おわり‐の‐くに〔をはり‐〕【尾張国】
読み方:おわりのくに
⇒尾張
尾張国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/07 06:35 UTC 版)
尾張国(おわりのくに、をはりのくに)は、かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。東海道に属する。愛知県西部にあたる。
注釈
- ^ 1887年(明治20年)に尾張国に編入。
- ^ いずれも1887年(明治20年)に尾張国に編入。
- ^ 1880年(明治13年)に尾張国に編入。
- ^ いずれも1880年(明治13年)に尾張国に編入。
- ^ 1887年(明治20年)に美濃国に移管。
- ^ 願興寺比定地の尾張元興寺跡(名古屋市中区)の発掘調査では、10世紀以降に出土品は激減するため、この頃願興寺は廃寺に至ったと見られる。 一方、国分尼寺は史料上で11世紀初頭までの存続が確認されるため、10世紀以降は尾張国分尼寺が国分寺に転用されたとする説がある (中世諸国一宮制 & 2000年, pp. 116–117、国分寺(角川) & 1989年)
- ^ これを記念して名古屋城前に加藤清正像が置かれている。一度も城主になったことのない人物が銅像として設置されている珍しい例
- ^ 茂徳と同様に慶勝の実弟。高須四兄弟の一人。
- ^ 幼少時の徳川家康を預かった圧田の名家(東加藤家)。
- ^ 当初、伊勢国における伊勢神宮と同様に別格で一宮とされなかったが、一宮・二宮が定められた後に三宮として追加されたという説、単に国府から遠かったためとする説、真清田神社の積極的な運動によって一宮になったとする説、一宮制度導入時に国司と熱田神宮が対立していた説など。
- ^ 旧中島郡加賀野井村。
出典
- ^ 舘野和己「『古事記』と木簡に見える国名表記の対比」、『古代学』4号、2012年、19頁。
- ^ 鎌田元一「律令制国名表記の成立」、『律令公民制の研究』、塙書房、2001年。
- ^ 田中卓「尾張国はもと東山道か」『田中卓著作集6』(国書刊行会、1986年/原論文:1980年)
- ^ a b c 3章 尾張国分寺跡の概要(稲沢市) & 2014年.
- ^ a b 中世諸国一宮制 & 2000年, pp. 116–117.
- ^ 吾妻鏡 吉川本 建長四年三月.
- ^ 河村昭一「一色氏の分国・分郡における守護・〈郡主〉在職期間」『南北朝・室町期一色氏の権力構造』戎光祥出版、2016年。
- ^ a b 名古屋開府400年記念事業実行委員会『尾張名古屋大百科』 p150-155
- ^ a b 廣江安彦/堀内守『知多半島なんでも事典』新葉館出版 p106-107
- ^ 知多の山車館
- ^ 稲沢市教育委員会編『近世村絵図-解説図』、稲沢市教育委員会、1982、p66
- ^ a b 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 113-114。
- ^ 『中世諸国一宮制の基礎的研究』 中世諸国一宮制研究会編、岩田書院、2000年、pp. 102-113。
尾張国
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織田信長 烏天狗を模した面具を付けた武将。面をつけた状態では恐ろしい圧力を放つ。火縄銃を革新的な武器と捉えると同時にそれを生み出した南蛮を危惧しており、侵略を受ける前に天下統一を果たすことを目論んでいる。 その野望ゆえに日ノ本全ての民を思いやっており、光秀からは「名君」を超える「天下人」の器だと言われる。また孫一には何度も家臣の申し入れを断られているが、怒ったりはせず、懐の深い所を見せる。 十字軍の佐渡侵攻の際は段蔵による救援要望を受け、浅井長政・西美濃三人衆・明智光秀の力を借りて佐渡に上陸、十字軍を破った。孫一を自軍に誘い、5年後足利義輝を押して上洛する。 当初は足利義昭を擁して上洛、将軍を介して諸国をまとめあげる事を目指した。しかしルイス・フロイスとの会合で南蛮の強大さを再認識し、旧幕府の破壊と織田幕府の創設を決意する。 木下藤吉郎秀吉 信長の家臣。信長からは「ネズミ」と呼ばれている。自身の夢でもある信長の夢をかなえるため、孫一に助力を頼む。隠遁していた半兵衛のもとをたびたび訪れ、味方につける。 佐渡島の決戦の際、鶴の軍への救援として現れる。 信長の上洛の時、雑賀衆のもとに使者としてやってくる。 弥助 イサークの死霊兵に所属していた一騎当千の猛者。佐渡戦で藤吉郎の人柄に心を動かされ降伏、後に恩を返すためとして藤吉郎の配下となる。
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