文久2年 (みずのえいぬ 壬戌)
年(年号) | |
●1853年 (嘉永6年) | ■黒船来航 |
●1855年 (安政2年) | ■安政江戸地震 |
●1858年 (安政5年) | ■安政の大獄 |
●1860年 (万延元年) | ■桜田門外の変 |
●1862年 (文久2年) | ■生麦事件 |
●1863年 (文久3年) | ■薩英戦争 |
●1867年 (慶応3年) | ■大政奉還 |
●1868年 (明治元年) | ■鳥羽・伏見の戦い |
●1869年 (明治2年) | ■版籍奉還 |
●1871年 (明治4年) | ■廃藩置県 |
●1871年 (明治4年) | ■解放令 |
●1873年 (明治6年) | ■徴兵制布告 |
●1876年 (明治9年) | ■廃刀令 |
●1877年 (明治10年) | ■西南戦争 |
●1877年 (明治10年) | ■東京大学設立 |
●1882年 (明治15年) | ■上野動物園開園 |
1862年
(文久2年 から転送)
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1862年(1862 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
- 1 1862年とは
- 2 1862年の概要
- 3 誕生
- 4 死去
- 5 脚注
文久2年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 08:17 UTC 版)
事件から2日後の8月23日、ニール代理公使は横浜において外国奉行・津田正路と会談した。この会談でニールは「勅使の通行は連絡があったのに、なぜ島津久光の通行は知らせてこなかったのか」と追及した。これに対して津田は「勅使は高貴だが、大名は幕府の下に属するもので達する必要はない。これまでもそれで問題はなかった」と答え、「勅使より薩摩藩の通行の方が問題が起こる可能性が高いのはわかりきった話」として、ニールに反論されている。ニールは本国のジョン・ラッセル外相への報告書に、久光通行の知らせはなかったことを明記して、外交上自国に有利な幕府の過失を指摘している。 8月30日には、老中板倉勝静邸においてニールと板倉、水野忠精との折衝が行われ、ここでもイギリス側は犯人の差し出しを繰り返し要求した。一方、ニールは本事件の賠償金要求については、イギリス本国の訓令を待って交渉することとしていた。 当時の幕府においては、多数の軍勢を伴って幕府の最高人事に介入した久光に対して、敵意を持つ見方が一般であった。そのため、生麦事件の知らせに「薩摩は幕府を困らせるために、わざと外国人を怒らせる挙に出た」と受け止める幕臣が多数で、薩摩を憎みイギリスを怖れることに終始し、対策も方針もまったく立てることができないでいたという。当の久光の幕政介入によって政事総裁職に就いた松平慶永は、本事件に関する処置案(久光の帰国差し止め等)を老中らに建言するも受け入れられず、一時登城を停止する事態となった。 一方、東海道筋の民衆は、「さすがは薩州さま」と歓呼して久光の行列を迎えたという。閏8月7日(1862年9月30日)に久光は上洛、9日に参内するが、孝明天皇はわざわざ出御して久光の労を賞し、これは無位無官の者に対しては異例の待遇であった。この事件を題材に山階宮晃親王が作った「薩州老将髪衝冠 天子百官免危難 英気凛々生麦役 海辺十里月光寒」という漢詩は、明治になって愛唱された。しかし、生麦事件をきっかけとして朝廷が攘夷一色に染まってしまったことは、久光および薩摩藩の思惑を超えた結果だった。薩摩藩の幕政改革の意図は攘夷ではなく、彼らの不満はむしろ幕府が外国貿易を独占していたことにあったのである。尊攘派の支配する京都の情勢に耐えかねた久光は、23日に京都を発って鹿児島に戻った。
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