ル・ルートル神父戦争とアカディア人追放とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > ウィキペディア小見出し辞書 > ル・ルートル神父戦争とアカディア人追放の意味・解説 

ル・ルートル神父戦争とアカディア人追放

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/14 03:48 UTC 版)

ジョゼフ・ブルッサール」の記事における「ル・ルートル神父戦争とアカディア人追放」の解説

ブルッサールは1749年起こったル・ルートル神父戦争参戦しダートマス奇襲アカディアへのイギリス侵入食い止めた。この奇襲ではイギリス人入植者に5人の犠牲者出た。翌1750年シグネクト戦い参戦し、そのしばらく後、60人のミクマク族アカディア人率いて再びダートマス攻撃した。これが1751年ダートマス奇襲ダートマス虐殺)である。この奇襲でブルッサールとミクマク族及びアカディア人は、20人のイギリス兵を殺しそれ以上捕囚した。時の総督エドワード・コーンウォリスは一時的にダートマスへの入植計画廃棄した1754年4月終わりボーソレイユ(ブルッサール)はミクマク族アカディア人から成る大規模な軍勢率いてシグネクト地峡からローレンスタウンに向けて出発した5月半ばにローレンスタウンに着いた軍勢は、その夜この町に放火したボーソレイユは4人のイギリス人入植者2人兵士殺し頭皮剥いだ。この襲撃はなおも続き入植者駐屯兵は8月までにハリファックス退いたその1年後、1755年6月8日の海戦ニューファンドランド島レース岬の海戦)で、フランス艦アルシドとリスに、頭皮剥ぐためのナイフ1万積み込まれているのが発見された。これは、ル・ルートル神父戦争従軍中のアカディア人ジャン=バティスト・コープ族長下のインディアン兵、そしてブルッサールに渡される予定のものだった1755年8月ノバスコシア総督チャールズ・ローレンスは、イギリス軍大佐ロバート・モンクトンと、アナポリス司令官少佐ハートフィールドに、アカディア人追放について指示した。まず男たちを捕え、人質として家族呼び寄せフランス領に行くと信じ込ませて、イギリス領に連れて行くというものだった。しかしアカディア人たちはなかなか現れず、出港延び延びになる中、イギリス軍強引にアカディア人たちを船に乗せ、その年の12月までに何千人ものアカディア人たちが故郷から引き離された。劣悪な環境の中で多くアカディア人死に、他の植民地からも受け入れ拒否された。アカディア人フランス人同一視されており、当時イギリス領アメリカ進行しつつあった新たなフランスとの戦いが、彼らの受け入れ影を落とすことになった

※この「ル・ルートル神父戦争とアカディア人追放」の解説は、「ジョゼフ・ブルッサール」の解説の一部です。
「ル・ルートル神父戦争とアカディア人追放」を含む「ジョゼフ・ブルッサール」の記事については、「ジョゼフ・ブルッサール」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「ル・ルートル神父戦争とアカディア人追放」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「ル・ルートル神父戦争とアカディア人追放」の関連用語

ル・ルートル神父戦争とアカディア人追放のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



ル・ルートル神父戦争とアカディア人追放のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのジョゼフ・ブルッサール (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS