エピソード
「エピソード」の意味・「エピソード」とは
「エピソード」とは、物語やドラマ、映画などの中で、一つの出来事やエピソードを指す言葉である。主要なストーリーに関連するものであっても、関連が薄いものであっても、登場人物や場面において特徴的な出来事を表す。また、日常生活においても、特定の人物や場面に関連する印象的な出来事やエピソードを指すことがある。「エピソード」の語源
「エピソード」の語源は、古代ギリシャ語の「επεισόδιον」(epeisodion)である。これは、「επί」(epi:上、の上に)と「ὁδός」(hodos:道、進むこと)の二つの言葉が組み合わさったもので、本来は「追加されるもの」や「挿入されるもの」といった意味を持っていた。その後、古代ギリシャの劇において、主要なストーリーとは別に挿入される短い出来事やエピソードを指す言葉として使われるようになり、現在のような意味になった。「エピソード」に関連する用語・知識
「エピソード話」とは
「エピソード話」とは、物語の中で独立した一つのエピソードを描いた話のことを指す。これは、連続した物語の中で、主要なストーリーとは別に、登場人物や場面に関連する印象的な出来事やエピソードを描いたものである。例えば、テレビドラマやアニメの中で、主要なストーリーとは関係なく、登場人物たちが独立した一つのエピソードを通じて成長する話などが該当する。「エピソード」の英語表現
「エピソード」の英語表現は、"episode"である。これは、英語圏のテレビドラマや映画、アニメなどで、一つの物語や出来事を指す言葉として使われる。また、日常生活においても、特定の人物や場面に関連する印象的な出来事やエピソードを指すことがある。「エピソード」の日本語訳
「エピソード」の日本語訳は、「挿話」や「逸話」といった言葉がある。これらは、物語やドラマ、映画などの中で、一つの出来事やエピソードを指す言葉である。また、日常生活においても、特定の人物や場面に関連する印象的な出来事やエピソードを指すことがある。医療における「エピソード」とは
医療における「エピソード」とは、患者が医療機関を受診する際に、一連の治療や診療を指す言葉である。これは、患者が病気や怪我などのために医療機関を受診し、診断から治療、フォローアップまでの一連の流れを表す。この言葉は、医療の質や効率を評価する際に、患者の治療経過や診療の流れを把握するために用いられることがある。「エピソード」を用いた例文
1. 彼女はその映画の中で、特に印象に残ったエピソードを語った。 2. そのアニメは、主要なストーリーの進行とは別に、個々の登場人物のエピソードが描かれている。 3. 彼は自分の人生経験をもとに、様々なエピソードを交えて講演を行った。episode
「episode」とは・「episode」の意味
「episode」とは、物語やドラマの一部分を指す言葉であり、日本語では「挿話」とも言える。また、一連の出来事や状況の一部を表す際にも使用される。例えば、テレビドラマやアニメの各話を指す場合や、人生のある時期や出来事を示す際に用いられる。「episode」の発音・読み方
「episode」の発音は/épɪsòʊd/で、日本語では「エピソード」と読むことが一般的である。「episode」の語源・由来
「episode」の語源は、古代ギリシャ語の「epeisódion(追加されたもの)」であり、これは「epi-(上に、追加で)」と「sodion(歌)」が組み合わさった言葉である。古代ギリシャの劇において、主要な物語に追加される短い歌や挿話を指していたが、現代では物語の一部分や一連の出来事を指す言葉として広く使われている。「episodes(複数形)」の意味・使い方
「episodes」は、「episode」の複数形であり、複数の物語の一部分や出来事を指す。例えば、テレビドラマの全話や、人生のいくつかの時期や出来事をまとめて表現する際に用いられる。「episode」を含む様々な用語の解説
「Episode(アパレルブランド)」とは
「Episode」とは、フランスのアパレルブランド「アンエンユリ」が展開するファッションブランドである。シンプルで洗練されたデザインが特徴で、幅広い年齢層に支持されている。「Episode(医学用語)」とは
医学用語としての「episode」は、病気や症状が一定期間続くことを指す。特に、再発性の疾患や症状の発作のことを表す際に使用される。「episode」の使い方・例文
1. The last episode of the TV series was very emotional.(そのテレビシリーズの最終話は非常に感動的であった。) 2. She shared an amusing episode from her childhood.(彼女は子供時代の面白いエピソードを話してくれた。) 3. The book is divided into several episodes.(その本はいくつかのエピソードに分かれている。) 4. The patient experienced an episode of severe headache.(その患者は激しい頭痛の発作を経験した。) 5. The next episode will be aired next week.(次のエピソードは来週放送される。) 6. The podcast features different episodes on various topics.(そのポッドキャストはさまざまなトピックに関する異なるエピソードを特集している。) 7. The movie is a compilation of episodes from the original comic.(その映画は元のコミックからのエピソードの編集である。) 8. He had an episode of depression during his college years.(彼は大学時代にうつ病のエピソードがあった。) 9. The first episode of the new season will be released soon.(新シーズンの第1話が間もなく公開される。) 10. The novel consists of interconnected episodes.(その小説はつながりのあるエピソードで構成されている。)エピソード【episode】
エピソード(Episode)
エピソード
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エピソード(英語: episode)
- 1 エピソードとは
- 2 エピソードの概要
- 3 一般
エピソード (INDEX)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/29 00:56 UTC 版)
「とある“ラジオ”の禁書目録」の記事における「エピソード (INDEX)」の解説
井口がパンダに似ているという事が話題になったのがきっかけで、番組の挨拶は「パンダパンダ〜」で定着した。 第3回(10月3日配信分)において、テレビアニメのオープニングテーマである川田まみの「PSI-missing」(サイ ミッシング)を流す際、第1回・第2回(9月19日・26日配信分)でパーソナリティ2人は曲名を誤って紹介していたことが判明し、番組冒頭で謝罪した。第1回では2人とも「ピーエス アイ ミッシング」と紹介し、第2回では井口は正しく紹介したものの、佐藤は「ピーエスアイ ミッシング」と紹介していた。 収録・放送期間中にボジョレー・ヌヴォーの解禁があり、これをきっかけにパーソナリティの2人が酒を所望したことから、番組中にワインが登場。以後、何かしらにつけて酒類が登場した(公開録音除く)。年末年始の配信となった第15回(2008年12月26日)は忘年会、第16回(2009年1月9日)は新年会となり、ゲストのささきのぞみとともに飲み合った。 1月半ばには「飲酒は封印しよう」との発言が一旦あったが、第19回(2009年1月30日)、第20回(2009年2月6日)のゲストが酒豪で知られる伊藤静であったことから、またしても酒が登場。遂には「宴会ラジオ」と銘打つまでになった。そのため、当時14歳の日高里菜が登場した第23回(2009年2月27日)には、リスナーから「飲酒目録」と評され、日高に配慮して「禁酒目録」となるよう促された(その代わりに成人の際に飲み合おうという話になった)。 第32回(2009年5月1日)では、番組が最終回を迎えるということでワインが登場。これにより、ワインで始まり、ワインで終わることとなった。 第17回(2009年1月16日)において、井口と佐藤の間で阿部敦のゲスト出演は公開録音に限定された。実際、番組開始から最終回までスタジオ収録に参加することは無く、井口と佐藤の取り決め通りとなった(2人は阿部のことを「お祭り(イベント)男」と称した)。
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エピソード(日本での放送回)
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「深夜食堂」の記事における「エピソード(日本での放送回)」の解説
高菜漬け入り牛肉麺・高菜と蟹の麺(第1話・第2話) 日本版第3話「お茶漬け」が基となっている。 張軒(チャン・シュエン) 演 - 陳柏融(チェン・ボーロン) エリザベスの恋の相手。エリザベスが深夜食堂に連れてきたことがきっかけで、蕓とも深い仲になり、エルメスにも言い寄る軽い男。 田麩(でんぶ)ご飯(第2-4話) 日本版第2話「猫まんま」が基となっている。 奇奇(キキ) 演 - 徐嬌(シュー・チャオ) 田舎から出てきた歌手志望の少女。行き倒れているところをマスターに見つけられ、深夜食堂の2階に居候することになる。 楊(ヤン) 演 - 劉昊然(リウ・ハオラン) 有名な音楽プロデューサー。奇奇をプロデュースすることになる。 揚げパン包み(第4話・第5話) 本作の監督である蔡岳勲の代表作『流星花園』のパロディ回ともなっている。 駱佳佳(ルー・ジアジア) 演 - 陳彦妃(エッダ・チェン) 陳たちの高校時代のマドンナ。結婚を控えており、陳たちに「花の4人組」を再結成して結婚式で歌ってほしいとお願いする。 陳霆(チェン・ティン) 演 - 蔡鷺(ツァイ・ルー) 佳佳の同級生で、今はサラリーマン。子持ちの既婚者。高校時代には、人気アイドル・F4をマネて「花の4人組」というグループを組んでいた。好きだった佳佳のために、しばらく会っていない蔡と袁の捜索を李刑事に依頼する。 方小円(ファン・シャオユエン) 演 - 方家翊(ファン・ジアイー) 佳佳の同級生で、今は冴えない太った銀行員。「花の4人組」では自称・周渝民(ヴィック・チョウ=花澤類)担当。 蔡有方(ツァイ・ヨウファン) 演 - 張瑞涵(チャン・ルイハン) 佳佳の同級生で、今はスポーツジムの器具メンテナンス担当。陳と同じく、佳佳のことが好きだった。 袁遅(ユエン・チー) 演 - 遅嘉(チー・ジア) 佳佳の同級生で、今は母校の教師。 タコさんウィンナーと卵焼き(第6話) 日本版第1話「赤いウインナーと卵焼き」が基となっている。 義(イー) 演 - 陳為民(チェン・ウェイミン) 龍の兄貴分。 ボス 演 - 傅雷(フー・レイ) 龍の会社のボス。義が何者かと商談するとの情報から、探るよう龍に命ずる。 トニー 演 - 張翰(チャン・ハン) 義に商談を持ちかけた男。埠頭への貨物の搬入に手を貸すよう、龍に依頼する。 天使のハンバーガー(第7-9話) 天使のハンバーガーとは、野菜を細かく刻み練り込んだ特製のハンバーガー。 マーク 演 - 趙又廷(マーク・チャオ) 耳が不自由で、字も読み書きができない船乗り。ある日、赤ん坊が捨てられているのを見つけ、育てるために船を降り、船の修理工として働く。 楽楽(ルル) 演 - 馬千壱(マー・チエンイー) マークに拾われた少女。野菜嫌い。 厳(イェン) 演 - 趙自強(チャオ・ズーチアン) 龍の紹介でついた、マークの担当弁護士。 艾真(アイ・チェン) 演 - 戚薇(チー・ウェイ) 楽楽の実の母。大企業の経営者で、楽楽を誘拐された。 蛤の酒蒸し(第9話・第10話) 日本版第13話「あさりの酒蒸し」が基となっている。 蓮(リエン) 演 - 恬妞(ティエン・ニウ) 深夜食堂でベロベロになるまで酔い、周りに迷惑をかける女性客。手に負えなくなると、マスターが丈に電話をする。 丈(ジャン) 演 - 銭泳辰(チエン・ヨンチェン) 酔った蓮を迎えにいく孝行息子。恋人の小柔と同じ学校で体育教師をしており、彼女が次に赴任する新設校で体育主任をする話が出ている。 苑小柔(ユエン・シャオルオ) 演 - 許薇(シュー・ウェイ) 丈の恋人。新設校の副校長になることが決まっている。 スノーダンス(第11話・第12話) スノーダンスとは、パチパチ飴をふりかけた特製のコーラフロート。 胡西西(フー・シーシー) 演 - 胡冰卿(フー・ビンチン) 先天性の心疾患を抱えた女の子。 任里昂(レン・リアン) 演 - 蕭敬騰(ジャム・シャオ) 脳に膠芽腫を抱えたバイカーの青年。 醤油やきそば(第12-14話) 日本版第8話「ソースやきそば」が基となっている。 孫可唯(スン・コーウェイ) 演 - 張鈞甯(チャン・チュンニン) ガールズユニット出身の人気女優。自らの生い立ちに酷似した映画のオファーが来て、仕事を受けるのをためらっている。「卵サンド」の回(第19話)にもカメオ出演している。 孫尚(スン・シャン) 演 - 隋詠良(スイ・ヨンリャン) マスターの落とした財布を拾ったホームレス。 傷心涼粉(第14話・第15話) 涼粉(りゃんふん)とは、緑豆などを原料にしたトコロテンに似た食べ物。傷心涼粉は成都郊外にある洛帯の名物料理で、激辛なのが特徴。 小泉(シャオチュエン) 演 - 應采兒(チェリー・イン) 恋多き美人客室乗務員。失恋をするたびに深夜食堂を訪れ、傷心涼粉を食べながら泣いた後、酔っぱらって傷を癒やす。 高松(ガオ・ソン) 演 - 郭林(グオ・リン) ハイヤーの運転手。深夜食堂帰りの小泉を送り、彼女に恋をする。 運転代行の青年 演 – 瞿澳暉(チュー・アオフイ) 酔った高の代行に呼ばれ、彼と仲良くなる。 紅焼肉(第16-18話) 紅焼肉(ホンジャオロウ)とは、豚の角煮に似た中華料理。 蘇哲明(スー・ジョーミン) 演 - 金士傑(ジン・シージエ) 大学の医学部で学部長まで務めた元名医。脳卒中の後遺症で体が不自由になってしまった。口が悪いため介護人が次々と辞めていってしまう。 孫翠芳(スン・ツイファン) 演 - 梁静(リャン・ジン) 哲明の介護を担当する女性。故郷に息子を残して出稼ぎのためやってきた。ひどく訛っているため、哲明らに馬鹿にされる。 卵サンド(第19話・第20話) 日本版第7話「タマゴサンド」が基となっている。「醤油やきそば」の回(第12話 - 第14話) に登場した孫可唯(張鈞甯)が、第19話で1シーンのみ出演する。 林小桑(リン・シャオサン) 演 - 洪晨穎(ホン・チェンイン) 女優志望の女の子。エキストラとして撮影中に足をひねり、夜道をとぼとぼ歩いているところに蔡が通りがかり、深夜食堂に連れてこられる。 蔡智勇(ツァイ・ジーヨン) 演 - 徐開騁(シュー・カイチョン) 新聞配達をする勤労学生。大学でジャーナリズムを専攻する記者志望。 再びタコさんウィンナー(第20話・第21話) 日本版第11話「再び赤いウインナー」が基となっている。 李牧美(リー・ムーメイ) 演 - 盧茜(ルー・シー) 龍と李刑事の大学時代の同級生。龍が道を外れる原因となった出来事にも関わっていた。病を患い入院中で、先が短い。 東北ちまき(第21話・第22話) 原作第2巻「トイレの客」が基となっている。東北ちまきとは、東北地方で食される棗(なつめ)を使用したちまき。 タテジマ/梁浩実(リャン・ハオシー) 演 - 修杰楷(シウ・ジエカイ) 深夜食堂に駆け込むなり、毎回トイレを借りる客。島と仲が良く、ストライプのシャツをいつも着ていることから、店では“タテジマ”というあだ名をつけられる。自転車で地図サイトの画像撮影をする仕事をしており、以前は東北地方にいた。 暁蓉(シャオ・ロン) 演 - 張雯(ジャン・ウェン) タテジマが代筆したラブレターを受け取っていた女性。 回鍋肉(第22-25話) 日本版第6話「カツ丼」が基となっている。 勝(ション)/文中勝(ウェン・ジョンション) 演 - 江奇霖(アジョー・ジャン) ボクサー。試合に勝った日は必ず深夜食堂で回鍋肉を注文する。主催者の意向に背き八百長をしなかったため、干される。その後は、地下格闘技に転向。深夜食堂にいた明美に一目惚れする。 明美(ミンメイ) 演 - 于小恵(ユー・シャオホイ) クーコーの母親。夫を事故で亡くしており、レストランやバーで働きながら息子を養っている。 クーコー 演 - 蔡豊澤(ツァイ・フォンゾー) 明美の息子。勝に懐いており、勝にもかわいがられている。本当の名前は酷哥(クーゴー)だが、うまく言えない。 ジョー 演 - 湯志偉(タン・ジーウェイ) 勝の所属する高弟ボクシングジムのマネージャー。 娟(ジュエン) 演 - 丁寧(ディン・ニン) 明美と同じバーで働く女性。明美の恋を応援している。 カストロ・オズ ボクシングの王者。試合相手を殴り殺し、資格停止処分を受けた。 醤油(第25話・第26話) 醤油炒飯、醤油かけご飯、豚足の醤油煮が登場する。 姜志忠(ジアン・ジージョン) 演 - 張衛(ジャン・ウェイ) 醤油職人。病で倒れ、入院中。大山が家業の醤油工場を継ぐことを望んでいる。 姜大山(ジアン・ダーシャン) 演 - 魏千翔(ウェイ・チェンシャン) 志忠の息子。ジョセフ・ワンダーという名で、ファッションデザイナーとしてパリで成功し、ラガーフェルドも認める才能をもつ。家業を継ぐのが嫌で、夢を叶えるべく家を出たが、マスターから志忠が倒れたとの連絡を受け、帰ってくる。 伊佛(イブ) 演 - 楊謹華(シェリル・ヤン) 大山の公私に渡るパートナー。 蟹入り小籠包(第26話・第27話) 胡安琪(フー・アンチー) 演 - 馮若綺(フォン・ルオチー) 賢の幼なじみで、賢の祖母のもとでピアノを習っていた女性。ピアニストとして活躍。 賢の祖母 演 - 唐嘉群(タン・ジアチュン) 両親に捨てられた賢の育ての親。ピアノ教室を営んでいた。蟹入り小籠包が得意だった。 缶詰(第27話 - 第29話) “桃の食べ頃”という、桃の缶詰を使用したマスター特製料理が登場する。 明明(ミンミン) 演 - 葉青(イエ・チン) 玲玲のいる“Mハウス”で働くダンサー。深夜食堂に缶詰をストックして、節約している。絵を描くのが趣味。 莫華(モー・ホア) 演 - 張国柱(チャン・グオジュー) 世界的建築家。明明に恋をすることで、仲間たちから非難を受ける。 魚香肉絲(第29-31話) 日本版第5話「バターライス」が基となっている。魚香肉絲(ユーシャンロースー)とは、細切り肉を甘辛く炒めた中国ではポピュラーな料理。名前に入っているが、魚は使われていない。 高遠(ガオ・ユエン) 演 - 任賢齊(リッチー・レン) 流しのギター弾き。魏とは幼なじみで、自分で調理した魚香肉絲を分けて食べていた。よく出入りする“ヒマワリ食堂”の客入りが悪く困っている。 魏然(ウェイ・ラン) 演 - 賈景暉(ジア・ジンフイ) 「悪魔厨房(デビルキッチン)」という料理競技番組に出演する著名な料理評論家。通称、必殺料理人。料理する高に憧れ、料理人を目指していた。 楊穎(ヤン・イン) 演 - 任容萱(キミ・レン) “ダイニング カローナ”のオーナーシェフで、「悪魔厨房」の出場者。魏然を脅し、上位入賞を諮る。 カレーライス(第31話・第32話) 日本版第30話「年越しそば」でも描かれた年越しが舞台となっている。 小艾(シャオアイ) 演 - 建澤正(ジエン・ゾージョン) 深夜に配達を行う“深夜便”で働く青年。忠の所有するアパートに下宿しており、歳の離れたエルメスから好意を寄せられる。いつも料理を2人前注文する。醤油やきそばの回(第14話)で孫可唯(張鈞甯)からの鍵をマスターに届けている。 生姜炒飯(第32-34話) 王海芬(ワン・ハイフェン) 演 - 海青(ハイ・チン) 深夜食堂の常連で、玲玲や賢と仲が良い。19歳で莉莉を妊娠し、李凱と結婚するものの、李凱の浮気で離婚。アルツハイマー病を患っている。 李凱(リー・カイ) 演 - 李洺中(フレデリック・リー) 海芬の元夫。 王莉莉(ワン・リーリー) 演 - 朱顔曼滋(ジューイエン・マンズ) 海芬の娘。現在は海外で暮らしており、ジャックとの挙式を控え、帰国した。 ジャック 演 - 周厚安(アンドリュー・チャウ) 莉莉の恋人。アメリカ人 莎莎(シャーシャー) 演 - 曾珮瑜(ペギー・ツェン) 李凱の内縁の妻。海芬と李凱の別れる原因となったが、いまだ籍は入れていない。病気になった海芬の代わりに莉莉の面倒を見ていた時期があり、自分も母親のようなものだと主張する。 魚汁蒸蛋(第34-36話) 日本版第14話「にこごり」が基となっている。魚汁蒸蛋とは、魚の出汁を使った茶碗蒸しのような料理。 蒋明(ジアン・ミン) 演 - 鄒承恩(ジェイソン・ツォウ) マスターに弟子入り志願をする青年。丸焼き家鴨の専門店の跡取り息子だが、分子美食学を取り入れた新時代の料理を追究し、故郷を離れ有名料理店で修行するも、自信家な性格が揉め事を引き起こし、クビになる。一目惚れした郁美を尾行し、深夜食堂にやってくる。 郁美(ユーメイ) 演 - 施詩(シー・シー) 昔食べた魚汁蒸蛋を求めて、マスターに試作をしてもらう常連客。失語症のため就職が困難で、ヌードモデルとして働いている。人気女優・孫可唯のダブルボディをするほど売れっ子。 揚げ白玉(第36話・第37話) 紅白の揚げ白玉は、夫婦円満の象徴として中国では正月によく食べられていた。白は素材のまま、赤はドラゴンフルーツの果汁が練り込まれている。 小梅(シャオメイ) 演 - 陳意涵(アイビー・チェン) 揚げ白玉を求めて深夜食堂にやってくる客。自由奔放で、「即席麺三姉妹」をパシリに使う。元夫・マイクとの間の子を妊娠中。 小月(シャオユエ) 演 - 馬蘇(マー・スー) 小梅の姉。一流大学卒で、広告代理店の経営者。仕事も家庭もうまくこなしている。 李維(リー・ウェイ) 演 - 郭鑫(グオ・シン) 小月の夫。エリートサラリーマン。浮気癖がある。 喜相逢・鶏蛋餅(第37-39話) 喜相逢(シーシャンフォン)は、子持ちししゃものフライ。鶏蛋餅は、卵と小麦粉を溶き薄く焼いたもの。その他に、玲玲の元カレの好物として、イカ墨炒飯、スペアリブの蒸し物、チンゲン菜とキノコのつまみ、オクラのつまみが登場する。 面條 演 - 白恩(バイ・エン) ストリートダンサー。玲玲に踊りを教える。妻と娘がいる。 高拔(ガオ・バー) 演 - 白一翔(バイ・イーシアン) 玲玲の働く“Mハウス”の客。玲玲のファンで、プロポーズをする。
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エピソード(伝説)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/07/31 14:02 UTC 版)
畳の上に這う蝿を抜刀で刀の切先に刺しても、蠅は潰れも分断されもせず生きて刃にとまっているかのようだった。 片手で約20キロの石をもち、崖から横に伸びたウバメグスの大木の上を下駄履きのまま歩き、幹の分かれた所に置いてきた。 土砂崩れのあとの急斜面の上から空の醤油樽を転がし、自身もそれを追いつつ、醤油樽を棒で叩きながら下まで駆け下りた。 満八歳で既に、山中を獣のような速さで駆けた兄の頭上を枝から枝に飛び移り猿を捕らえた。 鹿を追い素手で締め落して鹿鍋にして皆で食べた。
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エピソード(伝説)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/09/01 06:36 UTC 版)
27間(約50m)離れた3寸の的を二本連続して射抜いた。見ていた人間が「人間業ではない」ともらすと梅路は「もちろん」と言った。 門弟が冬の朝、外で弓を射る稽古をしていた。流儀の動作をひとつ省いて矢を射たところ、雨戸、障子を締め切った家の中で寝ていた梅路が起きて「馬鹿! なんという様だ!」と一喝。家の中にして、外の弟子が動作を省略したことを瞬時に理解したということである。 支え無しに立てた竹を斜めに切り上げ、門松が作れた。 矢の棒の部分を使ってネズミを縦に真っ二つにできた。
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エピソード(伝説)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/08 09:15 UTC 版)
孫禄堂はずば抜けた身体能力で有名である。活猴(かっこう・いきざる)禄堂との異名を持つ。 馬のしっぽをのせ、一緒に数十キロ走り続けた。しっぽを掴むのではなく、のせて落とさないようにするだけであるから速度をきちんと合わせないとできることではない。しかも走りに合わせて馬に飛び乗ったり飛び降りたりしたとも伝えられる。 壁を駆け上がったと思いきや天井近くでくるりと身を翻し、背中を壁につけた状態で落下した。 100人以上の村人の小競り合いに巻き込まれたことがあったが、点穴術を用いて全員を気絶させ騒ぎを収めた。
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エピソード(特記無きは5代目)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/24 07:04 UTC 版)
「えひめ丸」の記事における「エピソード(特記無きは5代目)」の解説
煙突マークは校章。 水高祭でマグロが販売される事がある。 漁獲したマグロの解体ショーが開催される事がある。 歴代のえひめ丸は観測した気象情報を気象庁に通報しており、2000年6月1日に4代目が気象庁長官表彰を受賞した。 本記事の最初の写真の撮影者は米海軍である。
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エピソード(武勇談)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/02 14:24 UTC 版)
16歳の時、武器を持った数十人の土棍(山賊)に襲われたが、王はこれを単身素手で立ち向かって撃退した。後に王は「数が多い敵でも数人を倒せば、後は恐れをなして逃げる。」と述べている。
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エピソード(1980年の世界選手権ケイリン決勝)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/04/30 07:34 UTC 版)
「ダニー・クラーク」の記事における「エピソード(1980年の世界選手権ケイリン決勝)」の解説
クラークは終始誘導(誘導はデルニーバイクで行っていた)のすぐ後ろに位置していた。誘導のペースが初手からかなり速く、誘導退避付近で恐らく時速60Km近いスピード(これは競輪でいえばゴール寸前のトップスピードにほぼ近い状態)が出ていたものと思われる。したがって最終周回に入っても後続の隊列は追走に手一杯の状態で縦一本棒の状態のままだったことから、クラークの逃げ切りは濃厚と見られていた。ところがバック付近で藤巻清志が兄の藤巻昇を連れて捲りに出て、ついに4角付近においてクラークを捲り切った。だが、清志は捲り切ったところで力尽き、再度クラークが直線で差し返して初代世界選ケイリン王者に就いた。 もっとも、地元フランスのマスコミはクラークの優勝のことよりも、ハイスピードの状態であったにもかかわらず、一度は捲り切った藤巻清志の走りを「信じられない!」と驚嘆。「ベストルーザー」という言葉を借りるならば、このときの清志はまさにそのような扱いをされた。
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エピソード(戦前)
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浜松高等工業学校(現在の静岡大学)時代の恩師は、テレビ研究の草分けで、日本で初めて「イ」の字の送像実験に成功した高柳健次郎である。 松下電器製作所への入社は、浜松高等工業学校に来ていた中尾哲二郎技術部長(後に副社長)のスカウトによる。 浜松高等工業学校卒業前に、汽車で浜松から大阪に行き、門真で松下幸之助とはじめて面会する。この時、自分のことを色々と聞かれるものと思っていたが、30分以上にわたり松下幸之助が自社製品についてなどを熱心に語った。 当時の松下電器製作所の全国的な知名度は低かったが、自分を見込んでくれた会社に感動し入社した。浜松高等工業学校の同期の多くは、東京の会社へ入社していた。また、松下電器製作所の初任給は東京の会社の相場より10円安い60円であった。 入社後に配属されたのは、大阪・十三の工場(1935年の年末に、松下電器は松下電器産業株式会社となり、事業部別に9社の子会社に分社化され、この工場は松下無線株式会社に組み込まれた)であった。この工場では、抵抗器、コンデンサ、低周波変圧器、スピーカなどのラジオ部品を作っていた。入社後から、この工場の事務所の2階に寝泊りしていた。 入社後の最初の夏の賞与で、一着30円のオーダーメイドの背広を購入した。 入社当時は、無線について不勉強だったため、十三工場のスピーカの責任者であった鈴木勇(後に、三洋電機のテレビ責任者となる)が持っていた共立社発行の「無線工学講座」を借り、無線工学の勉強から始めた。 入社した年の年末に中尾哲二郎に呼ばれ、「テレビの研究をするように」と言われる。これに対し、「送像機から作る必要がある」と言うと、中尾は「当社で送信機を作ることは考えていない。今は送信機なしでラジオを作っている。テレビもラジオのように送信機なしで作れるはず」と言われる。当時、大阪でテレビ研究をしている者はおらず、まだラジオの時代であった。大変だと思ったが、テレビは興味のある研究対象であり、断るのももったいないと思い承知した。テレビの研究部は、本社・工場のある門真町にあったため、近くに引っ越した。この1935年12月が、松下電器のテレビの基礎研究が開始された時である。 テレビ開発を命じられてから、阪急百貨店で曾根有著の岩波全書「テレビジョン」を購入し、にわか勉強を始める。1936年はじめに、恩師の高柳健次郎教授を浜松まで尋ね(この当時、大阪からは鉄道で片道6時間かかった)、会社からテレビの研究を命じられたことを伝え、指導などをしてくれるようにお願いした。この時に、試作しているブラウン管の分譲をお願いし(試作代として150円を支払う)、日本テレビジョン学会発行の「テレビジョン年報」を教授からもらった。松下電器からは、松下社員養成所実習生二名を補助としてつけてもらえることになった。 手に入れたブラウン管でテレビ受信機の試作を始めるが、当時は高圧を作るのにフライバックトランス法が無かったため、商用電源用のトランスを利用した。電圧は5000Vは必要で大変危険であった。高柳教授からは安全のためネオンサイン用のリーケージトランスを使うと良いと教わる。ラジオ用の真空管を流用し、信号発生器・パターン発生器・掃引信号発生器などは全て自作した。このようにして、テレビ受像機の試作を始める。 1937年になると、高柳教授は学校の研究陣の主力を率いて、東京・世田谷区砧のNHKの技術研究所で、テレビ実用化の研究を始める。松下電器は、1938年4月に東京・青物横丁に松下無線・東京研究所を開設し、テレビ研究部門も移設される。この東京研究所は、発足当時総員80名で、7科あり、第3科の科長として12名でテレビや通信機器の研究をした。毎日のように、品川の青物横丁から世田谷区の砧に通う(渋谷駅から研究所前までバスに乗ったり、小田急線の祖師谷大蔵駅から黒土の霜柱を踏んで技術研究所まで歩いた)。 テレビの研究、設計のための測定器(オシロスコープ)は自分で作成した。当時、波形を見るためのブラウン管オシロスコープはRCA社、フィリップス社などの輸入品があった。日本では、東京電気などが製品を出していた。テレビとあわせてオシロスコープを製品化しようとブラウン管の供給先を探すと、東光創業者の前田久雄がケーオートロン(後に、トウ)、日本光音工業でソニー創業者の井深大がブラウン管やオシロスコープを作っていた。しかし、当時の真空技術が十分ではなかったため、ブラウン管の寿命が短く、オシロスコープを商品とするには満足できるものがなかった。結局、日本電気の玉川工場から供給を受けることで製品化することができた(大沢寿一、西尾秀彦にお世話になる)。完成したオシロスコープは、戦時中から戦後にかけて、軍・NHK・大学などの各方面で使用され、その後、松下通信工業に引き継がれた。 1939年5月、NHKがテレビの実験放送を開始する。この頃、日本の電機メーカー各社は、受像機の開発に力を入れていた。当時のテレビ受像機は、使用電力が300Wで、価格は3,000円ほどであった。松下電器も、同年7月に特許局陳列館で開催された電気発明展覧会に、テレビの試作品を出展した(松下電器にとって、テレビを一般公開したのはこれが最初である)。 テレビ開発は、1940年に日本で開催予定だった東京オリンピックが大きな目的であった。しかし、日中戦争が勃発し、オリンピック開催については、1938年7月に返上していた。また、この時、国家総動員法が発令され、電機メーカー各社は軍のための開発が中心となっていき、テレビ開発は縮小方向へ向かう。NHKのテレビの実験放送も、1941年6月に中止となった。 戦時中、テレビ技術者は、主に無線兵器の研究に転進した。超短波、パルス、広帯域増幅などの無線通信関係について他分野の技術者より習熟していたからである。NHKのテレビ研究部門の人などは、ノクトビジョン(暗視)装置や、飛行機搭載テレビなどの研究に動員されたりした。松下無線・東京研究所には、横須賀の海軍航海実験部から声がかかった。そして、ラジオ・ゾンデ(気球観測機)の研究開発をはじめることとなる。ラジオ・ゾンデとは、気球に小型無線機を積んで、上空の気圧・温度・湿度の情報をそれぞれ電波の周波数の変化として受信・検出するもので、天気予報・飛行機の運航・長距離砲の発射などに必要であった。軍から太平洋のウェーキ島で捕獲されたアメリカのラジオ・ゾンデを見せられ、日本との技術の差に驚かされた。そして、これの日本版を作ることを命じられる(測定高度目標は1万から5万メートルにある成層圏である)。資源の少ない日本では、できるだけ小型で軽量のものを作る必要があった。辻堂の松下電池に電池の研究を依頼したり、小型真空管は日本光音(ソニーの井深大)や品川電機(東光の前田)に製作を依頼したりなどした。実験は、主に小田原海岸で行った。冬には、青函連絡船で北海道の千歳まで行った。木賃宿に泊まり、海軍の航空隊(現在の千歳空港)に通う。銭湯からの帰り道では手拭がカチカチに凍り棒のようになったり、朝は布団の襟に息でできた霜がついたりしていた。海軍の技術将校に連れられ、雪で有名な北海道大学の中谷宇吉郎教授に会い感激する。戦後、1994年に、電子機械工業会関西支部の見学団の一員として、千歳・札幌・苫小牧・小樽を訪れたとき、戦後50年の変化のあまりの大きさに驚いた。 ラジオ・ゾンデの研究中、和紙にコンニャクを塗った気球も飛ばしたりした。戦後になって、これは偏西風を使って気球に爆弾や焼夷弾を載せ、アメリカ本土にまで飛ばす作戦の一つであったことを知る。 背が低かったことと軍の技術研究をしていることを理由に、徴兵を免除された。 1942年4月、ドゥリットル空襲があり東京研究所近くにも爆弾が落とされたりしたため、大阪へ引き上げた。大阪の市街地でラジオ・ゾンデを上げることはできないため、実験は夜に会社の屋上で行った。しかし、すぐに守口警察署に見つかり取調べられたりもした。取調べは、畳の部屋で数日行われたが、軍の研究のためであるということだけを話、詳しい内容は一切話さなかった。当時、高層気象の観測については、戦時の法律で禁じられており、軍機保護法との狭間で苦労した。 1942年5月、国家総動員法第17条発動による企業整備令が勅令として公布された。これは、平和産業の工場を軍事転用する勅令である。大阪の中東部と四条畷に海軍の無線工場を新設し、飛行機搭載用の無線機や方向探知機の製造を行った。この製造には、ラジオ量産の技術を用いた流れ作業が取り入れられた。受信機用の真空管はドイツのテレフンケン社と技術提携していた日本無線が製造していたFM2A05Aという万能5極真空管を使用していたが、松下電器も製造することとなり、京都の鐘淵紡績の工場を買収したりなどした。後にこの真空管は、量産性に適したソラという真空管にかわり、松下電器を含めた5社が製造することとなる。結局、松下電器は終戦までに56隻の船と、3機の飛行機までを製作した。これにより、戦後、松下電器は制限会社指定を受け、会社資産が凍結されることとなる。 1942年2月、日本陸軍はシンガポールを陥落させたときにレーダー(陸軍は電波探知機、海軍は電波深信儀と呼んでいた)を捕獲する。捕獲されたレーダーは、ラジオロケーター(電波警戒機)と呼ばれていたタイプだった。電波警戒機は、一定の周波数のパルス電波を発射し、飛行機などからの反射波を受信するものである。ブラウン管の画面の水平走査線上に、発射パルスと反射パルスを垂直のパルス信号として表し、両者間の寸法から目的物の距離を算定する。松下電器は、奈良県の大和郡山にあった大日本紡績(ユニチカ)の工場で携帯無線機を製造していたが、そこでこのレーダーも製造することとなった。しかし、経験がないため、日本電気の指導を受けることとなり、大垣工場を訪ねた。そこで浜松高等工業学校の先輩の鈴木信雄に会う。戦争の終わり頃になると、大和郡山の工場では熱線追従爆弾の電子部品も製造した。この爆弾は、ボロメーターと熱電堆による発生電流を周波数選択継電器で断続増幅し、艦船の熱源に向かって誘導する方式であった。継電器は井深大の日本測定器の発明したもので、同社から供給を受けていた。この頃、無線研究部は、近鉄の孔舎衛坂駅の近くに疎開していたが、生駒山からは、米軍機が大阪や神戸を爆撃するのがよく見えた。
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エピソード(戦後)
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敗戦時には、戦時中に2万6千人いた松下電器産業グループは、1万5千人にまで減っていた。無線関係施設の人員は門真に集結となった。軍用無線機製造の四条畷工場は閉鎖となり、電子部品の多くは門真工場内の空き地に埋められた。また、大和郡山工場も閉鎖となり、占領軍の監視下で、製造中のレーダーや試験機などが破壊された。 日本では、1945年10月に逓信省がテレビジョン放送実施準備委員会を設置。しかし、同年12月24日付でGHQが、電気試験所・NHK・電機メーカー各社に対して、テレビジョン研究等の禁止を通告。これにより、テレビ研究の再開を待ち望んでいた技術者の希望は完全に打ち砕かれることとなる。 1946年6月、戦争目的以外であれば、テレビ研究の許可が下りる。同年11月、戦前テレビ研究をしていた人を中心に、テレビジョン同好会が作られる。これが1948年に発足したテレビジョン学会の母体となる。これに参加したいと考えていたが、距離的な問題、ラジオ工場の技術部長という立場上の問題から、断念せざるを得なかった。 当時、GHQは、CCS(民間通信局)を設置し、通信事業と通信工業を統括し、電信電話とラジオ放送の復興に力を入れた。1945年10月に400万台のラジオ受信機の生産を指示し、資材割当のために配給制をしき、経済安定本部も設置した。商工省は、ラジオ・真空管の生産計画を作り、3分の1を松下電器産業・早川電機・戸根無線・双葉電機・大阪無線、3分の2を三菱電機・東京芝浦電気・日立製作所・沖電気工業・富士通信機・日本無線・岩崎通信機・山中電機・七欧無線・ミタカ電機・八欧電気・帝國電波・原口無線などが製造することとなった。しかし、1946年に実際製造されたのは、65万9534台だった。GHQは増産指示を出す一方で、ラジオの完成品に30%の物品税をかけていた(これにより、ラジオを自作する意味が生まれ、ラジオ部品市場=電子部品市場が拡大した)。また、GHQは、スーパーヘテロダイン方式で、ダイナミック・スピーカーのラジオの生産を奨励した。このダイナミック・スピーカーを構成する強力な永久磁石には、KS鋼(本田光太郎氏が発明)、MK鋼(三島徳七氏が発明)等が必要だったが、材料不足だった。その配給を受けるため、東京・日比谷の第一生命ビルにあったGHQに状況説明をしにいった。 当時の統制機関は物資配給を主としたものが日本通信機械工業会(1946年1月設立)で、GHQの担当窓口はあらゆる業種がESS(経済科学局)だった。しかし、通信関係だけは、CCSだった。そして、CCSは、通信絶対優先政策をとっていた。また、GHQは1947年11月に統制機関廃止命令を出し、日本通信機械工業会は廃止された。しかし、占領行政上、業界団体がないと不便なため、1948年に、無線通信機械工業会(後の電子機械工業会)、有線通信機械工業会、通信電線会が設立され、この三団体で、日本電気通信連合会が設置された。1948年10月、無線通信機械工業会の関西支部が上本町九丁目の旧NHK大阪放送局内に設置され、ラジオ技術委員会なども設けられたため、会社の代表として初回から参加した。 CCSは電子工業の指導に力を入れた。電機メーカーの経営幹部には科学的経営管理対策講座と名付けたアメリカ式経営教育を行い、技術者には統計的品質管理(QC)の指導を行った。日本メーカーもQCの導入には熱心だった。無線通信機械工業会の暖房の無い寒い部屋で、西堀栄三郎(南極観測隊越冬隊長)の講義を聞いた。また、日本科学技術連盟等は、毎夏、軽井沢のプリンスホテルでQCの集中講義を行っていたが、ある年の夏にこれに参加した。午前はQCの勉強で、午後は松下通信工業の仲間とゴルフをした。ゴルフは不得手だったが、終了後のビールはとにかくおいしかった。 1950年は、朝鮮戦争が始まった年である。また、同年5月は、電波三法(電波法、放送法、電波監理委員会設置法)が公布された。NHKも改組され、1925年から独占されていたラジオ方法が民間に開放された。全国で72局の設置申請があり、16社に予備免許が与えられた。大阪には、新日本放送(現在の毎日放送)があったが、スタジオが阪急百貨店内に設けられた。当初はスポンサーが全くいない放送時間もあり、15分で一般視聴者にでもわかるやさしい電気の話をしてくれないかと依頼された。ラジオで話したことなど全く無かったため、苦労した。毎日、門真で仕事を終えた夕方に、阪急百貨店に通うこととなった。放送中は、原稿用紙をめくる音などを注意されたりもした。後に、テープレコーダーが採用されたため、数日分をまとめて録音できるようになった。 戦争によりテレビ研究は一からやり直しになる。戦後はまずラジオ事業の再建が先決となり、松下幸之助はテレビ開発になかなかゴーサインを出さなかった。松下社内には、ラジオ受信機に比べ、テレビ受像機は技術的に難しく、ラジオ屋には作れないという雰囲気があった(ただし、門真のラジオ工場の隣の通信機工場では、RCA社のテレビ受像機を購入し、テレビ研究を計画中との噂はあった)。しかし、戦前テレビの研究をしていたため、テレビはラジオの延長線上にあるとの確信を持っており、テレビの研究を始めたいと考えていた。 1951年、3月に新制大学の卒業者が入社してきた。その中の一人である長岡忠(松下で最初のVTR開発者)に実習名目で、テレビ受信機を試作させた。この試作品を、無線担当だった藤尾津与次常務に見せ、「大阪にはテレビ電波がないため光るだけですが、電波を受ければ画が出ます」と説明したところ、社長帰国後に常務会で諮ってみるという約束を得ることができた。この当時、松下幸之助は米国視察中だった。この視察中に、テレビ開発の必要性を痛感し、帰国後に、テレビ開発の許可をした。同年6月、NHK大阪放送局がテレビの試験電波を発射し、三越デパートで公開実験をはじめた。同年7月に、門真の第一事業部ラジオ工場技術部(部長は久野)の中の一課として、テレビ課が誕生した。この時に初めて、松下社内の職制に、テレビという文字が現れた。テレビ課は発足当時、課長が伊藤公夫、課員が北尾孝也と長岡忠の3人だけで、予算総額は400万円であった。当時すでにテレビ研究をしてたメーカーは、東芝、日本電気、日本ビクター、日本コロムビア、八欧無線、早川電機などがあった。テレビ課はまず、GEから12インチ型ブラウン管を購入し、受像機の試作をはじめた。 1952年、1月、電波監理委員会の「白黒テレビジョン放送に関する送信の標準方式案」に対する聴聞会が開催された。この聴聞会では、占有周波数帯域幅をアメリカと同じ6MHzにするか、日本で開発された7MHzにするかで意見が割れた(いわゆるメガ論争の始まりである)。6MHz派は電波監理委員会・日本テレビ放送網、7MHz派は電子機械工業会・NHK・メーカー等であった。2月28日、電波監理委員会は、「大きな実績があるアメリカの方式にならうべきであり、世界的に孤立した日本独自の方式は避けるべきである」という理由により6MHzを標準方式として制定公布した。これに対して7MHz派は異議申し立てを行い、4月15日から5月2日まで聴聞会が開かれた。この会議に松下の一人として白熱の論争に参加した。結局、6月10日に7MHz派の意見は棄却となり、6MHzが正式採用された。後日、聴聞会の内容を松下幸之助社長に報告すると、「負ける喧嘩をするヤツはアホウだ」と言われた。2月に試作品が完成し(松下の戦後のテレビ試作第一号)、NHKの公開実験に参加した(松下のテレビの最初の一般公開)。この試作品は、後のブラウン管テレビとほとんど変わらないデザインで、他社よりも1年は先行していると絶賛を受けた。3月、商品の形をしたテレビ受像機10台が完成する。この当時の電子部品は品質が良くなかったため、完成品には相当なばらつきがあった。特に、偏向コイルやフライバック・トランス用のフェライトの温度特性が悪く、画像が出た後時間がたてば全体の横幅が減少していき、テレビの裏蓋をあけ扇風機で風を送ると回復したりした。4月、大阪・高島屋で、東芝・日本コロムビア・八欧電気・早川電機・松下電器の5社がテレビの一般公開をし、人気を博す。これ以後、様々な場所で公開実験が盛んになり、一般人によるテレビへの関心が高まっていく。松下では、自動車にテレビを載せて屋外実験も行っていた。国道2号線に沿って神戸、明石から姫路方面、国道26号線に沿って和歌山方面などへ行き実験したが、その当時の道路は完全舗装されておらず、またエアコンも装備されていなかったため、きつい実験だった。7月、アメリカのハリクラフター社から、テレビ受像機を130台購入して、周波数を調整し電源非同期対策を施すなどの変更をし、販売を始めた。販売するためには、テレビ販売部門が必要なため、門真の第一事業部の営業課にテレビ係を作った。テレビ事業の規模が大きくなってきたため、隣接する松下電工の裏にある旧青年学校とその寄宿舎を買収、改築し、研究施設ごと移転した(テレビ事業の発祥地となる。古い建物をペンキで塗り立てたため、松下電工からは進駐軍のようだと言われる。)。この移転とともに、技術部テレビジョン課から独立して、第一事業部テレビジョン部となった(部長は久野。ラジオ工場技術部長と兼任)。総務・技術・製造・企画の4課体勢で総勢25人だった。社長に辞令を受領しに行くと、同日付で、「テレビ工場長を命ず」、「テレビ工場長を免ず」、「松下電子工業へ出向を命ず」の三通であった。社長もおかしく思ったのか、「まあ歴史に残るから、皆受け取っておけ」と言われた。同年9月、アメリカのジェネラル・プレシジョン社から最新のイメージオルシコン・カメラ(撮像装置)を1台購入した。このカメラは非常に珍しいもので、当時日本にはNHKの2台とあわせて3台しかなく、展示会を中心に活躍した。また、皇太子殿下がラジオ工場を視察されたときも、このカメラを使用してテレビ画像中継を行った。11月、対角17インチの角型ブラウン管を採用したコンソール型のテレビである「17K-531」が完成し、製造を始めた。価格は29万円だった。12月、松下はオランダのフィリップス社との技術提携により松下電子工業を発足させた。(この子会社設立は、フィリップスからは技術指導料として売上の7%を要求されたが、松下幸之助は「技術に価値があるなら、わが社の経営にも価値がある」と経営指導料を要求した。これについては、パナソニックの社史が詳しい。)。この年は、技術開発以外に、製造販売などの仕事もしたため苦労の多い年となった。特に、人手が足りなかったため、松下社長に人を回して欲しいと直訴したが、「君の言うことはわかる。しかし今、ラジオは松下電器として非常に大切な時や。テレビも本気になったら日本一になるのはわけもないことや」と言われる。つまり、まだテレビ販売は本気ではないということであり、落胆する。同年末の大晦日に、住友銀行の鈴木剛頭取からテレビ修理の依頼を受けた。頭取からは、「テレビのお陰で、自由に外出ができない年をとった親の楽しみができた」と言われ、一升瓶の酒をもらった。 1953年、2月にNHKが東京でテレビ放送を開始した。当時のテレビ普及台数は極めて低かったが、同年8月に甲子園の高校野球大会を中継し、日本テレビ放送網が民間テレビ放送を開始すると、普及率が上がってきた(同年9月のNHKの受信契約者数は一千世帯を超えた)。同年8月、テレビ部門は、第一事業部から独立して第六事業部となった。事業部長は藤尾津与次で、テレビ工場長は久野だった。ようやく、テレビ事業に専念できる体勢が整った。同年の松下の製品内容は、7インチ型(89500円)、14インチ型(148000円)、17インチ型(175000円)があり、この他に、電球等で技術提携していたフィリップスから完成品を輸入したものもあった。生産台数は、1952年が27台、1953年が3120台であった。この年、フィリップスから日本向けテレビ開発のため、技術者を一人派遣してくれるよう申し出を受け、派遣技術者に選ばれる。この時、「5年間は退社しない」という誓約書を書かされた。この当時、外国へ行くのは手間のかかる困難な時代だった。神戸のアメリカ領事館にビザの申請に行くと、全ての指の指紋をとられた。当時の日本の航空会社は国際線を持っていなかったため、東京・羽田国際空港からオランダ航空を利用することになった。大阪駅では多数の松下の社員が見送りに来てくれ、まるで出征するかのようであった。羽田空港では恩師の高柳健次郎氏、日本コロムビアの山崎孝氏が見送りに来てくれた。9月18日、南回りのプロペラ機で出発した。座席は一等席で、タバコとアルコール類が無料で、吸い放題・飲み放題だったが、かなり疲れるものであった。香港、バンコク、カルカッタ、カラチ、ダマスカス、ローマ、フランクフルト、アムステルダムと、合計55時間の長旅であった。リンガホンで英語の勉強をし、会話はできるようになっていた。アムステルダムのアムステルダム・スキポール空港に着陸した時は、遠泳を終わった後のように、脚がよろけた。空港では、フィリップスのハンチェス氏(映像情報メディア学会名誉会員のハンチェス氏の従兄弟)が迎えに来てくれていた。アムステルダム駅から、初めてヨーロッパの電車に乗り、フィリップス本社のあるアイントホーヘンに行った。当時の同地は、寒村に近いものであった。駅前のアトランタホテルに案内された。エレベータはなく、シャワーとベッドだけの殺風景な部屋であった。このホテルは、会社からも近くアイントホーヘンでの根城となった。翌日、フィリップスのエレクトロニカの応用研究所へ案内された。ここでは、4チャネルの簡易型のチューナの試作を行っており、所長から、「テレビの研究は、このチューナの開発から始めるとよい」と言われた。昼休みは2時間もあり、社員はみな家に帰って昼食をとっていた。ホテルでは、毎日の食事を頼むのが面倒なため、ボーイにすべて任せることにした。テレビ受像機の試作は、フィリップスの真空管と電子部品を組み込み、順調に進んだが、問題点が一つあった。それは、オランダと日本の電圧の違いで、フィリップスが開発していたのは220Vと110Vで、日本は100Vであった。当時の日本の電源事情は悪く、送電線の末端などでは80Vとなることもあった。この問題を解決するため、当初は1カ月を予定していた滞在は、半年も必要となった。滞在中は、シャープの幹部、中川電機の社長等日本から多くの人がフィリップスを訪れていた。同年暮れ、テレビ受像機の試作についてはある程度のメドがついていたころ、松下の中央研究所がフィリップスの電子顕微鏡を購入するので取り扱い方を勉強するようにという内容の手紙が来た。テレビ開発の本業とは違うが、社命の為受けざるを得ず、医用電子機器事業部に通うこととなった。 1954年、2月13日に約5ヵ月間の滞在を終えスキポール空港からアメリカへ向けて出発した。出発前の最後の夜、ホテルでは従業員による送別会を開いてもらった。翌日、ニューヨークに到着した。空港では、松下のアメリカ事務所長が出迎えてくれた。当時のアメリカ事務所は、42番街のグランドセントラル駅前のフィリップスのアメリカ出張所の一角に机を借りていた。アメリカでは、テレビの特許契約を結んでいるRCA社、テレビを輸入したハリクラフター社、ブラウン管を輸入したシルバニア社等を見学した。ニューヨークの次は、ロサンゼルスを訪問した。3月6日、プロペラ機で、ハワイからウェーキ島と中継しながら日本についた。帰国後はすぐに、フィリップスが奨める応用研究所を設立した。松下電子工業と本社のテレビ事業部から数名ずつが廻された。この研究所は、フィリップスの技術指導により、松下電子工業で生産された真空管を使って、ラジオやテレビ受像機などへの応用研究を目的としたものである。このときすでに、新しい欧州型真空管をセットメーカーへの販売を目指して、松下電子工業の子会社として日本電子開発株式会社(NDK)が発足しており、知らない間に取締役の一人となっていた。製造された欧州型真空管は当時としては格段に良かったが、RCAを筆頭とするアメリカ系真空管に較べると知名度が低かった。この知名度を向上させるためには、宣伝が必要であり、フィリップスのハンチェス氏と一緒にセットメーカーを訪問したり、説明会を開いたりした。また、無線雑誌の無線と実験に、カラーブレテンという4ページのカラー広告を毎号挿入した。この広告では、開発した欧州型真空管を利用した製品の解説をしたが、最後のページに設けた電子工業会の権威者による技術の広場という随想の欄がとても好評だった。星合正治、浜田成徳、高柳健次郎、岡部金治郎、八木秀次、溝上銈、抜山平一、丹羽保次郎、松前重義、古賀逸策、熊谷三郎、難波捷吾、加藤信義、網島毅、森田清、田辺義敏、阪本捷房、林重憲、清宮博、菅田栄治、青柳健次、川村肇、井深大等、錚々たる顔ぶれであった。このカラーブレテンは、ラジオ技術、電波技術、電波科学、テレビ技術、電子技術などの技術雑誌にも掲載された。しかし、この真空管はトランスレス方式であり、当時の主流はトランスを採用していたため、売り込みは難しかった。結局、東京通信工業(ソニー)が購入してくれたが、創業から日が浅かったため購入規模が小さかった。その後、日本ビクターやその他の会社に売れたが、苦労した割に成果は少なかった。社内では、NDKは「何もできない会社」の略ではないかという冗談が交わされることもあった。 1955年、3月にナショナルテレビ技術学校を設立し校長となった。これはテレビの販売台数の増加とともに、実務の技能者の不足を補うためである。同年に61名を集め、1963年までで合計約5000名ほどを育てた。1960年からは、車に機材を積み各地を回る移動テレビ技術学校も開催し、各地に4日づつ滞在し講習会や修理を行った。この時期、オーム社から請われ、営業技術課の人達と分担執筆で、「TV受像機故障修理読本」を出版した。年末に、大阪・天満橋と京都・三条間を走る京阪電鉄の特急電車にテレビ受像機を搭載したいという依頼を受けた。移動体に搭載する場合は、テレビ電波が遮蔽されたり、反射したり、到来方向が変わり画像が安定しないという問題点がある。電車の場合は高圧の架線もある。また生駒山にある送信アンテナとの向きもたえず変わるため難易度の高いものであった。別の電機メーカーに依頼したがうまくいかなかったようであるが、わずか3カ月で開発に成功した。この実績を買われたのか、天皇陛下の御召列車にも搭載された。他の調度品と合わせて、キャビネットは一位の木が使用された。その後には、瀬戸内海を走るフェリーにも搭載されるようになった。1957年6月の南海丸を皮切りに、次々と搭載されていった。また、1961年秋には、全日本空輸から飛行機に搭載できないかと依頼を受けた。第1回目のテストをDC-3型機を使って、東京ー仙台ー三沢ー函館ー札幌のコースで行ったところ、一応鮮明な映像が得られるということで、本格的な研究に着手した。大阪を出発するとすぐに名古屋が、その後すぐに東京のテレビ電波が重なって受信され実用は難しそうであったが、各チャネルの選択度を上げ、隣接局の妨害を軽減したり、高速に即応するようにピーク値AGCや輝度AGC回路を取り入れたり、機内の窓枠に特殊なループアンテナを取り付けたりなど、問題を一つ一つ解決していくことで、1963年9月に公開実験を行うことができた。その後、全日空のバイカウント機全機に機内テレビを搭載した。 1956年、松下電器産業のテレビ部門に戻る。役職は、以前と同じテレビ技術部長だった。当時のテレビは、公務員初任給の二十倍ほどの高額商品であった。また、1954年4月からは、倉出価格の30%の物品税が課せられたため、庶民にはとても買えない商品であった。松下社長から、「君らは一割下げようか、二割下げようかと考えているみたいだが、それでは画期的商品は生れぬ。今の半分にすることを考えなあかん。そうすれば新しい発想が生まれる」、「君らが、よい働きをして給料が上がってもよいし、テレビの値段が工夫によって下がってもよい。とにかく、君ら自身が買えるテレビを作れ」と言われた。当時のテレビの価格に大きく影響する重荷の一つには、特許料があった。RCA社に対しては出荷価格の2%、WH社のFM特許に0.7%、EMI社の映像安定回路に2%、フィリップス社のインターキャリア方式に1.1%、等である。価格低下を実現させるため、輸入に頼っていたブラウン管を自社生産に切り替えたりする等の努力により、1953年に14インチ型を175,000円で発売したものが、1954年12月に12万円、1955年10月に9万円、1956年に75,000円、1957年に68,000円と4年ほどで半額以下にすることができた。テレビ放送以外に、送像と受像とをつないだシステムをITV(工業テレビ)とか、クローズド・サーキット・テレビジョン(閉回路テレビ)という。この分野もテレビ事業部の範疇ということで、開発に取り組んだ。当初は、撮像管「イメージオルシコン」が高価だったが、撮像管「ビジコン」が発明され使いやすくなったこともあり、1954年6月から開発に着手し、1955年10月にITVシステムを完成させた。第一号機は、東京・八重洲口のナショナル・ショールームに展示し話題となった。しかし、松下社長からは、「テレビ事業部のやるべき仕事ではない」、「そんなことをしているから、テレビがうまく行かぬのや」と言われ、6台作ったのみで開発を中止した。その後1956年8月に、設計図を添えて、通信機事業部(後の松下通信工業株式会社)に委譲した。 1958年7月、自動同調テレビチューナ(人口頭脳テレビ)を搭載した14インチ型のテレビ(T14-R7)を発売する。六万七千五百円であった。当時のテレビはチャネル切り替えつまみが二重になっており、まずはじめに一つ目のつまみで大雑把にチャネルを切り替え、二つ目のつまみで微調整を行う必要があり不便であった。これを解決するのが自動同調チューナである。松下社長に試作品を見せたところ、「これは良い。全部この方式にせよ」となった。しかし、パーツの一つである可変容量ダイオードの価格が非常に高く全機種に採用するのは困難であることを説明すると残念がった。しばらくして松下社長は、現在のチューナと新方式のチューナを持ってくるように命じ、チューナのカバーを開けコンデンサ等の電子部品を一つ一つチェックしていき、可変容量ダイオードの価格が高すぎると言うことを自ら確認した。「これはどこで作っているのや。松下電子工業か。三由清二(後の松下電子工業社長)を呼べ。」となり、電話をした。「こんな小さな部品が、そんなに高いのはおかしいやないか」などとやりとりをし、当時一千円を超えていた価格が一挙に三分の一以下になった。電話後に、「君らは、上の人の使い方を知らぬ。上の人は、下の人に使われるためにもあるのや。何でも持ってこられても困るが、上の人をうまく使うことを考えよ」と教えられた。このテレビは業界に大きな反響を呼び、アメリカの専門誌「Electric Design News」から論文の寄稿依頼が来るほどだった。11月、ふたたびフィリップスを訪問した。フィリップスと松下電子工業の両社は、アイントホーヘンで年1回、幹部によるコンタクト・ミーティングという会議を開催し、問題点の検討、将来への展望、対策などを総括的に話し合ってきたが、これに松下電器産業も参加することになったためである。スカンジナビアン・エアラインのジェット機で、羽田からアラスカのアンカレッジ経由で北極の上空を飛び、デンマークのコペンハーゲンから欧州に入った。十数時間かかった。コペンハーゲンでは航空会社のバスで市街を見物した。有名な人魚像、デンマークビールのツボルグ工場などを見学した。その後に再び飛行機に乗り、アムステルダム・スキポール空港についた。アイントホーヘン駅に着くと、鉄道が立派な高架になっていることに驚いた。他にも、鉄道の客車は1等、2等、3等に分かれていたものが1等と2等だけになっていたこと、週休二日制が導入されていること、社員の多くが自転車通勤から自動車通勤になっていたことなど、わずか4年でここまで変化するのかと驚嘆した。約半月間、エレクトロニクス業界全般のことや最新の機器についての話が行われたが、休日には一同バスでオランダの名所などを案内してもらえた。ある日、南部都市ヘーレンの工場で見学と会議が行われたとき、マーストリヒトで夕食を食べ今日の予定は終了したと思っていたら、「さあ、髭を剃って、パスポートを持って集まれ」と言われた。その後バスに乗せられ国境の山を越え、ドイツのアーヘンに連れて行かれ、ナイトクラブに招待され、ダンスなどを踊った。夜もふけ、アイントホーヘンのホテルへ帰還すると朝の4時だった。少し就寝し、定時の9時に出社すると、フィリップスの社員はみなすがすがしい顔だったが、松下側は寝不足状態だった。このコンタクト・ミーティングは以後、フィリップスと松下電子工業が1年ごとに交替で主催することになったが、当時はテレビ関係の話題が多かったため、毎回出席した。1961年、1964年、1966年、1968年、1971年と合計6回もアイントホーヘンに出張した。 年ごとに倍増するテレビ需要にこたえるべく、大阪府茨木市に茨木工場を建設することとなった。1956年6月から建設計画を作成し、同年末に建設着工、1957年12月にキャビネット工場を稼働させた。1958年6月にテレビ事業の全部門が同地に移転した。当時の地名は畑田町だったが現在は松下町となっている。茨木駅から徒歩で30分ほどかかるため松下ではじめて通勤バスが運行された。この茨木工場が最終の勤務地である。本社からは淀川をはさんで遠くなったが、松下社長からは頻繁に電話がかかってきた。新製品を出すとすぐに結果を聞かれ、いい加減な返事をすると雷が落ちた。計画期間が長いと、「これだけ、(世の中が)進んだ今の三カ月は、昔の三年や。もっと早く仕上げることを考えよ」と言われ、新製品が好評の時は、「それを他社製品と考えて、さらにそれよりよいものを作れ。他社は当然それを目標として頑張るに違いない」、製品のデザインには、「君ィ~、人間の顔には目、鼻、耳、口とついていて、その位置も形もだいたい決まっているが、それでも美しい顔、あまり美しくない顔、いろいろである。それに比べると、テレビの意匠設計は、いろいろな変化が考えられるから、はるかに楽や。もっと知恵を出せ」などである。 自動車免許を取得したのは、会社を辞めたときである。車で日本全国をドライブするのが趣味である。80歳を超えた頃から、友人に「俺のクルマに乗れ」といっても、皆恐ろしがって乗ってくれなかった。しかし、妻だけは、「あなたといっしょなら」といって乗ってくれた。
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エピソード(2007,2008年版)
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「宝塚BOYS」の記事における「エピソード(2007,2008年版)」の解説
劇中で上原がピアノを弾くシーンは柳家花緑による演奏であった。 男子部メンバーの芸名はいずれも、演じている俳優が考えたものである。そのため、キャストが違う場合は芸名も違っている。 男子部メンバーの芸名は再演時は、基本の芸名があるが、日によって芸名が変わりアドリブ合戦が繰り広げられた。 実際の宝塚男子部誕生は1945年12月、解散は1954年であり9年の歳月が流れているが、劇中では具体的な年数などは表現されない。ただし、美空ひばりの「悲しき口笛」(1949年)「東京キッド」(1950年)「リンゴ追分」(1952年)など当時の音楽やタイトルが要所で現れ、時の流れを感じさせる工夫がなされている。 稽古場のシーンで使われる脚本「青き春」の中のマリーの台詞は、『ベルサイユのばら』の中のマリー・アントワネット(1974年の初演と1976年に君原役の初風諄が演じた)の台詞を下敷きにしている。 ラストシーンで流れているBGM「さよなら皆様」は宝塚歌劇の終演後に劇場内で流れる音楽であり、トランペットを池田役の山路和弘が吹いている。 2007年の兵庫公演、および2008年の東京公演では、モデルとなった宝塚男子部のメンバー数名が観劇した。 初演の本読みの際、一通り全部読み終わった途端、君原役の初風諄が男子部の無念の思いに感極まり、突然立ち上がりその場にいた皆に向かって「宝塚を代表してこの場でお詫び申しあげます。」と深々と頭を下げその場を驚かせた。 再演の時には、山内圭哉が吉野圭吾演じる星野丈治のことをアドリブで「妖怪ピルエット」とニックネームをつけた。
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エピソード (INDEX II)
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「とある“ラジオ”の禁書目録」の記事における「エピソード (INDEX II)」の解説
第30回(2011年4月22日)では、公開録音を除けば最多となる5人での収録となり、アニメの収録が終わっていた事もあり、終始打ち上げのような雰囲気で行われた。また、「もぐもぐごっくん」では女性陣の「チョコレートクッキー」に対し、岡本だけは「納豆」を食べさせられた。
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エピソード(出来事)
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1970年代までに村内を流れる別山川に4本の橋(上流から和田橋、市中橋、井角橋、東栄橋)が架けられた。橋名の中の字を並べると「田中角栄」となる。田中に対する村民の感謝の表れとされている。 2001年5月27日、柏崎刈羽原子力発電所でのプルサーマル計画の是非を問う住民投票が行われ、反対が賛成を上回った。有権者4090人のうち、投票者数は3605人(投票率:88.14%)。確定投票の結果は反対が1925(53.4%)に対し賛成が1533(42.52%)、保留が131(3.63%)。 2004年11月19日、村内に初の大型スーパーセンター、PLANT-5刈羽店が開店した。しかし、2007年7月16日に発生した新潟中越沖地震により店舗施設などに甚大な被害を受け、復旧工事のために多額の資金がかかること、復旧工事期間に収益の見込みがないことを理由に、翌月に開かれた取締役会において同年9月20日をもって閉店することが決定した。その後、村政・住民からの熱望を受け、2012年4月26日に営業を再開した。再開後、被害の大きかった建物の一部スペースは未利用のままとなっていたが、村が公募型プロポーザル方式により開発事業者を募集し、2023年に宿泊施設がオープン予定である。また、同年には駐車場の敷地内に刈羽診療所が移転新築予定である。
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エピソード (RAILGUN)
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「とある“ラジオ”の禁書目録」の記事における「エピソード (RAILGUN)」の解説
第11回(2009年11月27日)の配信分にて、『とある“ラジオ”の禁書目録』と同じくボジョレー・ヌーヴォーの解禁を祝してワインが登場し、伊藤とゲストの佐藤で飲酒した。なお、第15回(2009年12月25日)の配信分でもスパークリングワインが登場し、豊崎と伊藤が飲酒した。 第12回(2009年12月3日)の配信分にて、伊藤が「トナカイはピエロのような鼻をした、空を飛ぶ空想上の生物」と思っていたことも判明。幸いにもその回に佐藤や制作の方々、第13回で豊崎が説明したことで実存する生物だと認識した。 豊崎は番組中でよく「ジャッジメントですの!」等をはじめとした白井黒子の声マネをよく行う。また、第18回放送(2010年1月22日)で白井黒子役の新井がゲストとして登場した際、「黒子はもうちょっと上品に演じてほしい。」と豊崎に注文をつけた。
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エピソード(1980年版)
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「天皇の料理番」の記事における「エピソード(1980年版)」の解説
堺正章は役作りのため、ホテルオークラ東京の厨房で約3か月間料理の修業を行った。 出演者の一人であった明石家さんまが司会を務め、2015年10月12日に放送されたTBSテレビ60周年特別番組『伝説のドラマ&バラエティー全部見せます!夢共演も大連発SP』では1980年版の映像の一部が放映され、さんまがゲストパネリストとして出演した堺正章との共演エピソードについて語った。 また、さんまが語るところによると辰吉は当初、篤蔵とほぼ同時期に入ったが早々に音を上げて夜逃げし、登場から3話程度でクランクアップする予定であったがさんまが現場スタッフに非常に気に入られ、もう一つの話の軸として華族会館を去った辰吉のその後の人生も描かれる事になった。それに伴い物語も秋山篤蔵の一代記から篤蔵、新太郎、辰吉による三者三様の群像劇として展開された。 また、脚本の鎌田敏夫も俳優さんまに大きい可能性を感じ打ち上げ中、さんまに「ドラマの主人公は地方出身者でも皆標準語ばかり話し、決してお国言葉を使わない事に隔たりを感じていて、過去に何回も訛りのある主人公の話を上げたが全てつき返されてきた。でも(主役が)さんまなら企画は絶対通ると思う。オファーが来たら二つ返事で受けてほしい」と頼まれた。そして来たドラマが「男女7人夏物語」であり当作品の大ヒットを二人して喜んだ。 TBS 日曜20時枠前番組番組名次番組海外取材ニッポンの実力(1980.7.13 - 1980.9.28) 天皇の料理番(1980.10.19 - 1981.3.22) 日曜特集(1981.4.19 - 1981.7.19)
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エピソード(2015年版)
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「天皇の料理番」の記事における「エピソード(2015年版)」の解説
主人公・秋山篤蔵役の佐藤健は、全ての調理シーンを代役なしで演じた。 主人公の兄・周太郎役の鈴木亮平は、役作りのために半年間で20キロの減量を行った(ただし、10日間で元に戻ったという)。 主演の佐藤健は開始前日である4月25日に、1980年版に主演した堺正章が司会を務める『新チューボーですよ!』にゲスト出演、新旧主演者の共演と相成った。 TBS系 日曜劇場前番組番組名次番組流星ワゴン(2015.1.18 - 2015.3.22) TBSテレビ60周年特別企画天皇の料理番(2015.4.26 - 2015.7.12) ナポレオンの村(2015.7.19 - 2015.9.20) 表 話 編 歴 TBS系列 東芝日曜劇場→日曜劇場(21時台) 東芝日曜劇場(連ドラに転換後)(1993年4月 - 2002年9月) 1993年丘の上の向日葵 課長サンの厄年 カミさんの悪口 1994年スウィート・ホーム ボクの就職 オトコの居場所 お兄ちゃんの選択 1995年カミさんの悪口2 きのうの敵は今日も敵 パパ・サヴァイバル 輝け隣太郎 1996年冠婚葬祭部長 その気になるまで ふたりのシーソーゲーム Dear ウーマン 1997年メロディ 理想の上司 オトナの男 ベストパートナー 1998年まかせてダーリン カミさんなんかこわくない 海まで5分 なにさまっ! 1999年サラリーマン金太郎 グッドニュース ザ・ドクター ヤマダ一家の辛抱 2000年ビューティフルライフ サラリーマン金太郎2 催眠 オヤジぃ。 2001年白い影 Love Story 恋がしたい恋がしたい恋がしたい ガッコの先生 2002年サラリーマン金太郎3 ヨイショの男 太陽の季節 日曜劇場(2002年10月 - ) 2002年おとうさん 2003年GOOD LUCK!! 笑顔の法則 元カレ 末っ子長男姉三人 2004年砂の器 オレンジデイズ 逃亡者 RUNAWAY 夫婦。 2005年Mの悲劇 あいくるしい いま、会いにゆきます 恋の時間 2006年輪舞曲 おいしいプロポーズ 誰よりもママを愛す 鉄板少女アカネ!! 2007年華麗なる一族 冗談じゃない! パパとムスメの7日間 ハタチの恋人 2008年佐々木夫妻の仁義なき戦い 猟奇的な彼女 Tomorrow〜陽はまたのぼる〜 SCANDAL 2009年本日も晴れ。異状なし ぼくの妹 官僚たちの夏 JIN-仁-(第一期) 2010年特上カバチ!! 新参者 GM〜踊れドクター 獣医ドリトル 2011年冬のサクラ JIN-仁-(完結編) 華和家の四姉妹 南極大陸 2012年運命の人 ATARU サマーレスキュー〜天空の診療所〜 MONSTERS 2013年とんび 空飛ぶ広報室 半沢直樹(2013年版) 安堂ロイド〜A.I. knows LOVE?〜 2014年S -最後の警官- ルーズヴェルト・ゲーム おやじの背中 ごめんね青春! 2015年流星ワゴン 天皇の料理番 ナポレオンの村 下町ロケット(2015年版) 2016年家族ノカタチ 99.9-刑事専門弁護士-(SEASON I) 仰げば尊し IQ246〜華麗なる事件簿〜 2017年A LIFE〜愛しき人〜 小さな巨人 ごめん、愛してる 陸王 2018年99.9-刑事専門弁護士-(SEASON II) ブラックペアン この世界の片隅に 下町ロケット(2018年版) 2019年グッドワイフ 集団左遷!! ノーサイド・ゲーム グランメゾン東京 2020年テセウスの船 半沢直樹(2020年版) 危険なビーナス 2021年天国と地獄〜サイコな2人〜 ドラゴン桜(第2シリーズ) TOKYO MER〜走る緊急救命室〜 日本沈没-希望のひと- 2022年DCU 関連項目TBS 東芝(一社提供時代のスポンサー) 表 話 編 歴 ザテレビジョンドラマアカデミー賞 1回 - 10回1.家なき子 2.人間・失格〜たとえばぼくが死んだら 3.29歳のクリスマス 4.For You 5.王様のレストラン 6.愛していると言ってくれ 7.未成年 8.白線流し 9.ロングバケーション 10.真昼の月 11回 - 20回11.秀吉 12.踊る大捜査線 13.ひとつ屋根の下2 14.最後の恋 15.青い鳥 16.聖者の行進 17.ショムニ 18.神様、もう少しだけ 19.眠れる森 20.ケイゾク 21回 - 30回21.魔女の条件 22.彼女たちの時代 23.危険な関係 24.ビューティフルライフ 25.池袋ウエストゲートパーク 26.Summer Snow 27.オヤジぃ。 28.HERO(第1期) 29.Love Story 30.救命病棟24時(第2シリーズ) 31回 - 40回31.アンティーク 〜西洋骨董洋菓子店〜 32.人にやさしく 33.空から降る一億の星 34.ランチの女王 35.真夜中の雨 36.僕の生きる道 37.ブラックジャックによろしく 38.Dr.コトー診療所 39.マンハッタンラブストーリー 40.白い巨塔 41回 - 50回41.光とともに…〜自閉症児を抱えて〜 42.世界の中心で、愛をさけぶ 43.新選組! 44.ごくせん(第2シリーズ) 45.タイガー&ドラゴン 46.電車男 47.野ブタ。をプロデュース 48.白夜行 49.医龍-Team Medical Dragon- 50.結婚できない男 51回 - 60回51.のだめカンタービレ 52.花より男子2(リターンズ) 53.プロポーズ大作戦 54.花ざかりの君たちへ〜イケメン♂パラダイス〜 55.ガリレオ 56.SP 警視庁警備部警護課第四係 57.ラスト・フレンズ 58.ROOKIES 59.流星の絆 60.メイちゃんの執事 61回 - 70回61.BOSS 62.ブザー・ビート〜崖っぷちのヒーロー〜 63.JIN-仁- 64.コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-2nd season 65.Mother 66.ゲゲゲの女房 67.フリーター、家を買う。 68.デカワンコ 69.JIN-仁-(完結編) 70.それでも、生きてゆく 71回 - 80回71.家政婦のミタ 72.カーネーション 73.鍵のかかった部屋 74.梅ちゃん先生 75.PRICELESS〜あるわけねぇだろ、んなもん!〜 76.最高の離婚 77.家族ゲーム 78.あまちゃん 79.リーガルハイ(第2期) 80.ごちそうさん 81回 - 90回81.BORDER 警視庁捜査一課殺人犯捜査第4係 82.HERO(第2期) 83.Nのために 84.デート〜恋とはどんなものかしら〜 85.天皇の料理番 86.民王 87.下町ロケット 88.あさが来た 89.99.9-刑事専門弁護士- 90.家売るオンナ 91回 - 100回91.逃げるは恥だが役に立つ 92.カルテット 93.リバース 94.コード・ブルー -ドクターヘリ緊急救命-3rd season 95.陸王 96.アンナチュラル 97.おっさんずラブ 98.義母と娘のブルース 99.中学聖日記 100.3年A組-今から皆さんは、人質です- 101回 - 110回101.きのう何食べた? 102.凪のお暇 103.グランメゾン東京 104.恋はつづくよどこまでも 105.MIU404 106.30歳まで童貞だと魔法使いになれるらしい 107.俺の家の話 108.ドラゴン桜
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エピソード(映画)
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主役の乃木将軍役には、早い段階で仲代達矢を想定して企画が進められていたが、仲代が渋り、フジテレビのドラマ『アマゾンの歌』(1979年10月6日放送)で、ブラジルに長期ロケに行くのでと断わられた。やむなく乃木将軍役を天尾、幸田、舛田監督の3人で丹波哲郎に話を持っていったところ、丹波はやる気まんまんで「是非とも」と快諾した。ところが岡田茂東映社長に話しに行ったら「なんで丹波が乃木になるんだ! お前ら、何を考えているんだ!」と頭ごなしに怒鳴られ却下される。結局、丹波には侘びを入れた後、「脚本を読むと児玉源太郎が面白いね」と言っていたのを覚えていた舛田が、その場で丹波に児玉役をキャスティングした。肝心の乃木将軍役の仲代の替りを一生懸命探していたが、岡田社長が「仲代が戻るまで待とう。封切りを伸ばせ」と鶴の一声で仲代に決定した。トラブルはさらに続き、仲代が日本に戻りようやく撮影に入ろうとした矢先に、黒澤明監督の影武者騒動が起きた。勝新太郎の降板で仲代が武田信玄を演ることになったのだが、仲代は黒澤監督との義理があり断ることは出来ず、『二百三高地』も『影武者』もスケジュールがギリギリの状態となってしまう。この騒動によって調整をつけるのが大変なものとなったところに「『二百三高地』の方が先口だったから」と黒澤が仁義を通し、『二百三高地』の撮影を優先させてくれた。 脚本の笠原が岡田社長から最終的に脚本の了承をもらった際に、岡田から「一ヶ所直してくれ。あとは全部、お前の考えでいいから」と言われた。その訂正を指示された箇所とは乃木が明治天皇に旅順戦の軍状報告をするラストシーンだった。世間では乃木が泣いたという話になっているが、実際に調べたら、関係将官が全部囲んで厳かに淡々と天皇の前で報告を行うことは一番神聖なセレモニーであり、そんな時に泣いたりしたら笑われるどころではなく、乃木は報告の途中で言葉をつまらせたが、明治天皇も冷たい顔をして聞いていたというのが事実と分かった。笠原はこの通りシナリオに書いていたが、岡田に「世間でよく言われている通り、乃木がヨヨと泣き崩れると、天皇陛下が席をお立ちになって、「乃木よ、泣くな」と乃木の肩の手をお当てになられた、に変更しろ。そういうふうにしないとお前、客は来んぞ」と言われ、指示通り直した。この岡田の指示で大号泣のラストシーンとなった。宮中正殿のセットは東映の現有の力を結集し3000万円かけて製作した。 さだまさし歌唱の主題歌「防人の詩」は、音楽監督・山本直純が主題歌の挿入を提案し、山本の推薦により、さだが起用されたもの。 俳優のエンディングクレジットが「第三軍関係」仲代達矢..「政府関係」森繁久彌..「満洲軍関係」丹波哲郎..「皇室関係」三船敏郎 .. となっているのは、森繁久彌・丹波哲郎・三船敏郎という三人の大物俳優の名前を表示する順番に苦慮して考案された、「グループ別」という前例のない方法である。なおポスターでは丹波が中軸、森繁がトメ前、三船がトメである。 劇中において日本兵が使用する三八式歩兵銃は、アップシーンに備えて30丁ほどの模造銃が製作された。しかし日露戦争当時、日本軍が使用した小銃は三十年式歩兵銃であった。三十年式と三八式は遠目にはほぼ同一だが、機関部では細かな形状が異なり、これは明らかな考証ミスである。映画公開時、毎日新聞の取材に対し東映は「小銃の種類についてはあまり詳しく調べなかった。まあ、当時なかったえい光弾も映画の中で使っている。ドラマだから、今ふうでいいんじゃないですか。」と回答している。 同じく日本兵が着用する暗色の軍服は大陸の黄土ではひどく目立つため、日露戦争中にカーキ色の軍服が制定された。史実では旅順攻略戦までに全て入れ替わっていたが、撮影では旧来の暗色服のままで撮影されている。考証上分かってはいたが予算上の都合で史実通りに出来なかった。後のNHKスペシャルドラマ『坂の上の雲』では、この点は史実通りとなった。 日露戦争当時は冬季に戦闘が行われたが、映画の撮影は真夏に行われ、しかも旅順要塞の屋外セットが伊豆大島に作られたために、俳優陣は炎天下に冬服を着込んでの撮影を強いられ、非常に体力を消耗したという。児玉源太郎役の丹波哲郎によると「汗が目立たない様に、顔に汗抑えをたっぷり塗って演技していたが、衣装の中は汗でベタベタになり、ワンシーン終るたびに裸になって汗を拭いていた」とのこと。なお、冒頭の銃殺シーンに出演した役者陣は非常に和気あいあいとした雰囲気の中、撮影に臨んだという。 大島のセットは大成建設が非常に安い値段で作ってくれたが、舛田が思い描いている物は予定された製作費では作れず、何度も降りようとした。 2003年、全国で開催された夏目雅子を偲ぶ「永遠の夏目雅子展」を訪れた岡田東映相談役が「ウチの映画(東映の夏目出演映画)は、まだDVDになっとらんのか」と"ツルの一声"を発し、急遽本作と夏目が6代目マドンナを演じた『トラック野郎・男一匹桃次郎』、『大日本帝国』が同年12月初DVD化された。 当時、東映製作のスーパー戦隊シリーズ『電子戦隊デンジマン』が放送されており、その中の一挿話には撮影スタジオの場面があって、『二百三高地』の看板や大道具の前で、デンジマンが戦う。これは映画版『デンジマン』にも挿入されている。 日曜洋画劇場では1982年4月11、18日に前後編に分けて放送された。
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エピソード(テレビドラマ)
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「二百三高地」の記事における「エピソード(テレビドラマ)」の解説
補充兵役としてゲスト出演したビートたけし(漫才コンビ『ツービート』として相方のビートきよしと共に出演)は、撮影での突撃シーンの際、持ちネタであったコマネチをやりながら突撃し、監督以下から顰蹙を買う。たけし自身、そのシーンはカットされたと思っていたが「番組を観たら、そのまま使われていて驚いた」と、後年、バラエティー番組で語っている[出典無効]。 表 話 編 歴 TBS系列 水曜劇場(21時台) 1961年7月 - 1982年4月(第1期) 1960年代 1961年純愛シリーズ(春の魂 - 傷だらけの夜 - たけし - 小さな胸に - 絆 - 狐の嫁入り) 1963年こちら社会部 エスピオナージ かくれた戦士 父子鷹 夕日と拳銃 アジアの曙 1965年国際事件記者 (中断) 楡家の人びと ああ!夫婦(第1部) 1966年半七捕物帳(長谷川一夫版第1部) ああ!夫婦(第2部) 1967年競作女優シリーズ(悲しみよこんにちわ - レモンのような女 - ママの貯金 - 世界中で一番好きな人 - 暢気眼鏡) 半七捕物帳(長谷川一夫版第2部) 1968年クラクラ日記 色はにおえど 追跡 1969年きんきらきん 奇妙な仲 待ってますワ 甘柿しぶ柿つるし柿 1970年代 1970年時間ですよ(第1部) こけこっこー! 1971年みかんきんかん夏みかん 時間ですよ(第2部) 1972年はーいただいま おはよう かっこうわるつ 1973年時間ですよ(第3部) 娘はむすめ 1974年寺内貫太郎一家 時間ですよ 昭和元年 1975年寺内貫太郎一家2 花吹雪はしご一家 1976年さくらの唄 ふたりでひとり 1977年乱塾時代子育て合戦 ムー せい子宙太郎 1978年ムー一族 1979年熱愛一家・LOVE 家路〜ママ・ドント・クライ 家路PART2 1980年代 1980年なぜか初恋・南風 橋田ドラマ 見合い結婚 しあわせ戦争 1981年二百三高地 愛は死にますか 拳骨にくちづけ 娘が家出した夏 家庭ってなァに? ここまでは他人 茜さんのお弁当 1982年結婚 2009年4月 - 2010年9月(第2期) 2009年夫婦道(第2シリーズ) となりの芝生 浅見光彦〜最終章〜 2010年赤かぶ検事京都篇 IRIS 〜アイリス〜 関連項目水曜ドラマ(1987-1989年) TBS系 水曜劇場前番組番組名次番組しあわせ戦争(1980.9.3 - 1980.12.24) 二百三高地 愛は死にますか(1981.1.7 - 1981.2.25) 拳骨にくちづけ(1981.3.4 - 1981.6.24)
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エピソード(映画)
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作中、原作でも登場する「宇宙のどこかで壮大な戦争が起きている事を示唆するセリフ」が映画でも使用されるが、『宇宙戦争』と『スター・ウォーズ エピソード3/シスの復讐』という2つの宇宙戦争をモデルにしたビッグタイトルに挟まれるという“逆境”で映画の興業成績がふるわなかったことになっている。『逆境に吼えろ』内などでも、それをネタとして扱っている。 解説役として島本和彦の演じる炎尾燃が登場。炎尾燃は原作者の描く漫画作品『燃えよペン』『吼えろペン』『新・吼えろペン』の主人公で、本作では作品を越えて特別出演(クロスオーバー)したという形になっている。また炎尾のモデルは島本和彦自身と言われており、島本が炎尾を演じるのは実質的な「本人役での登場」と言える(島本は『燃えよペン』作中でも既に「実写版 炎尾燃」として写真で登場している)。島本は自作『炎の転校生』のアニメ版(1991年)でも「島本」という解説者役を演じており、映画でのこの役所はそのパロディあるいはオマージュとも言える。 ロケ地を訪問した特撮作品好きな原作者の島本和彦は、玉山鉄二と会う前、所属事務所のスタッフから「玉山に『ガオレンジャー』の話は振らないでください」と念を押されたという(玉山は2001年放送の『百獣戦隊ガオレンジャー』でガオシルバー/大神月麿役)。 不屈役の玉山鉄二は、「山下をトラックの交通事故から回避するシーン」で手を負傷してしまい、その後に撮影されたシーンのいくつかでは玉山の手に包帯が巻かれている。『吼えろペン』内などでも、それをネタとして扱っている。 古田新太が教師役で出演しておりスタッフロールにも名前があるが、該当シーンがカットされてしまったため本編には登場しない(詳細は不明だが、尺の都合と思われる)。カットされたシーンは後に発売されたDVDの映像特典に収録されている。
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エピソード(2010年版映画)
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「彼岸島」の記事における「エピソード(2010年版映画)」の解説
封切り日の1月9日に因んで、予告編では「彼岸島へい(1)く(9)」と銘打たれている。
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エピソード
出典:『Wiktionary』 (2021/08/01 08:55 UTC 版)
語源
発音
名詞
エピソード
「エピソード」の例文・使い方・用例・文例
- 感動的なエピソード
- 彼の子どものころのエピソード
- リンクがそれぞれのエピソードこぼれ話ページに飛びます
- あなたが子どもの時のエピソードについて話して下さい。
- このエピソードは私を泣かせました。
- わたしは、友人のエピソードが面白すぎて腹筋崩壊した。
- 私はスターウォーズエピソード1を見ていません。
- その痛ましいエピソードは私には痛切に感じられた。
- そのエピソードは校史にぜひとどめておきたい.
- 呑気なエピソード
- プリアーポスのエピソード
- 意義深いエピソードは教訓的な話となることがとても多い−キャスリーン・バーンズ
- あなた自身の人生のエピソードの記憶
- ジェスチャーゲームのエピソードで行われる言葉
- 多くのエピソードで2つのライバル家族間の闘争を扱うインドの神聖なサンスクリットの叙事詩
- 持続的緊張感,で終わるエピソード
- 感情的なエピソード(通常幼児で)で、人は不安と恐れの感情を伴う恐怖で目がさめるが、それらの感情を引き起こしたかもしれないどんな事件も思い出すことができないというもの
- エピソードを形成する一連の関連する出来事
- 物価と賃金がある増加率で減少し通貨の価値が増えるというデフレのエピソード
- 伝統的な双極性障害における躁的状態のない主要抑鬱エピソード
エピソードと同じ種類の言葉
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