秦氏とは? わかりやすく解説

はた【秦】


はたうじ 【秦氏】

秦は古くハダ秦の始皇帝の裔だとか辰韓国王の裔だとか諸説がある。応神天皇の時、一族の長だった弓月君一二七県の百姓連れて来朝し子孫織物生産を業としたという。賀茂松尾稲荷の神を崇め松尾稲荷両社神職に秦氏が多い。浄土宗開祖法然の母も秦氏の出だったという。

秦氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/08/28 00:51 UTC 版)

秦氏

氏神とする木嶋坐天照御魂神社
京都府京都市
氏姓 太秦公
秦造
宿禰
忌寸
氏祖 弓月君
始皇帝後裔)
種別 諸蕃
本貫 豊前国
出雲国
伊予国
阿波国
吉備国
針間国
山背国葛野郡
山背国紀伊郡
大和国
河内国讃良郡
丹波国桑田郡
美濃国加茂郡
相模国大住郡など
著名な人物 秦河勝
後裔 惟宗朝臣
東儀家地下家
小畑家(地下家)
瀬尾家(地下家)
土山家(地下家)
三上家(地下家)
調子家(地下家)
藤木家(地下家)
松室家(地下家)
平田家(地下家)
石川家(地下家)
大石家(地下家)
松尾家(社家
東家(社家
南家(社家)
西大路家(社家)
大西家(社家)
羽倉家(社家)
荷田家(社家)
川勝氏武家
大蔵氏(武家)
松下氏(武家)
島津氏(武家)など
凡例 / Category:氏

秦氏(はた/はだうじ・はた/はだし[注釈 1])は、「秦」をの名とする氏族東漢氏などと並び有力な帰化氏族である。平安時代の『新撰姓氏録』では始皇帝の末裔とされるが、実際の出自については新羅系氏族とする説が有力である。山城国葛野郡太秦(現・京都府京都市右京区)を本拠地とし、聖徳太子に仕えて広隆寺を建立した秦河勝が著名。延暦年間以前の名前が明らかな人物は1,147名に達し、古代では最大の氏族とされる[1]

概要

日本列島へは古くから朝鮮半島大陸から人々が継続的に来住し、日本人と同化していったが、ヤマト王権の成立以後の渡来人たちは漢人(あやひと)・秦人(はたひと)といった政治的グループを作って土着することとなった[2]。継続的に日本へ渡来する人々の波は4世紀末から5世紀初頭、5世紀後半から末期、7世紀後半にピークがあったとみられる[3][4]。そのような帰化人集団が共通の祖先を有する氏族として編成されるのは5世紀後半と考えられている[5]

秦氏は東漢氏と並んで特に大きな勢力を有した渡来系氏族で[3]、古代の秦氏関係者の分布は確認できるだけで32ヶ国81郡に及んでいる[6]応神天皇の時代に来朝した始皇帝の子孫、弓月君を祖とすると称したが、5世紀中ごろに新羅から渡来したという説が有力であり、「ハタ」の呼称も古代朝鮮語由来という説が唱えられている[7]#出自節を参照)。

氏族の特徴としては、その集団の大きさに加えて、画一性のなさが挙げられる。例えば秦氏の宿禰忌寸など多岐に及び、さらに姓のない者も多く確認できるように氏族の姓に統一性がなく、これは秦氏が非単一的氏族であったことを示していると解されている[8]。これは渡来時期も異なる別個の氏族をヤマト王権が把握分類のため秦氏および東漢氏に統合した結果だと指摘されている[9]。このように秦氏は王権によって人為的に統合された集団であったために、族長の地位が王権によって容易に変動させられたとされる[10]

秦氏は集団が巨大でその分布が広いため幅広い活動が確認できる。中央では雄略天皇の時代には秦酒公(さけのきみ)が秦氏の伴造として各地の秦部・秦人の統率者となり、公のを与えられた[疑問点][11]欽明天皇の時代には紀郡深草里の秦大津父(おおつち)が伴造となって、大蔵掾(おおくらのふびと)に任ぜられたという。また、これ以降秦氏の氏人は造姓を称したが、一部は後世まで公姓を称した[12]。秦氏が早くから内蔵や大蔵など朝廷の財務に関与したことは確実とみられる[13]

また土木の面で技術力を発揮し山城国嵯峨野の開発に従事し、同地を拠点とした秦河勝は秦氏の族長として広隆寺を建立するなどの足跡を残した。山城国へはのちに長岡京平安京の遷都が行われるが、これらに関与した藤原種継藤原小黒麻呂は秦氏の血縁者であり、他にも秦氏の人物が直接に造営に携わった。

秦氏はさらに、山城国地域では賀茂社松尾社稲荷社などの創祀にかかわり、これら神社の神官にもなっている[14]

地方では秦人・秦部・秦人部という部民を支配して養蚕や機織、水銀の採掘・精錬や製塩などの生産活動に従事した[15]

平安時代には多くが惟宗氏を称するようになったが、秦氏を名乗る家系(楽家の東儀家など)も多く残った。東家、南家などは松尾大社の社家に、荷田家、西大路家、大西家、森家などは伏見稲荷大社の社家となった。なお、中世になり社家を継いだ羽倉家については、南北朝の混乱時に荷田氏を仮冒したことが疑われている[16]

後に東国にも多く入ってきたとされ、秦氏は相模国秦野市)周辺地域に居住したとされる。東京都内では現在の杉並区久我山が拠点であったとされており、井の頭池より現在の玉川上水流域の北沢分水上堀、江下山堀を通る用水路を開削したと記されている(久我山の下流水域には幡ヶ谷などの地名が残されている)[要出典]

歴史

弓月君の渡来

平安時代初期の815年に編纂された『新撰姓氏録』では応神天皇14年(283年)に百済から渡来した始皇帝の3世孫、孝武王の末裔である弓月君が秦氏とされている[1][6][17]。しかしその真実性には疑問が呈せられており[18]、実際には新羅系氏族であるという説が有力である[19]。これは秦氏自らが、権威を高めるために、王朝の名を借りたというのが定説になっている[20][21]#出自節を参照)。

なお弓月君の父・功満王が仲哀天皇の時代に渡来したとする伝承も存在する(『日本三代実録元慶7年12月25日条、『広隆寺来由記』)が、これは秦氏がその渡来年代を古くするために後代造作したものと考えられている[22][5]

『新撰姓氏録』では渡来後、大和国朝妻の腋上の地に住んだとされている[23][6]。しかし同地には秦氏の痕跡は存在せず[23]山尾幸久は本来の伝承ではない可能性を指摘している[24]。これに対し加藤謙吉は古代の葛城地方には渡来人の濃密な分布が確認できる上、忍海郡栗栖郷の戸主・忍海上連薬の戸口に、天平期ごろに優婆塞として貢進された秦伎美麻呂という人物が確認できることから秦氏の腋上居住を史実と解している[25]

井上満郎は5世紀の高句麗・新羅・百済の戦乱が原因となって、朝鮮半島から秦氏を含む多くの渡来人が海を越えて日本へやって来たと指摘している[4]

治水への関与

現在の葛野大堰

古事記仁徳天皇段には秦人が茨田堤茨田三宅の造営に携わったという記述がある[26][27]河内国茨田郡には幡多郷が存在しており(『和名類聚抄』)、秦氏集団の居住地だったとみられる[26][27]。ただし茨田堤の築造と屯倉の設置は実際にはもっと遅い時期のことと考えられ、加藤謙吉は7世紀初めごろ[27]、山尾幸久は7世紀中葉[28]と推測している。

河内国讃良郡にも「太秦」の地名が存在する(寝屋川市)。河内国太秦には弥生中期頃の高地性集落(太秦遺跡)が確認されており、付近の古墳群からは5世紀から6世紀にかけての渡来人関係の遺物が出土している(太秦古墳群)。現在の熱田神社(大阪府寝屋川市)が広隆寺に記録が残る河内秦寺(廃寺)の跡だったとした調査結果がある[要出典]

政事要略』所引「秦氏本系帳」には秦氏が葛野川に堰堤を築いたという記述が見える[23][26][29][27][30]嵯峨野地域は葛野秦氏が拠点とする地だが、同地では弥生時代から古墳時代前期にかけての遺跡が確認されていないため、嵯峨野・太秦古墳群の築造と秦氏の入植には密接なかかわりがあると考えられている[31][30]。秦氏の首長の墓と推測される嵯峨野・太秦古墳群の築造時期については、田辺昭三は5世紀後半[27]京都大学考古学研究会の報告書は530年 - 540年ごろ[31]としている。

秦酒公がウヅマサの姓を与えられる

弓月君に続いて歴史に現れる秦氏の人物は秦酒公である[32][22]。『日本書紀』によれば、雄略天皇15年(471年)に秦人が散り散りになって秦造の思うままにならないことを秦酒公が嘆いたので、天皇の詔によって彼に秦の民が与えられた。酒公は180種の勝部を率いて庸調の絹・縑を朝廷に奉献してうずたかく積み上げたことから「禹豆麻佐(うづまさ)」という姓を与えられたとされる[32][33][34][35][36]。秦氏の本拠地であった山城国葛野郡(現・京都市右京区)には、現在も太秦(うずまさ)の地名が残る。

同様の逸話が『古語拾遺』『新撰姓氏録』にもある[32][36]。しかしこの逸話には庸調という後世の語などが見えることから[37]、太秦という地名の由来を付会したものだとされている[32][38]津田左右吉部民を統括する伴造にこの時期秦氏が任命されたことを示すものだと解釈したが[32][33]関晃は翌年条に漢氏を伴造にしたという話があることからその対抗上時代を遡らせたものである可能性を指摘している[32]

ウヅマサの呼称については、次に述べる欽明天皇の時代の秦大津父がウヅマサを称したとの記述はない[38]。ウヅマサと称されたことが確実なのは6世紀から7世紀にかけて活動した秦河勝(『日本書紀』皇極天皇3年条)である[38][39]。山尾幸久は酒公という人物は大裂神から造形されたものと推測している[28][22]

ウヅマサの語については古代朝鮮の地名とみる説があり、鮎貝房之進や山尾幸久は「ウツ」を「蔚珍」と同源、「マサ」は「村」の意味であると解して「ハタ」の由来である「波旦」と近接する地名に由来するとしている[38][8][40]。他方、三品彰英は単純にウヅ(貴)マサ(勝)、すなわち族長を意味する尊称であるとの解釈を示している[41][35][36][42]

雄略天皇16年(472年)条には諸国に桑を植え、秦人に養蚕・機織による調庸に携わらせたという記述がある[33]

秦大津父と大蔵

秦大津父は、『日本書紀』欽明天皇即位前紀に次のような説話的逸話が残る人物である。欽明天皇が幼いときに、秦大津父という者を寵愛すれば将来天下を握れるという夢を見たので、探させたところ山背国紀伊郡深草里で見つかった。彼を召して問うと、伊勢に商売に行った帰りに山で2匹の狼が争っているのを見かけたので、これでは漁師に2匹とも捕まってしまうからと言ってやめさせて放したと語ったところ、天皇はその報いだろうと考え大津父を傍に置いた。天皇が即位した後に大津父は大蔵の役人に任命された[43][44][45]

林屋辰三郎はこの逸話を安閑宣化両朝の内乱(継体・欽明朝の内乱)を、秦氏の財力を背景とする欽明天皇が統一したことを示す寓話と解釈したが、関晃は秦氏の政治的・経済的影響力を前提とするものだとして批判を行っている[43]

横田健一は大津父が伊勢に行き商った品は水銀だったと推測している[45]

『日本書紀』欽明天皇元年条には、秦人・漢人らを戸籍に編貫したところ、秦人の戸数は7千53戸であり、大蔵掾を秦の伴造とした、という記述がある[43][46]。大蔵掾は秦大津父を指すと考えられる[46]。前述した雄略天皇の時代に秦酒公が伴造に任命されたという記述は、欽明天皇の時代に秦氏の支配組織が成立したという史実を遡らせたものと解釈されている[46]#秦氏の支配組織も参照)。

秦大津父以降、大蔵の役人としての秦氏の活動が多くみられる。『新撰姓氏録』では雄略天皇の時代に秦酒公を大蔵の長官としたとされているが、これも史実ではなく、秦氏が大蔵に関与するようになったのは実際には欽明朝のころと推測されている[47][48]

秦河勝と聖徳太子

秦河勝は『日本書紀』に聖徳太子から仏像を賜って蜂岡寺(広隆寺)を創建したことが見える人物である[49]。また皇極天皇3年(644年)にも不尽川辺の人・大生部多を打倒して世の人から称讃されたことも確認できる[50]

秦氏は上宮王家との親密な関係を有したが、それはあくまで職務上のことであり、私的に臣従していたわけではなく、非政治的な一族であった。そのため、上宮王家が滅んだ後も秦氏が没落することはなく、蘇我氏と結びついて天武天皇に直接弾劾された東漢氏とは対象的である[51]

『日本書紀』天武天皇12年(683年)9月条に秦造姓は連姓を与えられ、さらに同14年(685年)6月に秦連から秦忌寸となったことが見える[52]

松尾大社・稲荷神社の奉斎

松尾大社

本朝月令』所収「秦氏本系帳」に、松尾大社の創建伝承がある[53]。それによれば同社は大宝元年(701年)秦忌寸都理によって勧請され、秦忌寸知麻留女が初めて御阿礼を立て、知麻留女の子・秦忌寸都賀布が戊午年(養老2年、718年となって以来その子孫によって祀られているという[54][53]。なお松尾大社祀官家の家伝では家祖・徳山秦忌寸都理を神饒速日命の後裔としており、『新撰姓氏録』にも山城国神別として神饒速日命の後という秦忌寸を載せる[55]

「秦氏本系帳」では賀茂神社の創建にまつわる別伝として、上賀茂社下鴨社・松尾社ははじめは秦氏によって祭祀されていたが、賀茂氏が秦氏の娘婿となったことから鴨祭の祭祀を譲ったとされている[56][57]

また『山城国風土記』逸文[注釈 2]や『二十二社註式』によれば、伏見稲荷大社和銅4年(711年)秦中家忌寸の遠祖・秦公伊侶具という人物に由来し、秦氏が祭祀しているという[59][60][58]

恭仁京・長岡京・平安京の造営

続日本紀天平14年(742年)8月条には恭仁京造宮録として功績を挙げた正八位下・秦下島麻呂が、従四位下の位と太秦公の姓を与えられたことが見える[61][62][63]。太秦公宿禰は『新撰姓氏録』左京諸蕃上の筆頭に見えることから、島麻呂は秦氏の宗家であり、『新撰姓氏録』の編纂までに宿禰の姓を与えられたものと考えられる[61]。山尾幸久は、島麻呂は秦下を称することから河内国茨田郡幡多郷の秦下氏の出身であり、この時点までに秦氏の宗家としての地位が山城秦氏から河内秦氏に移転していたとする[64]。他方、中村修也は、外孫が葛野麻呂を称していることなどから島麻呂は山背国葛野郡を本拠としていたと推測する[65]。加藤謙吉も、島麻呂が恭仁京造営のための動員力を発揮できたのは山背国を本拠地としていたからこそであると指摘している[10]

長岡京造営の中心となった藤原種継の外祖父は秦朝元である[66][67][68]。また長岡の宮城を築くのに功績のあった山背国葛野郡の正八位下・秦忌寸足長は従五位上(『続日本紀』延暦4年正月条)を授けられている[69][70]。さらに従七位上太秦公忌寸宅守[注釈 3]という人物も太政官院の垣を築いた功績で従五位下を授けられている(延暦4年8月)[69][29]

種継の暗殺などにより長岡京の造営は取り止められ、さらに平安京への遷都が計画されることとなるが、これにも秦氏の関与が確認できる。すなわち『日本紀略延暦12年(793年)正月15日条に、藤原小黒麻呂らに山背国葛野郡宇太村の地を遷都の準備として見立てさせたとの記述がある[71][72]。この時期の『日本後紀』には散佚が多いため平安京造営過程には不明な点が多いが、延暦13年(794年)に死去した小黒麻呂が和気清麻呂に引き継がれる前の初代造宮使長官であったと考えられる[71]。この小黒麻呂は前述秦島麻呂の娘を室としており、2人の間の子は秦氏の本拠地・葛野の地名をとって葛野麻呂と称している[66][71][73]。また造宮少工にも秦忌寸都岐麻呂という人物が就いている[74]。都岐(伎)麻呂は大同元年(806年)に「秦宿禰」として見えることから、これ以前に忌寸よりも上位の宿禰の姓を与えられていたと考えられる[52]

これらの造営事業への秦氏の関与については、地理的事情の他に、経済的貢献があったことを喜田貞吉や林屋辰三郎は推測したが、加藤謙吉はむしろ版築などの技術面や労働力での貢献であったと解している[27]

出自

古事記応神天皇条に「秦造の祖、漢直の祖」らが渡来したとの記述がある[75][76]。また『日本書紀』には応神天皇14年(283年)に弓月君百済から来て自国の120県の民を率いて帰化したいが新羅人が邪魔をするので加羅国に留まっていると言ったため、葛城襲津彦を派遣したが3年戻らなかったので、応神天皇16年(285年)に平群木菟宿禰的戸田宿禰に精兵を与えて新羅王に謝罪させ弓月の人夫と襲津彦を連れ戻ったとある[77][6][5]。弓月君(融通王)は『新撰姓氏録』によれば始皇帝の3世孫、孝武王の末裔とされており、これに従えば中国系氏族ということとなる[1][6][17]。しかし秦氏の先祖が始皇帝であるとの記述は平安時代の『新撰姓氏録』が初出であることから疑問が呈されており[78]、加えて『日本書紀』に見える弓月君の渡来を新羅が妨害したという記述も当時の状況にそぐわず、弓月君の実在性や渡来年代にも疑問の余地がある[75]。また『日本書紀』の逸話は東漢氏の祖・阿知使主の逸話とよく似ており、東漢氏よりも遅れて力を持った秦氏がその対抗上創作したものという説が示されている[79][6]

  • 中国系渡来氏族説。『新撰姓氏録』の始皇帝始祖説のほか、秦もしくは他の中国諸地域の住民にルーツがあるとみるもの。『魏志』韓伝や濊伝には秦代にの人々が多数朝鮮に逃れたとの記述があることから、5世紀初頭に高句麗の南下を避けて文氏や東漢氏とともに日本へ渡った朝鮮半島在住の中国系住民であるとする(西本昌弘[80]井上秀雄は辰韓の住民の先祖を秦に求めるのは中国で生じた造作であるという批判を行っている[81]
  • 新羅系渡来氏族説。聖徳太子に仕えた秦河勝新羅仏教系統を信奉していたが、これは蘇我氏漢氏が百済仏教を信奉していたのと対照的である[82]。また、方位では東南東を意味する“辰”の辰韓は中国王朝からは秦韓と呼ばれたことから秦の末裔ではないかと思われたこと。平野邦雄によると秦の徐福が海外に派遣されたことは当時の中国王朝の文献によく言及されるほど有名な物語であって、徐福は実際に海外にはたどり着けなかったものの、物語が誤伝され辰韓は発音が似た秦韓に間違えて呼ばれていたという(平野邦雄上田正昭[75]直木孝次郎[83][84]
  • 百済系渡来氏族説。「弓月」の朝鮮語の音訓が(: 달궁、クンタル)であり、百済の和訓「くだら」は「大(ク)檐魯(タラ=邑落)」に由来すると考えられることから両者は同音・同義であり、「弓月君」=「百済君」と解釈できるとする[85]。また『日本書紀』における弓月君が百済より[注釈 4]120県の人民を率いて帰化したとの所伝もこの説を補強する[85]佐伯有清によると始皇帝の苗字は氏ではなく、新羅系渡来氏族が渡来したが『新撰姓氏録』が書かれた815年、古書には辰韓が中国王朝から秦韓と呼ばれていたことから弓月君は始皇帝の末裔と思われ出自が間違っているという。(笠井倭人・佐伯有清[87]
  • 中国の西に位置する天山山脈の麓にあった弓月国を源とした一族が建国した秦韓(辰韓)を構成した国王の子孫。新羅の台頭によりその国が滅亡した際に、王であった弓月君が日本に帰化した(太田亮[88]
  • 五胡十六国時代の中国で族が興した後秦に由来する。また、羌族がチベット・ビルマ語派に属するチベット系民族であって、同言語においてハタは辺鄙の土地、ウズは第一、キは長官を意味することから、ハタのウズキとは「地方を統治する第一の長官」を意味する。同様に、マは助詞「の」、サは都を意味することから、ウズマサは「第一の都市」を指す(田辺尚雄[89][90]
  • 隋書』には、風俗が華夏(中国)と同じである秦王国なる土地が日本にあったことが紹介されている[91]

奇説として、景教キリスト教ネストリウス派)徒のユダヤ人が祖であるとする説(日ユ同祖論)が佐伯好郎によって提唱された[92]が、「秦氏=ユダヤ人景教徒」説は、殆どが語呂合わせであり[93]、説が発表された当時から現代まで一貫して否定され続けている上に、佐伯は晩年に、弟子の服部之総の「先生はどんな動機から景教碑文研究をはじめられたのでしょうか?」という質問に対し、「ユダヤ資本を日本に導入する志をたてて、そのために打った第一手が大秦氏=猶太(ユダヤ)人の着想であった」と語り、服部を仰天させている[94]

これらの説に対し、中村修也は秦氏を単一の氏族ではなく、複数回に分かれてやって来た渡来人集団と解する立場からそもそも共通の出身地を想定する前提について批判を行っている[95]

「ハタ」の呼称について

「肌膚」説

新撰姓氏録』では、秦王(弓月君の子・普洞王)が仁徳天皇に献上した糸・綿・絹・絹帛(きぬ)が柔軟(やわらか)で温煖(あたたか)であったことから、肌膚(はだ)の如しと褒め、「波多」の姓を賜ったのだとしている[8][96]。同様の由来は『古語拾遺』にも、秦酒公雄略天皇に絹・綿を献上し、「肌膚に軟らか」であったために秦を「波陀」といったと記述されている[8][96]。ただしこれは付会とみるべきと考えられる[8][96]

「機/旗/幡」説

渡来系氏族である秦氏が機織(はたおり)の技術を有していたことから「ハタ」と読むようになったという説で、古くから知られているものである[97][36][98]

しかし、秦氏が大蔵の職を司った記述が多数確認できるのに対し、蚕織との関係を示す『日本書紀』における記述は、太秦の由来を語る雄略15年条の記事を除けば皆無である[99][34]山尾幸久は、名乗りの方が先行して存在し、後に機織技術を有する集団を配下に置いたために語呂合わせによるこじつけが行われたとしている[100]

加藤謙吉は上記逸話以外にも秦氏と養蚕・機織とを結びつける史料があるとして、秦氏がヤマト王権において機織の職掌を担ったことに由来するとした[101]

朝鮮語説

ハタの語源を外国語に求める見解は古くからあり、新井白石は「波陀は韓国の語なり」としている[41]韓国語では海を指してpada(: 바다)と言うことから、これに由来するという説が金沢庄三郎によって唱えられた[102][41]。海を渡ってきたことから海を意味する語を氏族名とした、という説明がなされるが[102][41][75]、他にも多くの渡来系氏族が海を渡ってきたにもかかわらず、特に秦氏だけがこの呼称を名乗ったことの説明が不充分という指摘もある[103]

また井上秀雄は海に因む地名と解し、金官加耶国(現在の慶尚南道金海)が秦氏の出身地であるとしている[8][103]

あるいは「大・巨・多・衆」などの意味を持つ古代朝鮮語「hata」に由来するという説も存在する[95][8]

地名「波旦」説

鮎貝房之進が提唱した、『三国史記』地理蔚珍郡にみえる海曲県の古名「波旦」が秦氏の原住地であるという説[8][104]1988年に韓国慶尚北道で出土した蔚珍鳳坪碑にも「波旦」の文字が確認できる[104]。『三国史記』によればもとは高句麗の波旦県であったが、新羅の景徳王が海曲県に改名したのだという[104]。同地は5世紀後半から6世紀中葉にかけて高句麗と新羅の係争地域であった[104]。『大東地志』に海曲は徳新駅の地であると記述があり、現在の蔚珍郡遠南面徳新里にあたる[104]

その他

上記以外の語源説としては、梵語で絹布を指す「Pata」「Patta」に由来するという高楠順次郎の説や、チベット語で辺鄙の地を指す「ハタ」という語に由来するという田辺尚雄の説がある[90]

読みについて

「秦」は通常「ハタ」と清音で表記されるが、前述『古語拾遺』では「波陀」と記述していることから、「ハダ」と訓じる可能性も指摘されている[105][8]。この説は江戸時代本居宣長新井白石などが既に唱えている[90]井上満郎は、前述『新撰姓氏録』の逸話が「秦」を「はだ」と関連づけるものであり、『万葉集』にも皮膚を意味する「はだ」を「秦」で表記しているものがある(11-2399)ことから、秦を「ハダ」と読む説を提唱している[96]。他方、「陀」を清音の表記に用いた例があることや、『新撰姓氏録』の逸話を単なる付会であると解する加藤謙吉の反対説もある[8]

秦氏の系統(一覧)

天塚古墳嵯峨野を開発した葛野秦氏の首長の墓とみられている。
  • 山城秦氏 - 伴造をつとめ、秦氏の族長の地位にあったと考えられる。欽明天皇に仕えた秦大津父は深草を拠点とし、推古天皇に仕えた秦河勝は葛野を拠点としたことが確認できる。深草秦氏と葛野秦氏の関係については、首長が移住しただけで同系の一族と解する和田萃らの説と、別の勢力に首長の地位が移転したと解する加藤謙吉らの説の対立がある[106]
  • 河内秦氏 - 拠点は河内国茨田郡幡多郷付近。『新撰姓氏録』に「秦宿禰」などが見える[64]。前述のように秦島麻呂は河内秦氏の出身で秦氏の族長に昇ったとする説を山尾幸久が示しているが、反対説もある。
  • 豊前秦氏 - 正倉院文書によると豊前国の戸籍には加自久也里、塔里(共に上三毛郡=現在の築上郡)、丁里(仲津郡=現在の福岡県行橋市・京都郡みやこ町付近)[107]の秦部[108][109]や氏名が横溢している。
  • 播磨秦氏 - 拠点は播磨国赤穂郡。平城宮出土木簡に書き残されている。風姿花伝によると秦河勝はこの地域に移住したとされる。秦河勝を氏神として祭った神社として大避神社が兵庫県内に多数鎮座している。また、河勝の伝承以外にも、実際に赤穂郡周辺に秦氏がいたことが史料より確認されている[110][111][112]
    • 平城宮跡出土木簡には、年代は不明であるものの、ある木簡には、表に「播磨国赤穂郡大原」、裏に「五保秦酒虫赤米五斗」と、ある木簡には「赤穂郡大原郷 秦造吉備人丁二斗 秦造小奈戸三丁斗」と、ある木簡には「赤穂郡大原郷 戸主秦造吉備人」と記されている。
    • 延暦12年(793年)4月19日付の「播磨国坂越神戸両郷解」には、天平勝宝5年(753年)頃に赤穂の地に秦大炬という人物がいたことが記録されている。
    • 『石崎直矢所蔵文書』・『東大寺牒案』には、延暦12年(793年)の5月14日に「擬大領外従八位上・秦造(闕名)と擬少領無位・秦造雄鯖という人物がいたことが記録されている。
    • 日本三代実録貞観6年(864年)8月17日条には播磨国赤穂郡大領外正七位下・秦造内麻呂が外従五位下になったとある。
    • 平安遺文」の11世紀後半(延久3年(1071年)から承暦3年(1079年)にかけて)の東寺文書中に、赤穂郡大領または播磨国大掾であった秦為辰開発領主として開墾したとある。
    • 長和4年(1015年)11月の播磨国符に記された赤穂郡有年荘文書には、寄人41人による連名があり、その中には秦姓の人物が12人[注釈 5]いる。
    • 有年牟礼・山田遺跡からは、「秦」と漢字が刻まれた平安時代の須恵器が出土している。
    • 播磨国揖保郡少宅郷には、戸主・呉部首種麻呂の戸口として秦田村君有礒の名前が見える。
    • 同じく少宅郷には少宅秦君氏がおり、『播磨国風土記』によれば、小宅の秦君の娘と川原若狭の祖父が結婚し住んだ家を小宅と名付けたのが地名の由来であるという。
  • 美作・備前秦氏 - 上記の播磨国西部の秦氏と関連する形で、美作国備前国にも秦氏がいたことが知られている。
    • 『続日本紀』文武天皇2年(698年)4月壬辰条には、侏儒であった備前国人・秦大兄が香登臣の姓を賜っており、備前市香登本の大内神社や大酒殿趾は秦氏が先祖を祀った神社であるとされる。
    • 「大日本古文書」所収の宝亀5年(774年)3月12日付の勘案状によれば、備前国邑久郡積梨郷には秦造国足秦部国人がいたことが記されている。
    • 平城宮跡出土木簡によれば、年代は不明であるものの、備前国邑久郡旧井郷に秦勝小国がいたことが記録されている。
    • 平城宮跡出土木簡によれば、年代は不明であるものの、備前国邑久郡八浜郷の戸主・(闕氏)麻呂の戸口に大辟部乎猪がおり、「大辟部(オホサケベ)」という氏から秦氏の部民であったと考えられる。
    • 平城宮跡出土木簡によれば、年代は不明であるものの、備前国上道郡沙石郷御立里に秦勝千足秦部得丸が、同郡幡多郷に秦人(闕名)秦人部得足秦老人秦忍山が、同郡掲勢里に秦部犬養秦部得万呂がいたことが記録されている。
    • 平城宮跡出土木簡によれば、年代は不明であるものの、備前国御野郡に秦(闕名)がいたことが記録されている。
    • 岡山県長船町にある湯次神社の湯次神は弓月君であるとされる[要出典]
    • 高木大亮軒が宝永6年(1709年)に記した『和気絹』によれば、岡山市の半田山は秦氏の人間が松を植えたために秦山と呼ばれるようになったという[113]
    • 前賢故実』などによれば、美作国久米郡には秦豊永がおり、恭しく忠実な性格で、両親に孝行を尽した。両親が亡くなった後、常に親の墳墓を守り、供養を続けた。豊永の事が朝廷に伝わり、貞観7年(865年)11月に朝廷は豊永に位を授け、その労役を免除、門閭に表彰の印を掲げ、世間で知れ渡るようにしたという。豊永は三保村大字錦織の錦織神社に祀られている。
    • 美作国久米郡出身である法然の母親は秦君清刀自であるとされる。
  • 依知秦氏 - 近江国愛知郡を拠点とし、郡領氏族として繁栄した[114]楽師なども多く輩出。太秦嶋麿、楽家として栄えた東儀、林、岡、薗家など。現在の宮内庁楽部にもその子孫が在籍する[要検証]
  • 若狭秦氏 - 若狭国は現在の福井県。塩や海産物を朝廷に多く献上した地。
  • 越前秦氏 - 坂井、丹生、足羽の越前北部を基盤とした。
  • 東国秦氏 - 駿河国甲斐国相模国秦野など東日本の秦氏をまとめた名称。(東海秦氏と記述されている場合もある。)
  • 信濃秦氏 - 信濃国の国司などを務め、更級郡を拠点としたとされる[注釈 6]

(主なものを掲載。年代や書物などにより名称が異なる場合がある。)

秦氏の支配組織 

秦氏には秦人、秦人部、秦部という部民が存在したが、その分類方法は以下の通りであったとされる[115]

  • 秦人 - 秦氏の先祖とともに朝鮮からやってきて、既に養蚕機織技術などを身につけていた渡来系農民
  • 秦人部 - 秦人の後に秦氏の支配組織に加えられた在地の日本人農民
  • 秦部 - 秦人部の中でも、元々畿内や西国の豪族に支配されていたものの、国造制ミヤケ制の進展によって秦氏に管轄されるようになった集団

そして、彼らを在地で管理したのが勝姓や秦氏であった。

構図としては、まずミツキを作る秦人、農作をする秦人部や秦部がおり、在地の勝姓が彼らを統率していたとされる。そして、勝姓は在地の秦氏によって管理され、在地の秦氏は都までミツキを送り、中央の豪族であった秦氏がクラに納めていたと考えられる[116]

秦氏が創建に関係した主な神社・寺院

神社
寺院

秦氏に関する人物

平城京跡出土の木簡に記述されている秦氏
  • 秦老人 - 備前国
  • 秦忍山 - 備前国。
  • 秦大丸 - 備前国。
  • 秦勝小国 - 備前国。
  • 秦部得丸 - 備前国。
  • 秦部(犬)養 - 備前国。
  • 秦部得万呂 - 備前国。

正倉院文書に記述されている秦氏[123]

  • 秦秋庭(秦常秋庭)
  • 秦乳主(秦忌寸乳主)
  • 秦東人(秦前東人 - 「少初位上 秦前東人」)
  • 秦家主(秦部家主 - 「大初位下 秦部家主」) - 秦家主(はたのやかぬし)は、746年(天平18年)から771年(宝亀2年)まで、造東大寺司写経所で活動したことが正倉院文書から確認されている。また、2011年から4年をかけて行われた校倉造りの宝庫「正倉」の屋根修理工事の際、正倉内に積んであった空の古櫃(こき:宝物を納めていた古い木製の箱)168合を一時移動させる必要があった。このとき「八月廿一日借用紙四枚 給秦家主」という墨書が新たに見つかっている(古櫃第二十号のふたの裏)[124]

前賢故実に記述されている秦氏

  • 秦酒公(はた の さけのきみ)-【巻第一】
  • 秦河勝(はた の かわかつ)-【巻第一】
  • 秦部総成女(はたべ の ふさなりのむすめ)-【巻第四】
  • 秦豊永(はた の とよなが)-【巻第四】
  • 秦武文(はだ の たけぶん)-【巻第九】

系譜

秦氏の信頼性の高い系譜は存在しない[125]が、参考として以下の系図を示す。

末裔とされる氏族

末裔・枝氏は60ほどあるとされる[129]

末裔を称する人物

脚注

注釈

  1. ^ 清音・濁音説については#読みについて節を参照。
  2. ^ 和銅『風土記』の実際の逸文であるかは議論がある[58]
  3. ^ 中村修也は太秦公の姓や位階から島麻呂の子と推測している。
  4. ^ ただし弓月君の母国を百済以外とする解釈も可能である[86]
  5. ^ 秦得吉、秦安成、秦用成、秦時正、秦本弘、秦吉連、秦清本、秦元時、秦豊近、秦種謙
  6. ^ 上皇方に味方した(保元の乱または平治の乱)ために敗れ、土佐国に落ち延びた後に長宗我部家となったとされる。(但し、長宗我部家関連以外で信濃秦氏について言及した書物はない。)
  7. ^ 古語拾遺』に漢氏に姓を与えて内蔵・大蔵とし、秦・漢両氏が内蔵・大蔵の主鎰・蔵部となったとの記述がある[13]

出典

  1. ^ a b c 中村 1994, pp. 86–88.
  2. ^ 上田 1965, pp. 23–26.
  3. ^ a b 加藤 1998, pp. 8–10.
  4. ^ a b 井上 2011, pp. 64–71.
  5. ^ a b c 井上 2011, pp. 42–50.
  6. ^ a b c d e f 加藤 1998, pp. 23–29.
  7. ^ 都市史01 秦氏”. 京都市歴史資料館情報提供システム. 2025年8月26日閲覧。
  8. ^ a b c d e f g h i j 加藤 1998, pp. 30–39.
  9. ^ 中村 1994, pp. 86–92.
  10. ^ a b 加藤 1998, pp. 175–180.
  11. ^ 太田[1974: 1016]
  12. ^ 太田[1974: 1017]
  13. ^ a b 関 1956, p. 105.
  14. ^ 関 1956, p. 104.
  15. ^ 加藤 1998, pp. 97–130.
  16. ^ 西田長男『神道史の研究』第2巻、p86。雄山閣、1943年
  17. ^ a b 井上 2011, pp. 20–21.
  18. ^ 太田亮『姓氏家系大辞典』
  19. ^ 井上 2011, p. 164.
  20. ^ 渡来人秦氏 | 古代豪族秦氏を訪ねて | 京都じっくり観光”. www.kyotokanko.co.jp. 2025年8月22日閲覧。
  21. ^ 加藤 1998, pp. 206–220.
  22. ^ a b c 加藤 1998, pp. 145–149.
  23. ^ a b c 今井 1968, pp. 36–41.
  24. ^ 山尾 1983, p. 335.
  25. ^ 加藤 1998, pp. 165–175.
  26. ^ a b c 直木 1988, pp. 42–45.
  27. ^ a b c d e f 加藤 1998, pp. 130–144.
  28. ^ a b 山尾 1983, p. 339.
  29. ^ a b 中村 1994, pp. 175–179.
  30. ^ a b 井上 2011, pp. 56–64.
  31. ^ a b 中村 1994, pp. 34–37.
  32. ^ a b c d e f 関 1956, pp. 94–95.
  33. ^ a b c 上田 1965, pp. 135–138.
  34. ^ a b 今井 1968, pp. 87–88.
  35. ^ a b 中村 1994, pp. 92–94.
  36. ^ a b c d 加藤 1998, pp. 39–45.
  37. ^ 上田 1965, pp. 136–137.
  38. ^ a b c d 山尾 1983, pp. 335–338.
  39. ^ 井上 2011, pp. 7–8.
  40. ^ 井上 2011, pp. 35–36.
  41. ^ a b c d 三品彰英『日本書紀朝鮮関係記事考証』 上、吉川弘文館、1962年11月10日、227-232頁。doi:10.11501/2972533 (要登録)
  42. ^ 井上 2011, pp. 36–37.
  43. ^ a b c 関 1956, pp. 98–101.
  44. ^ 中村 1994, pp. 95–98.
  45. ^ a b 加藤 1998, pp. 120–130.
  46. ^ a b c 加藤 1998, pp. 69–77.
  47. ^ 山尾 1983, p. 336.
  48. ^ 直木 1988, pp. 25–32.
  49. ^ 井上 2011, pp. 126–133.
  50. ^ 井上 2011, pp. 166–171.
  51. ^ 加藤 1998, pp. 196–205.
  52. ^ a b 今井 1968, pp. 140–141.
  53. ^ a b 中村 1994, pp. 152–155.
  54. ^ 今井 1968, pp. 52–53, 137.
  55. ^ 今井 1968, p. 147.
  56. ^ 中村 1994, pp. 75–83.
  57. ^ 井上 2011, pp. 187–197.
  58. ^ a b 井上 2011, pp. 178–187.
  59. ^ 今井 1968, p. 145.
  60. ^ 中村 1994, pp. 162–165.
  61. ^ a b 今井 1968, pp. 131–133.
  62. ^ 中村 1994, pp. 168–170.
  63. ^ 井上 2011, pp. 33–38.
  64. ^ a b 山尾 1983, p. 334.
  65. ^ 中村 1994, pp. 173–175.
  66. ^ a b c d 上田 1965, pp. 20–22.
  67. ^ 今井 1968, pp. 114–121.
  68. ^ 中村 1994, pp. 190–191.
  69. ^ a b 今井 1968, p. 121.
  70. ^ 井上 2011, pp. 105–108.
  71. ^ a b c 今井 1968, pp. 122–127.
  72. ^ 中村 1994, p. 16.
  73. ^ 中村 1994, pp. 191–193.
  74. ^ 今井 1968, pp. 128–129.
  75. ^ a b c d 上田 1965, pp. 69–72.
  76. ^ 井上 2011, pp. 18–19, 42–50.
  77. ^ 関 1956, pp. 91–92.
  78. ^ 今井 1968, p. 87.
  79. ^ 関 1956, pp. 92–95.
  80. ^ 西本昌弘 (1989-10). “楽浪・帯方二郡の興亡と漢人遺民の行方”. 古代文化 (古代学協会) 41 (10): 23-24. http://fic.xsrv.jp/elgg/file/view/766 2025年8月17日閲覧。. 
  81. ^ 井上 2011, pp. 40–41.
  82. ^ 上田 1965, pp. 139–140.
  83. ^ 直木 1988, pp. 45, 53.
  84. ^ 平野邦雄「秦氏の研究」『史学雑誌』第70編第3・4号、1961年[要ページ番号]
  85. ^ a b 笠井倭人 (1982-5-20). 小林行雄博士古稀記念論文集刊行委員会. ed. “朝鮮語よりみた秦・漢両氏の始祖名”. 考古学論考 : 小林行雄博士古稀記念論文集 (平凡社): 893-902. doi:10.11501/12209520. (要登録)
  86. ^ 井上 2011, pp. 19–20.
  87. ^ [佐伯:1994 369]
  88. ^ 太田[1963: 4713-4716]
  89. ^ 田辺尚雄『日本文化史体系』「奈良文化」章
  90. ^ a b c 関 1956, pp. 96–97.
  91. ^ 又至竹斯國又東至秦王國 其人同於華夏 以爲夷州疑不能明也」(『隋書』「卷八十一 列傳第四十六 東夷 俀國」)
  92. ^ 佐伯好郎 (1908). “太秦(禹豆麻佐)を論ず”. 地理歴史 百号. 
  93. ^ [1][リンク切れ]
  94. ^ 『原敬百歳』中央公論社、1955年、14-15頁。 
  95. ^ a b 中村 1994, pp. 89–92.
  96. ^ a b c d 井上 2011, pp. 21–23.
  97. ^ 今井 1968, p. 86.
  98. ^ 井上 2011, pp. 23–24.
  99. ^ 関 1956, p. 95.
  100. ^ 山尾 1983, p. 337.
  101. ^ 加藤 1998, pp. 45–62.
  102. ^ a b 関 1956, p. 96.
  103. ^ a b 井上 2011, pp. 25–26.
  104. ^ a b c d e 井上 2011, pp. 26–30.
  105. ^ 今井 1968, p. 91.
  106. ^ 加藤 1998, pp. 149–155.
  107. ^ 重要文化財|豊前国仲津郡丁里大宝二年戸籍断簡|奈良国立博物館”. www.narahaku.go.jp. 2020年5月2日閲覧。
  108. ^ 承和二年(八三五)十月丁酉《廿六》 賜讃岐国人 従六位上 秦部福依 弟福益等三烟 秦公姓 【現代語訳:讃岐国人従六位上秦部福依 弟福益ら3戸,秦公の姓を与えられる】」(『続日本後紀』巻四)
  109. ^ 「太政官符 / 図書寮造紙手. 少初位下秦公室成 / 右検案内. 太政官 去大同三年十二月十五日 / 下 式部省 符偁. 右大臣宣. 奉勅. 造紙長上一員. 宜従 停止者. 今被右大臣宣偁. 奉勅. 前長上 秦部乙足 死去之替補 室成. 自今以後. 依旧定二員.【要約:秦公室成が、図書寮造紙長上であった秦部乙足に替わって、図書寮造紙長上に任命される】」 (『類聚三代格』:享禄本. 巻第4)
  110. ^ 兵庫県赤穂市の文化財 -the Charge for Preservation of Caltural Asset ,Ako- -赤穂城跡、赤穂の歴史民俗、文化財、観光、名所旧跡、遺跡、発掘調査、考古学などなど-「坂越の歴史[2]
  111. ^ 井上秀男「備前・播磨地域の渡来人「秦氏」と神社について (PDF) 」 日本先史古代研究会、発表年不明
  112. ^ 前田徹「播磨国赤穂郡久富保の基本史料について」『待兼山論叢. 史学篇』第30巻、大阪大学文学部、1996年12月、31-54頁、hdl:11094/48058ISSN 03874818NAID 120005463056 
  113. ^ 吉備群書集成刊行会 編『和気絹』作陽書房〈吉備群書集成 第1輯 (地誌部 上)〉、1978年https://dl.ndl.go.jp/ja/pid/9574775/1/77 
  114. ^ 井上 2011, pp. 92–97.
  115. ^ 加藤 1998, pp. 77–87.
  116. ^ 加藤 1998, pp. 88–96.
  117. ^ 久能寺縁起
  118. ^ 井上 2011, p. 242.
  119. ^ 関 1956, p. 102.
  120. ^ a b 井上 2011, pp. 102–105.
  121. ^ kotobank,デジタル版 日本人名大辞典+Plus。大江[2007: 222]
  122. ^ 大江[2007: 271]
  123. ^ 正倉院文書データベース”. 正倉院文書データベース作成委員会. 2019年12月10日閲覧。[リンク切れ]
  124. ^ 宝物は語る(3)大量の墨書新発見……古櫃(こき)”. 読売新聞. 2019年12月10日閲覧。[リンク切れ]
  125. ^ 井上 2011, p. 11.
  126. ^ 今井 1968, p. 7.
  127. ^ 中村 1994, pp. 140–143.
  128. ^ 井上 2011, pp. 248–249.
  129. ^ a b c d e f g 豊田武『苗字の歴史』中央公論社、34頁
  130. ^ 関 1956, p. 103.
  131. ^ 伊藤信博「桓武期の政策に関する一分析(1)」名古屋大学『言語文化論集』 v.26, n.2, 2005, 8頁
  132. ^ 寛政重修諸家譜(第18)新訂』 続群書類従完成会、1981年、150頁
  133. ^ 川勝家文書東京大学出版会、日本史籍協会叢書57、1984年、437 - 438頁
  134. ^ 太田[1963: 36]
  135. ^ 日前首相羽田爱穿中山装”. 中国国際放送 (2007年11月20日). 2018年4月19日閲覧。[リンク切れ]

参考文献

関連項目


秦氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 04:03 UTC 版)

日ユ同祖論」の記事における「秦氏」の解説

秦氏は第15代応神天皇のときに、大陸から渡来して、この時10万19万ともいわれている・諸説あり)もの人々日本帰化した伝えられている。その一部大和葛城に、多く山城住んだのだが、雄略天皇5世紀半ば)の時に京都太秦ウズマサ)の地に定住するようになったという。 秦氏は非常に有力な一族で、794年平安京は秦氏の力によって事実上作られ仁徳天皇陵のような巨大古墳建築にも秦氏の力があった。 佐伯好郎1908年明治41年1月に『地理歴史 百号』(主宰 喜田貞吉論文太秦(禹豆麻佐)を論ず」で秦氏は景教キリスト教ネストリウス派)徒のユダヤ人であると考察したその内容は、「大闢大主」は、中国景教経典においてはダビデの意味であり、秦氏の建立した神社である大避神社大酒神社)と、また景教の寺は「大秦寺」で太秦と関係があるといったものである晩年佐伯歴史家服部之総対し、秦氏ユダヤ人キリスト教説を唱えた動機を、「ユダヤ人の大資本導入してやろう。それには、ユダヤ人注意日本向けさせる必要がある」「ユダヤ資本日本導入する志をたてて、そのために打った第一手が大秦氏=猶太人着想であった」と告白した。 秦氏の本拠地にある八坂神社祇園信仰にも、古代ヘブライ信仰類似している点がある。八坂神社伊勢神宮周辺などに、「蘇民将来」という伝承まつわる護符があるが、ここにもダビデ紋章出てくる。また、Yashashkar(ヤ シャッシュカル)とは10支族一つイッサカル族(Issacar,יִשָּׂשׁכָר)のアラム語における呼び名である。宮沢正典は著作増補ユダヤ人論考-日本における論議追跡』(新泉1982年64-65ページで「うづ・まさ」はアラム語セム語のイシュ・マシャであり、イエス・メシアを表す言葉であるとした。 太秦にある秦氏の神社であるの社には三位一体神を意味する三柱鳥居という変わった鳥居があり、アメノミナカヌシ神をその祭神としていたが、元伊勢である「眥(籠)神社」に伝わる海部氏勘注系図国宝によれば日本天地創造の三造化神の筆頭である天御中主神アメノミナカヌシ神)は、伊勢神宮外宮祭神豊受大神のことであると明記されている。ただし勘注系図そのもの偽作可能性もある。 秦氏は弓月の君(ゆづきのきみ・ゆみつきのきみ)と呼ばれていたとされる。弓とは英語でアーク、弓に矢を通した形状三日月似ている。月と関係している何かを持っていたのではないか弓矢などの武器扱っていたのではないか、と推測出来ないことも無い。

※この「秦氏」の解説は、「日ユ同祖論」の解説の一部です。
「秦氏」を含む「日ユ同祖論」の記事については、「日ユ同祖論」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「秦氏」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「秦氏」の関連用語

秦氏のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



秦氏のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
中経出版中経出版
Copyright (C) 2025 Chukei Publishing Company. All Rights Reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの秦氏 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの日ユ同祖論 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS