ヤゲロンキ朝とハプスブルコヴェ朝とは? わかりやすく解説

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ヤゲロンキ朝とハプスブルコヴェ朝(1471年以降)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 00:46 UTC 版)

ボヘミア王国」の記事における「ヤゲロンキ朝とハプスブルコヴェ朝(1471年以降)」の解説

フス派イジーの死を受けてボヘミア階級ヤギェウォ朝ボヘミアではヤゲロンキ朝)のポーランド王ヴラジスラフ・ヤゲロンスキーボヘミア王選出した一方マティアス1世コルヴィンボヘミア王位の請求取り下げず侵攻続けていた。1479年両者オロモウツの和約を結び、ヴラジスラフはシレジアモラヴィアラウジッツボヘミア王位をマティアス1世譲渡わずかにボヘミアを残すのみとなった。ヴラジスラフは国内カトリックフス派対立にも悩まされたが、1485年カトリック派がバーゼルの誓約受け入れ両者和解成った1490年マティアス1世嗣子なくして死去したため、ヴラジスラフは彼の跡を継ぐことで旧領回復、さらにハンガリー王位をも獲得した[出典無効]。ヴラジスラフがブダ移ってハンガリー統治専念したため、ボヘミアではほとんど各地貴族自治を行う状況になり、1500年ボヘミア貴族王権制限する法を制定するとヴラジスラフも1502年承認したハンガリー同君連合結んだボヘミア神聖ローマ帝国から浮いた存在になり、1500年帝国クライス成立した際もボヘミア王冠領除外された。 1515年、ヴラジスラフは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世や弟のポーランド王ジグムント1世会談ウィーン二重結婚取り決めた1516年、ヴラジスラフの息子ルドヴィーク幼王がボヘミア王ハンガリー王継いだが、彼は1526年モハーチの戦いオスマン帝国争い敗死した。ここにヤゲロンキ朝が断絶したため、二重結婚ルドヴィークと強い縁戚関係にあったオーストリア大公フェルディナント1世ボヘミア王位・ハンガリー王位を請求した。彼はボヘミア王選出されフェルディナンド1世)、上ハンガリー現在のスロバキア大まかに重な地域)を含むハンガリー北西部支配下入れた。これ以降4世紀わたってハプスブルク家(ハプスブルコヴェ朝)がボヘミアスロバキア支配することになった1583年ルドルフ2世ウィーンからプラハ遷都し、プラハ芸術の都として再び繁栄期入った17世紀になると、ボヘミアプロテスタント拠点としてハプスブルク皇帝への抵抗兆し見せるようになる1618年プラハ市民第二次プラハ窓外投擲事件起こしヨーロッパ中を巻き込む三十年戦争勃発した。ただし、ボヘミア諸侯1620年白山の戦い皇帝軍に敗れて早期鎮圧されボヘミア自治要求運動終わり迎えた1648年プラハの戦いではスウェーデンプラハ包囲略奪し終戦後神聖ローマ皇帝ウィーンへ再遷都してしまった。

※この「ヤゲロンキ朝とハプスブルコヴェ朝(1471年以降)」の解説は、「ボヘミア王国」の解説の一部です。
「ヤゲロンキ朝とハプスブルコヴェ朝(1471年以降)」を含む「ボヘミア王国」の記事については、「ボヘミア王国」の概要を参照ください。

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