せいい‐たいしょうぐん〔‐タイシヤウグン〕【征×夷大将軍】
征夷大将軍 (せいいたいしょうぐん)
征夷大将軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/24 10:51 UTC 版)
注釈
- ^ 鎮守将軍と同格。
- ^ 源頼朝以降は例外が無い。
- ^ 同時に佐伯石湯が征越後蝦夷将軍に任じられた。
- ^ 養老4年9月28日に陸奥按察使の上毛野広人が殺害され、翌29日に多治比縣守が持節征夷将軍に任命された。
- ^ 紀古佐美の場合、延暦7年7月6日の任命の際は、『続日本紀』では「征東大使」に、『日本紀略』では「征東将軍」になっている。
- ^ 将軍の名称は、記録上あまり統一されておらず、例えば藤原宇合の場合は、任命時は「持節将軍」であり、帰京時は「征夷持節大使」となっている。
- ^ 「征東大使」として、他に藤原継縄や藤原小黒麻呂などの任命例もある。
- ^ 他の征東・征夷の将軍は、大の付く付かないにかかわらず、天皇より節刀を授かり全権を委任されていたが、文室綿麻呂に限っては節刀を授かっていない。
- ^ 建久3年(1192年)の征夷大将軍就任で下文が「将軍家政所下文」に変わったが、建久5年10月以降に再度、文書の形式が「前右大将家政所下文」に戻る。これを頼朝が征夷大将軍辞官の意思表示をしたための変更と解釈する説である。一方で高橋富雄は「辞任ならば終官が最も重んじられ『前将軍』が使用されるはずだがそうではなく、『前右大将』が使用されたのは、その方が権威があるからに過ぎない」として辞任否定説を取る[5]。また、受理されたか否かも別問題でこれも論争があり、石井良助は『尊卑分脈』の頼朝の建久3年(1192年)7月将軍就任記述の後、同5年10月10日条に「辞将軍」とあることから、頼朝が実際に将軍を辞任したとの説を取る。
- ^ 『山槐記』(中山忠親の日記)と『荒涼記』(藤原資季の日記)から除目・諸行事・諸事について抄出したもの。『山槐記』からの抜粋に藤原定能の記事が多く、資季は定能の孫であることから、編者は定能・資季の子孫と察せられる。
- ^ 『多聞院日記』天正12年(1584年)10月16日条にある、公卿就任の際に、朝廷から征夷大将軍を兼任するよう勧められたが断ったという記述による。
- ^ 官位は、将軍補任時と解任時。及び没後の贈官位。
出典
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征夷大将軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 16:09 UTC 版)
慶長10年(1605年)正月、父・家康は江戸を発ち伏見城へ入る。2月、秀忠も関東・東北・甲信などの東国の諸大名あわせて16万人の上洛軍を率い出達した。 3月21日、秀忠も伏見城へ入る。4月7日、家康は将軍職辞任と後任に秀忠の推挙を朝廷に奏上し、4月16日、秀忠は第2代将軍に任じられた。これにより建前上家康は隠居となり大御所と呼ばれるようになり、秀忠が徳川家当主となる。このとき、家康の参内に随行した板倉重昌も叙任された。 徳川秀忠 征夷大将軍の辞令(宣旨)「壬生家四巻之日記」 權大納󠄁言源朝󠄁臣秀忠左中辨藤󠄁原朝󠄁臣總光傳宣權中納󠄁言藤󠄁原朝󠄁臣光豐宣奉 勅件人宜爲征夷大將軍者慶長十年四月十六日中務大輔兼󠄁右大史算博󠄁士小槻宿禰孝亮奉 (訓読文) 権大納言源朝臣秀忠(徳川秀忠)左中弁藤原朝臣総光(広橋総光、正四位上・蔵人頭兼帯)伝へ宣(の)り権中納言藤原朝臣光豊(勧修寺光豊、従三位・武家伝奏)宣(の)る勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)慶長10年(1605年)4月16日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮(壬生孝亮、従五位下)奉(うけたまは)る 将軍・秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所・家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。おもに秀忠は徳川家直轄領および譜代大名を統治し、家康は外様大名との折衝を担当した。なお、将軍襲職の際に源氏長者、奨学院別当は譲られなかったとする説がある。『徳川実紀』にはなったと書いてあるが、これは没後さかのぼってのことだというのである。これが事実なら、徳川将軍で唯一源氏長者にならなかった将軍ということになる。 将軍就任により武家の長となった秀忠は自身の軍事力増大を行う。秀忠は将軍就任と同じ慶長10年に親衛隊として書院番を、翌年に小姓組を創設して、自身に直結する軍事力を強化した。慶長12年に家康が駿府城に移った後の伏見城には城代として松平定勝が入る一方、秀忠麾下の大番や関東の譜代大名が交代で警衛に当たっており、秀忠の持城になった。同年、江戸に到着した家康は秀忠へ金3万枚、銀1万3千貫を与えている。 続いて慶長13年冬から翌年春には関東の大名・旗本の観閲を行った。慶長15年閏2月には将軍就任後は家康が隠居した駿府へ赴く以外は概ね関東・江戸に留まった秀忠は、三河国田原で勢子大将を土井利勝・井伊直孝が務める大規模な巻狩を行っている。この時に供奉した旗本は美麗を極め、要した費用は計り知れないと言われた。またこの巻狩で家臣2人が喧嘩を行い、片方は死亡し片方は秀忠の命で処刑されたが、この喧嘩は他者には伝播せず日頃の法度により統率が取れていたとある。この狩に動員された人数は、同行した本多忠勝によれば4万2・3千人とされ、源頼朝による富士の巻狩りと同じく将軍である自身の権威誇示や軍事演習の側面があった。なお狩りを終えた後、江戸への帰国時に駿府を訪れた秀忠は、家康から自身が亡くなった際には子の徳川義直・徳川頼宣を特に引き立てることを頼まれており、帰国の途上で秀忠は涙を流したとある。 秀忠の軍事力が整備されたことを確認した家康は、続いて財政の譲渡を行う。慶長16年よりこれまで駿府へ収めた上方の年貢を江戸に収めるように変更し、翌年には諸国にある天領の内、多くが江戸へ年貢を納めるように変更された。ただし美濃国・伊勢国、また近江国の内13万石は駿府へ、また駿河国・遠江国・尾張国の年貢は頼宣・義直へ収めるとされた。また慶長16年1月に秀忠麾下の老中・奉行となった安藤重信に対して、家康は慶長5年以来の勘定の監査を命じ、慶長17年8月に重信はこの監査を完了した。その後、慶長18年には大久保長安事件を始めとした代官・吏僚の横領発覚とその処罰が多数行われた。 秀忠の権力強化は家臣団の交代にも現れている。将軍就任の翌年慶長11年には既に政務から離れていた榊原康政が亡くなり、また関東総奉行の青山忠成・内藤清成は家康の狩場に領民が鳥網・鳥籠の設置を許可したとして、家康の怒りを受けた秀忠が両人を解任。同じく総奉行の本多正信は老中に横滑りをして、関東総奉行の職は消滅した。慶長19年には大久保忠隣が改易され、正信を除き旧来の家臣は江戸政権の主要な役職から去り、秀忠の近臣がその地位を占めた。 慶長19年の方広寺鐘銘事件では家康へ頻繁に近臣を派遣して連絡を密にしており、秀忠も家康と同様に豊臣家に対して怒りを示している。その後、勃発した大坂冬の陣では出陣しようとする家康へ利勝を派遣して、自分が出陣するので家康は関東の留守を預かることを要請している。家康が秀忠の要請を容れず、自身がまず上洛して情勢を確認し、問題がなければ処置をして帰国するが、もし豊臣方が籠城等を行うなら秀忠の名で攻め滅ぼすので兵を派遣して欲しいと求めたのに対して、使者の利勝はその際は秀忠が兵を率いて上洛すると提案し、これが容れられている。 10月23日、江戸を出陣した秀忠は行軍を急ぎ、家康より数度徐行を求められるが応じず、11月7日に近江国永原(滋賀県野洲市永原)に到着すると、後軍が追い着くまで数日逗留している。その後の城攻めでは総大将として強攻を主張するも容れられず、また講話後の堀埋め立ての現場指揮を行った。慶長20年(1615年)のいわゆる「夏の陣」では豊臣家重臣・大野治房によって本陣を脅かされた。豊臣家滅亡後、家康とともに武家諸法度・禁中並公家諸法度などの制定につとめた。 元和2年(1616年)1月21日夜に家康が発病した際には、使者が12時間で江戸へ報を伝えている。秀忠は2月1日に江戸を発して翌日に駿府へ到着、以後は4月17日の家康死去まで駿府に滞在して父の死を看取り、22日に葬られた久能山に参拝後、24日に江戸へ帰った。また家康の後を追うように正信も6月に亡くなっている。
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征夷大将軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 14:52 UTC 版)
文治5年(1189年)11月3日、朝廷より奥州征伐を称える書状が下り、頼朝は按察使への任官を打診され、さらに勲功のあった御家人の推挙を促されるが、頼朝は辞退した。奥州では、大河兼任の乱が勃発するが、足利義兼や千葉胤正らに出陣を命じ、文治6年(1190年)3月に大河兼任は討取られた。伊沢家景を陸奥国留守職に任命し、在庁官人を指揮させ、奥州への支配を強化した。建久元年(1190年)10月3日、頼朝は遂に上洛すべく鎌倉を発つ。平治の乱で父が討たれた尾張国野間、父兄が留まった美濃国青墓などを経て、11月7日に千余騎の御家人を率いて入京し、かつて平清盛が住んだ六波羅に建てた新邸に入った。 9日、後白河法皇に拝謁し、長時間余人を交えず会談した。頼朝は権大納言・右近衛大将に任じられたが、12月3日に両官を辞した。任命された官職を直ちに辞任した背景としては、両官ともに京都の朝廷における公事の運営上重要な地位にあり、公事への参加義務を有する両官を辞任しない限り鎌倉に戻ることが困難になると判断したとみられている。11月9日の夜、頼朝は九条兼実と面会して政治的提携を確認した。頼朝の在京はおよそ40日間だったが後白河院との対面は8回を数え、朝幕関係に新たな局面を切り開いた。義経と行家の捜索・逮捕の目的で保持していた日本国総追補使・総地頭の地位は、より一般的な治安警察権を行使する恒久的なものに切り替わり、翌年3月22日の建久新制で頼朝の諸国守護権が公式に認められた。12月14日、頼朝は京都を去り29日に鎌倉に戻った。 建久2年(1191年)3月4日の夜、鎌倉は大規模な火災に見舞われ、大蔵幕府やその周辺の御家人の屋敷などが多数焼失した。頼朝は郊外の甘縄にあった安達盛長の邸宅に逃れて無事であったが、鎌倉の都市計画は修正を余儀なくされた。もっとも、この前日に鎌倉に大火を予言した者がいたなど『吾妻鏡』には不審火を示唆するような記述が見られ、頼朝もしくはその周辺の幕府首脳が都市計画の障害となる建物を整地するために意図的に引き起こした放火である、とした説を唱える研究者もいる。 建久3年(1192年)3月に後白河法皇が崩御し、同年7月12日、後鳥羽天皇によって頼朝は征夷大将軍に任ぜられた。『三槐荒涼抜書要』所収の『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条および12日条によると、頼朝が望んだのは「大将軍」であり、それを受けた朝廷で「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の四つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣官」や源義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして、坂上田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例として選ばれたという。なお、頼朝が征夷大将軍を望んだものの後白河法皇に阻まれたとする説については、近年は疑問視されている。また、それまでは精々従三位までの東方軍事司令官でしかなかったこの職に、あえて左大臣(元々は常設職としては政権最高位であった)にも相当する正二位で就いたことは、軍権に基づく政権担当者という意味合いが加わり、以降、幕末まで700年近く続く慣例が創始された。 同年8月、政子が三男(政子の子としては次男)の源実朝を出産。その3ヶ月前の5月、大進局が産んだ貞暁は7歳になった時、政子を憚って出家させるため京の仁和寺へ送られた。出発の日に頼朝は密かに貞暁の元を訪れ、太刀を与えている。
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征夷大将軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/19 11:18 UTC 版)
慶長5年(1601年)12月19日、文禄4年(1595年)に豊臣秀次が解任されて以来空いたままになっていた関白に九条兼孝が家康の奏上により任じられた。このことにより、豊臣氏による関白職世襲を止め旧来の五摂家に関白職が戻る。 .mw-parser-output .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .thumbcaption{background-color:transparent}.mw-parser-output .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;align-items:center}.mw-parser-output .trow>.thumbcaption{text-align:center}} 『洛中洛外図』の徳川時代の伏見城 二条城の唐門 関ヶ原の戦いの戦後処理を終わらせた慶長6年(1601年)3月23日、家康は大坂城・西の丸を出て伏見城にて政務を執り、征夷大将軍として幕府を開くため、徳川氏の系図の改姓を行った。 慶長7年(1602年)、関ヶ原の戦いの戦後処理で唯一処分が決まっていなかった常陸国水戸の佐竹義宣を出羽国久保田に減転封。代わりに佐竹氏と同じく源義光の流れをくむ武田氏を継承した五男・武田信吉を水戸に入れた。これによって確定した徳川氏の領域は一門・譜代大名の所領も含めると、東は岩城領から関東一円、北は南信濃から美濃国・越前国、西は近江国・山城国・大和国と北伊勢の桑名領をほぼ一円支配するものであった(秋田氏や里見氏などの小規模な外様大名の支配地は除く)。 慶長8年(1603年)2月12日、後陽成天皇が参議・勧修寺光豊を勅使として伏見城に派遣。朝廷より六種八通の宣旨が下り、家康を征夷大将軍、右大臣、源氏長者、淳和奨学両院別当に任命した。 同年3月12日、伏見城から二条城に移り、3月21日、衣冠束帯を纏い行列を整えて御所に参内し、将軍拝賀の礼を行い、年頭の祝賀も述べた。3月27日、二条城に勅使を迎え、重臣や公家衆を招いて将軍就任の祝賀の儀を行った。また4月4日から3日間、二条城で能楽が行われ諸大名や公家衆を饗応した。
※この「征夷大将軍」の解説は、「徳川家康」の解説の一部です。
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征夷大将軍
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 07:54 UTC 版)
延暦16年、延暦23年と生涯で2度の征夷大将軍に任命されている。2度目は還任するものの、藤原緒嗣の議により「軍事と造作」が停止されたため出征していないにもかかわらず、その後も本来は臨時の官職である征夷大将軍であり続けたと思われる。高橋崇は、征夷使・大伴弟麻呂の肩書として文献にあらわれた順に征夷大使・征東大使・征夷大将軍・征夷将軍など一定しておらず、対して田村麻呂は征夷大将軍で一貫して記されていることから「田村麻呂に征夷大将軍の初例を求めても誤りとはいえないであろう」としている。 『三槐荒涼抜書要』所収の『山槐記』建久3年(1192年)7月9日条および12日条によると、「大将軍」を望んだ源頼朝に対して、それを受けた朝廷で「惣官」「征東大将軍」「征夷大将軍」「上将軍」の四つの候補が提案されて検討された結果、平宗盛の任官した「惣官」や源義仲の任官した「征東大将軍」は凶例であるとして斥けられ、また「上将軍」も日本では先例がないとして、田村麻呂の任官した「征夷大将軍」が吉例として選ばれたという。
※この「征夷大将軍」の解説は、「坂上田村麻呂」の解説の一部です。
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征夷大将軍(鎌倉殿)
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鎌倉幕府の長。初代頼朝の時代は武家の棟梁と見なされていたが、源氏将軍が3代で途絶えると、朝廷から摂関家(2代)および皇族(4代)を迎え入れるようになり形骸化していく。
※この「征夷大将軍(鎌倉殿)」の解説は、「鎌倉幕府」の解説の一部です。
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征夷大将軍
「征夷大将軍」の例文・使い方・用例・文例
- 征夷大将軍
- 征夷大将軍の政府
- 征夷大将軍という人
征夷大将軍と同じ種類の言葉
指揮官に関連する言葉 | 主帥 征夷大将軍 旅帥 軍将 |
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