さつえい‐せんそう〔‐センサウ〕【薩英戦争】
薩英戦争
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座標: 北緯31度35分42秒 東経130度34分11秒 / 北緯31.595101度 東経130.569584度
- 1 薩英戦争とは
- 2 薩英戦争の概要
薩英戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/12 01:07 UTC 版)
薩英戦争において、薩摩藩がイギリス艦艇に対し機雷を使用した記録がある。桜島と沖小島の間に地上管制式の水雷3発を敷設して実際英国軍艦が接近したが、連絡ミスにより沖小島砲台が発砲したため設置地点に近寄らず失敗。
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薩英戦争
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詳細は「薩英戦争」を参照 薩摩本国では、文久3年6月27日に7隻のイギリス艦が錦江湾に現れ、4日後に交渉が決裂すると薩摩側の砲撃が開始された。山内容堂は、家臣を派遣して戦争の詳報を得た後、8月2日付の伊達宗城(前宇和島藩主)宛の書簡で、「わが国体を辱めず、感服の至り」「長州の暴挙とは天地の相違」と感想を述べた。島津久光も、8月5日付の宗城宛書簡で、下関の件は「笑止之事」とし、薩英戦争については「あくまで開諭(示談)するつもりで再三応接したが、蒸気船3艘を奪取されたため(これを敵の襲来と認めて)砲撃した」と伝えている(書状到達は9月16日)。薩摩側は、敵が襲来すれば撃ち払えという幕府の通達に則って砲撃を開始したのである。 いっぽう8月6日、長州の使者から攘夷実行について協力を求められた宗城は、「外国への対処は征夷府(幕府)に委任されており、その命令によって対処すべき」として断っている。幕府の方針を前提とする限り、薩英戦争は称賛されても、長州の武力攘夷は他藩の理解を得られない。長州としては、いよいよ攘夷委任から攘夷親征への転換に活路を見出すしかなかった。
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薩英戦争
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幕府との交渉に続いて、イギリスは薩摩藩と直接交渉するため6月27日に軍艦7隻を鹿児島湾に入港させた。しかし交渉は不調であり、7月2日、イギリス艦による薩摩藩船の拿捕をきっかけに薩摩藩がイギリス艦隊を砲撃、薩英戦争が勃発した。薩摩側は鹿児島市街で500戸以上が焼失するなど大きな被害を受けるが、イギリス艦隊側にも損傷が大きく、4日には艦隊は鹿児島湾を去り、戦闘は収束した。同戦争後、イギリスの軍事力を目の当たりにした薩摩藩では、攘夷の声は急速に下火になり、藩論は開国へ向け大きく転換する。 詳細は「薩英戦争」を参照
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薩英戦争(1863年)
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「幕末の砲艦外交」の記事における「薩英戦争(1863年)」の解説
詳細は「薩英戦争」を参照 安政五カ国条約が締結され、1859年7月1日(安政6年6月2日)に横浜が開港すると、横浜に居留する外国人の数は増加した。それに伴いトラブルも増えていたが、ついに第一次東禅寺事件が発生し、英国公使ラザフォード・オールコックが襲撃された。このため、オールコックは英国東インド艦隊司令官ジェームズ・ホープに対し、居留民保護を目的として軍艦の派遣を要請した。しかし、オールコックが帰国中に第二次次東禅寺事件が発生し、代理公使ジョン・ニールが襲われる。ニールはホープに追加の艦艇の派遣を要請した。ここにいたり、ホープは、外国人襲撃は個人的な動機によるものであり、根本的な解決のためには幕府の強力な取り締まりが必要である、さらに幕府にそれを実行させるには圧力をかける必要があり、具体策として海上封鎖および一部砲台に対する限定的な攻撃を提案した。この提案は後に本国政府の承認を得ることになる。ホープはニールの要請に応じて、部下であり彼の後任として東インド艦隊司令官に内定していたオーガスタス・レオポルド・キューパーを横浜に派遣した。その到着当日、すなわち1862年9月14日(文久2年8月21日)に生麦事件が発生した。英国居留民らはキューパーに対して強硬な対応を求めたが、キューパーに与えられた命令は海上封鎖の可能性の調査であり、またニールも慎重な対応に同意した。 一方、本国政府では対日強攻策が主流になっており、1862年12月24日(文久2年11月4日)、ラッセル外相からニールに対し、生麦事件の対日要求が示された(ニールに訓令が到達したのは1863年3月4日(文久3年1月15日))。すなわち、幕府に対しては公式謝罪と10万ポンドの賠償金、薩摩藩に対しては犯人の処刑と2万5000ポンドの賠償金の支払いを要求し、幕府が応じない場合は船舶および海上封鎖、薩摩藩が応じない場合は鹿児島湾封鎖や直接攻撃を認めるものであった。ニールもホープも軍事行動はは最後の手段であると考え、1863年3月22日(文久3年2月4日)、ホープの副官であるキューパーに軍艦3隻(ユーライアス、ラットラー、レースホース)を率いさせて横浜に呼び寄せ、幕府に最後通牒を突きつけて海上封鎖の可能性を仄めかせた。これを憂慮したフランス公使デュシェーヌ・ド・ベルクールの仲介によって6月24日(5月9日)にニールと江戸幕府代表の小笠原長行との間で賠償がまとまって日本海上封鎖は直前に中断され、残る薩摩藩との対応が主目的となった。 8月6日(6月22日 )ニールは薩摩藩との直接交渉のため、キューパーに7隻の艦隊を率い横浜を出港。8月11日(6月27日)は鹿児島湾に到着し鹿児島城下の南約7kmの谷山郷沖に投錨した。当初英国側は戦闘になる可能性は低いと見ていたが、交渉は決裂し、英国は軍事行動を決意する。8月15日(7月2日)早朝、薩摩藩の蒸気船3隻を拿捕。これをきっかけに薩摩側の砲台が砲撃を開始した。英国艦隊は台場だけでなく鹿児島城や城下町に対しても砲撃・ロケット弾攻撃を加え、城下で大規模な火災が発生した。陸上砲台や近代工場を備えた藩営集成館も破壊された。午後5時過ぎ、艦隊は砲撃をやめ、桜島横山村・小池村沖に戻って停泊した。翌8月16日、イギリス艦隊は城下や台場に砲撃を加えながら湾内を南下、谷山村沖に停泊し艦の修復を行う。8月17日、英国艦隊は薩摩から撤退し横浜に向かった。 11月15日(10月5日)、幕府と薩摩藩支藩佐土原藩の仲介により代理公使ニールと薩摩藩が講和。薩摩藩は2万5000ポンドに相当する6万300両を幕府から借用して支払った(この借用金は幕府に返されることはなかった)。また、講和条件の一つである生麦事件の加害者の処罰は「逃亡中」とされたまま行われなかった。 艦名艦種建造年トン数乗組員機関出力備砲ユーライアラスEuryalus 蒸気スクリューフリゲート 1853年改造 積載量2371トン(bmトン)排水量3125英トン 540 400NHP 110ポンドアームストロング砲x540ポンドアームストロング砲x8その他22門鹿児島砲撃時にカロネード砲x16を追加 パールPearl 蒸気スクリューコルベット 1855年 積載量1469トン(bmトン)排水量2187英トン 400 400NHP 68ポンド砲x110インチ砲x20 パーシュースPerseus 蒸気スクリュースループ 1861年 積載量955トン(bmトン)排水量1365英トン 175 200NHP 40ポンドアームストロング砲x532ポンド砲x12 アーガスArgus 蒸気外輪スループ 1852年 積載量981トン(bmトン)排水量1630英トン 175 300NHP 110ポンドアームストロング砲x110インチ砲x132ポンド砲x4 レースホースRacehorse 蒸気スクリュー砲艦 1860年 積載量695トン(bmトン)排水量877英トン 90 200NHP 110ポンドアームストロング砲x110インチ砲x132ポンド砲x120ポンド砲x2 コケットCoquette 蒸気スクリュー砲艦 1855年 積載量677トン(bmトン) 90 200NHP 110ポンドアームストロング砲x110インチ砲x132ポンド砲x120ポンド砲x2 ハボックHavock 蒸気スクリューガンボート 1856年 積載量232トン(bmトン) 37 60NHP 68ポンド砲x2
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