アカディア人の抵抗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/27 02:48 UTC 版)
「ブラッディクリークの戦い (1711年)」の記事における「アカディア人の抵抗」の解説
ブラッディクリークでの勝利により、地元の抵抗勢力は再び活気づいた。そして、名目上はイギリスの保護下に置かれていたアカディア人たちは北部へと撤退し、その後直ちにアカディア人と、アベナキ族、ミクマク族による600人の部隊が結成され、ゴーランとサンキャスタンの指揮の下、アン砦に結集してそこを封鎖した。この砦の駐屯隊は人数が少なかったが、アカディア人たちの部隊は大砲を持っておらず、砦に攻撃の爪痕を残すことはできなかった。さらに、砦は海からの援軍が可能だった。ゴーランはニューファンドランドのプレザンス(プラセンティア)に、物資と包囲戦続行のための武器を求めて向かった。総督のフィリップ・パストゥール・ド・コスタベルは物資を供給したが、この船が運悪くも、ケベック遠征中のイギリス艦に遭遇して拿捕されてしまった。この遠征は、その後セントローレンス川で8隻の艦が遭難したため、当初のケベック攻撃の目的を放棄した。ノバスコシア総督のヴェッチは、地元民兵の指揮官としてこの遠征に同行していたが、200人の民兵を連れてアナポリスロイヤルに戻った。その時既にアカディア人とインディアンの包囲軍は撤退していた。
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