フス派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/20 05:20 UTC 版)
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フス派(フスは、チェコ語: Husitství, フス主義)は、カトリックの司祭ヤン・フスがチェコで始めた改革派。フーシテン(ドイツ語: Hussiten)とも呼ばれた。主にチェコとポーランドに勢力を拡大した。フス戦争ではカトリックと戦い、後に和約が成立し復帰したが、意味合い的にはプロテスタントの先駆けである。
誕生
フスは、パンの秘蹟のみならずワインの秘蹟にも民衆が預かる二種聖餐を主張し、また、チェコ語典礼を行い、当時の支配者であるドイツから睨まれ、また教会の腐敗を批判したため、コンスタンツ公会議に喚問され、異端とされた後焚刑にされた。当時のボヘミアはルクセンブルク家に支配され、ドイツ語が強要されるなどした為、ボヘミアにおいてはチェコ人の民族運動としての側面が強かった。
いっぽう、ポーランド王国にもボヘミアに匹敵する規模のポーランド人フス派信者がいた。ボヘミアと異なりポーランドは伝統の自由主義のもと13世紀から制度的にも宗教的寛容が実現していたため、フス派が宗教的理由で迫害されることはなかった。そのためフス戦争の期間も一度に数千人ものチェコ人のフス派が義勇兵としてポーランドの戦争の際ポーランドに味方したり、これまた一度に数千人ものポーランド人のフス派がボヘミアに遠征してチェコのフス派に味方したりと、互いに連帯して敵と戦ったのである。
フス戦争
ジギスムント皇帝がボヘミアを相続することになると、ボヘミアのフス派はいよいよ反抗的になり、皇帝はボヘミア征服のために十字軍を結成しフス戦争がおこった。フス派はヤン・ジシュカ率いる急進的なターボル派を中心としてジギスムントの十字軍を撃退し、国王の廃位を宣言してフス派のボヘミア国家を事実上実現させた。
ヤン・ジシュカの死後、ドイツ遠征(侵略)も行ったためドイツ民衆には災厄のように恐れられた。また、一部のフス派は強盗団同然に不良化し、フス派の味方であるポーランドでさえも村々を渡り歩いて狼藉をはたらき、ポーランド民衆から疎まれた。ボヘミアでも、指導者層の腐敗、戦費の調達のための重税による農村の疲弊が問題になっていった。
やがてフス派の穏健派が急進派を攻め滅ぼし、皇帝と和解して皇帝を国王として認め、バーゼル公会議でボヘミアでは教義が認められカトリック教会に復帰した。その後、ポーランドでも取り締まりに乗り出したポーランド王国政府によって鎮圧された。
その後、穏健派は、ボヘミアでカトリックと並存したが宗教改革が始まるとプロテスタントに接近する。
その後
15世紀前半、ボヘミアでのフス派の急進派の消滅後、チェコ人のフス派信仰者のうちの多くはポーランド南部に大量亡命した。18世紀終盤に「ポーランド分割」によりポーランド王国が滅亡すると、フス派の系統の人々はみな、外国による厳しい統治が始まったポーランドからアメリカにわたり、現在もアメリカで広く活動しているモラヴィア兄弟団などが残っている。彼らはワルドー派など諸派を合流させた。ジョン・ウェスレーなど、既存のプロテスタント指導者にもフスの思想の影響を受けた者がいる。
また、後の時代には三十年戦争が、このフス戦争を模倣する形で開戦した。なお、ボヘミアのフス派自体はこの三十年戦争の初期、1620年の白山の戦いでプロテスタント系の貴族がハプスブルク家に敗れた事で完全に壊滅した。このときも生き残ったチェコ貴族の多くがポーランドへと亡命している。
ただし、19世紀末から始まったボヘミア地域でのカトリック改革運動は、チェコスロバキア建国による民族意識の高揚を受けてフス派の教義への復帰とカトリックからの離脱運動へと転化し、一部の聖職者によって1920年にチェコスロバキア教会が成立された。同教会はフス派の後継者を自称し、1971年にチェコスロバキア・フス派教会と改称しているが大きな勢力ではない。
派閥
フス派内部には、様々なグループが混在し凄惨な内部抗争が行われた。
- ウトラキスト 穏健派。カトリックとの宥和をはかる貴族や富裕層が中心。
- ターボル派 急進派。都市の貧民や農民が中心。教義のみならず徹底した社会改革を唱えた。リパニの戦いで穏健派によって壊滅させられた。
- オレープ派 1423年にターボル派から距離を置いたヤン・ジシュカによって結成された。思想的には穏健派と急進派の中間。ヤン・ジシュカの死後は孤児団と名乗る。
- アダム派 聖書原理主義の過激派。ターボル派の分派だが異端宣告をされて壊滅させられた。
関連人物
脚注
関連項目
フス派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/20 04:04 UTC 版)
「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」の記事における「フス派」の解説
ミクラーシュ(フシネツのミクラーシュ)(チェコ語版) フス派の聖職者。各地で迫害されるフス派住民の避難所としてターボルの街を建設し、指導者兼代表者となった。温厚篤実な性格で、ターボルの住民全員に慕われている。 元傭兵で、かつてはジシュカの右腕を務めていたほどの実力者だったが、終わりの見えない戦乱と流血に倦んで引退、プラハで生活する中でフスと出会い、その教えに深く帰依していった。 ターボルの住民達を戦争に動員しようとしたジシュカによって殺害されるが、死の間際に彼を赦し、シャールカにジシュカの以後を託して息を引き取った。 実在の人物ではあるが本作での描写はほぼ創作であり、史実とは以下のような差異がある。 ・史実のミクラーシュは、ヴァーツラフ4世の政治顧問を務めた(この時に軍事顧問であったジシュカと知己を得たと思われる)宮廷人兼聖職者であり、傭兵であった事実はない。また、政治顧問としてヴァーツラフ4世にフス派の公認政策を取らせたのも彼である。 ・フス派としては、ジェリフスキーにも匹敵する過激派。政治顧問を辞してターボル派を立ち上げたのも最初から軍事クーデターが目的であり、ジシュカはその部下兼軍事指揮官として招かれてターボル派に加わっている。 ・作中で描かれた、プラハでフスと出会って彼に帰依する逸話は、本来ジシュカの逸話である。 ・史実ではヴィシェフラトの戦い直後の、1420年12月に落馬事故で死亡している。この時までにミクラーシュの非妥協的な態度の為ターボル派と他の穏健フス派との亀裂が広がっており、それを憂いたジシュカによる謀殺ではないかとの推測が、作中でのジシュカによるミクラーシュ殺害のエピソードになったとの事。 ヤン・イスクラ 初登場時はカトリック派の暗殺者として、ヤン・ジシュカの暗殺を実行する(この時の負傷が原因でヤン・ジシュカは失明することになる)。しかし、暗殺に失敗したヤン・イスクラをカトリック派が切り捨てるような行動に出たため、フス派に転向。しばらくはヤン・ジシュカの下で働くが、シャールカの友人ガブリエラを暗殺したことで罪の意識に苛まれて出奔。エリーザベトの下で働いていたところ、シャールカと再会し、ガブリエラ殺しも赦されフス派に戻る。 実在の人物であるが、若いころは不明であり、本作で描かれている部分は創作である。 プロコプ ターボルの聖職者でフス派の宗教的指導者の1人。戦闘に参加するとともに農民兵たちを鼓舞する少年少女たちによる聖歌隊「ターボル天使隊」を組織する。 ジシュカの死後はターボル派の指導者として、軍事指揮官の役目も担う事となる。 カトリック派との和平と戦争終結を目指してバーゼル公会議に参加し、穏健派のヤン・ロキツァナとともに和平案をまとめるが、急進派のターボル派とオレープ派はその内容を拒絶。 プロコプ自身は講和を望んでいたものの仲間を見捨てることが出来ずにターボル派指揮官としてリパニの戦いに参加、シャールカとサーラを戦場から脱出させた後戦死した。 ヤン・ジェリフスキー(英語版) フス派の宗教的指導者の1人。攻撃的で急進的な説教師。 「火を吐くような説教」と称され、実際に口から火を吐いているような描写がされている。 物語の開始以前にプラハでプラハ窓外投擲事件を起こし、カトリック派であった市長と市参事会員を窓から投げ落として殺害した。この事件がフス戦争のきっかけでもある。 ヴラスタ ヤン・ジシュカ率いる傭兵団に所属する女騎士。戦闘力は高く、十字軍の騎士たちと対等以上に渡り合う。ジシュカに好意を持っており、ジシュカの婚約者を自称するリーゼロッテとは喧嘩が絶えない。 ジシュカの子供を身ごもっていたが、ジシュカ死亡後にヴィルヘルムと闘い、死亡する。 リーゼロッテ 天才工学者と言われたコンラート・キーザー(英語版)の孫娘(キーザーは実在だが、孫娘は架空の人物)。 祖父譲りで様々な新兵器の開発を行うが、役に立っているかどうかは怪しいところもある。ジシュカの婚約者を自称する。 チャペク(サーンのヤン・チャペク)(チェコ語版) ジシュカの傭兵団の一員で痘痕面と三白眼が特徴。騎乗戦闘と弓射の腕に優れ、かつてはクマン人傭兵たちと行動を共にしていたこともある。 典型的な無頼の傭兵気質の持ち主で略奪行為などへの抵抗感は薄い。ボヘミア最強の傭兵隊の矜持から、従軍する農民たち(特に女子供)に強く反発する。 ロハーチ(ドゥベーのヤン・ロハーチ)(チェコ語版) ジシュカの傭兵団の一員で、精悍な顔立ちと髭が印象的な壮年の傭兵。 堅い守りに定評のある謹厳実直な人物だが、思わぬ酒癖の悪さを発揮することも。 ヴィクトリーン(ポシェブラディとクンタートのヴィクトリーン・ボチェック)(チェコ語版) 丸顔とおかっぱ頭が特徴の恰幅の良い傭兵。 もともとはボヘミアの大貴族の出身だが、先祖代々の所領であるポシェブラディをジシュカに奪還してもらった恩義に報いるため彼の盟友となる。 イジー 39話の初登場時点で4歳になるヴィクトリーンの息子。ジシュカが洗礼親のため、彼によくなついている。 ヴィクトリーンの死後は、同じフス派貴族であるヒネク・クルシナに後見されていた。 57話にて再登場するが、14歳とは思えない政治的センスとリアリズムの持ち主であり、レオンやシャールカに協力してボヘミア平和同盟の成立に貢献した。 フス戦争終結後、聖杯派貴族たちの推戴を受けて1458年、ボヘミア王として即位することとなる。 フヴェズダ(ヴィーツェミリツのヤン・フヴェズダ)(チェコ語版) 獅子鼻ともじゃもじゃの鬚面が特徴の傭兵。キャラクターとしては1巻から登場し、9巻の回想シーンにも姿が見えるなどジシュカの部下としては相当な古参だが、名前が出たのは9巻において死亡した際のみ。 史実では本来はジシュカの部下ではなくジェリフ派の軍事指揮官の一人で、ジェリフスキーの失脚後にターボル派に移っている。ジシュカの死後、彼の後を継いでターボル派の指導者となるが、約1年後にムラダー・ヴォジツェの戦いで重傷を負い、死亡した。 ペトル・フロマドカ(チェコ語版) プルゼニに工房を構える鍜治場の親方。フス派の支持者でジシュカとは古い友人であり、ジシュカの依頼を受けて野戦用に小型化した大砲や、後にピーシュチャラと呼ばれるようになる手銃(ハンドゴン)の製造を請け負っていた。 プルゼニがカトリック派に奪還されてからはジシュカの傭兵隊に加わり、砲兵指揮官そして部隊指揮官を務めるようになる。 3巻のジシュカ暗殺未遂事件で、イスクラが爆破した聖堂の屋根の崩落に巻き込まれて両脚を喪うが一命は取り留め、その後は車椅子で指揮を執るようになる。 クトナー・ホラ攻囲中にクマン人騎兵部隊の急襲を受け、アールボツの手にかかって戦死した。 ヤクプ 弾圧から逃れてターボルに移住してきたフス派の農夫。ターニャ、クローニャ姉妹の父親。子だくさんの家庭だが男子に恵まれず、娘が5人いる。 ターボル軍結成当時からの古参兵であり、歩兵部隊の中心的人物の一人として最後まで戦い抜くが、リパニの戦いで娘のクローニャともども戦死した。 アンブローシュ(チェコ語版) オレープ派の聖職者で、アレクサンドラからは『先生』と呼ばれている。リヒテンブルクのヒネク=クルシナの支援の下、オレープ派を設立した。作品中では7巻において、オレープ派の軍勢がターボル軍の支援に駆けつけたシーンでオレープ派指導者として初登場した。 政治的立場は穏健派寄りでバーゼル協約の受け入れによるカトリック派との和平を目指すが、プロクーペクら軍の指導者たちに受け入れられず、彼らとともにリパニでの最後の戦いに臨んだ。 作中ではその生死は明記されていないが、史実において1439年10月16日にコリーンで死去していることから、リパニでは戦死を免れたものと思われる。 プロクーペク(チェコ語版) オレープ軍の歩兵長。元は農民だが、ジシュカに戦術眼とリーダーシップを買われ歩兵部隊長となった。 ジシュカの死後はオレープ派の指導者となって戦いを続けるが、リパニの戦いで戦死した。実在の人物であり『小プロコプ(プロコプ・マリー)』とも呼ばれる。 ペトル・ヘルチツキー(英語版) ターボルの司祭の一人。 信仰を守るためには暴力の行使もやむを得ないとするジシュカやプロコプと異なり、聖書に基づく不戦と絶対非暴力を主張する。 ヴィトコフの戦いの後ターボル派を離脱し、自身の信仰の下ボヘミア兄弟団を設立する。
※この「フス派」の解説は、「乙女戦争 ディーヴチー・ヴァールカ」の解説の一部です。
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