秦とは? わかりやすく解説

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しん【×秦】

読み方:しん

人名用漢字] [音]シン(漢)

中国周代国名。「秦篆(しんてん)/先秦

名のり]はた

難読秦皮(とねりこ)


しん【秦】

読み方:しん

中国国名

[一]春秋戦国時代の国の一。戦国七雄の一。初め秦(甘粛)の地にいたが、前771年、周の諸侯に列せられて以後渭水(いすい)に沿って東進勢力拡大して、前249年に周を滅ぼし、前221年政(始皇帝)の時には六国滅ぼし天下統一。都は咸陽。前207年3代15年で漢の劉邦(りゅうほう)(高祖)に滅ぼされた。

[二]五胡十六国時代の3王朝前秦後秦西秦


はた【秦】


はた‐しん【秦】

読み方:はたしん

《「秦」を「はた」と訓読するころから中国古代国名「秦」を、同音の「晋(すすむしん)」と区別していう語。


秦 (しん)


読み方:ハダ(hada)

所在 岡山県総社市

地名辞典では2006年8月時点の情報を掲載しています。

読み方
かな
しん
しんの
じん
そう
ちん
はた
はだ
ひろし
みなと
やすし

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/12/23 01:35 UTC 版)

前905年 - 前206年
受命於天 既壽永昌[1]

全国統一時の秦の版図(紀元前210年
公用語 古代中国語
首都 秦邑(張家川回族自治県
西犬丘(礼県
汧邑(西垂(眉県)地区)
汧渭之会(眉県の北東、汧水・渭水の合流地点)
平陽
雍城
涇陽
櫟陽
咸陽
附庸国主皇帝
前905年 - 前858年 非子[注 1]
前777年 - 前766年襄公[注 2]
前338年 - 前311年恵王[注 3]
前306年 - 前251年昭王[注 4]
前246年 - 前210年始皇帝[注 5]
前207年 - 前207年子嬰退位[注 6]
変遷
平王により冊封 紀元前771年
伯国から王国へ紀元前324年
天下統一
王国から王朝へ
紀元前221年
劉邦の咸陽入城により滅亡紀元前206年
中国歴史
先史時代中国語版
中石器時代中国語版
新石器時代
三皇五帝
古国時代
黄河文明
長江文明
遼河文明
西周

東周
春秋時代
戦国時代
前漢
後漢

孫呉

蜀漢

曹魏
西晋
東晋 十六国
劉宋 北魏
南斉

(西魏)

(東魏)

(後梁)

(北周)

(北斉)
 
武周
 
五代十国 契丹

北宋

(西夏)

南宋

(北元)

南明
後金
 
 
中華民国 満洲国
 
中華
民国

台湾
中華人民共和国
国姓 嬴姓趙氏
爵位 前905年、附庸
前770年、伯爵
前325年、
前288年、
前221年、皇帝 天子位
国都 1.秦邑
2.前776年、汧邑
3.前763年、汧渭之会
4.前714年、平陽中国語版
5.前677年、
6.前383年、櫟陽
7.前350年、咸陽中国語版
分封者 1. 孝王
非子が附庸に封じられる
2. 平王
襄公が伯爵となり正式に諸侯国となる
始祖 秦非子(周の孝王により附庸に封される)
襄公(周の平王により正式に諸侯となる)
滅亡原因 秦王子嬰沛公劉邦に降伏
史書の記載史記
巻5・秦本紀
巻6・秦始皇本紀
春秋左氏伝
始見于桓公四年
周朝諸侯国一覧
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(しん、拼音: Qín紀元前905年 - 紀元前206年)は、中国王朝である。代・春秋時代戦国時代にわたって存在し、紀元前221年に史上初めて中国全土を統一、紀元前206年に滅亡した。統一から滅亡までの期間を秦朝秦代と呼ぶ。紀元前221年に中国史上初めて天下統一を果たした王の姓はえい、氏は[注 7]。統一時の首都は咸陽

歴史

周代

紀元前905年に、周の孝王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、大夫となり、秦の地に領地を貰ったのが秦邑(現在の甘粛省張家川回族自治県)であったという。

伝説上では嬴姓はの臣の伯益が賜ったとされている。それ以前の趙氏は魯に居住していたとされる。

周朝の属国として、その後秦人と西戎は長くて残酷な戦いをした。紀元前822年荘公の代で、西戎を破った功により領土が広がり、西垂(現在の陝西省眉県)の大夫になった。

春秋・戦国時代

春秋時代

春秋時代の諸国
襄公の受封

紀元前770年、周の幽王申侯の反乱に遭い、侵攻した犬戎鎬京が荒され、幽王と褒姒、太子の伯服中国語版が殺された[2][3]。この時、襄公は兵を率いて周を救うために戦った。申侯により平王が擁立されて洛邑に東遷した際も、周の洛邑東徙で周の平王を護衛したため、平王から諸侯に封じられ、岐山以西の地を賜り、伯爵となった。これ以降諸侯の列に加わる。紀元前762年に秦が最初に興った場所は犬丘(現在の甘粛省礼県)であったらしく、秦の祖の陵墓と目されるものがこの地で見つかっている。

早期の歴史

春秋時代に入ると同時に諸侯になった秦だが、中原諸国からは野蛮であると蔑まれていた。代々の秦侯は主に西戎と抗争しながら領土を広げつつ、法律の整備などを行って国を形作っていった。前762年、2代君主の文公は汧水・渭水の合流地点(秦)に行き、「昔、孝王が我が祖先の秦嬴をこの地に封じられたため、のちに諸侯になることができた」と言って吉凶を卜したところ、吉とあったので、邑をここに営んだ。紀元前714年には平陽へ遷都。紀元前677年には首都を(現在の陝西省宝鶏市鳳翔区の南東)に置いた。

覇者

穆公百里奚などの他国出身者を積極的に登用し、巧みな人使いと信義を守る姿勢で西戎を大きく討って西戎の覇者となり、周辺の小国を合併して領土を広げ、隣の大国にも匹敵する国力をつけた。晋が驪姫による驪姫の乱で混乱すると、秦は恵公を後援し擁立した。恵公は背信を繰り返したので、これを韓原の地で撃破した(韓原の戦い)。更に恵公が死んだ後に恵公の兄の公子重耳を晋に入れて即位させた。この重耳が晋の名君の文公となり、その治世時には晋にやや押され気味になった(殽の戦い中国語版、彭衙の戦い)。紀元前628年の文公死後、再び晋を撃破して領土を奪い取った。これらの業績により、穆公は春秋五覇の一人に数えられる。紀元前621年、穆公が死んだ時に177名の家臣たちが殉死し、名君と人材を一度に失った秦は勢いを失い、領土は縮小した。

戦国時代

紀元前260年の戦国七雄

戦国時代には七雄の一つに数えられる。隣国の晋は内部での権力争いの末にの三国に分裂した(晋陽の戦い)。この内の魏が戦国初期には文侯により強勢となり、秦は魏により圧迫を受け、領土を奪われる(洛陰の戦い中国語版)。紀元前383年献公櫟陽(れきよう、現在の陝西省西安市閻良区)に遷都した。

この状況に憤慨した25代孝公は広く人材を求め、頽勢を挽回することのできる策を求めた。これに応じたのが商鞅である。商鞅は行政制度の改革・什伍制の採用などを行い、秦を強力な中央集権体制に変えた(詳細は商鞅の項を参照)。この商鞅の変法運動に始まる秦の法治主義により国内の生産力、軍事力を高め徐々に他の六国を圧倒していった。紀元前350年涇陽(現在の陝西省涇陽県)付近に城門・宮殿・庭園を造営して遷都し、都の名を咸陽と改めた。

その後、孝公の子の恵文王紀元前324年を名乗る。強勢となった秦を恐れた韓・趙・魏・の五カ国連合軍が攻めて来たが、樗里疾がこれを破った(函谷関の戦い)。紀元前316年に恵文王は巴蜀中国語版(現在の四川省)を占領し(秦滅巴蜀の戦い中国語版)、この地の開発を行ったことでさらに生産力を上げ、長江の上流域を押さえたことで楚に対して長江を使った進撃を行えるようになり、圧倒的に有利な立場に立った。さらに謀略に長けた張儀を登用して、楚を引きずり回して戦争で撃破し(藍田の戦い)、楚の懐王を捕らえることに成功する。この強勢に恐れをなした魏と韓の王達をそれぞれ御者と陪乗にするほどにまで屈服させた。だが、恵文王の子の武王との確執により張儀が魏に亡命し、さらに韓との戦いで多くの兵を失ったうえに、自身は突如事故死し後継者争いが起きてしまい戦力が後退していってしまう。

紀元前298年、斉の宰相の孟嘗君が韓・魏との連合軍を組織し、匡章を統帥として秦に侵攻した(函谷関の戦い)。秦が函谷関に追いつめられると趙・も加わり五国連合軍となったため、秦は使者を送って講和を求めた。この後、東では斉が伸張し、宋を併合するなど、周辺諸国を圧迫していった。紀元前288年には斉の湣王が東帝、秦が西帝と名乗るとした。この案は斉がすぐに帝号を取りやめたので、秦も取りやめざるを得なかったが、この時期は西の秦・東の斉の二強国時代を作っていた。しかし斉は強勢を警戒された上に周辺諸国から恨みを買い、孟嘗君が魏へ逃亡すると、燕の楽毅が指揮する五国連合軍により、都の臨淄が陥落(済西の戦い)。斉は亡国寸前まで追い詰められ、東の斉・西の秦の二強国時代から秦一強時代へと移行した。

恵文王の子で、武王の異母弟の昭襄王の時代に宰相の魏冄白起将軍の活躍により、幾度となく勝利を収める。その時、魏より亡命してきた范雎を登用した昭襄王は、その提言を次々と採用した。まず、魏冄や親族の権力があまりにも大きくなっている現状を指摘され、魏冄らを退ける進言を受け入れた。次に范雎から進言されたのが有名な遠交近攻策である。それまで近くの韓・魏を引き連れて、遠くの斉との戦いを行っていたのだが、これでは勝利しても得られるのは遠くの土地になり、守るのが難しくなってしまう。これに対して遠くの斉や燕と同盟して近くの韓・魏・趙を攻めれば、近くの土地を獲得できて、秦の領土として組み入れるのが容易になる。この進言に感動した昭襄王は范雎を宰相とした。

紀元前260年に趙への侵攻軍を率いた白起は、長平の戦いで撃破した趙軍の捕虜40万を坑(穴埋めにして殺すこと)した。しかし大戦果を挙げた為、范雎から妬まれ、趙の都を落とす直前で引き返させられた。紀元前259年、将軍を王齕に替えて再び趙を攻めた秦軍は、趙の平原君のもとに援軍として現れた魏の信陵君と楚の春申君の活躍によって阻まれた(邯鄲の戦い中国語版)。この為、大将に再任されようとした白起だったが、先の件から不信を持って王命を拒否した結果、死を賜った

これと時を同じくして敵国の趙で人質生活を送る子楚(昭襄王の孫のひとり)を見つけた商人の呂不韋が、子楚に投資をし始める。孝文王(昭襄王の子)の後、荘襄王として即位できた子楚は、呂不韋の愛妾でもあった趙姫との間に、子を儲けた。それが政である。紀元前256年楊摎の進軍を妨害した、東周西周公の支配下に入り、程なく赧王文公が死んだため、完全に周は滅びその領地を接収したものの[4]紀元前247年には魏の信陵君が率いる五カ国連合軍に攻め込まれた秦では、王齕と蒙驁の迎撃軍が敗退し函谷関まで撤退させられた(河外の戦い)。そこで信陵君に関する流言飛語を実践すると、魏の安釐王に疎まれた信陵君が国政の中枢から外されたため、秦は危機を脱することができた。

統一戦争

蓁の統一戦争による領土の拡大
始皇帝

紀元前247年秦王政が13歳で即位するも、実質的な権力は商人の身から先代王の宰相となっていた相国呂不韋が握っていた。紀元前245年、魏と初陣。韓へも侵攻。紀元前241年、趙・楚・魏・韓・燕[注 8] の五カ国合従軍が攻めてきたが、函谷関の戦いで撃退した[5][6][7][8][9]。その後も王弟の長安君成蟜の反乱や母の趙姫と愛人の嫪毐の反乱が起きた[10]紀元前238年に嫪毐の乱に連座して呂不韋が失脚し、政が実権を掌握した。

韓と趙の滅亡

紀元前236年、趙の王翦桓齮楊端和が落とし、統一戦争が始まった[注 9][11]紀元前234年に桓齮が平陽の戦いで敵将扈輒を討ち取り趙兵10万人を斬首した[12][13]紀元前233年、桓齮は再び出兵し宜安・平陽・武城の3城を取り、再び趙軍を破りその将を討ち取った[14]。同年、韓の公子(君主の子)である韓非との接見で、法を説かれた政は大いに感服した。しかし、その韓非を自害に追い込んだ李斯が丞相に任じられると、国力増強に貢献した。

しかし、肥下の戦いで桓齮は敗走し、一説では李牧に討たれた[15]。趙は秦に占領されていた土地を取り戻し、李牧は武安君に封じられた[16][17][18][19]。また、紀元前232年にも番吾の戦いでも李牧に敗れた。

紀元前230年内史騰が韓を滅ぼした[20][21][22]

紀元前229年、王翦の策により、李牧は誅殺され、司馬尚は更迭された[15][20][23][24]

紀元前228年、趙を滅ぼした。逃げ延びた趙の大夫らは代の地で幽繆王の兄の公子嘉を擁立し代国とした[注 10][20][21][22]

燕との戦いと、魏の滅亡

紀元前227年、燕の太子丹刺客荊軻を送りこんだ。政の暗殺に失敗し、難を逃れた政は激怒した。紀元前226年、燕を攻め滅亡寸前に追い込んだ。燕王喜らは遼東に逃亡した。

紀元前225年、魏の都の大梁を攻め、魏を滅ぼした[25][26][22]。これにより三晋はすべて滅んだ[22]

楚と燕、斉の滅亡

同年、李信蒙恬に侵攻したが項燕の奇襲により、大敗した[27][28]

紀元前223年、秦の将軍王翦が楚を滅亡させ[22]紀元前222年に代と燕を滅ぼし[29][注 11][30][22]紀元前221年には斉を滅ぼし中国を統一した[30][22]

中華統一

秦王政は中華統一後、自ら皇帝を名乗ったが、これを中国で初めて称したことから、始皇帝(秦始皇)と呼ばれた[31]。この称号は、伝説上の聖王である三皇五帝からとったものとも言われるが、『史記』秦始皇本紀によると、大臣や博士たちが「古に天皇てんこう、日本の天皇とは別)、地皇泰皇が有り、その内で最も貴い泰皇を名乗りましょう」と勧めたが、政は「泰皇の泰を去り、古()の君主が名乗っていた帝を付し、皇帝と名乗ろう」としたものと有る。

始皇帝は度量衡・文字の統一[32]、郡県制の実施など様々な改革を行った[31]。また、匈奴などの北方騎馬民族への備えとして、それまでそれぞれの国が独自に作っていた長城を整備し万里の長城を建設、それに加えて阿房宮という増大な宮殿の建築も行った。万里の長城や阿房宮の建設には主に農民を使役させていた。なお焚書坑儒などの思想政策も断行したが[33]、ただでさえ過酷な労働と極度の法治主義に儒教弾圧まで加えたことで、全国の不満を高めてしまい、のちの反乱の芽を育てる原因となってしまう。

匈奴に対しては、蒙恬を派遣して、北方に撃退した。さらに、南方にも遠征し、現在のベトナム北部まで領土を広げた。このとき、南方には、南海郡(現在の広東省広州市)・桂林郡(現在の広西チワン族自治区桂林市)・象郡(現在のベトナム北部、前漢以降は日南郡と呼んだ)の三つの郡が置かれた。これは、中国王朝による南方支配の始まりでもある。

秦朝の行政区分

秦朝は全国を36郡に分け、中央政府が支配する領土を広げるごとに、新たな郡を次々に置いた。五嶺の南、南越を支配した領土には、南海・桂林及び象郡の3郡を、北に匈奴を攻めて陰山以南を切り取った地には九原郡(現在の包頭市南西)を置いた。

また不老不死に関心を持ち始めた始皇帝は国外への探索を命じるほどで、配下の中には徐福のように船で日本まで出向いたとされる者もいる。しかし必要とあらば自らも現地に赴くほどの過労や人体に有毒な水銀すら不老不死の薬と信じて服用していた始皇帝は、逆に自身の寿命を縮めてしまう。

混乱と滅亡

秦末の反乱

紀元前210年、始皇帝が死去した。巡幸中での始皇帝の死去を丞相李斯と共謀して隠したのが、身辺の世話をしていた宦官趙高で、長男の扶蘇ら始皇帝の公子12人公女10人をはじめ、その臣下、血縁者数万人を処刑し、暗愚な二世皇帝を傀儡として、権力をほしいままにして暴政を布いた。始皇帝が死んだことでたがが緩み、翌年には陳勝・呉広の乱が勃発、全国に飛び火して、騒乱状態となった。

二世皇帝と趙高から討伐軍の将軍に抜擢された章邯は軍事的能力を発揮し、陳勝軍を撃破すると、さらにその後を受けた項梁軍も撃破した。しかし、項梁の甥の項羽との決戦に敗れ、捕虜となる。その後、投降した秦兵20万も咸陽に向かう途中で、造反の気配を見せたと誤解した項羽によって穴埋めに遭い、殺されてしまった。

その間、李斯を冤罪で殺害し権力を独占した趙高だったが、章邯の大敗と、さらには劉邦が咸陽近くにまで迫っていることを聞き、狼狽する。そこで二世皇帝に暴政の汚名を着せた上で暗殺し、子嬰を王に立てて民意の安定を図るも、子嬰らによって誅殺された。

紀元前206年、咸陽へ入城した劉邦に子嬰が降伏したことで、秦は滅亡した。劉邦から生命を保証された子嬰だったが、後から咸陽にやってきた項羽によって、一族もろとも殺害されてしまう。その上、阿房宮から美女や財宝を略奪されて、火をかけられた咸陽は廃墟となった。そして、項羽は秦の土地を三つに分けて、雍王(章邯が王となる)、塞王(司馬欣が王となる)、翟王(董翳が王となる)が王に封じられ、三秦と名付けられた。

政治

秦の制度の多くは漢によって引き継がれ、共通する部分は多い。漢の治世が前後で約400年も続いた理由の一つは、人民の反発を受けることなく秦の制度を踏襲できたことが挙げられる。

秦の成立は単なる中国統一と言うことに終わらず、皇帝号の創始・行政区分の確立・万里の長城の建築などの点で中国と呼ばれる存在を確立したという意味で非常に大きい。そのために秦以前のことを先秦時代と呼ぶこともある。

官制

秦の官制は前漢と同じく丞相(首相)・太尉(軍事)・御史大夫(監察・あるいは副首相)の三公を頂点とする三公九卿制である(詳しくは前漢を参照)。

地方制度では商鞅の改革時に全国を31(あるいは41)のに細分し、それぞれに令(長官)と丞(副長官)を置いた。統一後に李斯の権限により、この制度をさらに発展させたのが郡県制である。県の上に上級の行政単位であるを置き、郡守(長官)・丞(副長官)・尉(軍事担当)・監(監察官)をそれぞれ置いた。県の長官・副長官は変わらず令と丞である(区別して県令・県丞と呼ばれることもある)。統一すぐには旧制に倣った封建制の採用も考えられたことがあったが、李斯の反対により郡県制が採用され、全国に36の郡が置かれたと言う。この郡県制も基本的には漢によって引き継がれ、これ以降の中国の地方制度でも基本となっている。

法制

秦といえば商鞅により作られた法家思想による厳しい律令国家であるというイメージだが、実際にどのように法律が運用されていたかは資料が乏しく分からないことも多い。

漢の蕭何は劉邦に伴って咸陽に入城した際に秦の書庫から法律の書物を獲得し、後にこれを元として「律九章」と呼ばれる法律を作ったという。であるから漢初の法律は秦の法律を基本としていると考えて良いだろう。この「律九章」は盗・賊・囚・捕・雑・具・興・厩・戸の九律があったと『晋書』にはある。しかしこの記載が『漢書』にはないので、この記事自体を疑う声もあるが、ともあれ秦の法律に関する資料の一つである。

そして秦の法律に関する一次資料として『睡虎地秦簡』と呼ばれるものがある。これは1975年湖北省雲夢県で発掘された秦の法官であったと思われると言う人物の墓に入れてあった竹簡群で、秦の法律に関する事柄が記載されている。

経済

始皇帝は中国統一後に度量衡の統一、それまで諸国で使われていた諸種の貨幣を廃止して秦で使われていた半両銭への統一、車の幅の統一などを行った。

ただし、近年の研究や出土史料によれば、一般に言われる始皇帝によるとされる、度量衡の統一や過酷な法律については、再考の余地があるようである。ことに、始皇帝によって発行された統一通貨・半両銭は、秦が本来統治していた地域以外では、あまり出土しておらず、『史記』の記述によれば、始皇帝は通貨の鋳造・改鋳は行ってはおらず、それが行われたのは、二世皇帝の即位直後である。

文化

統一前の秦に関する資料として石鼓文(せっこぶん)・詛楚文(そそぶん)と呼ばれるものがある。

石鼓文は鼓の形をした石に文字が刻まれたものであり、現在は北京故宮博物院に保存されている。発見されたのは陝西省鳳翔県と言われており、成立時期は穆公以前の時代と考えられている。その内容は宮中での生活や狩猟の様子などを韻文にして書かれている。

兵馬俑

詛楚文は秦の強敵であった楚を呪詛する内容であり、こちらは現在は失われているが、内容は写されて現在に伝わっている。

この二つに使われている書体は秦が独自に作ったものであり、この書体を石鼓文と呼んでいる。始皇帝は統一時に書体も改めて新しい篆書(てんしょ)と言う書体を流通させた。

思想的には法家が当然強いが、道家も強かったようである。この両者は思想的に繋がる部分があると指摘されており、『史記』で司馬遷老子韓非子を『老子韓非列伝』と一つにしてあることもこの考えからであろう。後に法家と道家を混交したような黄老の道と呼ばれる思想が前漢初期の思想の主流となっている。

世界遺産に登録されている始皇帝陵は、始皇帝が13歳の時から建築が開始されたもので、20世紀後半になって発掘され、今まで不明瞭だった秦の時代の文化が窺えるようになっている。

歴代君主

伝説時代(趙氏の祖先)

祖先神話 備考
女脩中国語版 顓頊の苗裔
大業中国語版
大費(柏翳) 帝舜から嬴姓を賜う
大廉中国語版 鳥俗氏(鳥洛氏)の始祖
*若木 費氏の始祖

嬴爾成
嬴高
嬴磷
中衍中国語版
嬴子豊
嬴謝
戎胥軒中国語版
中潏中国語版
蜚廉中国語版 両子:悪来(秦氏・梁氏の始祖)、季勝中国語版(趙氏の始祖)

(ここまでは趙の祖先神話である)

伝説時代

伝説時代
悪来(革)
女防中国語版
旁皋中国語版
太幾中国語版
大駱中国語版

(秦は分家であり本家である趙氏の配下として寄寓していた)

秦君

秦子 統治年数
非子(秦嬴) 紀元前905年 - 紀元前858年
秦侯中国語版 紀元前857年 - 紀元前848年
公伯中国語版 紀元前847年 - 紀元前845年
秦仲 紀元前844年 - 紀元前822年
荘公 紀元前821年 - 紀元前778年

秦伯

秦伯 統治年数
襄公 紀元前777年 - 紀元前766年
文公 紀元前765年 - 紀元前716年
憲公 紀元前715年 - 紀元前704年
出子 紀元前703年 - 紀元前698年
武公 紀元前697年 - 紀元前678年
徳公 紀元前677年 - 紀元前676年
宣公 紀元前675年 - 紀元前664年
成公 紀元前663年 - 紀元前660年
穆公 紀元前659年 - 紀元前621年
康公 紀元前620年 - 紀元前609年
共公 紀元前608年 - 紀元前604年
桓公 紀元前603年 - 紀元前577年
景公 紀元前576年 - 紀元前537年
哀公 紀元前536年 - 紀元前501年
恵公 紀元前500年 - 紀元前491年
悼公 紀元前490年 - 紀元前477年
厲共公 紀元前476年 - 紀元前443年
躁公 紀元前442年 - 紀元前429年
懐公 紀元前428年 - 紀元前425年
霊公 紀元前424年 - 紀元前415年
簡公 紀元前414年 - 紀元前400年
恵公 紀元前399年 - 紀元前387年
出公 紀元前386年 - 紀元前385年
献公 紀元前384年 - 紀元前361年
孝公 紀元前361年 - 紀元前338年

秦王

秦王 統治年数
恵王 紀元前337年 - 紀元前311年
武王 紀元前310年 - 紀元前307年
昭王 紀元前306年 - 紀元前251年
孝文王 紀元前250年[注 12]
荘襄王 紀元前249年 - 紀元前247年
趙政 紀元前246年 - 紀元前221年

皇帝

皇帝 統治年数
始皇帝[注 13] 紀元前221年 - 紀元前210年
二世皇帝 紀元前209年 - 紀元前207年

秦王

統治年数
子嬰[注 6] 紀元前207年[注 14]

脚注

注釈

  1. ^ 前905年、周の孝王に仕えていた非子が馬の生産を行い、功績を挙げたので嬴の姓を賜り、秦の地に封ぜられた。
  2. ^ 前770年(平王元年)、襄公は伯爵となった。
  3. ^ 325年(顕王44年)、恵王は王となった。
  4. ^ 前288年(赧王27年)、昭王は西帝となった。
  5. ^ 前221年に始皇帝は中華を統一して大秦帝国を創立。
  6. ^ a b 皇帝ではなく秦王を称した。
  7. ^ この時代の中国では「姓」と「氏」は別である。秦の家系は遠祖「革」以来一貫して姓は「嬴姓」であり、氏は「趙氏」である。なお通常、男性は「氏」を、女性は「姓」を名乗ったので、始皇帝が「嬴政」と自称したり人から呼ばれたりしたことはありえない(正しくは「趙政」)。
    女防中国語版旁皋中国語版,旁皋生太幾中国語版,太幾生大駱,大駱生非子造父中国語版之寵,皆蒙趙城,姓趙氏
    秦之先為嬴姓。其後分封,以國為姓,有徐氏、郯氏、莒氏、終黎氏、運奄氏、菟裘氏、將梁氏、黄氏、江氏、修魚氏、白冥氏、蜚廉氏、秦氏。然秦以其先造父封趙城,為趙氏。司馬遷史記』秦本紀)
  8. ^ 『史記』始皇本紀ではとなっている。
  9. ^ 鄴攻めではなく平陽の戦いを統一戦争の始まりとすることもある。
  10. ^ 代は燕と連携をとり秦に対抗する。王賁により代王嘉が捕虜になる紀元前222年まで命脈を保った(燕攻略も参照)。
  11. ^ この時点で趙の滅亡とすることもある。
  12. ^ 即位して3日後に死去した。
  13. ^ 中国統一後に皇帝を称した。
  14. ^ 在位46日。

参考文献

  1. ^ 鸟虫篆文体
  2. ^ 史記 巻四 周本紀』:幽王以虢石父為卿,用事,国人皆怨。石父為人佞巧善諛好利,王用之。又廢申后,去太子也。申侯怒,與繒・西夷犬戎攻幽王。幽王挙烽火徴兵,兵莫至。遂殺幽王驪山下,虜褒姒,盡取周賂而去。於是諸侯乃即申侯而共立故幽王太子宜臼,是為平王,以奉周祀。
  3. ^ 史記 巻四十二 鄭世家』:二歳,犬戎殺幽王於驪山下,並殺桓公。
  4. ^ 佐藤信弥 2016, pp. 209–210.
  5. ^ 島崎晋 2019, pp. 79–81.
  6. ^ 史記 巻六 秦始皇本紀』:(始皇)六年,韓・魏・趙・衛・楚共撃秦,取寿陵。秦出兵,五国兵罷。
  7. ^ 史記 巻四十三 趙世家』:(悼襄王)四年,龐煖将趙・楚・魏・燕之鋭師,攻秦(蕞),不抜;移攻斉,取饒安。
  8. ^ 史記 巻四十 楚世家』:(考烈王)二十二年,與諸侯共伐秦,不利而去。
  9. ^ 史記 巻七十八 春申君列伝』:攻秦至函谷関。
  10. ^ 島崎晋 2019, pp. 32–34.
  11. ^ (中国語) 秦滅趙之戦 [Qin's conquest of Zhao] (wiki), Hudong Baike, http://www.hudong.com/wiki/秦灭赵之战 
  12. ^ 『史記』秦始皇本紀「十三年,桓齮攻趙平陽,【正義】:括地志云:「平陽故城在相州臨漳県西二十五里。」又云:「平陽,戦国時属韓,後属趙。」殺趙将扈輒,【正義】:「扈音戸。輒,張猟反,趙之将軍。」斬首十万。王之河南。正月,彗星見東方。十月,桓齮攻趙。十四年,攻趙軍於平陽,取宜安,【正義】:括地志云:「宜安故城在常山城県西南二十五里也。」破之,殺其将軍。桓齮定平陽、武城。【正義】:「即貝州武城県外城是也。七国時趙邑。」」
  13. ^ 『史記』廉頗藺相如趙奢李牧列伝「七年,秦破殺趙将扈輒于武遂,斬首十万」
  14. ^ 『史記』趙世家「二年,秦攻武城,扈輒率師救之,軍敗,死焉。三年,秦攻赤麗、宜安...」
  15. ^ a b 巻二十一 趙策四
  16. ^ 資治通鑑 巻六 秦紀一』:桓齮伐趙,敗趙將扈輒於平陽,斬首十萬,殺扈輒。 〔冬,十月,桓齮復伐趙〕桓齮伐趙,〔殺其趙將〕,取宜安、平陽、武城。〔趙王以李牧為大將軍,戰於宜安、肥下,秦師敗績,桓齮奔還。趙封李牧為武安君〕。
  17. ^ 史記 巻六 秦始皇本紀 第六』:十三年,桓齮攻趙平陽,殺趙將扈輒,斬首十萬。王之河南。……十月,桓齮攻趙。十四年,攻趙軍於平陽,取宜安,破之,殺其將軍。桓齮定平陽、武城。
  18. ^ 史記 巻八十一 廉頗藺相如列伝』:後七年,秦破殺趙將扈輒於武遂,斬首十萬。趙乃以李牧為大將軍,撃秦軍於宜安,大破秦軍,走秦將桓齮。封李牧為武安君。
  19. ^ 史記 巻四十三 趙世家』:二年,秦攻武城,扈輒率師救之,軍敗,死焉。三年,秦攻 赤麗、宜安,李牧率師與戰肥下,卻之。封牧為武安君。
  20. ^ a b c 秦滅韓和破趙”. 中華文化信息网. 2015年9月23日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月3日閲覧。
  21. ^ a b Li & Zheng 2001, p. 184.
  22. ^ a b c d e f g 寺田隆信 1997, pp. 48–49.
  23. ^ 廉頗藺相如列傳第二十一
  24. ^ 趙世家第十三
  25. ^ Li & Zheng 2001, p. 187.
  26. ^ (中国語) 秦滅魏之戦 [Qin's conquest of Wei] (wiki), Hudong Baike, http://www.hudong.com/wiki/秦灭魏之战 
  27. ^ 史記』楚世家
  28. ^ 秦滅楚 Archived 2015-09-23 at the Wayback Machine. 中華文化信息网
  29. ^ 馮夢竜東周列国志』“王賁兵渡鴨緑江,圍平壌城,破之,虜燕王喜,送入咸陽,廢為庶人。”但純属小説家之言,不足為信。
  30. ^ a b 秦滅燕、趙和破斉 Archived 2015-09-23 at the Wayback Machine. 中華文化信息网
  31. ^ a b Duiker, William J. Spielvogel, Jackson J. Edition: 5, illustrated. (2006). World History: Volume I: To 1800. Thomson Higher Education publishing. ISBN 0495050539, 9780495050537. pg 78.
  32. ^ 柿沼2015
  33. ^ Ren, Changhong. Wu, Jingyu. (2000). Rise and Fall of the Qin Dynasty. Asiapac Books Pte Ltd. ISBN 9812291725, 9789812291721.

参考文献

関連項目

外部リンク

先代
戦国時代
紀元前221年 - 紀元前206年
次代
前漢

秦(しん)

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キングダム (漫画)」の記事における「秦(しん)」の解説

中華西端大国首都咸陽昭王の代に六大将軍働きによって大きくその勢力伸ばした七国中でも一、二を争う強国。その強大振りから、一時期は「西帝」とよばれた程である。作中でも天下統一狙い活発な軍事活動続けてはいるが、昭王時代より武威には陰り見える。荘襄王の代に丞相となった呂不韋が国の実権握っており、大王派との間で政争続いていたが、嬴政加冠の儀の際における政変により、大王派が実権取り戻している。歩兵における什伍制度代表されるように、七国中最も論功行賞制度確立されている。 六大将軍ろくだいしょうぐん) 昭王によって「戦争の自由」という権利与えられた秦の6人の大将軍。彼らの存在によって、かつての秦は中華で最も危険な国とされていたが、昭王亡き後はその名を継ぐ者現れず、その武の威光失われている。呂不韋によると、六大将軍制は常に兵糧兵士補充を必要とし、国に著し負担与え、また独立色を強め制度のために謀反恐れが常に付きまとうとされ、昭王と六将の間にあった忠誠心があってこそ成り立っていたという。構成員白起筆頭として王騎・摎・王齕胡傷司馬錯唯一存命していた王騎も作中没した。始皇十三年に、政により六代将軍制の復活宣言蒙武・騰・王翦楊端和桓騎の5人が任命されたが、6人目は他の5人と比肩する者がまだいなかったため空席となっている。 飛信隊(ひしんたい初陣での戦果で信が百人となった時に発足した特殊部隊で、発足初戦の馬陽戦において王騎から「飛信隊」の名を授かる発足当初一癖も二癖もある荒くれ百姓中心とした特殊百人隊で、渕、羌瘣2人副長としていた。百姓ゆえに軍装充分に整わぬばかりか騎馬や弓に長けた配下など皆無等しく、剣と頼った白兵戦戦っていた。馬陽後には三百人隊へと増員され、さらに山陽攻略戦では進軍中に特例として臨時千人隊へと増員増員され隊員は元郭備隊の隊員であり、郭備隊副長楚水副長加えた本戦では輪虎を討ち取り、その功で正式に千人将として認可される羌瘣一時離脱。そのため策略を練ることの出来人物がいなくなり苦戦が続く状態であったが、後に河了貂が軍師として参入し改善した対合従軍戦では討ち麃公から兵千人補給され実質二千人隊となった対合従軍戦後論功行賞によって三千人隊へと増員し、元麃公軍岳雷率い五百人を加える。彼らは後に乱戦特化兵「飛麃」と呼ばれるようになった成蟜反乱の頃には隊に復帰した信が四千人将、さらに羌瘣千人将へと昇進し五千人隊となっている。著雍攻略戦では霊凰を討ち本陣落とした功により信が五千人将、羌瘣三千人将へと昇進し八千人隊となった黒羊戦後に元桓騎軍であった那貴とその一家新しく飛信隊加入し、さらに新たに募兵行い選りすぐり千人新兵が加わる。 鄴攻略戦では岳嬰趙峩龍さらには龐煖討ち取り、信(李信)が将軍羌瘣五千将に昇進し合わせて一万五千人の軍となり、その後羌礼加入する三百人隊の時から前線ではその強さ恐れられている一方で決し略奪犯さないことでも有名。剛力ごうりき羌瘣考案した騎馬戦法。伍二組で十人固まって盾を構え陣形で、突撃して来る騎馬一丸と壁になって防御する上手く受ければ敵騎馬を弾いて落馬させることが出来るが、その分反動大きく負傷者も出やすい。 玉鳳隊ぎょくほうたい) 王賁初陣と共に百人隊として発足した特殊部隊で、番陽を副長としている。山陽攻略戦では三百人隊として臨み進軍中に特例として臨時千人隊へと増員戦後正式に千人将として認可されるその後山陽平定の功で二千将に昇進合従軍戦で王賁臨時五千人の指揮任され戦後三千将に昇進する。著雍侵攻戦の頃には王賁は四千人となっており、さらに関常率い千人隊増援加え五千人隊となり著雍戦を臨む。そして紫伯を討ち取り、その功で王賁五千将に昇進する鄴攻略戦では秦軍右翼活躍しさらに尭雲討ち取り将軍へと昇進一万の軍となりさらに亜光軍から三千騎を率いて亜花錦移籍したことで更なる活躍をする。龍指(りゅうし撓る様な軌道を突く王賁槍術一つ龍巣りゅうそう) 目に留まらない速さ突き続け王賁槍術一つ楽華隊(がくかたい) 蒙恬率い特殊部隊で胡漸、陸仙を副長としている。韓侵攻戦で蒙恬千人となった祖父蒙驁により三百人隊に留め置かれる山陽攻略戦では進軍中に特例として臨時千人隊へと増員戦後正式に千人隊として認可される対合従軍戦で蒙恬臨時五千人の指揮任され戦後二千将に昇進嬴政加冠編後の時点では四千人となっている。鄴攻略戦の時点では五千人将となっており、開戦初日秦軍左翼危機救ったことで臨時将軍任命されるその後蒙恬親代わり副長の胡漸を失うが、戦後正式に将軍へと昇進一万の軍となりさらに蒙武軍から剛将愛閃移籍したことで更なる活躍をする。 後宮(こうきゅう) 秦において三千人を超える宮女宦官から成る城で、宮女のほとんどが名家出であることから、それらを束ねたならば絶大な力を要するとされる呂不韋でさえ手を出しあぐねる強大な勢力であり、政陣営呂氏陣営争いにも不干渉貫いていた。しかし、実際長の太后呂不韋手を結んでおり、裏から支援していた。 三大宮家さんだいみやけ) 太后の下で後宮仕切る侍女後ろ盾となっている実力者。氾家、介家、了家の三氏。 宦官(かんがん) 去勢した官吏男子禁制後宮唯一出入り認められている男性官吏であり、一様に縦に開いた覆面被っている。

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