熱田神宮
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熱田神宮(あつたじんぐう)は、愛知県名古屋市熱田区神宮にある神社。式内社(名神大社)、尾張国三宮。旧社格は官幣大社で、現在は神社本庁の別表神社。宮中の四方拝で遥拝される一社。神紋は「五七桐竹紋」。古くから「熱田さん」と呼ばれて親しまれている。
- ^ 「神宮御造営は同天皇(仲哀天皇)の元年頃なるへし、」(『熱田神宮略記』[3])
- ^ 「御神(熱田大明神)被㆑入-㆓座王城ニ㆒
御詫宣 ニ偁 ク、我已 ニ彼 国愛智郡衛崎 松炬嶋 機綾 村ニ以テ㆓去ル大化 二年丁未 歳五月一日ヲ㆒、天下リ座著 神也、」(『朱鳥官符』[4]) - ^ 「倩尋レハ㆓旧典ヲ㆒、彼ノ
叢 雲釼者 、天照大神ノ御正躰、今ノ大宮権現是也(つらつら旧典を尋ぬれば、かの叢雲釼は、天照大神の御正体、今の大宮権現これなり。)」(『熱田明神講式』[15]) - ^ 「卽ち宮簀媛に
謂 りたまひしく、此の劔は神の氣 あり。齋 ひ奉 りて、吾が形影 と爲 よ、とのりたまひき。因 りて社 を立て、鄕 (熱田郷のこと)に由 りて名と爲 しき。」((『尾張国風土記』逸文(『釈日本紀』巻七述議三神代上)[16]) - ^ 「伊勢太神宮ト申ハ熱田太神宮也、一躰分身ノ神、御在処ニ随テ伊勢トモ熱田トモ申也、日本二
并 ノ神ニテ、天ヲ伝テ土地也ヲ得テ、三国ノ主ニテ、日本ヲ神国ト号シ、衆生ヲ利益ノ為ニ、南閻扶提ニ跡ヲ垂テ、神明ト号シ給、仏出世シテ此一大事ヲ為㆑説カン也、」(『熱田宮秘釈見聞』[19]) - ^ 「天武天皇ノ御宇ニ、宮古(都)ヨリ還座ノ時、改テ土用御殿ヲ建立シ玉ヒテ、神剣ハ石ノ辛櫃ニ入御ナシ奉リ、土中ニ安鎮シ奉ル」(『尾州神宮秘伝』[24])
- ^ 「そさのをの尊すなはちはかせる十つかの劔をぬいて、
ずた にその蛇 をきる。尾 にいたつて、劔 の刄 すこしかけぬ。故、その尾をさいてみそなはすれば、中に一の劔あり。是いはゆる草薙 劔 なり。」(『日本書紀』(巻第一神代上第八段)[27]) - ^ 「此神剣ハ、天照大御神の天岩屋に
屛 り坐しとき、招出し奉らむ祈の礼代と榊に取懸て、神鏡・神剣・神玉と此三神器を奉られたりと聞ゆるを、…」(『熱田神宮略記』[29]) - ^ 「もと、
天照大御神 の御物なるを、出雲国に住 る八俣大蛇 といふ邪神 の盗みもてるを、この八俣大蛇が住る上に、雲と立たりし故に、村雲の御剣といふ、大御神の御弟健速須佐乃男尊 取り得て、大御神に奉り給へるなり、」(『熱田神宮御神徳略記』[30]) - ^ 『熱田神宮略記』[29]
- ^ 「
天照太神 、和大國魂 、二はしらの神を、天皇 の大殿 の内に、ならべいはひまつる。」(『日本書紀』(巻第五崇神天皇)[31]) - ^ 「しかれどもその神のみいきほひをおそれて、ともに住給ふことやすからず。
故 、天照太神 をもては、豐鍬入姬命 をつけまつりて、やまとの笠縫 の邑 にいはひまつる。よて磯堅城神籬 をたつ。亦日本大國魂神 をもては、渟名城入姬命 に託 て、いはひまつる。…」(『日本書紀』(巻第五崇神天皇)[31]) - ^ 「垂仁天皇廿五年丙辰春三月。伊勢百船度會國。玉撥伊蘇國仁入座。(中略)然後。隨㆓神誨㆒。造㆓建神籬㆒。取㆓丁巳年冬十月甲子㆒。奉㆑遷㆓。於五十鈴川上㆒之後。覔㆓清麗膏地㆒天。和妙之機殿乎。同與㆓于五十鈴川上側㆒。令倭姫命居焉。于時。天棚機姫神。令㆑織太神和妙御衣㆒給倍利。是名號礒宮矣。…」(『倭姫命世記』[32])
- ^ 「冬十月壬子朔癸丑。日本武尊發路之。」(『尾張国熱田太神宮縁記』[35])
- ^ 「戊午。抂㆑道奉㆓拜伊勢大神宮㆒。啓㆓齋王倭姬命㆒。…(中略)…日本武尊拜-㆓領劔嚢㆒行。」(『尾張国熱田太神宮縁記』[35])
- ^ 「道路到㆓尾張國愛智郡㆒。時稻種公啓曰。當郡氷上邑有㆓桑梓之地㆒。伏請大王税㆑駕息㆑之。」(『尾張国熱田太神宮縁記』[36])
- ^ 「(日本武尊、)側見㆓一佳麗之娘㆒。問㆓其姓字㆒。知㆓稻種公之妹。名宮酢媛㆒。」(『尾張国熱田太神宮縁記』[37])
- ^ 「即命㆓稻種公㆒。聘-㆓納佳娘㆒。合卺之後。寵幸固厚。數日淹留。不㆑忍㆑分㆑手。」(『尾張国熱田太神宮縁記』[37])
- ^ 「(日本武尊、)即解㆑劔授曰。寳-㆓持此劔㆒。爲㆓我床守㆒。」(『尾張国熱田太神宮縁記』[38])。
- ^ 「時近習之人大伴建日臣諫曰。此不㆑可㆑留。何者。承-㆔聞前程氣吹山有㆓暴惡神㆒。若非㆓劔氣㆒。何除㆓毒害㆒。日本武尊高言曰。縱有㆓彼暴神㆒。擧㆑足蹴殺。遂留㆑劔上㆑道。」(『尾張国熱田太神宮縁記』[38])。
- ^ 「暴風㆓吹淫雨㆒。山谷杳冥。之棲遑不㆑知㆓其所㆒。跋渉冐㆑雨强行。僅得㆑出㆓山脚㆒。失㆑意如㆑醉。」(『尾張国熱田太神宮縁記』[38])。
- ^ 「自後日本武尊體中不豫。欲㆑歸㆓尾張㆒。…(中略)…逮㆓于能褒野㆒。異㆑常委惙。…(中略)…既而過㆓鈴鹿山㆒。病痛危迫。」(『尾張国熱田太神宮縁記』[39])。
- ^ 「渡㆓鈴鹿河中瀨㆒。忽隨㆓逝水㆒。」(『尾張国熱田太神宮縁記』[40])。
- ^ 「天皇聞㆑之。寢不㆑安。食無㆑味。晝夜嗚咽。…(中略)…即勅㆓群卿百寮㆒。仍葬㆓伊勢國能褒野㆒。」(『尾張国熱田太神宮縁記』[40])
- ^ 「時日本武尊化㆓白鳥㆒。從㆓陵墓㆒出。指㆓大和國㆒而飛去。群臣等開㆓其棺槨㆒而視之。明衣空留。不㆑見㆓骸骨㆒。於㆑是馳使追尋。白鳥集㆓於大和國琴驒原㆒。仍於㆓其處㆒造陵。白鳥更飛至㆓河内國志紀郡㆒。留㆓舊市邑㆒。亦其處造㆑陵。故時人號㆓是三陵㆒曰㆓白鳥陵㆒。然遂騫翥昇㆑天。徒葬㆓衣冠㆒而已。」(『尾張国熱田太神宮縁記』[40])
- ^ 「宮酢媛不㆑違㆓平日之約㆒。獨守㆓御床㆒安㆓置神劔㆒。」(『尾張国熱田太神宮縁記』[41])
- ^ 「宮酢媛會㆓集親舊㆒。相議曰。我身衰耄。昏曉難㆑期。事須㆘未㆑瞑之前。占㆑社奉㆖㆑遷㆓神劔㆒。衆㆓議感之。定㆓其社地㆒。」(『尾張国熱田太神宮縁記』[41])
- ^ 「有楓樹一株。自然炎燒。倒㆓水田中㆒。光㷔不㆑銷。水田尚熱。仍號㆓熱田社㆒。」(『尾張国熱田太神宮縁記』[41])
- ^ 「宮酢媛下世之後。建㆑祠崇-㆓祭之㆒。號㆓氷上姊子天神㆒。」(『尾張国熱田太神宮縁記』[42])
- ^ 「四十三年、一云四十九年未己、至経営大宮、」(『熱田大神宮御鎮座次第本紀』[47])
- ^ 「人皇一十二代景行天皇四十一辛亥年、始鎮坐、」(『熱田宮旧記』[48])
- ^ 「崩日ハ四十一年四月八日なりとて、今にその日御陵の祭典を行ふ也、」(『熱田神宮略記』[3])
- ^ 「(景行天皇)御宇四十九年己未、一説ニ四十一年ト云ハ非ナリ、以㆓草薙剣㆒、蔵㆓尾張国愛智郡熱田郷㆒而、即為㆓神璽㆒也、」(『熱田本社末社神体尊命記集説』[49])
- ^ 「此宝剣ハ、武尊東征ニ因テ、倭姫命是ヲ授ケ、速ニ朝敵ヲ伐シメントノ意也、然ルニ今東夷既ニ王化ニ伏シヌレハ、宝剣ヲ天照大神ニ返シ給フ事、実ニ利ノ当然也、(中略)然レハ即、一度ハ伊勢ニ返シ給フ説ヲ取ヘキ矣、後ニ熱田ノ神祠
ハ 奉納ハ、疑ラクハ、是勅命ニシテ、当時尾張国造等ノ所㆑謂ナラン、猶後賢ノ補ヲ俟爾已 、」(『熱田本社末社神体尊命記集説』[50]) - ^ 「神宮御造営は同天皇(仲哀天皇)の元年頃なるへし、…(中略)…今の神宮の御鎮座を景行天皇四十一年なる由書等に記せるは、事実を考へず甚あらき記ざまにて誤なり、」(『熱田神宮略記』[3])
- ^ 「
竟 足仲彦 天皇 四年 霊運 当遷 矣、乃 永ク隠 レマシキ㆓霊根嶋 ニ㆒、」(『尾張国氷上宮開始正伝本起』[51]) - ^ 「彼比賣命の倭建命にはしめて御合給へる年をかりに十五
許 と定めて數ふるに仲哀天皇四年に至りて九十六許なり」(『尾張志』[52]) - ^ 「神剣ハ是ヨリ凡八十年余リ国造邸ナル神床ニ坐リ、」(『熱田神宮記』[53])
- ^ 「右朱鳥元年三月廿一日ノ
宣旨 以㆓同ク廿八日ノ㆒到来シテ偁 、以テ㆓去ル白鳳廿一年十二月一日ヲ㆒、被㆑称セ㆓熱田大明神㆒之由ヲ、御神被㆑入-㆓座王城ニ㆒御詫宣 ニ偁 、我已 ニ彼 国愛智郡衛崎 松姖嶋 機綾 村ニ以テ㆓去ル大化 二年丁未 歳五月一日ヲ㆒、天下リ座著 神ナリ也、」(『朱鳥官符』[4]) - ^ 「熱田正縁記云、景行天皇四十一年、草薙劔氷上村に留る、其後宮簀媛、老後松姖島に社を建て納む。孝徳天皇大化二年尾張忠
命 等、託宣に依て愛知郡會崎 棧綾村に遷座なさしむ、則今の大宮是なり。熱田本記亦同し、右木下宇左衛門説。」(『厚覧草』[54]) - ^ 高座結御子神社、氷上姉子神社の境内にある末社も、すべて熱田神宮の境外末社である。
- ^ 『愛知県の地名』熱田神宮項。
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- ^ 旧国宝、熱田神宮海上門の復元(PDF:6306KB) - 名古屋市
- ^ 熱田神宮に伝わる宝刀を展示「草薙館」が開業 展示方法も剣独特に 朝日新聞 2021年10月4日
- ^ 付属品の一部は2015年に追加指定(平成27年9月4日文部科学省告示第144号)。
- ^ 永万元年六月日神祇官諸社注文(『平安遺文』3358号)には「尾張国 一宮 二宮 熱田社」と記され、熱田社は三宮とはみなされていなかった。
- ^ 井上寛司『日本中世国家と諸国一宮制』岩田書院、2009年、P95-98。
- ^ 上島享『日本中世社会の形成と王権』名古屋大学出版会、2010年、P269-272。
- ^ 嘉禄元年付尾張国司庁宣案(『鎌倉遺文』3401号)
- ^ 25枚の板石から成る。
- ^ 熱田神宮に門前街を... - 公益財団法人名古屋まちづくり公社トップページ
- ^ a b アクセス・駐車場 | 初えびす 七五三 お宮参り お祓い 名古屋 | 熱田神宮(熱田神宮公式サイト、2018年(平成30年)11月7日閲覧)
- ^
年魚市潟 ()とは、氷河期の終わりに縄文海進と呼ばれる海面上昇により出現した旧愛知郡一帯にかけて広がっていた干潟のこと。 - ^ 熱田『蓬莱伝説』
熱田神宮
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/26 05:54 UTC 版)
草薙剣は、日本神話の記述の通りであれば、熱田神宮の奥深くに神体として安置されている。 この剣は盗難に遭ったことがあり、天智天皇7年(668年)に新羅の僧・道行(どうぎょう)が熱田神宮から草薙剣を盗み、新羅に持ち帰ろうとした(『日本書紀』二十七巻、天智天皇)。『尾張国熱田太神宮縁起』では、一度目は神剣が自ら神宮に戻って失敗。二度目は船が難破して失敗、神剣は日本側に回収された(草薙剣盗難事件も参照)。 その後、草薙剣は宮中で保管されていた。『平家物語』では、天武天皇が草薙剣を内裏に移したと伝える。朱鳥元年(686年)6月、天武天皇が病に倒れる。病気の原因は「宮中に神剣を置いたままにし、熱田に戻さない為の神剣の祟り」と判明した。陰陽師により御祓を行い、あるいは恩赦や仏教による功徳に期待して病の回復を祈るが、それでも神剣の祟りが解けなかったという。草薙剣は熱田神宮に戻されたが、天皇は9月に崩御した。 鎌倉時代に熱田神宮が炎上した際、幅一尺・長さ四尺の漆塗り箱に収められた神剣は、直接被害を受けることはなかった。神宮の神職が確認すると、赤地の錦袋があったため、神剣と判断して八剣殿(やつるぎのみや、708年創建)に収めたという。御記文によれば、ヤマトタケルの前世は素戔嗚尊であったとしている。『熱田太神宮御託宣記』でも、久子内親王(後深草天皇皇女)関連で同様の伝承を伝えている。 戦国時代、熱田神宮も神領を奪われて困窮する。安土桃山時代になると織田信長、豊臣秀吉、徳川家康によって保護されるが、江戸時代になって荒廃。松尾芭蕉が『野ざらし紀行』で1684年(貞享元年)当時の惨状を「かしこに縄を張りて小社の跡をしるし、爰に石を据ゑて其神と名のる。」と記述している。1686年(貞享3年)、江戸幕府第五代将軍・徳川綱吉により社殿を造営。再建された熱田神宮を訪れた芭蕉は「磨(とぎ)なをす鏡も清し雪の花」と詠んだ。 綱吉時代に熱田神宮の改修工事があった時(前述)、神剣が入った櫃が古くなったので、神剣を新しい櫃に移す際、4~5人の熱田大宮司社家の神官が神剣を盗み見たとの記録がある。天野信景(名古屋藩士、国学者)の随筆『塩尻』によれば、神剣を取り出した関係者は数年のうちに咎めを受けたという。梅宮大社の神職者で垂加神道の学者玉木正英(1671-1736年)の『玉籤集』裏書にある記載は、明治31年の『神器考証』(栗田寛著)や『三種の神器の考古学的検討』(後藤守一著)で、世に知られるようになった。上述の著作によれば、神剣が祀られた土用殿内部は雲霧がたちこめていた。木製の櫃(長さ五尺)を見つけてを開けると、石の櫃が置かれていて間に赤土が詰めてあり、それを開けると更に赤土が詰まっていて、真ん中にくり抜かれた楠の丸木があり黄金が敷かれていて、その上に布に包まれた剣があった。箱毎に錠があり、大宮司の秘伝の一つの鍵で全てが開くという。布をほどいて剣を見ると、長さは2尺78寸(およそ85センチメートル)ほどで、刃先は菖蒲の葉に似ており、剣の中ほどは盛り上がっていて元から6寸(およそ18センチメートル)ほどは節立って魚の脊骨のようであり、全体的に白っぽく、錆はなかったとある。この証言(記述)が正しければ、草薙剣は両刃の白銅剣となる。一方で、後藤守一は、(皇国史観の束縛がなくなった)太平洋戦争終戦翌年(1946年)に明治大学専門部地理歴史科(夜学)の講義で、神官が盗み見た剣は青黒かったとの伝承を紹介し、それが事実なら、赤く錆びる鉄製でなくおそらく青銅製で、弥生時代の九州文化圏に関連する可能性があるとの推測を述べた(聴講した考古学者大塚初重による回想)。 なお神剣を見た大宮司は流罪となり、ほかの神官は祟りの病でことごとく亡くなり、幸い一人だけ難を免れた松岡正直という者が相伝したとの逸話も伝わっている。 明治時代初期には、草薙剣を調査するため勅使が派遣された。最後の箱を開こうとした時に三条実美(当時の太政大臣)から中止命令が届き、調査は行われなかったという。川口陟『定本日本刀剣全史』には、「熱田大宮司尾張連家の秘伝」として、神剣の形状および御樋代(みひしろ)の想像図が記載されている。 昭和天皇の侍従長であった入江相政の著書によると、太平洋戦争当時に空襲を避けるために長野県の木曾山中に疎開させようとするも、櫃が大きすぎて運ぶのに難儀したため、入江が長剣用と短剣用の2種類の箱を用意し、昭和天皇の勅封を携えて熱田神宮に赴き唐櫃を開けたところ、明治時代の侍従長・山岡鉄舟の侍従封(1881年5月25日)があり、それを解いたところで明治天皇の勅封があったという。実物は検分していないが、短剣用の櫃に納めたという。
※この「熱田神宮」の解説は、「天叢雲剣」の解説の一部です。
「熱田神宮」を含む「天叢雲剣」の記事については、「天叢雲剣」の概要を参照ください。
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