徳川宗家
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徳川宗家(とくがわそうけ)は、徳川氏の宗家。徳川氏は1566年に徳川家康が松平から改称したのにはじまり、江戸時代には江戸幕府の征夷大将軍を世襲した。明治維新後に華族に列し、1884年(明治17年)には公爵の爵位を授けられた[1]。
注釈
出典
- ^ 小田部雄次 2006, p. 322.
- ^ a b c d e f ブリタニカ国際大百科事典 小項目事典『徳川氏』 - コトバンク
- ^ 村岡幹生「松平氏〈有徳人〉の系譜と徳川〈正史〉のあいだ」平野明夫 編『家康研究の最前線』(洋泉社、2016年)。後、村岡『戦国期三河松平氏の研究』(岩田書院、2023年)所収。2023年、P28-29.
- ^ 日本大百科全書(ニッポニカ)『徳川氏』 - コトバンク
- ^ 小田部雄次 2006, p. 62.
- ^ 百瀬孝 1990, p. 242.
- ^ 原口大輔 2018, p. 69/250.
- ^ 樋口雄彦 2012, p. 49.
- ^ 保科順子 1998, p. 73.
- ^ 歴史・沿革|東京体育館|公益財団法人東京都スポーツ文化事業団
- ^ “徳川家康の子孫 宗家が当主交代 19代家広氏が家督継承へ”. NHKNEWSWEB. (2022年10月25日). オリジナルの2022年10月25日時点におけるアーカイブ。 2022年10月26日閲覧。
徳川将軍家
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「骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと」の記事における「徳川将軍家」の解説
崇源院 :秀忠正室、家光生母。1573-1626年。 徳川秀忠 :2代将軍。1579-1632年。 桂昌院 :家光側室、綱吉生母。1627-1705年。 徳川家宣 :6代将軍。1662-1712年。 天英院(近衛熙子) :家宣正室。1666-1741年。 月光院 :家宣側室、家継生母。1685-1752年。 徳川家継 :7代将軍。1709-1716年。 徳川家重 :9代将軍。1712–1761年。 徳川家慶 :12代将軍。1793–1853年。 徳川家茂 :14代将軍。1846-1866年。 静寛院(和宮親子内親王) :家茂正室。1846-1877年。
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徳川将軍家
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徳川綱吉(とくがわ つなよし) 演:津川雅彦 江戸幕府五代将軍。三代将軍・徳川家光の四男。四代将軍・家綱の末弟。母想い・娘想いの心優しき将軍。マザコン。だが家綱に男子がなかったなどお家の事情からやむなく将軍の座に就かざるを得なかった経緯もあり、母・桂昌院の世継ぎに対する執拗な介入に辟易して「余は将軍になりたくてなったわけではない!」などと癇癪を爆発させることもたびたびであった。 吉宗が紀州藩を相続し偏諱を与える際、敬愛する父・家光が慕っていた伊達政宗の宗の字とって名付け目をかけていた。吉宗も綱吉を慕い最後の対面の際に「そちのような息子が欲しかった」と告げて吉宗を感激させた。自分の死後もし将軍家を相続するようなことがあれば、自分の志を継いで欲しいと吉宗に言い残す。 徳川家宣(とくがわ いえのぶ) (徳川綱豊→徳川家宣) 演:細川俊之 六代将軍。綱吉の甥で養子。甲府藩主だったが、綱吉の嫡男・徳松が急死し、吉宗の兄・綱教が没したため将軍後継者となった。学問を好み、諸事公家風のしきたりを重んじるため、武士としての気風の吉宗とは折り合いが良くない。吉宗に陰で口調をものまねされ、さらに「イヤミな奴」と陰口まで叩かれる。 徳川家継(とくがわ いえつぐ) (鍋松→徳川家継) 演:中村梅枝 七代将軍。家宣の長男。能が大好きで無邪気な少年。生来病弱である。その何気ない一言に周囲の大人たちが思わず面食らう事も。
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徳川将軍家
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「篤姫 (NHK大河ドラマ)」の記事における「徳川将軍家」の解説
徳川家定(とくがわ いえさだ) (徳川家祥→徳川家定) 演:堺雅人 江戸幕府13代将軍、篤姫の夫。世子時代の名は家祥(いえさち)。菓子作りが趣味。 惚けた発言や数々の奇行から周囲からは「暗愚」と見られていた。しかし、時折物事の核心を突く発言をし、斉彬には「ただの暗愚とは思えぬ…」と疑念を持たれていた。元来は聡明な人物だったが、硬直化した幕藩体制と意に沿わぬ将軍職を押し付けられた自身の運命に絶望し、奇行に走っていた。また幼い頃から何度も毒を盛られており、そのために極度の人間不信に陥っていた。しかし、篤姫との語らいに安らぎを見出し、政務や自らの後継者の問題にも次第に目を向けるようになっていく。 「自分の家族である徳川将軍家の人々を守ってくれる人物」と見込んで井伊直弼を大老に据え、紀州家の慶福を後継に定め、篤姫には「慶福が成長するまでは後見として政務に関るよう」と遺言する。その直後に持病の脚気衝心の発作で倒れ、帰らぬ人となる。法名は温恭院。先例に則り、その死は妻である篤姫にすら1ヶ月近く伏せられていた(厳密には家定と篤姫の仲睦まじさを考慮した滝山が少し時期を早めた)。 江戸城開城を女中たちに伝える前、将軍家を滅ぼしてしまう事を悔やむ天璋院の前に幻影として現われ、これまでの苦労をねぎらい、後の世に残すべきは「城」ではなく「徳川の心」であると伝えた。 徳川家茂(とくがわ いえもち) (徳川慶福→徳川家茂) 演:松田翔太 江戸幕府14代将軍。幼名は菊千代。元紀州藩主で、当時の名は慶福(よしとみ)。血統的には家定の次の将軍に最も近く、井伊直弼らによって推される。 幼い頃から「君主の風格を備える」と周囲からの評判が高く、対面した篤姫にも好印象を残した。穏やかな性格の理想主義者で、将軍就任後は天璋院を母のように慕い、互いによき理解者となる。 和宮にも誠意を持って接し、攘夷実行が不可能なことを説き、何よりもまず妻として大切にすると誓って彼女の心を開く。勅使に攘夷決行を迫られると、自らの意思を孝明天皇に伝えるために上洛を決心する。しかし朝廷での攘夷論は根強く、翻意を促すには至らなかった。 その後、長州藩の反抗に際して出兵を決断し、自ら指揮を執る。自らが出馬することで平和裏に戦が終結することを狙っていたが、朝廷の意思を優先する慶喜らとの見解の相違もあり、その考え通りに事は運ばなかった。大坂城で病に倒れ、天璋院や和宮の計らいによって侍医が急派されたが、その甲斐なく亡くなった。臨終の際、軍艦奉行・勝麟太郎に「悔しいのう、わしはまだ21ぞ」と何事も成すことなく死んでゆくことへの無念の思いを吐露し、勝に天璋院と和宮の行く末を託した。 徳川慶喜(とくがわ よしのぶ) (一橋慶喜→徳川慶喜) 演:平岳大 江戸幕府15代将軍。元御三卿の一橋家当主で、当時は一橋(ひとつばし)慶喜と称する。前水戸藩主・徳川斉昭の七男。水戸の尊皇思想に大きく影響を受けており、自らも熱心な尊皇家である。 英明で知られており、斉昭や斉彬達によって家定の後継候補に担ぎ出されるが、父が大奥に嫌われていたことから大奥からの支持を得られず、さらに斉彬達や家定にも「将軍の地位に興味は無い」と言っており、家定も彼を快く思っていなかった。篤姫との初対面でも曖昧な態度を崩さず、篤姫は「島津の分家出身の自分を侮っている」「覇気が無い」と感じ、悪印象を覚えた。大老となった井伊直弼が勅許を得ないままアメリカとの通商条約を結ぶと江戸城に登城して直弼を詰問するが、逆にこれを罪とされて登城停止の処分を受ける。 後に、島津久光の率兵参府の前に幕府によって春嶽とともに赦免される。薩摩の力が働いていた事には不快感を持ったが、久光主導による幕政改革で将軍後見職に任じられ、幕政に参画する。家茂の上洛に際しては、様子を探るために先立って上京する。攘夷の実行を朝廷に申し出た事が家茂の不興を買うが、その後も京都で朝廷対策に奔走し、蛤御門の変時には率先して御所を守った。 家茂が急死すると、危急の時と言う事で将軍職を推されて就任。孝明天皇の信頼の元で京都二条城で政務を執ろうとするが、間もなく天皇が崩御してしまい出端を挫かれる。小松帯刀の提言により列侯会議を主催するが、将軍としての威厳を保とうとした言動が諸藩の反感を買い会議は分裂する結果に終わった。その後、土佐藩の建白と帯刀の説得に応じて、朝廷の政治能力の無さを視野に入れて大政奉還を断行する。しかし辞官納地は拒否する姿勢を見せ、大阪城で策を練ろうとするが、薩摩の策によってやむなく開戦する。しかし掲げられた錦の御旗を前に敗北を悟り、兵たちを残して江戸へ退却する。その後、勝麟太郎の勧めで天璋院と会い、命を捨てる覚悟を示すが、天璋院に諭されて恭順の道を辿る事を決め、江戸城内、さらには上野寛永寺、水戸で謹慎に徹する。 徳川家慶(とくがわ いえよし) 演:斉木しげる 江戸幕府12代将軍。家定の父に当たる。ペリー来航の混乱の最中に病死する。 徳川家達(とくがわ いえさと) (田安亀之助→徳川家達) 演:吉武怜朗(幼少時代:小林海人 少年時代:私市夢太) 田安家7代目当主。幼名は亀之助。 幼いながらも徳川家茂に次期将軍に推される。しかし揺れ動く政情への対処のために一橋慶喜が将軍職を継ぎ、その嗣子として置かれる事になった。その後、父慶頼とともに天璋院に謁見する。唐橋にはその幼さを危惧されていたが、天璋院は亀之助に亡き家茂の幼い頃を重ね、利発な子と評した。 徳川家取り潰しが回避されると、慶喜の後継となって駿府70万石に移封される。廃藩置県後は東京の天璋院の元に帰り、天璋院の元で書道や英語などの教育を受ける。 田安慶頼(たやす よしより) 演:長谷川ほまれ 田安家当主。幼い徳川家茂が将軍に就任すると将軍後見職となったが、程なく辞職している。息子の亀之助が将軍継嗣となると、亀之助とともに天璋院に謁見した。
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徳川将軍家
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徳川慶喜(とくがわ よしのぶ) (一橋慶喜 → 徳川慶喜) 演:小泉孝太郎 江戸幕府15代将軍。水戸藩主・徳川斉昭の実子。聡明な人物だが、その言動には本心が見えず周囲の評価は芳しくない。 当初は一橋徳川家当主で将軍・徳川家定の継嗣候補として松平春嶽らに担がれるが、徳川慶福(家茂)を担ぐ紀州派に敗れ、登城停止処分となる。井伊直弼の死後、政界に復帰し将軍後見職となる。春嶽と諮って容保を京都守護職に就けるが、言動を次々と翻しては容保や会津藩を振り回した。 家茂の没後、徳川宗家を相続し長州再征伐の勅命を受けたが、華々しい手柄を上げてから将軍職を継いで幕府を根底から改革する為に将軍襲職を拒んでいた。しかし時勢の変化に逆らえず、将軍宣下を受ける。その翌年、討幕派の攻撃をかわし、徳川家の生き残りを企図して大政奉還を行うが、新政府からは官職と領地の返上を命じられ、京都を追われる。薩長の挑発に乗せられる形で鳥羽・伏見の戦いを起こすが、敗色濃厚となると兵の多くを残して容保らと共に江戸へ逃亡。江戸到着後は容保に登城を禁じて徳川宗家に尽くしてきた会津藩を切り捨て、新政府に恭順する姿勢を示した。その後、勝と西郷との交渉で死を免れ、水戸での謹慎処分となる。 維新後、勝の尽力が実って明治天皇に謁見して名誉を回復した。だが、会津を見捨てたことを悔やんでおり、勝に自分には手に入らない会津藩の君臣の交わりを羨ましく思っていた事を告白していた。 徳川家定(とくがわ いえさだ) 演:ヨシダ朝 江戸幕府13代将軍。アメリカ総領事・ハリスと引見し、大統領親書を受け取った。 徳川家茂(とくがわ いえもち) 演:葉山奨之 江戸幕府14代将軍。元紀州藩主、前名・慶福(よしとみ)。 第二次長州征伐で上洛を果たすが、脚気に罹り急死した。
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徳川将軍家
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徳川家慶(とくがわ いえよし) 演:吉幾三 江戸幕府第12代将軍。 実子の家定を将軍とすることに不安を覚え、英邁な慶喜を可愛がり彼に期待を寄せる。やがてペリー艦隊が来航した頃に体調を崩し、慶喜に徳川を託して世を去る。 徳川家定(とくがわ いえさだ) (徳川家祥 → 徳川家定) 演:渡辺大知 江戸幕府第13代将軍。家慶の子。初名は家祥(いえさち)。 病弱で、料理をすることが趣味。正室の篤君とは、その密命を知りつつも自身には篤く接してくれることなどから仲は良い。将軍として凡愚であることに自覚があり、自身を軽んじて慶喜に期待する幕閣や徳川・松平一門、そして慶喜に対して鬱屈した思いを抱き、期せずして名門譜代の家門を継いだ直弼を実績のないまま優遇する。最期には直弼に、慶喜と慶喜を推している者たちへの処断を託して若くして没する。 天璋院(てんしょういん) (篤君 → 天璋院) 演:上白石萌音 家定の正室。島津斉彬の養女。名は篤君(あつぎみ)。 家定に輿入れした際は慶喜を将軍後継に認めさせるという密命を負っていたが、やがて家定が世を去ると、家定の愛情に恩を感じ始め、徳川の人間として家茂や和宮を見守るようになる。 徳川家茂(とくがわ いえもち) (徳川慶福 → 徳川家茂) 演:磯村勇斗 江戸幕府第14代将軍。将軍就任前は紀州藩主。初名は慶福(よしとみ)。 家定の次代将軍の座を慶喜を争う立場にあったが、家定が慶喜周辺を疎んじたことと、慶喜自身が良しとしたこともあって将軍候補最有力となり、そのまま将軍に就く。降嫁してきた和宮との夫婦仲は良い。 長州征伐に総大将として出陣するが、大坂城で病に倒れ、慶喜に後を託し急死する。 静寛院宮(せいかんいんのみや) (和宮 → 静寛院宮) 演:深川麻衣 家茂の正室。孝明天皇の妹宮。俗名は和宮(かずのみや)。 公武合体を目指す安藤信正によって家茂の正室となることとなり、東国の武家に赴く不安感から拒絶するも甲斐なく降嫁する。江戸で家茂と対面すると、彼の誠実な人柄に惹かれるようになる。 家茂が長州征伐中に急逝すると悲嘆に暮れ、「次は慶喜が苦しめば良い」と恨み言を呟く。 徳川家達(とくがわ いえさと) 演:三谷昌登 徳川宗家第16代。貴族院議長。幼名は田安亀之助(たやす かめのすけ)。
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徳川将軍家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/19 09:55 UTC 版)
徳川家康(とくがわ いえやす) 演:津川雅彦 前述の通り短気な謀略主義者としての側面が強調されていたが、同時に家族思いの側面も描かれる。また、『徳川家康』などのように秀吉の遺志を特に慮ったわけではないが、かつて織田家が豊臣家の配下となったように、豊臣家が徳川家に屈服することを期待して大坂の陣を極力避けようとはしており、夏の陣で秀頼と淀殿が自害した折は憮然としていた。少々口が悪いところもあり、また戦国武将としての用心深さと非情さから、温厚だが曲がったことを嫌う秀忠と対立することもあったが、実際は2人の関係は良好で、臨終の床では、秀忠の「へたくそな鼓」を聴くことを所望し、息を引き取った。 徳川秀忠(とくがわ ひでただ) 演:西田敏行 家康の三男。正室・お江の尻に敷かれる頭の上がらない恐妻家だが、妻のことを心から愛している。関ヶ原の戦いには中山道を通って西に向かうも遅参する。その後も武将として頼りない性格ゆえに父・家康を悩ませる。将軍職を継いだ当初は大御所・家康や重臣たちに支えられてなんとか政務をこなす有様だったが、徐々に将軍としての威厳を身に付け、乱行の収まらない忠輝・忠直や自分の意に従わない朝廷に対して断固たる態度をとる様になる。その一方で死の直前まで家光と忠長の不和に心を痛め続けた。 徳川家光(とくがわ いえみつ) (竹千代→徳川家光) 演:尾上辰之助(幼年期〜少年期:内田雅楽→吉永和真→佐藤圭祐→酒井長輝→山田孝之) 秀忠の次男。将軍家の世継ぎとして家康の命により母・お江とは引き離され、お福や傅役に養育される。幼少時から変わり者で女装するなど奇行も目立ち、青年期には頼房と夜の街に繰り出して辻斬りをしたり、侍女に乱暴して孕ませるなど素行も悪かった。お江には将軍家の世継ぎにはふさわしくないと思われ、疎まれていたが、最終的には三代将軍を継承する。プライドが高く、当初は公家の増長ぶりに反発し、御台所の孝子を遠ざけたり後水尾天皇の江戸行幸を迫ったりしたが、秀忠の死後は朝廷への歩み寄りを見せた。
※この「徳川将軍家」の解説は、「葵 徳川三代」の解説の一部です。
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