アカディア難民キャンプ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/16 05:17 UTC 版)
「シャルル・デシャン・ド・ボワシェベール」の記事における「アカディア難民キャンプ」の解説
追放から逃れてきたアカディア人のために、ボワシェベールはシェディアク、ミラミシ、そしてレスティグーシュ川(英語版)流域に難民キャンプを作った。1755年から1756年の冬には、ボワシェベールは一時期600人のアカディア人がいるシェディアクで過ごした。その翌年、ボワシェベールはシェディアクを発ってミラミシに行き、ル・カン・デスパランス(ケープ・ホープ)をボワシェベール島(ボーベアーズ島)に建てた。この難民キャンプには1000人から3500人ものアカディア人がいたと言われる。1757年1月までには、カン・デスパランスの状態は悲惨なものとなり、配給物資を巡って暴動が起きるようになったため、ボワシェベールはミラミシ川(英語版)に浮かぶボワシェベール島に行って、彼の本拠地とアカディア人の難民収容所を作った。シャルル・ジェルマン神父の援助を受け、ボワシェベールは、イギリスへのアカディア人の抵抗勢力を維持しようと努めた。 その後レスティグーシュ川沿いのプティロシェル(現ケベック州ポワント・ア・ラ・クロワ(英語版))にも難民キャンプを作った。エイブラハム平原の戦いの後、1760年にレスティグーシュ川の戦い(英語版)が起き、プティロシェルの数百人のアカディア人が捕虜となったまた翌1761年末には、さらに330人が捕虜となった。 ボワシェベールは、キャンプの状態に常に注意を払っていた。彼が、最も困窮している家族を連れて行こうとしていたにもかかわらず、ボーバサン(英語版)の入植者がすでに拘束され、追放されていたこともあった。この時期は1756年から1758年の、多くのアカディア人が最も困窮していた時期と重なっていたため、物資は恒久的に不足しており、ボワシェベールにできることは限られていた。 ボワシェベールはまた、サンジャン島方面作戦でアカディア人の脱出を指揮し、セントジョン川方面作戦でもアカディア人を手助けした。
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