七年戦争とは? わかりやすく解説

しちねん‐せんそう〔‐センサウ〕【七年戦争】


七年戦争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/09/12 14:29 UTC 版)

七年戦争(しちねんせんそう、英語: Seven Years' Warドイツ語: Siebenjähriger Krieg)は、1756年から1763年まで行われた戦争であり、18世紀の実質の世界大戦でもある。




「七年戦争」の続きの解説一覧

七年戦争(1756年 - 1763年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/08/27 00:35 UTC 版)

ヘッシシュ・オルデンドルフ」の記事における「七年戦争(1756年 - 1763年)」の解説

1757年ヘッシシュ・オルデンドルフ重要な戦い司令部となったハノーファー選帝侯ゲオルク2世息子イギリスカンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタスは、元帥ルイ・シャルル・セザール・ル・テリエ (デストレ公爵)率いフランス軍対峙した。ハステンベックの戦いで、フランス軍劣勢であったにもかかわらずカンバーランド公敗北していると誤解して退却命令発したカンバーランド公が自らの誤解に気づいた時にはすでにフランス軍態勢立て直して戦場戻り、ここを制圧した。これに続いてハーメルン要塞降伏しハノーファー選帝侯領フランスの占領下に置かれた。ヘッシシュ・オルデンドルフは、軍費徴収略奪宿舎の提供など甚大な被害受けた

※この「七年戦争(1756年 - 1763年)」の解説は、「ヘッシシュ・オルデンドルフ」の解説の一部です。
「七年戦争(1756年 - 1763年)」を含む「ヘッシシュ・オルデンドルフ」の記事については、「ヘッシシュ・オルデンドルフ」の概要を参照ください。


七年戦争 (1754年-1763年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 09:17 UTC 版)

フリードリヒ2世 (プロイセン王)」の記事における「七年戦争 (1754年-1763年)」の解説

詳細は「七年戦争」を参照 平和な日々長く続かず1755年後半オーストリア「女帝」マリア・テレジアロシア女帝エリザヴェータ・フランス王ルイ15世愛妾ポンパドゥール夫人組んでシュレージエン奪回企てていた。 1756年1月16日フリードリヒ2世母方伯父イギリス王ハノーファー選帝侯ジョージ2世ウェストミンスター協約締結したが、5月1日外交革命としてフランスオーストリアヴェルサイユ条約締結8月29日フリードリヒ2世先制防衛策をとることに決めザクセン選帝侯領侵攻して七年戦争(第三次シュレージエン戦争)が始まる。 墺仏露の3国に加えてスウェーデンザクセンなどドイツの諸侯加えると、敵国人口は8,000にもなり、人口400プロイセンにとって絶望的かと思われる戦いだった。フリードリヒ2世は、序盤のロスバッハやロイテンにおいて、巧み戦術自軍より倍以上の敵軍破ったものの、孤立同然プロイセン兵力消耗し続けた1757年6月18日コリンの戦い大敗した後は守勢転じたコリンの戦いでは劣勢自軍鼓舞するため、第3連隊の旗を手に「どもが、ずっと生きていたいのか?」という言葉放ったとされている。 1759年8月12日クーネルスドルフの戦いではフリードリヒ2世自ら敵弾さらされ上着打ち抜かれ乗馬は2頭まで撃ち倒され敗走している。この時の大臣の手紙には「これを書いている間にも味方はどんどん逃げている。私はもうプロイセン軍主人ではない。全て失われた祖国没落見ずに私は死んでくだろう永久にアデューと書かれているフリードリヒ2世その後残存兵力まとめてどうにか態勢立て直すが、苦し戦い続き1760年10月にはとうとうオーストリア軽騎兵ベルリンに迫るまでになる。 イギリス軍資金援助打ち切られフリードリヒ2世自殺覚悟したが、1762年1月5日ロシアエリザヴェータ女帝急死すると、甥で後継者ピョートル3世フリードリヒ2世崇拝者であったため、奇跡的にロシアとの講和成立した。ただ、ピョートル3世はこの講和加え皇后である妻・エカチェリーナ(後のロシア大帝エカチェリーナ2世)を排したり、ロシア正教会弾圧したため、激怒したエカチェリーナと彼女を支持する近衛部隊によって半年後にクーデター起こされ失脚。その近衛部隊兵暗殺されることになる。 さらに西ポンメルン苦戦強いられていたスウェーデンも、フリードリヒ2世の妹であるスウェーデン王ロヴィーサ・ウルリカ仲裁により、同年5月講和する疲れ果てていた列強これを機に兵を収め孤立したオーストリア勝利を収めたフリードリヒ2世1763年2月10日、フベルトゥスブルクで和議を結び、プロイセンシュレージエン領有確定するフリードリヒ2世はこれ以降大きな戦争起こすことはなかったが、1772年第1回ポーランド分割西プロイセン獲得して飛び地状態だったブランデンブルク東プロイセン地続きとし、1778年から1779年まで続いたバイエルン継承戦争ではオーストリアと再び交戦してその強大化を阻止した。なお、西プロイセン獲得に伴い王号プロイセンにおける王König in Preußen)からプロイセン国王König von Preußen)に変えている。外交面では特にオーストリア復興強く警戒しザクセン選帝侯バイロイトなどと君侯同盟結成して対抗した。 さらに、フランスロシアとの関係改善努めて、再び七年戦争の孤立に陥らないよう細心の注意をもって臨みアメリカ独立戦争に際してロシア提唱した武装中立同盟参加しイギリス対米海上封鎖対抗したフリードリヒ2世女性蔑視する発言をたびたび公の場でしており、フランスポンパドゥール夫人ロシアエリザヴェータ皇帝が七年戦争においてマリア・テレジア味方したのは、彼女たちフリードリヒ個人的に嫌っていたからだと言われている。

※この「七年戦争 (1754年-1763年)」の解説は、「フリードリヒ2世 (プロイセン王)」の解説の一部です。
「七年戦争 (1754年-1763年)」を含む「フリードリヒ2世 (プロイセン王)」の記事については、「フリードリヒ2世 (プロイセン王)」の概要を参照ください。


七年戦争(1756年 - 1763年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/19 00:47 UTC 版)

ハイリゲンシュタット・イン・オーバーフランケン」の記事における「七年戦争(1756年 - 1763年)」の解説

プロイセンオーストリアの間の七年戦争は、主に中央ヨーロッパで戦われた。プロイセンフュルト経由北へ向かい1757年の夏にエーバーマンシュタット宿営した。この町を略奪した後、ラインライター川を上ってきた。その途中、金、家畜食料品脅し取りながら進軍した行軍してゆく兵士達に、ファイルブロンやトラインドルフは苦しんだ1762年11月には、プロイセン軍は3週にわたってハイリゲンシュタット周辺占拠した

※この「七年戦争(1756年 - 1763年)」の解説は、「ハイリゲンシュタット・イン・オーバーフランケン」の解説の一部です。
「七年戦争(1756年 - 1763年)」を含む「ハイリゲンシュタット・イン・オーバーフランケン」の記事については、「ハイリゲンシュタット・イン・オーバーフランケン」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「七年戦争」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「七年戦争」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。



固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「七年戦争」の関連用語

七年戦争のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



七年戦争のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
デジタル大辞泉デジタル大辞泉
(C)Shogakukan Inc.
株式会社 小学館
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの七年戦争 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのヘッシシュ・オルデンドルフ (改訂履歴)、フリードリヒ2世 (プロイセン王) (改訂履歴)、ハイリゲンシュタット・イン・オーバーフランケン (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2024 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2024 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS