しちねん‐せんそう〔‐センサウ〕【七年戦争】
七年戦争
七年戦争(1756年 - 1763年)
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「ヘッシシュ・オルデンドルフ」の記事における「七年戦争(1756年 - 1763年)」の解説
1757年、ヘッシシュ・オルデンドルフは重要な戦いの司令部となった。ハノーファー選帝侯ゲオルク2世の息子でイギリスのカンバーランド公爵ウィリアム・オーガスタスは、元帥ルイ・シャルル・セザール・ル・テリエ (デストレ公爵)率いるフランス軍と対峙した。ハステンベックの戦いで、フランス軍が劣勢であったにもかかわらず、カンバーランド公は敗北していると誤解して退却命令を発した。カンバーランド公が自らの誤解に気づいた時にはすでにフランス軍は態勢を立て直して戦場に戻り、ここを制圧した。これに続いてハーメルン要塞が降伏し、ハノーファー選帝侯領はフランスの占領下に置かれた。ヘッシシュ・オルデンドルフは、軍費の徴収、略奪、宿舎の提供など甚大な被害を受けた。
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七年戦争 (1754年-1763年)
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「フリードリヒ2世 (プロイセン王)」の記事における「七年戦争 (1754年-1763年)」の解説
詳細は「七年戦争」を参照 平和な日々は長くは続かず、1755年後半、オーストリアの「女帝」マリア・テレジアはロシア女帝エリザヴェータ・フランス王ルイ15世の愛妾ポンパドゥール夫人と組んでシュレージエンの奪回を企てていた。 1756年1月16日、フリードリヒ2世は母方の伯父のイギリス王兼ハノーファー選帝侯ジョージ2世とウェストミンスター協約を締結したが、5月1日に外交革命としてフランスとオーストリアがヴェルサイユ条約を締結、8月29日、フリードリヒ2世は先制防衛策をとることに決め、ザクセン選帝侯領に侵攻して七年戦争(第三次シュレージエン戦争)が始まる。 墺仏露の3国に加えてスウェーデン、ザクセンなどドイツの諸侯も加えると、敵国の人口は8,000万にもなり、人口400万のプロイセンにとって絶望的かと思われる戦いだった。フリードリヒ2世は、序盤のロスバッハやロイテンにおいて、巧みな戦術で自軍より倍以上の敵軍を破ったものの、孤立同然のプロイセンの兵力は消耗し続けた。1757年6月18日にコリンの戦いで大敗した後は守勢に転じた。コリンの戦いでは劣勢の自軍を鼓舞するため、第3連隊の旗を手に「犬どもが、ずっと生きていたいのか?」という言葉を放ったとされている。 1759年8月12日のクーネルスドルフの戦いではフリードリヒ2世自ら敵弾にさらされて上着を打ち抜かれ、乗馬は2頭まで撃ち倒されて敗走している。この時の大臣宛の手紙には「これを書いている間にも味方はどんどん逃げている。私はもうプロイセン軍の主人ではない。全ては失われた。祖国の没落を見ずに私は死んでいくだろう。永久に。アデュー」と書かれている。フリードリヒ2世はその後、残存兵力をまとめてどうにか態勢を立て直すが、苦しい戦いは続き、1760年10月にはとうとうオーストリア軽騎兵がベルリンに迫るまでになる。 イギリスの軍資金援助も打ち切られ、フリードリヒ2世は自殺を覚悟したが、1762年1月5日、ロシアのエリザヴェータ女帝が急死すると、甥で後継者のピョートル3世はフリードリヒ2世の崇拝者であったため、奇跡的にロシアとの講和が成立した。ただ、ピョートル3世はこの講和に加え、皇后である妻・エカチェリーナ(後のロシア大帝エカチェリーナ2世)を排したり、ロシア正教会を弾圧したため、激怒したエカチェリーナと彼女を支持する近衛部隊によって半年後にクーデターを起こされて失脚。その近衛部隊兵に暗殺されることになる。 さらに西ポンメルンで苦戦を強いられていたスウェーデンも、フリードリヒ2世の妹であるスウェーデン王妃ロヴィーサ・ウルリカの仲裁により、同年5月に講和する。疲れ果てていた列強はこれを機に兵を収め、孤立したオーストリアに勝利を収めたフリードリヒ2世は1763年2月10日、フベルトゥスブルクで和議を結び、プロイセンのシュレージエン領有は確定する。 フリードリヒ2世はこれ以降、大きな戦争を起こすことはなかったが、1772年の第1回ポーランド分割で西プロイセンを獲得して、飛び地状態だったブランデンブルクと東プロイセンを地続きとし、1778年から1779年まで続いたバイエルン継承戦争ではオーストリアと再び交戦してその強大化を阻止した。なお、西プロイセン獲得に伴い、王号をプロイセンにおける王(König in Preußen)からプロイセン国王(König von Preußen)に変えている。外交面では特にオーストリアの復興を強く警戒し、ザクセン選帝侯やバイロイトなどと君侯同盟を結成して対抗した。 さらに、フランスやロシアとの関係改善に努めて、再び七年戦争の孤立に陥らないよう細心の注意をもって臨み、アメリカ独立戦争に際してはロシアが提唱した武装中立同盟に参加し、イギリスの対米海上封鎖に対抗した。 フリードリヒ2世は女性を蔑視する発言をたびたび公の場でしており、フランスのポンパドゥール夫人やロシアのエリザヴェータ皇帝が七年戦争においてマリア・テレジアに味方したのは、彼女たちがフリードリヒを個人的に嫌っていたからだと言われている。
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七年戦争(1756年 - 1763年)
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「ハイリゲンシュタット・イン・オーバーフランケン」の記事における「七年戦争(1756年 - 1763年)」の解説
プロイセンとオーストリアの間の七年戦争は、主に中央ヨーロッパで戦われた。プロイセンはフュルト経由で北へ向かい、1757年の夏にエーバーマンシュタットに宿営した。この町を略奪した後、ラインライター川を上ってきた。その途中、金、家畜、食料品を脅し取りながら進軍した。行軍してゆく兵士達に、ファイルブロンやトラインドルフは苦しんだ。1762年11月には、プロイセン軍は3週にわたってハイリゲンシュタット周辺を占拠した。
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