アン女王戦争
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アン女王戦争(アンじょおうせんそう、英語: Queen Anne's War、1702年 - 1713年)は、欧州のスペイン継承戦争に対応して北米大陸において起こった、フランス王国(以下フランス)とイングランド王国(後にグレートブリテン王国[注釈 1]、以下イギリスで統一)との間の戦争であり、一連の北米植民地戦争においては2度目の戦争である。名称は当時イギリスを統治していたアン女王の名にちなむ。それぞれの国と同盟を結んでいた多数のアメリカ州の先住民族および、フランス王国の同盟国であったスペイン帝国(以下スペイン)も戦争に加わった。別称に第三次インディアン戦争(英: Third Indian War)があり[注釈 2]、またフランス語では第二次植民地間戦争(仏: Deuxième Guerre intercoloniale)と呼ばれる[3]。
注釈
出典
- ^ a b c d e f g 大部分の犠牲者数はPeckham (1964) p. 74による。特に不明なのは、アカディア植民地およびニューファンドランドでの死傷者である。そして彼はインディアンの死傷者を計算しようとしなかった。
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アン女王戦争
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アン女王戦争において、1週間に及んだ1710年のポートロワイヤルの戦いの攻城戦後、この砦は、ニューイングランド植民地の民兵を含むイギリス(グレートブリテン王国)軍の手に落ち、イギリスによるアカディア征服を決定づけることになった。砦を守っていたフランス軍は、イギリス軍の総督と軍隊に置き換えられ、集落の名もポート・ロワイヤル入植地から、イギリス女王アンにちなんだアナポリスロイヤルへと改称された。3年後のユトレヒト条約で、イギリスはノバスコシアの大部分を完全に支配下に置き、1749年にハリファックスが建設されるまで、アナポリスロイヤルをノバスコシアの首都とした。
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アン女王戦争
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アン女王戦争中、ダドリーは率先して植民地の防御に当たった。1703年6月、カスコ湾で複数のインディアンに出くわしたことにより、フランスが組織化したインディアンの戦闘行為に先んじるつもりだったが、フランスは、既に自らの大義のためにインディアンを召集しており、この1703年の8月に、メイン南部の植民地で奇襲による彼らの戦争が始まった 。ダドリーは民兵を召集し、マサチューセッツとニューハンプシャーの辺境地帯、コネチカット川からメイン南部までにわたる地域を守らせた。フランスとインディアンは1704年に仕掛けたディアフィールド奇襲への報復が急がれた。ダドリーは、ベテランの猟兵(レンジャー)であるベンジャミン・チャーチに、報復のための遠征隊長の権限を与え、アカディアに向かわせた。また、ディアフィールドから連行された捕虜の奪還同意にも携わった。この同意は、フランスにより、更に適用範囲が広げられようとしていた。 ダドリーは、チャーチに、アカディアの首都であり、経済の中心地であるポートロワイヤルの攻撃をはっきり否定したことから、ボストンの商人や、フランスの商人や密輸業者とグルになって、違法な取引をしていたマザー家の者に告発され。1707年、これらの批判の先手を打って、ポートロワイヤルに民兵を派遣した。翌1708年、彼の行政を辛辣に攻撃する本がロンドンで出版された。その題名は「強欲で陰険な総督と、弱気な側近によるニューイングランドの惨めな有様」といい、ダドリーの解任運動の一環だった。1709年、ダドリーはまたも民兵を召集し、ケベックへの遠征を計画したが、援軍のイギリス兵が本国に呼び戻されて中止となった 。1710年、イギリスからの援軍が到着し、ポートロワイヤルの戦いにより、ポートロワイヤルが陥落し、ノバスコシア植民地が誕生した。1711年、ボストンはまたもケベック遠征の拠点となった。イギリス軍と民兵の混成軍によるこの遠征は悲惨なものに終わった、輸送船がセントローレンス川の岸で浸水、沈没したのである。アン女王戦争中、ダドリーはニューイングランド北西部のアベナキ族相手の遠征を組織したが、ほとんど功を奏しなかった 。ポートロワイヤルの戦いの後、辺境地帯での小規模な奇襲もあったが、戦争はおさまり、1713年のユトレヒト条約で平和が訪れた。 1713年、ダドリーはニューハンプシャーのポーツマスでアベナキ族と独自の和平交渉を行った。最低でもケネベック西部は、フランスの影響下から切り離すべく努力し、かなりの強硬策を用いて、アベナキ族の生活基盤である交易の権利を差し止め、イギリス本国からの度重なる要請であると脅しをかけた。ポーツマス条約では、これらの交渉は、本国からの何度もの要請によるものではあったが、この要請が暗に意味するものが、アベナキ族の交渉者に説明されていなかったという証拠もあり、アベナキ族は両植民地の境界が、交渉の妨げになるのをはっきり拒否していた。ダドリーの主張に対するヌーベルフランスの返答によれば、フランスはアベナキ族に、アカディアの一部とされていた土地を譲渡した。とあるアルゴンキン語族の族長はこれに答えて「フランスはこのことに関して我々に何も言わなかった、なぜ何も問わずに土地をくれたのか不思議だ」 それにもかかわらず、ダドリーやその後の総督たちは、アベナキ族はイギリス国民として扱い、イギリスが、植民地がメインへと拡大したため衝突が続くようになり、1720年代のダマー戦争へと突入した。
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アン女王戦争
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「ベンジャミン・チャーチ」の記事における「アン女王戦争」の解説
アン女王戦争のとき(1702年-1713年)、チャーチはアカディアに対する5回目と6回目にして最後の遠征を行った。1704年2月におきたディアフィールド虐殺に対する報復として、カスティーンに対する襲撃、セントスティーブンへの襲撃、グランプレ奇襲、ピシグイット(現在のノバスコシア州ファルマスとウィンザー)への襲撃、シグネクト襲撃と続けた。チャーチは捕虜に取ったマリシート族のジョン・ガイルズを通訳に連れて行った。チャーチは捕虜を取り、アカディアには5軒の家しか残っていないと主張していた。ピシグイットの襲撃で捕まえた捕虜の中でも有名な者が、アカディアの指導者ノエル・ドイロンだった。
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アン女王戦争
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詳細は「アン女王戦争」を参照 欧州のスペイン継承戦争に呼応して開始された北米植民地戦争(1702年~1713年)で、英軍は仏領アカディアのポートロワイヤルを占領し、1713年のユトレヒト条約によってカナダ東部のニューファンドランド島とハドソン湾地域を獲得した。
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アン女王戦争
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「フランシス・ニコルソン」の記事における「アン女王戦争」の解説
1690年代のウィリアム王戦争のとき、ニコルソンはバージニア植民地議会にニューヨークの防衛のための予算を割り当てるよう求めた。そこはヌーベルフランスからの脅威があり、バージニアを防衛するためのバッファーになるはずだった。植民地議会がそれを拒否し、ニコルソンがロンドンに訴えた後も同じだった。1702年にアン女王戦争が勃発すると、ニコルソンは自分の金から900ポンドをニューヨークに貸し、バージニアの土地賃貸税によって償還できることを期待していた(そうはならなかった)。この計画を宣伝することで、バージニアにおけるニコルソンに対する嫌悪感を増し、ロンドン呼び戻しに一役買った可能性もある。バージニアはこの戦争で軍事的な影響を受けなかった。ニコルソンが戦争遂行のために植民地全てから広く支援を得ようとした後で、ロンドンへの大きな提案となり、例えば全植民地が単一の副王の下に纏まり、副王に課税権があり、また常備軍を指揮するということを提案した。歴史家のジョン・フィスクに拠れば、ニコルソンはこの方法で北アメリカの植民地全てを統合する提案をした最初期の人であるとしている。 1708年から1709年の冬、スコットランドの実業家サミュエル・ベッチがニューヨークとニューイングランドに興味を抱き、ロンドンに来て女王と貿易省にヌーベルフランスに対する大掛かりな攻撃を提案した。ベッチはこの動きに加わるようニコルソンを誘った。その計画はイギリス海軍の支援を得てケベックを川から攻撃し、ハドソン川を遡る陸からの遠征を行い、シャンプレーン湖を下ってモントリオールを攻撃するというものだった。ニコルソンが陸上部隊の指揮を行い、ベッチがニューイングランドの植民地民兵隊を率いてイギリス艦隊と共に侵攻するという計画だった。ニコルソンとベッチは1709年4月にボストンに到着すると、直ぐに軍隊の招集を始め、その作戦に必要な物資を集めた。ニコルソンは以前にあったニューヨークの上流社会とのコネを使ってそこから必要な軍勢を集め、ニュージャージーやコネチカットからも部隊を集めた。総勢は正規兵と植民地民兵で1,500名となり、イロコイ族戦士600名を加えて、6月にはニューヨークのオールバニのすぐ北にあるスティルウォーターと、シャンプレーン湖の南端との間に3か所の宿営地建設を始め、その間にイギリス艦隊がボストンに到着したという報せを待っていた。しかしその遠征は悲惨なものになった。多くの兵士が病気になり、夏が長引き、宿営地のお粗末な状態のために死んだ。艦隊到着の報せは無かった。物資が不足してくるようになり、兵士は反抗的となり、脱走を始めた。最終的に10月になって、ヨーロッパの諸事情のために、艦隊の参加は7月に中止されたことが分かった。この時までに兵士達は部隊毎脱走し、砦や物資倉庫の全てを破壊していた。 この大失敗の後でニコルソンはインディアンの酋長4人を連れてロンドンに戻り、アン女王にフランス領アカディアの首都ポートロワイヤルに対する限定された遠征を率いる許可を求めた。女王がこの請願を認め、ニコルソンが1710年10月2日にポートロワイヤルを占領した軍を率いた。この戦闘はアカディアの征服となり、ノバスコシアと呼ぶ領土に対するイギリスの恒久的支配の始まりとなった。ニコルソンは1711年に著した『ポートロワイヤル占領のための遠征の日誌』で遠征の記録を出版した。勝利に酔ったニコルソンはイングランドに戻り、アン女王にヌーベルフランスの中心であるケベック占領のための新たな遠征を提案した。その結果として起こされた海軍の遠征はホベンデン・ウォーカー提督が指揮し、ニコルソンは1709年のシャンプレーン湖に向かった遠征で辿ったルートを行く陸上部隊を率いた。ウォーカーの艦隊の多くの艦船がセントローレンス川河口近くの岩で座礁したために、遠征全体が中止され、ニコルソンは大いに怒ることになった。ニコルソンがその知らせを聞いたときに、鬘を引きちぎって地面に投げ捨てたと言われている。
※この「アン女王戦争」の解説は、「フランシス・ニコルソン」の解説の一部です。
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