(12世紀 - 14世紀)には、藤原定家の日記『明月記』(1180年 - 1235年)、広橋兼仲の日記『勘仲記』(1268年 - 1300年)にも「千秋万歳」についての記述がみられるという。1275年(建治元年)に完成した辞書『名語記』による定義では、散所法師(さんじょほうし)が新春の初子の日(最初の子の日)に家々を訪ねて門付し、金品を得る芸であるとする。 室町時代(14世紀 - 16世紀)には、寺に属しあるいは没落して民間に流れた職業芸人である「声聞師」(しょうもじ)が、新春の予祝芸能としの門付を行っていた。15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』には、「絵解」(えとき)とともに「千秋万歳法師」として紹介されている。この時代には、「声聞師」が旧暦正月五日に禁裏(御所)、旧暦正月七日には公方を訪れ、「千秋万歳」を演じ「曲舞」を舞った。 戦国時代(16世紀)の宮廷では、陰陽道による正月の儀式は陰陽頭が行ったが、正月四日・五日には「千秋万歳の儀」があり、これを民間の芸能者である「声聞師」が行った。グレゴリオ暦1570年2月8日にあたる元亀元年正月四日には、正親町天皇(第106代天皇)が、「声聞師」の行った「千秋万歳」と「大黒舞」を観覧した記録が残っている。 16世紀末に発祥する三河萬歳の源流となった。
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「俺はフォトジェニック」の記事における「略歴・概要」の解説
本作は、1980年、ピオ・アンドレッティとアドリアーノ・デ・ミケーリによるイタリアの製作会社ディーン・フィルム、フランスの製作会社レ・フィルム・マルソー=コシノールが製作、ロンバルディア州ヴァレーゼ県のラヴェーノ、ローマ市内、およびアメリカ合衆国カリフォルニア州のハリウッド等でロケーション撮影を行って完成、フランスでは同年3月16日、イタリアでは同年3月21日に公開された。同年5月9日 - 22日に開催された第33回カンヌ国際映画祭で、特別招待作品として上映された。 日本では、本作に関してはイタリア文化会館等での上映を除いては劇場公開されておらず、2010年9月現在、DVD等のビデオグラムも発売されていない。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/24 16:34 UTC 版)
本作は、1957年にイタリアのカルロ・ポンティの会社カルロ・ポンティ・チネマトグラフィカとディノ・デ・ラウレンティスが製作、同年2月20日にイタリア国内で、同年10月4日にはフランス国内で公開された。同年、フランスのカンヌで開かれた第10回カンヌ国際映画祭コンペティションに出品された。同年度のナストロ・ダルジェント脚本賞をヴァレリオ・ズルリーニ、レオナルド・ベンヴェヌーティ、ピエロ・デ・ベルナルディ、アルベルト・ラットゥアーダの4人が受賞した。 日本では、イタリア・フランス公開の翌年の1958年にイタリフィルムが輸入し、同年11月25日に同社がニッポンシネマコーポレーション(NCC)と共同で配給して、公開された。日本でのビデオグラムは、2010年8月現在発売されていない。
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略歴・概要
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本作は、1953年、スター俳優を一切起用せずにファロ・フィルムが製作、イタリアのラツィオ州ローマ県のローマ市内各所でロケーション撮影を行って完成、同年11月26日にイタリア国内で公開された。 日本では、劇場公開されていないが、フェデリコ・フェリーニの監督デビュー作でアルベルト・ラットゥアーダとの共同監督作『寄席の脚光』に次ぐ作品として、フェリーニが監督した第四話の『結婚相談所』というタイトルとともに、『巷の恋』のタイトルで多く紹介されていた。時期は不明であるが、日本テレビ放送網が『都市の恋』のタイトルで放映したことがあり、1997年(平成9年)11月28日には東北新社がVHSのフォーマットで『街の恋』に改題してビデオグラム発売した。
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マキノ正博(のちの雅弘)の旧制中学時代の後輩で、マキノ・プロダクション出身の山中貞雄が1933年(昭和8年)に大河内傳次郎主演作品として監督した『盤嶽の一生』の第2話を、20年ぶりに同じ大河内主演で映画化した。 企画自体は1948年(昭和23年)4月に「株式会社新東宝」として設立したばかりの新東宝の初代社長に就任した佐生正三郎がCACに持ち込んだものである。「企画」として名を連ねた小川記正が白井喬二の原作を脚色したものを用い、「十人の旗の会」の発起人であり新東宝の所属俳優となった大河内傳次郎主演で、という企画であった。『盤嶽江戸へ行く』は当時小川が編集していた『シナリオ』誌の第4巻第2号(1948年9月1日刊)に「齋藤良輔」名義で発表された。同号には、小川記正名義でエッセイ『盤嶽日記抄』、大河内によるエッセイ『盤嶽先生は生きてゐる』も掲載された。マキノは佐生からのオファーと同時に小川脚本を手渡されたが、八尋不二に脚本を書き直させた。 小川記正は、松竹蒲田撮影所出身の脚本家で、「小川正」名義で監督作もある。戦後は松竹大船撮影所でプロデューサーに転向し、CAC解散後には小川プロダクションを構えるが、1952年(昭和27年)以降は、「小川正」名義で東映京都撮影所で剣戟映画の脚本を量産した人物である。脚本の八尋不二は、前作『盤嶽の一生』の脚本を書いた山中貞雄とともに、脚本集団「鳴滝組」を結成した「梶原金八」のひとりである。嵐寛寿郎は大映京都撮影所からの出張出演である。轟夕起子は当時マキノの妻であり、CACに所属していた。撮影技師の三木滋人、照明技師の西川鶴三、録音技師の加瀬久は、CACの創立メンバーである。美術デザイナーの角井平吉は大映京都撮影所の所属で、戦時統合前の日活京都撮影所時代には、マキノの監督作『続清水港』等を手がけている。 撮影に関しては、CACは兵庫県の宝塚スタジオ内に設置されたプロダクションであるが、同社の前作『幽霊暁に死す』同様、長年のスタジオ休眠状態のため使用せず、東京の新東宝撮影所も使用しなかった。セット撮影は、奈良郊外のあやめ池遊園地に戦前の市川右太衛門プロダクションが建設した「あやめ池撮影所」を使用、ロケーション撮影は奈良を中心に京都でも寺社や長屋で撮影をした。 当時、東宝争議のため東宝は製作不能であり、新東宝製作の映画を配給していたが、本作も新東宝作品として東宝が配給し、1949年(昭和24年)3月8日に公開された。
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「ブルーファイア・ラボラトリーズ」の記事における「略歴・概要」の解説
当初ブルーファイア・ラボラトリーズは、一般的ではないサイズのフィルムを紹介する通販ウェブサイトであった「フリューガルフォトグラファー」(英語: Frugal Photographer )の余技として始まった。 2003年(平成15年)、同社は、失効していたアドックスの商標権を取得、社名をアドックス・フォトワーク・インクに改める。ところが同年、ドイツでもアドックスの商標権を取得した企業が存在し、交渉の結果、同社はカナダでの商標権をドイツの企業にライセンス供与し、全世界的にアドックスブランドの製品はドイツの企業が製造販売する、ということになった。 2006年(平成18年)、同社はカラーネガ127フィルム、「ブルーファイアムラーノ160」の発売を開始する。 日本では、2012年4月現在、北海道・斜里町のかわうそ商店が、同社の正規輸入代理店である。
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略歴・概要
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「ドウェインズ・フォト」の記事における「略歴・概要」の解説
1956年、ドウェイン・ステインリが同社を創立したときには小さなフィルム現像所であったが、急速に成長し、合衆国における有数の写真現像所のひとつに数えられるようになった。8mmフィルムおよびその後継フォーマットであるスーパー8が1980年代になって急激に衰退し、ほとんどの現像所が閉鎖されていったが、同社は業務を続けた。126フィルムといったようなすでに製造販売を終了したフィルム製品を含めた、あらゆるタイプの映画用・写真用フィルムの現像に対応する数少ない現像所のひとつである。 同社は、2010年12月の最後まで、コダクロームの現像を続行すること、同時点ですでにコダクロームの供給は不足していると発表した。業務としての現像の終焉が、コダクローム時代の終焉を示している。同年7月14日、コダクロームの最終生産ロールを、スティーヴ・マッカリー(英語版)のために現像した、と発表。36枚のスライドが、ニューヨーク州ロチェスターのジョージ・イーストマン・ハウス(英語版)に永久展示されることとなった。同社のコダクローム最終現像ロールは、社主のドウェイン・ステインリが撮影したものであり、その最後に感光したフレームは、同社従業員の集合写真であった。 コダックによれば、映画用フィルムに関しては、35mmフィルム、16mmフィルム(スーパー16含む)、スーパー8のカラーリバーサル現像、スーパー8のカラーネガ現像を行う現像場であるとされている。
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略歴・概要
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1979年(昭和54年)9月1日、創刊する。創刊メンバーは、編集長の梶本学、岩田晃、川上英典、山口幸太郎ら。当初の発行元は「よい子の歌謡曲」編集部名義、本文記事も手書きであった。 1987年4月1日、岡田有希子の一周忌に際し「ベスト・オブ岡田有希子」特集号を発行する。 1989年、同編集部が中心となり、株式会社ファッシネイションを設立、発行元・発売元となる。 1991年(平成3年)11月20日発行の第48号をもって実質上休刊となる。最終号の表紙はフリッパーズ・ギターであった。 2019年(令和元年)9月22日渋谷ロフト9にて『よい子の歌謡曲40周年トークライブ』が行われ、第49号が発行される。
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1922年(大正11年)3月、ハンガリー王国の時代に、イーストマンコダックの写真フィルムと印画紙の工場として、現在のペシュト県ヴァーチに開業したのが、同社の始まりである。コダックは、1910年代にすでに土地を購入していた。 1945年(昭和20年)5月8日、ハンガリー王国は第二次世界大戦に敗北してソビエト連邦の占領下に置かれ、1946年(昭和21年)2月1日に共産主義国家であるハンガリー共和国(ハンガリー第二共和国)が成立して以降の1947年(昭和22年)6月30日、コダックは同工場を放棄した。1949年(昭和24年)、フォルテ合資会社となる。 1970年代には、1500人の従業員を抱えてる大工場であった。 1989年(平成元年)10月23日のハンガリー第三共和国成立を受け、1992年(平成4年)、同工場は株主会社化、「フォルテ写真化学株式会社」となった。 2004年(平成16年)に破産、翌2005年(平成17年)にはショモジ県チュルゴー(英語版)の投資家たちが同社を買収、「フォルテインヴェスト資本投資株式会社」(ハンガリー語: Forteinvest Tőkebefektető Kft)と改称、10億フォリントを売り上げた。2006年(平成18年)には1億5,000万円の損失を出し、翌2007年(平成19年)1月、すべての生産を中止した。従業員は数十人のみになっていた。 2010年(平成22年)、ポリウォームトーン計画がもちあがり、スクラップ寸前のフォルテ工場の印画紙生産のための機材を運び出し、ドイツで使用することになり、アドックスに引き継がれることになった。 日本では、長野県・白馬村のグレイス(当時京都府八幡市)が、同社の正規輸入代理店であった。
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1949年(昭和24年)に設立、熊谷久虎を代表に、俳優ブローカーの星野和平、映画監督の倉田文人、森永健次郎、俳優の佐分利信らが取締役に就任して結成された映画芸術研究所(登記上の正式社名は藝研株式会社)の第1回作品として、倉田が「クラタ・フミンド」名義で脚本を執筆し監督した作品である。本作にも出演している原節子、彼女を映画界入りさせるきっかけとなった実兄の会田吉男は、本作で撮影技師としてデビューしている。 『古川ロッパ昭和日記 戦後篇』によれば、倉田の執筆した本脚本は、小国英雄、古川ロッパが東横映画で撮影すべく検討した経緯があるという。 キネマ旬報映画データベースおよび文化庁「日本映画情報システム」の本項によれば、「製作会社:芸研、配給:藝研プロ」と記述されているが、映連データベース (日本映画製作者連盟)、日本映画データベース、および東宝による資料『直営洋画劇場上映作品 1934–1954』によれば、製作は「芸研」、配給は「東宝」とされている。東宝の同資料によれば、公開日は、他のどの資料とも異なり、同年2月22日に日劇で上映されていると記録されている。 2012年(平成24年)4月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターには、本作のプリント等は所蔵されていない。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/25 06:31 UTC 版)
2003年6月30日に東急文化会館が閉館。これに伴い運営会社の東急レクリエーションは渋谷クロスタワー内にあった貸ホール「クロスタワーホール」を映画館に改装。同年7月12日に渋谷東急が移転し、新たなスタートを切った。 旧劇場時代から引き続き、ディズニーやドリームワークス系のアニメ作品や、中規模系の作品、丸の内TOEI2系列の作品などを多く上映しており、松竹東急系のチェーンマスターだったが、一時的に運営委託していた渋谷TOEI2が東映本社に経営権を戻したため、2010年6月12日公開の『アウトレイジ』より丸の内ルーブル系のチェーンに変更。2011年7月2日公開の『マイティ・ソー』から3Dデジタルシネマシステムを導入した。 しかし2011年3月期に上映予定だった『ザ・ライト -エクソシストの真実-』が上映されず、『塔の上のラプンツェル』に差し替えられたり、2012年11月期封切の『ヱヴァンゲリヲン新劇場版:Q』が渋谷TOEIで上映された関係で『最強のふたり』に差し替えたり等、番組編成のフリー化が目立ってきていた。 2012年12月18日、10年間の定期建物賃貸借契約満了に伴い翌年5月中旬での閉館を発表。2013年5月23日、午後8時50分終映の『L.A. ギャング ストーリー』をもって、旧劇場時代と合わせて56年半の歴史に幕を下ろした。当館の閉館により、渋谷方面の東急系映画館はBunkamura内のミニシアター「ル・シネマ」を残すのみとなった。 渋谷方面の丸の内ルーブル系作品上映は、同年6月15日封切の『ハード・ラッシュ』からヒューマントラストシネマ渋谷及び渋谷TOEI2、TOHOシネマズ渋谷が引き継いでいた。
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「女にしっぽがあったころ」の記事における「略歴・概要」の解説
本作は、イタリアの映画プロデューサーシルヴィオ・クレメンテッリが経営する製作会社クレシ・チネマトグラフィカが製作、小説家のウンベルト・エーコの原案をリナ・ウェルトミューラー、オッタヴィオ・イェンマ、マルチェッロ・コシャ、パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレが脚色した作品である。 イタリアでは同年10月15日で公開され、アメリカではフィルム・ヴェンチャーズ・インターナショナルが配給し、同年に公開されている。シルヴィオ・クレメンテッリとパスクァーレ・フェスタ・カンパニーレは、翌1971年(昭和46年)、続篇『女がしっぽをなくしたころ』を製作を開始、1972年(昭和47年)2月24日に公開した。 西ドイツ(現在のドイツ)でも同年12月17日に公開され、その後同国では、3作の本作とは直接の続篇関係にはない同傾向の映画を Als die Frauen noch Schwänze hatten 2 等のタイトルで公開した。2005年(平成17年)4月7日には、同国でDVDが、2009年(平成21年)3月19日にはブルーレイディスクが発売された。 日本では、2011年(平成23年)2月現在に至るまで劇場公開、テレビ放映、DVD等のビデオグラム販売等は行われていない。エンニオ・モリコーネによる劇伴音楽は、2007年(平成19年)2月7日、キングレコードが日本版CDを発売した。
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略歴・概要
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本作は、1963年に製作、イタリア・フランス両国で公開されたが、正確な公開日は不明である。 日本では、負債を負ったイタリフィルムから営業譲渡を受けて発足した東京第一フィルムが輸入し、1964年(昭和39年)8月22日、同社の配給により公開された。
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本作は、1950年の2月、メキシコの首都メキシコ・シティ市内でロケーション撮影、同市内のテペヤック撮影所でセット撮影を行い、製作された。メキシコ国内では同年11月9日から公開され、翌1951年(昭和26年)4月3日 - 同月20日に行われた第4回カンヌ国際映画祭に出品、ブニュエルが監督賞を勝ち取った。 日本では、パールハウス映画が輸入し、1953年(昭和28年)8月11日、松竹洋画部との共同配給により公開された。日本国内向けのビデオグラムは、1990年(平成2年)、2008年(平成20年)にそれぞれ、VHS、DVDとして発売されている。 2003年(平成15年)、ユネスコの「世界の記憶」に登録された。
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「女王蜂 (1963年の映画)」の記事における「略歴・概要」の解説
本作は、1963年、イタリアの映画会社サンクロ・フィルムとフェア・フィルムが、フランスの映画会社マルソー=コシノール(コシノールおよびレ・フィルム・マルソー)と合作で製作、ラツィオ州ローマ県ローマ市内、とりわけコンチリアツィオーネ通り等でロケーション撮影を行い、完成した。ゴッフレード・パリーゼの最初のアイデアをラファエル・アスコナ、マルコ・フェレーリの2人がストーリーを練り、ディエゴ・ファッブリ、パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ、マッシモ・フランチオーザとともに集団執筆を行って脚本を作成したものである。 イタリア国内でまず同年4月7日に封切られ、同年5月9日に開催された第16回カンヌ国際映画祭に出品され、マリナ・ヴラディが女優賞を獲得した。同年9月16日、アメリカ合衆国では、エンバシー・ピクチャーズの配給によりニューヨークで公開された。同年10月、日本でも、 松竹映配の配給により公開されている。翌1964年(昭和39年)、アメリカ合衆国では、第22回ゴールデングローブ賞において、マリナ・ヴラディが主演女優賞 (ドラマ部門)にノミネートされたが、賞は逸した。同年、ナストロ・ダルジェント賞において、ウーゴ・トニャッツィがナストロ・ダルジェント主演男優賞を受賞した。 2006年(平成18年)9月19日、メドゥーザ・フィルム傘下のメドゥーザ・ヴィデオがイタリア国内でのDVDを発売した。日本では、2011年(平成23年)2月現在までに、VHSおよびDVDいずれの形式でもビデオグラムは発売された形跡はない。
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「女トラッカー 甘い爆走」の記事における「略歴・概要」の解説
本作は、1987年、イタリアの製作会社ディーン・フィルムが製作、同年11月26日、メドゥーザ・ディストリブツィオーネの配給によってイタリア国内で公開され、翌1988年(昭和63年)5月11日に開かれた第41回カンヌ国際映画祭マーケットで上映された。 日本では、アルバトロスが買付けて輸入し、1989年(平成元年)2月4日に同社の配給で公開された。日本でのビデオグラムは、同社の提供、日本コロムビア(現在のコロムビアミュージックエンタテインメント)の発売により、VHSカセットがセル・レンタルともにリリースされた。2010年9月現在、日本でのDVDはリリースされていない。
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略歴・概要
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本作は、当初、2巻ものの短篇西部劇として製作されたが、急遽全15巻のシリアル・フィルムに変更となったことで、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチャリング・カンパニー初のシリアルとなった。その背景には、本作が封切られた同年4月14日の直前である同年3月31日に、パテ・フレール(パテ)が、パール・ホワイトを主演としたシリアル『ポーリン』(別題『ポーリンの危難』 The Perils of Pauline)をリリースし、大好評を得たことが挙げられる。 本作は、主演を務めたグレイス・キュナードとフランシス・フォードの男女2人の俳優がオリジナルシナリオを執筆し、フォードが監督したもので、本作がシリアル・フィルムとしてヒットすることで、この2人のコンビがスターになり、キュナードは「ザ・シリアル・クイーン」の異名をもつきっかけとなる。本作には、フォードの実弟ジョン・フォードが、当時の芸名ジャック・フォードの名で出演しており、小道具兼スタント、製作助手として撮影クルーに参加している。出演俳優の多数は、フォード=キュナードの次作シリアル『名金』にも引き続き出演している。 日本では、まず1915年(大正4年)9月30日に浅草公園六区・電気館において、ユニヴァーサル・シリアルの第2作であるロバート・Z・レナード監督の『マスター・キイ』、2週間後の同年10月10日、同じく浅草公園六区の帝国館で、ユニヴァーサル・シリアルの第5作であるフランシス・フォード監督の『名金』が連続して封切られて、いずれも成功を収め、翌1916年(大正5年)7月に本作は公開されている。配給は、1915年7月に東京市京橋区南伝馬町3丁目14番地(現在の東京都中央区京橋3丁目)に設立された播磨ユニヴァーサル商会が行なった。 現在、本作の原版は散逸し現存しないとみなされているが、第2-3話、第6話、第8話、第10話、第12-14話という合計8話分の上映用プリントだけは現存し、アメリカ議会図書館が所蔵している。
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略歴・概要
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本作は、フィリップ・ガレルの原案を政治活動家のベルナール・ランベールが翻案し、再度ガレルが映画用に脚本を執筆、それを台本として撮影が行われた。1950年代末のアルジェリア戦争を舞台背景とした作品である。夫ジャンを演じるモーリス・ガレルはガレルの実父であり、ラズロ・サボが案じたラズロの妻ミシュリーヌを演じるブリジット・シーとガレルの間には、本作を製作した1983年の6月14日、現在俳優のルイ・ガレルが誕生している。 1983年、フランス国立視聴覚研究所(INA)が製作し、1984年5月11日から開催された第37回カンヌ国際映画祭の「フランス映画の展望」(フランス語: Perspectives du cinéma français)部門に出品され、同部門賞を獲得した。 日本では、1990年5月25日、シネマトリックスの配給で、東京・六本木に存在したシネ・ヴィヴァン六本木で公開された。同年11月21日にはVHS、同年12月27日にはLDのビデオグラムがそれぞれ発売されたが、2010年7月現在DVD発売はされていない。
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略歴・概要
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原作はルイス・R・フォスター(Lewis R. Foster)の『モンタナから来た紳士』。 主人公スミスは田舎のボーイスカウトのリーダーだったが、死亡した上院議員の代わりに、政界に担ぎ出される。スミスはそこで政治の腐敗と単身対決することになる。 第12回アカデミー賞で、作品賞を含む合計11部門にノミネートされ、原案賞を受賞。主演のジェームズ・ステュアートは、第5回ニューヨーク映画批評家協会賞において男優賞を受賞した。 上院議員が議会で議事妨害(フィリバスター、牛タン戦術)を行う場面がある。
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略歴・概要
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「類猿人ビンゴ・ボンゴ」の記事における「略歴・概要」の解説
本作は、1982年、チェッキ・ゴーリ・グループ代表のマリオ・チェッキ・ゴーリおよび子息のヴィットリオ・チェッキ・ゴーリが製作、ロンバルディア州ミラノ県ミラノ等でロケーション撮影を行って完成した。 コロムビア・ピクチャーズが世界配給を行い、同年12月23日にイタリア、翌1983年(昭和58年)2月11日には西ドイツ(現在のドイツ)で公開された。イタリアでは、2005年(平成17年)8月30日、チェッキ・ゴーリ・ヴィデオがDVDを発売した。 日本では、2011年(平成23年)2月現在に至るまで劇場公開されておらず、時期は不明であるが『類猿人ビンゴ・ボンゴ』のタイトルでVHSベースでビデオグラムが発売されているが、DVDは発売されていない。
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略歴・概要
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1922年(大正11年)にデビューしたフランク・キャプラ(当時のクレジットはフランク・R・キャプラ)の監督第7作として、コロンビア映画が提供、フランク・R・キャプラ・プロダクションズが製作、コロンビア映画が配給して、合衆国内では1928年3月14日に公開された。原作は、ロバート・ロードとアーネスト・パガノが執筆した戯曲 Come Back to Aaron (「アーロンに帰れ」の意)で、これを映画のためにエルマー・ハリスが翻案した。 日本では、同年11月22日、スター・フィルムの配給で公開された。 長らく「失われた映画」とされていたが、1990年代に発見され、1997年(平成9年)に映画芸術科学アカデミーおよびソニー・ピクチャーズ・エンタテインメント(コロムビア映画の後身)がデジタル復元した。復元されたのは56分のヴァージョンである。同年、アカデミー・フィルム・アーカイヴは、日本の東京国立近代美術館フィルムセンターに復元プリントを寄贈、同センターも所蔵することとなった。同センター所蔵版は「57分」と記述されている。
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略歴・概要
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本作は、1958年、イタリアの映画プロデューサーであるエマヌエーレ・カッスートが、同国の製作会社ネーピ・フィルム、フランスの製作会社シルヴェール・フィルムの共同製作により製作を開始、マウロ・ボロニーニ、パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ、ピエル・パオロ・パゾリーニ、エンツォ・クッレーリの4人でオリジナル脚本を共同執筆、トスカーナ州ルッカ県ルッカ市内でロケーション撮影を行って完成した。 同作は同年3月12日、ルックス・フィルムの配給によりイタリア国内で公開された。同年5月2日 - 同18日に開催された第11回カンヌ国際映画祭のコンペティション部門に出品され、ピエル・パオロ・パゾリーニ、パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ、マウロ・ボロニーニの3人が脚本賞を獲得した。フランスで公開されたのは、カンヌ後の同年10月1日である。翌1959年(昭和34年)のナストロ・ダルジェント賞で、撮影監督を務めたアルマンド・ナンヌッツィが、撮影賞(白黒映画部門)を受賞した。 日本では、2011年(平成23年)3月現在に至るまで劇場公開、テレビ放映、DVD等のビデオグラム販売等は行われていない。
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略歴・概要
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「痴漢電車 いけない妻たち」の記事における「略歴・概要」の解説
本作は、監督の瀬々敬久が自ら書き下ろしたオリジナルシナリオによるもので、脚本に記された本作の原題『わたくしの汽車は北へ走つてゐるはずなのに ここではみなみへかけてゐる』は、宮澤賢治の『春と修羅』初版本に収録された『青森挽歌』のなかの一文の引用である。国映が製作し、新東宝映画が配給、同年11月28日に公開された。同年10月10日に公開された瀬々の前作で、『わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です』という同じく宮澤賢治の『春と修羅』冒頭の一文を原題とし、同じく岸加奈子が主演した『禁男の園 ザ・制服レズ』の7週後の公開である。前作同様、瀬々が宮澤賢治にインスパイアされた時代の作品である。 日本でのビデオグラムは、1997年(平成9年)3月18日、ビデオメーカーのKUKIがVHSセルビデオとして橋口卓明監督の『痴漢電車 絶倫おんな』(1995年11月23日公開)とのカップリングで『痴漢電車 絶倫おんな/痴漢電車 いけない妻たち』のタイトルで発売した。日本以外に関しては、劇場配給・ビデオグラム等のオールメディアかつワールドワイドのオールライツをアメリカ合衆国の映画会社 PinkEiga.com が掌握しているが、ビデオグラムの発売は見当たらない。
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略歴・概要
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「成金 (1921年の映画)」の記事における「略歴・概要」の解説
1918年(大正7年)ごろ、横浜の東洋汽船の子会社・東洋フィルム会社が製作し、まずアメリカ合衆国で上映されるべく、Sanji Goto - The Story of Japanese Enoch Arden (「ゴトウサンジ - 和製イノック・アーデン物語」の意)のタイトルで輸出された。同社は、1920年(大正9年)4月に大正活映と改称され、1921年(大正10年)9月2日に東京・日本橋人形町の水天館で公開された。 1990年代にアメリカで、英語字幕のみの輸出版プリントが発見され、東京国立近代美術館フィルムセンターに収蔵された。同センターは現在、29分、16ミリフィルムの部分プリントを所蔵している。
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略歴・概要
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スイスにおける最初の公開された映画上映は、1896年(明治29年)にジュネーヴで開かれた内国博覧会でのことであった。移動上映が、展示会場や音楽ホールやサーカス小屋で行なわれ、そして最初のいくつかの映画館が出現した。1920年代後半までのサイレント映画の時代には、スイス人による映画製作はほとんど行なわれなかった。1920年代初頭には、レマン湖畔のジュネーヴやローザンヌのスタジオが、映画製作のためのインフラを提供した。 1930年代から1950年代にかけての原初的なスイス映画は、原則的にはドイツ語圏のスイスであった。チューリッヒの映画プロダクションであるプレゼンス・フィルムが国際的な名声を得ることで、スイス映画は、レオポルト・リントベルク監督の戦争映画『最後のチャンス』(Die Letzte Chance, 1945年)のような人道主義的アンガージュマンの映画と同義語となった。そういった映画は、スイスのドイツ方言で撮影された。 ジャン=リュック・ゴダールが中心的な役割を担ったヌーヴェルヴァーグは、1960年代におもにスイス西部のフランス語圏で展開された。同地のテレビ局であるテレヴィジオン・スイス・ロマンドは、アラン・タネールやクロード・ゴレッタ、ミシェル・ステーら「グループ5」のメンバーとともに、劇映画の共同製作を行なった。現在スイスでは、さまざまな異なるジャンルの映画が共存している。ドキュメンタリーの分野では、例えばクリスチャン・フレー監督の『戦場のフォトグラファー ジェームズ・ナクトウェイの世界』(War Photographer, 2001年)が第74回アカデミー賞で長編ドキュメンタリー映画賞にノミネートされている。 ロカルノ国際映画祭は、インディペンデントの映画作家の作品の映画祭であり、国際的な名声を得ている。スイス映画賞を毎年発表しているソロトゥルン映画祭を通じて、スイス映画に賞が与えられている。スイスは、ボリウッドの多数のインド映画の撮影にインフラを提供している。
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略歴・概要
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1900年(明治33年)前後、ロシア帝国(現在のロシア)のレフ・トルストイが執筆し、死後発表された戯曲『生ける屍』を、マルセル・レルビエがT・H・ロベールらと共同で脚色し、映画化したものである。 日本での配給は、エムパイヤ商事合名会社が行った。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/09/14 05:02 UTC 版)
ハリウッドで映画製作を経験し、Bムーヴィーのヨーロッパ向けセールスの代理人を務めていた経験から、ロジェ・ヴァディム監督の『素直な悪女』を手がけ、ヴァディムの妻ブリジット・バルドーをスターダムに送り込んだ若手プロデューサー、ラウール・レヴィは、1962年(昭和37年)から歴史超大作『マルコ・ポーロ 大冒険』に取り組んでいたが、トラブル続きでなかなか完成せず、完成しても公開がなかなか決まらなかった。そこで原点に返り、白黒フィルム、低予算でのフィルムノワールを自らの手で監督することに決めた。それが本作『二人の殺し屋』、レヴィの初監督作品である。フランス、イタリアの合作であるにもかかわらず、使用言語は英語である。 ピエール・ヴィアル=ルズーが「ピエール・ヴィアル」の名で書いた小説『たたえられよ、マフィア』(1964年)を原作に、レヴィ自らが脚本を書いた。タイトルの「Je vous salue, mafia」は、「Je vous salue, Marie」(たたえられよ、マリア)をもじったもので、のちにレヴィの友人であったジャン=リュック・ゴダールは、『こんにちは、マリア』(Je vous salue, Marie、1984年)、『たたえられよ、サラエヴォ』(Je vous salue, Sarajevo、1993年)の2作を発表している。 本作は、『マルコ・ポーロ 大冒険』が封切られた1965年(昭和40年)8月6日のわずか5日後、同年8月11日に公開された。日本では、タイヘイフィルムが配給、1966年(昭和41年)12月17日に劇場公開した。日本あるいはフランスにおいてはビデオグラム化がされていないが、アメリカでは、2008年(平成21年)5月27日、シニスター・シネマからDVDが発売されている。
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「ヒットパレード (1950年の映画)」の記事における「略歴・概要」の解説
第二次世界大戦後の1949年(昭和24年)10月1日に設立された新興の映画配給会社である東京映画配給(現在の東映)は、おもに京都・太秦の東横映画、東京・東大泉の太泉スタヂオの製作物を劇場に配給するために設立されたが、本作のような独立系の製作会社の作品も多く配給した。本作は『岡晴夫のマドロスの唄』と二本立で「歌謡映画祭」と銘打って、公開された。本作の完成は、公開の前年12月23日であったが、公開までに2か月がかかっている。脚本を執筆した清水正二郎は、シネアートアソシエートオブトーキョーの次作『裸の天使』(監督中川順夫、配給松竹)の脚本も書いている。清水は、のちの直木賞作家胡桃沢耕史の本名であり、経歴において「東映でシナリオライターとなった」とは本作の執筆等を指す。 東京国立近代美術館フィルムセンターは、本作の上映用プリント等を所蔵していない。
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「レフューズニクたちへの祈り」の記事における「略歴・概要」の解説
2006年(平成18年)5月11日 - 同年8月14日、パリの国立総合文化施設ポンピドゥー・センターが企画した初のゴダール展『ユートピアでの単数/複数の旅行 ジャン=リュック・ゴダール 1946年 - 2006年』(Travel(s) in Utopia, Jean-Luc Godard 1946-2006)が行なわれた際に、同センターの上映ホールで、ゴダールの初期の作品『カラビニエ』(1963年)の併映として公開された。 本作はいずれも、徴兵を拒否したために幽閉されたイスラエルの若い兵士たち(レフューズニク)への映画書簡である。2007年(平成19年)11月7日にフランスで発売された『愛の世紀』と『アワーミュージック』の2枚組DVDのボーナストラックに、いずれも収録されている。
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1945年(昭和20年)4月20日、第二次世界大戦におけるナチス・ドイツの崩壊につづいて、アグファのヴォルフェン工場は米軍の管轄下におかれ、アグファカラーの現像に関する重要な工場プラントやほかの書類は没収され、アメリカのコダックやイギリスのイルフォードといった、西側の同業他社に渡された。同工場はドイツにおけるソビエト連邦の占領下に置かれる地域にあったため、米軍は同工場をソビエト軍政に引き渡した。工場はおおかた取り壊され、主要なドイツ人スタッフとともにソビエト連邦国内に移転し、ソ連のカラーフィルム産業の基礎を形作ることになる。 1953年(昭和28年)、同工場は東ドイツの資産となり、貿易協定の設置の際に、VEBフィルムおよびアグファ・ヴォルフェン化学繊維工場(VEB Film- und Chemiefaserwerk Agfa Wolfen)という東ドイツの国営企業に、「アグファ」ブランドで東欧諸国に対する製品の販売権を与えた。そのかわりに、西ドイツ(ドイツ連邦共和国、現在のドイツ)のレーヴァークーゼンに新たに再建されたアグファが、東欧以外の世界の使用権を握った。 貿易協定は、東ドイツの企業に対して西側諸国への販売権を阻害するものであったので、1964年(昭和39年)になると、「元祖ヴォルフェン」(Original Wolfen)を意味する「ORWO」という商標が導入された。「ORWO」と銘打たれた35mmのスライド用カラーフィルムが1970年代にはイギリスで使用可能になり、通販流通のための雑誌広告が打たれた。当時としては、主流のブランドに対する、貧弱なオルタナティヴでしかなかった。 1972年(昭和47年)、ORWOは、ソ連において、ORWOブランドの黒いパッケージのカセットテープを発売しはじめたことが、レニングラード(現在のサンクトペテルブルク)発のニュースとして、同年3月25日発行の米国の雑誌『ビルボード』で報じられている。 西ドイツと東ドイツが合併するのに次いで、同社は1990年(平成2年)に民営化された。2回の倒産を経て、新会社フィルモテックが1998年(平成10年)に設立された。同社は、映画用フィルムに特化されたORWO製品を縮小された規模であるが製造を続けた。いくつかの製品は再ブランド化され、マコというフィルム会社が販売している。 日本の小型映画専門店レトロエンタープライズが販売しているシングル8用の同社オリジナルの黒白生フィルム「レトロX」は、フィルモテックが継承する黒白リヴァーサルフィルムORWO UN54を原反としてつくられたものである。 現在、ORWOブランドのフィルムは以下の長巻35mm白黒フィルム3種類と35mm白黒インフラレッドフィルム1種類が輸入されている。 ORWO UN 54 (ISO100) 135-30.5m(100ft) ORWO N 74 plus (ISO400) 135-30.5m(100ft) ORWO NP 20 (<1980s) ORWO NP22 (<1990) ORWO CHROM UT21 - 135 film (<1990) Perforated ORWO film (70 mm) USSR (<1990) 1980s ORWO CHROM (<1990) Magnetic tape packaging (<1990) ORWO Audio Cassette(<1990) ORWO PAN 400 (< 1994) ORWO UN 54 in 30,5m / 100ft can (ORWO FilmoTec GmbH,2016)
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略歴・概要
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妻アンナ・カリーナとの破局を経験した1965年、ゴダールは、冬のパリで『男性・女性』(1966年)を撮影し、シネマ・ヴェリテ的手法によって顕わにした若い世代の考えに興味を抱く。1966年に『メイド・イン・USA』および『未来展望』(オムニバス『愛すべき女・女たち』の一篇)を撮影し、この2作を最後にカリーナを主演にすえることを断念したゴダールは、ドキュメンタリー作家クリス・マルケルの呼びかけによるオムニバス映画『ベトナムから遠く離れて』のために『カメラ・アイ』を撮り、よりいっそうのシネマ・ヴェリテの実践と、若い世代の思想、新しいマルクス主義である毛沢東思想に傾倒してゆく。 翌1967年に出会ったマオイストでシネフィルの青年ジャン=ピエール・ゴラン(当時24歳)との会話から生み出されたのが、同年早々に撮り始めた『中国女』、そして本作『たのしい知識』である。ゴダールは、同年夏にはモデル出身のミレイユ・ダルクと『ウイークエンド』を撮るが、『中国女』で主役に抜擢した当時まだ20歳のアンヌ・ヴィアゼムスキーと同1967年7月22日に結婚、同作が8月30日にフランスで公開され、時期を同じくして「商業映画との決別宣言」を発表する。『男性・女性』、『中国女』を通じて知り合った10歳以上若い仲間である、ヴィアゼムスキー、ジャン=ピエール・レオ、ジュリエット・ベルトとゴダールで、その年の秋、本作の撮影が開始された。 フランス放送協会からの依頼で始まったこの企画は、当初「ジャン=ジャック・ルソー『エミール』の映画化」であったが、非常にルーズに下敷きにしただけであり、また、フリードリッヒ・ニーチェの著作と同じタイトル(Die fröhliche Wissenschaft (la gaya scienza)の仏題)であるが直接の関係はなく、むしろヴァルター・ベンヤミンの『パサージュ論』の影響を指摘されるような作品となった。 レオの演じる「エミール・ルソー」は、もちろんルソーの『エミール』に登場する少年の名から、ベルトの演じる「パトリシア・ルムンバ」の名は、1960年にベルギーから独立したコンゴ民主共和国初代首相となり翌1961年暗殺された、アフリカ民族主義指導者パトリス・ルムンバからとったものである。なお劇中で使用されるキューバ革命歌『7月26日の行進』は、1953年7月26日のフィデル・カストロら反バティスタの若者の反乱にちなんだ曲である(キューバ革命)。 プロットのない映像言語の探索が行われた本作は、1968年に完成するも、延々と暗黒の画面がつづくなどあまりに映画的でないとの理由で発注元のテレビ局から拒絶され、放送されず、契約違反その他で訴訟を起こされ、出資からも下りられてしまう。結果的にミュンヘンのバヴァリア・フィルムが作品を買収、翌1969年の第19回ベルリン国際映画祭コンペティション部門で上映された。 本作の製作開始から完成のあいだのゴダールは、1968年2月にはシネマテーク・フランセーズ館長のアンリ・ラングロワが解雇され、大衆的に闘って闘争に勝利し、同年5月にはいわゆる「五月革命」がパリに起き、ゴダールはレオとともにカンヌにのりこみ、クロード・ルルーシュ、フランソワ・トリュフォーらと第21回カンヌ国際映画祭を粉砕した。同年6月にはゴランらと結成した「ジガ・ヴェルトフ集団」(1968年 - 1972年)の第一作『あたりまえの映画』を撮影、11月にはその直後にD・A・ペネベイカーと共同監督で『ワン・アメリカン・ムービー』をニューヨークで撮る。翌1969年から1970年にかけても、カナダ、イギリス(ロンドン)、チェコスロヴァキア、イタリア、果てはパレスティナまで政治映画の撮影に飛び回る、ゴダールの日々が始まる。
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略歴・概要
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本作は、1979年(昭和54年)にパスクァーレ・フェスタ・カンパニーレが発表した小説 Il ladrone を原作に、レナート・ギオット、オッタヴィオ・イェンマ、サンティーノ・スパルタ、ステファーノ・ウベツィオが翻案・脚色し、フルヴィオ・ルチザーノが代表を務めるイタリアン・インターナショナル・フィルムを中心に合作し、製作を行ったものである。チュニジアのモナスティル県モナスティルあるいはスース等でロケーション撮影を行い、完成した。 イタリアでは1980年2月1日、フランスではちょうど2年後の1982年(昭和56年)2月24日に公開された。イタリアでは、2009年(平成21年)10月21日、イタリアン・インターナショナル・フィルム(IIF)傘下のIIFホーム・ヴィデオがDVDを発売した。 日本では、2011年(平成23年)2月現在に至るまで劇場公開、テレビ放映、ビデオグラム販売等は行われていない。
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略歴・概要
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1955年(昭和30年)、大蔵貢の大蔵映画株式会社が「目黒金龍座」「目黒オリオン座」の2館として、現在の東京都品川区上大崎2丁目24番15号に開業した。1975年(昭和50年)、現在の建物に改築して1館に統一、「目黒オークラ劇場」と名称を変更した。1976年(昭和51年)、現行の「目黒シネマ」に改称した。 第二次世界大戦前、目黒駅を隔てて反対側の東口に「目黒キネマ」が存在したが、資本関係はない。
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日活大将軍撮影所が現代劇部を残して前年の1927年(昭和2年)4月に太秦撮影所に移転となり、大将軍撮影所は1928年(昭和3年)4月に閉鎖となった。時代劇・現代劇両方に主演していた南光明をマキノ・プロダクション御室撮影所に迎えることになり、その第1回作品として製作、銘打たれて公開された。本作は、マキノの監督作『浪人街 第一話 美しき獲物』が1位を獲得した同年のキネマ旬報ベストテンで7位を獲得し、4位を獲得した『崇禅寺馬場』とともに、ベストテン10作品中3作品をマキノ正博監督作が占めた。 当時のチラシによれば、阪東三吉改め阪東三右衛門入社第1回作品『天明果報談』が近日公開である旨が併記されているが、三右衛門は5月に入社しており、金森万象監督の『天明果報談』は『蹴合鶏』公開のちょうど1か月後に公開されている。主演俳優の入社ラッシュであった。
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「チャッカリ夫人とウッカリ夫人」の記事における「略歴・概要」の解説
茶刈夫妻と宇刈夫妻が主人公である。毎回一話完結の15分間ドラマである。 第1回放送日は、ラジオ東京の開局日の1951年(昭和26年)12月25日であった。3回のリニューアルを繰り返し、1958年(昭和33年)には、放送2,000回を迎え、初期の長寿番組となる。1964年(昭和39年)10月に、13年間続いた放送に終止符を打つ。また、ラジオ東京テレビ(現:TBSテレビ)開局日の1955年(昭和30年)4月1日13時から、映画も放送された。 スポンサーは、当初の企業が降板した後、1952年(昭和27年)10月から朝日麦酒(現在のアサヒビール)が一社提供する。バャリース・オレンジや同社のビールを作品内で大いに取り上げ、同番組をフィーチャーした新聞広告を打った。1958年(昭和33年)7月には、降板した。 それから21年半後の1986年4月より、同局の昼番組『ロンペーのときめきランチタイム』(パーソナリティ:桝井論平アナウンサー)内で復活、1年放送した。スポンサーは津村順天堂(現:ツムラ・バスクリン)。オープニングテーマは「アリスは迷子」(作詞:湯川れい子 / 編曲:清水信之 / 作曲・歌:小林明子)。
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室町時代(14世紀 - 16世紀)、当時の経済流通・交通の変化・発展を受け、農民が自ら伐採した竹を売る「竹売」に進出する例もあったが、京都においては、山城国宇治郡山科荘(現在の京都市山科区)の山科家を本所とした「竹供御人」が、供御人として朝廷に竹を貢納し、独占的に販売していた。山科家の「竹供御人」は、 紀伊郡深草(現在の京都市伏見区深草) 宇治郡木幡(現在の京都府宇治市木幡) の2か所に存在した。1481年(文明13年)には、深草と木幡の「竹供御人」どうしがその利権を争い、結果的には「伏見ハひさしき供御人、小幡ハちかし」(「伏見の深草は古来の供御人であり、木幡は最近のものである」の意)と判定された記録が残っている。このほか「山科散所」の者たちも、竹うり散所者(竹売散所者)として、「竹売」を行った。当時、掃部助・大沢重有が差配していた、この「竹売散所」の所在地は不明である。同時期、15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』には、材木を売る「材木売」とともに「竹売」として紹介されている 江戸時代の江戸(現在の東京都)で、切った篠竹(メダケ)を、「タケヤ」を連呼しながら売り歩いた行商人も、「竹売」と呼ばれていた。店を構えた者は「竹屋」と呼ばれた。
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1214年(建保2年)につくられた『東北院職人歌合』(曼殊院旧蔵本10種、群書類従本24種)、1261年(文応2年、弘長元年)につくられた『鶴岡放生会職人歌合』(24職種)に次ぐ3つめの職人歌合である。1494年(明応3年2月)、後土御門天皇(1442年 - 1500年)の生母で後花園天皇の准后、嘉楽門院信子(大炊御門信子、1411年 - 1488年)の七回忌を契機に作成されたとされる。「いやしき身なる者」が歌を番えるという形式をもつ。「いやしき身なる者」とは、絵解や猿牽(猿飼)、鉦叩、胸叩といった門付・大道芸を行う芸能者、桂の女(桂女)や樒売、菜売といった行商人がそれであり、これらの職能は、経済流通・交通の変化・発展や、芸能の発展、民間仏教の布教といった時代背景をもって出現したものである。 歌数64首、職種32種、「花」「述懐」を題とした狂歌的な和歌による各16番合計32番の歌合として構成されている。略画の描写も動的であり、3世紀近く先行する2つの職人歌合に比較すると、独自な発展がみられる。歌合には「判者」が欠かせないが、これを本作では「勧進聖」としている。 1793年(寛政5年) - 1819年(文政2年)に編纂された『群書類従』に取り上げられた(1207番)。1778年(安永7年)の模本等が現存する。国立国会図書館所蔵の『群書類従 502』では、テキストのみで略画が省略されている。
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「土曜日、日曜日、そして金曜日」の記事における「略歴・概要」の解説
本作は、1979年、イタリアの映画プロデューサーであるルチアーノ・マルティーノが、同国の製作会社ダニア・フィルム、スペインの製作会社アズ・フィルム・プロドゥクシオンと提携して製作を開始、同国内等でロケーション撮影を行って完成した。二人組の脚本・監督コンビであるカステッラーノ=ピポロと、パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ、セルジオ・マルティーノの3監督チームが、それぞれ40分程度の短篇映画を監督した。 本作は、イタリアでは同年10月20日に公開された。 日本では、2011年(平成23年)3月現在に至るまで劇場公開、テレビ放映、ビデオグラム販売等は行われていない。
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「紹介、またはシャルロットとステーキ」の記事における「略歴・概要」の解説
1948年(昭和23年)「シネクラブ・デュ・カルティエ・ラタン」を主宰し、毎週木曜日には行なう上映会で解説を行なっていたリセ教師モーリス・シェレールことエリック・ロメールは、そこに集まる青年たちと1950年(昭和25年)5月から、『ラ・ガゼット・デュ・シネマ』誌を発行しはじめたが、同年、それと平行して、短篇映画を撮りはじめた。 当時30歳のロメールはリセの夏休みを利用し、仲間で当時28歳のポール・ジェゴフと脚本を書き、ジェゴフを主演に『ある悪党の日記』を撮り、当時22歳のジャック・リヴェットは、当時19歳のジャン=リュック・ゴダールを主演に『ル・カドリーユ』を撮った。同年の年末年始のリセの冬休みに、ゴダールが育ったスイス・ヴォー州ニオン近辺で、20歳になったばかりのゴダールを主演にロメールが撮った短篇映画が本作である。本作におけるゴダールは、メガネをかけておらず、くせ毛はそのままだが、後を刈り上げている。 本作は、撮影後、編集して、サイレント映画として仲間内で上映されていたが、6年後の1957年(昭和32年)にゴダールが、本作の続篇として、『シャルロットとヴェロニク、あるいは男の子の名はすべてパトリックである』(『男の子の名前はみんなパトリックっていうの』)を監督し、翌1958年(昭和33年)にはロメールがその第3篇『ヴェロニクと彼女の怠慢な生徒』を監督し、ゴダールが第4篇『シャルロットと彼女のジュール』を監督した。ゴダールは、アンヌ・コレットやジャン=クロード・ブリアリ、ジャン=ポール・ベルモンド、ニコル・ベルジェといった新進俳優を起用、ロメールもヴェロニク役にベルジェを起用した。 その翌年の1959年(昭和34年)、ゴダールは、ベルモンドとオットー・プレミンジャー監督の『悲しみよこんにちは』に主演した新進スター女優ジーン・セバーグを主演に起用した長篇劇映画『勝手にしやがれ』を監督するチャンスを得、同年の夏、リセの夏休みを利用して、ロメールも長篇劇映画『獅子座』を監督し、ゴダールは1960年(昭和35年)、ロメールは少々遅れて1963年(昭和38年)にデビュー長篇がそれぞれ公開された。 10年も前に撮影された本作のアフレコが行なわれることになった経緯は、「ヌーヴェルヴァーグ」と名づけられることになった彼らのストック作品に注目が集まったことと、ゴダールはアンナ・カリーナと『勝手にしやがれ』の撮影前に知り合い、ロメールは『獅子座』に出演したステファーヌ・オードランに声をかけることができたからである。声の出演として、ゴダール、オードラン、カリーナの名がクレジットされているが、出演したアンヌ・クードレ、アンドレー・ベルトランの名はクレジットされていない。
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略歴・概要
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1980年(昭和55年)、黒沢清の24歳のときの作品である。 撮影・照明を現在映画監督の万田邦敏、主演を現在映画監督でノンフィクション作家の森達也が務めている。他の出演陣は、現在舞台女優の久保田美佳、のちに本名で映画プロデューサー、「砂本量」名義で脚本家・映画監督となった鈴木良紀、現在リンクス・デジワークス取締役でVFXプロデューサーとして『交渉人 真下正義』や『回路』等を手がけた浅野秀二、1982年(昭和57年)の第5回ぴあフィルムフェスティバルに黒沢、万田、浅野が出演した『気狂いフィルム99』で入選した笠原幸一らである。 立教大学のサークルセント・ポールズ・プロダクションから分離独立したパロディアス・ユニティが本作の製作とともに、1978年(昭和53年)の黒沢の監督作『School Days』同様、「音楽」にクレジットされている。黒沢がドラムス、万田がトランペットを演奏する。 本作は、同年5月15日、イメージフォーラムで公開された後に、翌1981年(昭和56年)の第4回ぴあフィルムフェスティバルに出品され、飯田譲治監督の『休憩』、笹平剛(現在の利重剛)監督の『教訓 I』、松岡錠司監督の『三月』、緒方明監督の『東京白菜関K者』、手塚眞監督の『HIGH-SCHOOL-TERROR』とともに入選を受けた。
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1922年(大正11年)5月には雑誌『女性』、1923年(大正12年)12月には雑誌『苦楽』(第1期)をそれぞれ創刊してきた大阪の化粧品会社・中山太陽堂(現クラブコスメチックス)が経営する出版社、プラトン社が、菊池寛の『文藝春秋』と同社の『苦楽』が組んだ「ドラマリーグ」で共同編集した映画と演劇のための雑誌である。編輯人(編集人)はプラトン社の川口松太郎、1925年(大正14年)の暮れに、創刊号(大正15年1月1日付発行)をリリースした。 まったく同時期の11月末に、東京の大日本雄辯會講談社(現講談社)が大衆娯楽雑誌『キング』を創刊(大正15年1月1日付発行)、いきなり50万部を刷って完売、増刷していた。これに対抗する新雑誌という目的もあった。 プラトン社の小山内薫、川口松太郎、文藝春秋社の菊池寛、『苦楽』執筆者の江戸川乱歩らが執筆した。『苦楽』を編集した直木三十五(当時「直木三十三」)は、前年3月に奈良に映画制作プロダクション「連合映画芸術家協会」を設立、映画製作に乗り出し、編集の現場からは離れていた。1926年(大正15年)7月に発行した第8号「大正15年8月1日号」をもって、休刊となった。全8号。 『女性』と『苦楽』とはひきつづき、2年後、プラトン社が廃業する1928年(昭和3年)5月まで発行された。 同雑誌は、その後、復刻されている。
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「信州市民新聞グループ」の記事における「略歴・概要」の解説
1948年に岡谷市で市民新聞(現・岡谷市民新聞)を発刊したのがスタート。以後1949年には湖北新聞(現・下諏訪市民新聞 下諏訪町)、たつの家庭新聞(現・たつの新聞 辰野町)、1953年には箕輪家庭新聞(現・みのわ新聞 箕輪町)、1966年諏訪市民新聞(諏訪市)、1971年茅野市民新聞(茅野市)、1981年には南箕輪村を対象とする南みのわ新聞がそれぞれ創刊された。 発行元の岡谷市民新聞社が株式会社組織となったのは1956年である。 1965年には鉛活字を使わず、コンピューターオフセット印刷を利用した、当時としては画期的な「CTS=コールドタイプシステム」を日本の日刊新聞として最初に導入。以後全国の新聞社が多用するきっかけを作るようになる。更に1996年にはデジタルカメラを全面採用するなど、紙面製作のデジタル化をやはり日本で初めてスタートさせた。[要出典] 紙面体裁 朝刊タブロイド紙(地域・日付により16~32ページ立て。なおテレビ番組面はグループ傘下7紙共通で中面抜き取り形式で掲載している)
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略歴・概要
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ダニエル・シュミット満30歳当時の映画監督デビュー作である。1972年(昭和47年)、シュミット自らが育ったグラウビュンデン州のホテルで撮影した。同ホテルはのちに1992年(平成4年)に発表した『季節のはざまで』でも再度ロケセットとして使用された。 シュミットは本作により、ヴェネツィア国際映画祭でルキノ・ヴィスコンティに賞賛され、最優秀新人賞を獲得した。 日本では、先行して『ヘカテ』(1982年)や『ラ・パロマ』(1974年)が公開されたのちの1986年(昭和61年)11月にシネセゾンの配給で公開された。2010年(平成22年)現在DVD化はされていない。
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略歴・概要
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ドイツ・ハンブルクに生まれ、ドイツとアメリカ合衆国で映画的キャリアを経た映画監督ダグラス・サークの1983年現在と、サークの作品を引用しながら彼の足跡を追う。サークは1959年(昭和34年)にアメリカで監督した映画『悲しみは空の彼方に』を発表したのち、スイスのイタリア語圏・ティチーノ州ルガーノに夫人のヒルデ・ジャリーとともに住む。 本作を製作・放映したテレヴィジオン・スイス・ロマンドは、スイスのジュネーヴにあるフランス語圏向けのフランス語の放送局で、本作の原題はフランス語で Mirage de la vie と名付けられたが、作品中で使用される言語は、ドイツ語と英語である。この原題は『悲しみは空の彼方に』のフランス語圏でのタイトルと同一である。 サークは、本作の放映の4年後、1987年(昭和62年)1月14日に同地で亡くなった。
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略歴・概要
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「ハウ・キャン・アイ・ラヴ」の記事における「略歴・概要」の解説
当時写真家であった1972年(昭和47年)に、ジャン=リュック・ゴダールとジャン=ピエール・ゴランの主宰するジガ・ヴェルトフ集団が演出した長篇劇映画『万事快調』の撮影にスチルカメラマンとして参加して以来、1975年(昭和50年)のゴダール監督作『パート2』で脚本家・女優としてデビュー、1976年(昭和51年)にゴダールとの共同監督でテレビ映画シリーズ『6x2』で監督としてデビューしてきたアンヌ=マリー・ミエヴィルが、初めて単独で監督した短篇映画が本作である。 撮影監督には、ゴダールとミエヴィルが本拠地とするスイス・ヴォー州の地元で活躍する写真家・映画作家のフランシス・ロイセールを迎え、ロイセールの推薦でゴダールの『パッション』で録音技師を務めたフランソワ・ミュジーが本作でも録音技師を務めた。助監督は、ミエヴィルの第2作の短篇映画『マリアの本』では撮影を担当するジャック・フィルマンが務めた。 出演者のなかでも、ジョー・エクスコフィエは、クロード・ゴレッタ監督の短篇映画『五月の日曜日』(1963年)やアラン・タネール監督の長篇デビュー作『どうなってもシャルル』(1969年)といった「グループ5」の映画にも出演している人物である。フランソワ・ジェルモンは、のちにゴダール監督の『ヌーヴェルヴァーグ』(1990年)、『ゴダールの決別』(1993年)にも出演した。
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略歴・概要
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本作の製作は、当時すでに活動を停止しているJLGフィルムではなく、ペリフェリアが行った。ロケーション撮影は、スイス・ヴォー州、ゴダールがアトリエを構えるレマン湖に面した町・ロールである。ゴダールが湖の対岸を指さし、「Kingdom of France」(「フランスの王国」の意)と言うシーンがある。 映画局査察官役で、アンドレ・S・ラバルト、ルイ・セガン、ベルナール・エイゼンシッツという3人の批評家が出演している。 作中のゴダールによるモノローグで、「ロベルト - ジャック - ボリス - ニコラス」、つまりロベルト・ロッセリーニ、ジャック・ロジエ、ボリス・バルネット、ニコラス・レイとならべ、「自ら映画となる」として、それぞれの作品の音声が引用するシーンがある。 フランスでの配給は、大手配給会社ゴーモンが行ったが、クレジットでは正式社名ではなく、「Les successeurs de Léon Gaumont」(「レオン・ゴーモンの継承者たち」の意)と表記された。レオン・ゴーモン(Léon Gaumont、1864年 - 1946年)とは、現在のゴーモンの前身である「L・ゴーモン商会」を1895年に設立した人物である。 1995年2月、第45回ベルリン国際映画祭で上映された。日本では、2002年(平成14年)8月17日、日本再映の『フレディ・ビュアシュへの手紙』とのカップリングで初公開された。
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略歴・概要
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スイス・ヴォー州ローザンヌ生まれ、同州ロールに1979年(昭和54年)からジャン=リュック・ゴダールとともに映像工房を営むアンヌ=マリー・ミエヴィルが、ゴダールとの共同監督を重ねた末に、単独で監督した短篇映画の第3作である。 撮影監督には、ゴダール監督の『パッション』(1982年)でビデオ撮影を担当し、ミエヴィル単独の前作『マリアの本』(1984年)の撮影監督を務めたジャン=ベルナール・ムヌー、録音技師には、クロード・ミレール監督の『なまいきシャルロット』(1985年)でポール・レーヌの助手を務め、エリック・ロメール監督の『緑の光線』(1986年)でドミニク・エヌカンを支えた当時の20代のクローディーヌ・ヌガレを起用した。
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略歴・概要
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日活大将軍撮影所に所属し、1927年(昭和2年)には『忠次旅日記』3部作や『下郎』等の歴史に名を残す作品を監督した伊藤大輔が、1929年(昭和4年)、市川右太衛門率いる市川右太衛門プロダクションで自らのオリジナル脚本を映画化したのが本作『一殺多生剣』である。 本作は、同年7月5日、浅草の松竹直営の洋画専門館・帝国館をフラッグシップにして公開された。 本作の上映用プリントは、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されておらず、マツダ映画社も同様である。大阪藝術大学の玩具映画プロジェクトもフィルム断片を所蔵していない。現状では、いずれも鑑賞の不可能な作品である。
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1973年(昭和48年)以来、映画作家ジャン=リュック・ゴダールの公私にわたる長年のパートナーとして、ゴダールとともに数々の共同監督作品を生み出し、製作会社ペリフェリアを経営してきたミエヴィルが、ゴダールとともにメインキャストとして出演し、単独で監督したのが本作である。本作はミエヴィルの単独監督作第4作である。 1970年(昭和45年)に、当時アンヌ・ヴィアゼムスキーを妻とし、ジガ・ヴェルトフ集団をジャン=ピエール・ゴランとともに主宰していたゴダールと出逢ったミエヴィルは、歌手から写真家に転身した人物であり、1975年(昭和50年)にゴダールと共同監督した『うまくいってる?』には主演しており、本作では、100本になんなんとする出演作をもつゴダールと互角に女優をつとめた。 本作では、さまざまな主題が語られるが、ストーリーの感情の焦点に、パートナーの他者との恋愛問題が置かれている。1996年(平成8年)に振り切られる形で終止符を打った、『フォーエヴァー・モーツアルト』に出演した女優ベランジェール・アローへのゴダールの恋愛的執着との関係が伺われる。 日本では、ゴダールが同時期に発表した映画『愛の世紀』(1999年)が2002年(平成14年)4月13日に公開され、そのちょうど2週後の同年4月27日に公開された。同年10月18日には、紀伊國屋書店から『愛の世紀』と2枚組でDVDが発売されたが、現在はすでに廃盤である。
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1998年、D≒SIREとしての活動存続を断念したYUKIYAが、翌1999年に秀誉(結成直後に脱退)、元Vasallaの舜、元ZENITHのMARIKIと共に4人で結成した。2000年、元pleurのREN、元Merry Go RoundのTOHRUが加入し本格的に活動を開始した。 2001年メンバーチェンジがありMARIKI、REN、TOHRUが脱退。舜が俊介に改名し、新たに元DAS:VASSERのICHIROがベースとして加入。秀誉がドラムとして再加入したが2003年に脱退した。以降三人編成となっている。2003年7月から2006年2月までは元BLÜEのHAYATO、2006年から解散までは元LaputaのTomoiがサポートドラマーを務めていた。 2004年12月24日の新宿ロフト公演を最後に一旦活動を休止したが、2006年5月2日に「転生前夜 Re-BIRTHDAY "EVE"」と題した復活公演を渋谷O-EASTで行い活動再開した。同年11月12日にはD≒SIRE、JILSの元メンバーらと幸也主催Kreisレーベル設立10周年記念GIG「Kreis/Tokyo」を渋谷AXで行った。 2007年2月14日オフィシャルメールマガジンにおいて、2007年5月2日に東京九段会館大ホールにて行われる「Re-BIRTHDAY -約束の日-」をもってボーカルのYUKIYAが脱退することが伝えられ、2007年2月28日発売FOOL'S MATE誌広告にて「JILS、解体。」の見出しと共にラストツアー・ラストシングルの告知が行われた。翌2007年3月1日に公式サイト上で2007年5月2日をもってのJILSの活動の終了・無期限活動停止が正式に発表された。 2007年5月2日に東京九段会館大ホールにて行われた「Re-BIRTHDAY -約束の日-」、5月3日に新宿LOFTにて行われたShinjuku LOFT 8th Anniversary JILS特別追加最終公演「さよなら。貴方が好きだった僕。」をもってJILSとしての活動を終了した。同年6月5日、新宿LOFTにてアンコールライブが行われる。 2011年6月5日、2007年6月5日のアンコールライブの模様を収録したライブDVDをリリースし、同年9月に期間限定の復活を発表、同年11月にKreisレーベル設立15周年記念イベント、同年12月末にヴィジュアル系バンドのイベント『Over The Edge』に出演した。
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「クレーヴの奥方 (1961年の映画)」の記事における「略歴・概要」の解説
マダム・ド・ラファイエットの書いた17世紀末の恋愛小説『クレーヴの奥方』の初の映画化である。詩人で映画作家のジャン・コクトーが脚本を書き、ドラノワが監督した。 日本では本作の完成後、長らく劇場公開はされなかったが、東京日仏学院が英語字幕付の16ミリプリントを所蔵しており、上映される機会はあった。フランス等での公開後27年を経た1988年、ケイブルホーグが日本での上映権を取得し、同年11月19日に日本での初公開を果たした。日本でのDVDは未発売である。
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本作は、記録映画出身の映画作家・西江孝之が組織した日本映画研究会が製作した作品である。本作にも出演している西江三千子は西江の妻であり、本作発表の4年後である1973年(昭和48年)に心臓発作が併発した脳血栓症によって右半身麻痺と失語症を患うことになる。さらに3年後の再発作と大手術の淵から再生する姿を西江が描いたドキュメンタリー映画『ミチコ Michiko』が、本作発表12年後の1981年(昭和56年)4月14日に公開されている。 本作の音楽を手がけたジャズ・ピアニストの永田清嗣(1921年 - )は、本作に出演するジャズ・シンガーの水島早苗(1909年 - 1978年)の夫であり、当時、水島ボーカル研究所代表であった。撮影技師の中島彰亮は、西江作品のほか、ドキュメンタリー作家・四宮鉄男のキャメラマンとしても知られる。「映画の作者」役で出演する瓜生良介(1935年 - 2012年)は、1964年(昭和39年)、現在の「劇団黒テント」の母体となる「演劇センター68」(1969年脱退)をのちに形成する「発見の会」を創立した演劇人で、出演した牧口元美、斎藤晴彦、三好道明は同会のメンバーである。林昭夫は新人会、麿赤児は状況劇場の俳優であった。林が演じたエロスは「八戒」、牧口が演じたテロスは「悟空」、麿が演じたグロスは「悟浄」とされ、『西遊記』が下敷きにされている。「暗黒舞踊の鬼才」として出演する土方巽は、同年、石井輝男監督の『残酷・異常・虐待物語 元禄女系図』、『明治・大正・昭和 猟奇女犯罪史』、『江戸川乱歩全集 恐怖奇形人間』、中島貞夫監督の『日本暗殺秘録』と立て続けに映画出演した。 公開当時の宣伝惹句は、 現代の暗黒を 卑猥と哄笑の精神で 吹きとばす痛烈なる喜劇 喜劇王エノケン 10年ぶりに登場 「10年ぶりに登場」と謳われた主演の榎本健一は、正確には映画出演としては1965年(昭和40年)9月18日に公開された『喜劇 大親分』(監督酒井欣也)以来の3年半ぶりであり、映画の主演としても1963年(昭和38年)7月28日に公開された『続雲の上団五郎一座』(監督青柳信雄)以来、6年ぶりであり、「10年ぶり」という惹句の根拠は乏しい。榎本は、本作発表の翌1970年(昭和45年)1月7日、満65歳で亡くなった。本作は、榎本健一の「最後の主演映画」となった。 2013年(平成25年)2月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは、本作の上映用プリント等を所蔵していない。2004年(平成16年)10月19日 - 同月22日、横浜のBankART1929で本作のうち土方巽の舞踏シーンのみが上映されている。2013年1月19日 - 同月20日、東京・中野のテルプシコールで同様の上映が行われている。
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1934年(昭和9年)9月、日活京都撮影所の企画部長であった永田雅一が突如同社を退社、「第一映画社」を設立した。小説家の川口松太郎、映画監督の伊藤大輔、溝口健二、犬塚稔、女優の山田五十鈴、原駒子らが同社に参加、同社は、嵯峨野にある片岡千恵蔵プロダクションのステージをレンタルし、伊藤監督による同社設立第1作『建設の人々』を撮影した。同撮影所は、同年9月21日の室戸台風で壊滅してしまう。千恵プロは撮影所の復旧を行った。 翌1935年(昭和10年)1月、永田率いる第一映画社は、千恵プロ撮影所に隣接して、第一映画撮影所を建設・開所した。同年4月、第一ステージが失火で全焼する。1936年(昭和11年)5月28日、溝口健二監督、山田五十鈴主演の映画『浪華悲歌』を製作、松竹キネマが配給する。同作を最後に、社長の永田が新興キネマに引き抜かれ、同社の京都太秦撮影所長に就任し、第一映画社は解散した。解散後、この撮影所は、松竹キネマ作品のレンタルスタジオとなった。 1937年(昭和12年)には、永田のいる新興キネマの第二スタジオ、新興キネマ京都太秦第二撮影所となった。1942年(昭和17年)1月、戦時統制により、新興キネマは、大都映画、日活の製作部門と合併し、大日本映画を設立した。同撮影所は、同年、大日本映画嵯峨野撮影所(大映嵯峨野撮影所)となったが、製作本数は少なく、撮影所ばかりが多い同社のなかで淘汰され、すぐに閉鎖された。
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1922年(大正11年)、アメリカ合衆国のユナイテッド・アーティスツが、アラン・ドワン監督、ダグラス・フェアバンクス主演のサイレント映画『ロビン・フッド』Robin Hood にインスパイアされた、東亜キネマ等持院撮影所所長の牧野省三指揮のもと、1924年(大正13年)、金森万象が脚本を執筆・監督したのが、本作『ロビンフットの夢』である。 同撮影所では同年、フレッド・ニブロ監督、フェアバンクス主演の『奇傑ゾロ』を下敷きに、『快傑鷹』が製作されている。どちらも主演は高木新平である。撮影は、『快傑鷹』に田中重次郎としてクレジットされている田中十三が、田中重太郎としてクレジットされている。 舞台は当時の「現代」に置き換えられてあるが、フェアバンクスが演じたロビン・フッド(本作では加藤良三 / ロビンフット)を高木新平、エニッド・ベネットが演じたメイドのマリアン(艶子 / マリアン姫)をマキノ輝子、ウォーレス・ビアリーが演じたリチャード1世(中山平七 / リチャード王)を中根龍太郎、サム・ド・グラッスが演じたジョン王子(不良青年 / ズヨン大公)を牧実、ウィラード・ルイスが演じたタック神父(近所の腕白小僧 / タツカ坊主)がそれぞれ演じている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/22 15:33 UTC 版)
伊丹自身の回想によれば、1927年(昭和2年)10月、満27歳のころ、旧制・愛媛県松山中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)時代の先輩である伊藤大輔宅の食客となった際に、伊藤に言われて「しかたなく」書いたオリジナルシナリオが2本あり、初めて書いたものがのちに自ら監督する『花火』(1931年)であり、同月のうちに書いたもう1作が『伊達主水』であったという。翌月の同年11月、谷崎十郎主宰による谷崎十郎プロダクションが奈良に設立され、当時、同じく伊藤家の食客であった俳優の香川良介、脚本家の中川藤吉らとともに同プロダクションに移り、俳優としての日々を過ごしたが、同年12月末からは、香川らとともに台湾を巡業、翌4月に京都に戻ると、設立されたばかりの片岡千恵蔵プロダクションに助監督兼脚本家として参加することになっており、1週間で書いた脚本が『天下太平記』であり、同作は同プロダクションの設立第1回作品として製作・公開され、伊丹万作、稲垣浩がそれぞれ脚本家、監督としてデビューした。その次の作品として採用されたのがすでに完成していたオリジナルシナリオ『伊達主水』であり、製作・公開にあたって改題されたのが本作、『放浪三昧』である。 本作には、プロダクション主宰の片岡千恵蔵のほか、伊丹と同時に入社した香川良介、同じく同プロダクションの設立に参加した林誠之助や成松和一、衣笠淳子、市川小文治歌舞伎映画プロダクションの市川小文治らが出演している。撮影現場ではチーフ助監督を務めた伊丹万作も「安藤兵衛」役で助演しており、伊丹の役のある助演出演作はほかに、翌1929年(昭和4年)の正月映画として同年12月31日に公開される自らの監督作『続万花地獄 第一篇』(演出指導伊藤大輔、原作吉川英治)があり、同作では「肉植幸安」役、「青山七造」の芸名で出演している。『続万花地獄 第二篇』にも同様に出演しているが、撮影途中に伊丹が倒れ、同作は稲垣が監督して完成させた。同プロダクションは、当時まだ自社撮影所を所有しておらず、河合広始・田中十三の主宰する「日本キネマ撮影所」(双ヶ丘撮影所)でセット撮影が行われた。本作公開前の同年7月末に、本作の配給元である日本活動常設館館主連盟映画配給社が瓦解し、同プロダクションは、次作からは自主配給を余儀なくされた。 2013年(平成25年)1月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは、本作の上映用プリントを所蔵していない。マツダ映画社は「60分尺」の上映用プリントを所蔵している。同ヴァージョンのビデオグラムは、かつてアポロン音楽工業(のちのバンダイ・ミュージックエンタテインメント、2000年解散)が松田春翠の説明(活弁)音声トラックつきの活弁トーキー版をVHSベースで発売しており、その後2000年(平成12年)には、マツダ映画社(発売元オールド・ニュー)が、「日本無声映画名作館」第9巻として同ヴァージョンの活弁トーキー版VHSを販売している。これとは異なる「40分尺」ヴァージョンのプリントも存在し、ディスクプランが2009年(平成21年)7月15日に「日本名作劇場」第29巻としてDVDベースで発売した。本作の脚本については、1961年(昭和36年)11月15日に発行された『伊丹万作全集 第3巻』(筑摩書房)には収録されていない。
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現在の兵庫県西宮市甲陽園本庄町の甲陽幼稚園のあたりにあった「甲陽撮影所」で映画製作をしていた極東映画社が、大阪府南河内郡古市町(現在の羽曳野市白鳥)の「古市撮影所」に移転した際に、「極東」の方針に反対し、スター俳優羅門光三郎、市川寿三郎、綾小路絃三郎ら、監督の下村健二、園池成男こと古海卓二、児井秀男(のちの児井英生)が甲陽園に残留、1936年(昭和11年)5月に同地に設立した。設立第一作は下村健二監督の『元和三勇士』であった。同作は提携先の千鳥興業の配給で、同年7月1日に公開された。 同年10月1日公開の『どくろ大明』三部作から千鳥興業との提携をやめてマキノ・トーキー製作所が配給したが、1937年(昭和12年)、自社配給に乗り出したところ経営が悪化、同年5月には解散することとなった。今井映画製作所との提携で製作したトーキー映画、監督下村健二・久保田富彦監督の『快闘 富士の男伊達』が、同年7月15日に公開されたのが最後である。 市川寿三郎、綾小路絃三郎は同社設立の夏過ぎには、極東映画に戻った。大塚田鶴子、鳴戸史郎は奈良の全勝キネマへ、羅門光三郎、若月輝夫、金井憲太郎、監督の下村健二、児井英男は最後まで残り、今井映画へ移籍した。貴志洋子、中山介二郎、桜井京子は同社解散以降の資料が見当たらず、監督の園池こと古海卓二は廃業してしまった。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/07 09:03 UTC 版)
舞台である徳島県徳島市の助任川に架かる工兵橋(現徳住橋)付近を中心に、徳島中央公園、津田港、川内町宮島などで行われたとされる。ロケ期間は1941年4月16日からの9日間。それを受け、半世紀以上後の2006年3月に、徳住橋付近にある中徳島河畔緑地に映画の記念碑が建てられた。 1937年(昭和12年)に盧溝橋事件が起こり、支那事変(日中戦争)の影響で、この年から阿波おどりは徳島観光協会が自発的に取りやめていた。翌年、日中戦争に勝利し、阿波おどりが再開、本作『阿波の踊子』は再開のきっかけとなった。 1957年(昭和32年)、本作の監督であるマキノ正博は、東映で大友柳太朗の主演により『阿波おどり 鳴門の海賊』として、マキノ雅弘名義でセルフリメイクした。
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本シングルは、1968年(昭和43年)にテイチクレコード(現在のテイチクエンタテインメント)から木立じゅんがリリースしたシングル『484のブルース』に作詞・作曲した表題曲を提供した平田満が、「原みつる」の芸名で1970年に結成した4人編成のグループ「原みつるとエリートメン」のデビューシングルである。レーベルは日本コロムビア(現在のコロムビアミュージックエンタテインメント)、同年6月にリリースされた。リリースナンバーはLL-10140 -J、定価は400円。 和製ボッサの表題曲『ここは東京六本木』を作曲、B面曲『酔わせて』では作詞も手がけた大平秀夫は、同グループには「大平次郎」名義で参加しており、同じく同グループに「小出四郎」名義で参加した小出誠とは、のちにラテン音楽デュオ「ドス・アセス」を結成している。いずれの楽曲も編曲は当時の日本コロムビアのアレンジャー池田孝が行なった。大平も、『ここは東京六本木』を作詞した作詞高尾一利も、JASRAC信託作家ではない。 本シングルのリリースの1年後の1971年(昭和46年)7月、原みつる(平田満)はキングレコードに移籍、原みつるとシャネル・ファイブとして再デビューするが、メンバーは「エリートメン」を引き継いでいない。 2010年9月現在、CD等デジタル化された音源はリリースされていない。
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略歴・概要
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「GEAR tools RADIO mono FACTORY」の記事における「略歴・概要」の解説
2010年10月2日、19:00-19:30 枠にて放送開始。パーソナリティーは森基誉則。作業に使う工具などの「モノ」を取り扱う、日本でも珍しい番組。 当初は森が一人で担当していたが、途中から当番組のスポンサーであるファクトリーギア社長の高野倉匡人が加わり、高野倉が日本や世界各地で体験したことなどを話すスタイルとなった。 2011年4月以降、現在の19時30分開始となる。
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略歴・概要
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第1作『江戸怪賊伝 影法師』は、1925年(大正15年)、東亜キネマに吸収されたマキノ・プロダクション等持院撮影所が、再独立直前の一時期「東亜マキノ等持院撮影所」と名乗っていた時期の作品である。寿々喜多呂九平が書き下ろしたオリジナルシナリオを二川文太郎が監督した。第1作『江戸怪賊伝 影法師』は、東亜キネマが配給し、前篇を同年3月6日、後篇をその翌週3月13日に浅草公園六区・大東京をフラッグシップに全国公開された。 1926年(大正15年)、マキノ・プロダクションは等持院撮影所を東亜キネマに明け渡し、新たに御室撮影所を建設し、再独立した。同年、『江戸怪賊伝 影法師』を寿々喜多がセルフリメイクしてオリジナルシナリオを再び書き下ろし、『影法師捕物帳』とタイトルも改め、主演は阪東妻三郎から市川右太衛門に変更し、再び二川が監督した。第2作『影法師捕物帳 前篇』はマキノが自主配給し、前篇を元号が昭和に改まった同年12月31日、マキノの正月興行として浅草・千代田館をフラッグシップに全国公開された。『影法師捕物帳 後篇』は、翌1927年(昭和2年)4月1日に同様に公開された。 1929年(昭和4年)7月25日、マキノ・プロダクションを率いた牧野省三が死去し、長男のマキノ正博(のちのマキノ雅弘)を中心とした新体制下で、続篇として第3作『続影法師 狂燥篇』は製作された。三たび寿々喜多がオリジナルシナリオを書き、二川が監督する。主演は、阪東妻三郎も市川右太衛門も独立しており、沢村国太郎が務めた。『続影法師 狂燥篇』は、同年12月31日、マキノの正月興行として新宿・新宿劇場をフラッグシップに全国公開された。 現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは、この一連の作品のうち、『江戸怪賊伝 影法師』と題する16mmフィルム、64分、2,290フィート(698メートル)の上映用プリントのみを所蔵している。マツダ映画社は、この一連の作品のうち、『影法師』と題する『江戸怪賊伝 影法師』の「53分」分の上映用プリントのみを所有している。 日本のビデオメーカーのディスクプランが2008年(平成20年)7月30日にリリースを開始した「日本名作劇場」シリーズに、『影法師』と題した『江戸怪賊伝 影法師』の65分の映像が収録されたDVDがある。 最初の作品である『江戸怪賊伝 影法師』のみが、フィルム、DVDの形で現存し、閲覧が可能な作品である。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/30 06:44 UTC 版)
フランス第五共和政の第2代大統領で、現代芸術の擁護者でもあるジョルジュ・ポンピドゥーの提唱により着工され、1977年にパリ4区のポンピドゥー・センターの竣工に伴い、開館した。数多くの資料を収集、保存する。閲覧席は2200席ある。 毎年3月にドキュメンタリー映画の映画祭であるシネマ ドゥ リール(Cinéma du réel )が開催される。
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略歴・概要
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「ホームステッド・レコード」の記事における「略歴・概要」の解説
1983年にニューヨークのインディー・レーベルであったダッチ・イースト・インディア・トレーディングを親会社に、サブレーベルとして設立された。設立者はサム・バーガー(Sam Berger)。ノイズロックやポスト・ハードコアといったオルタナティヴ/アンダーグラウンド・ロックシーンのアーティストを多く輩出した。1996年に廃業。 この項目は、音楽に関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者を求めています(ポータル 音楽/ウィキプロジェクト 音楽)。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 16:20 UTC 版)
2004年3月、名古屋芸術大学の大学祭の時に集ったメンバーで結成。 バンド名の由来はお菓子の「プリン」と「グミ」から。 2006年2月、ミニアルバム「ミズノイズ」でインディーズデビュー。 2008年4月、キューンレコードよりミニアルバム「yes, we are.」でメジャーデビュー。 2012年4月18日、公式サイトにて同日付での解散を発表。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/06/14 09:33 UTC 版)
1958年(昭和33年)、第1回「日劇ウエスタンカーニバル」にウエスタン・キャラバンのメンバーとして参加、1960年(昭和35年)にテイチク・レコード(現在のテイチクエンタテインメント)から『ひとりぼっちで』でデビュー、B面だった『スタコイ東京』で注目を浴びた菊地正夫が、1963年(昭和38年)に移籍した東芝レコード(現在のEMIミュージック・ジャパン)からリリースしたシングルレコードの1枚である。 『スタコイ東京』、『ダッキャ・ダッキャ節』同様の「民謡ロック」系の楽曲で、作曲の文れいじは当時クラウン・レコード専属作家であった菊地正夫の実兄・北原じゅんの別名。1966年(昭和41年)1月、菊地が「城卓矢」に改名してリリースした『骨まで愛して』の前史として存在する楽曲である。 『アホカイ節』は、1975年(昭和50年)、キングレコードから発売された原みつるとシャネル・ファイブのライヴアルバム『シャネル・ファイブ・イン・サッポロ』で、『あほかい節』のタイトル、同バンドの梅村良一の編曲により原の歌唱でカヴァーされ、同バンドの原みつるが平田満としてソロデビューした1976年(昭和51年)、同じくキングレコードから発売された平田満+シャネル・ファイブのアルバム『愛の狩人』で、『あほかい節』のタイトル、土持城夫の編曲により原改め平田に再びカヴァーされている。のちに時期は不明であるが、ALL STRAS ORCHESTRAが『アホカイ節』のタイトルでカヴァーしている。
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略歴・概要
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同社の最初の撮影機は、1917年(大正6年)にジョン・E・レナードが設計・特許取得したもので、1920年(大正9年)、それはミッチェルスタンダード撮影機として知られることになる。遊星連動式の可変開角度シャッター(英語版)(合衆国特許1,297,703号)と、ユニークなラック・オーヴァー設計(合衆国特許1,297,704号)を備えたものであった。 ミッチェル社は、テクニカラー式の三色法カメラのための機械部分を供給し(1932年)、他の65mmフィルム(70mmフィルム)やビスタビジョン改造機を供給し、後には、ノーマルスピードにも高速度撮影にも堪えうる完全な65mmフィルム用撮影機やビスタビジョン用撮影機を供給した。 三頭付の背景板式映写機は、テクニカラーの三色法処理に発展した。ミッチェルピン登録処理映写機(MPRPP)の初期の1台は、『風と共に去りぬ』(1939年)で使用された。シリアルナンバーは2番であった。このシステムは、ブルーバックあるいはグリーンバック撮影と張り合える時代であった1990年代にも使用された。 1953年(昭和28年)3月、ジョージ・アルフレッド・ミッチェルは、ミッチェル撮影機の設計・開発および映画撮影の分野における継続的・支配的な存在に対して、第25回アカデミー賞でアカデミー名誉賞を受賞している。 米国でも日本でも、大型のミッチェル撮影機が愛用された。日本の松竹蒲田撮影所にミッチェル撮影機が導入されたのは、1928年(昭和3年)であった。 ジャン=リュック・ゴダールは、『はなればなれに』『男性・女性』ではアリフレックスと併用して、『アルファヴィル』ではカメフレックス(フランス語版)と併用して、『万事快調』『女は女である』ではロケではカメフレックス、スタジオ撮影ではミッチェルを使用している。『女と男のいる舗道』ではミッチェルだけで撮った。『ベトナムから遠く離れて』(1967年)の第6章『カメラ・アイ』でゴダールとともに登場するのがミッチェル撮影機である。小津安二郎もミッチェルNC型撮影機を愛用しており、2003年(平成15年)10月23日に発行された小津安二郎生誕100年の記念切手『映画監督青春の地』は、小津がミッチェル撮影機とともに映る写真を80円切手にデザインしている。 1969年(昭和44年)3月、ミッチェル社は、トッドAO(英語版)とともに、第41回アカデミー賞でアカデミー科学技術賞を受賞している。 1985年(昭和60年)、リー・インターナショナル(英語版)に買収されて消滅した。
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「Dream Farm」の記事における「略歴・概要」の解説
2010年11月6日放送開始。パーソナリティーは、帯広市出身のアーティスト「友章」。性別、年齢を問わず「夢」を追いかける人々と、夢を追い続けることの不安や挫折などといったテーマを取り扱いながら、友章の楽曲を紹介していくというスタイルであった。 しかし2013年1月上旬、友章が体調不良により入院したため、以降はサポートメンバーから「エフェクター職人」テッシーこと手島正弘がピンチヒッターを務めているが、同年2月2日、友章が急死。死後最初となる同年2月9日の放送にて友章が急死したこと、生前の「友章の好きな音楽を紹介し、共有していく」という当番組のコンセプトを、今後も引き継いでいくことが発表された。同年3月2日の放送では、ゲストに友章の実兄・加藤祐功氏(当番組のスポンサーであるルーキーファーム代表取締役社長)を招いて、緊急入院の様子や死の直前の様子などが語られた。祐功氏はそのまま3月中の番組にゲスト出演し、友章が音楽活動を始めるきっかけとなったエピソードや楽曲を紹介した。 2013年3月1日に都内で行われた、友章のお別れ会の模様等を収録したDVDを製作し、遠方で行けなかったファンのためにプレゼントすることが発表された(先着順、既に受付終了)。 年度末となる3月30日の放送にて、4月以降はタイトルを「Dream farm」に改め、引き続き夢を追い求める人々と共に番組を作っていくことが発表された。4月の放送以降、加藤祐功氏が準レギュラーとして主に番組後半に登場。ルーキーファームで取り扱う食品を紹介したり、祐功氏が親しんでいた音楽を紹介するコーナーがある。 友章の死後一年となる、2014年2月1日の放送では、祐功氏より「友章から君へ」と題したメモリアルアルバムの製作が佳境に入っていることが報告された。このアルバムは、友章の既発表曲や、パソコンに残されていたタイトルもない音源などを収め、採算度外視で2枚組、3千円程度に収めるべく製作が進んでいるとのこと。 ・2014年12月17日 インディーズという形で2枚組CD「君へ…」が発売された。味想百盛や玉光堂などで買えます。通販もOK ・2015年12月27日終了した。土曜日の朝にやっていた「MOVIE ACCESS」が、この時間帯にやるこ とになった
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「ラ・パロマ (映画)」の記事における「略歴・概要」の解説
1972年(昭和47年)、『今宵かぎりは…』を監督してスクリーンデビューしたダニエル・シュミットの劇場用映画第2作である。デビュー作に引き続きイングリット・カーフェンを主演に起用、相手役はおなじく同作に出演したペーター・カーンを起用した。 タイトルの『ラ・パロマ』はカーフェン演じる娼館の歌手ヴィオラの通称であり、スペインの作曲家セバスティアン・イラディエルが作曲したハバネラの楽曲『ラ・パロマ』(1860年)に由来する。 DVDは、日本でのみリリースされており、2001年(平成13年)にパイオニアLDC(現在のジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン)が発売したが、2010年(平成22年)現在は廃盤である。
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大衆的な製品として、安価な材質を用い、簡素化された製品であり、同一の構造でも品質にばらつきが多くみられる製品も多い。その構造ゆえ、一般的なメーカー製カメラと比べて歪み・ぼけ・現実とかけ離れた色調が生じるなど、特殊な写りをみせる製品が少なくない。工業製品としてみれば欠陥ともいえるその奇妙な光学効果を、一部愛好者などが逆に利用した写真が発表され、芸術関連の分野で賞を得ることも生じ、それらの評価で人気に火がついた。現在でも強い支持を受けている。 「代表的なトイカメラ」とされるホルガは、レンズがプラスティック製であり、「世界で唯一魂をもつカメラ」「キング・オヴ・トイカメラ」「カルトカメラ」と評される。ホルガには、プラスティックレンズとガラス製レンズの2種類があり、前者で撮影した写真は、四隅が暗部になる特徴がある。写真家の藤田一咲は、1959年(昭和34年)に日本で発売された小型・軽量、ハーフサイズの普及型写真機オリンパス・ペンにも、トイカメラに似た開発思想がみられると指摘する。 1992年(平成4年)にオーストリアのウィーンで始まったムーヴメントとしてのロモグラフィーは、1984年(昭和59年)に大量生産が開始されたソビエト連邦(現在のロシア)製の写真機ロモLC-A(英語版)をその中心に据えている。ロシアでの生産が終了した後の2006年(平成18年)、ロモグラフィーは、同機のレプリカとして「ロモLC-A+」の製造販売を開始した。ロモグラフィーは、2011年(平成23年)、同社初の撮影機「ロモキノ」の製造販売を開始し、トイカメラは動画の時代に入った。ロモグラフィーは自社ブランドカメラを「トイカメラ」と呼んでいないが、同社製のフィルムカメラは多くがトイカメラの範疇に入る製品である。 使うフィルムについては様々で、120フィルム・135フィルムを中心に、110フィルム使用のものや、オプションでインスタントフィルムが使えるものもある。110フィルムは一時期生産が終了したため、同フィルムを使うトイカメラも市場から消えたが、近年のフィルム復活に伴い、再び製品が流通するようになった。 根強いトイカメラの愛好家のために開発された携帯電話のアプリではトイカメラ特有の歪み・ぼけ・色調等の独特の光学効果を再現している。
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クロス現像のもつ効果は、コダックの指定する標準的な現像方法であったC-22現像(英語版)(カラーネガ現像)とE-4現像(英語版)(カラーリバーサル現像)の時代、少なくとも1960年代には、多数の異なる写真家たちがそれぞれべつべつに発見している。『ナショナルジオグラフィック』に掲載された、宇宙飛行士のアラン・シェパードによりエクタクローム(英語版)で撮られた写真が、C-22現像されたものであった。この写真は、マスキングされ修正されて『ライフ』と『ナショナルジオグラフィック』の両誌に掲載された。 現在では、ネガ現像ではC-22現像に代わり一般的となったC-41現像、ポジ現像ではE-4現像に代わり一般的となったE-6現像が使われる。 一般に、クロス現像の結果は基本的に次のようになる。 カラーリバーサルフィルムでC-41現像を行うと、リバーサルフィルムの無色フィルムベースの上にネガ像が得られる。 カラーネガフィルムでE-6現像を行うと、ネガフィルムのオレンジ色フィルムベースの上にポジ像が得られる。 クロス現像は、ファッション写真やミュージシャンを撮影した写真にみられ、ローファイ写真(英語版)ブームによって注目された。2005年(平成17年)公開、トニー・スコット監督の映画『ドミノ』は、カラーリバーサルフィルムで撮影され、クロス現像処理されている。ジェイムズ・イーヴズとヨハネス・ロバーツ(英語版)とが共同監督した『ヘルブリーダー』(Hellbreeder, 2004年、日本未公開)でも、カラーリバーサルフィルムで撮影され、クロス現像処理されている。
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dr5クローム現像は、現像プロセスの5回目の転生であり、実験によってたどり着いたものである。リバーサルフィルムの現像方法が一般に知られているのに対して、dr5クローム現像は、企業秘密 (trade secret) によって独占権を守られている。プライヴェイトには1998年までにはこの現像法は完成しており、短期間のうちにアメリカ合衆国カリフォルニア州ロサンゼルスにあるA&Iのラボと共同チームが組まれた。dr5クローム現像は、1999年には、「'99 フォト・エクスポ=プラス」「エクスポ・レヴュー」において「ベスト・ニュー・プロダクト」を勝ち取った。 2001年には、dr5クローム・ラボは、38番目の独立系ラボを開き、ニューヨーク市では8番目であった。同ラボは、イタリアのテクノラボ(Tecnolab)がdr5クローム・ラボのために特別に製作した現像機を使用した。2005年、dr5クローム・ラボは、コロラド州デンバーに移転した。 dr5クローム現像では、コダックのトライXやフォマ・ボヘミア(チェコ)のフォマパンRといった、白黒リバーサルフィルムのスーパー8や16mmフィルムの現像も可能である。
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俳優の平田満と同姓同名の別人、歌手平田満のヒット曲。累計シングル売り上げ10.1万枚。 楽曲的には「東北弁ラップの先駆である」とされるが、実際は北海道方言である。アフロヘアにツイード上下のイタリアンスタイルで登場し、渡辺宙明節にも似たファンクなディスコサウンドをバックに東北弁(北海道方言)で語り、サビでは正調の民謡を歌い上げる。ひとりの主人公が複数のシチュエーションでくりひろげる艶笑ショートコント集のような構成は、1950年代後半から1970年代前半に流行した映画のスタイル「イタリア式コメディ」がベースになっている。2枚目のシングル『東村山音頭』(B面『ビューティフル・サンデー』)を挟んだ3枚目、『もしもお許し願えれば女について話しましょう』がエットーレ・スコラ監督の映画『もしお許し願えれば女について話しましょう』(1964年)のタイトルの引用であることから、平田満へのイタリア映画の影響の度合いがうかがえる。 作曲の「金野孝」は、札幌出身(生地は旧満州)の作曲家浜圭介の本名である。作詞の本野丈弾の正体は不明である。 『愛の狩人』のタイトルは、ダスティン・ホフマン主演による映画『卒業』(1967年)で知られる、マイク・ニコルズ監督の1971年の作品『愛の狩人』からの明らかな引用である。また、本作『愛の狩人』のジャケット写真の別テイクが『もしもお許し願えれば女について話しましょう』に流用された。『東村山音頭』のジャケットはイラストである。 B面の楽曲『札幌 - 長崎 おんな達』のタイトルは、テレビドラマ『Gメン'75』の第27話『東京 - 札幌 刑事の道』(監督鷹森立一、1975年11月22日放映)の引用である。平田のソロデビューの前年、1975年(昭和50年)に、平田の率いたバンド「原みつるとシャネル・ファイブ」がリリースしたライヴアルバム『シャネル・ファイブ・イン・サッポロ』を収録した札幌のクラブ「フレンチカンカン」(同市中央区南4条西3丁目、現存せず)は、同テレビドラマの同話のロケ舞台となり、同クラブが劇中に実名で登場した。 CD化は、同シングルの楽曲が収録されたアルバム『愛の狩人』(「平田満+シャネル・ファイブ」名義、1976年)がまずCD化されておらず、表題曲『愛の狩人』のみが、かつてコロムビアファミリークラブのCD-BOX『ゴールデン歌謡大全集』に収録されたが、現在は同ボックスはカセットテープのみである。
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「胸叩」は、上半身裸の人物が、自らの手で自らの胸を叩き、騒がしく叫びながら民家等をめぐり歩く、という芸能である。『絵巻物と民俗』の五来重によれば、そもそも「胸叩」は「山伏の苦行」の姿であるという。 室町時代、15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、「鉦叩」とともに「胸たたき」(胸叩)として紹介され、粗末な編笠を被り無精髭を生やし、上半身裸で地面に座り込む姿が描かれている。この歌合に載せられた歌は、 宿ごとに 春まゐらむと ちきりしは 花のためなる むなたゝきかな というもので、門付で訪れる家々で「春まゐらむ」(「春が来るだろう」の意)と予祝して回る「胸叩」を歌っている。五来重によれば、この時期の「胸叩」は、本来の「山伏の苦行」であることが忘れられてしまっている段階である、という。同歌合に描かれる腰につけた容器状のものは「餌畚」(えふご、鷹狩の際に鷹の餌や弁当を入れる容器)である。 『国史大辞典』(吉川弘文館)では「胸叩」を「節季候」(せきぞろ)とイコールであるとし、『日本国語大辞典』(小学館)では「節季候の類」としている。確かに「胸叩」の唱える「祝い言」に「節季候」があるが、「節季候」の芸能者たちはみな覆面をしており、衣裳・装束、人数編成等も大きく異なっている。『日本国語大辞典』によれば、「胸叩」は、歳末の物乞いの一種で、胸を叩き「節季候」と唱えながら門付をし、金品を乞う者であるとする。『郷土史大辞典』も、中世の「胸叩」が戦国時代・江戸時代の「節季候」の前身であろうと記述している。「節季候」は、近世になって登場したが、歳末に上半身裸で胸を叩く「胸叩」は、近世になっても「節季候」と平行して続いており、「胸叩=節季候の前身」説は、「胸叩」の大道芸、正月に手を叩く祝言芸との混同ではないかという指摘もある。 「節季候」を参照 江戸時代(17世紀 - 19世紀)に入り、「胸叩」の門付は盛んに行われた。「胸叩」たちの芸のうちから起きた俗謡に『浮世叩』(うきよたたき)がある。江戸時代にあって、「浮世叩」とは、編笠を被り扇で拍子をとり、俗謡『浮世叩』を歌いながら行う門付、およびそれを行う者の呼称にもなった。17世紀に現れた芸能集団「乞胸」の先駆的形態が「胸叩」である、とされる。「乞胸」となった者たちは、そもそも武士階級であった浪人であり、慶安年間(1648年 - 1651年)に「町人階級」(職人・商人)に下げられた上で、非人頭車善七の支配下に入った。1871年(明治4年)、「乞胸」の名称は廃止となった。 「乞胸」を参照
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10世紀日本での浄土教の民間布教僧であった空也(903年 - 972年)は、都市から地方へと庶民を対象に「阿弥陀信仰」と念仏を広めたが、踊念仏あるいは念仏踊を行った形跡はなく、「空也上人像」に描かれる、鉦を叩き口から如来すなわち念仏を吐く姿は、伝承によるものとされる。 「鉢叩」のスタイルは、鉢あるいは瓢箪を手にして叩きながら、念仏や、平易な日本語によって仏やお経などを讃える和讃を唱え、あるいは歌いながら、念仏踊を行って金銭を乞うものである。京都の紫雲山極楽院光勝寺・空也堂(現在の京都市中京区亀屋町)の「鉢叩」たちが、「空也忌」とされる旧暦11月13日から旧暦の大晦日までの48日間行うものが知られる。実際の空也が亡くなったのは、旧暦9月11日(天禄3年、グレゴリオ暦972年10月20日)であり、「鉢叩」の伝承とは異なっている。 15世紀に尋尊が記した日記である『大乗院寺社雑事記』によれば、大和国奈良の興福寺では、同寺に所属する「声聞師」たちが、「猿楽」、「鉦叩」、「猿飼」等と同じ「七道者」として、「鉢叩」たちを支配していた。 江戸時代には、門付芸のひとつとして行われるようになった。すでに冬の風物詩となっており、松尾芭蕉は「長嘯の墓もめぐるか鉢叩」と詠んでいる。 現代においては、「鉢叩」自体は廃れたが、「空也念仏踊」「六斎念仏」と称され、「壬生六斎念仏踊り」(京都)、「無生野の大念仏」(山梨)は国の重要無形民俗文化財に指定されている。福島県会津若松市河東町広野にある八葉寺等にも残されている。
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「忠次売出す (1935年の映画)」の記事における「略歴・概要」の解説
本作は、伊丹のオリジナルシナリオ執筆作、監督作の初めてのリメイクであった。その後、脚本専念後の脚本作で唯一生前に映画化された『無法松の一生』(監督稲垣浩、1943年)が、1958年(昭和33年)に稲垣によるセルフリメイク、1965年(昭和40年)に三隅研次が監督してリメイクされ、没後映画化の脚本作『手をつなぐ子等』(監督稲垣浩、1948年)が、1964年(昭和39年)に『手をつなぐ子ら』の題で羽仁進が監督してリメイクされ、1986年(昭和61年)には監督作『國士無双』(1932年)が『国士無双』の題で保坂延彦が監督してリメイクされている。 大映京都撮影所製作、八尋脚本による本リメイクにおける最大の変更点は、タイトルのほか、勝新太郎演じる主人公が長岡忠次(国定忠治)ではないこと、前作において忠次のメンター的役割をもった九鬼伝蔵の名も十河十兵衛に変更されている点である。主人公が「若い馬子」であるという点等、むしろ一致点は多い。伊丹のオリジナルシナリオをリメイクにあたって脚色した八尋不二は、原作が製作された時期に、新興キネマ京都撮影所に脚本家として在籍していた人物である。本リメイク作を監督した荒井良平は、原作が製作された時期には日活太秦撮影所(のちの大映京都撮影所、現存せず)で昇進3年目の監督であった。いずれの撮影所も、1942年(昭和17年)の戦時統制で合併し、大映京都撮影所に統合されている。原作で百々村紋二を演じた荒木忍は、本リメイク作にも出演し、原作で東良之助が演じた島村の利三郎を演じている。その東良之助も、役名は不明であるが、本リメイク作にも出演している。本リメイク作の舞台は、原作の上野国佐位郡国定村(現在の群馬県伊勢崎市国定町)ではなく、追分宿(現在の長野県北佐久郡軽井沢町追分)である。 本作公開当時のキャッチコピーは、 喧嘩はまかせろ! 恋は貰うぜ! 花と売り出す馬方仁義、命をまとの殴り込み! であった。 2013年(平成25年)1月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは、本作の上映用プリントを所蔵していない。本作のビデオグラムも発売された形跡がない。
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慶長年間、1610年前後に現れた、大鳥居逸兵衛(大鳥逸平、1588年 - 1612年)ら一党が、江戸のかぶき者の先駆とされる。中間・小者といった下級の武家奉公人を集めて徒党を組み、異装・異風、男伊達を気取って無頼な行動をとる等の「旗本奴」の様式は、大鳥居一派から引き継がれている。1612年8月(慶長17年7月)、幕府は、大鳥居を筆頭に300人を捕らえ、斬首した。 発生の原因として「戦国の遺風」であるとか、「旗本の不満」が噴出したものといった説が挙げられるが、実際には旗本そのものよりも、旗本に奉公する者中心であったとされる。しかし、「大小神祇組」(だいしょうじんぎぐみ)を組織した水野十郎左衛門(水野成之、1630年 - 1664年)は、譜代の名門旗本・水野成貞の長男であり、それに加担した坂部広利も横須賀衆で先手組頭を勤めた5千石の大身旗本であり、さらに「かぶき大名」と呼ばれ、江戸の町で「夜更けに通るは何者か、加賀爪甲斐か泥棒か」と恐れられた加賀爪直澄(甲斐守)は徳川家光の小姓やのちには寺社奉行すら務めたれっきとした高坂藩主の大名であった。 「旗本奴」は、水野の「大小神祇組」のほか、「鉄砲組」(てっぽうぐみ)、「笊籬組」(ざるぐみ)、「鶺鴒組」(せきれいぐみ)、「吉屋組」(よしやぐみ)、「唐犬組」(とうけんぐみ)といった合計6つの団体が知られ、これを「六方組」と呼んだ。「六方組」の活動期は、万治年間(1658年 - 1660年)から寛文年間(1661年 - 1673年)までの間とされる。「唐犬組」の頭目は町奴の唐犬権兵衛であるが、「六方組」に含まれている。「旗本奴」といえば、白柄の刀、白革の袴、白馬に乗った「白柄組」(しらつかぐみ)であるが、水野の「神祇組」を指す説、「吉屋組」を指す説の2説ある。 「旗本奴」と「町奴」との間には抗争が絶えず、なかでも、のちに河竹黙阿弥が書いた歌舞伎狂言『極付幡随長兵衛』(1881年10月初演)に描かれた、町奴・幡随院長兵衛を水野十郎左衛門が仕組んだ無防備な風呂場での暗殺、長兵衛側からの水野への仇討ちの件が著名である。武家出身の女剣豪・佐々木累(佐々木留伊)と旗本奴「白柄組」とが渡り合う話も知られている。 異装・異風とよばれるファッション面だけでなく、独特な「六方詞」を生み、そのことばで詠む「六方俳諧」(ろっぽうはいかい)という文化を生んだ。 「#六方詞」を参照
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「デイヴ平尾&ゴールデン・カップス」の記事における「略歴・概要」の解説
1972年(昭和47年)1月、ザ・ゴールデン・カップスが沖縄で解散したあと、1973年(昭和48年)ころに、デイヴ平尾が、京都・河原町にあったサパークラブ「ママリンゴ」(現在閉店)等での営業のために結成した。当初、バンド名が定まっておらず、ママリンゴ、横浜よいどれバンド、ニュー・ゴールデン・カップスとも名乗った。 メンバーは、元ザ・ゴールデン・カップスの平尾、柳譲治(現柳ジョージ)、1969年(昭和44年)末にカップスを脱退して結成したスピード・グルー&シンキの加部正義(現ルイズルイス加部)、元グレープジュースで、エモーション、ゴジラ、初期のハルヲフォン(のちの近田春夫&ハルヲフォン)と近田春夫とともに歩んだ金沢ジュンの4人で、のちに、ダウン・タウン・ブギウギ・バンドを脱退した蜂谷吉泰が加入した。 旧カップス時代の曲等を演奏した。当時の音源は残っていない。1974年(昭和49年)、平尾がソロとなって活動停止した。のちに平尾がテレビドラマ『悪魔のようなあいつ』(1975年6月6日 - 9月26日)で歌った挿入歌『ママリンゴの唄』は、この当時のことがモチーフとなっている。
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「マイ・シスター・アイリーン (1955年の映画)」の記事における「略歴・概要」の解説
1940年(昭和15年)12月26日、ブロードウェイのビルトモア劇場(現在のサミュエル・J・フリードマン劇場)で初演された、ルース・マッケニーの小説を原作としたジョセフ・フィールズとジェローム・チョドロフの戯曲『マイ・シスター・アイリーン』が原作である。監督のリチャード・クワインは当時は俳優で、初演の舞台にフランク・リッピンコット役で上がっており、舞台の2年後の1942年(昭和17年)9月24日に公開されたアレクサンダー・ホール監督による初の映画化の際にも、リッピンコット役で出演している。本作はその本格リメイクである。 本作のコレオグラファーはロバート・フォッシー、のちに映画監督になるボブ・フォッシーで、本作にも俳優として、かつてクワインが演じたリッピンコット役を演じている。ロケーション撮影をニューヨークで敢行したほか、カリフォルニア州ロサンゼルスの北部、バーバンクのコロムビア/ワーナー・ブラザース牧場でも行なった。 本作は、1955年(昭和30年)9月22日、全米で封切られ、フランスでは1年後の1956年(昭和31年)8月29日にパリで公開されている。本作を公開時にパリで観た、当時長篇デビュー前ののちの映画監督のジャン=リュック・ゴダールが、映画批評誌『カイエ・デュ・シネマ』誌上で発表した「1956年のベストテン」に本作を第10位にランクインさせている。日本では、当時公開されなかったが、コロンビア映画の版権を保有するソニー・ピクチャーズエンタテインメントが2005年9月28日、2009年6月24日にDVDとして発売した。
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略歴・概要
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1923年(大正12年)11月、東京府荏原郡大崎町上大崎621番地(現在の東京都品川区上大崎2丁目、目黒通り沿い山手線内側)、目黒駅東側駅前に松竹キネマによって、洋画専門館として開業した。開業時の活動弁士は徳川夢声である。翌1924年(大正13年)5月、浅草公園六区の千代田館から大辻司郎が移籍した。このころ、同館の楽隊を波多野鑅次郎のハタノ・オーケストラがつとめ、学生だった紙恭輔がいた。 1926年(大正15年)、新宿武蔵野館に代わり、浅草公園六区の帝国館とならび松竹洋画のフラッグシップ館となる。 1931年(昭和6年)10月15日、活動弁士の大蔵貢が同館を買収した。同日、従業員9名を解雇したところ、9名全員が関東合同労働組合映画支部に加入し、争議が起こり、同年12月には解雇者は2名に留まり、600円の解決金と2名の再就職に尽力することを条件に円満解決した。 1932年(昭和7年)10月、榎本健一のピエル・ブリヤントを脱退した北村武夫による軽演劇の劇団「フォーリー・ベルジェール」(のちの黒猫座)が同館で旗揚げ公演を行なう。同年の時点では、東京府荏原郡大崎町方面の映画館は当館のほか、大崎館、大崎キネマ、五反田館、龜齢館の計4館が存在していた。 1937年(昭和12年)、大蔵による経営は行き詰まり、同じ活動弁士出身で、早稲田全線座を経営する樋口大祐の全線座が同館を買収、再開業する。 1945年(昭和20年)4月15日、第二次世界大戦末期の空襲で焼失した。 戦後10年が経過したのち、1955年(昭和30年)に目黒駅の反対側に、目黒金龍座および目黒オリオン座として開業した映画館が、1976年(昭和51年)以来、「目黒シネマ」と名乗っているが、これは「目黒キネマ」ではない。
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1914年(大正3年)3月17日、東京の小林喜三郎の「常盤商会」と大阪の山川吉太郎の「東洋商会」が協力して、「カラー映画」の製作・配給をすべく創立した天活だが、同年9月、小林も山川も一度辞職し、天活の興行権を東西に分けて委任されるべく、小林は「小林商会」を設立し、山川が設立したのがこの「山川興行部」であった。 どちらもそれぞれ独自の映画製作や「連鎖劇」興行を行ったが、小林商会が天活から多くの現代劇の俳優を引き抜いたのに対し、山川はあらたな人材を発掘、製作と興行を打った。 また同時期に、「天活」での活動に平行して山川は大阪で一大事業を行っていた。「ミナミの大火」(1912年1月16日)被災の2年後の1914年5月、南海電気鉄道社長に声をかけられ、現在の千日前通にあたる電車通りに新しくできた「千日前交差点」の南西隅に、劇場・演芸場・レジャーの殿堂「楽天地」を建設した。同年7月にオープンし、大盛況を極めた。「山川興行部」製作の映画もこの楽天地で上映された。 1917年になると小林商会はまるでライヴァルであるかのように「天活」に挑戦してきたが、1917年内に小林商会は倒産、「山川興行部」も興行に専念した。山川自身は「天活」に復帰し、「天活」が1916年に建設、開所した大阪郊外の「天然色活動写真小阪撮影所」(現在の東大阪市)を稼動させ、「山川興行部」で製作したような映画を、同じ俳優たちで、「天活大阪作品」として製作していった。
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1895年(明治28年)12月、大谷竹次郎が京都・新京極に「阪井座」のオーナーになったときを、現在の「松竹株式会社」は創業とみなしているが、1902年(明治35年)1月、兄の演劇興行者・白井松次郎とともにその名をとって「松竹」と「大阪朝日新聞」が報道し、松竹合資会社を設立、さらに松竹合名会社と改称した演劇興行会社「松竹」が、1920年(大正9年)2月、東京市京橋区築地3丁目9に「松竹キネマ合名社」を設立、映画の製作・配給を発表を発表するとともに、「2-3万坪の撮影所用地」と「人材」を募集する広告を新聞に出した。 結局、東京府荏原郡蒲田村(現在の東京都大田区蒲田5丁目)の「中村化学研究所」の跡地9,000坪を買収することとなり、同地に同年6月、「松竹キネマ蒲田撮影所」をオープンした。同撮影所の開設第1作は、同年11月1日に松竹直営の「歌舞伎座」で公開された3巻ものの短篇映画『島の女』であるが、同作の公開のちょうど1週間後の同年11月8日、東京市本郷区に設立したのが、この「帝国活動写真株式会社」である。風間礼助、小林喜三郎らが取締役に名を連ねていたことから、興行の会社であることがわかる。 そのわずか5か月後の1921年(大正10年)4月、「帝国活動写真株式会社」は、社名を「松竹キネマ株式会社」に改称、「松竹キネマ合名社」を吸収合併した。同社は本社を本郷区から、旧松竹キネマ合名社の所在地に移転した。この「松竹キネマ株式会社」は、のちの1936年(昭和11年)1月には蒲田撮影所を閉鎖・売却して、大船撮影所に移転し、その翌年の1937年(昭和12年)には、「松竹興行株式会社」を吸収合併し、社名を「松竹株式会社」と改めて、現在に至ることになる。したがって、現在の松竹の「設立年月日」は、「帝国活動写真株式会社」の設立年月日となる。
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1969年(昭和44年)7月8日、日活撮影所の製作部長だった青木藤吉(1922年 - 2009年)を社長として、創立する。取締役には、同撮影所の企画者だった森山幸晴ら日活出身者が就任し、相談役には北海道テレビ放送の岩沢靖、日活撮影所長を1965年(昭和40年)に更迭された山崎辰夫を迎えた。1974年(昭和49年)前後までは、山本直純が取締役にいた。 1970年(昭和45年)10月31日に東宝が配給して公開された和田嘉訓監督の『銭ゲバ』が、記録にみられる最初の作品である。以降、倒産まで、劇場用映画はすべて東宝と製作・配給で提携した。翌1971年(昭和46年)、従来日活が手がけていた16ミリフィルム撮影による生活情報番組(連続短篇ドキュメンタリーテレビ映画)である『日曜大工110番』を引き継いで、倒産によって打ち切られるまで同社が製作した。 1972年(昭和47年)1月19日、日活が喫茶店等の非劇場用VTRとして製作販売した作品が、刑法175条の「わいせつ物頒布等の罪」に問われて摘発されるが、このなかに、近代放映が受注製作した『ポルノコンサルタント』および『ブルーマンション』(監督榛谷泰明)が含まれていた。同件に関してはのちに1975年(昭和50年)11月、東京地方裁判所で無罪となるが、1978年(昭和53年)に罰金刑の有罪判決が下されている。 1976年(昭和51年)1月30日、倒産する。俳優等への出演料未払金が492万円にのぼり、日本芸能マネージャー協会(現在の日本芸能マネージメント事業者協会)は同年6月4日、同社取締役社長の青木藤吉と交渉し、債権者の東京俳優生活協同組合との間に債権確認書を交わすこととなった。 2012年(平成24年)7月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは、同社の製作した劇場用映画を所蔵していない。早稲田大学演劇博物館は、同社の製作したテレビ映画の印刷稿や企画成立・非成立をふくめた多くの企画書を所蔵しており、立命館大学のシナリオ検索システムで検索、表紙等の閲覧をすることが可能である。『百万人の大合唱』は、2006年(平成18年)にロケ地の郡山市の民間団体がDVDとして自主製作を実現し、発売した。
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略歴・概要
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「フォーエヴァー・モーツアルト」の記事における「略歴・概要」の解説
本作のタイトル、英語の「For Ever Mozart」は、仏語の「pour rêver Mozart」(「モーツァルトの夢をみるために」の意)に聞こえるように意図的に仕掛けられたバイリンガルな駄洒落である。 おびただしい映像と音響の引用で構成される大作映画『ゴダールの映画史』の時代(1988年 - 1998年)のまっただなかで撮られた本作も、映像と音響の直接の引用が多く行われている。 ワールドプレミア上映は、1996年の第53回ヴェネツィア国際映画祭である。日本では、2002年(平成14年)6月29日に劇場公開された。「フォー」と「エヴァー」を2単語にせず、「モーツァルト」ではない、本項の表記「フォーエヴァー・モーツアルト」は日本公開時の正式邦題である。
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平群で生まれ育つ。平群町立平群中学校卒業。大学進学を機に京都市に引越し京都大学工学部建築学科卒業。以来、京都に在住。伏見のテラスハウスに長く住んでいた。同大学工学部修士課程、博士課程を経て、1974年に京都大学の助手になる。博士課程時代は巽和夫のゼミ生として研究活動に取り組んでいた。後に准教授になり、2001年に鳥取環境大学の教授に就任。元々は鳥取環境大学環境デザイン学科の教授だったが、2009年4月から環境マネジメント学科の教授に移行。現在は岡崎誠と共に大学の副学長を務めている。京大工学部出身だが、長男が画家であるため、東樋口の家系は代々芸術系の家系と言っても良い。建築・景観等の分野で活躍している。 大学教授の他にも、特定非営利活動法人「社長長期保障支援センター」・「古材文化の会」の理事長も行っており活動の範囲は幅広い。 京都大学の助手になった翌年の1975年4月22日には一卵性双生児の息子(共に奈良県生まれ)が誕生しており、うち1人の息子は画家になり、東京藝術大学の版画の助手をしている。もう一人の息子は九州大学の工学部に進学し、大学院生時代に学会発表を行った(建築関係ではなく、化学を専攻していた)。妻は京都市立美術大学(後の京都市芸大)出身で、同大学院修士課程を修了後、京都市立銅駝美術工芸高等学校で染色を指導する教師として赴任し、画家・写真家としても活躍している。尚、妻は現在教師を定年退職し、京都を拠点に個展を開いている。東樋口本人も写真撮影が趣味であり、夫婦で海外旅行に行った際、必ず写真撮影をしている。 奈良出身ではあるが、活動の拠点は京都であるので、現在は奈良とはあまり関係ない。
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叙事詩的映画は、一般的に「叙事詩」の語が壮大な視野をもつ映画群を指し、多くは戦争あるいは紛争・闘争の時代に舞台を置き、ときに重要な時代を包括する映画となる。歴史的舞台設定が典型であり、ファンタジーやサイエンス・フィクションの舞台設定も使用される。映画における中心的紛争・闘争は、通常、遠大な効果をもつものとみなされ、史実の流れを変えることもある。主人公その他メインキャラクターの行動が、この紛争・闘争の解決の中心となる。 叙事詩的映画はもっとも古い映画のジャンルの一つであり、1914年(大正3年)にイタリアのジョヴァンニ・パストローネ監督が撮った『カビリア』 Cabiria が初期の代表例である。3時間の上映時間をもつサイレント映画であり、後続するD・W・グリフィスのサイレント叙事詩への基礎を築いた。 本ジャンルは、1960年代に人気のピークを迎え、その時期のハリウッドは、ローマのチネチッタのような他国の撮影所との合作を頻繁に行い、スペインやモロッコ、その他のエキゾチックな場所でのロケーション撮影を行った。国際的合作ブームは、ジョセフ・L・マンキウィッツ監督の『クレオパトラ』(1963年)、アンソニー・マン監督の『ローマ帝国の滅亡』(1964年)、デヴィッド・リーン監督の『ドクトル・ジバゴ』(1965年)をもって終焉したとされる。叙事詩的映画の黄金時代が終焉を迎える前に、ソビエト連邦(現在のロシア)でセルゲーイ・ボンダルチュークが監督した『戦争と平和』(1965年)が製作され、公開された。 21世紀を迎えた現代においても、叙事詩的映画は製作を継続しているが、往時ほどの壮大なスケールで製作されるわけではなく、何千何万人ものキャストを動員するかわりにVFX効果を使用したショットを使用する。 叙事詩的映画の定義は、時代を経て拡大解釈され、歴史や時代、あるいは事件を壮大なスケール・視野で描く作品をも含むようになった。たとえば、フランシス・フォード・コッポラ監督の『ゴッドファーザー』(1972年)、ブライアン・デ・パルマ監督の『スカーフェイス』(1983年)、セルジオ・レオーネ監督の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』(1984年)、マーティン・スコセッシ監督の『カジノ』(1995年)といった犯罪映画は、かつてのチネチッタ作品と同じように叙事詩的であるとみなすのは困難であるが、批評家たちはこれらを「叙事詩的映画」としてリストアップする。1950年代から1970年代にかけての叙事詩的映画はとくに、観客がより夢中になり、よりパノラマ的な劇場体験を提供することを企図し、スコープ・サイズで撮影され、 2時間を越える「長尺映画」はすべて叙事詩的である、と多くは指摘するが、とりわけ初期のではなく現在の叙事詩的映画に関しては、この定義はたくさんの議論の余地がある。アメリカの映画評論家ロジャー・イーバートは、デヴィッド・リーン監督の『アラビアのロレンス』(1962年)についての「偉大なる映画」の記事で下記のように述べている。 映画における「叙事詩」の語は、近年では「巨額の予算のB級映画」と同義語になっている。『アラビアのロレンス』を観て思い描くのは、「叙事詩」の語が、製作費を指すわけでも労作であることを指すわけでもなく、発想とヴィジョンのサイズを指すのだということだ。ヴェルナー・ヘルツォーク監督の『アギーレ 神の怒り』が、『パール・ハーバー』なみにケータリングに金がかかったわけではないが、前者は叙事詩であり、後者はそうではない。
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1933年(昭和8年)4月、古川緑波(古川ロッパ)の発案による軽演劇の劇団「笑の王国」が設立、浅草公園六区の「常盤座」(現在のROX3)で旗揚げ公演が行われた。設立の背景には、サイレント映画の終焉とトーキーの台頭によって、徳川夢声ら人気活動弁士が職を失い、次の活路を見出さねばならなかったことがまずあげられる。次に、六区ではなく浅草公園四区・浅草公園水族館での「カジノ・フォーリー」やほとんど四区に近い新興の「玉木座」(のちの松竹演芸館、現存せず)での「プペ・ダンサント」での榎本健一らの軽演劇に対抗しうる、六区の新しい演劇を、という意図があった。 結成に参加したのは、緑波のほか、活動弁士からは、「帝国館」で鳴らした生駒雷遊、弁士から漫談家に転身した徳川夢声、夢声・緑波と「なやまし會」を結成した弁士出身の漫談家から、大辻司郎、山野一郎、井口静波、山野が松竹の川口三郎に働きかけて、日活を退社した俳優の島耕二、小杉勇、岸井明、瀧花久子ら、さらには、「浅草オペラ」出身の中根龍太郎、「カジノ・フォーリー」にいた林葉三、曽我廼家一座出身で「ピエル・ブリアント」にいた三益愛子、歌手の藤田艶子、新劇出身の清川虹子ら、不二映画社からは渡辺篤、文芸部には森岩雄、松井翠声、飯島正、内田岐三雄、鹽入亀輔、伊藤松雄、津村京村ら、演出部には村田実、田坂具隆、斎田治良らであった。同年6月には「プペ・ダンサント」が解散し、同年8月、プペにいた菊田一夫が文芸部に加入した。 「笑の王国」の演劇は、歌舞伎の演目を、めちゃくちゃに台なしにしてしまうような「アチャラカ」という手法を開発、観客を唖然とさせた。1935年(昭和10年)6月、古川緑波が脱退、同年7月には東宝専属となった。そのころ、清水金一が加入した。1936年(昭和11年)9月、菊田一夫が退団、同年11月には東宝の「古川緑波一座」へ移籍した。メンバーの入れ替わりが激しかったが、エノケンの「新カジノ・フォーリー」出身の山下三郎や酒井俊、のちのムーランルージュ新宿座の山田寿夫、金子みすゞの実弟・上山雅輔、マキノ・プロダクションの経理部長だった田丸重雄、『新喜劇』誌同人の貴島研二、山地行夫、中野実らが文芸部に、関時男、鈴木桂介、サトーロクロー、久板栄二郎、露原千草、久保栄、薄田研二、松本克平、武智豊子、花井淳子、杉寛、堀井英一らが俳優部に入団している。 1941年(昭和16年)ころからは、日本が戦時体制に入り、兵隊ものをテーマにしなければならず、検閲の通過のため、アチャラカを旨とした同劇団の主旨に反する内容にせざるをえなくなってきた。この時期のエピソードが、のちに三谷幸喜の戯曲『笑の大学』のモデルとなった。同年、大都映画が大映に統合され、同社で雑用係をしていた梅田ひろし(あした順子・ひろしのひろし) がこのころ入団している。 1943年(昭和18年)1月、「国民喜劇座」と改称、のちのリーガル天才・秀才のリーガル天才が初舞台を踏んだが、同年6月、解散した。
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略歴・概要
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「かりそめの恋 (三条町子の曲)」の記事における「略歴・概要」の解説
本シングルは、1949年に大映東京撮影所が製作した上原謙と水戸光子主演、田中重雄監督の映画『愛染草』の劇伴音楽をキング音響(現在のキングレコード)専属の飯田三郎が手がけた際に、大映がキング音響とタイアップして制作された同作の主題歌『かりそめの恋』と、映画と同タイトルの林伊佐緒の楽曲をカップリングして、同年10月9日の同作の公開に合わせ、同年11月にリリースされたシングルである。三条にとっては、前年の1948年(昭和23年)に本名の宮野信子の名でデビューし、三條町子と改名した最初のシングルである。作詞はキング専属の髙橋掬太郎、リリースナンバーはC-497である。 大津版は、大津美子のキングレコードでの最後のシングルにあたり、同曲をカヴァーすることとなった。編曲は小川寛興が手がけ、B面楽曲は1937年(昭和12年)の島田磬也作詞、阿部武雄作曲による上原敏・結城道子のデュエット曲『裏町人生』をカヴァー、同曲の編曲も小川が手がけた。リリースナンバーはEB-1071である。大津は同年、ビクターレコード(日本ビクターの音楽部門、現在のビクターエンタテインメント)に移籍する。 1971年(昭和46年)9月、テイチクレコード(現在のテイチクエンタテイメント)所属の菊池章子がカヴァーし、シングル『君待てども』のB面に収録されてリリースされた。『かりそめの恋』はキングの管理楽曲であるため、キングの二葉百合子に菊池の『岸壁の母』を提供することになり、これがきっかけで1972年(昭和47年)にリリースされた『岸壁の母』は250万枚を売り上げ、二葉の代表曲になるという結果を生む。 菊池のシングルと同年の1971年、シングル『稚内ブルース』でキングレコードからデビューした原みつるとシャネル・ファイブがリリースしたファーストアルバム『稚内ブルース』で、本作をカヴァーしている。編曲は船木謙一が行なった。 ほかにも、瀬川瑛子、八代亜紀、中村美律子、美輪明宏、川中美幸、大月みやこ、春日八郎、倍賞千恵子、森進一、北島三郎、バーブ佐竹、井手せつ子らがカヴァーしている。
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略歴・概要
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1958年(昭和33年)7月1日、中国国家化学産業局の第一映画フィルム工場として、河北省保定市に創立する。翌1959年(昭和34年)7月1日には、最初の白黒リバーサルフィルムを生産開始している。同年8月には写真用フィルムの試作、同年10月には、民生用135フィルムの試作を開始している。 1975年(昭和50年)、磁気テープの輸出を開始する。 1985年(昭和60年)、カラーフィルムの輸出を開始する。同年3月、初めて「ラッキー」を商標として使用する。1986年(昭和51年)、白黒の120フィルムおよび135フィルムの輸出を開始する。1990年(平成2年)7月4日、カラーフィルム「ラッキーデイライトBR100」が国家化学産業局の検査を通過する。1992年(平成4年)9月、第三世代のカラーフィルム「ラッキーGBR100」の開発に成功する。 1998年(平成10年)1月22日、上海証券取引所上場を果たす。企業コードは「600135」、短縮名は「Lucky film」(中国語: 乐凯胶片)である。1999年(平成11年)1月5日には、国家工商行政管理総局(英語版)から「著名商標」の認定を受ける。同年8月11日、北京新世紀認証有限公司から「ISO 9001」の認定、2000年(平成12年)3月には国家環境科学院認証センターから「ISO 14001」の認定を受ける。同年5月には、「ラッキーカラーペーパートルゥーカラーSA-2」が、中華人民共和国国家発展改革委員会から「国家革新製品」の認定を受ける。2001年(平成13年)9月1日には、「ラッキーカラーフィルム」が中国品牌戦略推進委員会から「著名製品」の認定を受ける。同年10月末、同社子会社の実務会社楽凱膠片株式会社(中国語: 乐凯胶片股份有限公司、英語: Lucky Film Co., Ltd.)が『フォーブス』誌上で、「世界一の小企業」(英語: World Best Small Company)に選ばれた。 2003年(平成15年)、コダックと資本提携を締結、20年間にわたって1億ドルの資金提供を受けることとなる。コダックは4,500万ドルをキャッシュで支払い、同社子会社「楽凱膠片」に乳剤の生産ラインを提供する予定であった。2007年(平成19年)には契約解消となった。 2010年(平成22年)の総売上は、33億人民元を計上している。 2011年(平成23年)9月5日、中国航天科技集団公司に合流、同グループ傘下企業となる。 2012年(平成24年)9月4日、カラーフィルムの生産終了を発表。
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略歴・概要
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「ヌエーヴォ・シネ・メヒカーノ」の記事における「略歴・概要」の解説
1990年代以降、2000年代に至る時代が「ヌエーヴォ・シネ・メヒカーノ」の時代である。 アルトゥーロ・リプスタイン、アルフォンソ・アラウ、アルフォンソ・キュアロン、マリア・ノヴァロらが監督したハイ・クォリティな作品群が、その嚆矢である。同時代のもっとも有名な作品は下記のとおりである。 『赤い薔薇ソースの伝説』 Como agua para chocolate : 監督アルフォンソ・アラウ、1992年 La Otra Conquista : 監督サルバドール・カラスコ、1999年 『セックス、羞恥心、そして涙』 Sexo, pudor y lágrimas : 監督アントニオ・セラーノ、1999年 『アモーレス・ペロス』 Amores perros : 監督アレハンドロ・ゴンサレス・イニャリトゥ、2000年 『天国の口、終りの楽園。』 Y tu mamá también : 監督アルフォンソ・キュアロン、2001年 『アマロ神父の罪』 El crimen del Padre Amaro : 監督カルロス・カレラ、2002年 2000年(平成12年)以降はとくに、映画監督たちはインディペンデント製作会社を設立し、もっと個人的な表現を求め始めた。ヨーロッパ映画の影響である。もっともこの傾向が顕著な作品は、 『ハポン』 Japón : 監督カルロス・レイガダス、2002年 『天国のバトル』 Batalla en el cielo : 監督カルロス・レイガダス、2005年 であり、ほかにも、 『平和の千の雲が空をさえぎり、愛、あなたが愛されることは永遠に終わらない』 Mil nubes de paz cercan el cielo, amor, jamás acabarás de ser amor : 監督フリアン・エルナンデス・ペレス、2003年 『きれぎれの空』 El cielo dividido : 監督フリアン・エルナンデス・ペレス、2006年 『サングレ』 Sangre : 監督アマト・エスカランテ といった作品が存在する。
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12トナーはアイスランド音楽のための流通業者であり、他国の多くのレコードレーベルの輸入業者、流通業者でもある。また、12トナーは急速に成長しているインディペンデントレコードレーベルでもある。ヨハン・ヨハンソン、ムーギーソン、Trabant and Singapore Sling、Apparat Organ Quartet、Pétur Ben、Eivör Pálsdóttir、Ragnheiður Gröndal、Hildur Guðnadóttir、Skúli Sverrisson、Ólöf Arnalds、Jakobínarínaなどの多くのアーティストたちが12トナーと契約した。 2006年5月、12トナーはデンマークコペンハーゲンに12トナー所属アーティストとその他のアイスランド音楽を売るためにレコード店を開いた。その店はアイスランドの習慣に従って気さくな雰囲気とともに、音楽が流れている間、客のために新鮮なエスプレッソをいれた。それは金曜日の午後に行われるインストアライブでの伝統となった。2008年1月26日、12トナーコペンハーゲン店はデンマークのバンドTremolo Beer Gutの演奏によってその閉店を祝った。 12トナーはコペンハーゲン店の閉店をすぐに引き継いで、彼らのアーティストたちへの継続的なアクセスを可能にするために、新しくウェブショップを導入した。日本ではICELANDia音楽ショップが12トナーと提携している。
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略歴・概要
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前身は戦前創業の芝居小屋「永楽座」(えいらくざ)。まだ諫早町だった1932年(昭和7年)の時点では、同町内の映画館は永楽座と喜楽館の2館のみであった。戦後は永楽座が残存したほか、銀線映画劇場、諫早映画劇場、諫早東映、大丸映画劇場が1957年(昭和32年)頃までに開業している。 1978年(昭和53年)、老朽化が進んだ建物を取り壊し、地下1階地上5階建てのパルファンビルに改築。同ビルの3階と4階に2スクリーンの映画館「諫早パルファン」が入居し再オープンを果たす。同市内唯一の映画館として長らく親しまれたが、長崎市内に開業したシネマコンプレックスの影響などで徐々に陰りが見え始め、2011年(平成23年)10月21日をもって映画館としての営業を終了。跡地は諫早市に本社を置く不動産会社「ジスコ不動産」に売却され、翌2012年(平成24年)12月より「文化ホール 諫早パルファン」としてリニューアルされた。
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「ロミオとジュリエット (1908年のアメリカ合衆国の映画)」の記事における「略歴・概要」の解説
ヴァイタグラフ・カンパニー・オヴ・アメリカが当時量産していた短篇映画の1作であり、ウィリアム・シェイクスピアの戯曲『ロミオとジュリエット』(1595年前後)の3度目の映画化作品であるとされる。同作はアメリカ合衆国では、同年6月6日に公開された。同年、イギリスでもゴーモンが映画化、11日後の同年6月17日に英国内で公開している。 日本では、日活の前身の1社である横田商会が配給し、1910年(明治43年)5月1日、東京・浅草公園六区の富士館を皮切りに公開された。同時上映は、尾上松之助を主演に同社が製作した『小楠公』と詳細不明の同社製作作品『大杯酒戦の強者』である。 現在、本作の原版は散逸し現存しないが、上映用プリントが現存する。
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創業者の松木三男(1915年 - 1992年)は、第二次世界大戦前の1934年(昭和9年)、日本国内では初のエレクトリック・ギター(エレキギター)製造に成功、とりわけ大戦後のハワイアン・ミュージックブームを支えた、日本のエレクトリック・ギター製造のパイオニア的存在である。1960年代に始まる「エレキブーム」、あるいはグループ・サウンズにおいても、グヤトーンは重要な位置づけをもつ。「エレキブーム」の火付け役と呼ばれたテレビ番組『勝ち抜きエレキ合戦』(1965年 - 1966年)では、模範演奏を行なった井上宗孝とシャープ・ファイブのギター奏者、三根信宏(1945年 - )がグヤトーンを使用、三根が「グヤトーン・シャープファイブ・モデル」を設計したことでも知られる。 エフェクターの開発を得意としており、数多くの種類のエフェクターを世に送り出した。1990年代以降には、主に「世界最小・最軽量」マイクロエフェクツシリーズ他さまざまな種類のエフェクター開発に力を注いでおり、多くのミュージシャンから愛用されている。製造元の東京サウンド株式会社は、当初はグヤ電気楽器製作所、その後改称して、1976年(昭和51年)までは「株式会社グヤ」であった。 東京サウンドの資金繰りの悪化などによる倒産の為、2013年(平成25年)1月31日をもって業務を終了と発表、1956年(昭和31年)の設立から半世紀以上の歴史に幕を閉じた。倒産時の社長は松木耕一(1949年 - )。 「グヤトーン」の名前の由来は、創業者である松木三男の中学時代から呼ばれていた「グヤさん」というあだ名に由来している。工作道具を常に大切にしていたことから「道具屋さん」がやがて「グヤさん」に転化、それを自社ブランド名にしたという。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/04/24 21:58 UTC 版)
「ボローニャ復元映画祭」の記事における「略歴・概要」の解説
本映画祭は、1986年(昭和61年)の第1回以来、イタリアのエミリア=ロマーニャ州ボローニャ県ボローニャで、毎年夏に行われている。主催は同市のシネマテークであるチネテカ・ディ・ボローニャ。 2004年(平成16年)からは「復元映画祭DVD賞」Cinema Ritrovato DVD Awards を設け、世界中のビデオグラム・メーカーの製品を対象に、1年間でもっとも価値ある発掘・復元を行なったものに授与している。 早稲田大学の小松弘教授によるプロジェクトが中国での発掘作業の際に発見した、ジョセフ・フォン・スタンバーグ監督の失われた映画『女の一生』 The Case of Lena Smith の4分のフィルム断片は、2003年(平成15年)のポルデノーネ無声映画祭、および2008年(平成20年)の本映画祭でのスタンバーグ特集で上映された。 現在の本映画祭の芸術ディレクターは、フィンランド出身の映画史家ペーター・フォン・バックである。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/05/01 06:47 UTC 版)
「エモーション (バンド)」の記事における「略歴・概要」の解説
1969年(昭和44年)4月1日、グループ・サウンズの人気バンドザ・ビーバーズ(1967年 - 1969年)が解散、ヴォーカルの成田賢、ギターの平井正之が結成したバンドが、エモーションである。初期は、東京・永田町のレストラン「パシャクラブ」等で演奏していた。 1970年(昭和45年)4月ごろまでには、エムのギタリスト浅野孝已(のちゴダイゴ)が加入しており、東京・新宿のディスコ「サンダーバード」等で演奏していた。同年5月9日 - 10日に、東京・日比谷の日比谷野外音楽堂で行なわれた「第3回日本ロック・フェスティバル」に、浅野のエム、ゴールデン・カップスとともに出場している。このときのメンバーは、平井と成田のほかは、ベースに井筒信雄、ドラムスに元グレープジュースの金沢純(金沢ジュン)であった。同年同月29日には、前述の「サンダーバード」での「サンダーバード・ロック・フェスティバル」に、浅野のエムとともに参加している。このときのメンバーは不明。ほかにも、横浜・元町のミュージックレストラン「アストロ」でも、専属バンド的に演奏しており、アメリカンスクールの学生やアメリカ兵に人気で、アメリカスクールの学園祭でも演奏した。 当時のナンバーはカヴァーで、クリームの『I'm So Glad』(アルバム『Goodbye』所収、1969年)や、ドノヴァンの『Laleña』(シングル、1968年)、スキータ・デイヴィスの『この世の果てまで』(End of the World、1962年)であった。ヴォーカルの成田の人気はすさまじく、「アストロ」のホールの写真パネルや、店頭のブロマイドが何度も盗難に遭ったという。「アストロ」での待遇はよく、東京からグリーン車で迎えられ、帰りは東京までタクシーで送られたという。 やがて同年中には、レコーディングの話も決まりかけていたが、成田が病気療養(肺結核)で1年間の休業に入った。その前後に、近田春夫が新たにキーボード奏者として加入、メンバーは、平井、ベースに元ブラインドバードの大島勝、ドラムスに金沢、そして近田となった。1971年(昭和46年)には成田が療養から復帰、ソロシンガーになっていくが、当時「ソロシンガーの成田がヴォーカルで参加することもある」という旨の雑誌記事が書かれた。まもなく解散。テレビ出演もなく、音源も残っていない。
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小説『桃太郎侍』を発表していた井口朝二が、初めて「山手樹一郎」名を使用して、週刊誌『サンデー毎日』第十三回大衆文学懸賞募集に応募して佳作に入選、1933年(昭和8年)11月1日発行の同誌に掲載されたのが初出である。以降、井口は「山手樹一郎」をペンネームとする。選者の千葉亀雄は「今度多かった事実小説のなかでの随一の佳作といえる。事実の方が、とてもテキパキと面白くまとまっているため、作者の想像力のやり場の狭いらしかったのが残念。それだけ無駄のない記述のしっかりした点を正直、私は高く買おうと思う」と評した。山手の次作『うぐひす侍』は第十四回大衆文学懸賞で入選を果たした。山手は1939年(昭和14年)、博文館を退社するが、1940年(昭和15年)、『うぐひす侍』の表題で単行本が同社から刊行され、本作『一年餘日』も収録されて初めての書籍となった。 2009年(平成21年)には、神江里見の作画によって劇画化され、小学館から単行本も発売された。 映画化作品『武道大鑑』については、本作が『サンデー毎日』に掲載されたわずか3か月後の翌年1月31日に公開されている。これは、山手作品の史上初の映画化であった。2013年(平成25年)1月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターも、マツダ映画社も、映画『武道大鑑』の上映用プリントを所蔵しておらず、現存していないとみなされるフィルムである。 「#映画」を参照
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 03:36 UTC 版)
小説『二人静』の初出は、1916年(大正5年)に報知新聞の連載で、翌1917年(大正6年)、東京の出版社至誠堂書店から出版されている。 映画『二人静』は、いずれのヴァージョンも東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されておらず、マツダ映画社は大洞元吾の監督した『二人静』(1922年)のフィルムプリントのみを所蔵している。 小説『二人静』は、青空文庫に収められていない。
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『三遊れん新作落ばなし』(1891年)の編者・中村藤吉の原作を伊藤大輔が脚色、演出したのが本作である。1955年(昭和30年)のセルフリメイクでは、役名も脚本も一新している。 サイレントのオリジナル版の上映用プリントは、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されておらず、マツダ映画社も所蔵していない。リメイク版に関しては、東京国立近代美術館フィルムセンターに所有されている。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 03:05 UTC 版)
小説『白蓮紅蓮』の初出は、菊池幽芳の勤務先が発行する『大阪毎日新聞』、および『東京日日新聞』紙上で、1921年(大正10年)に掲載された。翌1922年(大正11年)、大阪毎日新聞社から『白蓮紅蓮』上下全2冊が刊行されている。 菊池の小説は、『己が罪』(1899年 - 1900年)、『乳姉妹』(1903年)、『月魄』(1908年)、『百合子』(1913年)、『毒草』(1916年)と発表されるたびにベストセラーになり、「家庭小説」のジャンルを確立したと言われ、初期の日本映画において多く映画化された。 本作に関しても、新聞での連載の翌年、単行本が刊行された同年に、松竹蒲田撮影所、帝国キネマ演芸がそれぞれ映画化し、松竹蒲田版が4月11日、帝キネ版は正確な日付は不明だが同年中にそれぞれ公開された。 映画『白蓮紅蓮』は、いずれのヴァージョンも、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されていない。 小説『白蓮紅蓮』は、2020年(令和2年)4月現在、1924年(大正13年)版の全集の復刻である、1997年(平成9年)版以外は、すべて絶版である。青空文庫にも収録されていないが、国立国会図書館の「国立国会図書館デジタルコレクション」には収録されており、閲覧・ダウンロードが可能である。 ⇒ #ビブリオグラフィ
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 04:48 UTC 版)
1912年(明治45年)、大阪毎日新聞、東京日日新聞(いずれも現在の毎日新聞)に連載、好評を博した『生さぬ仲』の流れを汲む家庭小説として大阪毎日新聞で連載された。柳川は1918年(大正7年)1月に死去しており、没後に刊行された全集以降、同作は出版された形跡がみられない。映画化も1度きりである。 新派の劇団「成美団」が、1923年(大正12年)5月、京都座で上演、連日にぎわったことが記録に残っている。出演は都築文男、小織桂一郎、河原市松、武村新、高橋義信ら。 日活向島撮影所が映画化した作品の上映用プリントは、いくつかのシーンを欠いた51分の不完全版であるが、早稲田大学が所蔵しており、2012年(平成24年)には、早稲田大学坪内博士記念演劇博物館で行われた『日活向島と新派映画の時代展』で上映されている。同撮影所が製作した作品で現存するものは3作しが現存しておらず、本作は、夭折したスター俳優立花貞二郎の出演作としては唯一現存する作品である。
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小説『女の生命』の初出は、菊池幽芳の勤務先が発行する『大阪毎日新聞』、および『東京日日新聞』紙上で、1918年(大正7年)に掲載された。翌1919年(大正8年)、玄文社から『女の生命』前篇・後篇全2冊が刊行されている。 菊池の小説は、『己が罪』(1899年 - 1900年)、『乳姉妹』(1903年)、『月魄』(1908年)、『百合子』(1913年)、『毒草』(1916年)、『白蓮紅蓮』(1921年)と発表されるたびにベストセラーになり、「家庭小説」のジャンルを確立したと言われ、初期の日本映画において多く映画化された。 本作に関しても、新聞での連載の翌年、単行本が刊行された同年に、日活向島撮影所が映画化し、1月14日に公開された。映画『女の生命』のフィルムプリントは、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されていない。 単行本、映画が公開された年の3月、井上正夫の一座が東京・日本橋久松町の明治座で公演を行っている。 小説『女の生命』は、2020年(令和2年)4月現在、1924年(大正13年)版の全集の復刻である、1997年(平成9年)版以外は、すべて絶版である。青空文庫にも収録されていないが、国立国会図書館の「国立国会図書館デジタルコレクション」には収録されており、閲覧・ダウンロードが可能である。 ⇒ #ビブリオグラフィ
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現代劇のスタジオ・日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)が製作した日本の初期のミュージカル映画である。大正末期の浅草オペラの時代に「ペラゴロ」のひとりであったサトウ・ハチローが書いた原作を菊田一夫が脚色、江藤澄子が潤色した。主演の岸井明、神田千鶴子はP.C.L.映画製作所(現在の東宝スタジオ)からのレンタルで出演が実現した。「日活・東宝提携第1作」。松竹楽劇部(のちの松竹歌劇団)から移籍した不忍鏡子の映画デビュー作であった。 音楽のスコアを書いたのは古賀政男で、古賀も出演し、また古賀が所属するテイチク(現在のテイチクエンタテイメント)の専属歌手であるディック・ミネ、楠木繁夫、美ち奴らが出演している。「主題歌」が6曲あり、同年11月、12月にいずれもレコード化、3枚のシングル盤に収録され、テイチクから発売された。 本作の上映用プリントは、現在、東京国立近代美術館フィルムセンターには所蔵されてはいない。
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ジョルジュ・ベルナノスの小説を原作に、ロベール・ブレッソンが少女の不幸を描いたドラマ。貧しく苦労を重ねてるブルーカラーの一少女がどんどん不幸になっていく様を冷徹な目線で描いたブレッソンの代表作の一つである[要出典]。のちの『ロゼッタ』や『ダンサー・イン・ザ・ダーク』にも影響を与えた[要出典]。 日本では、1974年(昭和49年)9月、コロネット商会の子会社コロネット・シネマ・アンテレクチュエルが買付けて提供し、エキプ・ド・シネマが配給した。1996年(平成8年)6月のフランス映画社配給による公開は再映である。
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小説『彼女の運命』の初出は、菊池幽芳の勤務先が発行する『大阪毎日新聞』、および『東京日日新聞』紙上で、1923年(大正12年)に掲載された。同年、大阪毎日新聞社から単行本『彼女の運命』が刊行されている。菊池本人の回想するところによれば、連載当時、『白蓮紅蓮』に似た異常なまでの好評を得たとのことである。 「家庭小説」のジャンルを確立したと言われた『己が罪』(1899年 - 1900年)、『乳姉妹』(1903年)、『毒草』(1917年)同様、本作もすぐに映画化された。1924年(大正13年)には4社が競作し、1932年(昭和7年)には再映画化された。以降、映画化されることはなかったので、すべてサイレント映画であった。
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「金環蝕 (久米正雄の小説)」の記事における「略歴・概要」の解説
小説『金環蝕』の初出は、大日本雄弁会講談社(現在の講談社)が編集・発行する月刊誌『キング』誌上で、1934年に掲載された。翌1935年(昭和10年)、新小説社から単行本が刊行された。 同作の連載中に松竹蒲田撮影所(現存せず)はこれを原作に採用し、荒田正男が脚色、清水宏が監督して映画化した。映画版『金環蝕』は、無声映画のフォーマットに江口夜詩作曲による劇伴を付したサウンド版として完成され、松竹キネマ(現在の松竹)が同年11月1日、東京・浅草公園六区の帝国館(現存せず)を皮切りに全国公開された。フォース助監督にのちに東映京都撮影所の時代劇映画の巨匠となる佐々木康がクレジットされている。サウンド版の製作にあたり、音楽の録音は、のちに土橋式トーキーで知られる土橋晴夫が手がけている。 映画版『金環蝕』の上映用プリントは東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されており、2013年6月8日~8月7日に行われた清水宏監督の回顧上映『生誕110年 映画監督 清水宏』にて上映された。2010年(平成22年)10月2日- 同月9日にはイタリアのポルデノーネで行なわれた第29回ポルデノーネ無声映画祭で、「松竹の三巨匠」特集(島津保次郎、清水宏、牛原虚彦)で取り上げられ、上映されている。
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略歴・概要
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本作はもともと、壺井栄が1943年(昭和18年)に執筆、翌1944年(昭和19年)に『海のたましい』として発表したものを改稿・改題したものである。1949年(昭和24年)4月、山の木書店から同名の短篇集に収められる形で出版された。 その後の刊行歴については、#おもなビブリオグラフィの節を参照。 同作およびその短篇集に掲載された『ともしび』『坂道』を原作として浄明寺花子が脚色、1955年(昭和30年)に芸研が同名の長篇劇映画を製作、東宝が配給して、同年11月15日に公開された。本作の上映用プリントは、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されておらず、デジタル・ミームが所有しレンタルを行っている
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小説『黒水晶』の初出は、渡辺霞亭の勤務先が発行する『大阪朝日新聞』、および『東京朝日新聞』紙上で、1918年(大正7年)に掲載された。同年、至誠堂から『黒水晶』前篇・後篇全2冊が刊行されている。 本作は、連載開始とともにたいへん人気となり、すぐに映画化が企画されている。日活向島撮影所では、新派スター総出演で製作された。 映画『黒水晶』は、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されていない。 小説『黒水晶』は、2009年(平成21年)12月現在、絶版である。青空文庫には収録されていないが、国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」にはデジタル画像で公開されている。 ⇒ #ビブリオグラフィ
※この「略歴・概要」の解説は、「黒水晶」の解説の一部です。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/05 15:15 UTC 版)
国立国会図書館に所蔵されているものでは、同作は1950年(昭和25年)12月に発行された『青春タイムス』第3巻第9号に「第3回」、翌1951年(昭和26年)1月に発行された第4巻第1号に「最終回」が掲載されており、全4回の連載であった。 これを原作に映画化したのが、秀映社による劇場用映画『東京十夜』である。大宅壮一によれば、いわゆるカストリ雑誌の類であるというべき雑誌に連載された小説を原作とし、当時「斜陽族」と呼ばれた没落華族の大邸宅をロケセットに使用して、2-3日で撮影した超低予算映画であったという。同年10月28日、東京映画配給(現在の東映)が受託配給して公開したところ、予想外の大ヒットとなり、製作者には大金が転がり込み、ロケセットに使用した「斜陽族の邸宅」は、この製作者が買い取ったとのことである。 同作の製作元である秀映社は、もともと住田暎介が経営した現像場(英語版)で、本作が映画製作の第1作であった。「ベッドシーン」を売り物にした日本最初の映画であるとされ、当時の映画倫理規程管理委員会(旧映倫、現在の映画倫理委員会)は34か所の削除を製作者に要求し、削除した長さが、残ったフィルムの上映時間よりも長かったとされる。旧映倫が「成人映画」指定の前身である「成人向映画」を選定し始めるのが1954年(昭和29年)8月であって、日本の映画界にはまだ「レイティング」が存在していなかった。同作は、そのような自主規制を経て、レイティングなしに公開された。 公開当時に同作を観た上野一郎によれば、同作は10篇からなるオムニバス形式の映画であったという。監督を務めた沼波功雄は、1930年代の松竹蒲田撮影所で清水宏の助監督を務めた人物で、1937年(昭和12年)に水戸光子主演の『君と歌えば』(松竹大船撮影所)で監督昇進、翌1938年(昭和13年)から新興キネマ東京撮影所に転籍して、同社が戦時合併して大映を形成するまで、30作もの監督作がある。脚本を書いた沖博文は、1930年代には阪東妻三郎プロダクションの監督であり脚本家であった人物である。 2012年(平成24年)7月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは、本作の上映用プリント等を所蔵していない。 「#映画」を参照
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略歴・概要
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「THE 抱きしめるズ」の記事における「略歴・概要」の解説
2006年12月26日 渡辺、篠崎、ヤギサワが所属していたThe Great Britain Smokersと、とばが所属していたROOSELIFEがスプリット盤「Do The Boogie Do The Clap」を発売。 2007年7月 The Great Britain Smokersが解散。 2007年8月 ROOSELIFEが解散。篠崎がとばを誘いTHE 抱きしめるズを結成。 2007年8月7日 THE 抱きしめるズ結成ライブを行う。 2009年9月16日 1stアルバム「脳内デート」を発売。 2010年11月17日 2ndアルバム「I wanna be your boyfriend」を発売。 2018年5月3日 新宿レッドクロスで行われたワンマンライブをもって、Vo.の渡辺ヒロユキが脱退。 2018年7月 Dr.のサンライズ太陽が脱退。 2018年10月17日 Dr.の中嶋啓が正式加入。 2019年3月 Ba.のあんどりゅーが脱退。 2019年5月 Ba.のイワサヨシアキが正式加入。
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略歴・概要
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小説『毒草』の初出は、菊池幽芳の勤務先が発行する『大阪毎日新聞』、および『東京日日新聞』紙上で、1916年(大正5年)に掲載された。同年から翌1917年(大正5年)にかけて、至誠堂書店から『毒草 お品の巻・疑獄の巻・お仙の巻』全3冊が刊行されている。 菊池の小説は、『己が罪』(1899年 - 1900年)、『乳姉妹』(1903年)と発表されるたびにベストセラーになり、「家庭小説」のジャンルを確立したと言われ、初期の日本映画において多く映画化された。 1917年(大正6年)には小林商会、天然色活動写真(天活)、日活向島撮影所の3社が競作で製作を開始、それぞれ、同年3月11日に同日公開された。同日の浅草公園六区では、三友館では小林商会の『毒草』、大勝館では天活の『毒草』、オペラ館では日活向島の『毒草』をそれぞれ上映するという状態になった。 1931年(昭和6年)には、新興キネマが曽根純三を監督にリメイクし、1937年(昭和12年)には、大都映画が吉村操を監督にリメイクした。いずれもトーキーの時代に入っていたが、サイレント映画として製作されたので、本作を原作にした映画は、サイレント映画のみとなった。映画『毒草』は、いずれのヴァージョンも、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されていない。 小説『毒草』は、2009年(平成21年)11月現在、1924年(大正13年)版の全集の復刻である、1997年(平成9年)版以外は、すべて絶版である。 ⇒ #ビブリオグラフィ
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小説『月魄』の初出は、菊池幽芳の勤務先が発行する『大阪毎日新聞』、および『東京日日新聞』紙上で、1908年(明治41年)に掲載された。同年、金尾文淵堂から単行本が、『月魄 藤乃の巻』、『月魄 倭文子の巻』に分巻して刊行されている 菊池本人の回想するところによれば、本作の女主人公「倭文子」は、発表当時の日本における「理想の女性像」であるとのことである。 「家庭小説」のジャンルを確立したと言われた『己が罪』(1899年 - 1900年)、『乳姉妹』(1903年)、『毒草』(1917年)、『彼女の運命』(1923年)同様、本作もすぐに映画化された。1938年(昭和13年)の再映画化は、唯一トーキー作品であった。
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トーキー初期における3大トーキーシステムのひとつをもつアメリカ合衆国のウェスタン・エレクトリックは、日本に東洋ウェスターンを設立、同社は菊池東陽のオリエンタル写真工業(現在のサイバーグラフィックス)の工場内にトーキー撮影の設備を設けさせ、オリエンタル映画社を設立した。同社の第1作として製作されたのが、徳富蘆花のヒット小説『不如帰』の変奏としての本作『浪子』であった。 東洋ウェスターンによるパラマウント映画日本支社との配給提携により、1932年(昭和7年)5月19日、東京・内幸町の帝国劇場等で公開された。オリエンタル映画社は、録音技師として派遣されたマッキナニーの人件費がかさみ、スタジオを新設したにもかかわらず本作1作のみで解消した。 本作の上映用ポジプリントは、マツダ映画社が54分のヴァージョンを所有している。現在も鑑賞可能な作品である。
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小説『鍔鳴浪人』の初出は、1939年(昭和14年)4月 - 同年12月の『讀賣新聞』での連載で、1949年(昭和24年)に東京の出版社春陽堂から出版された『現代大衆文学全集 第3巻』に『妖棋伝』とともに収められた。 1939年 - 1940年に荒井良平が監督した『鍔鳴浪人』、『續 鍔鳴浪人』は、いずれも1996年(平成8年)、1998年(平成10年)にロシアのゴスフィルモフォンドで発見され、東京国立近代美術館フィルムセンターが実地調査を行った際に日本に持ち帰ったプリントである。同センターに所蔵され、2001年(平成13年)に同センターで上映された。2002年(平成14年)には日活からビデオグラムが発売された。 1956年(昭和31年)に内出好吉が監督したヴァージョンは、東京国立近代美術館フィルムセンターには所蔵されておらず、製作・配給元の東映からはビデオグラムは発売されていない。
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1921年(大正10年)11月に日本で公開された、監督フレッド・ニブロ、ダグラス・フェアバンクス主演のハリウッドの剣戟映画『奇傑ゾロ』(The Mark of Zorro, 1920年)を、マキノ映画製作所等持院撮影所の脚本家・寿々喜多呂九平が翻案し、オリジナル脚本という形で書いた。二川文太郎の監督第2作で、監督デビュー作である前作『蜃気楼』にも出演した高木新平を主演に迎えた。 本作は、1924年(大正13年)1月13日、マキノキネマの自社配給により、マキノ東京派の高松豊次郎が経営する浅草・大東京をフラッグシップに興行が行われた。なお本作に主演した高木新平は、同1924年の「争闘」のロケにおいて神戸旧居留地の大阪商船ビル屋上から隣の神戸オリエンタルホテルに吹き替えなしで跳び移ったことから「鳥人」と呼ばれ、のちにハヤフサヒデトが「昭和の鳥人」と呼ばれた際に、「大正の鳥人」として念頭に置かれた。 本作の存在は、日本の剣戟映画が、ハリウッドの剣戟映画にいかに影響を受けたのかの証左となる作品である。のちに第二次世界大戦後、脚本を書いた寿々喜多呂九平が、加味鯨児名義で脚本を書き直し、ロクヘイ・ススキタ名義で監督してリメイクした。⇒ #1954年版 阪東妻三郎はこの作品以前は斬られ役専門の脇役だったが、「脇役をやらせるには目立って仕方がないから役をつけてしまえ」ということになり、本作で敵役「黒木原源太」の役に抜擢された。ところが白面の美剣士が敵役というので、観客も批評家もびっくりし、これが出世の糸口となって主演俳優に列することとなった。こののちの「阪妻時代」を作り出すきっかけとなった作品である。 1960年には『快傑鷹の羽』のタイトルでテレビドラマ化された。
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ギュスターヴ・フロベールの小説『ボヴァリー夫人』を現代ポルトガルに置き換えてアグシティナ・ベッサ・ルイーシュが書いた小説をオリヴェイラが脚色、3時間を超える大作につくりあげた。 14歳のエマを演じたセシル・サンス・デ・アルバと、20歳のエマを演じたレオノール・シルヴェイラは、まったく容貌の異なる同世代の女優を起用している。 舞台となったドウロ河は、オリヴェイラが1931年(昭和6年)に22歳で初めて監督した映画『ドウロ河』の舞台となった土地である。本作は、1993年(平成5年)、オリヴェイラが84歳のときに手がけた作品である。同年、ブラジルのサンパウロで開かれたサンパウロ国際映画祭で批評家賞、東京で開かれた東京国際映画祭では最高作品貢献賞をそれぞれ受賞した。
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「見えないほどの遠くの空を」の記事における「略歴・概要」の解説
本作は、公開前年の2010年(平成22年)、主演の森岡龍の所属事務所ブレスや監督自身とその友人らの出資を得、自主製作作品として製作を開始、都内等のロケーション撮影を経て、翌年完成した。撮影には、本作の撮影監督古屋幸一の所有するレッド・デジタル・シネマカメラ・カンパニー社製のデジタルムービーカム「RED ONE」を使用した。 2011年3月4日、映画の公開に先行し、同作を原作として榎本本人がノヴェライズした同名小説が、小学館文庫から発売された。 同年6月11日、東京・渋谷のヒューマントラストシネマ渋谷を皮切りに、同年同月25日には大阪・梅田のテアトル梅田、同年7月2日には東京・池袋のシネマロサ、同年同月23日には名古屋・今池の名古屋シネマテークでそれぞれ上映された。 同年7月26日、同年10月7日から開催される第27回ワルシャワ国際映画祭フリー・スピリット・コンペティション部門への正式出品が発表された
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2013/02/02 14:36 UTC 版)
1887年(明治30年)ころ、高津梅次郎が高津道具店という個人商店を開業した。場所は現在の京都市上京区一条通御前下ルで、1912年(明治45年)1月に横田商会の法華堂撮影所が店の前に建設されている。横田商会は同年9月に合併し、日活を設立、同撮影所は日活関西撮影所と改称し、翌1913年(大正2年)から同撮影所とのつきあいが始まっている。 1918年(大正7年)、日活関西撮影所が北区大将軍一条町に移転し、日活大将軍撮影所として開所、これを機に、同商店は本格的な映画用の小道具の貸出を開始した。同社ではこの年を創業年としている。 1921年(大正10年)6月に牧野省三が日活から独立し、牧野教育映画製作所を設立、受注が増える。1923年(大正12年)11月には同年9月の関東大震災のために東京の日活向島撮影所が閉鎖され、現代劇部が移転して来たため、現代劇の小道具の受注も始まる。同様に松竹キネマも松竹蒲田撮影所を閉鎖し、松竹下加茂撮影所を開所、同商店に小道具を発注した。1928年(昭和3年)には片岡千恵蔵プロダクション、嵐寛寿郎プロダクションを初めとしてスタープロダクションの設立が広がり、さらに受注先が増えた。 1931年(昭和6年)、一条通御前下ルから同西入ルに移転し、合資会社高津小道具店を設立する。 第二次世界大戦後の1951年(昭和26年)、株式会社高津商会へ改組する。同年は、東横映画が合併して東映となり、同社の撮影所が東映京都撮影所と改称した年である。 1980年(昭和55年)、本社を東映京都撮影所や松竹京都撮影所の至近である現在の右京区太秦に移転する。2003年(平成15年)3月、第26回日本アカデミー賞で協会特別賞を受賞する。
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「忠臣蔵 刃傷篇 復讐篇」の記事における「略歴・概要」の解説
本作は、当時日活と提携関係にあった片岡千恵蔵プロダクションの脚本家・映画監督であった伊丹万作のオリジナルシナリオを採用し、日活京都撮影所の監督・伊藤大輔とともに、伊丹が日活の尾崎純とともに「応援監督」として演出に関わった作品である。同撮影所の時代劇部・現代劇部のスター総出演による『忠臣蔵』である。本作はオールトーキー作品で、録音方式は「W.E式」(ウェスタン・エレクトリック)を採用した。「矢場の女 お吉」の役で夏川静江が出演しているが、本作を最後に日活を退社した。同年5月17日、東京・有楽町の日本劇場を中心に公開したが、田中純一郎の『日本映画発達史 II 無声からトーキーへ』によれば、同年同月20日に封切ったという説もある。全25巻、217分(3時間37分)にも及ぶ長尺の大作であった。 2013年(平成25年)1月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターも、マツダ映画社も、本作の上映用プリントを所蔵しておらず、現存していないとみなされるフィルムである。本作の脚本については、1961年(昭和36年)11月15日に発行された『伊丹万作全集 第3巻』(筑摩書房)に収録されていない。
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1926年(大正15年)夏、朝日新聞が阪東妻三郎のために「懸賞映画小説」として小説を公募。伊藤好市(貴司山治)はバートランド・ラッセルの思想を下敷きに、原稿用紙400枚の小説『人造人間』を20日間で書き、応募したところ、翌1927年(昭和2年)10月に当選が発表され、5,000円(当時)の賞金を手にした。 同作を朝日新聞社が『霊の審判』と改題、阪東妻三郎、龍田静枝、森静子、近藤伊与吉らを撮影したスチル写真を田中良が構成した「映画小説」(フォトロマン)として、1928年(昭和3年)1月1日から東京・大阪の両朝日新聞で連載を開始した。 一方、阪妻プロは昭和3年1月早々から製作発表を行い、プロダクション総力を挙げて製作に取り掛かった。阪妻プロの宣伝機関紙『阪妻画報』には、主宰者阪東妻三郎、支配人山崎修一、監督枝正義郎、脚本の江川宇礼雄が、それぞれ抱負を述べている。阪妻の寄せた一文は以下の通りである。 私が髷物以外のものを演りますのは今度が初めてではなく黙阿弥風の散切ものをやったことがあります。それと比べ『霊の審判』は全く飛び離れた世界であります。これを充分研究し、遺憾なく現わすには少なくとも半年の時日が与えられなくてはなりませんが、私に与えられた時日は其の半分の三ヶ月であります。この三ヶ月を極度に活用して、出来るだけ理想に近いものを作り上げようというのでありますから私には非常な覚悟を要するのであります。 脚本決定稿の練り上げ、製作スタッフ、配役の選考決定、ロケハン、スチール、宣伝、役作りから撮影開始と、三ヶ月全力を注いで取り組み、松竹では超特作として3月15日封切りを予定。東京歌舞伎座と四都の松竹座で超特作特別封切りを決めるという注力ぶりだった。 ところが封切り予定の3月半ばが過ぎても撮影は半ばにも達せず、少々の撮影延期では完成が見込めず、製作は一時中止延期となった。 自信家の阪妻にとっても、初の現代ものでしかも異色の原作映画化、手慣れた時代ものと異なり万事に勝手が違い、完成の目処がつかずついに中止という不本意な事態となったが、前年に松竹からの資本注入による阪妻プロの株式組織化早々、経営上大きな損失を招く結果となってしまった。 昭和3年6月の『阪妻画報』で、阪妻プロ支配人山崎修一が以下のように正式中止発表を行っている。山崎は前年に、松竹の意向に逆らい芸術志向に走る阪妻を抑える「目付役」として六十万円の資本金とともに松竹が送り込んだ人物で、以後阪妻と意見対立し喧嘩の毎日だったという人物である。 『霊の審判』の撮影は、遺憾ながら暫時撮影延期の已む無き事情に立ち至りました。理由は女優滝田静江君が蒲田に於ける撮影の都合に引き続き重い風邪に冒され、四十度余りの発熱という病気に原因して、撮影上多大の支障を生じたることと且つこの映画は何分大規模の設備を要する事とて、其の中間準備に相当の時日を要する事に依って、已む無く暫時延期する事に致した次第です。しかし、決して中止したのではありません。一、二ヶ月後再び撮影を開始し、適当なる時期或いは、秋期の大映画戦に、皆さんのご期待以上の名画として競映し、以てその絶対的権威を誇り得ることの決して誤りなき阪東妻三郎氏の実力に掛けて信じて頂きたいのであります。 しかし松竹の興業政策優先と阪妻の芸術性優先の方向性の違いは前年から先鋭化しつつあり、山崎支配人のこの言葉とは裏腹に、二月後の6月28日に阪妻プロは改革縮小が断行され、阪妻は取締役を辞任。 枝正義郎、細山喜代松、江川宇礼雄、近藤伊与吉ら主要スタッフが整理退社させられ、実質的に『霊の審判』の製作再開は不可能とさせられてしまったのである。 当時、この中止の発表は「本年度の痛恨事」と報道された。 貴司山治は「当初から、フォトロマン連載、松竹キネマでの映画化が織り込み済みのメディアミックス小説であったが、連載途中で「ノーヴァ・スーノ」という理想郷がソビエト連邦を謳歌するものではないかと右翼からの抗議を受けたこともあり、映画化は立ち消えとなった」と回想している。 本作の単行本は、大阪朝日新聞社が1930年(昭和5年)に刊行されたが、現在、絶版であり、収録される全集等もない。
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「アマゾン (映像製作)」の記事における「略歴・概要」の解説
1988年4月1日、テレビディレクターの倉内均によって設立された。以来、テレビ作品を中心に、数多くの映像作品を生み出す。また1989年、倉内は山本陽一主演の映画『冬物語』(配給東宝)を演出し映画監督としてデビューしている。 2006年6月3日、倉内が監督、同社が製作、文部科学省推奨を受けた映画『佐賀のがばいばあちゃん』を全国公開(配給ティ・ジョイ)、興行収入6億円のヒットとなる。 2008年4月1日、設立20周年を迎えた同社は、同年6月1日、映画・映像製作会社の株式会社LATERNA(ラテルナ)との提携を進めて関連会社となり、同社社長の與田尚志を代表取締役会長CEOに迎え、社長の倉内はひきつづき同社長であるとともに新たにCOOに就任した。 2009年6月、アマゾンとラテルナが資本及び業務提携。2010年4月1日、アマゾンとラテルナは合併、株式会社アマゾンラテルナとなる。
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「忠次売出す (1935年の映画)」の記事における「略歴・概要」の解説
本作は、伊丹万作にとって、片岡千恵蔵プロダクションでの脚本家、そして監督デビュー以来のキャリアを経て、同年、新興キネマ京都撮影所に移籍、同社で最初に手がけた作品であり、初めてのトーキー作品であった。 当時満33歳にして無名の歌舞伎俳優であった市川朝太郎は、舞台での好演を白井信太郎に認められ当時松竹傘下だった同撮影所に所属、これを主演の「長岡忠次」こと国定忠治役に抜擢された。朝太郎は、のちに大映の監督になる加戸敏の実兄であり、当時、同撮影所演出部に所属していた加戸は本作の助監督を務めた。録音を手がけた河野貞寿は当時、松竹京都撮影所に所属していた「土橋式トーキー」の土橋武夫の助手である。 本作は、同年2月28日に公開されたが、日活は、同日、日活京都撮影所のスター俳優大河内伝次郎主演、三村伸太郎脚色、山中貞雄原作・監督の『国定忠次』を公開しており、本作の興行成績は、日活の『国定忠次』に及びもよらなかった。しかしながら、本作は「時代劇スター中心主義の映画界の風潮に痛撃を加え、新風を吹き込んだ」と評価される。同年、昭和十年度キネマ旬報ベストテン第4位を獲得、これは、伊丹の監督作のなかでは前年度の『武道大鑑』(1934年)とタイであり、伊丹にとっては生涯最高位のランクインである。同日公開で興行的にも水をあけられた山中の『国定忠次』は、第5位であり、当時の評価としては『忠次売出す』が辛勝した。 本作に先行し、1933年(昭和8年)2月1日に河合映画製作社が、同一のタイトルのサイレント映画『忠次売出す』を長尾史録監督、市川百々之助主演で製作・公開しており、同じ若き日の国定忠治を主題とした映画ではあるが、同作は鈴木史郎(のちの鈴木史朗)のオリジナルシナリオによる作品であり、本作との関連性はない。 本作公開の20年後、1955年10月19日に公開された映画『悪太郎売出す』は、本作を原作に八尋不二が再脚色し、荒井良平が監督した本作のリメイク作品で、大映京都撮影所(現存せず)が製作し、大映が配給して公開された。主人公を国定忠治から「仙太」に、九鬼伝蔵にあたる役どころを「十河十兵衛」に変更しているほかは、登場人物名はほとんど変わっていない。 「#リメイク」を参照 2013年(平成25年)1月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターも、マツダ映画社も、本作の上映用プリントを所蔵しておらず、現存していないとみなされるフィルムである。本作の脚本については、1961年(昭和36年)11月15日に発行された『伊丹万作全集 第3巻』(筑摩書房)に収録されている。
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1936年(昭和11年)2月18日にマキノトーキー製作所が製作・公開した、月形龍之介主演による『國定忠治 信州子守唄』の続篇、『忠治血笑記』のさらに続篇である。伊藤大輔が監督したサイレント映画『忠次旅日記 御用篇』の前半にあたる作品であるが、本作の続篇は製作することができず、「御用」に至る完結部分は描かれずに終わった。本シリーズは、伊藤が1927年(昭和2年)に手がけた『忠治旅日記』三部作の脚本をもとに、これを同社の設立祝いに贈られたマキノがリメイクしたものである。『忠治血笑記』以降、忠治役が月形から変更になっているのは、月形サイドの都合のためであったが、同年前半、月形は7作のマキノトーキー作品に出演した。月形に代わって忠治役を演じた清水英太朗は、もともと「清水英朗」の名で松竹下加茂撮影所に所属した俳優であった。 2005年(平成17年)に発掘・復元された45分の上映用35mmフィルムに、音声トラックのないサイレント版・60分の16mmフィルムから欠落したシーンを補っての「復元版58分」が、現存する最長版である(2008年)。同最長版は、東京国立近代美術館フィルムセンターが所蔵している。本シリーズについては、『忠治血笑記』の原版ネガフィルムおよび上映用ポジフィルムは散逸して残っておらず、『國定忠治 信州子守唄』については19分の短縮版上映プリントのみが現存する。
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小説『名月佐太郎笠』は、短篇小説であり、1955年に『小説倶楽部』(桃園書房)に掲載されたのが初出であり、同年、東京文芸社が、他の複数の短篇小説を併載した同名の単行本を発行した。以降の単行本等への収録はみられない。 映画『名月佐太郎笠』は、小説発表の同年に新東宝が製作し、同年11月1日に同社の配給によって公開された。それに先行する同年10月、映画の主演をした高田浩吉が歌唱する同名の主題歌が古賀政男作曲によってつくられ、コロムビア・レコードから発売されている。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/04/24 08:54 UTC 版)
小説『人間饑饉』は、1931年4月 - 同年7月、毎日新聞に連載された新聞小説である。村松梢風は、剣豪平手造酒を主人公に、民衆の反抗、大名の乱脈ぶりを左翼用語を交えた文体で記述した。翌1932年、春陽堂の「日本小説文庫」の1冊として、『平手造酒 人間飢饉』の題で単行本が発刊し、同作の最初の書籍となった。 映画化作品『闇討渡世』については、小説連載終了のほぼ1年後、翌年6月3日に公開された。これは、村松作品において、『次郎長裸道中記』(監督益田晴夫、主演葛木香一、1931年)に次ぐ史上2番目の映画化であった。
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略歴・概要
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1912年(明治45年)6月8日、日本鋼管(現JFEスチール)の創立時に開設した敷地にある旧労組会館を利用し、2007年(平成19年)3月15日に開設した。開設にあたって、川崎市、日本映画学校、マイクロソフト日本法人が協力している。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/22 14:54 UTC 版)
阪東妻三郎プロダクション設立第6作である。監督には、マキノ・プロダクションの脚本家出身で、当時東亜キネマで映画監督となっていた当時24歳の悪麗之助を起用、悪は「陸大蔵」名義でこれを監督した。 日本映画データベースには、悪の原作を伊藤大輔が脚色した旨の記述があるが、公開当時のポスターには、「監督・脚本 陸大蔵」と表記されている。ポスターに書かれたコピーは「大猛闘時代劇・切支丹異聞・剣戟闘史」であった。 本作は、松竹キネマ(現在の松竹)が配給し、同年4月15日に浅草公園六区・松竹館をフラッグシップに全国公開された。同時上映は松竹蒲田撮影所製作、大久保忠素監督による『夢の浮橋』である。 本作の上映用プリントは、現在、東京国立近代美術館フィルムセンターにも、マツダ映画社にも所蔵されていない。現存しないとされる映画を中心に、玩具映画を発掘・復元する大阪藝術大学のリストにも存在しない。現状、観賞することの不可能な作品である。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/12/17 05:24 UTC 版)
1957年 - 1962年の5年間、映画製作を行った形跡がある。カルロ・ポンティ、あるいはディノ・デ・ラウレンティスといった新興プロデューサー、あるいはスペイン・フランスの映画会社と組んでの共同製作を行った。全作が共同製作であり、配給機能を持たないため、つねに配給も手がける製作会社と組む必要があったのである。 ステーノ監督の作品を多く手がけた。 同社では、のちに独立し、映画プロデューサーとして大成するマリオ・チェッキ・ゴーリ、ピオ・アンジェレッティ、クレメンテ・フラカッシ、ライモンド・カステッリらが製作主任として現場を動かし、のちの映画監督のルチオ・フルチが助監督として修行をした地である。 チェッキ・ゴーリは同社ですぐにプロデューサーに昇格、1960年には独立して映画製作配給会社「フェア・フィルム」を設立する。また、カスティケリは同社が主演女優に育てたシルヴァ・コシナと1960年には同居し始め、1967年にメキシコで結婚している。
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1951年、アントニオ・マンブレッティとマリオ・ヴィッラが共同で設立、映画製作を開始した。同年、ディーノ・リージ監督の『ギャングと過ごすヴァカンス Vacanze col gangster』(日本未公開)を製作、リージを長編映画監督としてデビューさせた。のちにチェッキ・ゴーリ・グループを起こすマリオ・チェッキ・ゴーリがアソシエイト・プロデューサーとして名を連ねている。また同作では、まだ12歳の俳優テレンス・ヒル(マリオ・ジロッティ名義)もデビューしている。 また同年、アルベルト・ポゼッティと組んで三人組でコメディを撮ったマルチェロ・マルケージ、ヴィットリオ・メッツに、マリノ・ジロラミを加えた新三人組監督にコメディを撮らせた。脇役にまだ無名のソフィア・ローレンが出演していた。 1953年には、1949年末に、長編劇映画『カプリの皇帝 L'Imperatore di Capri』(製作カルロ・ポンティ、製作会社ルックス・フィルム、日本未公開)がローマで公開され、最初の成功を得たルイジ・コメンチーニを借り出して、『夢のカバン La Valigia dei sogni』(日本未公開)を撮った。しかし、コメンチーニはその年の暮れに公開されたジーナ・ロロブリジーダ主演の『パンと恋と夢』(製作総指揮マルチェロ・ジロージ)をティタヌス社で撮り、大ヒットさせ、年明け1954年の第4回ベルリン国際映画祭で銀熊賞を獲得、シリーズ化することになり、マンブレッティ社に戻ってくることはなかった。 時代の主流になろうとしていた「イタリア式コメディ」だけでなく、戦争映画(『Carica eroica』)などに手を出し、ついに1955年、伊仏合作『Disperato addio』を製作・配給したあとは、新作を更新することはなかった。 皮肉なことに同年、かつて同社でデビューしたディーノ・リージは、コメンチーニと同じくティタヌス社でマルチェロ・ジロージのプロデュースにより、ソフィア・ローレン主演の『Il segno di Venere』を撮り、第8回カンヌ国際映画祭コンペティション部門で上映されている。
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「イギリス・ニュー・ウェイヴ」の記事における「略歴・概要」の解説
1950年代後半から1960年代半ばにかけて活動していた、英国の若手の映画監督たちの比較的緊密に結ばれた集団、およびインディペンデントの製作会社に与えられた名称である。前者には、リンゼイ・アンダーソン、カレル・ライス、トニー・リチャードソンがその代表格であり、これにジャック・クレイトン、ジョン・シュレシンジャーが加えられることもある。後者には、特にリチャードソンと劇作家のジョン・オズボーンが原型を作ったウッドフォール・フィルムズが該当する。 「ニュー・ウェイヴ」という名称は、およそ同時代にあたるフランスのヌーヴェルヴァーグに由来する。ウッドフォール・フィルムズが製作した映画には、リチャードソンが監督した『怒りを込めて振り返れ』(1959年)、『蜜の味』(1961年)、そしてライスが監督した『土曜の夜と月曜の朝』(アラン・シリトー原作、1960年)などがある。 アンダーソンとライスとリチャードソンは、1950年半ばのフリー・シネマ運動(主として、「個人的な」ドキュメンタリーの製作に取り組んでいた)の共同創始者である。イギリス・ニュー・ウェイヴは、イギリス映画の伝統であるドキュメンタリーとリアリズムの潮流における重要な段階としてみなされている。 最初は、イギリス北部の産業地帯に集中する主に労働者階級に属する登場人物に焦点を当てた点で画期的であった、と解釈される傾向があった。 イギリス・ニュー・ウェイヴの監督のほとんどは、イギリスの支配階級とオックスブリッジ(オックスフォード大学とケンブリッジ大学)出身だった。この運動は社会的にこれまで周縁に属していた主題や対象を誠実に取り上げようとする試みでもあったが、それは当事者の視点でなく、階級関係についてのラジカルな分析と言うよりは、ほとんどいつも労働者階級の男性主人公についてのロマンティックで個別的な描写にとどまっていた。
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「ワーナー・ブラザース=セヴン・アーツ」の記事における「略歴・概要」の解説
1967年(昭和42年)、1957年(昭和32年)設立の映画製作会社セヴン・アーツ・プロダクションズが、ジャック・ワーナーが保有するワーナー・ブラザースにおける支配的利権を3,200万ドルで取得し、両社合併の上、設立された。この取引には、ワーナー・ブラザース・レコード、リプリーズ・レコード、および白黒時代の『ルーニー・テューンズ』のライブラリーも含まれていた。『メリー・メロディーズ』の第1作『お嬢さんマンドリンを弾いて』(Lady, Play Your Mandolin!)、『フィニアンの虹』もである。 同年、合併後の同社は、アトランティック・レコードを買収する。 1969年(昭和44年)、同社はさらに、キニー・ナショナル・カンパニーに買収された。1972年(昭和47年)には、駐車場事業に関する財政的スキャンダルのため、キニー・ナショナル・カンパニーは、エンタテインメント事業以外の資産を分社化し、ワーナー・コミュニケーションズと改称した。同社はのちにタイム・インクと合併してタイム・ワーナーとなる。
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かつて1925年(大正14年)に東亜キネマから独立した牧野省三が設立したマキノ・プロダクションが、等持院撮影所を東亜に譲り渡したさいに建設した御室撮影所を、同社の解散後、1932年(昭和7年)の正映マキノキネマや宝塚キネマが相次いで稼動させたが、いずれも解散した。 1934年(昭和9年)9月に田中伊助が出資して設立したのがこの「エトナ映画社」で、同撮影所を「エトナ映画京都撮影所」と改称して、映画を製作した。宝塚キネマから同地に残った後藤岱山や、市川右太衛門プロダクション(右太プロ)から来た稲葉蛟児といったマキノ・プロダクション出身の監督をかかえ、マキノの敏腕宣伝部長都村健を宣伝部長に迎えた。撮影部は1930年(昭和5年)にマキノ・プロダクションを大道具の河合広始とともに退社、太秦の双ヶ丘に撮影所を建設し「日本キネマ撮影所」を設立した田中十三とその一派の岸雅夫、脚本部は日活京都出身の野村雅延、俳優部は右太プロでは浅香麗三郎、河合映画製作社では燕東三郎と名乗った綾小路絃三郎、宝塚キネマから来た水原洋一や鳥人・高木新平、新興キネマの五十鈴桂子らが主力となった。 9本の映画を製作したが、設立半年後の1935年(昭和10年)4月には解散した。解散後の稲葉、後藤、綾野小路は極東映画社へ、田中はフリーランスに、水原はマキノ正博のマキノトーキー製作所へ、五十鈴は大都映画を経て極東へ、高木は地方巡業の旅に出た。宣伝部長の都村は通信合同社に入りジャーナリストの道を歩んだ。 同社が稼動した御室撮影所は、松竹キネマが接収し、松竹御室撮影所(しょうちくおむろさつえいじょ)となったが、同所で松竹キネマが製作したのは、伊藤大輔監督の『あさぎり峠』(1936年)のみであった。 2004年(平成16年)6月11日、同社の全容判明との記事が「京都新聞」に掲載された。
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1928年(昭和3年)、マキノ省三こと牧野省三が経営していたマキノ・プロダクションの社員脚本家だった山上伊太郎が、本作の脚本を書き下ろした。当時の同社は、省三渾身の超大作『忠魂義烈 実録忠臣蔵』が火災で大半を焼失してしまったことや、同作へのメインキャスティングを同社のスターではなく、伊井蓉峰と諸口十九とを抜擢したことに端を発する片岡千恵蔵ら大スターの集団退社のあとで、既存のスターがほとんど抜け落ちた後であった。 本作のメインキャストが、南光明、谷崎十郎、根岸東一郎、河津清三郎といった無名の若手俳優であったことは、「浪人街」のリアリティを感じさせた。第1作を同年の10月20日に封切ると、日本全国で大ヒットを記録、同年のキネマ旬報でベストワンを獲得した。 第二話では、キャストも南と根岸以外のメインキャストも入れ替え、キャラクターも新たにした。 2009年10月時点で、『浪人街 第二話 楽屋風呂 第一篇』と『浪人街 第二話 楽屋風呂 解決篇』を1本に再編集した73分の短縮版『浪人街 第二話 楽屋風呂』以外は現存しないとされていた。その後、『浪人街 第一話 美しい獲物』のクライマックスを含む断片8分が発見され、2009年に『第二話』、正博が同時期に監督した『崇禅寺馬場』の断片と共に『Talking Silents 9 「浪人街 第一話・第二話」「崇禅寺馬場」』として発売された。 時代劇映画は本作で初めて、集団殺陣(四名の浪人と数十名の悪旗本連)というジャンルを「斬りひらいた」。唯一の英雄も武士道も忠義もなく、愛する女を奪われ友を傷つけられたことに怒り狂う浪人たちが待ち受ける罠に暴れ込む様が描かれる。悪旗本連に買収され「辛い!」とうなりながら傍観していた赤牛弥五右衛門が、ついにたまりかねて助太刀に殴り込み、「おのれ裏切ったな!」と叫ぶ旗本たちに「馬鹿ッ、表返ったのじゃわッ!」と答える場面、公開当時の映画館では赤牛のこの台詞でドッと歓声が上がり、拍手が鳴りやまなかったという(この場面は上記の現存断片に残されている)。赤牛に扮して「演技賞もの」と絶賛された根岸東一郎は、剣戟経験がほとんどなかった。「マキノ青春トリオ」(マキノ雅弘、山上伊太郎、三木稔)は素人同然の俳優を駆使し、ノー・スタア映画を作り上げ、しかも大ヒットさせたのである。
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中央アメリカのエルサルバドル最大の都市、首都サンサルバドルでロケーション撮影が敢行され、同国とアメリカ合衆国を中心とした広域ギャング組織マラ・サルバトルチャのような、地元のギャングに生きる人々を描いたドキュメンタリー映画である。 2008年(平成20年)に完成し、同年9月20日にはスペインのサン・セバスティアン国際映画祭、同年10月4日にはメキシコのマレリア国際映画祭、同年11月1日にはアルゼンチンのサン・ルイス国際映画祭、翌2009年(平成21年)2月6日にはドイツの第58回ベルリン国際映画祭のヨーロピアン・フィルム・マーケット(EFM)で上映され、ハンガリーでは同年5月28日、フランスでは同年9月30日に一般公開された。 2009年9月2日、撮影地であるサンサルバドルに滞在中の本作の監督、クリスチャン・ポヴェダが、なにものかによって銃撃され、暗殺される事件が起きた。本作はポヴェダの遺作となった。
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本作の前年、1962年(昭和37年)に発表されたジョゼ・エルネスト・デ・ソウザ監督の『ドン・ロベルト』(Dom Roberto)と並び、ポルトガルのヌーヴェルヴァーグである「ノヴォ・シネマ」の代表的な作品である。ローシャもデ・ソウザも、リスボンからパリへ留学経験をしており、ローシャは高等映画学院で映画製作を学び、ジャン・ルノワール監督の『捕えられた伍長』(1962年)、マノエル・デ・オリヴェイラ監督の『春の祭典』(1963年)等の助監督を経ての監督デビュー作である。 本作は、1964年(昭和39年)、ロカルノ国際映画祭で銀帆賞を獲得した。 日本では、本作の製作・公開から17年を経た1980年(昭和55年)3月2日、エキプ・ド・シネマの配給により岩波ホール等で初めて劇場公開された。
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本作は、1955年(昭和30年)にマウロ・ボロニーニ監督の『若い恋人たち』を共同で脚本執筆して以来、多くの脚本を共同で執筆してきたパスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ、マッシモ・フランチオーザの原案を、カンパニーレ、フランチオーザ、エンニオ・バルトリーニ、ルイジ・マーニの4人で共同執筆した脚本を、フランカ・フィルムが製作して完成したものである。 シネリッツが配給し、イタリアでは同年10月4日、フランスでは翌1964年(昭和39年)7月13日、西ドイツ(現在のドイツ)では1965年(昭和40年)4月9日に公開された。 日本では、2011年(平成23年)2月現在に至るまで劇場公開、テレビ放映、DVD等のビデオグラム販売等は行われていない。ピエロ・ピッチオーニによるサウンドトラックCDが発売され、『つかの間の恋心』のタイトルで日本でも知られるところとなる。
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「日本映画の父」牧野省三が、日活から独立して起こした会社である。牧野が本格的にインディペンデントに足を踏み出し、内田吐夢ら横浜の大活出身の若者たちで賑わい、衣笠貞之助を監督としてデビューさせたことで知られる。
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徳田秋声が執筆し、1915年(大正4年)1月12日から7月24日まで「読売新聞」紙上で連載され、同年9月に新潮社が単行本として刊行した。1937年(昭和12年)には、岩波文庫に収められている。 第二次世界大戦の終結後、初出から33年が経過した1948年(昭和23年)、文藝春秋新社が編んだ『秋声選集』の第3集に収められる。翌1949年(昭和24年)10月には、連載直後に単行本を上梓した新潮社が、新潮文庫から同作を再刊行した。1957年(昭和32年)には東宝が映画化し5月22日に公開し、同年、角川書店が角川文庫から同作を刊行した。 「#映画」を参照 1961年(昭和36年)10月6日には、朝日放送が『近鉄金曜劇場』という、基本的に毎週完結のドラマ枠を開始するにあたり、第1回作品として、森光子を主演にテレビドラマ化している。 「#テレビドラマ」を参照 1993年(平成5年)12月31日、秋声の著作はすべて著作権の保護期間が満了し、パブリックドメインに帰した。
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1984年(昭和59年)5月11日から開催された第37回カンヌ国際映画祭コンペティション部門正式出品作として初上映されたが、女が人妻を略奪するというインモラルな内容と、姉弟がヒステリックな夫婦役を演じたり、未成年の少女の扱いなどが問題となり、カンヌのお祭りには全く不似合なこともあってブーイングを浴び、受賞も逃した。その後のフランス公開では高い評価を受け、翌1985年第10回セザール賞では、主演女優賞にジェーン・バーキン、助演女優賞にマルーシュカ・デートメルスがノミネートされ、有望若手女優賞をロール・マルサックが受賞した。特にこの映画を見たパトリス・シェローはジェーンの演技に感銘を受け、彼女を舞台《贋の侍女》のヒロインに起用し、舞台デビューさせた。 日本では、1984年に池袋西武スタジオ200で行われたフランス映画祭で無字幕及びヌードシーンをフィルムを削るというスクラッチ修正で不快な状態ながら特別上映されてカルト的な人気となり、その後商事会社がセールス会社のパッケージ買いの一本として購入して危うくビデオ・スルーとなる予定であったところを、俳優座シネマテンが配給して1989年10月28日にヌードシーンを大幅に修正、クローズアップなどの処理をしてレイト公開された。2002年(平成14年)3月25日、紀伊國屋書店が世界初のDVD化する際に、無修正でリリース (ジェーンとドワイヨンが別れたこともあり、フランスでは二人のコンビ作品だけはDVD化されていない)。契約期間が終了し、2011年10月に再発売されることとなったが、PALスピードアップの新素材となった。
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金子洋文の戯曲は2幕3場、現代を舞台にした新劇である。初演は1936年(昭和11年)9月、東京都千代田区有楽町の有楽座(現在跡地は日比谷シャンテ)において、東宝劇団により行なわれた。演出も金子洋文、装置は島公靖。この公演は「昭和十一年度劇壇の一大収穫」と激賞された。同年10月には、京都宝塚劇場(現在跡地はミーナ京都)でも上演され、その記録が残っている(#構成と配役)。 本戯曲は、1976年(昭和51年)11月1日に発行された『金子洋文作品集 2』(筑摩書房)に収録された。
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1922年(大正11年)2月、東京・深川区(現在の江東区深川)で結成された。メンバーは、平田延介、近藤伊与吉、小林正、横田豊秋、大辻司郎、友成達雄である。活動資金は平田と小林の先輩である中村敬三が捻出した。映画にかぶれた20代の若者のいいかげんな集団であったが、のちの日本映画を背負う才能が、いわゆる「大正バブル」と呼ばれる好景気を背景に、自由にラフに集結していた。 のちに脚本家になる小林は平田の慶應義塾の同級生で、1921年(大正10年)夏、小林が友人の鈴木俊一(のちのユナイト映画日本支社宣伝部長)の「鈴木プロダクション」が製作する映画『真夏の夜の夢』の主役に平田を起用、岡田嘉子とのラブシーンを演じさせた。同作は横浜・山下町の大正活動映画のもつ撮影所を借りて撮影したため、当時同撮影所の撮影助手だった横田と知り合った。近藤は、帰山教正の「映画芸術協会」の第1作『生の輝き』に感激した平田が、同作に出演した近藤にアプローチをしている。大辻は当時まだ神田「東洋キネマ」の活動弁士であったが、近藤が「映画芸術協会」で初めて監督した『熱球』に1920年(大正9年)にすでに出演している。友成はのちの撮影技師である。 月間2本の喜劇映画を製作することを目的とし、設立第1作は平田主演の『ある日の熊さん』で2巻ものの短篇スラップスティック・コメディであった。ほかには撮影を横田が行ったこと以外は不明である。配給は、友成の兄・友成用三が森岩雄と同年銀座に設立した「中央映画社」が配給した。用三と森は野球仲間で、前年に高松豊次郎の「活動写真資料研究会」という名の撮影所を持つ映画製作会社に入社、助監督を経験していた。用三はのちの映画監督、森はのちの映画プロデューサーで東宝の副社長となる。 記録はほとんど残っていないが、近藤がオリジナル脚本を書いて監督し、また平田が主演した『未来の大名優』という作品の記録がある。これは同年5月19日に公開された。秋には解散、平田は同年11月に青山杉作、近藤らの新劇の劇団「踏路社」にもぐりこんでいる。
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略歴・概要
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1918年(大正7年)、兵庫県西宮市に大正信託の社長で、のちに関西工学専修学校(大阪工業大学および摂南大学の前身)を開学する本庄京三郎が同年に設立したデヴェロッパー「甲陽土地」が甲山の南麓約330ヘクタールを買収し、「東洋一の大公園」と銘打ったレジャー施設「甲陽園」を建設した。遊園地、温泉、宿泊施設、劇場、映画スタジオ「甲陽撮影所」を内包する施設であった。「甲陽撮影所」を経営したのが、この「甲陽キネマ」である。滝田南陽が同社の経営をした。現在、当時のフィルモグラフィは未確認である。 同社は、1923年(大正12年)12月に、大阪の金融資本である八千代生命に買収され、東亜キネマが設立された。「甲陽キネマ撮影所」は「東亜キネマ甲陽撮影所」となった。阪急電鉄の前身・阪神急行電鉄が甲陽線を開通させたのは、1924年(大正13年)10月1日のことであった。 同地は現在、西宮市甲陽園本庄町という町名であり、開拓者の「本庄」の名が冠された住宅地となっている。
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1912年(大正元年)9月、M・パテー商会、福宝堂、横田商会、吉沢商店との4社合併で「日本活動写真株式会社」(日活)が設立され、翌1913年(大正2年)10月には東京府南葛飾郡隅田村字堤外142番地(現在の墨田区堤通2丁目19番地1号)に「日活向島撮影所」がオープンした。しかし同社はなかなか一枚岩にはなれず、経営者サイドも従業員サイドも内紛が絶えず、旧吉沢商店系は向島に移ったが、旧福宝堂系、旧M・パテー系はそれに抵抗、撮影所近辺に天幕ステージを張り、独自の撮影を行っていた。 旧福宝堂系は営業から小林喜三郎や山川吉之助が抜け、常盤商会(のちに小林商会)や東洋商会を設立、旧吉沢系の千葉吉蔵、小西亮を引き抜き、製作サイドも多く流れ、また東洋商会へ流れなかった者も小松商会や弥満登音影に加わった。旧M・パテー系は大阪の敷島商会へ移籍、日活首脳陣はこのころ総辞職している。辞職した梅屋が、1915年(大正4年)、もともと梅屋の私邸であった「大久保百人町撮影所」をM・パテー商会合併以来再稼動、独自の映画製作・興行を開始すべく設立したのがこの「M・カシー商会」である。設立第1作は『我が子の家』で、同年6月に「深川座」で公開された。 社名の「M」は梅屋(Mumeya)の頭文字であり(「M・パテー商会」の「M」と同じ)、「カシー」は、梅屋庄吉の妻・トクの実家の姓「香椎」からとったものである。 同年、『先代萩』を中村歌扇の主演、当時14歳の三木滋人(三木稔)を撮影に起用して製作したほか、旧吉沢商店系の俳優、弥満登音影から移籍した者などを起用し、劇映画製作をつづけたが、翌1916年(大正5年)3月に深川座で公開された『新吉原廓達引』を最後に劇映画を発表していない。 同年11月3日の裕仁親王(のちの昭和天皇)の立太子礼において、その当日のもようを根岸興行部、小松商会、小林商会、天然色活動写真(天活)、東京シネマ商会、日活との7社競作で製作することになり、梅屋が陣頭指揮を執り、撮影現場を同社が独占している。同作は『立太子式当日市中雑観』として、式典の翌日の4日に早くも各社によって公開されたが、白黒フィルムの作品は同社の原版が使用されたという。天活は天然色の「キネマカラー」で公開しているので独自の撮影が行われたようである。同社の撮影所はふたたび稼動をやめたが、10年後の1926年(大正15年)、梅屋は日活から独立した俳優の片岡松燕を支援し、「片岡松燕プロダクション」が同撮影所をみたび稼動させることになる。
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略歴・概要
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1914年9月、「天然色活動写真小阪撮影所」として開所。「天活」消滅後、「帝キネ」を発足した山川吉太郎社長のもと、1920年5月から「帝国キネマ小阪撮影所」として稼動、1923年「帝キネ」は「芦屋撮影所」を開所した。 1925年、「帝キネ」に「取締役小阪撮影所長」として入り込んだ総会屋の立石駒吉が小阪撮影所を閉鎖、小阪の全従業員を解雇、山川も立石も辞職した。立石は解雇した小阪の従業員を選別し、「東邦映画製作所」を設立し小阪撮影所を復活させる。 確かに立石が選別したメンバーにはその後スター監督になる伊藤大輔監督や、俳優の岡田時彦、「日本最古の映画俳優」横山運平、俳優時代の伊志井寛、稲垣浩、のちに東宝の看板撮影技師となる玉井正夫がいた。しかし、立石にはなんら展望もなく、才能を生かすためのヴィジョンもなかった。伊藤大輔は同社設立第一作『煙』を完成させるが、早々に退社、「伊藤映画研究所」を設立していく。撮影技師の鈴木博はアシヤ映画製作所へ流れることで、やがて「帝キネ」に復帰した。 結果、賃金未払いのため2か月で同社は解散する。 このとき、「東邦小阪」に来た元「帝キネ」従業員は、その後、山川のもと新体制となった「帝キネ」には復帰できなかった。ほぼ全員が散り散りになっていった。
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略歴・概要
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1942年(昭和17年)、東宝映画所属の俳優であった長谷川一夫が、山田五十鈴らと実演の演劇を行うために設立、同年3月1日 - 3月25日、東京宝塚劇場で、第一回公演を打った。演目は、菊田一夫作・演出の『ハワイの晩鐘』、六世藤間勘十郎作・演出の『鷺娘』、川口松太郎作、金子洋文演出の『お嶋千太郎』であった。 戦局が深まった1944年(昭和19年)、最終公演を行う。 戦後、1946年(昭和21年)に活動を再開、同年9月9日 - 10月2日、東京・有楽座で、菊池寛作、衣笠貞之助演出の『藤十郎の恋』を公演する。同年11月、長谷川と山田は、第二次東宝争議の最中に「十人の旗の会」を結成して日映演東宝支部を脱退した。長谷川と山田は、1947年(昭和22年)3月25日、新東宝の前身、新東宝映画製作所の設立に参加、同社の設立第1作で市川崑監督の『東宝千一夜』にそろって出演した。同年11月10日、後援会の会報『新演伎座』第1巻第1号を発行する。同会報には、田口功夫やのちのマルベル堂社長の三ツ沢正治が携わった。同年末から1948年(昭和23年)初にかけて、中国地方、四国地方、九州地方を巡業した。 長谷川は同年いっぱいまで新東宝映画製作所に所属したが、1948年(昭和23年)2月、自ら代表となって新演伎座を株式会社化し、「株式会社新演伎座」となる。資本金は300万円、清川峰輔が専務取締役に就任した。同年、マキノ正博(のちのマキノ雅弘)のCAC(映画芸術協同)と共同で、両社の設立第1作『幽霊暁に死す』を製作、東宝の配給で同年10月12日に公開された。同年、演技研究所を発足、若尾文子やのちの紙芝居師・梅田佳声が入所している。 1949年(昭和24年)2月7日 - 3月6日、有楽座で巌谷真一・衣笠貞之助作、衣笠演出の『鬼あざみ (春秋常夜燈)』を上演した。配給提携は東宝に限らず、松竹、大映とも行った。 1952年(昭和27年)、経営が思わしくなく、同社を解散した。長谷川は大映京都撮影所に入社、山田はフリーランスとなった。
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サイレント映画時代末期の1935年(昭和10年)3月、日本活動写真株式会社(現在の日活)が、日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)にトーキーに特化した製作会社東京発声映画製作所を設立、同社が、日活との提携を離れて、1937年(昭和12年)3月に同地に建設・開所したトーキー専用スタジオ東京発声映画製作所が本撮影所の最初の姿であった。設立当初は、映画監督の重宗務が所長、脚本家の八田尚之が企画脚本部長であった。近隣には東京農業大学や東急自動車学校しかなかった。 詳細は「東京発声映画製作所」を参照 1941年(昭和16年)12月、同社が東宝映画と合併し、同製作所は東宝映画第三撮影所と名称を変更した。東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)や東宝映画第二撮影所(現在の東京メディアシティ)がある「砧村」からは、世田谷通りを東に行く、ずいぶん離れた立地であった。1943年(昭和18年)12月には、東宝映画が東京宝塚劇場と合併し、現在の東宝となった。同撮影所はの東宝第三撮影所と名称を変更した。 詳細は「東宝映画」を参照 1947年(昭和22年)3月25日、新東宝の設立とともに新東宝第二撮影所となる。特撮用のプールやオープンセットがあった。 詳細は「新東宝」を参照 1960年(昭和35年)、当時の新東宝の社長大蔵貢が、自らの別会社富士映画に同撮影所を譲渡させ、富士映画撮影所となる。同年12月1日、大蔵は新東宝を解任され、大蔵映画を設立、同撮影所は大蔵映画撮影所となる。第1作は大蔵の製作総指揮、小森白監督の『太平洋戦争と姫ゆり部隊』(配給大映)であったが、興行的に失敗、同撮影所内にオークラボウルを建設して、スタジオ部分を縮小した。 詳細は「大蔵映画」を参照 1974年(昭和49年)、大蔵映画は同撮影所を閉鎖、同敷地を総合レジャー施設オークラランドとした。37年の歴史に幕を閉じた。 詳細は「オークラランド」を参照
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第二次世界大戦前の時代から、マキノ正博(マキノ雅弘)や笹井末三郎らと交流のある映画人であった松本常保が、戦後、えくらん社(後のエクラン社)を1948年(昭和23年)に設立、映画製作を行っていたが、1959年(昭和34年)7月、同社の所在地と同じ京都市右京区太秦多藪町に日本電波映画株式会社設立、テレビ映画の製作を開始した。同社が、1962年(昭和37年)4月に、太秦井戸ヶ尻町に建設・開所したのが、この「日本電波映画撮影所」である。 テレビ映画『琴姫七変化』(1960年 - 1962年)などのドラマが成功し、劇場用映画も製作するようになり、一時は、京都・亀岡市内に「日本電波映画第二撮影所」を建設・開所したが、1967年(昭和42年)には、いずれの撮影所も閉鎖した。 日本電波映画は撮影所を手放したが、テレビ映画製作をつづけた。
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牧野省三の長女・牧野冨榮の夫、高村将嗣(高村正次)が1950年(昭和25年)11月に設立した映画製作会社・宝プロダクションは、当初、双ヶ丘(現在の御室双岡町)の立石電機(現在のオムロン)京都工場の敷地(かつての日本キネマ撮影所、現在住宅地)の一角で映画製作を行っていたが、1953年(昭和28年)、同地に宝プロダクション撮影所を建設・開所した。同地は、双ヶ丘から天神川通(国道162号)に沿って南下した、天神川沿いの場所に位置している。 同社は、双ヶ丘時代は新東宝と配給提携して、萩原章や加藤泰を監督としてデビューさせ、勢いがあったものの、撮影所開所前の1952年(昭和27年)に新東宝との提携を打ち切り、東映との提携に切り替え、撮影所開所後には、経営が悪化して自主製作を停止、東映京都撮影所を補完するためのレンタルスタジオとなった。 詳細は「宝プロダクション」を参照 1958年(昭和33年)、同社が倒産すると、日本京映が同撮影所を引き継ぎ、日本京映撮影所となった。基本的にはレンタルスタジオであり、田坂具隆監督の『ちいさこべ』(東映京都撮影所、1962年)等の映画や、『怪獣王子』(東急エージェンシー / フジテレビ、1967年 - 1968年)や『木枯し紋次郎』(C.A.L / フジテレビ、1972年 - 1973年)等のテレビ映画のセット、オープンセットとして稼動した。 詳細は「日本京映」を参照 1987年(昭和62年)には、同撮影所は閉鎖され、跡地はライフ太秦店駐車場となった。撮影所としての34年の歴史に終止符を打った。
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「マクドナルド橋のフィアンセ」の記事における「略歴・概要」の解説
フランスのヌーヴェルヴァーグの数少ない女性監督のひとり、1955年に長篇第1作『ラ・ポワント・クールト』でデビューしたアニエス・ヴァルダの短篇映画第5作で、ジャン=リュック・ゴダール、ジャック・ドゥミ、ピエール・シェンデルフェール、リュック・ムレらのデビュー作を手がけていたジョルジュ・ド・ボールガールが製作した。 同年に結婚したアンナ・カリーナとゴダールを主演に、「レミー・コーション」シリーズで当時人気のエディ・コンスタンティーヌ、ヴァルダの前作『季節よ城よ』でナレーションで参加したダニエル・ドロルム(フランス語版)、あるいはヌーヴェルヴァーグ的俳優ジャン=クロード・ブリアリやサミ・フレー、プロデューサーのボールガールも自ら出演している。セリフを語らないサイレント映画としてつくられ、完成後、限定された形で上映された。 本作は同年に撮影され、翌1962年4月11日に公開されたヴァルダの長篇劇映画第2作『5時から7時までのクレオ』で一部使用されている。レーモン・コシュティエ演じるラウルが、主人公のクレオを演じるコリーヌ・マルシャンらに上映してみせるフィルムが、本作の一部なのである。
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「禁男の園 ザ・制服レズ」の記事における「略歴・概要」の解説
本作は、監督の瀬々敬久が自ら書き下ろしたオリジナルシナリオによるもので、脚本に記された本作の原題『わたくしといふ現象は仮定された有機交流電燈のひとつの青い照明です』は、宮澤賢治の『春と修羅』の冒頭の一文の引用である。瀬々がのちに回想するところによれば、当時は宮澤賢治世界に深く影響を受けており、本作は、宮澤の『春と修羅』と、1970年代に連続企業爆破事件等を実行した日本のテロ組織「東アジア反日武装戦線」を結合することを夢想して脚本執筆、監督した作品であるという。国映が製作し、新東宝映画が配給、同年10月10日に公開された。 日本でのビデオグラムは、1993年(平成5年)6月、出版社・ビデオメーカーの笠倉出版社がVHSセルビデオとして『禁男の園 ザ・制服レズ』のタイトルで発売した。日本以外に関しては、劇場配給・ビデオグラム等のオールメディアかつワールドワイドのオールライツをアメリカ合衆国の映画会社 PinkEiga.com が掌握しているが、ビデオグラムの発売は見当たらない。 2010年(平成22年)8月10日 - 同月18日に東京・神田駿河台のアテネ・フランセ文化センターで行なわれた瀬々のレトロスペクティヴ上映「The Soul of Zeze 瀬々敬久自選作品集」において、同月12日に上映された。
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1914年(大正3年)、ユニヴァーサル・フィルム・マニュファクチャリング・カンパニーが同社の最初のシリアル・フィルムであるフランシス・フォード監督の『國寶』(別題『ルシル・ラヴ』、Lucille Love, Girl of Mystery )に続いて製作・配給した、同社第2作のシリアル作品である。原作はジョン・フレミング・ウィルソンによる同名の新聞連載小説で、本作の毎週の公開に連動してメディアミックス的に連載され、後に単行本として出版された際には、本作のスチル写真が掲載された。本作は、同年11月16日に全米で封切られた。 監督・主演のロバート・Z・レナード、主演女優のエラ・ホールのほか、のちに映画監督となるルパート・ジュリアンや、彼ら同様、1916年(大正5年)にユニヴァーサル傘下で設立されるブルーバード映画でスター女優となるクレオ・マディソンも本作に出演している。 日本では、1915年(大正4年)9月30日、浅草公園六区・電気館を皮切りに毎週連続で公開された。配給は、同年7月に東京市京橋区南伝馬町3丁目14番地(現在の東京都中央区京橋3丁目)に設立された播磨ユニヴァーサル商会が行なった。同社は同作に引き続き、フランシス・フォード監督の新作シリアル『名金』を同年10月10日に浅草公園六区の帝国館で封切り、この2作は大ヒットとなった。ユニヴァーサルのシリアル第1作『國寶』も、この2作の公開後の翌1916年7月に公開された。 本作の原版・上映用プリント等は既に散逸しているが、米国議会図書館のフィルム・アーカイヴに第5話だけが保存されている。
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「國定忠治 信州子守唄」の記事における「略歴・概要」の解説
マキノトーキー製作所の設立祝いに、と伊藤大輔が1927年(昭和2年)に手がけたサイレント映画『忠次旅日記』三部作の脚本をマキノ正博に贈り、これを原作として製作したトーキー作品である。内容は伊藤における『忠次旅日記 信州血笑篇』(1927年)に当たる。月形龍之介が忠治役を演じるのは本作のみで、『忠治血笑記』以降、月形サイドの都合のため、代役が立った。 東京国立近代美術館フィルムセンターの資料によれば、本作の監督は「マキノ正博」のみであり、脚本については脚色を千々喬一、潤色をマキノ正博が行ったとしており、これは原則的に現存する上映用ポジフィルムのクレジットに依拠するものである。文化庁の「日本映画情報システム」、インターネット・ムービー・データベースでは、これと同じ記述がなされている。これに対し、日本映画データベース、allcinemaでは、監督・脚本ともに「千々喬一、マキノ正博、久保為義」の共同名義とされている。本稿では前者に依拠し、後者を上記のように併記した。 2012年(平成24年)11月現在、本作の原版ネガフィルムは散逸して残っておらず、19分に短縮されたものを復元した上映用ポジフィルムのみが現存し、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されている。
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「桂」の地は、現在の京都市西京区の桂川右岸(西側)一帯であり、古代(6世紀 - 12世紀)、中世(12世紀 - 16世紀)を通じて、桂御厨、桂殿、上桂荘(天暦年間、西暦950年代ころ成立)、下桂荘といった荘園が造営された地である。8世紀前半の『日本書紀』(720年)にはすでに「葛野」(かつらの)として登場した「桂」は、下桂荘に由来する下桂村を指し、「桂女」が住んだとされる「桂」の地は「下桂村」の村域を指す。北側は徳大寺村(現在の同区桂徳大寺町)、西側は上桂村(現在の同区上桂)と千代原村(現在の同区桂千代原町)、南側は川島村(現在の同区川島)と下津林村(現在の同区下津林)、東側は桂川に接するという村域である。 「桂」に住み、神功皇后を主祭神とした紀伊郡伏見(現在の京都市伏見区)の御香宮神社(862年以前に建立)に属し、同社および、八幡三所大神として神功皇后を祭神の一柱とする、綴喜郡八幡(現在の八幡市)の石清水八幡宮(860年建立)に仕える巫女に由来を求める説がある。「桂女」の特徴とされる、白い布で頭部を覆う「桂包」(かつらづつみ)は、三韓征伐(神話的出来事とされる)の際に、神功皇后から「桂女」の始祖が頂戴した腹帯に由来するという伝説がある。「桂女」の始祖は、武内宿禰の娘「桂姫」であり、「桂姫」が伝えた飴の製法が、のちの「桂飴」となったとも伝えられる。 平安時代後期(11世紀 - 12世紀)には、供御人として桂川で収獲した鮎を朝廷に献上する鵜飼集団の女性が源流であるともされる。鎌倉時代(12世紀 - 14世紀)には、桂からくる女性の鮎売を指し、桶を頭上に載せて売り歩くスタイルをとった。 室町時代、15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』には、「鬘捻」(かつらひねり)とともに「桂の女」として紹介されている。1500年(明応9年)に成立したとされる『七十一番職人歌合』には登場しない。『三十二番職人歌合』には、「桂女」の特徴、白い布で頭部を覆う「桂包」が描かれている。この時代になると、桂川での鵜飼が衰退し、鮎をなれずしにした鮎鮨、勝栗、飴といった食料品、酒樽のような道具を売り歩くようになる。「桂女」の商圏は京都市内だけではなく、関西地方の公家や寺院、守護大名の屋敷を渡り歩く、遊女的存在となっていく。 江戸時代(17世紀 - 19世紀)には、白い布で頭部を覆う「桂包」の特徴は定着し、年頭や八朔(旧暦8月1日)、あるいは婚礼、出産、家督相続の際には、京都市内の天皇、公家、京都所司代等の屋敷を訪れ、「祝い言」(ほかいごと)を発し、祈禱を行い、やがては疱瘡(現在の天然痘)や安産の札を売り歩くこともしたとされる。 明治以降の近代では「桂女」の風習は廃れ、「時代祭」の「中世婦人列」にその姿を見出すことができる。
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略歴・概要
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長崎の貿易商で、20代の1895年(明治28年)ころには香港島の金融街で写真館「梅屋照相館」を経営していた梅屋庄吉が、フランスのパテー(Pathé)社の映画プリントをイギリスの植民地のシンガポールで入手、それを手に帰国して1906年(明治38年)7月4日に「M・パテー活動写真商会」を設立、京橋区の「新富座」で第1回興行を行ったのが同社の始まりである。 社名の「M」は梅屋(Mumeya)の頭文字であり、「パテー」はパテー社の社名を無断で借用したものである。 同会に撮影技師として岩岡巽は入社している。同年、同会は「M・パテー商会」に改組。このころ同社の「弁士養成所」に主任として入社したのが、当時活動弁士、のちの映画監督の岩藤思雪であった。 当初は輸入物の作品を岩藤のようなスタッフが翻訳して活弁台本を作成、興行をしていたが、1908年(明治40年)には中村歌扇らの俳優を出演させた劇映画を製作し始める。同年、株式会社化。1909年(明治42年)、東京府豊多摩郡大久保百人町(現在の新宿区百人町)に撮影所をオープン。第一作の「大西郷一代記」は評判を呼び、両国の国技館で初上映されたという。庄吉は中国革命の父孫文と意気投合して革命の資金にこの映画事業の収益を当てたという。亡命中の孫文は度々ここを訪れている。同年5月23日には岩藤の脚本・監督作『日本桜』が「第一文明館」で公開されている。同作は岩岡が撮影し、新派劇の俳優・関根達発が主演している。また同年、のちの映画監督の阪田重則が、15歳で同社に入社、巡回興行の映写係を経て、撮影所の撮影係となっている。このころ、同社が熊本での設立を支援した「熊本電気館」(Denkikan)は、移転や改築を経てはいるが、現存する最古の映画館である。 1911年(明治44年)には、同社の撮影技師田泉保直を南極に派遣し、白瀬矗率いる「第二次南極探検隊」に随行させて、ドキュメンタリー映画『日本南極探検』を製作、翌1912年(大正元年)に公開している。 同年9月1日、福宝堂、横田商会、吉沢商店との4社合併で「日本活動写真株式会社」(日活)を設立した。梅屋の私邸の敷地内であった大久保撮影所はこのとき閉鎖されたが、のちに梅屋はM・カシー商会を立ち上げ、同撮影所を稼動することになる。
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略歴・概要
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「ベン・ハー (1925年の映画)」の記事における「略歴・概要」の解説
前年の1924年(大正13年)に3社合併で設立されたばかりのメトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)が、390万ドルの巨費(サイレント映画において最も高額な製作費)を投じ、フレッド・ニブロを監督に、ラモン・ノヴァロを主役に製作したスペクタクル超大作である。原作はルー・ウォーレスが1880年(明治13年)に発表した小説『ベン・ハー』で、1907年(明治40年)の15分の短篇版に次ぐ2度目の映画化である。 当初、チャールズ・ブレビンが監督し、ジョージ・ウォルシュが主演をする予定であった。高名な戦車競争シーンは、リーヴス・イースンが演出している。同シーンの観衆エキストラとして、当時の俳優、スタッフらが大量に動員された。このシーンは6万メートル以上のフィルムが撮影されたが、最終的に229メートルにまとめられた。また、一部のシーン(キリスト関係)は二色法によるカラー映像で、ビデオ版リリース時にチェコの倉庫でフィルムが発見されたことで現在でもその彩色を見ることができる。 ウィリアム・ワイラーによる1959年の3度目のリメイクはこの2作目をほぼ完全に踏襲している。ワイラーは2作目の助監督でもあり、両作品に関わった数少ない人物である。 1928年度キネマ旬報ベストテン 外国映画4位(なお、1位はムルナウの『サンライズ』)。 1997年(平成9年)にアメリカ国立フィルム登録簿に登録された。
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ロティ・ブレア・パーカーの芝居『Annie Lairie』に基づくウィリアム・ブラディが演出した芝居『Way down east』を映画化したものである。 グリフィス得意のラスト・ミニッツ・レスキューが遺憾なく発揮されるクライマックス、荒れ狂う猛吹雪や河を流れる流氷上で失神するリリアン・ギッシュ等の見事な描写が評判となり大ヒット。ブロードウェイでは1年以上のロングラン上映となった。 米国ではユナイテッド・アーティスツ(UA)が配給し、日本では、1922年(大正11年)、同社の支社であるユナイト日本支社が開設の第1作として配給した。
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「旧劇 太功記十段目 尼ヶ崎の段」の記事における「略歴・概要」の解説
M・パテー商会は現在の日活の前身の一社で、東京を拠点として、映画の製作・配給を行っていた商社である。従来、外国映画の配給を行っていたが、1908年(明治41年)、浅草公園六区に新設された映画館・大勝館からの依頼で中村歌扇の少女歌舞伎を出演させた『曾我兄弟狩場の曙』を製作したのをきっかけに、映画製作を始めた。 同社が撮影所をもつのは翌1909年(明治42年)であり、本作は近辺ロケーション撮影で製作された。撮影は、同社の現像部の社員であった男沢粛で、『曾我兄弟狩場の曙』を撮った西川源一郎と交互に作品を回していた。本作は、江戸中期に成立した人形浄瑠璃『絵本太功記』の代表的な「十段目 尼ヶ崎の段」を主題に、大勝館の舞台に出演していた中村鶴之助、鶴之助が率いる少女劇団・娘美団の出演を得て製作され、同年12月10日、製作依頼元である大勝館で公開された。 本作の上映用プリントは、現在、17分、1038.02フィート(316.39メートル)の上映尺の35mmフィルムが東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されている。同年製作の日本映画のなかで、同センターに所蔵されているのは、本作ただ1作のみである。現在、観賞することが可能な作品である。
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本作は、脚本家時代のダリル・F・ザナックが「メルヴィル・クロスマン」名義でオリジナルシナリオを書き、アーサー・シーザー(英語版)が台詞を書いた作品で、当初はテクニカラーで撮られたカラー映画であった。製作・配給としてクレジットされている「ザ・ヴァイタフォーン・コーポレーション」とは、ワーナー・ブラザースのことであり、実際には、製作はファースト・ナショナル(英語版)、配給をワーナー・ブラザースが行った。 『尖端娘商売』という日本語題は、「パーティ生活」を意味する原題とは無関係に、主人公の女性たちの行動に対し、当時の日本の流行語であった「尖端」の語で形容したものである。日本での配給・宣伝は、ワーナー・ファーストナショナル日本支社が行った。 現存する上映用プリントは、1950年代にテレビ放映用に作成された白黒フィルムのみで、オリジナルのカラー版の現存は確認されていない。
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「札幌シネマフロンティア」の記事における「略歴・概要」の解説
2003年2月22日、『ロード・オブ・ザ・リング/二つの塔』の上映で先行オープンし、同年3月6日にグランドオープン。2013年3月で開業10周年を迎えた。 1999年、同所にAMCシアターズ進出の動きがあったため、AMCに出られたら終わりだと同社の進出を阻止するため、当時の岡田茂東映会長ら、東映、東宝、松竹のトップが手を握り、日本で初めて、大手映画会社3社が共同経営するシネコンとして誕生した。開業後、TOHOシネマズ(東宝)、松竹マルチプレックスシアターズ(松竹)、ティ・ジョイ(東映)の共同事業体で運営していたが、2012年3月1日付でTOHOシネマズ株式会社に運営委託された。ただし現時点でシネマイレージやvitなどのサービスは行われていない。2016年2月27日にリニューアルオープン。
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略歴・概要
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吉川英治の小説『治郎吉格子』を原作に、当時満33歳の伊藤大輔が脚色して監督、唐沢弘光が撮影技師、大河内傳次郎が主演する日活の正月映画として、日活太秦撮影所が製作、日活が配給して1931年(昭和6年)12月31日に公開された。 大河内にとっては同年6月封切の『鼠小僧旅枕』(監督伊藤大輔、撮影唐沢弘光)についで2度目の鼠小僧次郎吉役である。2年後には山中貞雄監督で『鼠小僧次郎吉』に主演している。1927年(昭和2年)の『忠次旅日記 御用篇』同様、ヴァンプ的な女・おせん(お仙)役を演じた伏見直江、対照的に清純な娘・お喜乃役を演じた伏見信子は姉妹での出演となった。おせんの兄・仁吉を演じたのちの喜劇俳優・高勢実乗は、1928年(昭和3年)の衣笠貞之助監督の『十字路』 同様、十手を持つことにこだわる陰険な悪役である。 1934年(昭和9年)には、同原作を柳川真一が脚色、高田浩吉が主演、大曾根辰夫が監督して『次郎吉格子』のタイトルで松竹下加茂撮影所がトーキーでリメイクし、第二次世界大戦後の1952年(昭和27年)には、伊藤大輔自身が長谷川一夫を主演に、『治郎吉格子』のタイトルで松竹京都撮影所の製作でセルフリメイクしている。 本作の上映用プリントは、現在[いつ?]、東京国立近代美術館フィルムセンターが「79分」(5,334フィート、1,625.8メートル)と「22分」(1,495.11フィート、455.7メートル)の2ヴァージョンを所蔵しており、マツダ映画社も「65分」のヴァージョンを所有している。最長版はフィルムセンター所蔵の「79分」版である。伊藤大輔と大河内伝次郎のコンビによる作品では、フィルム断片ではなく一定の尺をもつ唯一の作品である。 日本のビデオグラムメーカーのデジタル・ミームが2008年(平成20年)10月8日に原作の『治郎吉格子』と「治」の文字が同一の『御誂治郎吉格子』のタイトルで「61分」の上映尺のDVDを、ディスクプランが2009年(平成21年)5月28日に『御誂次郎吉格子』のタイトルで「56分」の上映尺のDVDを、それぞれリリースしている。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/12 14:41 UTC 版)
1929年(昭和4年)、松竹キネマ京都撮影所が通常の30倍の製作費をかけ、大ロケーション撮影を敢行して製作された大作である。主演の月形龍之介は、独立して経営していたツキガタプロダクションを同年に一旦畳み、松竹に入社した第1作であった。監督の伊藤大輔は、この前後の時期は日活太秦撮影所で活動していたが、この1作ためのみ、松竹で監督することになった。撮影技師も伊藤とのコンビを組む唐沢弘光が日活からレンタルされている。伊藤のオリジナル脚本による作品である。 本作は、同年9月20日、浅草の松竹直営の洋画専門館・帝国館をフラッグシップにして公開された。 中国地方の小藩を舞台に、悪政に苦しむ百姓たちを救うために立ちあがった浪人の姿を描いた、当時流行した左翼思想の影響を受けた「傾向映画」の傑作である。カットバックや移動撮影などの技法を駆使し、その斬新な映像表現で高い評価を受け、1929年度のキネマ旬報ベストテンに第6位にランクインされた。また、月形龍之介は「役者人生の中で最もお気に入りの一作である」と語っている。 本作は、数十年にわたって現存しないフィルムとされていたが、2002年(平成14年)、東京都の映画作家・寺澤敬一が9.5ミリフィルムのダイジェスト版を発見し、東京国立近代美術館フィルムセンターに寄贈した。フィルムセンターは、オランダのアムステルダムにあるフィルム修復・復元専門のラボに依頼し、同センター初のデジタル復元を行った。現在、同センターが所蔵するのは、発見されたダイジェスト版から起こした「1秒間18コマ、26分の35ミリプリント」である。同プリントが2003年(平成15年)、東京国立美術館フィルムセンターが企画した「発掘された映画たち2003」で上映された。また、2005年(平成17年)には、第24回ポルデノーネ無声映画祭で松竹創立110周年を記念して組まれた特集の1本として上映された。
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略歴・概要
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「韓国スタンダードチャータード銀行」の記事における「略歴・概要」の解説
旧・第一銀行は日本統治下の1929年に朝鮮貯蓄銀行として設立。1958年に第一銀行と商号変更。日本にかつて存在した第一銀行や台湾の第一銀行とは関係ない。韓国ではじめて定期積金やトラベラーズチェックを開発している。 韓国での分類は「市中銀行」となり、銀行コードは23。日本の金融庁の分類では「外国銀行」となり統一金融機関コードは0436であった。 旧・第一銀行時代、アジア通貨危機の際に主要取引先であった起亜自動車、大宇、韓宝鉄鋼の相次ぐ経営危機に連鎖して破綻。米投資ファンドのニューブリッジ・キャピタルが経営権を買収。韓国の銀行としてはじめての外国人CEOウィルフレッド・Y・ホリエが就任して話題となった。ウィルフレッド・Y・ホリエは日本の消費者金融でCiti傘下のアイク(現ディック)で長年社長を務めた人物である。 韓国では欧米金融機関の名を冠した金融機関は、同行のほかに米シティバンク傘下の韓国シティ銀行(旧韓美銀行)がある。
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略歴・概要
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白瀬矗は1910年(明治43年)11月28日に南極探検を開始、その後天候の不順からオーストラリアのシドニーに一時戻っていた。同探検のスポンサーである大隈重信は、映画会社であるM・パテー商会を経営する梅屋庄吉にドキュメンタリー映画の撮影を依頼、梅屋は同社の撮影技師田泉保直をシドニーに派遣、随行させて「第二次南極探検」の撮影を行った。田泉は同隊に随行する全期間で、35mmフィルムを4,000フィート回した。撮影機材は、ワーウィック貿易(英語版)のワーウィック撮影機。 本作は、1912年に完成し、同年6月28日、M・パテー商会が配給して、浅草の国技館で公開した。同年9月1日には、同社は他3社と合併して日活となった。日活は、同年11月15日に、浅草公園六区の大勝館を筆頭に『南極探検』という映画を公開しているが、これは牧野省三監督、尾上松之助主演の劇映画であり、本作とは異なる。 その後、白瀬は本作のフィルムプリントを使用しての講演を行い続けた。 2012年(平成24年)5月現在、東京国立近代美術館フィルムセンター、早稲田大学の両者が上映用プリントを所蔵している。前者は35mmフィルム・20分、後者は16mmフィルム・15分である。フィルムセンターのプリントは、2001年(平成13年)にイタリア・ポルデノーネで行われた第20回ポルデノーネ無声映画祭で上映されている。 2007年度(平成19年度)に文化庁と東京国立近代美術館が行った「近代歴史資料緊急調査」で、探検隊支援者の遺族が所持していた851メートル(5巻・現存最長)の可燃性染調色ポジフィルムが発見され、このフィルムは1940年に検閲を通過したもので、長さも原形(857メートル)をとどめていることが判明した。2015年度(平成27年度)に東京国立近代美術館によってフィルムの不燃化とデジタル修復が行われ、2016年11月24日に東京国立近代美術館フィルムセンターで特別上映会が行われた。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/02 10:18 UTC 版)
1950年(昭和25年)、前年にデビューした美空ひばりの映画出演2年目、第15作である。完成は同年4月17日、公開は同年5月20日であった。本作と次作『東京キッド』で人気は不動のものになったとなったとされる。 監督の斎藤寅次郎は、第二次世界大戦前の1937年(昭和12年)に松竹大船撮影所から東宝へ移籍しており、本作の撮影当時は、新東宝に在籍していたが、吉本興業との提携作品を中心に監督しており、吉本資本であった太泉映画に出向し、本作を演出した。当時新東宝の助監督として斎藤に師事していた曲谷守平が「演出補佐」としてクレジットされている。 製作元の太泉映画、配給元の東京映画配給が合併して設立された東映は、本作のネガ原版・上映用プリントともに所有・管理しておらず、本作は長らく散逸した作品であったが、2002年(平成14年)、大阪在住の映写技師が16mmフィルム版、65分の短縮プリントを所有していることがわかり、大阪芸術大学教授の太田米男が中心となり、復元プロジェクトが復元を行った。2004年(平成14年)12月、『美空ひばり東映映画DVD選集』(全20タイトル)のリリースが始まり、その購入特典として東映および東映ビデオがDVD化を行った。復元されたプリントは、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵された。本作の脚本の決定稿も残っている。マキノ正博が監督した『肉体の門』(1948年)と並び、2作のみ現存が確認されている、「太泉映画作品」である。
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略歴・概要
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横浜に撮影所を持った映画会社、大正活映が1922年(大正11年)に製作を中止し、1923年(大正12年)9月1日に起きた関東大震災後の時期に、大正活映の撮影スタッフであった長谷川清が設立した。記録の残る最初の作品は、1924年(大正13年)に同社が製作・公開した『春は還る』である。同作は、栗原トーマスこと栗原喜三郎が逓信省簡易保険局による原案を脚色して監督、内田吐夢が補助監督、長谷川清が撮影、尾崎章太郎がセット美術のデザインを行なった作品で、いずれも大正活映出身者である。内田吐夢は、大正活映を辞した後に、京都の牧野省三の牧野教育映画製作所に移籍し、その後、放浪していた時期に参加しており、同作のほかにも、短篇アニメーション映画『蟹満寺縁起』(同年)、中篇劇映画『虚栄は地獄』(1925年)の演出も手がけている。『虚栄は地獄』では、同社代表の長谷川が自ら出演しているが、長谷川は、大正活映時代にも、栗原トーマスが監督した『葛飾砂子』(1920年)に夫人とともに出演している。第二次世界大戦後の東宝の撮影技師、長谷川清は本時点で生まれておらず、別人である。 のちに日本映画社で『陸軍航空戦記 ビルマ篇』(監督柳川武夫、1943年)で撮影を手がける坂齋小一郎は、1927年(昭和2年)、当時、東京府東京市浅草区寿町47番地(現在の東京都台東区寿)に現像場を持つ同社に入社、撮影助手を1年ほど務めることで、映画のキャリアを始めている。坂齋によれば、1年ほど経つころには、製作機能を千葉県東葛飾郡市川町大字真間(現在の同県市川市真間5丁目)に新設した撮影所に移転している。同社は頻繁に『官報』に広告を打っており、1929年(昭和4年)6月22日付の『官報』(大蔵省印刷局)に掲載された広告には撮影所の所在地が掲載されている。また同じころ、本社機能を坂齋らのいた浅草寿町から、牛込区市ヶ谷見附にあった市ヶ谷ビル内に移転している。 1930年代以降の作品の記録がみられず、このころには活動を停止した模様である。 「朝日キネマ市川撮影所」は、千葉県内の映画スタジオとしては、阪東妻三郎が1931年(昭和6年)1月、同県千葉郡津田沼町谷津海岸(現在の同県習志野市谷津)に建設して稼働した「阪東妻三郎プロダクション関東撮影所」(のちの谷津遊園)に3年ほど先駆けたものである。亀井院の東側、手児奈霊堂の北東に隣接した同撮影所は現存せず、南側に隣接した伊藤牧場も含めて住宅地になっている。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 03:43 UTC 版)
この作品の原作はジョージ・S・カウフマン、モス・ハートのコンビが書いたピュリッツァー賞受賞の戯曲を、キャプラの良き相棒ロバート・リスキンが脚色し、キャプラのキャスティングの見事さと語り口の巧さによって映像化したものである。 ハリウッドの人気スター、ジーン・アーサー、ジェームズ・スチュワートと舞台出身のベテラン俳優ライオネル・バリモアとエドワード・アーノルド、それに達者な脇役のコメディアンたちを適材適所で演出し、観客を笑わせてくれる。キャプラお得意の人間味あふれるコメディの1本である。当時MGM専属で凡庸な二枚目だったスチュワートの起用はキャプラの次作『スミス都へ行く』の成功へ繋がることとなる。スチュワートは第一回東京国際映画祭『グレン・ミラー物語』特別上映の舞台挨拶において「私の大好きな監督はフランク・キャプラとアルフレッド・ヒッチコックです」と語っている。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/05 04:00 UTC 版)
1972年(昭和47年)春に結成された。メンバーは、渡辺プロダクションを退社、ソロでのセカンドアルバム『Merrill 1』(同年1月)リリース後のアラン・メリル、元エモーションの近田春夫と金沢ジュン(金沢純一)であった。近田と金沢は、『Merrill 1』のライヴ・アクトでバッキングメンバーであった。 アランの回想によれば、同年夏、長野県軽井沢町のアゼリアクラブで1か月出演したという。また、映画『小さな恋のメロディ』(1971年)の日本公開時のプロモーションとして、全国で上映の前座演奏ツアーを行ったとのことだが、同映画の日本公開は前年1971年(昭和46年)6月26日である。 ゴジラには、ベース奏者がいなかったが、ライブでは、近田が左手でレイ・マンザレクばりにローズ・ピアノを弾き、レコーディングでは、アランがベースを弾き多重録音をしたという。 4曲のオリジナル楽曲を持っていたが、デモ音源に留まり、商業リリースはされなかった。ゴジラのクレジットとともに残された音源は、キングレコードの企画ものアルバムにセッションバンドとして参加した『ROCK IMPULSE! ゴーゴー大パーティー』での加藤ヒロシとの洋楽カヴァーであった。加藤とは、翌1973年にもおなじくキングレコードからリリースされた、神崎みゆきのファーストアルバム『神崎みゆき ファースト・アルバム』に近田と金沢が「加藤ヒロシとそのグループ」名義で演奏に参加することになる。 同年、近田はハルヲフォン(のちの近田春夫&ハルヲフォン)を結成したり、内田裕也の1815ロックンロールバンドに参加したり、アランがかまやつひろしのバックバンド(ウォッカ・コリンズの原型)に参加したりで、多忙となり、その一方、レコードデビューも決まらなかったりで、ゴジラは半年ほどの活動をもって自然消滅した。
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略歴・概要
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「いもりの黒焼 (映画)」の記事における「略歴・概要」の解説
横田商会は現在の日活の前身の一社で、京都を拠点として、映画の製作・配給を行っていた商社である。1905年(明治38年)ころから同社で撮影や現像を行っていた技士の土屋常吉が同社を去り、土屋の甥で弟子であった福井繁一が、土屋の仕事を引き継いだ。1908年(明治41年)、伊藤博文が純宗とともに朝鮮を一周するに際し、京城日報からの依頼でドキュメンタリー映画『韓国観』の撮影を行った福井が、帰国と同時に取り組んだ劇映画が本作である。同社には当時、まだ撮影所を持たなかったため、オールロケーション撮影で撮影を敢行した。 京都の大虎座に出演していた舞台俳優鶴家団十郎とその一座を起用、大阪の住吉大社でロケ、撮影は半日で終了した。全3場、つまり3つのシークェンスしかもたない短篇映画で、上方落語でも知られる大阪・高津宮の惚れ薬「いもりの黒焼」をモチーフにしたスラップスティック・コメディであり、セリフやト書きを表示する字幕(カットタイトル)も付されないパントマイム表現の映画であった。本作は、福井の前作『韓国観』が公開された6月1日と同月の25日に、東京・神田の横田商会特約館・錦輝館で公開された。 本作の上映用プリントは、現在、東京国立近代美術館フィルムセンターには所蔵されておらず、マツダ映画社はそのリストに本作の題名が見当たらない。現時点では、鑑賞することの不可能な作品である。
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略歴・概要
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「拳骨 (1915年の映画)」の記事における「略歴・概要」の解説
1914年(大正3年)、フランスの映画会社パテ・フレール(現在のパテ)がパール・ホワイトを主演にアメリカで製作・公開したシリアル『ポーリンの危難』 の大ヒットを受けて、レオポルド・ワートン、シオドア・ワートンのワートン兄弟が製作した前作『拳骨』の続篇として製作され、パテ・エクスチェインジが配給して、前作の最終話の公開された1915年3月30日の翌週、同年4月5日に第1篇を公開した。本作の第10篇のあとには、続々篇 The Romance of Elaine が製作された。 日本では、1916年(大正5年)3月、天然色活動写真(天活)が配給して、前作の第1篇『拳骨 第一篇 酸化薬の一種』が東京・浅草公園六区の帝国館で封切られるが、本作の第1篇は、別作品とせずに引き続き『拳骨 第十五篇 圧搾瓦斯』として、同年5月20日に同館で封切られた。 現在、本作の原版・上映用プリント等は散逸し現存しないとみなされている。
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略歴・概要
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吉沢商店は、現在の日活の前身の一社で、同年1月20日には、東京府荏原郡目黒村大字下目黒の行人坂(現在の東京都目黒区下目黒)に撮影所を同年建設・開所した。同撮影所が最初に撮影した映画が本作で、日比野雷風が主演し、剣舞を舞うところを撮影したものであり、ストーリーのある劇映画ではなかった。同撮影所で撮影された最初の劇映画は、同年製作・公開の『和洋折衷結婚式』である。 本作は、浅草公園六区に吉沢商店が直営する映画専門館電気館で、同年10月17日に公開された。同館での公開の際、日比野自身が舞台に上がって詩を吟じ、活動弁士の染井三郎が解説をした。 本作の上映用プリントは、現在、東京国立近代美術館フィルムセンターには所蔵されておらず、マツダ映画社はそのリストに本作の題名が見当たらない。現時点では、鑑賞することの不可能な作品である。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/09/05 14:03 UTC 版)
横田商会は現在の日活の前身の一社であり、京都を拠点とし、映画の製作・配給を行っていた商社である。1905年(明治38年)ころから同社で撮影や現像を行っていた技士の土屋常吉が同社を去り、土屋の甥であり弟子であった福井繁一が、土屋の仕事を引き継いだ。1908年(明治41年)、伊藤博文が大韓帝国第2代皇帝の純宗とともに朝鮮を一周するに際し、韓国統監府の機関紙・京城日報からの依頼で福井が撮影したドキュメンタリー映画が、本作である。 本作は、同年6月1日、東京・神田の横田商会特約館・錦輝館で公開された。 本作の上映用プリントは、現在、東京国立近代美術館フィルムセンターには所蔵されておらず、マツダ映画社はそのリストに本作の題名が見当たらない。現時点では、鑑賞することの不可能な作品である。
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略歴・概要
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「拳骨 (1914年の映画)」の記事における「略歴・概要」の解説
1914年、フランスの映画会社パテ・フレール(現在のパテ)がパール・ホワイトを主演にアメリカで製作、同年3月31日にエレクトリック・フィルム・カンパニーが配給・公開したシリアル『ポーリンの危難』 に引き続き、パール・ホワイトを主演にレオポルド・ワートン、シオドア・ワートンのワートン兄弟が製作したシリアルである。本作は、エレクトリック・フィルム・カンパニーが配給し、同年12月29日に公開が始まるが、翌1915年(大正4年)の初めにパテ・エクスチェインジがエレクトリック・フィルムを吸収合併したため、それ以降はパテ・エクスチェインジが配給している。本作は好評となり、続篇・続々篇が製作・公開された。 日本では、1916年(大正5年)3月、天然色活動写真(天活)が配給して、本作の第1篇『拳骨 第一篇 酸化薬の一種』が東京・浅草公園六区の帝国館で封切られるが、この時点でパール・ホワイト主演の前作シリアル『ポーリンの危難』は公開されていない。本作の続篇・続々篇は、現代はそれぞれ異なるが、日本では引き続き『拳骨』として公開されている。これらの次に『ポーリンの危難』が同年10月14日、最初『遺産』のタイトルで公開されたが、日本ではさほどのヒットとはならなかった。筈見恒夫は本作をユニヴァーサル・シリアルの『マスター・キイ』、『名金』と並ぶ「スケールも大きく、当時の連続映画の代表作」として挙げている。 現在、本作の原版は散逸し現存しないが、第8-10篇の3篇を含む上映用プリントが現存している。1994年(平成6年)、アメリカ国立フィルム登録簿に登録されている作品である。
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略歴・概要
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本作は、のちにヌーヴェルヴァーグと呼ばれることになる、パリの2人の学生がつくった小さな映画である。当時22歳のリヴェットにとっては2作目の監督作であり、同じく19歳のゴダールにとっては初めての主演作品であった。製作費はゴダールが全額出資し、その財源は盗癖のあるゴダールが、自らの叔父から盗んだものである。 ゴダールと共演している女優アンヌ=マリー・カザリスは、前年1949年にジャック・バラティエが発表した18分の短篇ドキュメンタリー映画『無秩序』に出演しており、その後、ルネ・クレマン監督の『ガラスの城』に端役で出演し、1950年12月16日にフランスで公開されている。カザリスは1988年7月30日、パリで死去した。 本作の時点では、ゴダールはまだ映画を監督しておらず、モーリス・シェレール(のちのエリック・ロメール)が主宰する「シネクラブ・デュ・カルティエ・ラタン」に毎週木曜日に通い、同年5月からは、シェレールが映画雑誌『ラ・ガゼット・デュ・シネマ』誌を創刊したので、同誌にハンス・リュカスの名で批評を書いていた学生であった。ゴダールの自作を含めた映画出演は100本近いが、実製作への最初の第一歩も、「監督として」ではなく、「俳優として」であった。 本作は長年フィルムの所在が不明であったが、2016年にリヴェットが亡くなった直後に夫人が自宅アパートから見つけ出した。
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略歴・概要
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「拳骨 (1915年の映画の続篇)」の記事における「略歴・概要」の解説
1914年(大正3年)、フランスの映画会社パテ・フレール(現在のパテ)がパール・ホワイトを主演にアメリカで製作・公開したシリアル『ポーリンの危難』 の大ヒットを受けて、レオポルド・ワートン、シオドア・ワートンのワートン兄弟が製作した前々作『拳骨』、前作『拳骨』の続篇として製作され、パテ・エクスチェインジが配給して、1915年6月14日に第1篇を公開した。本作をもってシリーズは完結した。 日本では、1916年(大正5年)3月、天然色活動写真(天活)が配給して、前々作の第1篇『拳骨 第一篇 酸化薬の一種』、同年5月20日には同じく前作の第1篇『拳骨 第十五篇 圧搾瓦斯』が東京・浅草公園六区の帝国館で封切られるが、本作の第1篇は、別作品とせずに引き続き『拳骨 第廿五篇』として、同年8月に浅草公園六区のキネマ倶楽部で封切られた。 現在、本作の原版・上映用プリント等は散逸し現存しないとみなされている。
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略歴・概要
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詳細は「大尉の娘」を参照 小説『士官の娘』は、足立北鴎と徳田秋声が翻訳し、1904年(明治37年)2月に東京市日本橋区馬喰町(現在の東京都中央区日本橋馬喰町)の出版社集成堂から上梓した。瀬戸義直が1916年(大正5年)に『大尉の娘』のタイトルに改題し、翻訳して東京社から上梓したものをはじめ、第二次世界大戦後、1948年(昭和23年)に神西清訳で岩波文庫に収録したもの等、ことごとく『大尉の娘』で統一されている。徳田版に関しては、2002年(平成12年)に八木書店が刊行した『徳田秋聲全集 第26巻』に『士官の娘』のタイトルで収録されている。 映画『士官の娘』は、日活が1913年(大正2年)に開設した映画スタジオである日活向島撮影所で、1915年(大正4年)に製作され、同年2月に浅草公園六区の三友館等で公開された。瀬戸版『大尉の娘』が刊行される1年前であり、徳田版のタイトルを採用している。プーシキンの『大尉の娘』は1947年(昭和22年)に製作・公開されたマリオ・カメリーニ監督のイタリア映画『大尉の娘』以降、全世界で5回映画化されているが、Internet Movie Databaseのプーシキンの項をみる限り、細山喜代松が監督した日活向島版が、同小説の世界でもっとも早い映画化である。前年1914年(大正3年)、細山は、レフ・トルストイの小説『復活』を映画化し、『カチューシャ』のタイトルで同年10月31日に公開し、大ヒットを得ている。その続編『後のカチューシャ』も細山が監督し、『士官の娘』の1か月前の1月に公開している。『士官の娘』はその流れの中で製作されている。 映画『士官の娘』は、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されていない。したがってフィルムプリントの有無は確認されていない。 小説『士官の娘』は、2009年(平成21年)11月現在、2002年版以外は、絶版である。青空文庫には収録されてはいない。国立国会図書館の「近代デジタルライブラリー」には、1904年版がデジタル画像収録されており、ウェブサイト上で閲覧・ダウンロードが可能である。
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かつて映画会社吉沢商店が出資した映画雑誌『活動写真界』(1909年 - 1913年)の寄稿者で、1917年に『活動写真劇の創作と撮影法』(正光社)という映画理論書を出版した帰山教正(1893年 - 1964年)が同年、天然色活動写真(天活)輸入部へ入社、海外に輸出できる映画を目指し、1919年、同社で『日本芸妓の踊り』(撮影大森勝)を撮った後に26歳で独立。大正9年(1920年)、「天活」と提携するかたちで設立したのが「映画芸術協会」である。 帰山は1919年(大正8年)に、実験作『深山の乙女』および『生の輝き』を制作。天活の配給により、1919年9月13日に同日公開された。『深山の乙女』に出演した花柳はるみは日本の映画女優第一号であり、同作は日本映画史上初めて「女優」を起用した伝説の作品となった。 帰山の実験映画は弁士が必要ないように字幕を入れたのも特徴であり、字幕担当者名が作品にクレジットされていた。『深山の乙女』では、戦後まで活躍する撮影技師となった当時天活社員の青島順一郎が、撮影も担当した帰山の助手をつとめている。また、のちに映画監督になる村田実が出演しているが、これが村田初めての映画体験であった。 翌1920年(大正9年)に製作した第三作『白菊物語』で、帰山は「映画藝術協會」を名乗り、日本初の芸術映画プロダクションとして始動する。 以降1924年までに、帰山監督作13本、近藤伊与吉・津田秀水共同監督作1本、青山杉作監督作1本、押山保明監督作2本の合計17本が製作されたが、概して興行的には振るわなかった。また間の1921年、その新しい手法を取り入れるべく松竹蒲田撮影所が帰山を監督として招いたが、『愛の骸』は東京で上映中止、『不滅の呪』は未完に終わった。 1924年12月26日に公開された『自然は裁く』を最後に、同社は製作活動を停止した。
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「ボリシェヴィキの国におけるウェスト氏の異常な冒険」の記事における「略歴・概要」の解説
1922年(大正11年)に成立した新しい国・ソビエト連邦を背景に製作された、クレショフ工房の第1回作品である。 ウェスト氏を演じたポルフィリ・ポドーベドはクレショフより年長の役者であったが、のちに監督作もある。ボリス・バルネットは、3年後に『ミス・メンド』で監督としてデビューした。悪役の伯爵を演じたフセヴォロド・プドフキンは、本作で脚本も書き、クレショフの実生活では妻であるアレクサンドラ・ホフロワが、伯爵夫人を演じた。いずれも映画監督である。レオニード・オボレンスキー、ウラジミール・フォーゲル、ピョートル・ガラジェフ、ヴェラ・ロパティーナは本作で俳優としてデビューした。
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「サミュエル・ゴールドウィン・スタジオ」の記事における「略歴・概要」の解説
サミュエル・ゴールドウィンは、ゴールドウィン・ピクチャーズが1920年代に事務棟とステージを賃借していた「ピックフォード=フェアバンクス・スタジオ」から、名を譲り受けたいと考えていた。ユナイテッド・アーティスツと契約していた独立系プロデューサーたちは、ハリウッドのフォーモサ・アヴェニューとサンタ・モニカ・ブールヴァードの交差点にあった「ユナイテッド・アーティスツ・スタジオ」としても知られたその撮影所を使用していたからである。当時、ゴールドウィンは、土地の使用権をもっていなかったが、ゴールドウィンと、ユナイテッド・アーティスツの社長であったジョセフ・M・シェンクはその撮影所の敷地内の設備の多くを建てた。現在、「ザ・ロット」というニックネームは、同撮影所の正式名称である。 1939年(昭和14年)、メアリー・ピックフォードに自らの分の使用権を遺してダグラス・フェアバンクスが死去したあとで、ゴールドウィンは、同撮影所を「サミュエル・ゴールドウィン・スタジオ」と改称した。ピックフォードとゴールドウィンは、撮影所の名称と財産所有権をめぐって争い、1955年(昭和30年)に裁判所が競売に付すべしと命令するまで争いは続いた。 ゴールドウィンがもっとも信頼していたビジネス上の親友であり、サミュエル・ゴールドウィン・インクの社長であったジェイムズ・マルヴェイが、競売においてピックフォードより高値をつけて資産を競り落とした。同撮影所は正式に「サミュエル・ゴールドウィン・スタジオ」となり、1980年(昭和55年)にワーナー・ブラザースが同地を買収するまで、その名は残った。 1999年(平成11年)、ワーナー・ブラザースは同撮影所を売却し、同撮影所は「ザ・ロット」と名称を変更した。
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1959年(昭和34年)4月、松戸競輪場を経営していた松戸競輪会社(現在の松戸公産)が、流山街道沿い、坂川にかかる春雨橋のたもとの地に輝竜会館大映劇場を竣工、大映系の劇場としてオープンする。当時の松戸駅近辺には、森本興業の経営による2館、すなわち大正のサイレント時代から存在し松竹系や新東宝系の映画をかけた松戸常盤館、東映系や洋画をかける松戸映画劇場が先行して存在した。同年6月、会館の2階に名画座を併設、輝竜会館バンビ劇場とした。 1967年(昭和42年)までのある時期に、上記2館をそれぞれ「輝竜会館松戸大映劇場」(通称松戸大映)、「輝竜会館松戸バンビ劇場」と改称している。1971年(昭和46年)11月の大映の倒産後、同2館をそれぞれ松戸輝竜会館、松戸輝竜会館バンビ劇場と改称、前者を東宝系、後者を洋画系の劇場とする。爆風スランプのギタリスト・パッパラー河合(千葉県柏市出身)は、中学生時代の1973年12月29日に輝竜会館で封切られた東宝映画作品『日本沈没』(監督森谷司郎)を超満員の立ち見で観賞したという。 1980年(昭和55年)10月、松戸駅付近に新しく「松戸サンリオ劇場」(のちに移転、4スクリーンの「松戸サンリオシアター」、のちに松戸シネマサンシャインに統合)がオープン、競合劇場が増えた。松戸市出身のアートディレクター・増田セバスチャンは、少年時代に父と一緒に『バンデットQ』(監督テリー・ギリアム・1981年制作、日本公開1983年3月5日)『ブリキの太鼓』(監督フォルカー・シュレンドルフ、1979年制作、日本公開1981年4月11日)といった洋画を輝竜会館で観たことを、自著「家系図カッター」で語っている。 1987年(昭和62年)3月、輝竜会館敷地内に新劇場を設置、名称を「輝竜会館シネマ3」とし、「松戸輝竜会館」を「輝竜会館シネマ1」、「松戸輝竜会館バンビ劇場」を「輝竜会館シネマ2」と改称した。1992年(平成4年)8月28日、70年の歴史を持つ松戸常盤館が閉館、1993年(平成5年)3月13日、佐々木興業によるシネマコンプレックス「松戸シネマサンシャイン」3スクリーンがオープン、松戸駅付近はシネマコンプレックスの時代に入った。松戸市出身で同市議会議員の山中啓之(1979年5月28日 - )は、高校時代に宮崎駿監督の『もののけ姫』(1997年7月12日封切)を輝竜会館で2回も観たという。 2000年(平成12年)4月14日、松戸公産は輝竜会館3館を閉館して映画興行事業から撤退、建物を取り壊し、41年の歴史を閉じた。跡地はコインパーキングを経て、15階建てのマンション「パークホームズ松戸シティフロント」(2010年5月竣工)が建っている。
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戦後1940年代後半からのイタリアのネオレアリズモは、現代風で実験的な新しいタイプの映画を起こし、この地球上の各地で、若い世代による映画製作を活気づけた。1950年代後半から1960年代にかけてのフランスの「ヌーヴェルヴァーグ」がそのあとを追いかけ、そしてブラジルでは「シネマ・ノーヴォ」となって実現した。 1952年、「ブラジル映画サンパウロ会議」と「ブラジル映画国民会議」が開かれた。この両会議で、国民的映画の製作のための新理想について議論された。作品の新しいテーマは、すでに近づき始め、1950年代の10年間に提出される映画の「新段階」のために、より前進して終了した。 1954年、サンパウロのメジャー映画会社、ヴェラクルス撮影所(Vera Cruz、1949年 - 1954年)が破産する。シリアスで壮大な映画をつくる会社だったが、大衆に訴える力もなく果てたのである。これに失望した若者のグループが、もっとリアルで、より充実した内容をもち、しかもより低コストで映画を製作するよう奮闘し、問題を解決した。それが「シネマ・ノーヴォ」の誕生であった。 リオデジャネイロとバイーア州の若いシネアストたちは、新しい理想を念入りにつくることに決めた。その理想は、ヴェラクルース撮影所が製作するバジェットの大きい映画にまったく反対であり、ドタバタ喜劇に反映された文化的疎外に反対するものである。彼ら若い世代が望んだものは、ローバジェットの映画の製作であり、それは「手にはカメラを、頭にアイデアを(uma câmera na mão e uma idéia na cabeça)」もって行なう。映画作品は、ブラジルの現実に戻され、当時の社会状況に対して適切なことばで語られる。また、発展途上にあるブラジル国家の問題に強く結びついたテーマを描いた。 いちはやく登場したのは、ネルソン・ペレイラ・ドス・サントス監督の映画『リオ40度』(1955年)であり、「新段階」なるものは、同作によく現れている。イタリア・ネオレアリズモについて、アレクス・ヴィアニが明らかにしたように、それは映画作家のインスピレーションである。 カルロス・ロベルト・ド・スーザ(Carlos Roberto de Souza)の書籍『A Fascinante Aventura do Cinema Brasileiro(ブラジル映画の熱狂的冒険)』(1981年)によれば、当時の映画の欺瞞についてこう表現されている。 人気を獲得した映画『リオ40度』が人から人へと示す、彼らの考えは明白であり、そのシンプルな言葉は連邦区に展望を与えた。それは、レトリックに対する軽蔑を従来のブラジル映画に初めて感じさせた。同作は、最低限の予算で演出され、自然の風景で構成されていた。マラカナン・スタジアムにコルコヴァド(Corcovado)、ファヴェーラ(Favela)、街の広場、悪党の住処、兵士たち、スラムの住人、子どもたち…。 こうしてシネマ・ノーヴォは出現したのだった。 いっぽう、グラウベル・ローシャはバーイア州出身のとても政治的な映画作家で、彼はたちまちもっとも注目すべき映画監督になり、同ムーヴメントの「指導者」であるとしばしば目される。ローシャの作品はたくさんのアレゴリー的要素を持ち、強力な政治的批評精神と欠陥なき「ミザンセーヌ(mise-en-scène、演出)」は、知識人たちにすばやく受け入れられた。 ローシャはたびたび語っているのは、自分の映画は、彼の考える「入植者の視点」なるものからの脱却であると。入植者にとっては、自らの第三世界の地位を恥ずべきであると考えるのと同様に、貧困とはエキゾチックであり現実離れした世界であるからである。ローシャは悲惨さ、飢え、そして彼らが生み出す暴力を描き出し、革命の必要を示唆する。『黒い神と白い悪魔』(1964年)、『狂乱の大地』(1966年)が彼の有名な作品である。また、ローシャは、ジャン=リュック・ゴダールの政治的映画製作集団「ジガ・ヴェルトフ集団」がイタリアで撮影を敢行した『東風』(1969年)に出演した。 1964年、ブラジルでクーデタ(1964 Brazilian coup d'état)が起きた。この勢力が幅を利かせ、政治的意見を表現する自由は狭まった。抑圧は次の年にわたって増加し、彼ら芸術家たちは亡命を余儀なくさせられてゆく。チェコスロヴァキアの「チェコ・ヌーヴェルヴァーグ」にも似た状況に追い込まれていく。
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現代劇のスタジオ・東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)が製作した日本の初期のミュージカル映画である。東宝映画(現在の東宝)が配給し、1939年10月10日、東京・有楽町の日本劇場を皮切りに全国公開された。 本作は、脚本家・小国英雄の監督デビュー作品である。小国は同年に監督第2作『金語楼の親爺三重奏』を発表したのちは、監督業を廃業、脚本に専念した。 本作の上映用プリントは、現在、東京国立近代美術館フィルムセンターには所蔵されてはいない。東宝にプリントは現存し、鑑賞することが可能な作品である。著作権の保護期間が満了し、パブリックドメインに帰した作品である。
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1920年(大正9年)2月に設立された松竹キネマ合名社が、同年4月1日に俳優の養成を目的として、木挽町にある歌舞伎座裏の芝居茶屋「梅林」の二階に開校した。校長には松居松葉が予定されていたが、病気のため降板し、代わって小山内薫が就任した。主事には人見直善が就き、講師は小山内(擬態実習)、アンナ・スラヴィア(西洋舞踊)、久米正雄(脚本講義)、松本幸四郎、市川左升(扮装術)、市川升六(擬闘術)、斎藤佳三(美術史及び音楽階梯)、玉井昇(写真術)、東健而(映画劇史)、松居(表情心理学)の10人が務めた。同校には240人の応募者のうち男子30人、女子6人の計36人が同校に学んだ。 そのうち、小山内は映画学校の生徒を集めて実習的に映画製作を始め、第1回作品として島津保次郎の書いたシナリオ採用した『荒野』を製作することにした。監督は田口桜村で、台本をローマ字のタイプで打ち、演出の全権が監督にあるなど、アメリカの手法を直輸入したやり方を行った。しかし、製作は中止となった。 同年6月25日に松竹キネマ蒲田撮影所がオープンし、俳優学校も撮影所に移転する。小山内は本社理事兼撮影総監督として、俳優学校の生徒らを従えて、第1作『奉仕の薔薇』を製作する。『奉仕の薔薇』は、村田実が監督を務め、花柳はるみが主演したが、バタ臭くて技術が未熟なため、封切りは1年後に延ばされてしまう。次に『光に立つ女』を製作するが、映画界の革新を図る小山内らのグループ(村田、島津保次郎、牛原虚彦、俳優学校生ら)と、商業主義的映画を作りだした撮影所とは相容れなくなったため、俳優学校は開校から半年後の10月に廃止され、小山内はグループを引き連れて、大谷竹次郎社長と相談の上、11月に本郷座本家茶屋の二階へ松竹キネマ研究所を設立して引き移った。
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今井田勲が局長を務める「文化服装学院出版局」が、1961年(昭和36年)9月に創刊した婦人雑誌である。「戦前の四大婦人雑誌」とされた『主婦の友』『婦人公論』『婦人画報』『婦人倶楽部』、「戦後の四大婦人雑誌」として第二次世界大戦後に創刊された『主婦と生活』『婦人生活』に比して、鎌倉書房の『マダム』(1964年)、グラフ社の『マイライフ』(1966年)ほどではないが、15年近く後発であった。 同年同月に発売された創刊号である第1号(第1巻第1号)は、「10月号」とされ、創刊当時は『装苑』の増刊号として「装苑編集」と副題されていた。当初の同誌の対象読者は、独身者を含めた30代女性で、同誌の登場は、20代を対象としていたファッション誌であった『装苑』に比して、30代においてはライフスタイルが変容することに対応したものである。創刊号の表紙モデルは、当時満27歳の女優池内淳子であったが、池内は1958年(昭和33年)に離婚していた。 創刊号からしばらくは「家庭衛生」と銘打ち、奈良林祥によるセックス記事の掲載があったが、良妻賢母世代の読者からの反発を受け数号で姿を消す。その後は芸能・セックス・皇室記事を取り扱わず、他誌とは一線を画した「朝のレモンのようにさわやかな雑誌」としてファッション中心の誌面構成となってゆく。 創刊から3号までのアートディレクターは江島任であったが、4号から8号まではアメリカ・フランス両国「VOGUE」のアートディレクターを務めたリチャード・ラトリッジが携わっている。表紙の写真から本誌のレイアウトまでがらっとイメージが変化、刺激的な誌面となった。ただし、アメリカのセンスとまだ戦後をひきずっていた日本の生活レベルの差は大きく、編集部との間にはトラブルも多々発生し、ラトリッジは1年で「ハイファッション」編集部に移る。 1963(昭和38年)1月号から、雑誌タイトル字の「ミセス」の文字が、グラフィックデザイナーの河野鷹思による書体のものとなる。1964年(昭和39年)には、副題から「装苑編集」の文字を取り払い、「奥さまの雑誌」とした。 1970年代には発行部数が60万部を超える雑誌に成長。販売収入を広告収入が上回った日本で初めての雑誌とされ、誌面の4分の1を占めた広告収入が月4億と言われた。製本などでもそれまでの女性誌になかった新機軸を採用した。 1966年(昭和41年)6月には、季刊『ミセスの子ども服』が創刊(夏号)されたが1981年(昭和56年)に休刊。 1970年(昭和45年)7月に発売された8月号(通巻119号)からは、販元の名称が「文化服装学院出版局」から「文化出版局」(現行)に変更されている。1978年(昭和53年)4月には、季刊『ミセスのスタイルブック』が創刊(春号)された。 1982年(昭和57年)5月には、高年齢層に向けた季刊『ハイミセス』が創刊(第1号)、1986年(昭和61年)5月に発行された第15号から隔月刊となる。1996年(平成8年)1月に発行された第78号を最後に誌名を『ミマン』と変更、月刊化ののち2003年(平成15年)5月に141号をもって休刊した。 1989年(平成元年)6月24日、創刊者の今井田勲が死去。 2010年(平成22年)2月27日には、1960年(昭和35年)創刊の『ハイファッション』が4月号をもって休刊。 2020年11月20日に「雑誌発行の方向性を検討した結果」、2021年3月5日発売の4月号をもって休刊することが発表された。休刊の理由としては、誌面のデジタル化に乗り遅れたことや、発行元が学校法人のため通販やイベントとの連携が難しかったこと、コロナ禍で広告収益率が落ち、留学生が来日できず本体の学校経営が見直される状況になっていたことなどが挙げられている。 最終号の表紙は木村佳乃。季刊『ミセスのスタイルブック』は引き続き発行を継続する。 同誌のターゲットは、40~50代の既婚女性がメインだった。この世代向けの雑誌のなかでも、モード界の最新・高級トレンド情報に強いのが特徴だった。
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第二次世界大戦終戦後、1年が経過した1946年(昭和21年)11月、東宝争議がこじれ、このままでは映画の製作ができないと、組合を脱退した俳優・大河内傳次郎、長谷川一夫、黒川弥太郎、入江たか子、藤田進、花井蘭子、山田五十鈴、原節子、山根寿子、高峰秀子が「十人の旗の会」を結成、同様に組合を脱退した監督らスタッフが、東宝撮影所近くの丘の上、現在の国際放映の場所にあった東宝第二撮影所に設立したのが、新東宝の前身、新東宝映画製作所である。本作は同製作所の第1回作品であり、東宝が本作を配給した。 「十人の旗の会」から本作に出演したのは、主演の山根寿子、藤田進のほか、大河内傳次郎、長谷川一夫、黒川弥太郎、花井蘭子、山田五十鈴、高峰秀子の8人であった。構成と演出をした「中村福」は市川崑の変名で、市川はすでに1945年(昭和20年)に東宝教育映画で短篇人形劇映画『娘道成寺』を監督していたが、GHQの検閲のため公開されず、本作の次に監督した長篇劇映画『花ひらく』(1948年)が監督デビュー作とされる。市川は本作を「これは監督したと言えるフィルムじゃありません。新東宝のデモンストレーションとして、歌手の歌を聞かせながら撮影所を紹介するといったシャシンですよ。クレジット・タイトルも”構成”にしたはずです。僕の第1作は『花ひらく』ですよ」と、後に証言している。 黒澤明の監督デビュー作『姿三四郎』(1943年)のスタッフから、撮影にはハリー三村こと三村明、音楽には鈴木静一が参加、マキノ正博監督の『昨日消えた男』(1941年)の照明技師藤林甲、山本嘉次郎監督の『ハワイ・マレー沖海戦』(1942年)に、三村や鈴木とともに参加した美術デザイナーの北猛夫、録音技師は、本作の前作ともいえる谷口千吉監督の『東宝ショウボート』(1946年)に三村、鈴木、北とともに参加した村山絢二であった。美術の北と特殊効果の円谷英一が、新東宝作品に関わったのは、本作が最初で最後であった。ほかのスタッフは新東宝の初期作品を支えた。 本作公開後の同年3月25日、同製作所は、株式会社新東宝映画製作所として正式に設立された。同日、渡辺邦男の監督による同製作所の第2作、『さくら音頭 今日は踊って』が東宝配給によって公開された。
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「ふるさとは宗谷の果てに」の記事における「略歴・概要」の解説
のちの城卓矢として知られる菊地正夫がテイチクレコード(現在のテイチクエンタテインメント)専属の時代、菊地の実兄でありクラウンレコード(現在の日本クラウン)専属の作曲家であった北原じゅんが実弟に提供したのが、「ふるさとは宗谷の果てに」の初出である。北海道稚内市にある日本最北端の地・宗谷岬を舞台とし、その果てに位置する、北原・菊地兄弟の出生の地である樺太(当時ソビエト連邦、現在のロシア領サハリン)を想う楽曲である。同作は、同じく北原による「哀愁の一つ星」(あいしゅうのひとつぼし)をB面として、1962年(昭和37年)9月、テイチクレコードからリリースされた。当時は売上もさほどの数字を残さなかった。 1966年(昭和41年)、クラウンレコード専属のスター歌手であった西郷輝彦のプロモーションの一環として、平凡出版(現在のマガジンハウス)とのタイアップを行い、同社の出版する『月刊平凡』誌上で「西郷輝彦の唄う歌」の歌詞を募集した。当選した杉本好美の歌詞に、クラウン専属の北原じゅんが曲を付し、同年2月1日、シングルとしてリリースしたのが「涙になりたい」(なみだになりたい)である。同作は、同名の映画を日活が製作、西郷が主演、森永健次郎が監督して、同年5月18日に公開されている。同シングルのB面に収録されたのが、北原がかつて実弟に贈った「ふるさとは宗谷の果てに」のカヴァーであった。西郷のカヴァーは話題になり、本作が広く知られるところとなった。 1971年(昭和46年)には、北海道出身のユニオンレコード(テイチクのレーベル)専属歌手の大友和也がカヴァーし、同年6月にシングルとしてリリースした。編曲は池田孝で、B面には、1968年(昭和43年)にテイチクレコードからリリースされた木立じゅんの「484のブルース」を作詞・作曲した平田満が提供した「すすきの夜のブルース」(すすきのよるのブルース)を収録した。 ほかにも、ハーベストレコード(ミノルフォン、現在の徳間ジャパンコミュニケーションズのレーベル)の真芽正恵、その他にも黒沢明とロス・プリモス、千昌夫らがカヴァーしている。
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「グリーンハウス (映画館)」の記事における「略歴・概要」の解説
「佐藤久一」も参照 初代館主の佐藤久一は、酒田市に本社を置く酒造会社、東北銘醸株式会社の創業者・佐藤久吉の長男として1930年(昭和5年)に生まれた。この時、祖父となった佐藤三五郎はこれを記念し、清酒「初孫」を発売。現在も同社の看板商品として親しまれている。 1949年(昭和24年)5月17日、ダンスホールの跡地を久吉が500席の映画館「グリーンハウス」に改修。翌1950年(昭和25年)、久一は大学を中退し、同館の館主となる。当時の酒田市内には、酒田港座と中央座が太平洋戦争前から存在しており、1955年(昭和30年)7月23日には洋画と新東宝系の作品を扱うシバタ映画劇場が開業。また、日活封切館だった日活酒田劇場も存在していた。 1960年(昭和35年)6月11日には、アラン・ドロン主演の映画『太陽がいっぱい』が東京の日比谷スカラ座(現:TOHOシネマズスカラ座)と同日封切し、話題となる。大スクリーンのほかに、1962年には小劇場「シネサロン」や少人数の貸切用「家族室」を設置するなど、先進的な取り組みを行った映画館として知られている。高級ホテルのようなロビー、バーテンダーがいる喫茶スペース、ビロード張りの客席と内装は豪華で、映画評論家淀川長治も雑誌『週刊朝日』の1963年刊行の号で「おそらく世界一の映画館」と絶賛した。グリーンハウスの軌跡を追った前述の映画タイトルは、このフレーズに由来する。また、二階席には飲食をしながらスクリーンを観ることができる和風の個室と洋風の個室があり、さらには喫煙室もあった。 1964年(昭和39年)、久一はグリーンハウスを退職し、3年後の1967年(昭和42年)、レストランのオーナーに転職。久一の退社後も同館は洋画ロードショー館として営業を続けた。1975年(昭和50年)にはスティーヴン・スピルバーグ監督の『ジョーズ』が大ヒットしたものの、1976年(昭和51年)10月29日、同館のボイラー室から出火。死者1名、被災者3300名を出す惨事の影響もあってか、同館は再開することなく廃業となった。 「酒田大火」も参照
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略歴・概要
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1931年(昭和6年)4月 - 同年7月、毎日新聞に連載された、村松梢風による新聞小説『人間饑饉』を原作に、翌1932年1月14日に公開された『國士無双』の次作として、伊丹万作が脚本を書き上げて撮影に入り、日活が配給して同年6月3日に公開された。本作公開におけるメイン館である浅草公園六区・富士館では、日活太秦撮影所製作、倉田文人監督、谷幹一主演による現代劇『とかく女と言ふものは』が同日封切られた。 伊丹は、前作『國士無双』のもつ諧謔と風刺の精神を継続し、片岡千恵蔵演じる主人公・平手造酒の孤独を描いた。千葉周作を市川小文治が演じ、ヒロインは前作に引き続き山田五十鈴、ほかにも前作に引き続き、高勢実乗、瀬川路三郎、渥美秀一郎、林誠之助、矢野武男、香川良介が出演している。 映画史家の田中純一郎は、リアルタイムで本作を観ており、「流行の傾向映画に同調したとはいえ、しかも懐疑的人生観を持った」「伊丹の時代批判」の存在を指摘している。北川冬彦も、前作『國士無双』から本作、次作『研辰の討たれ』への流れにおける人物像の描き方について、本作を高く評価していた。冨士田元彦は、リアルタイムで観ることができていないが、残された脚本を分析し、浅香新八郎演じる「香月梓」、片岡の「平手造酒」、葛木香一演じる「吉五郎」の描く人物の三角形に、本作のテーマが現れていることを指摘している。 伊丹自身は、1937年(昭和12年)7月、北川冬彦が編集する『季刊シナリオ研究』第2号に発表したエッセイ『「闇討渡世」に就て』において「今まで一番力を入れた仕事はと聞かれたら私は『闇討渡世』をあげる。そして結果としての反響が努力に反比例したのも『闇討渡世』だ」と述懐している。 2013年(平成25年)1月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターも、マツダ映画社も、映画『闇討渡世』の上映用プリントを所蔵しておらず、現存していないとみなされるフィルムである。本作の脚本については、1961年(昭和36年)11月15日に発行された『伊丹万作全集 第3巻』(筑摩書房)に収録されている。
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略歴・概要
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1932年初頭、日活太秦撮影所の当時の看板女優・入江たか子が独立して設立、これは女優としても、また現代劇の独立プロとしても日本では初の試みであった。入江はまだ20歳だった。現在の右京区御室双岡町に1928年に建設された貸しスタジオ「双ヶ丘撮影所」があり、「嵐寛寿郎プロダクション」が使用していたステージに隣接して新ステージを建設、同社の撮影所とした。 設立第一作『満蒙建国の黎明』(監督溝口健二)は、同年3月1日の満州国建国を背景に海外ロケを敢行、撮影に半年を費やしての大作で、1932年9月29日、新興キネマの配給で公開される。同作が「中野プロダクション」との提携作品となっているのは、新興キネマ専属俳優の共演者中野英治の体面上だけのことであり、同名の企業は存在しない。 1932年に、前年東京で設立された「不二映画社」が解散すると、監督や俳優が同社に流れ込み、その受け皿となった。いずれも新興キネマの提携会社であった。また、日活大将軍撮影所の俳優だった入江の実兄・東坊城恭長は1927年に脚本家・映画監督に転向していたが、1933年、新興キネマに移籍する。 同社の撮影所は1935年をもって閉鎖する。新興キネマとの提携をやめ、古巣の日活との提携を開始したからである。また入江自身、日活太秦撮影所での時代劇『大菩薩峠』『栗山大膳』に、主演ではないが重鎮としての「止め」の位置で大河内傳次郎と共演している。 1937年からは、東京・砧のPCL映画製作所との提携を始め、配給は東宝映画配給である。やがて同年、PCL映画製作所が、京都・太秦上刑部町にあったJ.O.スタヂオ、東宝映画配給、写真化学研究所の3社と合併して「東宝映画株式会社」を設立すると、入江は同社を解散、東宝と専属契約を結ぶこととなり、入江は人気絶頂のまま、同社は役割を終えることとなった。また、兄・東坊城も東宝に移籍した。
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略歴・概要
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1979年(昭和54年)1月、女の子バンド・ガールズが解散し、同バンドのイリア(奥野敦子)と近田春夫&ハルヲフォン解散後の高木英一とがバンドを組んだ。 また一方、近田春夫もソロ活動が始まり、同年5月21日には、イエロー・マジック・オーケストラが編曲と演奏に参加したソロデビューアルバム『天然の美』(1979年)をリリース、実際に営業等ライブ活動を行うためには、バックバンドを必要としていた。近田がイリアに声をかけ、アマチュアバンド「東京スタイルズ」の沖山優司と高木利夫、さまざまなバックバンドのギタリストをしていた柴矢俊彦、元四人囃子の茂木由多加、「野毛スマイル」の野毛ゆきお(現NOGERA)が集められて、同年、結成する。 「BEEF」の由来は、ブライアン・デ・パルマ監督の『ファントム・オブ・パラダイス』(1974年)に登場する、ジェリット・グラハム演じるホモセクシャルのロック・シンガーの名「ビーフ」からとった。 同年8月、東京・渋谷のライブハウス「ワルツ」で初ライヴ、同年9月15日 - 16日、銀座の「博品館」でピーターとのジョイントライヴ『TOKYOスキャンダル』に出演、ピーターのバッキング演奏もBEEFが行った。 同年9月21日、「近田春夫」ソロ名義でシングル『ああ、レディハリケーン』をリリース、テレビ出演等には「近田春夫&BEEF」名義で出演していた。同年10月 - 11月には、神戸女学院大学、龍谷大学、戸板女子短期大学等の学園祭にも出演、同年12月31日、浅草国際劇場での「第7回浅草ニューイヤー・ロック・フェスティバル」に参加した。 年明け、1980年(昭和55年)4月29日、日比谷野外音楽堂でのライヴイヴェントに出演したが、そのころ、近田が、キングレコードから日本コロムビアに移籍し、「半年間は移籍先でのレコードリリースができない」という当時の事情から、近田はBEEFを発展的に解消し、同年6月1日、奥野、柴矢、沖山、高木の4人が「ジューシィ・フルーツ」として『ジェニーはご機嫌ななめ』(日本コロムビア)でシングル・デビューした。同年10月25日、近田は、ソロアルバム『星くず兄弟の伝説』を日本コロムビアからリリースした。 現在、音源は、1992年(平成4年)11月21日にキングレコードからCD再発売されたアルバム『天然の美』のボーナストラックとして、2曲が収録されている。なお同アルバムのCD1989年盤には収録されてはいない。
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略歴・概要
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「生ける屍 (1929年の映画)」の記事における「略歴・概要」の解説
1900年(明治33年)前後、ロシア帝国(現在のロシア)のレフ・トルストイが執筆し、死後発表された戯曲『生ける屍』を、1929年(昭和4年)、ソビエト連邦の映画作家であるフョードル・オツェプが監督し、ソビエト連邦とヴァイマル共和政下のドイツが合作したのが本作である。 映画監督のフセヴォロド・プドフキンが主人公のフェージャを演じたほか、同じく映画監督のボリス・バルネットが端役で出演している。 日本では、阪東妻三郎プロダクションを経営する一立商店が配給した。
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略歴・概要
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「第一書房 (第1期)」の記事における「略歴・概要」の解説
1923年(大正12年)、29歳の編集者・長谷川巳之吉が、東京市麹町区三番町1番地(現在の東京都千代田区三番町1番地)に設立した。 1929年(昭和4年)には福田清人が入社している。社員編集者に野田宇太郎、十返肇、斎藤春雄、伊藤濤一(伊藤文學の父)、春山行夫(モダニズム詩人・編集者)、上田保(英文学者)、佐川英三(詩人)らがいた。冨士原清一(シュルレアリスム詩人・翻訳家)も一時在籍していた。堀口九萬一・堀口大學父子、大田黒元雄、田部重治らの翻訳や著作を多く出版した。「音楽と文学社」を名乗り自費出版していた大田黒は、第一書房を資金的にも大いに支援した。 1944年(昭和19年)3月末、同社が編集・出版する雑誌『新文化』の昭和19年3月号(通巻158号)に「第一書房 廃業御挨拶」を掲載、「出版一代論」を唱え、50歳にして「第一書房」を廃業、一切の権利を大日本雄辯會講談社(現在の講談社)に譲渡した。同社は、21年の間に単行本759点、全集叢書22点、雑誌13種を出版した。長谷川はその後、神奈川県藤沢市大字鵠沼に蟄居する。社員の斎藤春雄、伊藤禱一は八雲書店に移籍した。 戦後、詩人の田中冬二、元社員の伊藤祷一らが、「第一書房」を再興しようと長谷川にかけあったが断られ、「第二書房」を設立している。
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略歴・概要
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宮崎県都城市出身。都城市立沖水小学校、都城市立沖水中学校、宮崎日本大学高校、中央大学卒業。 フジテレビ系「笑う犬の冒険」のADを経て、放送作家へ。 作家デビューは、日本テレビ系「プリティガレッジ」だが、「ジャイアンツファンフェスタ」(巨人軍のファン感謝イベント)という説もある。
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略歴・概要
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チェコスロバキア共和国(第一共和国)の時代の1921年、現在の所在地であるフラデツ・クラーロヴェーで、写真乾板と処理薬品を製造する企業フォトケマ有限会社(チェコ語: Fotochema s r.o.)として設立、現在もつづくフォマの商標のもとに、1931年には印画紙、翌1932年にはロールフィルムの製造を開始した。この時期、1935年のブリュッセル万国博覧会、1937年のパリ万国博覧会、1938年のルブリン万国博覧会の3万博でいずれも金メダルを受賞した。 第二次世界大戦後の1949年、前年に社会主義国化したチェコスロバキア共和国(第三共和国)下で国営化され、フォトケマ国有会社となり、医療用X線フィルム「メディックス」の製造を開始する。1953年には、映画の上映プリント用ポジフィルム、1958年には、カラー写真用印画紙「フォマカラー」の製造をそれぞれ開始する。1972年には、カラーフィルムの「フォマクローム」の製造を開始している。 チェコ社会主義共和国(1960年)がチェコ共和国と改称、スロバキア共和国との共同体をチェコおよびスロバキア連邦共和国と改称した1990年、フォマ国有会社と社名変更する。1995年、現在の商号フォマ・ボヘミア有限責任会社に社名変更する。1999年、インクジェットプリンター用紙の製造販売を開始、2004年には、オランダの富士フイルムオランダ(現在のフジフイルム・マニュファクチュアリング・ヨーロッパ有限会社)との協力を開始、同年、ルーマニアに子会社フォマムレシュ(ルーマニア語: Fomamureş)を設立している。 2009年には、ドイツ、ロシア、ポーランド、イタリア、イギリス、フランス、ベルギー、アメリカ合衆国、日本、メキシコ、スペイン、ルーマニア、中国、ウクライナ、インド、ナイジェリア、ベネズエラ、ブラジル等、68か国に輸出しており、同年には輸出が総売上の85%を占めた。
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略歴・概要
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現代劇のスタジオ・日活多摩川撮影所(現在の角川大映撮影所)が製作した日本の初期のミュージカル映画である。大正末期の浅草オペラの時代に「ペラゴロ」のひとりであったサトウ・ハチローが書いた原作を『浴槽の花嫁』(1936年)同様に小国英雄と山崎謙太が共同で脚色した。 主題歌は杉狂児が美ち奴がデュエットした『道行シャンソン』、楠木繁夫と美ち奴がデュエットした『嬉しい仲』の2曲で、カップリングされてテイチク(現在のテイチクエンタテイメント)からシングル盤が発売された。 本作の上映用プリントは、現在、東京国立近代美術館フィルムセンターには所蔵されてはいない。
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略歴・概要
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奈良時代(8世紀)、国と寺社が建築物の造営・修理のための木材を確保することを目的に「杣」として山林を指定、これを切り出す杣工とともに、大木を製材する「木挽」(大鋸挽)が出現した。 「木挽」の歴史において「大鋸」が登場するのは、14世紀 - 15世紀の室町時代に中国から導入されたときのことであり、これによって生産能率が飛躍的に上昇した。長さが約2メートルあり、2人がかりで左右あるいは上下から縦挽きに挽いて、木材を切る。「大鋸」以前ののこぎりは、木の葉形をした横挽き式のものであった。 15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、「石切」とともに「大のこひき」、あるいは「大がひき」として紹介され、2人がかりで挽く姿が描かれている。この歌合に載せられた歌は、 大がひき 杣板は世に出でながら哀れ身の おがひきこもる山住ぞうき というもので、杣板は産地を出て広い世界に流通していくが、それを切り出す「大鋸挽」自身は山に引きこもっていないければならないことが憂鬱である、と詠まれた。同職人歌合に「職人」として紹介された職能は、その後の時代にあっても賎視されたものが多々あったが、手工業者層が全国的な広がりを見せた16世紀以降の日本にあって、「大鋸挽」「木挽」は手工業者を意味する新しい意味での「職人」に位置づけられた。 江戸時代初期、17世紀初頭の江戸では、江戸城造営に際して、現在の東京都中央区銀座1丁目から同8丁目までの三十間堀川と築地川との間の地区に「木挽」たちを居住させた。同地域が「木挽町」と呼ばれるのはこのことに由来し、1951年(昭和26年)に「銀座東」と改称するまで町名として残った。このころには「大鋸」にイノヴェーションが起き、「前挽き大鋸」が開発され、1人で挽くことができるようになった。 江戸時代後期、19世紀初頭、鍬形蕙斎が『近世職人尽絵巻』に「木挽」たちの仕事姿を描き、同作を参考に、1831年(天保2年)ころ、葛飾北斎が『富嶽三十六景』の「遠江山中」として、遠江国(現在の静岡県大井川以西地域)の山中における「木挽」たちの仕事姿を描いている。この「木挽」たちが使用しているものが、1人で挽くことができる「前挽き大鋸」である。 明治時代以降には、機械での製材が導入され始めるが、手作業での製材作業および作業者は、引き続き「木挽」と呼ばれた。 かつて「木挽町」という町名であり「木挽」たちが居住した東京都中央区銀座の旧木挽町地域では、足柄木材(銀座2丁目)、大西材木店(同3丁目)の2社が、2012年(平成24年)9月現在も材木商を営んでいる。
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略歴・概要
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第二次世界大戦後、従来興行会社であった東横映画が大映との協定を結び、1947年(昭和22年)、「大映第二撮影所」(現在の東映京都撮影所)を借りて同撮影所を「東横映画撮影所」とし、製作を開始、3年目に製作された現代劇が本作である。本作の題名「こんな女に誰がした」は、1947年10月にテイチクレコード(現在のテイチクエンタテインメント)が菊池章子の歌唱を録音して売り出したレコード『星の流れに』のラストフレーズであり、本作が製作された年の春ごろにヒットの兆しがあったとされる。前年1948年(昭和23年)8月10日に東宝が配給して公開された、太泉スタヂオ(現在の東映東京撮影所)が製作した映画『肉体の門』でも、『星の流れに』は挿入歌に使用されていた。 伊藤武郎は日本映画演劇労働組合(日映演)初代委員長であり、東宝争議をめぐって最終的に東宝を退社した人物である。主演の岸旗江、伊豆肇は、1946年(昭和21年)11月、争議を原因に「十人の旗の会」を結成して労働組合を脱退したメンバーである。築地小劇場の土方与志、劇団民藝の宇野重吉、清水将夫、滝沢修らの舞台俳優が出演している。 本作に「映倫番号」が付されているのは、公開直前の同年6月14日に「映画倫理規程管理委員会」(旧映倫)が結成されたからで、1954年(昭和29年)8月まではレイティングは行われていない。東横映画を配給するために東京映画配給(現在の東映)が設立されるのは、同年10月1日なので、本作は従来通り大映が配給した。 東京国立近代美術館フィルムセンターは、本作の上映用プリント等を所蔵していない。
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略歴・概要
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「花火 (1931年の映画)」の記事における「略歴・概要」の解説
伊丹自身の回想によれば、本作の脚本は、1927年(昭和2年)10月、満27歳のころ、旧制・愛媛県松山中学校(現在の愛媛県立松山東高等学校)時代の先輩である伊藤大輔宅の食客となった際に、伊藤に言われて「しかたなく」書いたオリジナルシナリオを映画化したものである。当時の伊藤家の食客には、俳優の香川良介、脚本家の中川藤吉がおり、伊丹は同月内にもう1作『伊達主水』を書き、これがのちに『放浪三昧』(監督稲垣浩、1928年)の題で映画化された。 主演の片岡千恵蔵は本作の公開当時は満27歳、伏見直江・信子姉妹はともに日活太秦撮影所に所属しており、それぞれ満22歳、満15歳であり、姉・直江は芸妓綾吉を、妹・信子は千恵蔵の妹役をそれぞれ演じた。自らのオリジナルシナリオを演出した伊丹は、公開当時満31歳になっていた。 2013年(平成25年)1月現在、東京国立近代美術館フィルムセンターも、マツダ映画社も、本作の上映用プリントを所蔵していない。大阪芸術大学は同作の「33秒」のフィルム断片を発掘、所蔵しているが、これ以外の部分については現存していない。本作の脚本については、1961年(昭和36年)11月15日に発行された『伊丹万作全集 第3巻』(筑摩書房)の最初に収録されている。
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略歴・概要
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ロジェ・ヴァイヤン著による小説の映画化作品。鱒の養殖に携わるヒロインが、養殖された鱒のように他力本願で地位を上げてゆく姿を気だるく描く。 ロケーション撮影地は、フランスのオー=ド=セーヌ県ヴィル=ダヴレーおよびジュラ県、日本の東京、京都等で行われた。日本ロケでは、衣笠貞之助監督の『地獄門』(1953年)や黒澤明監督の『七人の侍』(1954年)にも出演した山形勲、新城卓監督の『オキナワの少年』(1983年)に主演した藤川一歩、テレビドラマ『将軍 SHOGUN』(1980年)や『必殺仕事人』(1979年 - 1981年)等の時代劇で知られる賀田裕子がキャスティングされた。また、資金協力もしたとされる大屋政子がカメオ出演して、当時お馴染みのスカート姿で踊る場面もある。 サントラLPもリリースされたが、「ロッキー・ホラー・ショー」のリチャード・オブライエンによるロック・テイストの歌などがフィーチャーされたが、フィルムには使用曲やミュージシャンのクレジットはないため、意外な面々が参加していることがフィルムを見ただけでは判らない。 1983年に行われた第8回セザール賞で、アンリ・アルカンが撮影賞、アレクサンドル・トロネールが美術賞にノミネートされ、アルカンが最優秀撮影賞を受賞した。 日本では、1990年代にアテネ・フランセ文化センターで無字幕ながら上映されたことがあるが、2012年10月16日にWOWOWシネマで字幕付きで放映された。
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略歴・概要
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なにかと頭を叩かれる人物・居杭(井杭)が題名にもなった主人公であるが、このネーミングは諺「出る杭は打たれる」から来たと推測されている。居杭(井杭)が授かる「隠れ頭巾」は、被ると透明人間になる設定である。「隠れ頭巾」を授ける千手観音を本尊とする清水寺は、謡曲『田村』『熊野』『花月』にも歌われている霊場である。 現在、居杭(井杭)を子役が演じる少年設定が多いが、中には成人設定の場合もある。もともとは成人設定で、「鬼山伏狂言」に分類されていたものであり、現在の上演とは趣が異なる。居杭(井杭)が成人設定だった時代には、亭主(何某)に寄生して生活する人物として描かれていたという。市井の占い師である「算置」が登場する本作は、狂言の演目のなかでも珍しいものとされる。本作における「算置」は、亭主(何某)とともにからかわれ、笑われる存在であるが、本作の主眼は「算置」の存在をあざ笑うことではなく、陰陽道や算術・算道といった呪術世界である、という評価がある。 作者、成立年代はともに不詳である。大蔵流は玄恵(生年不詳 - 1350年)の作と伝えるが、傍証は存在しない。記録に残る本作のもっとも古いものは、1464年(寛正5年)に成立した『糺河原勧進猿楽日記』に記載されている『カクレミノ』という作品で、これは本作の古名であると推測されている。 『文禄二年禁中能番組』によれば、グレゴリオ暦1593年11月27日にあたる文禄2年旧暦10月5日から3日間、後陽成天皇を前に豊臣秀吉が開催した「禁中御能」で、秀吉は自ら居杭を演じ、算置に前田利家、有徳人(主人、現在の亭主あるいは何某にあたる役)に徳川家康をキャスティングして、『耳引』という狂言を上演している。この『耳引』は、現在の『居杭』であるとみなされている。 1576年(天正6年)の『天正狂言本』、いわゆる「天正本」や、1642年(寛永19年)に書写された大蔵虎明能狂言集、いわゆる「虎明本」では、場面が二段構成であった。 須田国太郎は、二世茂山千作(1864年 - 1950年)が1946年(昭和21年)2月17日、京都の金剛能楽堂で行った『居杭』をデッサンし、描き残している。同上演では、居杭は成人設定であった。『狂言 - 鑑賞のために』(1974年)には、井杭を子役だった当時の野村耕介(のちの五世野村万之丞)、亭主を四世野村万之丞(現在の七世野村万蔵)、算置を六世野村万蔵が演じた和泉流『井杭』の白黒写真が掲載されている。
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略歴・概要
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「弥次㐂多 (1927年の映画)」の記事における「略歴・概要」の解説
本作は、1928年(昭和3年)の正月映画として、1927年(昭和2年)、日活太秦撮影所で製作を開始した。いずれも10巻、100分を超える長尺もので、河部五郎が弥次さん、大河内伝次郎が喜多さんを演じるという、2人の剣戟スターによる軽妙なコメディである。 第1部の『弥次㐂多 尊王の巻』は、1927年12月31日、日活の配給により、日活本番線のメイン館である浅草・富士館をフラッグシップに全国で公開された。第2部の『弥次㐂多 韋駄天の巻』は、ちょうど2週後の1928年1月14日、第3部の『弥次㐂多 伏見鳥羽の巻』は、さらに2週後の同年2月1日にそれぞれ同様に封切られた。 現在、東京国立近代美術館フィルムセンターは第3部の『弥次㐂多 伏見鳥羽の巻』のみを所蔵している。原版は残っておらず、のちに9.5mmフィルムの規格で当時販売された家庭用のフィルムが発見されたものを修復、35mmフィルムにブローアップされたヴァージョンであり、約1/5の23分の上映時間をもつ部分プリントである。 マツダ映画社は、第1部の『弥次㐂多 尊王の巻』、第3部の『弥次㐂多 伏見鳥羽の巻』の部分プリントを所蔵している。前者は12分、後者は8分の部分プリントである。2008年(平成20年)10月8日、デジタル・ミームが、この2つのフィルム断片を『弥次喜多 尊王の巻・鳥羽伏見の巻』として、おなじ大河内主演の伊藤大輔監督の『御誂治郎吉格子』(日活太秦撮影所 / 日活、1931年)とのカップリングでDVDをリリースした。
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1927年(昭和2年)4月、マキノ・プロダクションから独立し、市川右太衛門プロダクションを設立、奈良郊外のあやめ池遊園地に撮影所を建設した市川右太衛門の同社設立第1作とされる。日本映画データベースによれば、公開日は『侠骨漢 笑ふな金平 前篇』のほうが早かった。脚本の曽我正男は、フリッツ・ラングを文字った「振津嵐峡」の名で監督もした人物である。 本作は、河合映画製作社が配給し、同年6月3日、インディペンデント映画を多く公開した東京・浅草公園六区・日本館等で公開された。 本作の上映用プリントは、完全版は現存しない。現在、現存しないとされる映画を中心に、玩具映画を発掘・復元する大阪藝術大学に15分のダイジェスト版が保管されている。東京国立近代美術館フィルムセンターや、マツダ映画社には所蔵されていない。マツダ映画社の「主な所蔵リスト 劇映画=邦画篇」には、監督が「悪麗之助」、主演が「市川右太衛門」、製作年が「1927年」の『浄魂』という作品の10分間のフィルム断片を所蔵している旨の記述がみられる。しかしながら、悪麗之助の監督作に該当する作品は存在せず、「押本七之助」の誤りである可能性がある。
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1924年に帝国キネマ演芸が発表した長尾史録監督のサイレント映画『累ヶ淵』は、尾上紋十郎演じる新吉を主人公にした作品であり、その他登場人物も三遊亭圓朝の創作した古典落語『真景累ヶ淵』の設定をベースにしたものであるが、資料には原作は謳われていない。1930年、牧野省三没後のマキノ・プロダクションで二川文太郎が監督した『怪談累ヶ淵』には、「三遊亭圓朝原作」が謳われている。以降の「累ヶ淵もの」で「圓朝原作」を謳っている作品は、1957年の中川信夫監督の『怪談累が渕』と2007年の中田秀夫監督の『怪談』のみである。なかでも1937年版は、板間清彦のオリジナル脚本であるとクレジットされている。 「累ヶ淵もの」の上映用プリントは、中川信夫監督の『怪談累が渕』以外は東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されておらず、マツダ映画社にはいずれも所蔵していない。現状、3作のサイレント映画はいずれも観賞することが不可能な作品である。安田公義作品は2作ともVHSフォーマットでビデオグラム発売されており、1970年版はLDも発売されているが、DVDは発売されていない。中川信夫作品は、2008年にジェネオン エンタテインメント(現在のジェネオン・ユニバーサル・エンターテイメントジャパン)がDVD発売した。
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本作は、1974年、イタリアの映画プロデューサージャンニ・ヘクト・ルカーリが製作を開始、ロンバルディア州ミラノ県ミラノおよび同県郊外のチニゼッロ・バルサモでロケーション撮影、ラツィオ州ローマ県ローマのINCIR=デ・パオリス撮影所でセット撮影を行い、完成した。ウーゴ・ピッロの執筆した原案を、ピッロとコメンチーニの2人で脚色した。 イタリアでは、ティタヌスが配給して同年4月27日に公開され、同年5月9日に開催された第27回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品された。 日本では、東宝東和が配給して1976年(昭和51年)5月22日に劇場公開された。ビデオグラムに関しては、1984年(昭和59年)12月30日、コロムビアミュージックエンタテインメント(現在の日本コロムビア)が、5年後の1989年(平成元年)6月20日、NHKエンタープライズが「NHK VOOK」レーベルとして、それぞれVHSベースで発売したが、2011年(平成23年)2月現在に至るまでDVD販売は行われていない。
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ハリウッド出身の映画監督トーマス・栗原こと栗原喜三郎が、横浜に撮影所を持つ大正活映で監督した1作である。上田秋成の18世紀の小説『雨月物語』のなかの一篇『蛇性の婬』を原作に、小説家で同社の顧問であった谷崎潤一郎が脚色した。同作は、のちに溝口健二が『雨月物語』中の他の一篇『浅茅が宿』の要素を加えて、1953年(昭和28年)、『雨月物語』のタイトルでリメイクしている。 主演の高橋英一はのちの岡田時彦の本名である。真女児を演じた紅沢葉子は同社に入社する前までは、浅草オペラに出演していたが、夫の獏与太平こと古海卓二とともに横浜に移った。鞍馬法師を演じた栗井饒太郎は、のちの映画監督の井上金太郎である。同様に後の映画監督の内田吐夢、二川文太郎も競演している。 本作の上映用プリントは、東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されておらず、マツダ映画社も同様である。大阪藝術大学の玩具映画プロジェクトもフィルム断片を所蔵していない。現状では、いずれも鑑賞の不可能な作品である。
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1970年(昭和45年)、元ピーターズの中尾喜紀と矢花郁雄、元内田裕也&フラワーズでもあり元ファニーズの中村健人、元P.S.ヴィーナスの木幡聖彦、秋本良永、吉田茂樹の6人で結成された。同年5月、東京・有楽町の日本劇場での第41回「日劇ウエスタンカーニバル」にザ・スパイダース、ザ・タイガースとともに参加した。 吉田は、翌1971年(昭和46年)1月25日のレコードデビューの前に脱退、木幡がベースにシフトし、5人のメンバーで、当時ザ・タイガースの沢田研二が作曲したシングル『ひとりぼっちの出発』でデビューした。 同年7月、アルバム『ロック・パイロット』をリリース。ライブアクトにはアラン・メリルと組むことが多かった。また、木幡がベースにシフトしたため、近田春夫がキーボードを弾くことがあった。 1972年(昭和47年)1月15日 - 同22日、「日劇新春ウエスタン★カーニバル」にPYGらとともに出演、その後、秋本が脱退、西亜紀人が加入したが、同年6月の東京・霞ヶ丘町の日本青年館でのライブをもって解散した。解散後、ファンクラブのためにライブ・アルバム『LAST DEPARTURE』がリリースされた。メンバーのうち、中尾がローズマリーの結成に参加、その後は、ローズマリーの東冬木(現モト冬樹)と上原おさむとともにジュテームを結成した。 現在CD化された音源は、 1998年(平成10年)6月25日に再発売されたファーストアルバム『ロック・パイロット』のみである。
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現在一般的な中判カメラで使用する120フィルム、および幅が同じでカメラによっては共用できる220フィルムについて日本ではブローニーフィルムと総称することがある。 語源となったブローニーは、コダック初期のカメラブランド名であって、1900年2月登場で117フィルムを使用するブローニー以来、120フィルムを使用するNo.2ブローニーライン、116フィルムを使用するNo.2Aブローニーライン、127フィルムを使用するベビーブローニー等、620フィルムを使用する620ブローニー等、さまざまなタイプのフィルムを使用するカメラを発表している。従って日本では120フィルムを、ないしそのサイズをブローニーと呼ぶが、国際的には通用しない和製英語である。
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1952年(昭和27年)5月27日、東宝に映画作品を供給する映画製作会社として三輪小十郎が設立された。設立当時の撮影所は、東京都品川区上大崎の海軍大学校跡地にあった東日興業スタジオを買収、開所された。設立開所第1作は、加藤譲製作、豊田四郎監督の『春の囁き』で、同年12月10日に公開された。 1958年(昭和33年)、豊田四郎が監督した『喜劇 駅前旅館』をきっかけに「駅前シリーズ」が始まり、同シリーズは1969年(昭和44年)、杉江敏男監督の『喜劇 駅前桟橋』まで全24作つづいた。 1962年(昭和37年)8月15日、撮影所を世田谷区船橋の連合映画撮影所に移転した。上大崎の跡地には東宝の子会社日本映画新社が入居した。新撮影所は当時のスター俳優森繁久彌邸に隣接し、森岩雄が設立した連合映画からのレンタルであった。 1970年(昭和45年)、加山雄三主演の「若大将シリーズ」を第15作、岩内克己監督の『ブラボー! 若大将』、第16作『俺の空だぜ! 若大将』のみ製作を引き継いだ。大映が倒産、日活が「日活ロマンポルノ」の製作を開始した1971年(昭和46年)以降、大映の池広一夫や増村保造、日活の藤田敏八、神代辰巳らが東京映画でメガホンをとっている。 1972年、東宝本体が製作を停止。「五核」を名付けられた五つの子会社が作品供給の中心になることが発表される。プロデュース会社である芸苑社、青灯社、砧撮影所を本拠とする東宝映画、東宝映像とともに東京映画もその一角に名を連ねた(宝塚映画は東宝の子会社ではなく兄弟会社にあたるため含まれていない)。しかし、実際は勝プロ、ホリ企画などの社外プロダクションに押されて五核の製作活動は振るわず(青灯社などは結局1本も製作できなかった)、東京映画も製作本数を減らしていく。 1975年(昭和50年)以降は製作本数が激減し、1977年(昭和52年)2月に撮影所を買収し東宝スタジオ内の東宝技術研究所の建物に移す。だがこの頃から1作のみを製作・公開するようになり、1979年(昭和54年)と1980年(昭和55年)には、創立以来初めて、1作も製作・公開できなかった。1981年(昭和56年)に公開された森谷司郎監督の『漂流』を最後に映画製作から完全撤退した。撮影所もこのころ閉鎖・売却した(跡地はリゾートプラザ成城住宅展示場)。 1983年(昭和58年)8月25日、株式会社東京映画新社に改組、消滅した。東京映画新社はその後、テレビ映画を製作したが、1993年(平成5年)に東宝テレビ部で『太陽にほえろ!』を立ち上げたプロデューサー梅浦洋一が社長に就任し、2004年(平成16年)9月1日、東宝に合併して消滅した。 東京映画撮影所の録音部である「東京映画映像部」は、テレビ映画『ウルトラマンタロウ』等にクレジットされているが、1977年の移転により東宝録音センターに吸収される。同社が末期に手がけたテレビ映画、花王 愛の劇場『わが子よ』は新社が引き継ぎ、1986年(昭和61年)の第6シリーズまで製作された。
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1926年(大正15年)、松竹取締役の白井信太郎の肝いりで、剣劇を中心とした劇団として設立された。旗揚げ公演は京都座で行われたが、本拠地は「道頓堀五座」の1つ、弁天座である。 1927年(昭和2年)1月には、角座で『権八の生涯』を上演したときのレヴューが、『芝居とキネマ』第4巻第1号(大阪毎日新聞社、現在の毎日新聞社)に掲載されている。同劇団は、1928年(昭和3年)3月、牧野省三のマキノ・プロダクションと提携して、山口が2本のサイレント映画に主演した。このとき、同劇団からは、原健作(のちの原健策)、福岡君子、三好栄子が出演した。その翌4月には山口が同劇団を脱退、同プロダクションに入社している。さらに翌5月には山口は同プロダクションを退社、山口俊雄プロダクションを設立している。1929年(昭和4年)2月に発行された『劇』第7巻第2号(国際情報社)には、『大阪浪花座の淡海と辨天座の新潮座』として、浪花座に本拠地を構えた志賀廼家淡海一座と比較した記事が掲載された。
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略歴・概要
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1920年(大正9年)9月3日、根岸興行部2代目経営者小泉丑治ジュニアである根岸吉之助が、前年5月1日に伊庭孝と高田雅夫らが「歌舞劇協会」を改組して結成した松竹専属の「新星歌舞劇団」の主要幹部を引き抜き、根岸専属とし、自らが任されている「金龍館」を本拠地に結成したのが「根岸大歌劇団」である。日本初のオペラ専門館「日本館」をしのぐ一大勢力となった。初演は翌10月11日、伊庭孝作詞、竹内平吉作曲、高田雅夫コレオグラフによるオペラ『釈迦』である。『嫁の取引』では高田の弟子として同劇団に参加した二村定一(当時「二村貞一」)が初舞台を踏んでいる。「アサヒ歌劇団」から藤原義江(当時「戸山英二郎」)が参加、安藤文子の寵愛を受けたのちにイタリア・ミラノへ修行に出る。 いわゆる「浅草オペラ」のなかでも、同劇団は、1916年(大正5年)5月1日に導入した、軽演劇の常磐座、オペラの金龍館、映画の東京倶楽部の3館共通入場券(2階20銭、1階10銭)が功を奏し、帝国劇場ではまだ高級な芸術であったオペラの大衆化を実現した。 1921年(大正10年)、伊庭孝が佐々紅華(東京蓄音器社員)とともに退団、奈良県生駒に「生駒歌劇団」を結成する。同年12月31日、金龍館(1911年10月1日築)の改築を終了、営業を再開、オッフェンバックの『天国と地獄』を始め、ロッシーニやヴェルディなど、現在でも知られるオペラの古典を上演しつづけた。 1922年(大正11年)3月20日、ビゼーのオペラ『カルメン』を初演、そのコーラスで榎本健一(エノケン)がデビューしている。そのご佐々のオリジナルオペレッタ『勧進帳』などに出演、人気を博す。 1923年(大正12年)、広島から上京した丸山定夫が入団する。戸山が4月10日に帰国する。同年9月1日、関東大震災で金龍館もろとも浅草が廃墟になり、凌雲閣も8階から上が倒壊した。根岸興行部は大打撃を受ける。同劇団は地方公演に出る。 1924年(大正13年)3月、ついに解散となる。出身者がつぎつぎ劇団を立ち上げるが往時のようにはうまくいかない。同年6月13日には、新劇の築地小劇場が設立され、丸山はそれに参加する。エノケンは撮影所の集まる地域に近い京都の嵐山に去る。浅草では安来節のブームが到来し、帝国劇場でもまたその残党が立てこもった赤坂ローヤルでも苦戦したオペラが花開いた、奇蹟とも呼ばれた「浅草オペラ」は廃れてしまう。1925年、清水金太郎、清水静子、田谷力三らによる浅草劇場での『オペラの怪人』を最後に浅草オペラは姿を消す。
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略歴・概要
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自らの父親もまた同事件の犠牲者である映画監督アンジェイ・ワイダが、80歳のときに取り組んだ作品である。原作は、脚本家でありルポルタージュ小説家でもあるアンジェイ・ムラルチクが執筆した『死後 カティン』(Post mortem. Katyń, 工藤幸雄・久山宏一訳『カティンの森』)である。構想に50年、製作に17年かかっている。 撮影は『戦場のピアニスト』等でも知られるポーランド出身の撮影監督パヴェウ・エデルマン、音楽はポーランド楽派の作曲家クシシュトフ・ペンデレツキが手がけた。ポーランドでは、2007年9月17日に首都ワルシャワでプレミア上映され、同年同月21日に劇場公開された。 翌2008年(平成20年)、第58回ベルリン国際映画祭でコンペティション外上映された。 ワイダは、2010年(平成22年)4月7日、ロシアのウラジーミル・プーチン首相、ポーランドのドナルド・トゥスク首相が出席した「カティンの森事件」犠牲者追悼式典に参列した。同月10日に開催予定であったがポーランド空軍Tu-154墜落事故のため中止となった「カティンの森事件」追悼式典のための大統領機には、搭乗してはいなかった。 日本では、2009年(平成21年)10月20日に東京国際映画祭で上映されたのちに、アルバトロスが配給して同年12月5日に公開された。翌2010年5月7日には同社が発売元となり、DVDがリリースされた。
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略歴・概要
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1931年(昭和6年)、33歳の北海道出身の興行師・赤沢大助が設立、マキノ御室撮影所からヴェテラン監督吉野二郎を引き抜き、『阿波の鳴門』、『杉野兵曹長の妻』を製作・自主配給したところから始まる。翌1932年(昭和6年)の正月映画まで吉野が3本を監督した。 1932年からは赤沢が監督に乗り出した。そもそも赤沢は、1922年(大正11年)に『籠の鳥の唄』の主題歌と企画を売り込み、26歳の1924年(大正13年)、平戸延介(のちの映画監督山本嘉次郎)主演で監督としてデビューしている人物である。赤沢自身が1934年までに7本を監督した。『金色夜叉』以外はすべて時局的な戦争映画であった。 またいっぽうで嵐寛寿郎プロダクションから富国映画社に流れた仁科熊彦や大都映画の根岸東一郎(赤沢映画のあとはマキノ・トーキー)を監督に起用、それぞれ1本ずつを演出した。1935年(昭和10年)3月7日、トーキー映画であった根岸監督の『母の心』を製作・配給し、赤沢キネマはその役割を終えた。
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1954年(昭和29年)1月に母体となる任意団体「東京喜劇人協会」が結成され、初代会長に榎本健一(エノケン)が就任した。翌1955年3月には「東京喜劇まつり」を主催し、第1回公演『銀座三代』を日本劇場で上演した。 同協会は1962年2月17日に「社団法人喜劇人協会」として設立された。管轄省庁は文化庁である。同年4月には「関西喜劇人協会」(1957年設立、伴淳三郎会長。※伴は山形県出身の浅草芸人)と統合し、現在の名称に変更した。 本法人は「喜劇に関する調査研究を行ない、その理論および技術の進歩を図るとともに、会員相互の連絡研修を行い、もって芸術文化の発展に寄与すること」を目的とし、同目的を達成するための事業として、 喜劇に関する調査研究およびその成果の発表 俳優の技芸および教養向上のための研修 喜劇に関する研修発表会、鑑賞会等の開催 喜劇に関する内外資料および文献の収集保存 俳優の顕彰および福利厚生 機関紙の刊行 その他前記の目的を達成するために必要になる事業 を挙げている。 1982年(昭和57年)、逝ける浅草の喜劇人を偲び、東京浅草の浅草寺境内に「喜劇人の碑」を建立した。 2004年(平成16年)3月26日、設立50周年を記念して「喜劇人大賞」を設けることを発表、同3月30日に第1回授賞式を行った。第1回大賞受賞者は三谷幸喜であった。 2007年(平成19年)4月、橋達也が第9代会長に就任した。 2011年(平成23年)6月、小松政夫が第10代会長に就任した。 2013年(平成25年)4月4日~4月5日、日本喜劇人まつり2013を東京・日本橋の三越劇場にて上演。 2014年(平成26年)2月14日~2月16日、日本喜劇人まつり2014を東京・日本橋の三越劇場にて開催。ヒロインはゲストの野呂佳代(元AKB48・SDN48)。 2014年(平成26年)9月8日~9月10日、第3回日本喜劇人まつり開催「コメディーアワー 必笑祈願 笑う門には福来る!!」を東京・日本橋の三越劇場にて開催。ゲストは熊谷真実、黒田アーサー。 2015年(平成27年)3月27日〜3月29日、第4回日本喜劇人まつり「天国のシャボン玉ホリデー」を東京・日本橋の三越劇場にて開催。 2016年(平成28年)3月4日~3月6日、日本喜劇人協会vs道頓堀人情歌劇 公演「春の祭典」を東京・日本橋の三越劇場にて開催。ゲストは渡辺裕之、黒田アーサー。
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1924年(大正13年)7月11日、当時日本が統治していた朝鮮・釜山府本町5丁目19番地(現在の釜山広域市中区東光洞5街)に設立される。同府内・西町二丁目12(現在の中区新昌洞2街12 )に存在した日蓮宗妙覚寺の別院・日蓮宗妙覚寺の婿養子に入った高佐貫長(のちの高佐日煌)が中心となり、釜山の財界の協力を得、釜山銃砲火薬店の名出音一を代表とし、阿久津正明を支配人とした。近辺の伏兵山に撮影所を建設、日蓮宗を伝道することを目的とした映画を製作、移動上映を中心に配給・興行した。 取締役に就任した高佐は、撮影所を統括し、「王必烈」のペンネームで脚本を書き、映画を監督した。高佐の映画製作に関する素養は、横浜の大正活映でトーマス・栗原に薫陶を受けたものとされる。同年、設立第1作として『海の秘曲』を日活と提携製作、同年11月24日に東京・浅草公園六区の三友館等で劇場公開された。 1926年(昭和元年)に製作した『アリラン』は同年10月1日に公開され、本土の上映は、当時メトロ・ゴールドウィン・メイヤー(MGM)の輸入代理店であったヤマニ洋行が行うべく、同年12月22日に検閲を受けた記録がある。 1927年(昭和2年)、倒産する。高佐は釜山・妙覚寺を去って本土に戻り、『日宗新報』の主筆となるが、同紙は同年廃刊となっている。 Internet Movie Databaseの Chosun Kinema の項に掲載されている1935年(昭和10年)以降の作品との関係は#Chosun Kinemaの節に詳述する。
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略歴・概要
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1935年(昭和10年)2月に設立された。「エトナ映画社」が稼動していた京都の「御室撮影所」を仮撮影所として製作を開始した。設立第1作は、同社の監督部長に就任した仁科熊彦が監督、直木三十五の原作を西条栄こと西條照太郎が脚色、撮影部長に就任した小柳京之介がカメラを回した羅門光三郎の主演作『益満休之助 比叡の巻』で、同年3月20日に公開された。 同年4月29日、仮撮影所を離れて兵庫県西宮市甲陽園にある「甲陽撮影所」に移る。翌1936年(昭和11年)、撮影所を甲陽園から、大阪府南河内郡古市町白鳥園(現在の羽曳野市翠鳥園)へと移転、新設の撮影所を「極東キネマ古市白鳥園撮影所」とした。このとき、スター俳優羅門光三郎、市川寿三郎、綾小路絃三郎ら、監督の下村健二、園池成男こと古海卓二、児井秀男(のちの児井英生)が甲陽園に残留、「甲陽映画」を設立した(1937年解散)。 1937年(昭和12年)、改組して極東キネマ株式会社となった。 1940年(昭和15年)、同社は大阪の「梅田劇場」(現在のHEP、TOHOシネマズ梅田)に合併され、大宝映画株式会社となるが、大宝映画は1作も製作せず、翌1941年(昭和16年)2月13日に公開された『燃ゆる魂』が最終作品となった。 1935年に28本、1936年に35本、1937年に43本、1938年に26本、1939年に36本、1940年に36本、1941年に4本の作品を残した。大手のほとんどがトーキーに完全に移行した時代にあって、サイレント映画を製作し続けたが、1940年には多くの極東作品もトーキーに移行した。「古市撮影所」の跡地には現在、イズミヤ古市店が建っている。
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「失われた地平線 (1973年の映画)」の記事における「略歴・概要」の解説
1937年の同題映画(邦題は『失はれた地平線』)のリメイク。大作ミュージカルとして作られたが興行、批評双方で大惨敗し、ハリウッド業界のミュージカルジャンルそのものを斜陽に向かわせた。 制作費は20億円とされ、シャングリラのオープン・セット(豪壮なラマ廟と広大な庭園)を作るのに3ヶ月が費やされた。庭には造花を使わず、本物の草花が使われている。60mの大滝のセットは200トンのセメントとプラスティックにより製作。『クレオパトラ』以来の大掛かりなセットと言われた。
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1972年(昭和47年)5月26日、東宝の製作部門の分社化の方針によって設立された。初代社長には新東宝、東京映画で活動してきた佐藤一郎が就任した。初期の役員にはおなじく映画プロデューサーの市川喜一がいた。 この時期の東宝は、新たに設立した東宝映画(社長藤本眞澄)、東宝映像(のちの東宝映像美術、社長田中友幸)、「駅前シリーズ」で知られる東宝の関連会社・東京映画(のちの東京映画新社、現存せず、社長川上流一)、そして同年に設立された青灯社(現存せず、社長堀場伸世)の5社に製作部門を切り離し、配給・興行部門の守りに入った。 有吉佐和子や山崎豊子の小説を原作とした骨太な社会派の作風をもち、同社の作品は、『華麗なる一族』、『不毛地帯』と2000年代のテレビドラマでのリメイクの対象となっている。 1999年ころには存在したが、2009年現在に至る時点で消滅している。
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1885年(明治18年)、秋田柳吉が東京市京橋区五郎兵衛町(現在の東京都中央区八重洲2丁目)に開業した。「廣目屋」の命名は小説家の仮名垣魯文である。当初は「楽隊広告」、いわゆる「チンドン屋」で知られ、「西の東西屋、東の広目屋」と呼ばれた。 1895年(明治28年)、日清戦争をテーマに、幻灯上映を芝区(現在の港区芝公園)の「弥生館」で、川上音二郎の演劇を「浅草座」でそれぞれ興行し、それがそれぞれ同社の「興行部」、「装飾部」の始まりとなる。「宣伝広告部」に関しては、 ファイル:Kinkikan movie ad.jpg 180px 1897年(明治30年)、現在も同社の位置する銀座1丁目に移転、「宣伝広告部」と「興行部」、「装飾部」の3部を置く。同年2月21日、大阪の荒木和一が、エジソン社の「ヴァイタスコープ」を大阪で公開、続いて3月6日には東京の「新居商会」が神田錦輝館(神田区錦町、現在の千代田区神田錦町)で公開するにあたり、宣伝の発注を受けた。同時に上陸したフランス・リュミエール社の「シネマトグラフ」は大阪ではヴァイタスコープの7日前に公開されたが、東京では「3日間」早く公開することに成功した。 1905年(明治38年)、明治座で、日露戦争を撮影した『日露戦争実写活動写真』を興行。 1923年(大正12年)10月1日、「株式会社廣目屋」と法人組織に改組、現在に至る。 1972年(昭和47年)、現在地に本社ビルを竣工した。 「廣目屋」開店や大売出しを宣伝する楽隊などを使った広告屋。チンドン屋の先駆。大阪からやってきた秋田柳吉が明治21年(1888年)、京橋五郎兵衛町で広告宣伝の店「廣目屋」(屋号は仮名垣魯文による)を開業。やがて「廣目屋」は、広告屋を意味する普通名詞 として用いられるようになっていった。「廣目屋」と記された幟と、編み笠をかぶった和服姿の楽隊の絵あり。 『世渡風俗圖會』にも、編み笠をかぶった楽隊の廣目屋や、大八車に商標を飾り付けた廣目屋が描かれている。 — 清水晴風著『東京名物百人一首』明治40年8月「廣目屋」より抜粋
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1939年4月には、各省(陸軍省、海軍省、外務省、商工省、鉄道省)からの出資により財団法人となった。同年8月または12月には、国庫からの補助金により、ベルリンに支局を開設した。 先行して創刊(1938年2月16日創刊)されていた写真週報の編集も行っていた(表紙写真の撮影者として、「写真協会」とクレジットされているケースもある)。「内閣情報部調乙二十四号」には、この写真協会設立には各官庁間の調整が必要であることから、設立案具体化の第一手段として創刊されたのが「写真週報」であると記されている。 内閣情報部の嘱託により、東京日日新聞(現在の毎日新聞)の元社会部記者(カメラマン)であった林謙一(作家、1906年 - 1980年)が中心となって設立された。他のメンバーは、松本昇(総務部長)、浜田健次(国際部長)など。当初は、写真部員はおらず、すべて外部(同盟通信社、加藤恭平 (写真家)など)への嘱託であり、暗室も同盟通信社の暗室を借りていたという。事務所は、当初数寄屋橋交差点のマツダビルの2階にあった(住所は、東京市京橋区銀座四―二 マツダビル二階二〇四号)。 1940年の時点では、林謙一は内閣情報部へ移り(内閣情報部情報官のち情報局第五部第一課情報官)、松本昇と稲葉熊野(業務部長。元読売新聞)が中心となっていた。写真部には、同盟通信社の内山林之助、村山尚寛、内閣嘱託の波多野健一、高橋正雄、営業写真から転じた久米茂などがいた。笹本恒子が在籍したことでも有名。また、暗室係として、小杉清一、草野某(名字のみしか不明)が在籍した。総勢30余名だったという。また、この時点では、オフィスも、数寄屋橋から有楽町駅前の東日会館の2階へと移っている。 1941年1月には、雑誌『フォトタイムス』と雑誌『カメラアート』を戦時統合した雑誌『報道写真』(B5判、編集人・松本昇)を創刊し、1944年3月号まで刊行した(その後継誌である1944年5月創刊の『日本写真』は、日本写真公社から刊行)。その他にも、各種の出版物に関与した(下記「写真協会がかかわった出版物」参照)。 1944年末頃または1945年まで存在したと推測されるが、正確に何年何月まで存在したかは明確ではない。
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カプリ島の東端、マッスーロ岬に建つ。地元の石工アドルフォ・アミトラーノの助けを借りながらマラパルテ自身が建設した。設計者については、イタリアの合理主義建築家アダルベルト・リベラによって1937年頃に設計されたという説と、マラパルテはリベラの設計案をそのまま採用せず、自分で設計をしながら建設したという説との二つがあり、現在は後者のほうが有力となっている。 屋上(「ソラリウム」=日光浴場と呼ばれた)へ向かって幅を広げてゆく大階段を持つ赤い組積造の建物上に、白い壁が弧を描いて自立している。曲面壁は屋上での風よけと崖の上からの視線を遮る役割を持つ。建物の建つ断崖は海面から32メートルもあり、サレルノ湾を一望する事ができる。建物へのアプローチは陸側(カプリ市街の方向)からは徒歩で行う。また、ボートから絶壁に彫り込まれた長い階段を登ってアプローチする事もできる。 居間に開けられた4つの大きな窓の枠は絵画の額縁を模して加工されており、木々を通して海を眺む景色を、絵画のように切り取っている。内装は白を基調としたシンプルなもので、マラパルテのデザインの家具類、居間の緩やかな曲面を持ったスタッコ製の暖炉、愛人用の寝室にあるタイル張りのバスタブがある。 マラパルテがムッソリーニによってリーパリ島へ流刑に処せられた時、監獄の窓から見えた教会の入口の階段が大階段のモチーフとなっているなど、住宅の各所にマラパルテ自身の原風景が刻みこまれている。事実、マラパルテはこの住宅を、自身の散文「私のような女 (Donna Come Me)」になぞらえて「私のような家 (Casa Come Me)」と呼んでいた。 マラパルテが1957年に死去した後は放置され、荒廃していたが、1980年代の終わりから1990年代にかけて大規模な改修工事が行われた。現在は私有されており、一般の見学はできない。 この住宅のミステリアスなデザインは、マラパルテ自身の波瀾万丈の人生と相まって多くの建築家やアーティストを刺激してきた。これまでに発表された主な論文やエッセイに、ジョン・ヘイダック、トム・ウルフ、ロバート・ヴェンチューリ、エミリオ・アンバース、エットレ・ソットサス、マイケル・グレイヴス、ウィレム・デフォー、ピーター・アイゼンマン、磯崎新によるものがある。 ジャン=リュック・ゴダール監督の映画『軽蔑』(1963年)では、主要なロケーション撮影が行われた。主演のブリジット・バルドーが屋上のテラスで横たわるシーンは特に有名である。
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原作はアンリ=ピエール・ロシェの小説。ストーリーの大枠は同名の作品に基づいているが、いくつかのエピソードやセリフはロシェの他の作品から取り出したものである。 ジャンヌ・モロー演じるカトリーヌの奔放で開放的なキャラクターは多くの女性から共感を得た。トリュフォーのもとには「カトリーヌはわたしです」という内容の手紙が世界中から届いたという。特に当時女性解放運動が活発化しつつあったアメリカとイギリスでは、フランス映画としては異例のヒットを記録した。ただし、トリュフォー自身は、本作が「女性映画」のレッテルを貼られて政治的な文脈で評価されることや、登場人物と自分とを短絡的に結びつける自己愛的な映画の見方に対して否定的である。 トリュフォーがロシェの小説を読んだのは21歳のときだが、映画化する決心をしたのはエドガー・G・ウルマー監督の西部劇『裸の夜明け』を見たときだという。 シナリオ全体を通してアポリネールへの目配せに満ちているが、カトリーヌのキャラクターはアポリネールの恋人だったこともあるマリー・ローランサンをモデルにしている。ローランサンはアンリ=ピエール・ロシェの愛人だったこともある。また、『つむじ風―「突然炎のごとく」の真実の物語』によれば、ジュールのモデルはユダヤ系ドイツ人作家フランツ・ヘッセル(Franz Hessel)である。 カトリーヌが歌うシャンソン『つむじ風』(仏語:Le Tourbillon)は、撮影中にボリス・バシアクがモローのために遊びでつくったもの。それを聞いたトリュフォーが即興で映画に取り入れた。 カトリーヌがセーヌ川に飛び込むシーンは、スタントの女性がやりたがらなかったので、モロー自身が飛びこんだ。セーヌ川の水は汚く、のどをやられてしまったという。
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片岡千恵蔵プロダクションでの監督デビュー以来のキャリアを経て、1937年(昭和12年)に京都のゼーオー・スタヂオ(のちの東宝映画京都撮影所、1941年閉鎖、現存せず)で、ドイツの映画作家、アーノルド・ファンクとの共同監督作『新しき土』、あるいは『故郷』、『権三と助十』を監督し、同年9月10日、同社は合併して東宝映画を設立、伊丹はピー・シー・エル映画製作所および写真化学研究所を前身とする東宝映画東京撮影所(現在の東宝スタジオ)に移り、そこで手がけた監督作が本作である。 日活京都撮影所からゼーオー・スタヂオ、東宝映画京都撮影所と移籍して来た大河内傳次郎を主演に、伊丹の『新しき土』に主演した原節子、当時満17歳が引き続き出演している。佐山亮は、東京美術学校(現在の東京藝術大学美術学部)、太平洋美術学校(現在の太平洋画会研究所)を経て、当時満27歳にして新人として同撮影所に入社、清家龍馬役に抜擢されて映画界にデビューした。新協劇団から、滝沢修、伊達信、島田敬一、中村栄二の4人がゲスト出演しており、とくに島田は、本作が映画初出演であった。当時同劇団に所属していた浜村純が、ノンクレジットでエキストラ出演しているという。 『レ・ミゼラブル』を下敷きに西南戦争に至る物語を描く本作は、「大河内傳次郎東上第一回超大作」と銘打って公開されたが、評判は芳しくなかったという。大西巨人によれば、本作の公開時に劇場で観て、佐山演じる龍馬が原演じる千代の家を訪れるシーンが印象に残ったという。本作を終えてからの伊丹は胸を病み、7年間、病床に就くことになる。伊丹は「『新しき土』ののち、東宝で、二倍の時間と労力を費し、私は一年間の精力を意味なく浪費した」と述懐している。本作の公開当時には満38歳だったが、生前には稲垣浩が監督した『無法松の一生』(1943年)の脚色を手がけたのみで、監督作としては本作を遺作に、1946年(昭和21年)9月21日に満46歳で死去した。 本作は、公開時と同一の127分尺の上映用プリントが現存しており、東京国立近代美術館フィルムセンターは、微妙に尺長の異なる2つの35mmフィルムの上映用プリントを所蔵している。
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海軍中佐であった中筋藤一が、三井物産資本を背景に1950年(昭和25年)8月に設立した。本社は東京都中央区銀座1-6 皆川ビルに置いた。 ニッポンシネマコーポレーション(NCC)、東宝、松竹、欧米映画(のちのヘラルド映画)といった各社と共同配給を行い、スウェーデン等いわゆる北欧のみならず、フランス映画、メキシコ映画も輸入配給した。 1957年(昭和32年)、ヘラルド映画(現在の角川映画の前身の一社)、大洋映画と合併して新会社を設立、同社は消滅する。中筋はこの新会社に参加するが、北欧映画株式会社の本社のあった場所には、自らを代表とする北欧商事株式会社を置いた。
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1963年開業。全長350mの本館は303室、850名収容可能。近隣の奥道後遊園地と併せて一大レジャーランドを築いている。 1970年2月15日未明、ホテルの劇場から出火。劇場と宿泊棟は別であり、宿泊客に被害は無かったが約700人が避難する騒ぎとなった。消火中に警備員1人が巻き込まれて死亡。 近年の不景気による業績低迷に加え、東日本大震災の影響で外国人の宿泊客が激減し資金繰りが悪化したことから、2012年1月16日に松山地方裁判所に民事再生法の適用を申請した。負債総額はおよそ10億円。愛知県の旅館運営会社「海栄館」がスポンサーとなり、経営再建を行っている。 2014年7月2日に、「奥道後 壱湯の守」として、リニューアルオープンした。
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1908年(明治41年)、横田商会創業者の横田永之助が、当時千本座の狂言方だった牧野省三に映画製作を依頼。映画監督として立ち会い、同座に出演していた中村福之助、嵐璃徳らを起用した。なお、横田商会はまだ撮影所を持っていなかったため、京都府京都市左京区にある真如堂境内でロケーション撮影を行い、同寺の山門で森蘭丸奮戦の場面を撮影した。撮影は退社した福井繁一に代わり、広島県尾道市出身で、京都市内の写真店を経て横田商会の映写技師となった小川真喜多が務めた。同年9月17日、横田商会特約館の錦輝館で上映された。 翌1909年(明治42年)、牧野は続いて尾上梅暁、市川新四郎、嵐橘十郎を起用した『菅原伝授手習鑑』をはじめ、『児島高徳誉の桜』『明烏夢の泡雪』『安達原三段目袖萩祭文の場』『桜田騒動血染雪』の5本の歌舞伎物を撮影した後、尾上松之助とのコンビ第1作『碁盤忠信 源氏礎』を撮影し、本格的に映画監督として活動することとなる。 本作は、1918年(大正7年)に日活京都撮影所製作・配給、尾上松之助主演でリメイクされており、同年12月31日に正月作品として浅草公園六区の富士館等で公開された。 本作の上映用プリントは、現在、いずれのバージョンも東京国立近代美術館フィルムセンターには所蔵されておらず、マツダ映画社はそのリストに本作の題名が見当たらない。現時点では、鑑賞することの不可能な作品である。
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1908年(明治41年)、当時千本座の狂言方だった牧野省三は、横田商会創業者である横田永之助の依頼を受け、活動写真の請負製作を始めた。その第1作が『本能寺合戦』であり、当時千本座に出演していた中村福之助、嵐璃徳を起用した。以降、市川新四郎、尾上梅暁、嵐橘十郎らが出演した『菅原伝授手習鑑』など、同年だけで合計6本の作品を撮影、本作はその第7作である。 原作は歌舞伎・狂言作者河竹黙阿弥の『千歳曾我源氏礎』から取り、演目『碁盤忠信』にある「吉野山雪中」と「小柴入道宅」の二場を撮影。主演は同年から千本座の座付役者となった尾上松之助が務め、松之助の記念すべき映画デビュー作となった。撮影は1909年(明治42年)10月17日に行われ、千本座の夜間興行に差支えのないよう、千本座近くにある大超寺で朝8時頃から午後5時までかかって全二場約700尺を撮り上げた。同年12月1日、横田商会特約館の富士館で封切られた。以降、牧野と松之助のコンビで数多くの活動写真が製作されるようになる。
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2004年、高校卒業後結成。 2006年4月、自動車で全国47都道府県を回る旅「ストーリー・ド・ライブ」を1年5ヶ月をかけて敢行。 2008年5月、ジェネオンエンタテインメントよりメジャーデビュー。 ユニット名は沖縄の方言で「妖精」を意味する。
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幕府は、フランス軍軍事顧問団の指導による幕府陸軍の強化を目指した。それに先立ち、フランス語を理解できる士官候補生を養成するために、元治2年3月6日(1865年4月1日)、開成所とは別に横浜仏語伝習所が設立された。場所は武蔵国久良岐郡横浜町弁天町(現在の神奈川県横浜市中区本町6丁目)、弁天池の北隣であった。 栗本鋤雲、小栗忠順が幕府から設立に関わり、設立後は、所長に外国奉行川勝広道が就任、フランス側からの指名で塩田三郎が補佐した。フランス側からは、全権公使のレオン・ロッシュが責任者として立ち、その秘書で通訳のメルメ・カションが事実上の校長であり、カリキュラム編成と講義を受け持った。慶応2年(1866年)2月頃(慶応2年初頭)からは、シャルル・ビュランら公使館から人員が借り出された。 カリキュラムは、フランス語だけではなく地理学・歴史学・数学・幾何学・英語・馬術で、半年を1学期とし、午前は8時から正午までの4時間と、午後は16時から18時までの2時間を授業時間とし、日曜日・祝日は休業、水曜日は午前のみの半ドンであった。 第1回「得業式」は慶応2年10月(1866年11月)に行なわれた。同年11月18日(12月24日)、伝習生は旗本を対象に募集したが、翌慶応3年1月3日(1867年2月7日)には藩士にも門戸を開いた。 幕府が倒れ、幕府と運命を共にした形でロッシュが本国に召喚され、新公使マクシム・ウトレー(フランス語版)が着任するに及んで、横浜仏語伝習所は一旦は自然廃校となった。しかし、明治2年(1869年)に明治新政府はこの学校を接収し、横浜語学所として再興することを決定した。そして、川勝広道を学長に再任し、諸藩の志願者35名に入学を許し、ビュランも引き続き教官を務めた。明治3年には、大阪兵学寮に移設され、陸軍士官学校へと続くことになる。
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「白黒リバーサルフィルム」の記事における「略歴・概要」の解説
1923年、アマチュア映画用の小型映画のために、コダックが、16mmの白黒リバーサルフィルム、その映写機コダスコープ(英語版)、撮影機シネコダック(英語版)を発表した。同フィルムは安全フィルムであった。同時期に劇場用映画のディフュージョン版を家庭で上映するためにフランスのパテが生み出した規格である9.5mmフィルムで、小型映画用の撮影機パテベビーでの撮影用に、白黒リバーサルフィルム(ダイレクトフィルム、ROFとも)が発売されている。 1953年1月、富士フイルムは、白黒リバーサルフィルム「ネオパン反転8mmフィルム」「ネオパン反転16mmフィルム」を発表する。 1955年、コダックは白黒リバーサルフィルム「コダック プラスX リバーサルフィルム 7276」「コダック トライX リバーサルフィルム 7278」の製造販売を開始、後者の貢献によりコダックは、第28回アカデミー賞科学技術賞を受賞している。 1960年10月、富士フイルムは、商業印刷・製版用に「富士製版用反転フィルム」を発表する。1962年(昭和37年)、コダックは劇場用映画のプリントフィルム用に「イーストマン リバーサル白黒プリントフィルム 7361」(オルソタイプ)を発売する。 写真用白黒リバーサルフィルムについては、ドイツのアグフア・ゲバルトが製造販売し、もっとも普及していたアグフアスカラ(ドイツ語版)が、2005年5月、135フィルム、ブローニーフィルム(120フィルム)、大判カメラ用シートフィルム(4×5 シノゴ判)の全製品が生産終了した。これをもって「世界唯一の白黒リバーサルフィルムが消滅した」とするのは誤りである。前述のムービー用等の他写真用についてもそれ以前もそれ以後も、チェコのフォマ・ボヘミアによる「フォマパンR」、ドイツのギガビットフィルムによる「ギガビットフィルムDIA」、同じくローライの「ローライRSD」の製造販売が(2014年現在)続けられている。⇒ #おもな製品
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飛鳥時代、7世紀の舒明天皇の時代に、真間の入江(現在の真間川)に入水したとされる「真間の手児奈」の伝説に真間という地名が登場する。手児奈が水を汲んだという真間の井は現存し、現在は枯渇している。真間の地は、19世紀に歌川広重が『名所江戸百景』に描いたように水源に潤沢で、現在も千葉県市川市の地名に残る。759年(天平宝字3年)に成立したとされる『万葉集』に登場する地名であり、「まま」の語のもっとも古い例である。また、『万葉集』には、 足柄の 崖の小菅の 菅枕 あぜかまかさむ 児ろせ手枕 という足柄峠あたりを舞台とした東国の歌があり、これは一般名詞としての「まま」(崖)の例である。 群馬県の大間々扇状地の扇頂にあるみどり市大間々町では、旧山田郡大間々町の役場の前にあった渡良瀬川の河岸段丘による崖をママと呼ぶ。扇状地の下部に位置する太田市新田地区には覆水による湧水が多く、金井、野井等の井戸にちなむ地名がみられる。 武蔵野台地に散見される高さ数メートル程度の崖は、ママあるいはハケと呼ばれ、どちらも崖の古語であり、同地では現在も生きている語彙である。国分寺崖線、立川崖線が知られる。小金井市にある国分寺崖線の道は「はけの道」と呼ばれる。東京の名湧水57選に選ばれた東京都国立市谷保のママ下湧水をはじめとして、「ママ下」と呼ばれるママの下部域には多く湧水が見られる。 東京都の島嶼・新島の南東に位置する羽伏浦海岸には、海食で露出した火山灰層である白ママ断層という断崖絶壁がある。30メートルから250メートルの高さの白い断崖が7キロメートル続く。同島の南西海岸、海に直面した向山の麓には間々下(まました)という小字があり、間々下海岸には間々下温泉の源泉が湧出している。 山梨県の山中湖村の長池地区にママの森と呼ばれる、崖の切り立つ地域がある。古くは「大まま」と呼ばれ、近辺には山中大池という大字があり、古くは水ヶ窪と呼ばれる土地もあり、湧水となっていた。同県甲斐市大字志田に間々下(まました)という小字があり、同地は扇状地の突端、つまりママの下に位置する。同地には平安時代の遺跡・間々下遺跡が存する。 「崖」を意味する日本の古語・方言には、「まま」「はけ」のほかに、「ほき」、「のげ」がある。そのなかでも「まま」には、「地形の崩れ」の意味が含まれている。また、地域によっては「もも」も同系の地名だという指摘もある。 「はけ」も参照
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実在する人物・斎藤きちに取材し、1927年(昭和2年)に村松春水が発表した小説である。初出の詳細は不明であるが、新感覚派の小説家・十一谷義三郎が村松から版権を買い取り、翌1928年(昭和3年)には小説『唐人お吉』を『中央公論』誌上に発表している。1929年(昭和4年)に十一谷版の『唐人お吉』が万里閣書房から上梓されたが、そこには村松が『唐人お吉を語る』を寄稿している。村松版の『実話唐人お吉』が平凡社から上梓されたのは、1930年(昭和5年)のことである。『実話唐人お吉』はこのときの単行本以外は、出版されることがなかった。 同年、河合映画製作社が村松版を原作に、日活太秦撮影所が十一谷版を原作にそれぞれ映画化、前者は同年6月6日、後者は7月1日に公開された。河合版は八尋不二が脚色し、琴糸路がお吉役を演じている。翌1931年(昭和6年)には、松竹下加茂撮影所が村松版を原作に、悪麗之助が脚色し、衣笠貞之助が監督、飯塚敏子がお吉役を演じて製作、松竹キネマが配給して、同年12月18日に公開されている。 村松原作、十一谷原作も含めて「唐人お吉」をテーマとした映画作品は、合計7作存在する。⇒ 斎藤きち#作品化 『実話唐人お吉』を原作としたこの2作の映画『唐人お吉』は、いずれも東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されておらず、いずれもマツダ映画社の「主な所蔵リスト」には掲載されていない。現在、鑑賞することのできない作品である。
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略歴・概要
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本作は、1980年、イタリアの映画プロデューサーであるアウレリオ・デ・ラウレンティス、ルイジ・デ・ラウレンティスの2人が経営する製作会社フィルマウロ(イタリア語版)が製作を開始、エンリコ・オルドイーニ、パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレの2人が共同で執筆した原案をもとに、オルドイーニ、カンパニーレ、オッタヴィオ・イェンマの3人が共同で脚色し、ラツィオ州ローマ県ローマ市内のポポロ広場、ロトンダ広場、スペイン広場、同市郊外のカステル・ガンドルフォ、バチカン市国、エミリア=ロマーニャ州モデナ県カステルフランコ・エミーリア、ロンバルディア州ミラノ県のセグラーテやセッターラ等でロケーション撮影を行って完成した。 イタリア国内では、同年3月28日に劇場公開された。同監督は、本作に続いて翌1981年(昭和55年)の作品で、レナート・ポッツェットとエンリコ・モンテザーノがそれぞれ主演に、本作同様の全二話構成のオムニバス『ケツとシャツ』を監督している。2005年(平成17年)11月8日、本作の製作元のフィルマウロが「120分」ヴァージョンのDVDを発売している。 日本では、2011年(平成23年)3月現在に至るまで劇場公開、テレビ放映、ビデオグラム販売等は行われていない。
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2001年まで「全洋画ONLINE」という名称であった。当初はスティングレイが1996年に発売した Windows 用のCD-ROM『シネマガイド 全洋画』をウェブ公開したもので1997年に第2版が発売されている。現在では非日本語圏で製作された映画である「洋画」に限らず、日本映画も対象となっている。 第二次世界大戦前から現在まで、日本で劇場公開、あるいはテレビ放映、ビデオグラム発売された映画、テレビ映画、一部テレビドラマを対象に、スタッフ、俳優、ストーリー、キャッチコピー等が作品ごとに記述されている。作品ページと、スタッフ、俳優等人物別の作品一覧ページが基本構成である。コメントページは、登録ユーザによるコメントの書き込みによる。 俳優、スタッフ別の作品一覧ページでのリスティング序列は、年代の新しいものから古いものへの降順であり、キネマ旬報DB、goo 映画等の日本語による他のデータベースと同様である。昇順でリスティングが厳密に公開日順である日本映画データベースと違い、同一公開年内での順列はランダムである。 解説やユーザコメントはネタバレを含むこともある。ネタバレを含むコメントには「【ネタバレ注意】」と付加されているが、解説にはネタバレへの注意は付加されていない。 「全洋画ONLINE」という名称であった頃から、日本語で映画のタイトル表記や出演者などを調べる際の標準的なサイトのひとつとして広く使用されている。
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「妻を失い恋人を見つける法」の記事における「略歴・概要」の解説
本作は、1978年、イタリアの映画プロデューサールイジ・ボルゲーゼが代表を務める製作会社チネマトグラフィカ・アレックスが製作、同年完成した。ジャンフランコ・ブッチェリとロベルト・レオーニの2人が執筆した原案を、ブッチェリ、レオーニ、ルイジ・マレルバの3人が脚本を共同執筆した。本来歌手である本作の主演俳優ジョニー・ドレッリが歌う主題歌 "Golosona" は、同年シングル発売され、同じくアルバム "Giorgio" に収録された。 イタリアでは、メジャー映画会社ティタヌスが配給し、同年11月28日に同国内で公開された。2009年(平成21年)7月1日、「92分」のヴァージョンでDVDが発売元ティタヌス、販売元01ディストリビューション(イタリア放送協会傘下)によりイタリアで発売された。 日本では、2011年(平成23年)2月現在に至るまで劇場公開、テレビ放映、DVD等のビデオグラム販売等は行われていない。
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「ルガンティーノ (映画)」の記事における「略歴・概要」の解説
本作は、1962年(昭和37年)初演の音楽劇『ルガンティーノ』を原作とした映画作品で、同戯曲は演出家・劇作家のピエトロ・ガリネイとサンドロ・ジョヴァンニーニによる原案を、ガリネイ、ジョヴァンニーニ、パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ、マッシモ・フランチオーザの4人が共同執筆したものであった。本作の脚本は、カンパニーレとフランチオーザの2名が共同で同戯曲をさらに劇映画用に脚色したものである。 イタリア国内では、ティタヌスが配給して1973年3月28日に劇場公開された。2010年(平成22年)3月24日、配給元のティタヌスが「106分」ヴァージョンのDVDを発売している。 日本では、2011年(平成23年)3月現在に至るまで劇場公開、テレビ放映、ビデオグラム販売等は行われていない。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/01 05:05 UTC 版)
本作は、1961年、イタリアの映画プロデューサーアルフレード・ビニが経営する製作会社アルコ・フィルムと、イタリアの製作会社ガラテア・フィルム、フランスの映画会社SGCが共同で製作を開始、トスカーナ州フィレンツェ県フィレンツェ等でロケーション撮影を行い、完成した作品である。マリオ・プラテージの小説 L'eredità (1889年)を原作に、ヴァスコ・プラトリーニ、パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ、マッシモ・フランチオーザの3人が脚本を執筆した。映画監督のピエトロ・ジェルミが、主演のジャン=ポール・ベルモンド、クラウディア・カルディナーレに次ぐ重要な役で出演している。 同年5月3日に開催された第14回カンヌ国際映画祭のコンペティションに出品された。その後、まずSGCが配給してフランスで6月13日、その後ティタヌスが配給してイタリアで8月15日にそれぞれ公開された。翌1962年(昭和37年)、ナストロ・ダルジェント賞において、ピエロ・トージが衣裳賞、フラヴィオ・モゲリーニが美術賞をそれぞれ受賞した。 日本では、1963年(昭和38年)1月6日、大映(のちの角川映画、現在の角川書店)が配給して、劇場公開された。2011年(平成23年)2月現在に至るまでDVD等のビデオグラム販売等は行われていない。 2009年(平成21年)9月5日に開催された第66回ヴェネツィア国際映画祭で上映されている。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/01 04:57 UTC 版)
本作は、1960年、イタリアのメジャー映画会社ティタヌスとフランスの製作会社レティシア・フィルムとレ・フィルム・マルソー=コシノールが製作、同年10月15日にティタヌスの配給によりイタリア国内で、翌1961年7月19日にマルソー=コシノールの配給によりフランス国内で、それぞれ公開された。 日本では、イタリフィルムが輸入し、フランス公開よりも3か月早い同年4月9日、同社の配給により公開された。日本でのビデオグラムは、2010年8月現在発売されていない。
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略歴・概要
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「貧しいが美しい男たち」の記事における「略歴・概要」の解説
本作は、1956年、イタリアの映画会社ティタヌスとフランスの映画会社SGCが共同で製作、ローマ市内でロケーション撮影を行って完成、年明け1957年1月1日、ティタヌス=ルックスが配給してイタリア国内で公開された。フランスで公開されたのは、1959年(昭和34年)8月であった。 日本では、本作に関してはイタリア文化会館等での上映を除いては劇場公開されておらず、2010年9月現在、DVD等のビデオグラムも発売されていない。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/01 04:57 UTC 版)
本作は、1956年(昭和31年)に製作され、翌1957年(昭和32年)1月1日に公開されたディーノ・リージ監督の『貧しいが美しい男たち』、同年製作、同年12月20日に公開された『美しいが貧しい娘たち』に続いてイタリアの映画会社ティタヌスが製作、ローマ市内でロケーション撮影を行って完成、1958年に同社がイタリア国内で公開した。 脚本は、3作ともディーノ・リージ、パスクァーレ・フェスタ・カンパニーレ、マッシモ・フランチオーザがオリジナルシナリオを共同執筆したが、本作では、劇版音楽がピエロ・ピッチオーニからアルマンド・トロヴァヨーリにバトンタッチ、前2作で主演したマリーザ・アッラジオは本作では降板し、レギュラー女優であったロレッラ・デ・ルーカ、アレッサンドラ・パナーロが主演集団に昇格した。 日本では、本作に関してはイタリア文化会館等での上映を除いては劇場公開されておらず、2010年9月現在、DVD等のビデオグラムも発売されていない。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/01 04:58 UTC 版)
「美しいが貧しい娘たち」の記事における「略歴・概要」の解説
本作は、1956年(昭和31年)に製作され、翌1957年1月1日に公開されたディーノ・リージ監督の『貧しいが美しい男たち』の続篇として、イタリアの映画会社ティタヌスが製作、ローマ市内でロケーション撮影を行って完成、同年12月20日、イタリア国内で公開された。 日本では、本作に関してはイタリア文化会館等での上映を除いては劇場公開されていない。時期は不明であるが、『美しいが貧しい娘達』のタイトルでテレビ放映されている。日本では、2010年9月現在、DVD等のビデオグラムも発売されていない。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/28 02:21 UTC 版)
1953年(昭和28年)9月に創刊された。芳文社の先行する少年雑誌『野球少年』(第7巻第9号、1953年9月発行)に「まんがと絵物語のカンズメ」というキャッチフレーズで予告が掲載されている通り、漫画と絵物語とが掲載されていた。1954年(昭和29年)10月、同誌に掲載された『犯人は誰だ!!』『きそうてんがい』でつげ義春が漫画家としてデビューしている。つげはその後3年ほど常連執筆者だった。 末期(1960年1月)のキャッチコピーは、「ぜったい楽しめる日本一の少年雑誌」であった。 1961年(昭和36年)2月、同月に発行された第9巻第2号をもって、休刊した。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/25 14:21 UTC 版)
アルフレード・グアリーニが企画し、チェーザレ・ザヴァッティーニが全挿話の原作・脚本を執筆し、それぞれの挿話の脚本をルイジ・キアリーニ、オテッロ・マルテッリ、ジョルジョ・プロスペリ、スーゾ・チェッキ・ダミーコが共同執筆した。製作もとのティタヌスが配給し、イタリア国内では同年10月22日に公開された。 日本では、1954年(昭和29年)にイタリフィルムが輸入し、同年7月24日、松竹洋画部とともに共同配給して公開された。日本でのビデオグラムは、2004年(平成16年)9月18日、紀伊國屋書店がDVDを発売している。1964年9月17日にはフジテレビの『テレビ名画座』でテレビ放送が行われた。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 04:46 UTC 版)
平安時代(8世紀)、貴族社会で流行した歌合・絵合・貝合等の「物合」の一つに「鶯合」(うぐいすあわせ)があり、飼育したウグイスを持ち寄り、さえずる声の優劣を競うという遊びであるが、このころには産地からウグイスをもたらす人物がいたと考えられる。山城国葛野郡と丹波国の境(現在の京都府京都市右京区嵯峨愛宕町)にある山、愛宕山産のウグイスを「愛宕鳥」(あたごどり)、同愛宕郡大原郷(現在の同市左京区大原)産のものを「大原鳥」(おはらどり)と呼ぶ。平家人たちは、愛宕派と大原派に分かれて、どちらが優れているかの議論に明け暮れていたともいわれる。1237年(嘉禎3年)には成立していた『法然上人絵伝』には、「鶯飼ふこと」を戒めている。 室町時代、15世紀前半、世阿弥の次男観世元能が父の芸訓を書き起こした書『申楽談儀』(『世子六十以後申楽談儀』、1430年)では、「清次の定」として、「好色」「博奕」「大酒」と並んで「鶯飼ふこと」を禁じている。つまり「鶯合」などに根注してしまっては芸事は務まらない、という戒めである。 15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、「鳥刺」とともに「鶯飼」あるいは「うぐひす飼」として紹介され、ウグイスの入った小さな鳥籠を巨大な容器(桶)から取り出して眼の高さに持っている、帯刀した老人の姿が描かれている。ウグイスはさえずり、粗末な小袖を着て帯刀しない「鳥刺」も小さな野鳥を手にしつつ、その声に視線を投げている。この歌合に載せられた歌は、 羽風だに 花のためには あたご鳥 おはら巣立に いかがあはせん というもので、春に行われる「鶯合」で手許にある「愛宕鳥」を巣立とうとする「大原鳥」にどのように対抗させようか、と歌っている。1520年代の京都の光景が描かれているとされる『洛中洛外図屏風』(町田本)にも、三条西殿の門前で行われる「鶯合」と、同家の当主・三条西公条らの姿が描かれている。 「鶯合」は近世、江戸時代(17世紀 - 19世紀)以降にも行われ、「鶯飼」に当たる職能は、同時代には「飼鳥屋」と呼ばれた。近代、明治時代以降は、1873年(明治6年)の「鳥獣猟規則」に始まり、現行の「鳥獣保護法」に至るまで、禁じられる方向となった。 「ウグイス#人との関わり」を参照
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/23 09:02 UTC 版)
「テイチク・ジャズ・オーケストラ」の記事における「略歴・概要」の解説
1930年代初頭、テイチクは浪曲、落語を得意分野としていたが、ジャズなど洋楽に関してのレコードは少数であり、あまり力を入れていなかった。だが、1934年、テイチクが東京進出したことで、今までのイメージの払拭を図り、当時関西で人気を博していた日本人と外国人の混合バンド「四ホール連盟ダンス・オーケストラ」や白人バンド「ジェリー・ウッド・エンド・ヒズ・アンバサダーズ」等の録音を行い、多くのレコードを発売する。同時にテイチク専属のジャズバンドの計画が持ち上がり、ディック・ミネがプレイヤーの人選を行った結果、白人3人、日本人6人となるディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダスが東京で結成された。このバンドの初吹き込みは1934年8月7日に行われ、『ハレムから来た男(原題:The Man from Harlem)』、『ホワイト・ヒート(原題:White heat)』、『ロマンチック(原題:Romantic)』が録音された。なお、このセッションにおいてディック・ミネが参加したのは『ロマンチック』のみであり、『ロマンチック』は彼のデビュー盤となった。 その後は、ディック・ミネがレコードを吹き込む時に限り、「ディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダス」の名称が使用されるようになり、インストの録音や川畑文子、チェリー・ミヤノ、ベティ稲田など日系二世、三世歌手の伴奏等を務める際はテイチク・ジャズ・オーケストラとしての名称が主に使われるようになった。 テイチク・ジャズ・オーケストラ(ディック・ミネ・エンド・ヒズ・セレナーダス)による録音は人気を博し、テイチクは「ジャズ王国」と評されるに至る。 それから何度かマイナーチェンジでメンバーの入れ替えを行っていたが、1940年、テイチク管弦楽団と名称変更がなされ、規模縮小される。流行歌や邦曲中心のレパートリーとなりジャズバンドとしての用途は外れていった。 そして、その後のテイチクは「タイゾウ・スヰング・オーケストラ」が主たるジャズバンドとして活躍していくことになる。 テイチク・ジャズ・オーケストラの名称に関しては、テイチク・ジャズバンド、テイチク・オーケストラといった表記のレコードも存在する。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/27 15:21 UTC 版)
筑豊の鉱山に暮らす子供たちの生活を撮ったもので、日本におけるリアリズム写真の代表的な写真集。 1960年(昭和35年)、パトリア書店(なお、この出版社の経営者は、のちに作家となる丸元淑生だった)から発売された。初版は誰でも買うことが出来るようにザラ紙に印刷され、1冊100円で発売された。同年、研光社から『続筑豊のこどもたち』が上梓された。1977年(昭和52年)、築地書館から再版された。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/29 23:54 UTC 版)
第二次世界大戦前の1938年(昭和13年)に結成された「広告作家懇話会」のメンバーが、戦後の1950年(昭和25年)12月、デザイナーの職能団体「東京広告作家クラブ」を設立した。 翌1951年(昭和26年)、同クラブのメンバーによって創立準備会が結成され、同年6月に創立総会が開かれた。山名文夫を初代委員長に、原弘、新井静一郎、亀倉雄策、河野鷹思ら約50名でスタートした。以後、全国の主要都市で毎年展覧会を開催し、2年後の1953年(昭和28年)からは作品公募を始め、新人の登竜門として機能した。 グラフィックデザイナーにとって、戦後最初の全国的職能団体として設立されたが、1960年(昭和35年)には「停滞」と言われ、またそれと平行して権威を増してしまう。1960年代末には、美術系の学生たちが繰り広げた「革命的デザイナー同盟」、「美共闘」などの批判の的となる。武蔵野美術大学の学生・戸井十月らの「日宣美粉砕共闘」が1969年(昭和44年)8月、第19回日宣美展覧会の審査会に乱入し、展覧会の中止を余儀なくされる。翌1970年(昭和45年)、解散宣言とともに、東京・名古屋・大阪の三都市で「解散展」を開催した。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/06 14:49 UTC 版)
マキノ雅弘が撮った全6作の新東宝配給作品のうちの第2作である。1948年(昭和23年)に吉本プロダクションとの製作提携を得て、太泉スタジオ(現在の東映の前身の一社)が同社の第1作として製作した『肉体の門』同様、現代劇の女性映画である。 美術デザイナーにグラフィックデザイナーの河野鷹思を起用している。河野は、1947年(昭和22年)の新東宝の設立以来、本作の製作されるころまで、同撮影所に在籍、10作を超える作品のセットデザインを行った。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/06 21:08 UTC 版)
「唐人お吉 (川村花菱)」の記事における「略歴・概要」の解説
実在する人物・斎藤きちに取材した戯曲は、川村花菱のほか、真山青果、山本有三等がある。川村版の新派の戯曲の初演は、1931年(昭和6年)、帝国劇場で初代水谷八重子が主演したものである。 同戯曲を原作に、1935年(昭和10年)、川口松太郎が映画用に脚色、冬島泰三が監督し、舞台でも主演した初代水谷八重子がお吉役を演じ、新興キネマ東京撮影所(現在の東映東京撮影所)が製作、新興キネマが配給し、同年1月5日に公開されている。主題歌の新橋喜代三『唐人お吉』、東海林太郎『下田しぐれ』は、同年2月にポリドール・レコード(現在のユニバーサルミュージック)から発売された。 村松春水、十一谷義三郎原作も含めて「唐人お吉」をテーマとした映画作品は、合計7作存在する。⇒ 斎藤きち#作品化 この冬島泰三版の映画『唐人お吉』は、いずれも東京国立近代美術館フィルムセンターに所蔵されておらず、いずれもマツダ映画社の「主な所蔵リスト」には掲載されていない。現在、鑑賞することのできない作品である。
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出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 04:11 UTC 版)
「Blasterhead」の記事における「略歴・概要」の解説
近江兄弟社高等学校、大阪芸術大学卒。 有限会社ケロキュウに入社し、同社製作のゲーム音楽を担当。 退社後に自身でゲーム/音楽製作会社の有限会社シルバーボックスを設立、主に美少女ゲーム主題歌やBGMの製作・リミックスを手掛ける。 その傍らでDJとしても活動 元々Blasterheadはユニット名だった。 ere daybreak-e.p.からTaishi(Compllege)が参加し、再びユニットとなる。 2013年3月9日にイベント「Aki-Bug」に出演予定だったが、当日連絡もなく現れなかった。以後ネット上も含めて消息不明。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/07 13:54 UTC 版)
ジョゼフ・ケッセルが1929年(昭和4年)に発表した同名小説を原作に1967年(昭和42年)にルイス・ブニュエルが監督した映画『昼顔』から40年が経過した世界で、アンリ・ユッソンとセヴリーヌ・セリジが再会する物語を描く。アンリ役は前作同様ミシェル・ピコリ、セヴリーヌ役は前作のカトリーヌ・ドヌーヴよりも4歳年長のビュル・オジエが演じている。 本作は、2006年(平成18年)に製作・完成し、同年9月にサン・セバスティアン国際映画祭、第63回ヴェネツィア国際映画祭等の各映画祭で上映され、翌2007年(平成19年)4月11日のフランスでの公開を皮切りに、日本でも同年12月15日には公開されている。同年、ミシェル・ピコリがヨーロッパ映画賞最優秀男優賞、翌2008年(平成20年)、ポルトガルゴールデングローブ賞(Golden Globes, Portugal)の最優秀作品賞にそれぞれノミネートされた。
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略歴・概要
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鎌倉中期(13世紀)に内膳司御厨子所が、平安京の三条大路(現在の三条通)よりも南の地区において、「魚鳥精進菓子交易の輩」(「魚・鳥・野菜・菓子を販売する商業者」の意)を「御厨子所供御人」として抱える代わりに、課税した。この「御厨子所供御人」が、のちの「鳥三座」のうちの「三条座」の前身にあたる。 室町時代、15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、「菜うり」(菜売)とともに「鳥売」として紹介され、描かれている。 戦国時代、天文年間(1532年 - 1555年)の京都には、鳥を商う「鳥三座」が存在した。 三条座(さんじょうざ) - 本所 : 内蔵寮 五条座(ごじょうざ) - 本所 : 長橋局 七条座(しちじょうざ) - 本所 : 駕輿丁座 「鳥三座」が対象とした商品は、 鳥 - 雁(マガン、カリガネ)、雉(キジ)、鶴(マナヅル) 狼(ニホンオオカミ) 猿(ニホンザル) 兎(ニホンノウサギ) 狐(ホンドギツネ) 狸(ホンドタヌキ、あるいはニホンアナグマ) 獺(ニホンカワウソ) 黐(トリモチ) - 鳥餅座 等であった。狩猟に使用する「トリモチ」を除きいずれも食用である。いずれも狩猟により収獲したものであって家畜ではなく、牛・馬あるいは豚等は扱われていない。1544年(天文13年)、祇園社(現在の八坂神社)に所属する「犀鉾神人」(さいのほこじにん)を名乗る神人が鳥の販売を行い、独占権をもつ鳥三座が当時の御厨子所別当・山科言継に対して抗議した記録がある。 1768年(明和5年11月)に初演された、長唄『吉原雀』で知られる顔見世狂言『男山弓勢競』に「男鳥売、実は八幡太郎義家」、「女鳥売、実は鷹の精」という役が登場する。「八幡太郎義家」とは源義家(1039年 - 1106年)であり、11世紀を舞台にしていることになる。
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遅くとも15世紀、興福寺の塔頭であった大乗院(現存せず、跡地は現在の奈良ホテル)の門跡領であった大和国城上郡箸中村(現在の奈良県桜井市箸中)に、「糖粽座」(餳粽座)が置かれた。三代の大乗院門跡が記した『大乗院寺社雑事記』のうち、尋尊が記したユリウス暦1459年5月27日にあたる長禄3年5月28日の項目に、「アメチマキ(箸ノツカ)」という記述がみられる。「箸ノツカ」とは現在の箸墓古墳のことで、この地に「糖粽」を製造・販売する座が形成されていた。同座は三輪村に由来し「三輪座」(みわざ)とも呼ばれた。三輪明神(大神神社)の大鳥居より南、かつ長谷川(初瀬川、現在の大和川)にかかる三輪大橋より北の地域で、「糖粽座」は「糖粽」を販売していた。当時近隣地区には、田原本(現在の磯城郡田原本町)に槍物座、三輪下田(現在の桜井市大字外山字下田上之町・下田下之町)の「鍋座」、番条(現在の大和郡山市番条町)の「菰座」、布留郷(現在の天理市布留町)の「黄皮座」(黄帔座)、苅荘(現在の橿原市大軽町)には「煎米座」があった。箸墓の「糖粽座」と苅荘の「煎米座」は、いずれも「飴」を売っており、商品がバッティングしたため、しばしば争いが起きていた。 15世紀末の1494年(明応3年)に編纂された『三十二番職人歌合』の冒頭には、「いやしき身なる者」として、地黄煎うり(地黄煎売)とともに「糖粽うり」あるいは「糖粽売」として紹介され、その姿が描かれている。それは、曲物に入った糖(飴)を二本の箸で粽に塗布する行商人の姿であるとされる。この歌合に載せられた歌には、 手ごとにぞ とるはしつかの 糖ちまき 花をもみわの 昼の休みに とあり、これは「箸塚」や「三輪」の地名に掛けたものである。同職人歌合が作成された京都においても、「箸塚・三輪の糖粽」が著名であったということである。「糖粽座」では、妻が製造・夫が行商、というスタイルをとっていたものもあったという。1514年(永正11年)、箸中の住人「サイモ太郎」という人物が苅荘の「煎米座」に無断で「飴売」行為を行ったとして、大乗院門跡に訴えられた記録がある。三条西公条が著した『吉野詣記』には、1553年(天文22年)に三条西が金峯山寺(現在の吉野郡吉野町吉野山に現存)に詣でた際に、当時「箸塚」の名物として知られた「糖粽」を食したと書かれている。 江戸時代初期(17世紀)にも、松江重頼による撰集を兼ねた俳諧論書『毛吹草』(1645年)に「箸中の糖粽」が登場している。田宮仲宣が著した『橘庵漫筆』(1801年)には、「糖粽」(粭粽)は箸中で製造されたのが日本での初めてのものである旨の記述がある。 現代においては、同地の座のなごりも製法も廃れてしまっている。近世以降の飴売は、「地黄煎売」「糖粽売」とは異なる。
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1931年(昭和6年)12月16日、東京市浅草区公園六区(現在の東京都台東区浅草)に、「浅草オペラ館」が新規開場、その杮落としとして上演されたのが、劇団「ピエル・ブリヤント」の旗揚げ公演であった。 「ピエル・ブリヤント」は、榎本健一と二村定一のダブル座長の劇団で、2人は、旗揚げ前月の同年11月に、劇団「プペ・ダンサント」を武智豊子とともに脱退していた。同劇団には、榎本、二村、武智のほか、柳田貞一、中村是好、石田守衛、花島喜世子、藤野靖子、永井智子、松山千浪らが参加している。座員150人、オーケストラ部員25人、文芸部8人という、当時の日本最大規模の喜劇劇団であった。文芸部には菊谷栄らがいた。 榎本は「新作絶対主義」で、再演をよしとしなかったが、『カルメン』、『民謡六大学』などは例外であった。 1932年(昭和7年)7月、「ピエル・ブリヤント」は松竹専属になり、本拠地劇場は、浅草松竹座に変更になる。『月刊エノケン』第1号が、ピエル・ブリヤント文芸部の編集により、浅草松竹月刊エノケン社から発刊された。1935年(昭和10年)ごろまで発行されていた。同年、三益愛子が入団している。 1934年(昭和9年)5月3日、榎本と二村は、ピー・シー・エル映画製作所(P.C.L.)が製作した、山本嘉次郎監督の『エノケンの青春酔虎伝』に出演、同作が公開される。榎本にとっては、端役であった京都の中根龍太郎喜劇プロダクション以来、6年ぶりの映画、しかも初の主演である。1935年(昭和10年)公開の映画『エノケンの近藤勇』は、オリジナルシナリオを書いたとして「ピエル・ブリヤント、P.C.L.文芸部」とクレジットされており、演奏は「ピエル・ブリヤント管弦楽団」である。1937年(昭和12年)8月1日公開の『エノケンのちゃっきり金太 後篇』まで、10本のP.C.L.の映画に出演した。 1938年(昭和13年)、榎本は松竹を退社して東宝と契約を結んだ。これまでは、松竹演劇部に籍を置きながら、P.C.L.や東宝映画の映画に出演していたことになる。「ピエル・ブリヤント」は「東宝榎本健一一座」と改名した。この頃、二村は既に座長ではなくなっていた。「ピエル・ブリヤント管弦楽団」は、「東宝管弦楽団」と合体した。東宝移籍後の第1作は映画『エノケンの法界坊』であった。
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1989年、幼馴染だったデロとクラップにフルクスが合流し、ヴォルフスブルクで結成。ブラウンシュヴァイクなどを拠点に活動を始める。 1992年、『Oomph!』でアルバムデビュー。以降、インダストリアル・ロックなどにヘヴィメタルサウンドをミクスチャーした電子音楽の「ノイエ・ドイチェ・ヘァテ」を展開。同国の「ラムシュタイン」と並び、同ジャンルの先駆者として評価される。 2000年代からは、ゴシックメタルやオルタナティヴ・ロックにも幅を広げて活動。 2015年、結成25周年記念アルバム『XXV』をリリースし、ワールドツアーを開催。 2022年、ボーカルのデロが脱退。
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スクールJCAの同期として出会い、1996年に塚地が鈴木を誘う形でコンビ結成。当時の鈴木は常にスーツを着用していた。初舞台は同年8月7日渋谷公園通り劇場、披露したネタは「相撲喫茶」。コンビ名はカンフー映画「ドランクモンキー 酔拳」と「燃えよドラゴン」を組み合わせたものだが、第一線で活躍するダウンタウンやウッチャンナンチャンのように「同じ語韻を繰り返す名前の芸人は成功する」「売れる芸人の名前には『ん』がついている」という芸能界のジンクスにもあやかれるよう絡めている。デビュー当初は漫才もやっていたが、鈴木は全く漫才ができなかったためコント専門となった。 2000年4月から放送された『新しい波8』(フジテレビ)に出演し、『はねるのトびら』のレギュラーへ抜擢される。はねトびでの人気上昇を受け、塚地が2003年1月-3月に月9ドラマ「いつもふたりで」に出演。また同年から『エンタの神様』にてネタを披露するようになり、ブレイクを果たす。若手時代は特徴的なキャラクター(塚地)に対して、まともな人(鈴木)が振り回されながらもツッコむネタが大半を占めていたが現在はトーク番組などで見せる素顔に近い設定に則り、鈴木の天然ボケに塚地がツッコむネタが作られるようになっている(「男だろ」「紙芝居」など)。 2005年1月24日、人力舎所属芸人によるユニット「ビジトジ」としてCDデビュー。 2008年、『キングオブコント2008』にて準決勝進出。2009年、2010年も準決勝へ進出を果たした。 『はねるのトびら』放送時から塚地は芸人と並行して俳優としての活動を積極的に行い、一方の鈴木もピンでの活動が多くなったため2012年9月の『はねるのトびら』放送終了からは、2人ともピンの活動が多くなっている。
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本作は、1955年、イタリアの映画会社ティタヌスが製作、同社が配給して同年3月12日、イタリア国内で公開された。同年4月29日 - 5月10日に開催された第8回カンヌ国際映画祭コンペティション部門に出品され、パルムドールを競ったが受賞はならなかった。翌1956年(昭和31年)以降、フランス等でも公開された。 日本では、本作に関してはイタリア文化会館等での上映を除いては劇場公開されておらず、2010年9月現在、DVD等のビデオグラムも発売されていない。
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本作は、1953年にティタヌスが製作・配給して同年12月22日、イタリア国内で公開された『パンと恋と夢』のヒットと高評価を受けての続篇で、翌年に同社が製作、ラツィオ州ローマ県ローマ市内にある同社撮影所でセット撮影、同県カステル・サン・ピエトロ・ロマーノ、および南部のアブルッツォ州でロケーション撮影を行って完成、同社が配給して同年12月6日、イタリア国内で公開された。1955年のナストロ・ダルジェント賞では、ティナ・ピカが助演女優賞を獲得した。 日本では、『パンと恋と夢』の続篇として連続的に劇場公開されることはなく、時期は不明であるが、NHK衛星第2放送で放映され、日本への初めての紹介となった。日本でのビデオグラムは、2010年8月現在、未発売である。
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イタリアのドクメント・フィルム、フランスのオルセー・フィルムが出資、共同製作した作品である。ロドルフォ・ソネゴのオリジナルシナリオをディーノ・リージが監督した第一話『電話の呼び出し』、ルチアーノ・サルチェとステーノによるオリジナルストーリーをトゥリオ・ピネリが脚色、ルイジ・コメンチーニが監督した第二話『優生学理論』、ロドルフォ・ソネゴとルイジ・マーニが共同執筆したオリジナルシナリオをフランコ・ロッシが監督した第三話『スープ』、ピエロ・デ・ベルナルディとレオ・ベンヴェヌーティが共同執筆したオリジナルシナリオをマウロ・ボロニーニが監督した第四話『キューピット神父』の全4部構成である。イタリアの首都ローマでロケーション撮影が行われて完成、1965年1月27日にイタリア国内で公開された。 日本では、翌1966年にNICが輸入・配給して、同年9月3日に公開された。日本でのビデオグラムは、2010年8月現在、未発売である。
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1952年8月19日、初代社長の星野晃廣が設立した。その背景には、当時の日本とソ連との間の文化交流や貿易促進が不平等なものだったとする、星野の思いがあったとされる。なお、星野は太平洋戦争の戦時中、満州映画公社、中華電影、日本映画配給社シンガポール支社などに務めていた。 1955年、ソ連から『戦艦ポチョムキン』を輸入して公開する。 2018年、キネマ旬報社を子会社とする。 2022年現在は映画データベースサイト「映画DB」の運営も担当している。
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牧野省三は、1910年(明治43年)、日活の前身の一社である横田商会で尾上松之助を主演に『忠臣蔵』を監督し、以来、数度にわたって『忠臣蔵』をテーマに作品を生み出したが、本作を従来と差別化し、「実録」と銘打ったのは、演出のリアリティを打ち出したからである。 本作に脇役・端役で出演した市川鬼久十郎はのちの市川花紅、市川鬼久丸はのちの阪東太郎、市川百々太郎はのちの尾上華丈、牧野正唯はのちのマキノ雅弘である。 本作は、牧野の独立の直前に製作・公開されたが、同年6月に「教育映画しかつくらない」という約束で独立した。同年11月には、横浜の大正活映から井上金太郎、内田吐夢、二川文太郎、渡辺篤、江川宇礼雄、岡田時彦、鈴木すみ子ら若手俳優を受け入れた。つぎに牧野は、彼らを出演させて、リメイクを製作した。⇒ #1922年版 オリジナル及びリメイク版は共に現存していないとみられる。牧野による二度目のリメイク『忠魂義烈 実録忠臣蔵』も、制作時の火災・戦災などの不運に見舞われた結果、戦後の再編集版しか現存していない。
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2009年7月1日『情報サプリ!』放送開始。放送時間は水曜日と木曜日の10:50 - 11:20。メインパーソナリティを務めた遠藤雅也は同年3月まで出演していた『おはよう天気HTB』から約3か月のブランクを経てのレギュラー番組となった。 2011年3月10日をもって情報サプリ!は終了し、2週間のブランクを経て同年4月1日より放送時間を金曜日9:55 - 10:25に移動し、『情報マルシェ!』に改題。メインMCが遠藤から柳田知秀に交代。吉田理恵が情報サプリから引き続き出演していたが、わずか1年後の2012年3月末で北海道テレビを退社により卒業し、佐藤麻美へと引き継がれた。同年7月27日の放送で佐藤は産休により一時降板し岸田彩加に交代したが、岸田が北海道テレビを離れたことにより2013年10月4日放送分から復帰している。 2014年4月4日から放送時間を11:00 - 11:30に変更する。これにより、金曜日に限り、『ワイド!スクランブル・第1部』(テレビ朝日制作)の11:30飛び乗りを継続する(月 - 木曜日はフルネットに変更される)。同年5月2日からは番組がリニューアルされ、メインMCが柳田から森さやかへ交代。なお、佐藤が編成部への異動が行われるため同年6月で卒業、2014年7月以降のMCは森が単独で務める。また、岸田がフリーアナウンサーの立場でリポーターとして番組に復帰したが、2015年3月27日放送分で終了し、岸田は卒業。同年4月3日放送分からは、番組内容をほぼ引き継いだ『ママ・マルシェ』に番組名変更されて再出発した。さらに2018年10月改編で午後への枠移動と『情報ビュッフェ』として放送されている。 2019年4月5日から6月28日までは、15:57-16:00に『イチオシ!!3分前』を放送するのに伴って直後のドラマ再放送枠が3分繰り上がったため、当番組も3分短縮していたが、7月5日以降は『3分前』がなくなったため、再び元の時間に戻った。 2020年3月27日をもって終了となり、『情報サプリ!』時代から10年9か月放送されてきた情報番組シリーズは幕を閉じることとなった。以降、自社制作の情報番組は平日午前・午後からは撤退して朝の『イチモニ!』と夕方の『イチオシ!!』に集約される形となった(本番組終了と同時に『イチモニ!』の土曜版が拡張され、『イチオシ!!』も放送開始時刻を前倒ししている)。 なお、南九州ケーブルテレビネットで放送されている同系統番組『情報マルシェ きりしま』とは無関係であった。
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略歴・概要
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株式会社リトルフューチャーは、2013年12月にエミユウスケにより設立されたボードゲーム制作会社。 社名の由来は「リトル(小さな)フューチャー(未来)、『この世にまだないすぐそこの未来を作る会社』」、 そして、「リトル(子供)フューチャー(将来)、『子供の未来を作る』」ことから。 会社設立当時はWEB制作をしていた。2014年頃からボードゲーム制作に取り組む。
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略歴・概要
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横浜市立大正小学校、中学校、藤嶺学園藤沢高等学校電気科卒業。 高校時代の友人と組んだバンド、ステーションでベーシストとしてデビュー、後に解散。 オーディションで受かり、小泉今日子のバックバンドのベーシストとなる。その後はバックバンドやスタジオ・ミュージシャンとして活動。 hide (X JAPAN) のソロツアーの初期(1993年)からのサポートメンバーで、hide with Spread Beaverのメンバーとして有名である。 1995年以降 - 布袋寅泰のライヴにHIROSHI名義でサポートとして参加する。 1999年 - ウルフルズからジョン・B・チョッパーが脱退した後、彼が復帰する2003年までサポートメンバーを務めた。 2000年代前半 2000年11月 - ソロアーティストとしてCHIROLYN & THE ANGELSでメジャーデビューを果たす。メンバーは、CHIROLYN(Vo, B, アコースティックGt)、井上慎二郎(Gt, オルガン)、 ワタナベノブタカ (Gt) 。 2000年代後半 2005年 - MILKY (Vo) 、真矢 (Dr) らとともにPOTBELLYとして活動。ミニアルバム『CRASH! CRASH! CRASH!』をリリース。 2005年 - hide with Spread Beaver時代の盟友KIYOSHI、JOEとの3ピースバンドMadbeaversを再始動する。ベースだけでなくボーカルの片翼も担当。2007年9月にCHIROLYN脱退。 2007年8月以降 - HIROSHI名義で5年半ぶりにアコースティックにてソロ再始動。 2008年 - DIE (Key) と金角vs銀角として翌2009年末までに数度のライブを行う。サポートは斉藤律 (Gt) 、高畠俊男 (Dr) 。この縁でMinimum Rocketsのセッションライヴにも参加した。 2009年以降 - GACKT JOBのメンバーとして、音楽番組出演時や『GACKT VISUALIVE ARENA TOUR 2009 Requiem et Réminiscence Ⅱ Final 〜鎮魂と再生〜』に参加。 2009年12月18日 - ウルフルケイスケ presents『MAGICAL CHAIN TOUR Vol.1』に出演。メンバーは、BONNIE PINK(ヴォーカル)、ウルフルケイスケ(ギター)、CHIROLYN(ベース)、クハラカズユキ(ドラムス)。 2010年以降 音楽活動の比重をサポートから自身のソロへと移す決意をし、レコーディング期間に入る。 2011年10月 - 8年ぶりとなるソロアルバムを発表。 2012年 - Chirolyn (B, Vo) 、斉藤律 (Gt) 、ASAKI (Gt) 、堀江毅 (Dr) のバンドスタイルでライヴを行なう傍ら、ASAKIとAC×ACというアコースティックユニットを結成し、全国津々浦々をツアーする。
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「Party Rockets GT」の記事における「略歴・概要」の解説
2012年6月、ステップワンに所属する仙台産エンタメガールズユニット「B♭」(ビィフラット)のメンバーから選抜された7名(渡邉・吉木・菊地・金野・佐藤・辻村・藤田)で、「B♭の持つロックなティストを進化させたガールズユニット」として「Party Rockets」が結成された。結成当初からのメンバーの活動休止・一時離脱などを経て、同年8月15日に6名でavex traxレーベルよりシングル「初恋ロケット」でメジャーデビュー。その後もメンバーの卒業が相次ぐ中、エリック・マーティンから楽曲提供を受け、翌2013年2月ユニバーサルミュージックのROCKET BEATSレーベルに移籍して2ndシングル「MIRAIE」をリリースし、オリコン週間ランキング28位を記録した。同年8月にリリースした3rdシングル「セツナソラ」では32位と後退、リーダーの渡邉幸愛が卒業するという逆境の中、2014年には@JAM総合プロデュースを務める橋元恵一をプロデューサーに迎え、4thシングル「Let's Go!!」では15位を記録し、自己ベストを更新した。 2013年2月に定期ライブをスタートしたほか、ラジオのアシスタントMCやパーソナリティを務め、生バンドライブを行うなど活動の幅に広がりを見せた。目標は「ドームツアー」であることを掲げ、2015年3月には乙女新党とのコラボレーションによるユニット「乙女Rockets」で初のスプリットツアーを仙台・名古屋・大阪・東京の4会場で開催している。 2015年1月、ステップワンからあるあるCityの子会社・あるあるCityエンターテイメントへの移籍が発表され、同年4月、活動拠点を東京に移した。同年7月には藤田あかりが卒業し、2名となったParty Rocketsのマネージメントは一旦所属レーベルのROCKET BEATSに預かりとなり、新メンバーを募集することが発表された。 2015年10月、新メンバー4人を発表、10月12日に渋谷WWWにて開催した『Party Rockets ワンマンライブ〜REVOLUTION〜』で、「Party Rockets GT」に改名することを発表し、6人体制での活動を開始したが、同年12月9日付でARISAが体調不良による持病の悪化を理由にParty Rockets GTの活動と芸能活動からの卒業を発表。 2017年、アイドルイベント『アイドル甲子園』を主催するエイトワンが運営を担当。一方で、2015年に加入した3人については、加入前から所属していたスパイス(ファンプレイス・スパイス事業部)に引き続き所属している。 2017年12月17日にZepp DiverCityにて開催した『Party Rockets GT ONEMAN LIVE〜Future〜』をもってFUMIKAとHIMEKAが卒業し、2017年12月27日に渋谷にて開催した『Party Rockets GT LIVE〜beginning〜』より、SAEとARISAを加えた新たな5人体制での活動を開始した。 2019年8月19日に現体制での活動終了が報告された。全員より活動終了を希望する申し出があり、協議を重ねた結果その旨を受理した。 現体制最終公演は2020年2月24日に行なわれた。現体制終了後、HARUKAは吉木悠佳として単独活動を続け、NANASEとAYUMIは学業、就職活動に専念、SAEは2021年より3人組ガールズユニット「夢∞NITY」のメンバーとなっている。
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略歴・概要
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1953年(昭和28年)1月、茨城県水戸市南町242に水戸銀座映画劇場として設立・開業される。開業当時の支配人は柴田厚で、柴田は同時期に同市仲町に開業した水戸オデオン座と、その前年(1952年)に開業した水戸松竹映画劇場(のちの水戸京王グランド)も経営していた。開業した1953年の時点では、水戸市内の映画館はこの3館を含めて8館が存在しており、2年後の1955年(昭和30年)の時点でも変わらなかった。 全国の映画館数がピークに達した1960年(昭和35年)頃、銀座映画劇場は水戸宝塚映画劇場に改称。京王グループの京王映画に経営権が譲渡される。1966年(昭和41年)頃の支配人は副島隆二で、主に大映や洋画作品を上映していたが、大映が経営悪化し始めた1969年(昭和44年)頃から東宝系の封切館に転じ、水戸京王東宝劇場と改称。以後『ゴジラ』等の怪獣・特撮映画や、山口百恵・三浦友和主演シリーズ、ドラえもん映画作品等のヒット作を輩出した。 1988年(昭和63年)3月12日、東京都新宿区にあった新宿京王(2スクリーン)が閉館すると、京王グループは映画館事業からの撤退を発表。水戸京王グランドが閉館(1988年11月25日)に追い込まれた2か月後の1989年(平成元年)1月、京王映画からサンリオに譲渡され、水戸サンリオ東宝と改称したが、3年後の1992年(平成4年)1月26日、『ゴジラvsキングギドラ』(大森一樹監督)の上映をもって閉館し、39年間の歴史に幕を閉じた。劇場跡地はゲームセンター「プレイステージ ウィン」が1999年(平成11年)にオープンしたが、2016年(平成28年)1月31日をもって閉店・解体され、現在は駐車場となっている。
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略歴・概要
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「チェッキ・ゴーリ・グループ」の記事における「略歴・概要」の解説
1987年からの20年間に、ユーゴスラビア映画『ハルムスの幻想』(スロボタン・D・ベシチ監督、1987年)を皮切りに、40本にのぼるイタリア内外の映画を配給した。以来年間4本のペースで配給している。配給作品の中でもっとも知られる作品は、クエンティン・タランティーノ監督の『パルプ・フィクション』、マイケル・ラドフォード監督の『イル・ポスティーノ』、デヴィッド・フィンチャー監督の『セブン』、ウェス・クレイヴン監督の『スクリーム』などである。 1997年から年間の配給作品量が増加しているが、国内作品の配給が増えているからであり、また、そのほぼすべてが、同グループ傘下の映画製作会社であるタイガー・チネマトグラフィカの急激な製作量増加による。それ以外の作品も、チェッキ・ゴーリ・エンタテインメント・ヨーロッパ、マリオ・エ・ヴィットリオ・チェッキ・ゴーリ、フィンマヴィといった同グループ傘下の製作会社の作品である。フランスや日本では、テレビ局の出資や公的資金の導入が必須であり、複数の企業による出資あるいは出資組合(製作委員会)の組織が行なわれているが、同グループの配給作品は、同グループ傘下企業の一社出資作品が大半を占めている。 これは、同グループ総帥マリオ・チェッキ・ゴーリの1993年の死去によるトップ交代、ヴィットリオ・チェッキ・ゴーリの手腕によるところが大きい。
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松戸競輪場が開設前の1949年(昭和24年)に地元企業や松戸市等が出資し「松戸競輪株式会社」という社名で設立、競輪場設営の為に土地を買収し建設、翌1950年(昭和25年)4月19日に松戸競輪場を開設させた。 1959年(昭和34年)4月、映画館経営に乗り出し、松戸駅西側に「輝竜会館大映劇場」を竣工した。当初は大映系の作品を上映した。当時の松戸駅近辺には、戦前から営業していた松竹系や新東宝系の映画を上映した松戸常盤館、東映系や洋画を上映した松戸映画劇場が存在した。のちに、「松戸輝竜会館」と改称し、東宝系の映画館となる。敷地内に「松戸輝竜会館バンビ劇場」を併設し、洋画系劇場とした。 1966年(昭和41年)に現在の社名に変更した。 1987年(昭和62年)3月、輝竜会館敷地内に新劇場を設置し、名称を「輝竜3」とし、上記2劇場をそれぞれ「輝竜1」「輝竜2」と改称した。 1990年(平成2年)に後楽園競輪場を運営していた後楽園スタヂアム(現在の株式会社東京ドーム)が出資した。 1999年(平成11年)、輝竜会館3館を閉館し、映画館事業から撤退する。 2003年(平成15年)には競輪場外車券売場のサテライト大和(宮城県大和町)を運営するため、子会社の東日本サテライト株式会社を設立し競輪場外事業にも進出する。 2004年(平成16年)、JASDAQに株式公開もしていたが、株式交換によって東京ドームの完全子会社となり、非公開になる。 2008年(平成20年)、船橋オートレース場内に競輪場外車券売場のサテライト船橋が開設され、松戸公産が施設運営などの業務を受託する。 2013年(平成25年)、子会社の東和工建株式会社を日成ビルド工業株式会社に売却。 松戸市を主な業務エリアとして競輪場運営、ショッピングモールの管理をしているが、新宿駅周辺にもビルを所有している。
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1946年4月、徳島県徳島市籠屋町1丁目43に徳島東宝劇場として設立される。戦後間もないこの年の徳島市は映画館の開館ラッシュで、当館と同月には徳島平和劇場(蔵本町)と徳島第一劇場(東新町)がオープン。同年8月には徳島会館(南新町)、12月には徳島名劇(東新町)が相次いで開業している。 1971年、籠屋町1丁目30にダイエー徳島店がオープンすることに伴い、同年6月18日、同店5階に徳島東宝・東宝シネマの2スクリーン体制で再オープン。千代田劇場→日劇東宝→日劇2で上映される邦画の大作・話題作専門の東宝に対し、東宝シネマは主に洋画を中心に上映していた。 21世紀に入ると徳島県では板野郡北島町にシネマサンシャイン北島がオープン。同県初のシネマコンプレックス誕生が引き金となって徳島市では2002年3月にOSグランド、2003年6月に徳島東映、2004年3月に徳島松竹、2005年9月に徳島平和劇場が相次いで閉館に追い込まれる。平和劇場閉館から2か月後の同年11月27日にダイエー徳島店が閉店すると、翌2006年1月27日に徳島東宝2スクリーンが完全閉館し、60年に及ぶ歴史に幕を閉じた。跡地には2009年5月に高層マンション「アルファステイツ新町」が竣工し、現在(2021年)に至る。
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1919年、『オール・ストーリー・ウィークリー』誌に掲載されたジョンストン・マッカレーの小説『カピストラの呪』(The Curse of Capistrano)を映画化した。1925年には続篇『ドンQ』が製作・公開された。 日本では、寿々喜多呂九平が本作を翻案して脚本を書き、二川文太郎監督、高木新平主演による『快傑鷹』(1924年)が製作・公開され、高木は同作を機に「鳥人」と呼ばれるようになった。 本作は現在、パブリックドメインであるため、インターネットアーカイブで本篇映像を閲覧・ダウンロードすることが可能である。
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第二次世界大戦後、従来興行会社であった東横映画が大映との協定を結び、1947年(昭和22年)、「大映第二撮影所」(現在の東映京都撮影所)を借りて同撮影所を「東横映画撮影所」とし、製作を開始、3年目に製作された現代劇が本作である。同社の製作開始第16作である。1946年(昭和21年)に放送を開始した人気ラジオ番組『のど自慢素人演芸会』(現在の『NHKのど自慢』)を題材にしたコメディ映画である。「ピアノの先生」役を演じた和田肇は、俳優和田浩治の父である。のちに東映名誉会長となる若き日の岡田茂が、「進行係」として本作に携わった。 本作に「映倫番号」が付されているのは、公開直前の同年6月14日に「映画倫理規程管理委員会」(旧映倫)が結成されたからで、1954年(昭和29年)8月まではレイティングは行われていない。東横映画を配給するために東京映画配給(現在の東映)が設立されるのは、同年10月1日なので、本作は従来通り大映が配給した。 東京国立近代美術館フィルムセンターは、本作の上映用プリント等を所蔵しているが「48分」の不完全版である。現存するのはこの不完全版のみであり、このヴァージョンは美空ひばりの登場シーンを欠損している。
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1909年(明治42年)、滋賀県出身の実業家山川吉太郎が設立した。同地に活動写真館を開設し、また「大阪初」となる映画製作を開始した。同社は「撮影所」を所有していなかったが、舞台での芝居とロケーション撮影を組み合わせた「連鎖劇」を量産した。 1910年8月7日、大都市圏での日本初の野外映画イヴェント「活動写真競技」(主催大阪毎日新聞)が浜寺海水浴場で開かれ、東京の吉沢商店と京都の横田商会が自社製作の映画を競って上映した。翌1911年8月の同イヴェントでは、前年同様の横田商会に対して、吉沢商店に代わって山川の「三友倶楽部」が自社製作の映画を上映している。 1911年当時の山川は、同社を経営するかたわら、前年の1910年7月に東京で設立された映画会社「福宝堂」の「大阪支店長」を任されていた。「福宝堂」は、1912年10月に吉沢商会、M・パテー商会、横田商会との4社合併で「日活」になり、山川は「日活大阪支社」を任された。 1912年1月16日、千日前はもちろん高津、生国魂神社までが焼け野原になった、いわゆる「ミナミの大火」で同社本社屋は焼失した。当時のフィルモグラフィも現在では定かではない。 「三友倶楽部」は興行においても、1911年には京都の新京極にも活動写真館をオープンしている。『京都日出新聞』(『京都新聞』の前身)の当時の調査によれば、1913年の新京極での正月興行は松竹の「歌舞伎座」に次いで2位、1914年夏興行(7月14日 - 16日)では「パテー館」、「帝国館」に次ぐ3位をキープした。同館は1915年8月に火事を起こして一時閉館、翌1916年12月31日「三友劇場」として開館し1945年まで営業した。 同社の経営は、山川の親族の経営する「サンポードグループ」(12社)が現在まで引き継いでいる。「サンポード株式会社」は1991年に金秀吉監督の映画『あーす』を製作、製作委員会に同社の山川暉雄がクレジットされている。同作は文化庁年間優秀作品賞を受賞した。 2008年2月、千日前商店街によって同社跡地にレリーフが飾られた。
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電池あるいは電解槽内において「分極」が起きるのが不都合なのは、反対方向の起電力を生じるからである。減極剤は、発生した水素等を酸化(あるいは発生した酸素等を還元)して解消し、電池では正方向の起電力を保ち、電解槽内における電気分解ではエネルギー効率の低下を防ぐ。
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1885年にアイスランドの国会により同国の産業育成を推進するためレイキャビクにて創立され、1886年7月1日に業務を開始した。1927年からアイスランド最大の銀行として通貨発行権ならびに通貨政策の権限を得たが、アイスランドの国会にあたるアルシングの1961年の決議により通貨発行部門はアイスランド中央銀行へと独立した。1986年の金融自由化以降業容を拡大し、1998年から2003年にかけて民営化されてその活動範囲をアイスランド国外に広げ、イギリスなどヨーロッパ各国での預金業務も積極的に行なっていた。しかし国際的な金融危機により、2008年10月7日、事実上経営破綻に陥り国有化された。 アイスランド政府は、国有化と同時に同行系列のネット銀行アイスセーブの口座を凍結。アイスセーブには30万人の英国民が40億ポンドが預金されていた。英国のゴードン・ブラウン首相は「アイスランド政府はアイスランド国民だけでなく、英国までも裏切った」と発言し、2008年10月8日、英国民の預金保護を目的として反テロ法を引き合いに出し、ランズバンキ銀行を含む英国内のアイスランド系銀行全ての資産を凍結した。金融危機後アイスランドはロシアに資金提供を求め急接近しており、英国の迅速な対応は、ロシアを嫌悪するイギリスの政治的な思惑もあるとされる。 アイスランド政府に英国民の預金保証能力が無いことは明らかであったが、ゲイル・ホルデ首相は「英国が我々をテロリスト扱いすることは不愉快だ」と激怒した。一方、アイスランド出身の歌手ビョークはアイスセーブの封鎖について「これじゃテロリスト扱いされても仕方ないわ。」と発言した。しかし、世界金融危機の主な要因はサブプライム住宅ローン危機である。その後、ロイヤルバンク・オブ・スコットランドなどの英米圏金融機関が次々と危機を惹起した行為について起訴され、裁判所がその違法性を認めた。2014年、元最高責任者のSigurjon Arnasonに懲役1年の実刑判決が下った。法律には触れていないが、経済崩壊させた責任を取らせろという感情論で逮捕され、実刑が下された。
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1990年(平成2年)3月、フジクロームベルビア(デイライトタイプ、ISO50)の製造販売を開始した。1983年(昭和58年)3月に発表された「ニューフジクローム」のうち、「フジクローム50プロフェッショナルD」(デイライト、感度ISO50)が、同製品に先行する同一ISO感度(ISO50)、同一色温度(デイライトタイプ)のカラーリバーサルフィルムである。 2003年(平成15年)6月、「フジクロームベルビア」に加えて、フジクロームベルビア100Fおよびフジクロームベルビア100を発売、ベルビアは3タイプとなる。1978年(昭和53年)10月発売の「フジクローム100プロフェッショナル タイプD」(デイライト、ISO100)、1983年3月発売の「フジクローム100プロフェッショナルD」(デイライト、感度ISO100)が、これら2製品に先行する同一ISO感度(ISO50)、同一色温度(デイライトタイプ)のカラーリバーサルフィルムである。同年6月、欧州映像音響協会(英語版)(EISA)およびテクニカル・イメージ・プレス・アソシエーション(英語版)(TIPA)で、「フジクロームベルビア100F」が受賞する。同年6月、フジクローム系では「アスティア100F」も発売されており、開発者たちは「ベルビア100F」「ベルビア100」「アスティア100F」は、「色再現性」「像構造画質」「画像堅牢性」の3点を飛躍的に進化させたカラーリバーサルフィルムであると述べている。 2006年(平成18年)2月、「フジクロームベルビア」は、一部原材料の入手困難のため製造中止する。「フジクロームベルビア100F」および「フジクロームベルビア100」のみの販売となる。 2007年(平成19年)3月15日、「フジクロームベルビア」の後継製品としてフジクロームベルビア50を発表、120フィルムと220フィルム、シートフィルムの4×5in判、8×10in判、5×7in判、4×5inクイックロードの販売を翌4月15日から開始した。同年11月22日には、「フジクロームベルビア50」135フィルムの製造販売開始を発表、12月16日に発売した。 同年4月、東京・銀座に「ベルビア」の名を冠した商業テナントビル「銀座Velvia館」(東京都中央区銀座2-4-6)がオープン。同地は、1949年(昭和24年)から1969年(昭和44年)までの間、富士フイルム(当時富士写真フイルム)の本社所在地であった。 2010年(平成22年)4月1日、富士フイルムは、同日改正された化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律(化審法)で、ペルフルオロオクタンスルホン酸(PFOS)が第一種特定化学物質に指定されたことを受け、同成分を含有した製品を同日現在は製造していないこと、および過去には製造していたもののリストを発表した。ベルビアに限っていえば、「フジクロームベルビア」の2000年9月-2006年2月製造分、「フジクロームベルビア50」の2007年2月-2010年2月製造分に、それぞれPFOSが含有されていることを明らかにした。
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1994年(平成6年)2月、富士写真フイルム(現在の富士フイルム)は、フジクロームプロビアシリーズとして、フジクロームプロビア100(RDP II)、フジクロームプロビア400(RHP II)、フジクロームプロビア1600(RSP II)の製造販売を開始した。それぞれ、1983年(昭和58年)3月発売の「フジクローム100プロフェッショナルD」(RDP)、1980年(昭和55年)4月発売の「フジクローム400プロフェッショナルD」(RHP)、「フジクローム1600プロフェッショナルD」(RSP)の後継製品である。 2000年(平成12年)7月、フジクロームプロビア100F(RDP III)、フジクロームプロビア400F(RHP III)の製造販売を開始する。同社の経営者が、この「プロビアF」シリーズを「世界最高級の粒状性」と自負しているが、背景として、印刷業界でのカラーリバーサルフィルムのスキャナ取り込みの日常化による粒状性向上の必要があった。「プロビアF」2種の特徴は「世界最高の粒状性」「抜群の減増感処理性」「色再現性と調子再現性の向上」であった。 翌2001年(平成13年)6月、「フジクロームプロビア100F」および「同400F」 がカメラグランプリ2001で「カメラ記者クラブ特別賞」(現在のカメラ記者クラブ賞)を受賞する。 2003年(平成15年)6月、フジクロームのラインナップに新たに「フジクロームベルビア100F」および「フジクロームベルビア100」、「アスティア100F」が加わったとき、開発者は、プロビアを主力・中心としたフジクロームのラインに、硬調高彩度型のベルビアと軟調低彩度型のアスティアを加え、写真家・撮影者のさまざまな撮影意図に答えるべく開発した、としている。 2006年(平成18年)4月、フジクロームプロビア400X(RXP)の製造販売を開始する。 2010年(平成22年)4月1日、富士フイルムは、同日改正された化学物質の審査及び製造等の規制に関する法律(化審法)で、ペルフルオロオクタンスルホン酸(PFOS)が第一種特定化学物質に指定されたことを受け、同成分を含有した製品を同日現在は製造していないこと、および過去には製造していたもののリストを発表した。プロビアに限っていえば、「フジクロームプロビア100F」のシートフィルムのうち、2000年1月-2004年4月製造分にPFOSが含有されていることを明らかにした。
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略歴・概要
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1997年(平成9年)3月、富士写真フイルム(現在の富士フイルム)は、フジクロームアスティア100(RAP, ISO 100/21)を発売する。135フィルム、120フィルム、220フィルム、シートフィルム(4×5in判8×10in判、11×14in判、クイックロード4×5in判)と幅広い種類のラインナップであった。同時発売は、フジクロームセンシア100(RA、1994年発売)の後継製品、フジクロームセンシアII100(RA II)。同年7月、テクニカル・イメージ・プレス・アソシエーション(英語版)(TIPA)で、「フジクロームアスティア100」が受賞する。 2003年(平成15年)7月、「フジクロームベルビア100F」「フジクロームベルビア100」とともに、フジクロームアスティア100F(RAP F, ISO 100/21)が発売された。 2011年(平成23年)9月5日、富士フイルムは、「フジクロームアスティア100F」の120フィルム、220フィルム、シートフィルム(4×5in判、8×10in判、および4×5in判クイックロードタイプ)が2012年(平成24年)3月に生産終了すると発表した。同時にアナウンスされた「センシアIII100」の135フィルム、24枚撮・36枚撮のそれぞれ単品の販売終了(2011年12月)もあり、「フジクローム」ブランドのカラーリバーサルフィルムは、「ベルビア」「プロビア」の2つだけになる。 同社が「今後の使用推奨品」として指定するのは、同じリアルカラーだが超高彩度の「フジクロームプロビア100F」だという。
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略歴・概要
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父親は軍人であったが、1960年に亡くなっている。自身も軍人の道を目指し、空軍士官学校へ入学する予定だったが、入学前に事故に遭い断念、SATで満点の800点を獲得し、奨学金の全額給付を受けてマサチューセッツ工科大学でコンピュータサイエンス及び政治学を学ぶが、在学中から舞台に立っており、後に中退。オフ・ブロードウェイで舞台役者としてデビューした。1972年に映画デビュー。 1984年公開の『ワンス・アポン・ア・タイム・イン・アメリカ』に出演し、知名度を上げる。その後、1986年公開の『サルバドル/遥かなる日々』で戦場ジャーナリストを演じ、アカデミー主演男優賞候補に。『ゴースト・オブ・ミシシッピー』では実在した白人至上主義者の殺人鬼を演じ、アカデミー助演男優賞にノミネートされた。 テレビや声の出演を含めると、出演作は90本以上を数える。 『レザボア・ドッグス』のオファーをクエンティン・タランティーノから受けていたが、提示金額が低かったため、彼のエージェントがウッズに報せないままオファーを蹴ってしまう。後にタランティーノと対面したウッズはその件を知り激怒、エージェントは解雇された。彼がオファーを受けていたのは、ティム・ロスが演じたMr.Orangeだった。 IQ180の高い知能の持ち主であり、米教育情報サイトSuperScholar.orgにより「世界で最も頭のいい10人」の1人に選ばれた。
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略歴・概要
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「ドレスメーキング (雑誌)」の記事における「略歴・概要」の解説
長谷川映太郎が1941年(昭和16年)に創立した「株式会社鎌倉書房」が、第二次世界大戦終結後の1949年(昭和24年)4月に創刊した婦人雑誌である。長谷川は、前年の1948年(昭和23年)7月31日、ドレスメーカー女学院で知られる杉野芳子の寄付により発足した、「財団法人杉野学園」(現在の学校法人杉野学園)の理事に就任している。同年5月1日付発行の第1号(第1巻第1号)は、「4月・5月号」とされ、当初は「隔月刊」であった。1953年(昭和28年)3月に発売された第25号(3月・4月号)をもって隔月刊の時代は終了、5月発売の第26号(5月号)から月刊化する。監修を務めた杉野芳子は、表紙のスタイルの解説を行った。当時の書き手・作家には、和服について書いた三田村環らがいた。 1960年(昭和35年)1月、新春号として月刊誌『別冊ドレスメーキング』を創刊する。同誌は、1981年(昭和56年)7月に発行された通巻103号をもって最終号とし、『別冊マダム』と合併して『ドレスメーキング・マダムのスタイルブック』となり、隔月刊となる(1994年9月休刊)。 1964年(昭和39年)には、田辺貞之助を監修に迎えて、杉野芳子が巻頭に「すいせんの言葉」を書き、同誌編集部が編集した語学書『服飾フランス語』を発行している。 1976年(昭和51年)、季刊『ドレスメーキングのジュニアスタイル』を創刊する。同誌は、1980年(昭和55年)4月に発行された通巻18号をもって季刊の最終号とし、同年6月に発行された通巻19号(6月号)から隔月刊となり『ジュニアスタイル』と誌名を改め、1984年(昭和59年)6月に発行された通巻42号(6月号)をもって隔月刊の最終号とし、同年8月に発行された通巻43号(8月号)から隔月刊となり、1985年(昭和60年)12月に発行された通巻59号(12月号)をもって同誌名の最終号とし、翌1986年(昭和61年)1月に発行された通巻60号(1月号)をもって、『ジュニー』と誌名を変更した。 1993年(平成5年)5月1日付で発行された第565号を最終号として、休刊した。2年後の1995年(平成7年)1月23日、長谷川映太郎が満83歳で死去、鎌倉書房は解散となった。『ジュニー』は営業権を扶桑社が引き継ぎ、同年4月に新たに第1巻第1号(4月号)が発行された。
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略歴・概要
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長谷川映太郎が1941年(昭和16年)に創立した「株式会社鎌倉書房」が、1964年(昭和39年)6月に創刊した婦人雑誌である。「戦前の四大婦人雑誌」とされた『主婦の友』『婦人公論』『婦人画報』『婦人倶楽部』、「戦後の四大婦人雑誌」として第二次世界大戦後に創刊された『主婦と生活』『婦人生活』に比して、20年近く後発であった。 1968年(昭和43年)秋、姉妹誌として季刊『別冊マダム』が創刊される。 1975年(昭和50年)1月号から12月号まで、年間を通して伊藤緋紗子が表紙モデルを務めた。 1981年(昭和56年)夏、『別冊マダム』真夏号(通巻第56号)を最終号となるが、『別冊ドレスメーキング』と合併して同誌を継続、新たに『ドレスメーキング・マダムのスタイルブック』を創刊する。したがって『ドレスメーキング・マダムのスタイルブック』秋冬号は、通巻第57号とされた。 1994年(平成6年)12月、第382号が発売されたが、その後、版元の鎌倉書房が破産したため、同号が最終号となった。1995年(平成7年)1月23日、長谷川映太郎が満83歳で死去、鎌倉書房は解散となった。同社の雑誌で営業権を他社が引き継いだのは『ジュニー』(扶桑社が継承)のみで、『マダム』を含めてすべてが休刊となった。『ドレスメーキング・マダムのスタイルブック』は前年1994年9月の通巻第136号が最終号になった。
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略歴・概要
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1910年(明治43年)3月1日、東京市神田区(現在の東京都千代田区神田)の同文館(現在の同文舘出版)が創刊する。「婦女諸姉に対して最も健全且つ多趣味なる読物を提供せん」との意図で創刊された良妻賢母主義の婦人雑誌とされ、創刊号の定価は15銭(当時)、発行部数は5万部、これは先行する『婦人世界』(実業之日本社、1909年創刊)の40万部には足りなかった。版元の同文館は、教育書籍で知られる企業であり、内容は文芸色に富んでいた。この時期の寄稿者は、坪内逍遥、上田万年ら、『婦人之友』(婦人之友社、1908年創刊)の羽仁吉一・羽仁もと子夫妻も同誌の編集に協力している。 1912年(大正元年)、婦人之友社出身の都河龍が同文館から同誌の発行権を譲り受け、婦女界社を設立、1913年(大正2年)1月発行分(第7巻第1号)からは同社からの編集発行に変更する。都河は連載小説に力を入れ、小栗風葉、小山内薫、菊池寛、谷崎潤一郎らの小説を掲載した。1916年(大正5年)1月に『婦人公論』、1917年(大正6年)2月に婦女界社出身の石川武美による『主婦の友』、1920年(大正9年)10月に『婦人倶楽部』が追って創刊され、これらに1905年(明治38年)創刊の『婦人画報』を加えて、「戦前の四大婦人雑誌」と呼ばれるようになり、これに『婦女界』が挙げられていないのは、これら後続に押されて精彩を欠いていったことが原因であった。ほかにも、郡司次郎正『処女刑』(1932年)等が連載された。 第二次世界大戦中の1943年(昭和18年)3月、3月号(第67巻第3号)をもって休刊を余儀なくされる。同大戦終結後の1948年(昭和23年)1月、婦女界社は、創刊から戦時中までの半年に1巻の巻数を1年に1巻に数えなおし、同月発行の1月号を「第36巻第1号」として「復刊」と銘打って、改めて編集発行を再開する。1950年(昭和25年)7月26日に行われた第8回国会大蔵委員会での宮腰喜助議員の指摘によれば、当時の財団法人交通公社(現在の公益財団法人日本交通公社)は、前年に、婦女界社に対して4,000万円にのぼる融資をしていたとのことであり、このころには、同社は「婦女界新社」と改称、第38巻を数える同年には、再度休刊している。このころは、映画化された小糸のぶ『愛の山河』(1950年)等が連載された。 1952年(昭和27年)、主婦の友社および婦女界社出身の西村邦子による婦女界出版社(現在のオクターブ)が「復刊第1巻第1号」として、それまでを通巻せずに編集発行を再開する。同年11月に発行した11月号をもって休刊している。
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略歴・概要
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1935年(昭和10年)4月11日に設立され、第二次世界大戦終了後の1946年(昭和21年)5月10日に創業した「株式会社新元社」(現在の株式会社主婦と生活社)が、同年同月1日付で創刊した月刊婦人雑誌である。同年9月の第1巻第5号からは、誌名に並列して The shuhu-to-seikatsu と表記したが、その後、消滅した。創刊当初の判型は、縦21センチメートルの「A5判」であった。翌6月の第1巻第2号から、北原武夫『火の女』の連載が始まっている。同年末には、当時の洋裁ブームのもと、実物大型紙を折込添付した『秋から冬のすたいるぶつく』を刊行している。この同編集部の編集による単行本は、1948年(昭和23年)3月には、『春のすたいるぶっく』、6月には『夏のすたいるぶっく』、9月には新編集の『秋から冬のすたいるぶっく』、同年11月には、『編物と手藝のすたいるぶっく 私たちに向くアメリカの流行1948〜9』(高木とみ子)、と頻繁に刊行された。 1970年(昭和45年)1月の第25巻第1号から判型を変更、縦26センチメートルの「B5判」とした。同号は、「創刊25周年記念」と銘打って読者1万1,450名を対象とした懸賞を行っており、松下幸之助・佐藤愛子の「新春対談」、白石浩一が新連載を始めている。当時の連載は、瀬戸内晴美(瀬戸内寂聴)作、堀文子画による小説『薔薇館』、小島功の漫画『新婚はん』であった。 1986年(昭和61年)8月、婦人生活社の月刊婦人雑誌『婦人生活』が第40巻第8号をもって休刊、1988年(昭和63年)4月、講談社の月刊婦人雑誌『婦人倶楽部』が第69巻第4号をもって休刊した。1989年(平成元年)1月の第44巻第1号から判型を変更、縦28センチメートルの「A4変形」(国際判)とした。 1993年(平成5年)3月、「社会的な使命を完遂した」との理由で休刊に至った。同月発行の第48巻第4号が最終号であり、47年に満たぬ歴史の幕を下ろした。同号では、「さようならスペシャル企画」として、第1部『本誌を飾ったあの方、この方』、第2部『本誌特集にみる戦後の女性史』、第3部『歴代編集長座談会「564冊の本作りを終えて」』、そして第4部では、瀬戸内寂聴、曽野綾子らによる『読者へのさようならメッセージ』の4部構成の特集を行った。
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講談社出身で元『講談倶楽部』編集長の原田常治が、第二次世界大戦終結後の1947年(昭和22年)2月1日に設立した「株式会社同志社」(のちの株式会社婦人生活社)が、同年5月に創刊した婦人雑誌である。創刊号には、阿部静枝『選擧と私たちの生活』、菅支那子『新しい時代の交際について』、立野信之『姉妹』、森三千代『美しい叔母』、秋穂敬子『子供の喜ぶおやつ五種』、辻徳光『節米になる榮養料理』、森山豊『お乳の出をよくする手當法』、山野愛子『パーマネントの洗い方まとめ方』等の署名記事の並ぶ全85ページの誌面であり、中野実が小説『花嫁選手』の連載を開始している。 同誌は、創刊から5年の1952年(昭和27年)には、「戦前の四大婦人雑誌」に挙げられた『主婦の友』『婦人倶楽部』、同誌よりも1年早く創刊された『主婦と生活』と並ぶ「戦後四大婦人雑誌」と呼ばれ、発行部数も50万部を超えた。「戦後四大婦人雑誌」の時代は、以降40年つづく。 1963年(昭和38年)8月には、版元の「株式会社同志社」が、同誌にちなみ社名を「株式会社婦人生活社」と改称する。同年6月に発売された第17巻第7号(7月号)のp.146に「社名変更のお知らせ」の告知が掲載された。1968年(昭和43年)には、『婦人生活ホームブック』全7巻を刊行する。第1巻『家庭の料理』、第2巻『結婚の医学』、第3巻『交際とエチケット』、第4巻『住まいとインテリア』、第5巻『和装と和裁』、第6巻『家事と家計』、第7巻『ペン字と手紙』と、家庭生活に必要な事項を網羅した。 1977年(昭和52年)8月23日、婦人生活社の創立者であり、同誌の創刊者であった原田常治が死去する。同年9月に発売された第31巻第10号(10月号)では、『原田常治を偲ぶ』と題した4ページの特集を組んだ。 1986年(昭和61年)8月、第40巻第8号をもって、社名ともなった『婦人生活』を休刊する。同最終号では、塩田ミチル、滝沢真理、大庭英子による料理特集『たれ、ソース、ドレッシングのひと工夫でおなじみおかずが幾通りものおいしさに 夏の食欲味ベスト100』や、『仕事と家庭のいちばんいい関係』と題した椎名誠、村井国夫、矢野顕子、池田裕子へのインタヴュー記事、アグネス・チャンの連載『アグネス・チャンのすなおな心でお話ししましょう』がゲストに赤瀬川原平を迎え、冨士真奈美の連載『冨士真奈美の人生・身の上なんでも相談』がいつものように掲載されており、とくに40年を振り返る特集記事は掲載されなかった。 「婦人生活ファミリークッキングシリーズ」、「婦人生活家庭シリーズ」、「婦人生活ベストシリーズ」といった、同誌の名を冠したムックシリーズは、同社の破産解散する2003年(平成15年)1月まで、継続的に編集発行された。
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1922年(大正11年)、中山太陽堂は、同社の顧問に自由劇場、松竹蒲田撮影所前所長の小山内薫を迎え、出版社「プラトン社」を設立した。経営は中山の実弟・中山豊三であった。小山内を編集長に、中山太陽堂から出向させた図案家(イラストレーター)の山六郎に装丁やタイトルロゴ、扉絵等のヴィジュアルワークを担当させ、同年4月に「5月1日付」で、創刊となった。おもな執筆者には、泉鏡花、谷崎潤一郎、武者小路実篤、大佛次郎、与謝野晶子ら。 タイトルロゴの「女性」の書体は、山の考案によるものである。この書体は一世を風靡し、まもなく無声映画の看板やのぼり旗に多用される人気書体となる。山がアール・デコ調の表紙画や装丁を、翌年からは山名文夫もカットを手がけ、山名の同誌での活動は、のちに資生堂で開花することになる。 1923年(大正12年)には、編集者として直木三十五、川口松太郎、図案家として山名、岩田専太郎らが同社に入社し、同年12月には雑誌『苦楽』(第1期)が創刊している。 『女性』は、『苦楽』とともに、プラトン社が廃業する1928年(昭和3年)5月まで発行された。 その後、長らく「幻の雑誌」と呼ばれ、全体を目にすることはできなかったが、休刊後60年の歳月を経て、1991年(平成3年)9月 - 1993年(平成5年)9月、鶴見俊輔監修、津金澤聡廣、山本洋、小山静子解説で、全72冊が復刻され、日本図書センターから全6回で配本された。価格は揃本体600,000円であった。
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「マイライフ (雑誌)」の記事における「略歴・概要」の解説
中尾是正が1958年(昭和33年)に創立した「株式会社グラフ社」が、1966年(昭和41年)10月に創刊した婦人雑誌である。「戦前の四大婦人雑誌」とされた『主婦の友』『婦人公論』『婦人画報』『婦人倶楽部』、「戦後の四大婦人雑誌」として第二次世界大戦後に創刊された『主婦と生活』『婦人生活』に比して、鎌倉書房の『マダム』同様、20年近く後発であった。創刊号のおもな執筆者は、森南海子、片岡一久、邱永漢、紅林茂夫、立石茂、柳原敏雄、岩崎静子、久米和子、安村ゆり子、坂田種男、飯塚信雄、和田静郎、久保田光江ほか。 創刊当初の表紙は、マトリックス状に複数の写真が組み合わされていたが、1967年(昭和42年)6月に発行された第2巻第6号に渡辺裕代が起用されて以降、他の婦人雑誌同様に、女優等のモデルが表紙を飾るようになる。おもな表紙モデルは、愛京子(第2巻第8号)、左幸子・羽仁未央(第2巻第9号)、樫山文枝(第2巻第10号)、藤純子(富司純子、第2巻第11号)、安田伸・竹腰美代子夫妻(第2巻第12号)、大空真弓(第3巻第1号)、松尾嘉代(第3巻第8号)、松原智恵子(第3巻第9号)、芳村真理(第3巻第10号)、森田敏子(第3巻第11号)、浅丘ルリ子(第3巻第12号)、長谷川稀世(第4巻第1号)、加賀まりこ(第4巻第2号)、奈美悦子(第4巻第3号)、尾崎奈々(第4巻第4号)、十朱幸代(第4巻第5号)、生田悦子(第4巻第6号)、高橋紀子(第4巻第11号)、樫山文枝(第4巻第12号)ほか。 1971年(昭和46年)ころまで月刊で発行、1972年(昭和47年)以降、単行本シリーズ「マイライフシリーズ」に移行した。
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同所は、1953年に国際テレビがテレビ映画用のスタジオを建設を進めたが、撮影機材などを導入前で頓挫。その後、映画プロデューサー伊藤武郎が、照明などの機材を導入して同年11月12日に開設した撮影所。中央映画の作品と共に、レンタルスタジオとして独立プロの映画作品を生み出した。施設は第1、第2スタジオ(各150坪)に 開設。翌年5月には、第3スタジオ(180坪)が建設された他、ダビングルーム、大道具工房、控室などがあり、オープンセット用地(3カ所、各600坪規模)であった。 1950年代中頃からの、独立プロによる映画製作運動の衰退を受けて、1956年5月からは不動産を所有していた中島工業が管理し、調布映画撮影所と改称。レンタルスタジオとして1959年末頃まで運用された後、富国生命に用地は売却された模様。
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リンゼイ・アンダーソンが、カレル・ライス、トニー・リチャードソン、ロレンツァ・マッツェッティと共同で創始し、ロンドンの国立映画劇場(NFT、現BFIサウスバンク、BFI Southbank)での彼らの短篇映画を集めたひとつのプログラムとともに、1956年2月5日、本運動は始まった。このプログラムはあまりに成功し、5つのさらなるプログラムが「フリー・シネマ」の看板のもとに出現した。それは彼ら本人たちが1959年のある日にやめることを決意するまで続いた。 最初のフリー・シネマのプログラムは、以下の3つの短篇をフィーチャーしたものである。リンゼイ・アンダーソン監督によるケント州マーゲイトの遊園地についての映画『オー・ドリームランド O Dreamland』、カレル・ライスとリチャードソンの共同監督によるノース・ロンドンのジャズクラブについての映画『Momma Don't Allow』、ロレンツァ・マッツェッティ監督によるロンドンの爆撃地イーストエンドのふたりの聾唖者についてのドキュメンタリー風フィクション『Together』。これらの作品には,アンダーソンが主導して書いたフィルム・マニフェストがついており、この映画作家たちを価値あるパブリシティをもたらす手助けとなった。 後のプログラムは、ほかの志をおなじくする映画作家を引き込んだ。その作家のなかには、のちにスイスに帰国してグループ5を始めるアラン・タネールとクロード・ゴレッタ(『ピカデリーの夜 Nice Time』)、マイケル・グリグズビーとロバート・ヴァスがいた。本運動に密接に関係する2名の映画技術者が、ウォルター・ラサリーとジョン・フレッチャーである。6つのプログラムのうちの3つは、フランスのヌーヴェルヴァーグと新しいポーランド映画(ポーランド派)を含む海外の作品に捧げられた。 この作品群は、映画産業の範囲の外側でつくられているという意味において、そして、彼らのスタイルと態度、および彼らの製作の諸条件によって特徴づけられているという意味において、「自由」なのである。全作品が2-300ポンドすらかからぬ規模で安価につくられ、ほとんどが英国映画協会の実験映画ファンドからの補助金を活用しており、後期の作品うちのいくつかはフォード・モーター社が後援を受け、もしくは独立的に出資してはいる。典型的としては白黒の16ミリフィルム(16 mm film)で撮られ、軽量のハンドヘルドの撮影機を使用し、通常は非同期の音声トラックがべつにつけくわえられた。ほとんどの作品では故意にナレーションを省略した。作家たちは、ふつうのそして大多数である労働者階級の英国、という主題にフォーカスする決意を共有しており、それは彼らが、中産階級に支配された当時の英国映画産業に覆い尽くされていると感じていて、希少なシンパシーとリスペクト、そしてなかば意識的な詩的スタイルを見せた。 「フリー・シネマ」の創始者たちは、英国のドキュメンタリー映画製作のメインストリームに軽蔑的で、それはとくにジョン・グリアソンに関連した1930年代、1940年代の英国ドキュメンタリー運動であるが、ハンフリー・ジェニングズについては賞賛した。もうひとつの認められる影響はフランスの映画監督ジャン・ヴィゴである。「フリー・シネマ」は、シネマ・ヴェリテ運動やダイレクト・シネマ運動とは、いくつかの共通点とたくさんの違いがある。 「フリー・シネマ」運動は、1950年代後期から1960年代初頭にかけてのブリティッシュ・ニュー・ウェイヴ運動に多大な影響を与え、マッツェッティ以外の全創始者が同運動と関係して映画をつくった。ライス監督と『土曜の夜と日曜の朝』(Saturday Night and Sunday Morning、1960年)、リチャードソン監督と『蜜の味』(A Taste of Honey、1961年)と『長距離ランナーの孤独』(The Loneliness of the Long Distance Runner、1962年)、そしてアンダーソン監督と『孤独の報酬』(This Sporting Life、1963年)といったように。
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略歴・概要
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「ゴールドウィン・ピクチャーズ」の記事における「略歴・概要」の解説
1916年(大正5年)、サミュエル・ゴールドフィッシュが、ブロードウェイのプロデューサー、エドガー・セルフィンとアーチボルド・セルフィン兄弟とパートナーシップを結び、両者の姓を合成して命名した。「ゴールドウィン」以外のもうひとつのとりあわせでは「セルフィッシュ・ピクチャーズ」(利己的映画会社)になるので、こちらは即座に却下された。これを期に、ゴールドフィッシュはその姓名を、現在知られるサミュエル・ゴールドウィンに法的に改名した。 当初、同社はニュージャージー州フォートリーで、ソラックス・スタジオから映画製作のための施設を賃借していた。同社が適度に成功したと言えるが、もっとも有名なのはトレードマークの「レオ・ザ・ライオン」である。 サミュエル・ゴールドウィンは、最終的には、米国内で支配的な演劇の興行会社であるシューバート・オーガニゼイションを率いるリー・シューバートを引き入れたセルフィン兄弟たちが強制的に排除した。シューバートは同社を支配し、映画興行界の大物マーカス・ロウとロウが経営するメトロ・ピクチャーズに同社を合併させ、メトロ・ゴールドウィン・ピクチャーズとし、新しい会社にトレードマーク「レオ・ザ・ライオン」を付与した。 メトロ・ゴールドウィン・ピクチャーズがルイス・B・メイヤー・ピクチャーズの合流を受けた結果、生まれた新しい映画スタジオが、メトロ=ゴールドウィン=メイヤー(MGM)である。のちの1981年(昭和56年)にユナイテッド・アーティスツと合併し、MGM/UAエンタテインメント・カンパニーとなった。 同社を放擲されたサミュエル・ゴールドウィンは、1923年(大正12年)にサミュエル・ゴールドウィン・プロダクションズを設立している。映画産業においてもっとも尊敬されるべきプロデューサーになることはできたが、合併前に放擲されたメトロ=ゴールドウィン=メイヤーとは、まったく具体的な関係がなくなっていた。
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略歴・概要
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1904年にグスターヴォ・ロンバルド(1885年 - 1951年)が設立した。本社はローマ市ソンマカンパーニャ通り28番地にあり、撮影所はローマの中心街より13キロ離れたティブルティーナ街道沿いにある。 ロンバルドは撮影所経営を亡くなる1951年まで行なった。子息のゴッフレード・ロンバルド(1920年 - 2005年)、孫のグイド・ロンバルドが現在に至るまで同社を経営している。 同社は、現在までに数百作におよぶイタリア映画の製作を行なっており、イタリア映画史上のもっとも人気のある作品、あるいは重要な作品を生み出している。おもな作品に以下のようなものがある。 孤児たち I figli di nessuno (1951) パンと恋と夢 Pane, amore e fantasia (1953) パンと恋と嫉妬 Pane, amore e gelosia (1954) われら女性 Siamo donne (1953) 崖 Il bidone (1955) 美しいが貧しい娘たち Poveri ma belli (1957) アッリヴェデルチ・ローマ Arrivederci Roma (1958) 二重の鍵 À double tour (1959) 太陽がいっぱい Plein soleil (1960) 夜と昼の間 The Angel Wore Red (1960) バラ色の森 A Breath of Scandal (1960) 若者のすべて Rocco e i suoi fratelli (1960) 鞄を持った女 La ragazza con la valigia (1961) 新・七つの大罪 Les Sept péchés capitaux (1962) アルトナ I Sequestrati di Altona (1962) 山猫 Il Gattopardo (1963) 現在、同社はおもに、テレビ映画およびテレビシリーズの製作にかかわっている。
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略歴・概要
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1920年(大正9年)10月1日、大日本雄辯會(のちの大日本雄弁会講談社、現在の講談社)が創刊した。当初の誌名は『婦人くらぶ』であったが、それも同年内の第1巻第3号(12月号)までで、翌1921年(大正10年)の1月号(第2巻第1号)からは、『婦人倶楽部』に変更している。当初の執筆者は、三宅雪嶺、有島武郎、芥川龍之介、吉岡弥生ら。『主婦の友』『婦人公論』『婦人画報』と並ぶ「戦前の四大婦人雑誌」とされた。 1933年(昭和8年)、初めて「家計簿」を付録にした。1937年(昭和12年)2月号から翌1938年(昭和13年)5月号まで、川口松太郎の小説『愛染かつら』を同誌に連載、同作を原作に松竹大船撮影所が製作、野村浩将が監督、上原謙・田中絹代が主演して映画化され、同年9月15日に前篇・後篇ともに公開され、大ヒットしている。 1945年(昭和20年)8月15日、第二次世界大戦が終結し、同月、全32ページであるが第26巻第5号を発行、大森洪太『新しき時代に處する 再建日本の女性』、山脇百代『原野を拓く妻の手記 鍬もちて盡くさむ』、山本實『秋から冬へかけての 家庭菜園心得帳』、小林完『冬にそなへて乾燥野菜、野草の作り方・貯へ方・頂き方』、下村湖人『食糧難を知らぬ 完全咀嚼の有難み』、山本周五郎『日本婦道記 文鎭』、そして、筒井政行『おいしくて消化しやすい大豆、たうもろこしの節米料理』『どんぐりの榮養と頂き方 - どんぐりを盛んに食べませう』を掲載した。 同誌は、1952年(昭和27年)には、『主婦の友』『主婦と生活』『婦人生活』と並ぶ「戦後の四大婦人雑誌」と呼ばれ、発行部数も50万部を超えている。『婦人公論』『婦人画報』は現在も存続しているが、この時点で戦前からつづいてメインストリームにあるとされたのは『主婦の友』と同誌のみである。「戦後の四大婦人雑誌」の時代は、以降40年つづく。 1973年(昭和48年)、同年夏号から『別冊婦人倶楽部』を創刊する。 1987年(昭和62年)、同年夏号をもって、『別冊婦人倶楽部』を休刊する。 1988年(昭和63年)3月17日、同月発売された第69巻第4号(4月号)をもって、休刊する。68年に満たぬ歴史の幕を下ろした。同号では、「終刊特別企画」として、『祖母・母・娘三代の主婦に支えられて婦人倶楽部の六十八年をふり返る』、『いつの時代もリード役は主婦の知恵だった』、『愛惜「婦人倶楽部とわたし」』の記事を掲載している。編集後記は『最終刊号の編集を終えて』。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/08/26 13:10 UTC 版)
スライドは20世紀末頃に他のプロジェクタに取って代わられ、映像原稿としての役割をほぼ終えたが、パーソナルコンピュータなどでは静止画を順送りに表示して行くことや専用のユーティリティソフトウェアのことをスライドショーと呼ぶ。
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略歴・概要
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/02 22:39 UTC 版)
「インパルス (お笑いコンビ)」の記事における「略歴・概要」の解説
NSC東京校4期出身、1998年12月コンビ結成。 『爆笑オンエアバトル』、『エンタの神様』などに出演し頭角を現す。2005年にレギュラー番組『はねるのトびら』がゴールデンへ進出し本格的にブレイク。現在では2人ともピンで活躍することがほとんど。 コンビ揃って歌唱力が高く、『お笑い芸人歌がうまい王座決定戦スペシャル』では準決勝まで残った経験を持つ。 『ウンナン極限ネタバトル! ザ・イロモネア 笑わせたら100万円』には番組初回(2005年1月3日)で出場、初挑戦ながらチャレンジ成功を成し遂げ番組初の100万円獲得者となった。更には同年4月5日の放送回にも出場、チャレンジ成功・100万円獲得を成し遂げ番組史上初の2連覇(2回連続100万円獲得)を達成した。同番組内で2連覇を達成した芸人は彼らと劇団ひとり・アンガールズ・バナナマンによる4組のみ。その後もイロモネアには出場を重ねるもののしばらく不調が続き100万円獲得から遠ざかっていたが、2012年3月29日の放送内にて約7年振りにチャレンジ成功を果たし、通算3度目の