ル・ルートル神父戦争
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「フォート・アン」の記事における「ル・ルートル神父戦争」の解説
ル・ルートル神父戦争 (Father Le Loutre's War) の最中に、アカディアの首都はアナポリスロイヤルからハリファックスに移された。フォート・エドワード (Fort Edward)、フォート・ローレンス (Fort Lawrence)、フォート・アンは、イギリス政府が派遣したスループのひとつで到着した、コブ大尉、ロジャーズ大尉、タガート大尉 (Captains Cobb, Rogers or Taggart) のいずれかの到着によって補給を受けなければならない状態であった。これらのスループには、目的地である各地の砦において、1年分に相当する、あるいはそれに準じる補給物資を積んでいた。これらの艦船は求めに応じ、本国から北アメリカへ、あるいは、その逆方向で、士官やその家族を乗船させることもあった。
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ル・ルートル神父戦争
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「ジョン・ゴラム」の記事における「ル・ルートル神父戦争」の解説
1749年7月14日、新総督のエドワード・コーンウォリスが到着してまもないころ、ゴラムはノバスコシアの評議会の議員となった。1749年のル・ルートル神父戦争では、現在のベッドフォードにサックビル砦を建て、シグネクトの戦いにも参戦した。 ウィリアム王戦争が勃発した1689年以来、ニューイングランドとアカディアのアベナキ族の戦闘で、敵の頭皮を剥ぐのは当たり前の習慣になっていた。アカディアやノバスコシアでは、イギリス軍とミクマク軍が境界地帯で交戦する際、あるいは全面戦争では、双方が何度も続けざまに相手方の家族を殺した。イギリス軍がミクマク族の頭皮に報酬を与える一方で、ヌーベルフランスもイギリス兵の頭皮に報酬を与えた。英仏両軍は、インディアン兵のように辺境の戦いには慣れていなかったため、イギリス軍士官であるコーンウォリスやジェフリー・アマーストは、猟兵部隊やミクマク族の森林地帯での戦術に驚きを隠せなかった。 ダニエル・N・ポールの尽力により、歴史的な文脈ではほとんど語られなかった、ゴラムの境界地帯での戦法と、ミクマク族指導者の、イギリス軍相手の戦闘での戦い方には、21世紀の今日でも多くの注目が集まっている その後、1751年の8月に、ゴラムはノバスコシアからイギリスのロンドンへ、アカディアの情勢を報告するため、ハリファクスで建造されたオズボーン号で渡航した。その年の12月に、彼は天然痘で死亡した。
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ル・ルートル神父戦争
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「シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール」の記事における「ル・ルートル神父戦争」の解説
ル・ルートル神父戦争(英語版)の間、ボワシェベールはイギリス海軍士官のジョン・ラウス(英語版)と先を争いつつセントジョン川(英語版)河口へ到着した。ラウスはこの河口をイギリスのものであると主張していたが、ボワシェベールはそこにボワシェベール砦を建て、後にボーセジュール砦(英語版)の建物と合わせて、メナグエシュ砦(英語版)として改築した。また彼は漁師に変装し、アカディア人のフランスへの忠誠心を推し量るために、アカディアの海岸を南北に旅した。
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