1757年とは? わかりやすく解説

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宝暦7年 (ひのとうし 丁丑)

宝暦7年
年(年号)
1742年 (寛保2年) 公事方御定書制定
1744年 (延享元年) 神田天文台設置
宝暦7年
1764年 (明和元年) 江戸大火
1772年 (安永元年) 目黒行人坂火事


宝暦7年
小川 笙船 1672年1760年(寛文12年宝暦10年) 85
野呂 元丈 1693年1761年(元禄6年宝暦11年) 64
青木 昆陽 1698年1769年(元禄11年明和6年) 59
与謝 蕪村 1716年1783年(享保元年天明3年) 41
田沼 意次 1720年1788年(享保5年天明8年) 37
山県 大弐 1725年1767年(享保10年明和4年) 32
平賀 源内 1728年1779年(享保13年安永8年) 29
杉田 玄白 1733年1817年(享保18年文化14年) 24
中川 淳庵 1739年1786年(元文4年天明6年) 18
伊能 忠敬 1745年1818年(延享2年文政元年) 12
長谷川 平蔵 1745年1795年(延享2年寛政7年) 12
塙 保己一 1746年1821年(延享3年文政4年) 11
司馬 江漢 1747年1818年(延享4年文政元年) 10
並木 五瓶 1747年1808年(延享4年文化5年) 10
大田 南畝 1749年1823年(寛延2年文政6年) 8才
蔦谷 重三郎 1750年1797年(寛延3年寛政9年) 7才
笠森 お仙 1751年1827年(宝暦元年文政10年) 6才
桂川 甫周 1751年1809年(宝暦元年文化6年) 6才
喜多川 歌麿 1753年1806年(宝暦3年文化3年) 4才
鶴屋 南北 1755年1829年(宝暦5年文政12年) 2才
大槻 玄沢 1757年〜1827年(宝暦7年〜文政10年) 0才
鈴木 春信 ????年〜1770年(??年〜明和7年) ?才

1757年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/23 11:35 UTC 版)

1757年(1757 ねん)は、西暦グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる平年






「1757年」の続きの解説一覧

1757年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 13:24 UTC 版)

七年戦争」の記事における「1757年」の解説

ポメラニア戦争」も参照 1757年4月18日フリードリヒ2世は再び主導権握りボヘミア侵攻して、オーストリア軍決定的な敗北強いようとした。5月6日プラハの戦いでは両軍とも1万上の損害出したが、プロイセン勝利終わりオーストリア軍プラハ城塞押し込まれた。プロイセン軍続いてプラハ包囲した。その対処オーストリア軍指揮官ダウン軍勢3編成してプラハ救援駆け付けたフリードリヒ2世プラハ包囲していたプロイセン軍のうち5千人引き抜いてボヘミアコリンにいるブラウンシュヴァイク=ベーヴェルン公率い1万9千人合流させた。ダウン到着遅れてしまってプラハの戦い参加できなかったが、敗走してきたオーストリア軍1万6千人合流して緩慢ながらプラハ救援進軍したプロイセン軍プラハ包囲ダウン対処同時にするのには弱体すぎたため、フリードリヒ2世戦闘準備していたオーストリア軍と戦わなければならなかった。その結果として起こったコリンの戦いフリードリヒ2世のはじめての大敗で、彼はプラハ包囲を解くこととボヘミアからの撤退余儀なくされた。 その少し後、ステパン・フョードロヴィチ・アプラクシン(英語版元帥率いロシア軍75千はメーメル包囲したメーメルプロイセン城塞なかでも強固であったが、ロシア軍5日間の砲撃でそれを占領したロシア軍メーメル基地として東プロイセン侵攻8月30日グロース=イェーゲルスドルフの戦い激戦ののち少数プロイセン軍撃破したアメリカ歴史家ダニエル・マーストンは、グロース=イェーゲルスドルフの戦いプロイセン軍に「ロシア軍戦闘力対す新し尊敬」を持たせ、それが「後のツォルンドルフの戦いクネルスドルフの戦い強められた」と述べた。しかし、ロシア軍メーメルグロース=イェーゲルスドルフの戦闘砲弾使い果たしてしまい、ケーニヒスベルク占領できずに撤退しその後アプラクシンは解任された。兵站問題戦争通してロシア軍悩みであり続けたロシア中央ヨーロッパで戦うには東ヨーロッパ未整備ぬかるんだ道を通って補給する必要があったが、ロシア軍にはそれができる需品係がなかった。そのため、ロシア軍大規模な会戦の後、勝敗損失かかわらず撤退することが多い。戦闘軍勢品をほぼ使い果たしたロシア軍将軍たちは補給時間がかかることがわかっていたため、補給待たず再度会戦挑みたくなかったのだった。この弱点1735年から1739年までのオーストリア・ロシア・トルコ戦争において、緒戦勝利したにもかかわらず補給の問題最終的に領土僅かに得ることしかできなかったことで明らかになっていた。ロシア軍需品係はその後改善しなかったのでプロイセンとの戦闘で同じ問題起こったいずれにしてもロシア軍プロイセンにとって脅威であり、フリードリヒ2世ボヘミア侵攻中止迫られただけでなく、プロイセン領まで撤退することを余儀なくされた。彼の敗北参戦国をさらに増やしたスウェーデンプロイセン宣戦し軍勢1万7千でポンメルンに侵攻した当時プロイセンがすでにザクセンシュレージエン東プロイセン多く戦場戦っていたので、スウェーデン1万7千人だけでもポンメルンを占領できると踏んだであった今やプロイセン前途は暗憺たるものに見えたオーストリア動員してプロイセン侵攻準備しており、西からスービーズ率いフランス軍神聖ローマ帝国軍(独: Reichsarmee、ライヒスアルメー)の連合軍迫ってきていた。神聖ローマ帝国軍は皇帝フランツ1世要請受けたドイツ小国による連合軍であった。しかし、1757年11月から12月までの間、ドイツにおける情勢逆転した。まず、スービーズ公が11月5日ロスバッハの戦いフリードリヒ2世大敗し続いてオーストリア軍が数で大きく上回るにもかかわらず12月5日ロイテンの戦いフリードリヒ2世前に潰走してしまった。戦争通して、フランス・プロイセン間で戦われ大規模な会戦ロスバッハの戦い1回けだったロスバッハの戦いではプロイセン軍が548人を失ったのに対しスービーズ率いるフランス・ドイツ連合軍は約1万人を失ったフリードリヒ2世ロイテンの戦いを自らの最も大きな勝利であると称したが、当時オーストリア軍一線級と見なされたため多くの人がこの見解共感した。ロスバッハとロイテンの勝利フリードリヒ2世は再び自分ヨーロッパ一の将軍に、プロイセン軍ヨーロッパでもっとも練達した兵士仕立て上げた。しかし、彼はロイテンでオーストリア軍撃滅することには失敗しオーストリア軍ボヘミアまで逃走して再編することができた。また、フリードリヒ2世はこの2つ大勝マリア・テレジア和平交渉を迫ることができると考えたが、彼女はシュレージエン奪回するまで交渉しない腹を決めたまた、彼女はロイテンの戦いの後、軍の指揮改善するために無能な義弟カール公子更迭して今や元帥昇進したダウン指揮官任命した。 しかも、カンバーランド公率いハノーファー本軍ハステンベックの戦い敗北してフランスによるハノーファー侵攻許しクローステル・ツェーヴェン協定全軍降伏したことがこの問題をさらに厳しいものにした。この協定ハノーファー戦争から脱落させ、西からプロイセン侵攻することを可能にしたため大きな脅威となった他国から何ら軍事援助受けられなかったフリードリヒ2世すぐさまイギリス大規模な援助要請した年内ロシア進軍してくる可能性がないと踏んだフリードリヒ2世東プロイセンのレーヴァルト将軍率い軍勢をポンメルンに移動させた。レーヴァルトはそこでスウェーデン軍押し返してスウェーデン領ポンメルン大半占領ストラルスンド封鎖したイギリス王ジョージ2世ロスバッハの戦いの後、内閣意見を容れてクローステル・ツェーヴェン協定取り消し、再び参戦した新しく任命されハノーファー軍の指揮官ヴォルフェンビュッテル侯子フェルディナントは冬に軍を再集結させるとフランス軍襲ってライン川向こうまで追い払いその後終戦までプロイセン西側の安全を保った北アメリカではイギリスウィリアム・ヘンリー砦の戦いなどのさらなる敗北苦しんだ。しかし、イギリス本国安定取り戻しつつあった。1756年以降ニューカッスル公爵大ピット首班とする内閣相次いで倒れ2人連立政権組んで戦争へ取り組み一新したニューカッスル公が大陸、特にドイツでの守備重要視した一方大ピット海軍力駆使して世界中フランス植民地奪取に熱心であり、この2つ戦略どちらも強調することは向こう5年イギリス政策であり続けた。[要出典] 1757年10月10日から17日まで、オーストリア軍将軍ハンガリー出身のハディク・アンドラーシュ(英語版)がフザール戦術として有名な戦闘1つ遂行したフリードリヒ2世が南のほうで進軍している中、ハディクが突如フザール大半占め軍勢5千を率いてプロイセン軍迂回してプロイセン首都ベルリン一部一晩の間占領したベルリン市は解放されるときに20ターラー支払ったフリードリヒ2世はこの屈辱的な占領を知ると軍勢派遣してベルリン解放しようとしたが、ハディクは自軍とともにベルリン離れ、無事オーストリア本軍合流したその後、ハディクは大将昇進した

※この「1757年」の解説は、「七年戦争」の解説の一部です。
「1757年」を含む「七年戦争」の記事については、「七年戦争」の概要を参照ください。

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