上覧相撲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/28 21:46 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動上覧相撲(じょうらんずもう)は、将軍の観戦する大相撲のこと。
概要
広義には、鎌倉時代や室町時代にも上覧相撲は行われていた。これは武芸としての相撲の技を、武士が主君である将軍に披露し競いあったものである。また戦国大名もしばしば相撲大会を催し、優秀な者は家臣に取り立てることもあった。
鎌倉時代には『吾妻鏡』に相撲奉行という役名が出てくるが、これは上覧相撲の進行、事務の監督など行ったものであり、勝負を裁いたものではない[1]。
狭義の上覧相撲は、興行としての勧進相撲の成立した江戸時代、11代将軍徳川家斉と12代徳川家慶の時代に、いずれも江戸城吹上で計7回催されたものを指して言う。
力士を抱える諸大名にすると、「上様の覚えめでたき」を得られるかどうかがかかっていた。各力士は主君からその旨を厳しく申し付けられ、場合によっては抱えを解かれることさえあった。そのため、上覧相撲は本場所以上の真剣勝負の場となり、当時よくあった預りや無勝負も、上覧にかぎっては適用されなかった。
幕府側の思わくとしては上覧相撲によって「寛政の改革」で娯楽を制限された庶民の不満をかわしつつ、江戸相撲側に対して相撲興行の地位を確たるものにする絶好の機会を与えるというものがあったとされる[2]。
上覧相撲の一覧
- 寛政3年6月11日(1791年7月11日)
- 寛政6年(1794年)5月
- 享和2年(1802年)12月 - 雷電が幕下力士五人掛けを披露。
- 文政6年(1823年)4月
- 文政13年(1830年)3月 - 阿武松と稲妻が横綱土俵入り。
- 結びの一番で阿武松が「待った」、寛政3年(1791年)の小野川の「気負け」を覚えていた将軍・家斉は、「なぜ稲妻の勝ちにならない?」と側用人に質したという。以上家斉時代。
寛政3年(1791年)の最初の上覧相撲は、大坂相撲や京都相撲に遅れをとっていた江戸相撲がこれを挽回するために企図した側面も強い。興行政策上のものだった横綱制度も、上覧を得て権威づけがなされることになった。小野川の「気負け」の逸話にしても、上覧を機に相撲家元の地位を確固としたかった追風のパフォーマンスだったという説もある。
脚注
上覧相撲
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/28 21:24 UTC 版)
明治から昭和戦前にかけての天覧相撲のように、江戸時代には徳川本家が観覧する上覧相撲が開催されていた。戦前の天覧相撲と同様、本場所の番付に直接の影響が無いという意味では花相撲に属するが、当時の力士にとっては上覧での成績次第では俸禄の増減や、場合によっては大名からの抱えの可否にまで影響したことから、本場所よりも上位の存在であった。
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