ヤゲロンキ朝とハプスブルコヴェ朝(1471年以降)
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「ボヘミア王国」の記事における「ヤゲロンキ朝とハプスブルコヴェ朝(1471年以降)」の解説
フス派王イジーの死を受けて、ボヘミア諸階級はヤギェウォ朝(ボヘミアではヤゲロンキ朝)のポーランド王子ヴラジスラフ・ヤゲロンスキーをボヘミア王に選出した。一方マティアス1世・コルヴィンもボヘミア王位の請求を取り下げず侵攻を続けていた。1479年に両者はオロモウツの和約を結び、ヴラジスラフはシレジア、モラヴィア、ラウジッツとボヘミア王位をマティアス1世に譲渡、わずかにボヘミアを残すのみとなった。ヴラジスラフは国内のカトリックとフス派の対立にも悩まされたが、1485年にカトリック派がバーゼルの誓約を受け入れ、両者の和解が成った。1490年にマティアス1世が嗣子なくして死去したため、ヴラジスラフは彼の跡を継ぐことで旧領を回復、さらにハンガリー王位をも獲得した[出典無効]。ヴラジスラフがブダに移ってハンガリー統治に専念したため、ボヘミアではほとんど各地の貴族が自治を行う状況になり、1500年にボヘミア貴族が王権を制限する法を制定するとヴラジスラフも1502年に承認した。ハンガリーと同君連合を結んだボヘミアは神聖ローマ帝国から浮いた存在になり、1500年に帝国クライスが成立した際もボヘミア王冠領は除外された。 1515年、ヴラジスラフは神聖ローマ皇帝マクシミリアン1世や弟のポーランド王ジグムント1世と会談、ウィーン二重結婚を取り決めた。1516年、ヴラジスラフの息子ルドヴィーク幼王がボヘミア王・ハンガリー王を継いだが、彼は1526年にモハーチの戦いでオスマン帝国と争い敗死した。ここにヤゲロンキ朝が断絶したため、二重結婚でルドヴィークと強い縁戚関係にあったオーストリア大公フェルディナント1世がボヘミア王位・ハンガリー王位を請求した。彼はボヘミア王に選出され(フェルディナンド1世)、上ハンガリー(現在のスロバキアと大まかに重なる地域)を含むハンガリー北西部を支配下に入れた。これ以降、4世紀にわたってハプスブルク家(ハプスブルコヴェ朝)がボヘミアとスロバキアを支配することになった。1583年、ルドルフ2世はウィーンからプラハに遷都し、プラハは芸術の都として再び繁栄期に入った。 17世紀になると、ボヘミアはプロテスタントの拠点としてハプスブルク皇帝への抵抗の兆しを見せるようになる。1618年にプラハ市民が第二次プラハ窓外投擲事件を起こし、ヨーロッパ中を巻き込む三十年戦争が勃発した。ただし、ボヘミア諸侯は1620年の白山の戦いで皇帝軍に敗れて早期に鎮圧され、ボヘミアの自治要求運動は終わりを迎えた。1648年のプラハの戦いではスウェーデンがプラハを包囲、略奪し、終戦後は神聖ローマ皇帝もウィーンへ再遷都してしまった。
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