天保14年 (みずのとう 癸卯)
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年(年号) | |
●1825年 (文政8年) | ■異国船打払令 |
●1828年 (文政11年) | ■シーボルト事件 |
●1829年 (文政12年) | ■江戸大火 |
●1830年 (天保元年) | ■伊勢御蔭参り大流行 |
●1837年 (天保8年) | ■大塩平八郎の乱 |
●1839年 (天保10年) | ■蛮社の獄 |
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●1853年 (嘉永6年) | ■黒船来航 |
●1855年 (安政2年) | ■安政江戸地震 |
●1858年 (安政5年) | ■安政の大獄 |
●1860年 (万延元年) | ■桜田門外の変 |
●1862年 (文久2年) | ■生麦事件 |
●1863年 (文久3年) | ■薩英戦争 |
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1843年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/04 09:27 UTC 版)
1843年(1843 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年。
- ^ ファータド 2013, p. 522『最初の「カートゥーン(漫画)」発表』
- 1 1843年とは
- 2 1843年の概要
- 3 誕生
- 4 死去
- 5 参考文献
- 6 関連項目
1843年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 03:47 UTC 版)
天保十勝沖地震。天保14年3月26日明方(1843年4月25日)。マグニチュードは地震カタログによって異なり、M 7.5 - 8.0、津波マグニチュード (Mt) 8.0。『國泰寺日鑑』、『釧路郡役所報告』などに記録がある。ロシアでは南千島地震としている。釧路から根室にかけて強く揺れ、厚岸で八幡神社が4-5尺ずれ、地割れがあり、江戸でも有感であった。 津波が北海道太平洋側から千島列島に襲来し、厚岸で波高4-5m、番屋やアイヌの家屋が流失し45名の溺死者を記録した。根室や国後島でも溺死者を出した。 この地震による津波の波源域は1894年根室半島沖地震と重なると推定されることから、十勝沖と根室沖の領域が連動して発生したプレート間地震と推定されている。 発生日時:1843年(天保15年)4月25日12時頃 震源の深さ:20km(推定) 地震規模:M8.0 震央域:千島海溝 種類:海溝型地震 最大震度:6 死者:43名 津波:厚岸で7m程度
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1843年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2016/01/24 06:24 UTC 版)
詳細は「リュドヴィート・シュトゥール」を参照 若いスロバキア人ルター派プロテスタントらが、リュドヴィート・シュトゥール主導で、中央スロバキア方言を新しく標準スロバキア語とする事を決定した(カトリックで用いられていたベルノラーク語と年長のスロバキア人ルター派プロテスタントにより用いられていたチェコ語の両方に代わって)。この新しい言語もヤーン・ホリーの主導によりベルノラーク語の利用者にも受け入れられたが(1851年の項も参照)、ヤーン・コラール(1852年没)主導の年長のルター派プロテスタントには初めは批判された。この言語は標準スロバキア語として「現在ももちいられて」いる(1851年の項参照)。これは1844年8月に新しい標準語として公式に宣言された。この新しいスロバキア語の初めての文法書が1846年にリュドヴィート・シュトゥールにより出版された。
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1843年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/02 06:04 UTC 版)
1843年十勝沖地震は、津波記録や震度分布から根室半島沖の領域も活動していた可能性が指摘されている。但し、17世紀初頭イベントのような巨大津波は発生していない。
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1843年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/28 18:13 UTC 版)
シャルル・グレール『夕べ(失われた幻想)』油彩、キャンバス、157 × 238 cm。ルーヴル美術館。
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1843年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/12 03:45 UTC 版)
1841年7月、オソン1世は閣僚から提案された立憲制への移行を拒否、提案を行ったギリシャ人外相アレクサンドロス・マヴロコルダトス (en) を解任した。しかし、この行為によりギリシャ人が軽んじられ、さらに借款返済のために財政が引き締められたことにより、オソン1世への不満がさらに高まりを見せることになった。 バイエルン人摂政らによるギリシャ支配はギリシャ人らの不満を惹き起こしていた。そしてギリシャ独立後にギリシャへ移住した「ヘテロフソン」らが王国政府の高い地位を独占していたため、独立戦争を戦い抜いた軍人らは自らの地位を奪い取られたとして不満を抱いていた。 さらにギリシャが破産状態であったため、税金も過酷であり、軍事支出への法外な負担、列強からの借款の利払いに費やされたため、世論も不満が高まっていた。そして列強三国もこの状態に不満を抱いており、不満を持つギリシャ人らの反体制運動に対して支援を行なっていた。特にイギリスは強く支援を行なっており、イギリス総督府はその司令部と化していた。 さらにイギリスは当時統治していたイオニア諸島において自由主義的改革を行ない、イオニア議会下院ではギリシャにおいて代議制を導入することを討議したが、これはギリシャの立憲主義者を刺激することになった。 1843年、1840年に始まったヨーロッパ経済不況のあおりを受けていたギリシャ政府は破産を宣言、列強三国に信用貸しを行なうよう申し出たが、列強はこれに対してギリシャ全資産を借金に補填することを決定した。しかし、この条約が批准される予定であった1843年9月3日、アテネにおいてヤニス・マクリイアニス (en) 、デミトリオス・カレルギス (en) 、アンドレアス・メタクサス (en) 、マブロコルダトス、コレッティスらによる無血革命 (en) が発生、民衆もこれを支持した。 革命軍は宮殿を包囲した上で参事院を召集、オソン1世に対して憲法を制定することを求める要望書を提出した。オソン1世はこれに対して小さな抵抗を行なったものの、結局、これを認めた。そのため国民議会が憲法制定のために召集された。国民議会はイギリス首相ロバート・ピール、フランス外相ギゾーの助言、勧告を受けておりイギリス派であるマブロコルダトスとフランス派であるコレッティスらが主導権を握った。そのためイギリス、フランス両国が同意していた国王の拒否権と大臣の任命権が認められ、さらにギゾーが主張していた王によって任命される終身議員で構成される上院が創設されることが議論された。結局、半年に及ぶ議論の後、1844年3月に憲法は公布された。 ζήτω το σύνταγμα(憲法万歳) 憲法制定後、万歳の代わりに何年も国民らが叫んだがその意味を深く知る事はなかった。 憲法 (en) には市民平等、個人の自由、出版の自由、団体の権利が保障され税金納付制限付きで男性のみではあったが実質的普通選挙権が認められた。しかし立法権、大臣の任命権、裁判権は王に付随しており、さらに選挙で選ばれる下院(ブゥリイ、βουλη)だけではなく、王が任命する上院(ゲルゥシア、γερυσια)との二院制と規定されたため、著しく王に権利が付随する極端に保守的なものであった。 憲法が制定された後、ギリシャ人が首相の座につくことになったが、歴代首相であるフォアナリオティスのマブロコルダトス、ワラキア出身のコレッティス、アルバニア人のクンドゥリオティスらは名目上のギリシャ人でしかなかった。そして、彼らのほとんどは憲法に関心を払わず、マブロコルダトスに至っては憲法制定後初の首相であったが憲法を裏切る行為のために辞職に追い込まれた。さらにイオアニス・コレッティスが首相に就任した際にも憲法を重視しなかったため、オソン1世は憲法に従うそぶりをみせることはなかった。 しかし、この憲法の制定によりギリシャ王国は立憲君主制と化した。
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1843年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/10/03 13:15 UTC 版)
イギリスのウィリアム・ヘンソンが蒸気動力の飛行機の構想をたて、フレデリック・マリオット 、D・E・コロンバイン (D. E. Colombine)と共に特許を取得し、資金を集める目的で同年にイングランドで「空中輸送会社」 (Aerial Transit Company) を起業した。
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「1843年」の例文・使い方・用例・文例
- 着工1843年
- ノルウェーの作曲家で、その作品はノルウェーの伝統音楽にしばしば着想を得ている(1843年−1907年)
- 米国の海軍将校で、1812年の戦争の間に『憲法』を駆使して、英国人に対する一連の光り輝く勝利を勝ち取った(1773年−1843年)
- 作家で、米国に生まれたが、英国に住んだ(1843年−1916年)
- ドイツ人の細菌学者で、炭疽菌、結核菌、コレラ菌を発見した(1843年−1910年)
- チェロキー族で、チェロキー語を書くための記法を作成した(1770年−1843年)
- 英国の詩人でワーズワースとコールリッジの友人(1774年−1843年)
- アメリカの歴史的場面の画家(1756年−1843年)
- 米国の実務家で、1872年に成功した通信販売ビジネスを確立した(1843年−1913年)
- 米国の辞書編集者(1758年−1843年)
- その小説は1843年に出版され,何度も映画化されてきた。
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