ノバスコシア総督
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「ジョン・パー (ノバスコシア総督)」の記事における「ノバスコシア総督」の解説
1782年、パーのパトロンであったシェルバーン伯爵ウィリアム・ペティが影響力を発揮し、パーはノバスコシア総督に指名された。折しもアメリカ独立戦争の直後であり、イギリスに忠実であったロイヤリストたちが、追及の手を逃れて北上し、難民となってノバスコシアへ流入してくる状況があった。その規模は3万5千人ともいわれ、1782年から1783年にかけての冬に1万人が流入したハリファックスでは、倉庫や教会、停泊している船舶などを宿舎として彼らを収容する事態となった。 1782年10月5日、パーは家族とともにハリファックスに到着した。前任者のフランシス・レゲ (Francis Legge) は、既に6年間にわたってイングランドに召還されたままの不在総督となっており、現地では数代にわたって軍人副総督が職務を代行していた。そうした代行者の最後を務めていたサー・アンドリュー・ハモンド (Sir Andrew Hamond) は、自身が総督に任命されるものと思っていた。パーが総督に指名されたことに腹を立てたハモンドは、新総督の着任後すぐに辞職し、イングランドへ帰還してしまった。後任の副総督には、当地へやって来たばかりのロイヤリストであったエドマンド・ファニング (Edmund Fanning) が任命された。 1786年、イギリス領北アメリカ (British North America) の行政体制が再編された際、パーは新設されたカナダ総督兼イギリス領北アメリカ総督として、自分が指名されることを期待したが、結局この地位にはガイ・カールトンが指名され、カールトンはドーチェスター男爵 (Baron Dorchester) として貴族に叙された。この再編によってノバスコシア総督は廃止され、パーはカナダ総督の下に置かれたノバスコシア副総督に改めて任命され、ドーチェスター卿が上司という位置づけになった。 パーの統治は、合衆国から逃れて来たアフリカ系アメリカ人ロイヤリスト (African-American Loyalists) である黒人ノバスコシア人 (Black Nova Scotians) の入植を監督する立場にあった。パーは、この件で、「差別的な扱いをし、対応を大幅に遅らせた」として非難された。パーは、ノバスコシアのダートマス (Dartmouth) を捕鯨業の拠点にするべく取り組んだが、他方では、「判事問題 (judges' affair)」に巻き込まれ、法律家として無能な者たちを判事に据えたとして弁護士たちから非難された。 パーは、新たに入域して来たロイヤリストたちからの、土地や補給を求める声から圧力を受けながら、財政が破綻しないように務めなければならなかった。 イギリス本国の政府には、ロイヤリストたちの窮状を訴える声が殺到しており、ロイヤリストたちに対するパーの態度は同情的でなさすぎると訴えられていた。こうした立場ゆえの精神的ストレスが、パーの健康に影響を与えたようで、パーは66歳で在職のまま亡くなった。パーの葬儀は、第20歩兵連隊が取り仕切り、最高級の軍隊式葬儀が執り行われた。遺体は、ハリファックスのセント・ポール教会に納められた。 ノバスコシア州の町パーズボロ (Parrsboro) は、パーを讃えて名付けられた。
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