ボヘミア王冠領とは? わかりやすく解説

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ボヘミア王冠領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/03/17 03:51 UTC 版)

ボヘミア王冠領
Země Koruny české (チェコ語)
Länder der Böhmischen Krone (ドイツ語)
Corona regni Bohemiae (ラテン語)
1348年 - 1918年


国旗国章

神聖ローマ帝国内のボヘミア王冠領(1618年)
公用語 チェコ語ドイツ語ラテン語
国教 カトリック
宗教 フス派
ルター派
再洗礼派
ユダヤ教
ヴァルド派
ターボル派新アダム派
首都 プラハ
国王
1346年 - 1378年 カレル1世
1916年 - 1918年カール1世
変遷
設立 1348年4月7日
ルクセンブルク家の発足1348年4月7日
ボヘミア王冠領の主用部分となる1355年4月5日
金印勅書1356年12月25日
フェルディナント1世の即位1526年12月16日
二重帝国解体1918年10月31日
現在
先代次代
ボヘミア王国
モラヴィア辺境伯領
フス戦争下のボヘミアとモラヴィア
シロンスク公国群
エーゲルラント
上ラウジッツ
下ラウジッツ
オーバープファルツ行政管区
チェコスロバキア共和国
ザクセン選帝侯領
プロイセン自由州
ポーランド第二共和国

1348年-1806年:神聖ローマ帝国領邦国家
1526年-1804年:ハプスブルク君主国の王冠領
1804年-1867年:オーストリア帝国の王冠領
1867年-1918年:オーストリア=ハンガリー帝国ツィスライタニエンの一部

ボヘミア王冠領の紋章。青地にモラヴィアの赤と銀の市松模様の鷲、金地にシレジアの黒色の鷲、紺地に上シレジアの金色の鷲、緑と銀の下地にニーダーラウジッツの赤色の牛、中央の赤地にボヘミアの銀色の獅子、楯の上には聖ヴァーツラフの王冠(en)が載せられ、その周りには菩提樹の枝が広がる

ボヘミア王冠領(ボヘミアおうかんりょう)またはボヘミア王国の王冠(ボヘミアおうこくのおうかん、チェコ語: Česká koruna, země Koruny českéドイツ語: Krone Böhmen; Böhmische Krone, Böhmische Kronländer, Länder der Böhmischen Kroneラテン語: Corona Bohemiae, Corona Regni Bohemiae)は、ボヘミア王国および王国と封建上の主従関係(レーエン)にある従属邦の集合体を指す国制概念である。この場合の「ボヘミアの王冠」とは、いわゆる「聖ヴァーツラフの王冠」と呼ばれる、国王が頭に被る物体としての王冠のことではなく、ボヘミア王の主権下に、ボヘミア国家を構成する諸身分が統合されている状態を表している。この国制概念は、1526年よりボヘミア王冠領が属していたハプスブルク帝国1918年に崩壊するまで存在していた。

歴史

12世紀から13世紀ボヘミア王国と結びついていた封土は、モラヴィア辺境伯領グラーツ伯領英語版だけであった。ルクセンブルク家のボヘミア王ヨハンとボヘミア王兼神聖ローマ皇帝カール4世の治世に、積極的な併合政策によってシレジア、オーバーラウジッツおよびニーダーラウジッツから多数の小規模な封土が、ボヘミア王冠領に加えられた。

カール4世は王国の諸身分に対し、ルクセンブルク家の王朝が断絶した場合でも、王朝の興亡とは関係なく王冠領の結合を保ち続けるように命じた。王冠領の結合は、1526年にフェルディナント1世の即位に伴ってボヘミア王位がハプスブルク家に相続された後も保たれ続けた。ハプスブルク帝国において、ボヘミア王冠領はハンガリー王冠領およびオーストリア大公国と共に、中欧に君臨するハプスブルク家の3大家領の1つを構成した。

ボヘミア王冠領は、単なる人的同君連合でも、各構成体が同等の権利を有する連邦でも無かった。王冠領の国制は人体にたとえるならば、ボヘミア王国と王国の諸身分が「頭」であり、その他の諸封土が「手足」という序列になっていた。ボヘミア王冠領における「頭部」と「手足」の地位の開きは大きく、王国の諸身分、つまりボヘミア人は王冠領内における政治的・社会的主導権を独占する権利を要求し、これに対してモラヴィア、シレジア、ラウジッツ側は自由意思によってボヘミア王冠に属しているという国制上の原則を持ち出し、自分たちが自治権を持つことを主張した。

ボヘミア王国の近隣の諸封土に対する優越には、そもそも法的根拠などなかったが、15世紀初頭にはより強い権限を求め、国王選挙での独占的選挙権を要求している。しかし1620年以降は、ボヘミア王冠領そのものがはるかに大きな権限を有するハプスブルク帝国に圧倒されてしまったため、王冠領内の各構成体の間の競合は見られなくなった。

ボヘミア王冠領の全ての諸構成体が共有している国家機関は、国王だけであったが、危機の時代にはこれが王冠領の欠点となった。王冠領の諸邦の代表が一堂に会する王冠領議会(Generallandtag)は、めったに開かれることは無かった。ボヘミアの大法官(Oberstkanzlers)の統率下に置かれる宮内官房(Böhmische Hofkanzlei)だけが、王冠領の全領土に対して責任を有していた。しかし宮内官房も1620年にプラハからウィーンに移され、1714年には官房用の庁舎が建設されている。

共通の政治機関をほとんど持たなかったにもかかわらず、ボヘミア王冠領の諸邦の間には16世紀より強い政治的連帯感が見られるようになった。三十年戦争が始まると、王冠領の諸邦はボヘミア連盟(Böhmische Konföderation)を結成したが、この連盟の結成はボヘミアの政治体制の近代化にとって重要な意味を持っていた。もっとも1620年にビーラー・ホラの戦いで皇帝軍が勝利すると同時に、この実験的国家も消滅した。

時代が下るにつれ、ボヘミア王冠領はオーストリア内の構成地域としての重要性を失っていった。1635年にはプラハ条約によりラウジッツザクセン選帝侯領に奪われた。1742年のベルリン条約で、オーストリア大公国はシレジアの大部分とグラーツ伯領をブランデンブルク=プロイセンに割譲している。オーストリア側に残ったシレジアの一部は、上下シュレージエン公爵領(Herzogtum Ober- und Niederschlesien、現在のチェコ領シレジア)として1918年までハプスブルク帝国の版図に留まっていた。ハプスブルク帝国末期、ツィスライタニアの構成地域になり下がっていたボヘミア、モラヴィアとオーストリア領シレジアなどのボヘミア王冠領諸邦が、独自の権限を持つことは許されなくなっていた。

影響

1918年の10・11月にツィスライタニアが、というよりもオーストリア=ハンガリーが解体されると、1916年のチェコ人亡命政治家と三国協商との協定に則り、チェコはボヘミア王冠領の歴史的境界線を越えて、新生国家チェコスロヴァキアの西部地域を構成することになった。ドイツ=オーストリア共和国はアメリカ合衆国大統領ウッドロウ・ウィルソンに対し、民族自決の原則を根拠にボヘミア・モラヴィアのドイツ系住民地域(Deutschböhmen und Deutschmährer)およびシレジアのオーストリア系住民地域がチェコ領内に残留していることを主張したが、何ら政治的な成果は無かった。

ボヘミア王冠領が存在した歴史的影響は、ヴァルチツェ(フェルツベルク)をめぐるオーストリアとの係争問題や、ザオルジェをめぐるポーランドとの係争問題など、後継国家である現在のチェコにも様々な痕跡を残している。

地図

オタカル2世時代のボヘミア領(1273年)
カール4世時代のボヘミア王冠領
1892年のボヘミア王冠領
20世紀のオーストリア=ハンガリー。ボヘミア王冠領はツィスライタニア(もしくはクロンラント)の一部を構成している。王冠領の諸邦は、ボヘミア王国(1)、モラヴィア辺境伯領(9)、オーストリア領シレジア(11)の3地域。

王冠領の構成諸邦

領邦 首都 民族 宗教 付記 紋章
ボヘミア王国 プラハ チェコ人ドイツ人 ローマ・カトリックフス派及びアナバプテスト(15・16世紀)、ルター派 895年プシェミスル家統治下の公爵領となり、1085年に王国に昇格、14世紀に神聖ローマ帝国選帝侯領となり、1526年ハプスブルク家世襲領の構成地域に組み込まる。1918年に他のハプスブルク家領とともに消滅
モラヴィア辺境伯領 ブルノ チェコ人ドイツ人 ローマ・カトリック、フス派及びアナバプテスト(15・16世紀)、ルター派 907年までモラヴィア王国が存在、1031年よりボヘミアの支配下
オーバーラウジッツ辺境伯領 バウツェン ドイツ人ソルブ人 ルター派、ローマ・カトリック 12世紀にブディシン(Budissin)地方としてボヘミアの影響下に入り、1329年に正式に支配下におかれ、15世紀に上ルサティア(オーバーラウジッツ)と呼ばれるようになり、1635年ザクセン選帝侯領に併合される
シレジア公爵領 ヴロツワフ1740年以後はオパヴァ ドイツ人ポーランド人 ローマ・カトリック、ルター派 1138年にポーランドの公爵領として成立し、1249年小規模な公爵領の集合体へと分裂、1348年までにボヘミアの宗主権下に入ったが、大部分が1742年/1763年にブランデンブルク=プロイセンに併合され、残部がオーストリア領シレジアを構成した
グラーツ伯爵領 グラーツ ドイツ人チェコ人 ローマ・カトリック、ルター派 1137年のグラーツの和約によりグラーツ地方(Glatzer Distrikt)としてボヘミアの影響下におかれ、1348年にカール4世によってボヘミア王冠直属の領邦に引き上げられた。1459年に伯爵領に昇格したが、ボヘミア王冠領議会に自身の代表を送る権限を持たなかった。1742年/1763年にブランデンブルク=プロイセンに併合された
下ラウジッツ辺境伯領 リュッベン ドイツ人ソルブ人 ルター派 10世紀にラウジッツ辺境伯領となり、1367年にボヘミアの影響下に入り、1635年にザクセン選帝侯領に併合された

脚注

参考文献

  • Marie Bláhová, Jan Frolík, Naďa Profantová u. a. (Hrsg.): Velké dějiny zemí koruny české. Prag 1999 ff.
  • Joachim Bahlcke: Regionalismus und Staatsintegration im Widerstreit. Die Länder der böhmischen Krone im ersten Jahrhundert der Habsburgerherrschaft (1526–1619). (= Schriften des Bundesinstituts für Ostdeutsche Kultur und Geschichte 3), München 1994.

関連項目


ボヘミア王冠領

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/09 16:39 UTC 版)

ボヘミア王国」の記事における「ボヘミア王冠領」の解説

「ボヘミア王冠領」も参照 もともと公国だったボヘミア(Čechy)およびクラツコ伯領(Hrabství kladské)がボヘミア王国中心である。イーガーラント(Chebsko)は1322年ボヘミア王ヤン・ルケンブルスキー皇帝ルートヴィヒ4世支援する見返りとして正式に獲得した1348年ローマ王兼ねたカレル1世カール4世)によって、以下の領邦を含むボヘミア王冠(Koruna česká)領が成立したモラヴィア辺境伯領 (Markrabství moravské), 955年レヒフェルトの戦いののち、プシェミスル朝・スラヴニーク朝のボヘミア公獲得999年ポーランドボレスワフ1世奪われたが、1019年もしくは1029年にブジェチスラフ1世再征服。 上ルーサティア (Horní Lužice), ヤン・ルケンブルスキー1319年バウツェン1329年ゲルリッツ獲得。 下ルーサティア (Dolní Lužice, former March of Lusatia), 1367年カレル1世バイエルン公オットー5世から獲得。後の1635年皇帝兼ねたハプスブルク家フェルディナンド2世フェルディナント2世)がプラハ条約ザクセン選帝侯領割譲スレスコ公国群 (Slezsko), 1335年ヤン・ルケンブルスキートレンチーン条約ポーランドカジミェシュ3世から獲得。後の1742年女王マリエ・テレジエがプロイセン王フリードリヒ2世敗れブレスラウ条約一部オーストリアシュレージエン)を除いて喪失。 上プファルツ (ボヘミアプファルツ、Česká Falc), 1355年カレル1世王冠領統合一部1373年ブランデンブルク選帝侯領割譲され、残り息子ヴェンツェルの代の1400年プファルツ選帝侯ループレヒト3世奪われた。 ブランデンブルク選帝侯領, 1373年カレル1世バイエルン公オットー5世から獲得。後の1415年彼の息子ジクムントがホーエンツォレルン家フリードリヒ1世譲渡カレル1世以前13世紀オタカル2世が以下の領邦ボヘミア王国統合したが、その晩年にすべてハプスブルク家ルドルフ1世奪われている。 オーストリア公国1251年シュタイアーマルク公国1261年) イーガーラント(1261年ケルンテン公国カルニオラ辺境領、ヴェンド辺境領(1269年フリウーリ辺境伯領(1272年現代チェコ共和国は、憲法ボヘミア王国法的な継承国であると称している。

※この「ボヘミア王冠領」の解説は、「ボヘミア王国」の解説の一部です。
「ボヘミア王冠領」を含む「ボヘミア王国」の記事については、「ボヘミア王国」の概要を参照ください。

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