日本後紀とは? わかりやすく解説

にほんこうき【日本後紀】

読み方:にほんこうき

平安前期歴史書六国史(りっこくし)の一。40巻。藤原緒嗣らの編。承和7年840成立桓武天皇延暦11年(792)から淳和天皇天長10年(833)までの国史漢文編年体記したもの。


日本後紀

読み方:ニホンコウキ(nihonkouki)

平安時代歴史書六国史一つ3番目)。


日本後紀

読み方:ニホンコウキ(nihonkouki)

分野 歴史書

年代 奈良時代~平安前期

作者 藤原緒嗣〔ほか撰〕


日本後紀

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/10/25 05:16 UTC 版)

日本後紀』(にほんこうき)は、平安時代初期に編纂された勅撰史書。『続日本紀』に続く六国史の第三にあたる。承和7年(840年)に完成し、延暦11年(792年)から天長10年(833年)に至る42年間を記す。編者は藤原緒嗣ら。編年体漢文、全40巻(散逸しており、現存10巻)。


  1. ^ 遠藤慶太『六国史』p.101
  2. ^ 遠藤慶太『六国史』p.197
  3. ^ 昭和初期に刊行された『六国史』の第6巻(朝日新聞社、1930年)。[1]
  4. ^ 遠藤慶太『六国史』p.115
  5. ^ 遠藤慶太『六国史』p.116
  6. ^ 遠藤慶太『六国史』p.117
  7. ^ 遠藤慶太『六国史』p.100


「日本後紀」の続きの解説一覧

日本後紀(類聚国史や日本紀略による補を含む)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 02:19 UTC 版)

吉美侯部」の記事における「日本後紀(類聚国史日本紀略による補を含む)」の解説

792年延暦11年10月1日 - 陸奥国俘囚である吉弥侯部真麻呂大伴部宿奈麻呂外従五位下叙した。これは外への懐柔である。〔類聚国史日本紀略11月3日 - 陸奥国夷俘である爾散南公阿波蘇、宇漢米公隠賀、俘囚である吉弥侯部荒嶋らを朝堂院にて饗応した。阿波蘇、隠賀には爵第一等、荒嶋には外従五位下授けた。(後略)〔類聚国史795年延暦14年5月10日 - 俘囚である大伴部阿弖良ら妻子親族66人を日向国配流した。俘囚である外従五位下吉弥侯部真麻呂父子2人殺害しためである。〔類聚国史799年延暦18年12月16日 - (前略陸奧国が、「俘囚である吉弥侯部黒田と妻の吉彌侯部田苅の女(娘)、吉彌侯部保呂と妻の吉彌侯部志の女(娘)らは未だに野心改めず賊地往還していますと言上してきたので、身を禁じて駅沿いに進めて送り土佐国配流した。 803年延暦22年4月25日 - 摂津国俘囚である勲六等吉弥侯部成ら男女8人と、陸奥国勲六等吉弥侯部押人ら男女8人が、雄谷の姓を賜った。〔類聚国史805年延暦24年10月23日 - 播磨国俘囚である吉弥侯部麻呂吉弥侯部色雄ら10人が種子島配流となった野心改めず、しばしば朝憲違反しためである811年弘仁2年4月4日 - 陸奧国の人で外正六位下志太連宮持、俘の吉弥侯部小金外従五位下授けた。勇敢を褒章するためである7月14日 - 嵯峨天皇は、征夷将軍正四位上陸奧出羽按察使文室朝臣綿麻呂らに以下のように勅した。「7月4日奏状に、『俘軍千人吉弥侯部於夜志閇らに委ね伊村を襲伐すべきである。』とあるが、弊伊村には俘類が巨多おり、若し偏軍をもって討伐臨めば、機を失う事が恐れられる。そこで、両国からそれぞれ俘軍各1,000人を発し次の8、9月の間に左右両翼から張り出して前後奮闘して欲しい。宜し副将軍および両国司らと再三評議し、ともに書状にて奏上すること。国の大事なので軽率な戦略執ってならない。」 7月29日 - 右京の人で正六位上朝原忌寸諸坂、山城国の人で大初位下朝原忌寸三上らが宿禰の姓を賜った出羽国が以下のように奏上した。「邑良志閇の降俘である吉弥侯部都留岐申し云うに、『私たちは弐薩体の夷である伊加古らと久しく仇怨の関係にあります。今、伊加古らは練兵して整衆し都母に居し、弊伊村の夷とともに私たち討伐ようとしてます。そこで伏して兵粮請い先に登って襲撃しようと思いますとのことです私ども考えるに、賊をもって賊を征伐するのは軍国の利です。そこで、米100斛を与えて奨励したいと思います」と。これを許可した813年弘仁4年2月21日 - 従五位上朝臣麻呂刑部大輔とし、従五位上大枝朝臣永山肥後守とした。伊予国の人で勳六等吉弥侯部麻呂吉弥侯部佐奈布留2人野原の姓を与えた814年弘仁5年1月19日 - 外従六位下牡鹿連息継俘囚勲六等吉弥侯部奈伎宇、吉弥侯部麻須および吉弥侯部弖僅奈に外従五位下授けた。〔類聚国史2月15日 - (前略出雲国俘囚である吉弥侯部高来および吉弥侯部俊子に各々300束を与えた。荒橿の乱に遭遇し妻子被害に合っためである。〔類聚国史816年弘仁7年3月21日 - (前略勲六等吉弥侯部呰子に外従五位下授けた817年弘仁8年4月29日 - 常陸国の人で長幡部福良女に少初位上授け戸田の租を終身免除とした。その貞節の行によるものである。福良の女者とは、同郡の吉弥侯部就忠の妻である。夫が亡くなった後、号泣し続け道行く人に哀れに感じさせた。〔類聚国史7月5日 - 陸奥国が「俘の吉弥侯部等波醜らが帰降しましたと言上した嵯峨天皇は「此の逋は久しく逃亡し気ままに生活していた。今、陸奥守小野朝臣守らはその野心優しめて、朝廷の声に服することを教えしめた。その懐柔策誠に以て嘉ばしいことである」と勅した。〔類聚国史9月20日 - 陸奥国が以下のように言上した。「謀反起こした俘である吉弥侯部於夜志閇ら61人を捕えに依りその身柄進上するところですが羊の情である彼らでありながら、なお妻子思っています。そこで、城下に留め、その妻子を招くことを伏して望みます」と。 これを許可した。〔類聚国史日本紀略820年弘仁11年6月11日 - 因幡国俘囚である吉弥侯部決奈閇ら6人を土佐国移送した。百姓牛馬盗んだめである。〔類聚国史822年弘仁13年9月26日 - 常陸国が以下のように言上した。「俘囚である吉弥侯部麻呂が、『私たち朝廷帰順し20年経過しました。ようやく皇風馴染み生計を立てることが出来るようになりました。そこで、伏して戸民として編入し永く課役として従事することを望みます』と云っています」と。嵯峨天皇は以下のように勅した。「仰化の情は信が有り哀れむべきことである。宜しく公戸に附することを許可する。ただし課役科さないものとする」と。〔類聚国史823年弘仁14年3月19日 - 下野国芳賀郡の人である吉弥侯部足の女(娘)が少初位上授かり、その田の租税終身免除し、門閭に褒章至った行いが標された。道足の女とは、同郡の少領である下野公豊継の妻である。夫の死後再婚しないことを誓い、常に墓の側にあって哭声絶やさなかった。〔類聚国史5月5日 - 甲斐国の賊主である吉弥侯部井出麻呂ら大少男女13人伊豆国配流した。〔類聚国史824年天長元年10月13日 - 常陸国俘囚である公子八代麻呂吉弥侯部)ら21人が課役に従うことを請願したので、これを許した。〔類聚国史828年天長5年〉閏3月10日 - 豊前国俘囚である吉弥侯部衣良由が百姓360人に酒食送った豊後国俘囚である吉弥侯部良佐閇は稲964束を送って百姓327人を助けた。衣良由を少初位下叙し、良佐閇を従六位上叙した。〔類聚国史7月13日 - 肥前国の人で白丁吉弥侯部奥家を少初位上叙した。奥家は既に皇風馴染み教令に従い平民と同じ志を持ち公役従事し官舎および池溝道橋等の修造行い怠ることが無かった。これに加え国司入部する日に礼をもって送迎行い進退過ち無く野心を既に忘れており、その善行は嘉ばしいことである。〔類聚国史829年天長6年6月28日 - 俘囚である勲十二等吉弥侯部長子は、父母と共に皇化帰順し尾張国移配された。野心聞こえず孝行顕著である。特に三階叙し、倫輩の勧めとした。〔類聚国史7月19日 - 越中国俘囚である勲八等吉弥侯部江岐麻呂従八位上叙した。江岐麻呂皇化馴染んで帰順し、志を良民同じくし、倫理礼儀を行うよう教喩した。そこで文位叙し勧励とした。 831年天長8年2月9日 - 甲斐国俘囚である吉弥侯部三気麻呂同じく手子の2家を、駿河国に附貫した。魚塩の便のためである。〔類聚国史4月26日 - 勲五等吉弥侯部塩子雄を外従五位下叙した。〔類聚国史11月5日 - 安芸国俘囚長である吉弥侯部佐津比古を外従八位下叙し俘囚である吉弥侯部麻呂を外少初位下叙した華風馴化し、その教喩時節適ったものであったからである。〔類聚国史832年天長9年12月20日 - 伊予国俘囚である吉弥侯部於止利ら男女5人を阿波国移配した。情願受け入れたものである

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