こ‐だい【古代】
古代 (こだい)
古代
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/01/05 04:17 UTC 版)
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古代(こだい、英語: antiquity)とは、世界の歴史の時代区分で、文明の成立から古代文明の崩壊までの時代を指す。「歴史の始まり」を意味する時代区分である[注 1]。これと中世・現代(近代)に分けた、古典的な三時代区分の一つであり、元来は古代ギリシア・古代ローマを指した(古典古代)。「上古」(じょうこ)という場合がある。歴史家にとっては語ることのできる歴史の始まり(書き出し)を意味した。考古学の発達が歴史記述の上限を大幅に拡大したと言える。
各国の古代
古代の終始については、政治史的観点と社会史的観点から様々な説がある。代表的なものは次のようになる。
西洋史
西洋史においては、古代ギリシアにおけるエーゲ文明の成立(紀元前3000年頃)から西ローマ帝国の崩壊(476年)まで[注 2]。このほか、ローマ帝国の3世紀の危機から7世紀までを「古代末期」とする時代区分もある。
東洋史
中国史
日本史
- 日本史:通常、縄文時代、弥生時代、古墳時代もしくは飛鳥時代から平安時代中期または後期まで。始期については古代国家(ヤマト王権)の形成時期をめぐって見解が分かれており、3世紀説、5世紀説、7世紀説があり、研究者の間で七五三論争と呼ばれている[1]。終期(中世との画期)についても様々な見解があり、政治権力の分散、武士の進出、主従制、荘園公領制の確立といった中世的諸特徴が出現する11世紀後半、政治史的な区分としては白河上皇の院政開始(1087年)までという見解が主流である。さらに遡って、律令制から王朝国家体制に移行する平安中期(900年頃以降)を中世の発端とする意見もある[2]。一方で中世を武士の時代と定義づけ、古代と中世の画期を保元の乱(1156年)に求める考え方も伝統的に存在する(『愚管抄』の「ムサノ世」という一文に依拠する)[3]。西洋史や中国史との接続の観点や建築史的な観点から日本に古代はなかったとする方が自然であるとの指摘もある[注 3]。ニコライ・コンラドやコンスタンチン・ポポフなど海外の日本史研究者には奈良時代を中世としている例もある[4]。古代や中世をいつにするかという日本での時代区分は、ヨーロッパで生まれたマルクス主義史観をそのまま日本にも適用しようとした点などに問題がある[5]。平安時代を古代と中世のどちらに分類するかはいまだに議論があり、中立的な概念として、古くから主に文学史の世界で使われてきた「中古」という語を用いることもある。
朝鮮史
インド史
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発展段階史観での古代
発展段階史観では、無階級社会の原始に対し階級社会の古代へと発展したと理解し、古代を階級社会の第1段階であると捉えている。古代社会または古代奴隷制社会という。世界史的には奴隷制段階の古代と定義、区分する。こうした学説では古代とは奴隷が生産の主体を担った発展段階と定義される。しかし今日では、こうした単線的発展段階説は疑問視されている。現に古代とされる時代に多くの地域で奴隷的存在は普遍的に見られたが、古典古代とよばれる古代ギリシア、古代ローマの一時期のように、そうした人々が生産の主体になっていた社会は必ずしも多くないとされる。他の諸国では複雑な形態をとった原始無階級社会から階級社会への発展がみられた。
脚注
注釈
- ^ 「古代生物」といった場合は「地質時代に存在していた生物」を意味しており、歴史学の「古代」に存在した生物ではない。
- ^ この分類には、古代ギリシアとローマをまとめて古典古代と呼ぶ、欧米の文化的伝統、欧米人のアイデンティティ確立にともなう価値観が内在していると指摘される。東京大学をはじめとする日本の歴史学界も、この概念に基本的に従っており、古代オリエント史を西洋史の冒頭に置く分類は斥けられる場合が多い。もっとも、欧米でも、人類の歴史がオリエントから始まったとする見方から、古代オリエント史を西洋史の冒頭に置く場合がある。近藤和彦編『西洋世界の歴史』(1999年、山川出版社)中、桜井万里子「古代地中海世界」参照。
- ^ 井上章一『日本に古代はあったのか』(2014年、角川選書)
出典
参考文献
- 佐藤進一『日本の中世国家』岩波書店、1983年。ISBN 4000266683。
関連項目
古代(弥生時代から奈良時代まで)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/12 06:32 UTC 版)
「甲冑」の記事における「古代(弥生時代から奈良時代まで)」の解説
考古学の成果として、弥生時代には「組合式木甲」(前期末から中期中葉)と「刳抜式木甲」(前期末から古墳前期)といった木製甲があり、弥生前期末頃には半島系武器と共に甲冑の出現も確認されている。 古墳時代には、古墳の出土品として「板甲」または「帯金式甲冑」と呼ばれる、帯状鉄板を革綴(かわとじ)ないし鋲留(びょうどめ)して組み立てる日本列島独自形態の甲が出現した。さらに古墳時代中頃からは、大陸の影響を受けた多量の小札(小鉄板)を紐で縅(おど)した「札甲」(胴丸式・裲襠式)が出現する。なお、冑では衝角付冑・眉庇付冑などがある。札甲は、形態こそ異なるが、のちの大鎧(おおよろい)へとつながる可能性が指摘されている。現在、上記のような古墳時代の甲について、板甲を「短甲」、札甲を「挂甲」と呼ぶことが一般化しているが、これは奈良時代などの文献史料に記された「短甲・挂甲」の名称を、古墳から出土する甲冑に便宜的に当てはめたもので、近年の研究で考古資料の甲冑形態と、元の言葉の意味する甲冑形態が大きく異なっている事が指摘され、用語の使用法に問題があり改めるべきとの意見が出てきている。 奈良時代には史料に『短甲』『挂甲』と呼ばれる甲冑が現れる。『短甲』『挂甲』の語は、聖武天皇崩御77回忌にあたる天平勝宝8年6月21日(756年7月22日)に、光明皇太后が亡帝の遺品を東大寺に献納した際の目録『東大寺献物帳』に見え、「短甲10具・挂甲90領」が献納されたとある。また、平安時代の『延喜式』などにも記載が見られる。実物が伝わっておらず、どのような形態・外観であったのかよく解っていない。ただし、宮崎隆旨らの文献記述の分析により、史料に見える「挂甲」「短甲」はともに「貫(縅紐)」を用いる製作法であることから両者とも小札甲であり、「挂甲」は脇盾を持つことから考古学にいう「裲襠式挂甲」を表し、「短甲」は縅紐の量の多さから「胴丸式挂甲」を表していると考えられている。この他に、奈良時代中頃に遣唐使によって大陸から綿襖甲が持ち帰られ、各地の軍団にも導入される。 復元された弥生時代の木製甲(国立歴史民俗博物館所蔵) 古墳時代の鉄製鋲留板甲(短甲)と小札鋲留眉庇付冑(東京国立博物館所蔵) 復元された古墳時代の札甲(挂甲)と衝角付冑(大阪府立近つ飛鳥博物館所蔵)
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