れき‐し【歴史】
読み方:れきし
1 人間社会が経てきた変遷・発展の経過。また、その記録。「日本の—」「—上の事件」「—に残る」「—をひもとく」
2 ある事物・物事の現在まで進展・変化してきた過程。「菓子の—」「—のある店」
3 「歴史学」の略。
[補説]
2017年に実施した「あなたの言葉を辞書に載せよう。2017」キャンペーンでの「歴史」への投稿から選ばれた優秀作品。
◆「if」が無いことを踏まえた上で、「if」を想像すると楽しいもの。
猪鹿ソーセージさん
◆勝者の記憶。あるいは勝者に都合の良い「事実」になっている話。
櫻月さん
◆様々な人間の、生きざまと死にざま。
一二三茶さん
◆連綿と繋がって途切れない時間の堆積。
吉岡景子さん
◆くり返されるもの。その大部分は失態。
水酸化ナトリウムさん
れきし【歴史】
読み方:れきし
《原題、(ギリシャ)Historiai》ヘロドトス著の歴史書。全9巻。紀元前425年以前に成立。ペルシア戦争を中心にした物語的歴史記述の典型。ペルシア戦争史。
《原題、(ギリシャ)Historiai》ツキディデス著の歴史書。8巻。成立年未詳。未完に終わったが、科学的な史料批判などにより最初の完全な歴史書とされる。ペロポネソス戦争史。→ペロポネソス戦争
《原題、(ギリシャ)Historiai》ポリビオス著の歴史書。全40巻。成立年未詳。ローマの発展を中心に記述し、国家の政治形態は循環するという、政体循環史観が示されている。
《原題、(イタリア)La Storia》モランテの小説。1974年刊行。第二次大戦中の、ナチス占領下のイタリアを舞台とする長編の歴史小説。邦題は「イーダの長い夜」ともする。
歴史(ワイン)
ワインは古い歴史を持ったお酒です。紀元前4000〜5000年頃の出来事を記録している「ギルガメッシュ叙事詩」の中に、ワインの記述があり、紀元前3100〜1500年に栄えたエジプト王朝のピラミッドの壁面にも、ぶどう栽培やワイン醸造の絵が描かれています。また紀元前1700年頃の「ハンムラビ法典」には「酒癖の悪い者にはワインを売るべからず」というワイン取引の記述があります。しかし当時はワインは神や王族の飲み物であり、ワインが一般化したのは、紀元前1500年頃、クレタ島等エーゲ海諸島に広がってからと考えられ、このあと、ギリシャやローマで広まって庶民の酒となりました。 ローマ帝国の拡張と共にヨーロッパ全体にワインは広まります。紀元前600年頃には、ギリシャ人、ローマ人によってフランスに拡大。現在のシャンパーニュ、ロワール、ローヌなどの地方はジュリアス・シーザーによって拓かれました。 さらに「パンはわが肉、ワインはわが血」というキリストの言葉に代表されるようにキリスト教とワインは密接な関わりを持ち、中世にはキリスト教の普及とともに ヨーロッパ各地の僧院で葡萄栽培、ワイン醸造が行なわれました。18世紀にはフランスで「肉料理には赤ワイン、魚料理には白ワイン」という表現も生まれています。 またヨーロッパの水質の悪さもワインの普及に影響したといえるでしょう。現在でも、フランスやイタリアなどの人々は日本人の20倍ほどの量のワインを飲んでいます。 のちに、植民地の拡大とともにアメリカ、アルゼンチン、オーストラリアへ普及していきます。 日本にワインが伝わったのは室町から戦国時代。南蛮貿易で輸入されたものが、一部の人々の間で飲まれていました。明治10年頃には、大日本山梨葡萄酒会社が発され、これをきっかけに山梨県にはワインづくりに挑む先駆者たちが現れ、次第にワインづくりの中心地となっていきました。当時、栽培や醸造技術の未熟であったり、人々の嗜好に合わなかったため、容易には受け入れられませんでした。やがて日本人の好みに合わせた甘味ワインの登場により、ワインのおいしさが知られることとなり、今日のテーブルワイン時代の基礎となる葡萄園の開拓が行われるようになったのです。 |
歴史
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ヴィルヘルム・ヴィンデルバントの科学分類に拠れば、「自然科学が反復可能な一般的法則であるのに対し、歴史科学が対象とする歴史は反復が不可能である一回限りかつ個性を持つもの」と定義している[4]。また、現在に至る歴史を「来歴」という[5]。
意義
「歴史」とは、少なくとも二つの意味を有している。一つは、現実に存在する「もの」が変遷する様そのものを言い換えて「歴史」と定義するものである。しかしその経緯は保存されることは無く、やがて消える。もう一つの「歴史」の意味は、この消え行く変遷を対象化して記述・記録された結果を指し、「歴史記述」ということができる。
歴史と時間
歴史と時間は概念として密接不可分な関係にあるが、全く同意義であれば別異の概念として存立する必要がないはずである[6]。この歴史における時間の問題について、例えば三木清は歴史的時間を自然的時間や自然科学的時間と区別している[6]。歴史的時間においては歴史的出来事の現在性、一回性、不可逆性があり、特に歴史における「現在」は物理学の理論のように単に四次元時空の時間軸の任意の一点ではなく特権性を持つとしている[6]。三木は歴史的時間には方向性があるとし、「過去」から「未来」への因果論的見方という方向性と、「未来」から「過去」への目的論的見方という二つの方向性を示している[6]。
歴史と記憶
フランスの社会学者モーリス・アルヴァックス(1877‒1945年)は記憶は個人にだけでなく、それぞれの集団(家族、友人、学校、宗教的集団、国民など)にも存在すると考えた[7]。アルヴァックスはこのような集合的記憶を歴史記述と対立するものと捉え、歴史が関心を持つのが過去であるのに対して、集合的記憶は「現在の集団の需要や利益」に応じて選択的かつ再構成的であるとした[7]。
アルヴァックスは集合的記憶は集団の同一性と密接にかかわっており、宗教上の伝説のようにフィクションが混入することもあるのに対し、歴史は歴史家が営々と積みあげた過去の情報の総体で中立的であるとした[7]。しかし、アルヴァックスのように歴史を中立とする見解は、アライダ・アスマンなどから疑問視され「すべての歴史記述は同時に記憶の作業でもあり、意味付与、党派性、アイデンティティの確立という諸条件と避け難く絡まり合っている」と指摘を受けた[7]。アルヴァックスの集合的記憶論は集合的記憶と歴史の関係を排除する立場で提唱されたものだったが、アライダ・アスマンはその集合的記憶論を応用しそれぞれ「機能的記憶」と「蓄積的記憶」に分けて互いに補完するものと再構成している[7]。
語源
歴史
日本語の歴史は、司馬遷の『史記』に由来する。前漢の武帝時代、太史令であった司馬遷が記述した『太史公書』がのちに「史記」と呼ばれるようになり、「史」が歴史の意味でも使われるようになった。司馬遷は黄帝から武帝までの皇帝の変遷を正統性の概念で記述した。以降、「史」は皇帝の正当性を主張する書物として古代中国の各時代で伝統的に編纂されることとなった。また正統性の概念は周辺アジア地域においても影響を与え、『日本書紀』などが編纂される動機となった。
「歴史」という単語自体は、『三国志』の47巻呉主伝の裴松之の注釈に「雖有餘閒,博覽書傳歷史」とあるのが現在確認できる最古の例であり、『南斉書』四十巻武十七王伝に「積代用之爲美,歷史不以云非」と登場している。しかしながら、中国では「歴史」という単語は、ほとんど普及せず、書籍の題名に用いられたのは、明の袁黄が著した『歴史網鑑補』である。『歴史網鑑補』は、司馬光以下の通鑑に類する諸書をあわせた書籍であり、これが日本に移入され、江戸時代の日本で「歴史」という用語が普及し始めた。林鵞峰は弟読耕斎への書簡で「古今を商量し、歴史を可否す」と記し(1660年)、その後、日本では、「歴史」という用語を用いた書籍が登場しはじめる(巨勢彦仙『本朝歴史評註』(1690年)、岡本東陽『歴史小鑒』(1781年)、松崎祐之『歴史徴』(1799年)、川関惟光『本朝歴史要略』(1813年)等、「歴史」を書名に含む書籍は江戸時代に20点出版されている[8]。
このような背景のもと、江戸時代末期に西洋語の辞書や翻訳書を作成する時に、historyの訳語として、縁起・記録・史書など様々な訳語とともに、「歴史」も用いられるようになる。早くは堀達之助『英和對譯辞書』(1862年)でhistoryに「歴史、記録」を当て、J.C.Henpburnの『和英語林集成』(1867年)でもrekishiの見出しが登場、フランス語の辞書でも1871年『官許佛語辞典』でhistorieは「歴史、記録」、ドイツ語辞書でも1872年『孛和袖珍字書』でGeschichtsbuchが「歴史本」、Geschichtshkundeが「歴史学」となり、西洋語のhistoryの訳語としての「歴史」が定着し[9]、その後、日本でのhistoryの訳語としての「歴史」は清朝・現代中国にも取り入れられていった。
historia, history
英語の "history" やフランス語の "histoire" はラテン語の historia を中立ちとして、古典ギリシア語で「探求して学んだこと、知り得たこと」を意味する "ἱστορία (historia)" に由来する(現代ギリシア語では ιστορία (istoria))。ヘロドトスの著書名にも見える Ἱστορίαι (Historiai) は、その複数形。
ヘロドトスはリディア王国以降のペルシア地方の発展を中心に、プラタイアの戦いにおいてギリシアがペルシア帝国の軍隊を撃破するまでを記述した。それゆえ、「歴史」は主として戦争を記述する資料を指したが、時とともにより幅広い事象を対象とする用語に一般化されていった。
歴史認識
「歴史記述」についても、全貌を漏れなく記述することは不可能で、執筆者の知見や価値観、または時代的背景、執筆者の力量などの制約が加わり、それらフィルターを通じた事象に偏ってしまい、真実がゆがんでしまう。これをE・H・カーは著書『歴史とは何か』で指摘している[10]。陳舜臣は「歴史は勝者によって書かれる」と述べている[11]。
歴史認識は形成に時間がかかるため、外交文書などを積極的に情報公開する国は自国に有利な情報を後世に伝えることが可能となり、長い時間で見れば「歴史記録による覇権(アーカイバル・ヘゲモニー)」を得られるという意見もある[12]。
歴史記述
人類の歴史記録は、時代と地域によって文明、支配者、宗教、政治経済などの切り口が複合的に組み合わさり、今日の歴史記述が成り立っているといえる。
ただその中には、当時の支配者が自らの政権や文化を正当化するために、事実と異なるあるいは脚色された記述もある。また歴史認識に重要な影響を与える史料が現代まで残されていない場合がある。 このため、様々な史料を歴史学、科学的に多面的に分析しながら仮説・検証を重ねていく作業が継続的に行われている。
リストとしての歴史記述
歴史の記述は、その当初から包括的に始められたわけではない。記述には必ず文字が用いられるが、最も古くかつ資料も豊富な古代メソポタミア文明の楔形文字が刻まれた粘土板は、税や戦利品など収入や配給または役人の給与など、行政上の財務収支を記載した単なるリストであった。これらにはやがて人口調査や地名・人名なども加わるようになった。また古代エジプトの呪詛文書は、敵対する部族などの名称や首長の名前、また居住する地名などを記している。
このように、初期の歴史記述は何らかの目的に特化したリストとして始まった。やがて治世者の業績なども加わりつつ積み重ねられたこれらのリストは、「歴史」を想定していなかったとしても、積み重ねられた結果として重要な「歴史記述」となった。
時間感覚
しかし、何をどこまでリストに記述するかという点に関しては、文明毎に異なる時間に対する認識が影響した。インドを中心としたヒンドゥー文明やサーサーン朝などアーリア人の古文明は体系化した歴史記述を残していない。それに対し、中国は膨大な歴史記述を残しており、梁啓超は、中国は歴史学が突出して発達し他の国に例が見られないと語っている。
このような差異が生じた原因は様々だが、時間すなわち歴史を「循環的(円環的)」と見るか「直線的」と見るかがひとつの要因に挙げられる。古代の「歴史記述」に頓着しなかったインドの時間感覚は「循環的」に分類され、『マヌ法典』によると人間の1年は神々の1日とし、神々の12,000年がマハーユガとされ、1000マハーユガが劫(カルパ)と定義され、この時間サイクルで世界は創造と破壊を繰り返す。これは人間の時間感覚では43億2000万年に相当する。これに輪廻や業(カルマ)の概念が加われば、人間界のできごとなど一瞬でしかなく、これらを体系的に記述することに意味を見出さなかったものと推測されている。
ただし、「循環的時間感覚」を持つ文明がすべて「歴史記述」を残さなかった訳ではない。古代ギリシアにも循環的時間論は存在し、ピタゴラスの言葉「また将来、この杖を持って私はお前たちを教えているだろう」は、循環する時間の中でピタゴラスや弟子ら人間がまた生まれ、同じ生涯を歩む事を示唆している。エンペドクレスは四元素のせめぎ合いが巡りながら歴史が循環するという説(歴史循環論 - 神山四郎『歴史入門』講談社現代新書、1965年)を唱えた。このような時間感覚の中、トゥキディデスは『戦史』にてペロポネソス戦争の詳細を書き残しているが、これは循環的時間論の概念に基づき将来同じ事象が起こった時のために記述したのだとしている(第1巻、第22節)[13]。
王名表
文明の発展に伴い、社会にもさまざまな事件やできごとを記録するようになった。その初期は、できごと名で年を表す方法が採られ、古代エジプトやウル第三王朝のメソポタミア以降では一般的な歴史記述方法となっていた。例えばハンムラビ43年の治世には全ての年に名称が付けられており、第37年目は、「(ハンムラビが)マルドゥクの威光を得てトゥルック、カクム、スパルトゥの国々を打倒した(年)」と記録されている。古代エジプトも同様に年ごとのできごとを記した象牙や木製の牌を作り、ファラオが替わるとパピルスに転記して記録に残していた。このような歴史記述はアメリカ州の先住民族にも見られ、ラコタ族が一年毎にできごとを絵文字で水牛の皮などに残した「ウインター・カウント」(en)もこの例に当たる。
この一年が独立した歴史記述は、特記すべき事件が起こらなかった年は空白となる。しかし、歴史記述はやがて王名とその在位年度を記録し前王との系譜が添付されることで作られる「王名表」に沿って記録されることで、連続的なものへと変化した。バビロニアではカッシート時代から、エジプトでも王名表石碑「パレルモ・ストーン」(en)が作られた古王国の第五王朝時代(紀元前2350年頃)にはこの王名表を基準とした歴史記述が始まっている。
脚注
出典
- ^ 「【歴史】」『日本語大辞典』(第一版)講談社、1989年、2102頁。
- ^ 広辞苑「人類社会の過去における変遷・興亡のありさま」
- ^ 大辞林「人間社会が時間の経過とともに移り変わってきた過程と、その中でのできごと。また、それをある秩序・観点のもとにまとめた記録・文書」
- ^ 「【歴史科学】」『広辞苑』(第五版第一刷)岩波書店、2832頁。
- ^ 「【歴史】」『広辞苑』(第五版第一刷)岩波書店、2832頁。
- ^ a b c d 椿井 真也 (2019). 歴史的時間の固有性について. 立命館大学大学院 先端総合学術研究科 .
- ^ a b c d e 溝井 裕一 (2009). 伝説と集合的記憶. 関西大学 .
- ^ 佐藤正幸『歴史認識の時空』pp4-5,知泉書館,2004年
- ^ 佐藤正幸『歴史認識の時空』pp8-10,知泉書館,2004年
- ^ “E・H・カー『歴史とは何か』”. 塩川伸明. 2009年4月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2009年6月5日閲覧。[リンク切れ]
- ^ 陳舜臣『中国五千年(下)』講談社、1989年、49頁。ISBN 4-06-184562-4。
- ^ イースターが日本領土に? 外交“公”文書が歴史を作る - NHK
- ^ 岡崎勝世『世界史とヨーロッパ』講談社現代新書、2003年、020-024頁。ISBN 4-06-149687-5。
参考文献
- 蔀勇造『歴史意識の芽生え歴史記述の始まり』山川出版社、2004年。ISBN 4-634-34570-6。
- 佐藤正幸『歴史認識の時空』知泉書館、2004年。ISBN 4901654276。
関連文献
- History & Mathematics: Historical Dynamics and Development of Complex Societies. Moscow: KomKniga, 2006. ISBN 5-484-01002-0
- Arnold J. Toynbeeの作品 (インターフェイスは英語)- プロジェクト・グーテンベルク
関連項目
外部リンク
歴史(鳥取県、島根県)
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「西日本三菱自動車販売」の記事における「歴史(鳥取県、島根県)」の解説
2006年 島根三菱自動車販売(ギャラン店)と西鳥取三菱自動車(カープラザ店)を統合して山陰三菱自動車販売が誕生。 2007年 合併。
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歴史 (松浦西)
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2009年(平成21年)3月5日に予備免許交付 3月16日から4月29日まで試験放送実施 4月24日に本免許交付、4月30日から本放送開始。 2012年(平成24年)10月1日 廃局。
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歴史(ズヴォレン鉄道検修工機)
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「ŽOSトルナヴァ」の記事における「歴史(ズヴォレン鉄道検修工機)」の解説
ハンガリー国営鉄道時代の1884年、ズヴォレン鉄道工場 (Zvolenské železničné dielne) としてズヴォレン蒸気庫(1872年開設)から分離発足したスロバキア鉄道史を代表する鉄道工場である。 1901年および1913年から1914年にかけてのズヴォレン鉄道駅の二度の整備工事で移転を重ねて工場規模を拡大した。1918年にチェコスロバキア国鉄ズヴォレン鉄道工場となり、第二次世界大戦中の1944年に勃発したスロバキア国民蜂起では、ズヴォレン市を勢力圏に置いていた蜂起軍用の装甲車両を製造してドイツ軍に抵抗した。 1952年のチェコスロバキア国鉄組織改正で、車両検修工場を開設。1964年にはディーゼル機関車の検修を開始した。1987年に独立採算制の国鉄ズヴォレン鉄道検修工機支社が発足し、国鉄から事業分離された。
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歴史(2020年頃まで普及しなかった理由)
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「職務記述書」の記事における「歴史(2020年頃まで普及しなかった理由)」の解説
1970年頃にアメリカより日本に紹介された。当時、日本は高度経済成長下にあり、その更なる生産性向上を目指して国をあげて取り組み、大手企業がリーダー役となり、大々的に文書化が行われた。しかし年功序列賃金、生活給を土台としていた当時の日本では、成果別賃金、同一労働同一賃金を下支えする文書という発想は受容されず、文書の使用目的に不明瞭な点があった。 その後、アメリカより作業マニュアルが紹介され、こちらの方が文書の使用目的が明瞭だったため、日本に作業マニュアルは定着した。また、作業手引き書も導入されたが、こちらがも日本には定着した。 日本で今まで職務記述書が普及しなかった背景には、賃金根拠についての思想が異なっていたこともある。他には、日本語の言語としての性質が印欧語との間に隔たりを持ち、その特性や思考背景の違いについてのすり合わせを行わずに文書化作業に踏み込んでしまったことがあげられる。日本語によって日本人の間で機能する仕事の文書を整えるには、日本の風土、文化からの考察が不可欠である。なぜならば、人は言語によって思考し、その思考に基づいて判断し、行動するからである。
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歴史(猿橋分庫)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/07 06:43 UTC 版)
(出典:) 1903年(明治36年):八王子機関庫職員が猿橋在勤として勤務 1905年(明治38年)11月:給水夫詰所(1坪5合)を新築 1909年(明治42年)5月:機関庫建物新築落成 坪数196坪余 工費28,444円 9月13日:甲府機関庫猿橋分庫設立 機関車の配置は行わず、上下列車の点検その他を業務とする。 1913年(大正2年)4月1日:機関士をはじめとする職員40人と機関車を配置し、八王子および甲府方面ともに機関車の折り返し運転を開始する。 5月:給水夫詰所を4坪5合増築し6坪となる。 1914年(大正3年):2120型2両増加 1915年(大正4年)3月:重油タンクを新設 工費2,390円 1918年(大正7年)10月12日:事務員1人を配置 1920年(大正9年)4月:炭水夫詰所に2坪2合5勺増築して休憩所と併用 8月:東部八王子方面にも1坪5合の簡易休憩所を設置 1923年(大正12年)4月1日:機関車転車台を電気動力に変更 工費2,549円 1925年(大正14年)9月10日:分庫職員による仕業はこの日を最終として全仕業を八王子・甲府に分割 9月11日:定員改正 機関手3人・合図手2人・炭水手6人を残して他はそれぞれ転勤となる。 1926年(大正15年)1月22日:猿橋分庫廃止 1月28日:甲府機関庫猿橋駐泊所設置 機関車への給炭水と甲府出区で折り返しとなる機関車の転向作業等を担当 1929年(昭和4年)9月19日:甲府機関庫猿橋駐泊所を甲府機関庫猿橋転向給炭水所と改称 構内勤務機関士の駐在を免じ機関助士1名を新置 1931年(昭和6年)8月11日:甲府機関庫猿橋転向所と改称 1936年(昭和11年)1月10日:猿橋転向所を削除
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歴史(アーケード版)
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「ラブライブ! スクールアイドルフェスティバル」の記事における「歴史(アーケード版)」の解説
2015年11月27日、制作が発表された。 2016年2月18日、タイトルと、スクウェア・エニックスとの共同開発となることが発表。3月に先行体験会、5月13日から29日および8月19日から28日にロケテストが行われ、12月6日に正式稼働となった。 2017年10月20日の「ラブライブ!サンシャイン!! Aqours浦の星女学院生放送」で、Aqoursの追加が発表。2017年12月6日から2018年1月8日まで、Aqoursの先行体験版を期間限定で実装した。 2018年4月14日に行われた「スクフェスシリーズ5周年特番!~みんなでシャンシャン♪スクフェスTV~」にて『Next Stage』の稼働予定が発表。6月22日から24日および29日から7月1日まで『Next Stage』のロケテストが行われた。11月18日に行われた『Aqours 4th LoveLive! ~Sailing to the Sunshine~ day.2』において『Next Stage』の稼動が2018年12月6日となる事が発表された(同ライブの物販では販売されたグッズと同デザインのTシャツを着たAqoursメンバーをゲームにて使用可能となるシリアルコードも配布された)。予定通りの期日に『Next Stage』は稼動開始したが、キャラクターの服が表示されない不具合が生じ、翌7日までの稼働停止を余儀なくされた。 2019年5月30日に行われた「ラブライブ!スペシャル生放送 ラブライブ!シリーズ9周年発表会」にてSaint Snowの鹿角聖良・鹿角理亞の参加決定が発表された。μ's・Aqours以外の所謂主役のスクールアイドル以外の参加はこれが初であり、2019年9月5日に正式に実装された。 2021年10月1日にネットワークサービスおよびカスタマイズサイトサービス終了。。
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歴史(1942年以降)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/23 06:17 UTC 版)
「アイリッシュグランドナショナル」の記事における「歴史(1942年以降)」の解説
1942年 - 競走距離は3マイル4ハロン。 1951年 - 競走距離が3マイルに短縮。 1964年 - アークルが歴代最低オッズの1.5倍で優勝。 1965年 - 歴代最少頭数の4頭立て。 1974年 - 競走距離が3マイル4ハロンに延長。 1991年 - 競走距離が3マイル5ハロンに延長。 2001年 - 口蹄疫により開催延期。 2020年 - 新型コロナウイルス感染拡大の影響により開催中止。
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歴史(歩み)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/04/23 14:06 UTC 版)
「タケフナイフビレッジ」の記事における「歴史(歩み)」の解説
1982年 川崎和男と商品開発をした商品の統一ブランドを『タケフナイフビレッジ』に決定する。 1987年 『タケフ・ナイフ・ビレッジ展』を東京六本木AXISビルにて開催。 1985年 クレウス他11点がGマーク選定商品となる。 1991年 スミソニアン博物館・クーパーヒューイット美術館に永久展示選定。 『タケフナイフビレッジ協同組合』を設立。 1993年 モントリオール美術館に永久展示選定。 1994年 フィラデルフィア美術館に永久展示選定。 1995年 ニューヨーク近代美術館に永久展示選定。 1997年 クレウス他 グッドデザイン賞 ロングライフデザイン賞 受賞。 2006年 X&I・プラスコラ ニューヨーク近代美術館に永久展示選定。
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歴史(ボンネット型)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 04:48 UTC 版)
「いすゞ・TD/TP」の記事における「歴史(ボンネット型)」の解説
1959年3月 - TD151 軸距4.8m 8t積み DH100型を搭載。同時に発売されたBC151とコンポーネントが共通化されている。TD141は軸距4.2mの7.5t積み。 1962年3月 - TP151後2軸10t積みモデル追加。 1963年 - 新型ボンネットトラック登場。 8t積み ・190ps・軸距4.9m ・荷台長5mのTD161とTD50-D発売。 1968年12月 - 195psのDH100型を搭載したTD50A-Dと175psのD920型を搭載したTD51A-Dが登場。 1970年4月 - 6×4のTM65ZDを追加。エンジンはE110型・215psを搭載。 1971年8月 - TDK45ボンネットセミトラクタ登場。 1979年10月 - ボンネット車生産終了。
※この「歴史(ボンネット型)」の解説は、「いすゞ・TD/TP」の解説の一部です。
「歴史(ボンネット型)」を含む「いすゞ・TD/TP」の記事については、「いすゞ・TD/TP」の概要を参照ください。
歴史(キャブオーバー型)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/31 04:48 UTC 版)
「いすゞ・TD/TP」の記事における「歴史(キャブオーバー型)」の解説
1962年 - TD147E 8t積み。キャブオーバーモデル登場。後のTD70E(末尾のEがキャブオーバーを示す)。 1966年 - TP81E/91E TP系改良型。 1968年11月 - フルモデルチェンジ。E110型11L・215ps搭載の TM-65D・11t積みとTP61-D2・12t積み発売。同年D920型9.2L・175psエンジンはTD/TPに搭載。 1969年1月 - E110型搭載・11t積みのTD45-EとDH100型搭載・10t積みのTP41E-D発売。 1969年7月9日 - 6×2・前2軸車を追加し、11t積みのTG75Eと11.5t積みのTG55E型登場。 1969年11月 - 単車に1年遅れて大型トラクタもフルモデルチェンジ。トラクタは専用デザインの角ばったグリルを採用した。TV型トラクタV170型16.5L・330ps搭載モデルとTG系 前2軸 10-11.5t積み発売。 1969年12月 - ロングボディ車の5.5t積みTXD11E型、6t積みTXD10E型、7.5t積みTD10E型とTD11E型、10t積みTP11E型発売。 1970年5月 - キャブオーバー車にも6×4のTM55ZEDを追加。エンジンは同じくE110型・215psを搭載。 1970年10月 - E120型・12.23L・250psを搭載した10.5t積みダンプTMK45E、TMK55ZE、11t積み平ボディTMK25E、TMK95ZE、11t前2軸TGK55E、11.5t積み前2軸のTGK55E型、 セミトラクタTDK35E誕生。 1972年10月 - 8t積み大型トラックマイナーチェンジ。ブレーキの強化やグリルデザインの変更などが行われた。8t積み平ボディTD72型、8t積みダンプTD50A-D型、7.5t積みダンプTD50-D型発売。 1972年11月 - キャブオーバー車生産終了。後継車はいすゞ・ニューパワーだが、キャブはそのままニューパワーに流用された。
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歴史(過去の大会開催地等)
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「全国教育系学生ゼミナール」の記事における「歴史(過去の大会開催地等)」の解説
左から順に、「第何回」「年度」「開催年月日」「メイン会場」「参加学園数」「参加者数」。参加者数は残された資料による。 第1回、1954年度、1954.12.17~20、神戸大学、56学園、463名 第2回、1955年度、1955.12.18~22、東京学芸大学、82学園、1776名 第3回、1956年度、1956.12.19~22、愛知学芸大学(岡崎キャンパス)、68学園、2000名余り 第4回、1957年度、1957.12.19~22、群馬大学、60学園、2300名 第5回、1958年度、1958.12.22~25、大阪学芸大学、71学園、2500名 第6回、1959年度、1959.12.21~24、東京学芸大学、77学園、2600名 第7回、1960年度、1960.12.21~24、静岡大学、学園数不明、2300名 第8回、1961年度、1961.12.22~25、神戸大学、学園数不明、2000名 第9回、1962年度、1962.12.21~24、福島大学、48学園、2300名 第10回、1963年度、1963.12.22~25、山口大学、学園数不明、2500名 第11回、1964年度、1964.12.21~24、愛知学芸大学(岡崎キャンパス)、学園数不明、3000名この第11回大会は校舎を借りることができなかったため、周辺の公共施設等を行き来しながらの開催となった。 第12回、1965年度、1965.12.20~23、信州大学、学園数不明、2400名 第13回、1966年度、1966.12.22~25、京都学芸大学、75学園、2700名 第14回、1967年度、1967.12.21~25、埼玉大学、学園数不明、2500名 第15回、1968年度、1968.12.22~26、奈良学芸大学、77学園、1600名 第16回、1969年度、1970.3.6~10、東京学芸大学、111学園、2400名 第17回、1970年度、1970.12.18~22、静岡大学、97学園、1930名 第18回、1971年度、1972.3.13~17、千葉大学、125学園、2200名 第19回、1972年度、1973.3.5~9、京都学芸大学、129学園、2900名 第20回、1973年度、1974.3.16~20、金沢大学、120学園、3200名 第21回、1974年度、1974.12.23~27、三重大学、98学園、2100名 第22回、1975年度、1976.3.8~13、埼玉大学、123学園、2800名 第23回、1976年度、1977.3.8~12、東京学芸大学、134学園、3200名 第24回、1977年度、1978.3.7~10、香川大学、131学園、2273名 第25回、1978年度、1979.3.12~15、京都教育大学、学園数不明、参加者数不明 第26回、1979年度、日にち不明、信州大学、学園数不明、数千名 第27回、1980年度、日にち不明、東京学芸大学、学園数不明、参加者数不明 第28回、1981年度、1982.3.16~19、静岡大学、学園数不明、1500名 第29回、1982年度、1983.3.7~10、京都教育大学、105学園、1700名余り 第30回、1983年度、1984.3.6〜9、福島大学、学園数不明、1200名 第31回、1984年度、1985.3.11〜14、愛知教育大学、学園数不明、参加者数不明 第32回、1985年度、日にち不明、開催地不明、学園数不明、参加者数不明 第33回、1986年度、1987.3.10~13、奈良教育大学、学園数不明、700名 第34回、1987年度、1988.3.15~18、茨城大学(水戸キャンパス)、学園数不明、参加者数不明 第35回、1988年度、1989.3.17~20、信州大学、学園数不明、参加者数不明 第36回、1989年度、日にち不明、高知大学、学園数不明、400名 第37回、1990年度、日にち不明、三重大学、学園数不明、400名 第38回、1991年度、日にち不明、宮城教育大学、学園数不明、400名 (集会)、1992年度、日にち不明、東京学芸大学、学園数不明、200名 第39回、1993年度、1994.3.3~7、京都教育大学、学園数不明、400名 第40回、1994年度、1995.3.15~19、東京大学(駒場キャンパス)、学園数不明、250名 第41回、1995年度、1996.3.10~13、新潟大学(五十嵐キャンパス)、28学園、123名(一説には130名) 第42回、1996年度、1997.3.16~19、福岡教育大学、学園数不明、88名 第43回、1997年度、1998.3.18~21、愛知教育大学、学園数不明、参加者数不明 第44回、1998年度、日にち不明、国立オリンピック記念青少年総合センター、学園数不明、参加者数不明 第45回、1999年度、日にち不明、立命館大学(衣笠キャンパス)、学園数不明、114名 第46回、2000年度、(中止)、信州大学で開くはずだった
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歴史(中国)
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「端午節」も参照 中国の戦国時代、楚の政治家で詩人の屈原は、汨羅江(べきらこう)で入水自殺したとされる。のちに次のような伝説が生まれた。屈原の命日(5月5日)には、民衆はこれを悼んで、供物の米を竹筒につめて川に投じていた。しかし、後漢の初めの建武(紀元26-56年)の頃、長沙の區曲という者の夢枕に屈原(の霊)が現れ、供物は悪い竜に食べられてしまうので、蛟竜が苦手とする楝樹(おうち)の葉でふさぎ、魔除けの五色の糸で縛って、川に投げ入げよとさとしたのが粽の起源とされる。ただしこの伝説は漢代から数世紀たった呉均撰『続斉諧記』(6世紀)に記載されたものである。 これはあくまで起源伝説であって、屈原にちまきを供える慣習が、この伝説のとおり紀元1世紀に遡るとは鵜呑みにできない。屈原と粽が結び付けられたのは、せいぜい5世紀前半、『世説新語』においてであって、また、6世紀より以前に屈原が広く人口の間で祀られていたという実証はない。『荊楚歳時記』(6世紀)は、端午節の川の競渡を、屈原の供養とする慣例ができたとするが、ちまきを供えるとはしておらず、ちまきは夏至の食べ物だとしている。 ちまき(粽、ツォン)の記載についても、古くとも漢代の末期頃にまでしか遡れないようである。これは後漢の『風俗通義』(『風俗通』とも。2世紀末)に、粽(別称は角黍)の記載があった。だが通説によれば粽に関する最古の記載は西晋(3世紀)の周処が著した『(周処)風土記』にあり、そこには「仲夏端午、烹鶩角黍(夏の端午の節句に鶩(あひる)や角黍を調理する)」と記されており、角黍とはもち米を菰の葉でくるんで煮たものと定義されている。
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歴史(略歴)
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「C'N'Cコスチュームナショナル」の記事における「歴史(略歴)」の解説
2004年 コスチュームナショナルのセカンドラインとして発表される。 2006年 イタリアのオートバイ製造メーカーであるドゥカティ社の車種の一つ、「ドゥカティ・モンスター」の限定モデル「BLACK DOGO」を発表。 2007年 自動車メーカーのアルファ・ロメオとコラボレーションし、限定生産の147 C'N'C CoSTUME NATIONALを発表。 2008年 ソーラーパネルを埋め込んだ、どんな種類の携帯の充電も可能な“ソーラー・バッグ”を発表。2009年に“ベスト・エコ・フレンドリー・プロダクト”と評価され、”Chi e chi Award”を受賞している。 2009年 「C'N'C' コスチュームナショナル」10年春夏コレクションをミラノ市内のドゥオモ広場(Piazza del Duomo)を会場に、約3万人を集め盛大なショーにて開催。
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歴史(実施内容・経費)
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「南外山遺跡」の記事における「歴史(実施内容・経費)」の解説
2006年(平成18年)3月31日 - 定義の見直し(3つの遺跡が1つの遺跡に)。 ◆南外山遺跡の発掘情報。 南外山遺跡(みなみとやまいせき)は、愛知県小牧市の南外山地区にある遺跡である。元々「南外山北浦遺跡」・「南外山東浦遺跡」・「南外山城跡」の3つに分類されていたが、2006年3月31日に定義が見直され、1つの遺跡とされた。縄文時代後期から室町時代にかけての幅広い年代の遺物や住居跡などが見つかっており、現在も発掘調査が進められている。 小牧市南外山の「南外山東浦遺跡」の発掘調査を進める小牧市教育委員会は、奈良から平安時代に作られたとみられる「土馬(どば)」の頭部を出土したと発表した。土馬は奈良・平城京などで多く見つかっており、祭祀(さいし)の際のおまじないで使われたと考えられている。市教委は「律令制度の全国波及とともに都の風習がこの地まで広がったことを示している」と話している。 同遺跡の発掘は01年に始まり、これまでに縄文時代から室町時代の土器の破片などが多数出土し、弥生時代中期以来約2000年にわたり、この地に集落や城が存在したことが分かっている。 今回最大の発見である土馬は、遺跡東部の外堀付近で見つかった。比較的低温で焼かれた土師器質で、大きさは鼻先から後頭部までが約5センチ、頸(けい)部から最頂部が約7センチ。 耳は欠損しているが、焼く前にへらで描いた顔の表情やたてがみがはっきり見て取れる。頸部から下は見つからなかった。市教委によると、土馬は6世紀後半から10世紀初頭までの遺跡から出土しており、律令制度とともに大陸から導入された思想に基づく祭祀用品。 当時は河や雷の神が馬を好むとされ、雨乞(あまご)いの儀式に用いられたとする説があるという。県教委文化財保護室は「土馬の県内での出土例は少なく、当時の人々の暮らしぶり解明にとって貴重な発見だ」と話している。(毎日新聞より) ○目的(対象をどの様な状態にするのか) 保存が不可能な埋蔵文化財について、調査、記録、保存をおこない、後世に伝える。 ○24年度実施内容 職員が中心となり、アルバイト作業員を指揮し、遺跡範囲確認調査、発掘調査等を実施、出土遺物を整理し、埋蔵文化財の記録を保存した。一部の発掘調査については、委託で実施した。 アルバイト作業員数28人、出土遺物は民俗資料保存施設に保存。 (発掘調査:委託)藤島町居屋敷遺跡第3次(290㎡)(範囲確認調査)南外山遺跡(5㎡)、浄音寺山遺跡(2㎡)、多気神社西遺跡(3㎡)天王塚遺跡(10㎡)、巾上遺跡(3㎡)、松山遺跡(3㎡)、牛屋遺跡(6㎡)、 市之久田中島遺跡(14㎡) ○24年度直接経費の内訳 埋蔵文化財発掘調査委託料(藤島町居屋敷遺跡第3次)(9,240千円) 電子計算機借上料(埋蔵文化財地図情報システムの借上)(660千円) 発掘用機材借上料(仮設トイレ等)(40千円) その他、発掘調査作業員賃金、消耗品費等(877千円) ○25年度直接経費の内訳 測量委託料(2,200千円) 埋蔵文化財発掘調査委託料(藤島町居屋敷遺跡第4次)(7,000千円) 電子計算機借上料(埋蔵文化財地図情報システムの借上)(661千円) 発掘用機材借上料(現場事務所、仮設トイレ等)(3,500千円) 発掘調査埋戻し等工事費(4,400千円) その他、発掘調査作業員賃金、消耗品費等(16,910千円) 小牧市 事業番号 397 平成25年度 事務事業評価シート 文化財発掘調査保存事業 一般会計 [PDF] 南外山遺跡・(仮称)小牧城下町遺跡・新町遺跡・内方前遺跡・東田中宮前遺跡・半之木原遺跡・高拍子遺跡・市之久田北浦遺跡・松山遺跡 小牧市教育委員会編 (市内遺跡発掘調査報告書 / 小牧市教育委員会編, 16) 小牧市教育委員会, 2008.3 [ 愛知県小牧市 南外山公園 (南外山遺跡) (2014-04-05) ] ⇒「 http://www.nilab.info/z3/20140405_02_minamitoyama_iseki_park.html 」
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歴史 (名称と範囲の変遷)
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「新町 (世田谷区)」の記事における「歴史 (名称と範囲の変遷)」の解説
新町は古くは世田谷の飛び地として独立した。その範囲は広範であり、現在でいう世田谷区新町はもとより、桜新町全域、さらには深沢、弦巻、駒沢の一部までを指した。新町の指す範囲の大きさを端的に表す例として、東京初の郊外型分譲住宅地として有名な新町住宅開発(1913年・大正二年)があり、これは現在の桜新町・深沢の一部に相当する。他にも桜新町2丁目にある区内最古の公園「世田谷新町公園」の名称などに、「新町」が広範だった頃の名残が今も見られる。 1858年-1860年 万治年間に世田谷村の飛び地(枝郷)である世田ヶ谷村新町から世田ヶ谷新町村が成立。字義通り世田ヶ谷から分離した新しい町という意であり、井伊氏に支配されたとされる。 1889年(明治22年)町村制施行から駒沢に併合され、新町村は字の扱いとなり、駒沢村大字世田ヶ谷新町。(この後、新町住宅地が分譲される。) 1925年(大正14年)駒沢が町制に移行するとともに「世田ヶ谷」が外れて、駒沢町大字新町となる。 1932年(昭和7年)都内の市郡合併に伴い、世田谷区が成立した際に世田谷区新町となる。新町一~三丁目が成立。その後、弦巻・深沢境界との区画整理がある。 1969年(昭和42年)住居表示に関する法律施行を機に、それまでの新町一丁目が駒沢三・四丁目、新町三丁目が桜新町一・二丁目とされ、新町二丁目の区域をもって新たな新町一~三丁目が成立した。
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歴史 (第1回 - 第19回)
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「POP HILL」の記事における「歴史 (第1回 - 第19回)」の解説
第1回(1984年)のみ辰口丘陵公園(石川県能美郡辰口町、当時)で行われ、第2回(1985年)から第18回(2002年)は石川県森林公園(石川県河北郡津幡町)で行われた。
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歴史 (第20回 - )
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「POP HILL」の記事における「歴史 (第20回 - )」の解説
2017年に2002年以来となる「POP HILL」を15年ぶりに復活した。会場をこれまでの石川県森林公園から、石川県産業展示館4号館(石川県金沢市)に移して開催となった。
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歴史(略歴)
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「コスチューム・ナショナル」の記事における「歴史(略歴)」の解説
1986年、日本で3年間、山本耀司のもとでアシスタントを務めていたエンニョ・カパサがイタリアに戻り、兄のカルロ・カパサと共にファッションブランド「CoSTUME NATIONAL」を立ち上げ、同年パリのファッションウィークにて、最初のラインとなる、レディース・コレクションを発表。このレディースラインは、現在でも毎年パリで行われるファションウィークにて発表され続けている。 1993年、イタリア・メンズファッション見本市であるピッティ・ウォモ(Pitti Immagine Uomo)にて、同ブランド初となるメンズ・コレクションを発表。メンズ・ラインは、現在でもミラノ・コレクションにて、定期的に発表されている。 1995年、初の旗艦店を、ローマとロサンゼルスに続き、ミラノ、東京、ニューヨークにオープンさせる。 2004年、より若く、幅広い顧客層をターゲットとしたディフュージョン・ライン、C’N’C(シー・エヌ・シー)をスタートさせる。 2010年、イタリア大手のファスト・ファッショングループ、OVS Industry との新プロジェクト”E=”(E Equal)を発表。“Democratic Fashion”(ファッションの民主化)をテーマにし、イタリアのハイ・ファッションブランドのテイストを、誰にでも手の届く価格で提供する、新しいファスト・ファッションラインを、2011年2月よりスタートさせる。 2011年、東京・青山にあらたな旗艦店(港区南青山5-4-30)をオープン。同時に、アート、建築、デザイン等、さまざまな分野を横断的に移動しながら、より先鋭的なコンテンツを提供してく為のスペースもオープン。建物の名称は、CoSTUME NATIONAL Aoyama Complex(通称=CNAC)。
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歴史(Sクラス以前)
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「メルセデス・ベンツ・Sクラス」の記事における「歴史(Sクラス以前)」の解説
Sクラスがフラグシップモデルに位置することから、「Sクラス」の呼称が用いられる以前のメルセデス・ベンツの以下の車種は、Sクラスの源流であると考えられる。
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歴史(亜南極の島々も含む)
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「南極の宗教」の記事における「歴史(亜南極の島々も含む)」の解説
1900年頃、捕鯨基地や探検隊の駐留地が広範囲に建てられた。第二次世界大戦の後、いくつかの軍事的な探検旅行がこの地域で行われた。1957年から1958年の国際地球観測年 の東側と西側の科学的な交流がかなり遮られていて、民間の科学探査がずっと寄与していた冷戦中の長期間に終わりを告げた. 1950年代以降は、大部分の南極基地が、調査研究のためだけに建てられた。この地域に留まる期間が延びたことにより、研究員は何か月もずっと家族と離れることになり、非常にストレスを感じることがあり得るようになった。南極で地球物理学の調査を長い間行っていたイエズス会の会員が、初期の南極の任務にも協力したことがある。特筆すべきイエズス会員の地震学者は、Edward A. Bradley(en:Bradley Nunatakの由来)と、 Henry F. Birkenhauer (Birkenhauer島の由来)と、J. Joseph Lynchと、Daniel J. Linehanなどが挙げられる。 南極収束線以南、かつ、南緯60度以北(つまり、南極条約の範囲外)に建った最初の教会はケルゲレン諸島の本島にあるポルトーフランセに建つen:Notre-Dame des Ventsと、サウスジョージア島のグリトビケンにあるノルウェー国教会の教会、en:Norwegian Lutheran Church (Grytviken, South Georgia)(1913年から)である。何年も放棄され、この地域の過酷な風雨による風化に晒された(1994年に屋根が破損した)後で、グリトビケンの教会はサウスジョージア博物館の管理人とボランティアにより1996年から1998年にかけて修復され、その後は時折ある教会で行われる礼拝と、結婚式で使われている。 南極収束線以北にあるいくつかの教会は、南極地域も受け持っている。例えば世界で最も南にある聖公会の大聖堂である、スタンリーにあるクライストチャーチ大聖堂は、フォークランド諸島だけであなく、サウスジョージア島とイギリス領南極地域をも受け持つ教区教会である。南米大陸本土最南端で、フエゴ島のすぐ北にあるプンタ・アレーナスにはローマ・カトリック教会の大聖堂があり、チリ領南極を受け持っている。 21世紀に入ると、キリスト教徒は次第に教徒のコミュニケーションをインターネットで行うことに目を向けるようになった。
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歴史(建設過程)
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1953年1月、鉄道部中南設計分局は鷹廈線の設計を完了した。次の1954年に鉄道兵と当地の民工により建設を開始した。1957年に全線が完成、開通した(一説によると竣工日は1956年12月9日である)。全線で173本の橋梁と1775個のカルバート、88本のトンネルを有し、トンネル総延長は63534mで最長のトンネルは1460.3mの大禾山隧道である。 1986年8月26日に電化工事を開始した。永安~漳平、来舟~永安、鷹潭~来舟、漳平~廈門の4つの区間に分けて工事を行った。1993年12月26日に7年4ヶ月の期間と5億元余りの総費用をかけた全線の電化が完了した。
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歴史(フェリー就航以降のみ)
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「室戸汽船」の記事における「歴史(フェリー就航以降のみ)」の解説
1975年7月 (昭和50年) 「フェリーむろと」(初代)就航。 1982年12月(昭和57年) 土佐清水市のあしずり港まで航路延長。「フェリーむろと」(2代目)就航(関西汽船の神戸 - 日向航路廃止に伴い、その航路に就航していた「にちなん丸」を来島どっくより用船し改名)。 1987年7月(昭和62年) 6,500トン型フェリー「フェリーむろと」(3代目)就航(船舶整備公団(現・運輸施設整備事業団)と初の共有長距離フェリーとなる)。 1990年(平成2年) 関西汽船やダイヤモンドフェリーと共に大阪商船三井船舶の傘下に入る。 1992年(平成4年) 船体に「赤い鯨」を塗装して以後トレードマークとなり、『赤い鯨の船』として知られるようになる。 1993年8月(平成5年) 「フェリーむろと」、神戸沖で関西汽船所属のフェリー「くいーんふらわあ2」と衝突事故を起こす。 1995年1月(平成7年) 阪神・淡路大震災発生により東神戸フェリーセンターの埠頭が全壊したため、大阪南港に発着港を変更する。 1996年11月(平成8年) 震災後の臨時港であった大阪南港で売り上げが増加したため、正式な発着港として利用するようになる。 1997年 明石海峡大橋の架橋を翌年に控え航路休止を決定。第三セクターによる新会社『高知シーライン』を設立することが決定され、航路は存続される。 1998年4月(平成10年) 高知シーラインに営業譲渡し、同社の営業開始。 1999年7月(平成11年) 甲浦港に入港しようとしていた「フェリーむろと」が台風8号の影響による突風にあおられ、甲浦港内の防波堤に接触後、浅瀬に乗り上げて座礁。奇跡的に死傷者は出なかったものの、この年の赤字総額が1億7000万円を計上してしまう。 2001年12月(平成13年) 航路休止となる。
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歴史(組織)
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「岡山県立岡山朝日高等学校」の記事における「歴史(組織)」の解説
藩校の流れをくむ旧制中学校(1874年(明治7年)創立)を前身とする。1948年(昭和23年)の学制改革の際に、新制高等学校「岡山県立岡山第一高等学校」となり翌1949年(昭和24年)に高等女学校を前身とする「岡山県立岡山第二女子高等学校」と統合され、「岡山県立岡山朝日高等学校」(現校名)となった。
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歴史(大学サッカー部)
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「流通経済大学サッカー部」の記事における「歴史(大学サッカー部)」の解説
創設当初は茨城県大学サッカーリーグに加盟。長年低迷を続けたが、1997年に茨城県リーグで初優勝し、翌年に元水戸ホーリーホック監督の中野雄二を招聘してチームの基礎作りが始まる。 1999年に関東大学リーグ2部に昇格、2000年は関東大学リーグ2部で8位の成績となり、その後の入替戦に敗れて茨城県大学リーグに降格した。 2001年に茨城県サッカー選手権大会(兼天皇杯茨城県予選)で初優勝し、第81回天皇杯全日本サッカー選手権大会に初出場し、1回戦で阪南大学を破り、天皇杯初勝利を挙げた。 2002年、関東大学リーグ2部に昇格。関東大学選手権(春季の公式戦)で準優勝。総理大臣杯全日本大学サッカートーナメントでベスト8に入った。2003年、関東大学リーグ2部で初優勝。また、関東大学選手権で準優勝、総理大臣杯で3位に入賞した。 2004年11月、全日本大学サッカー連盟の推薦を得て、全国地域リーグ決勝大会に出場して準優勝。(後述) 2006年、関東大学サッカーリーグ戦1部で初優勝した。2007年、総理大臣杯で初優勝した。 2008年から2010年まで茨城県サッカー選手権大会で3年連続優勝した。 2013年および2014年と総理大臣杯を2年連続で優勝した。また、2014年には全日本大学サッカー選手権大会で初優勝し、創部史上初の大学2冠を達成した。 2015年、第95回天皇杯全日本サッカー選手権大会1回戦でJ2・栃木SCにPK戦で勝利した。
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歴史(1934年 - 1939年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/04 19:08 UTC 版)
「クイーン・メリー (客船)」の記事における「歴史(1934年 - 1939年)」の解説
1934年9月26日、534番船の進水式は雨降りのなかメアリ王妃が長い答辞の途中突然船台上から滑り出し進水を始め、慌てて船名「R.M.S.クイーン・メリー」を授けて祝福し降りた水上では勢いが付きすぎて危うく浅瀬に乗り上げる直前で停止するという事故が起きた。クイーン・メリーの建造後、クライド汽船の所有する船舶に同名の「クイーン・メリー(Queen Mary)」が存在することが判明し、キュナード・ホワイト・スター・ラインと協議した結果、クライド汽船の「クイーン・メリー」を、「TS Queen Mary II」と改名することに決定した。 処女航海は1936年5月27日、クイーン・メリーはエドガー・T・ブリテン船長の下、サウサンプトンを出港した。クイーン・メリーの総トン数は80,774トンあり、ライバルのノルマンディーの総トン数79,280トンを上回っていたが、ノルマンディーが改装され、ゲームセンターを増設したことにより83,243トンに増え、クイーン・メリーを抜かした。クイーン・メリーは高速で航行していたが、ニューヨークに到着する直前に霧が出てきたため、速度を落として航行した。 ノルマンディーの流線型で革新的な船体に対し、クイーン・メリーのデザインは伝統的すぎると批判された(実際、クイーン・メリーの外観は第一次世界大戦前の客船と大差なかった)。さらにクイーン・メリーは内装にアール・デコを使用しており、フランスの定期船よりも古めかしくて落ち着いた雰囲気にまとまっていた。船体の大きさでもノルマンディーが上回っていたが、このような批判を受けたにもかかわらず、就航後クイーン・メリーは乗客定員の多さと持ち前の快速ぶりで大人気となった。 1936年8月、クイーン・メリーは西回り航路で平均速力30.14ノット(55.82km/h)、東回り航路で平均速力30.63ノットを記録しノルマンディーからブルーリボン賞を奪った。その後ノルマンディーは改装で新型の動力機関を取り付けたため、1937年クイーン・メリーからブルーリボン賞を奪い返したが、1938年に再びクイーン・メリーが西回り航路で平均速力30.99ノット(57.39km/h)、東回り航路で平均速力31.69ノットを記録しブルーリボン賞を受賞した。その後、この記録は1952年にユナイテッド・ステーツが登場するまで続いた。
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歴史(アパレル・雑貨系ネット問屋)
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「ネット問屋」の記事における「歴史(アパレル・雑貨系ネット問屋)」の解説
1990年代 ベンチャー企業による在庫処分サイトが登場。 2000年 大手企業もインターネットを使った在庫処分に取組み始める。 中小企業の参入も相次ぎ、第1次ネット問屋ブームを迎える。 2002年 在庫処分だけでなく、プロパー商品の卸サイトが登場。 株式会社ラクーンによる「スーパーデリバリー」がサービス開始。 メーカーが自社サイトでのイーコマースを始める動きもでてくる。 2005年 ドロップシッピングが国内でも始まる。 株式会社イチオクによる「イチオクネットWeb現金問屋街」がサービス開始。 問屋業界のネット進出が盛んに。 2006年 株式会社DeNAによる「ネッシー」がサービス開始。 株式会社イトウによる「卸問屋.com」がサービス開始。 2007年 株式会社アパレルウェブによる「アパレルネット」がサービス開始。 2008年 株式会社テーオーシーによる「TOC Buyer’s NET」がサービス開始。 株式会社ワールドによる「W-WIN」がサービス開始。 小規模サイトも多く登場し第2次ネット問屋ブームが起こる。その一方で、アパレル不況による淘汰も進む。 2009年 海外展開や携帯サイト展開など、各社独自のサービスが提案されている。 株式会社ワールドと株式会社DeNAの提携により、2010年1月新サイト「バイヤーズクラブ」の開設が決定。 株式会社インテックによるファッション小物専門サイト「ネット問屋のパットクリック」がサービスを開始。 2012年 株式会社セルタンによる家具専門サイト「sgoole!」がサービス開始。 2014年 株式会社もしもによるネット仕入サイト「TopSeller」がサービス開始。
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歴史(昭和期)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 18:13 UTC 版)
「京阪1900系電車」の記事における「歴史(昭和期)」の解説
以上の通り、28両の新造車と17両の1810系からの編入車よりなる45両の本系列により、京阪特急は空気ばね台車装備車による5両ないしは6両編成で運行されることとなった。 この1900系の就役と淀屋橋延伸開業による大阪方(特に大阪市の中西南部や南海沿線など)の飛躍的な利便性改善は、京阪間における京阪特急の地位を大きく向上させるものであった。前述のとおり6両編成化が行われたほか、従来は急行・臨時急行を頻発させていた正月ダイヤにおいて特急・臨時特急の運転を開始し、休日や行楽期には臨時特急の増発・増結が一層頻繁に行われるようになった。なお、本系列の営業運転は淀屋橋駅延伸開業を待たずに1963年1月より開始されたため、地上時代の天満橋駅にも営業運転で入線した実績がある。
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歴史(同市の地名由来)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 02:49 UTC 版)
天正2年(1574年)、かねてより所領独占問題において対立関係にあった平泉寺勢力との戦いに向けて、地元勢力である大野・南袋・北袋・七山家の一向一揆勢によって築城が取り決められ、七山家の人々によって築かれたと言われている。そして平泉寺は匿っていた朝倉景鏡を大将とし、一揆勢が立て篭もる村岡山城に攻め入るが反撃に遭ってしまう。その最中、援軍で駆け付けた一揆勢に手薄になった平泉寺を焼き討ちされ、景鏡は討たれてしまう。さらに出陣していた平泉寺勢も村岡山城の一揆勢の追撃に遭い、壊滅してしまう。この一連の出来事により、一揆勢は御立山をかちやま(勝ち山)と呼ぶようになり、現在の同市地名の由来になったと伝えられている。 その後織田信長勢力による越前一向一揆鎮圧後は柴田義宣(しばたよしのぶ)、一揆残党により義宣が討たれた後は柴田勝安が城主となった。しかし天正8年(1580年)、麓に勝山城が築城され、廃城となった。
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歴史(2006年-2012年)
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「三菱・コルトRALLIART Version-R」の記事における「歴史(2006年-2012年)」の解説
三菱・コルトRALLIART Version-R 概要別名Colt RALLIART(ニュージーランド、オーストラリア) 販売期間2006年5月 - 2012年6月(生産終了) ボディ乗車定員4人 駆動方式FF パワートレインエンジン4G15・MIVEC-ターボ 直4 DOHC 1,468cc 最高出力CVT:154PS/6000rpmMT:163PS/6000rpm 最大トルクCVT:18.3kgf·m/2500rpmMT:21.4kgf·m/3500rpm 変速機INVECS-III CVT/5MT サスペンション前:マクファーソンストラット式後:トーションビーム式 車両寸法ホイールベース2,500mm 全長3,925mm 全幅1,695mm 全高1,535mm 車両重量CVT:1,140kgMT:1,110kg その他ベース三菱・コルト テンプレートを表示 2006年5月30日 - 発表、販売開始。ランエボⅨと同一のアルミペダル(5MT車のみ)、240km/hフルスケールホワイトメーター(CVT車は180km/hハイコントラストメーター)、スポーツサスペンション、ASC、16インチホイール、タイヤは、205/45R16サイズのヨコハマ アドバンネオバAD07が標準装備。レカロシートがオプションで設定されていた(レッドメタリック色のセンターサイドパネルと左右エアコン吹き出し口のエアアウトレットリングとのセットオプション)。 2007年5月10日 - RECARO Edition発売。ベースモデルではオプション設定の4スピーカー、ランサーエボリューションⅧMRと同一仕様のレカロ製シート、UV&ヒートプロテクトガラス+撥水フロントドアガラスが標準装備され、ブラック内装・ランサーエボリューションⅨMRと同一の本革巻丸型シフトノブ・Version-Rロゴ入りスカッフプレート・「Version-R」サイドデカールなどの専用装備が追加される。新色のアクアメタリックを含む全4色設定。価格アップを抑え装備を充実。通称、中期型。11月14日 - コルト、コルトプラスとともにマイナーチェンジ。5MT車のエンジン出力を154PSから163PSに向上し、ランサーエボリューションXと同仕様の丸型シフトノブを装備。このほか、軽量化された新デザインのENKEI製アルミホイールの採用や「Version-R」ロゴ入りスカッフプレートへの変更、ブラック色内装への変更、シート生地の改良や本体色の追加を行なう。また、オプション設定のレカロ製シートがランエボXで採用しているタイプと同一品に変更された。通称、後期型。 ※ただしホイールの高額化に伴い内装のコストダウン(助手席のミラー廃止・フロアライトのコストダウン等)が行われる。 2008年5月27日 - Version-R Special 発売。連続シーム溶接を採用。4つのドア開口部に手作業による連続シーム溶接を施し、ベースボディに比べ、縦方向の曲げ剛性を約10%向上している。これにより、スポーツドライビング時の車両のピッチング(縦揺れ)及びロール(横揺れ)が抑えられ、タイヤの接地性が向上し、ドライバーの意図に忠実なステアリングレスポンス(操舵安定性)とトラクション(駆動力)性能を実現している。また、RALLIART製スポーツマフラー・専用ブラック塗装のENKEI製ホイール・専用バッジ・レカロ製フルバケットシート・フロアコンソール部のシリアルナンバー入りプレート・シルバーステッチ入りステアリングホイール及びシフトノブ・カーボン調センターサイドパネル及びエアアウトレットリングが標準装備。専用色のライトニングブルーマイカが新たに採用され、標準車にも設定のレッドマイカ・ブラックマイカと合わせ、全3色の設定。トランスミッションは5MT車のみ設定で限定300台。(2008年末で販売終了) 2010年2月18日 - Version-R Special を一部改良して再度発売。以前のモデルと同様の装備を継承しつつ、ホイールがシルバー塗装へ変更、ボディカラーが新たに採用のチタニウムグレーメタリック・標準車にも設定のレッドメタリック・ブラックマイカの全3色設定となった。旧モデル同様5MT車のみの設定で限定200台(2010年5月末で販売終了)。6月3日 - 一部改良。「RALLIARTスポーツマフラー」をメーカーオプションに追加した。 2012年6月 - 生産終了。これにより国産自動車(軽自動車を除く)で排気量1,500cc以下のターボチャージャーを使用するガソリンエンジン車は一時消滅した。
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歴史(縁起)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/23 03:25 UTC 版)
蓮如上人が、吉崎御坊へ向かう途次、高島勝野打下から乗船、その折り地下人山田正明に一宇を建立することを指示したと伝えられている。正明は佐々木行実の後裔で山田経豊の子と言われている。 開基は文明3年(1471年)であり、湖西の古刹である。山号の申請に対し、芝の増上寺から幕府に許可しないようにとの要望が提出され、琵琶湖山から琶湖山に変更し金50両を支払った経緯が最勝寺の古文書に記されている。
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歴史(BP買収まで)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 04:00 UTC 版)
1899年 - Fleming's Oilを退社したアレクサンダー・ダッカムにより創業。 1904年 - Limited companyとなる 1920年 - Public companyとなる 1922年 - エンジンのカーボンデポジットを大きく低減する新しいプロセスオイルを開発。数ヶ月のうちに60ある英国自動車メーカーから推奨を受け、モーリスでは唯一の認証オイルとなった(モーリス向けオイル名:SIRROM)。 1932年 - 腐食防止剤であるAdcoidsを発売、1939年には年間400万箱製造していた。 1945年 - アレクサンダー死去、息子のジャックが引き継ぐ 1950年代 - ヨーロッパで最初のマルチグレードオイルQ5500(10W-30)を、1954年にはQ20-50(20W-50)を発売。Q20-50は1959年のミニ (BMC)の発売により売上を伸ばす。エンジンオイルをミッションオイルと兼用するミニで生じた早期の問題(過大なオイル消費、高温時の油圧不足、許容できないノイズ、ミッションの摩耗など)はQ20-50を用いる事でかなりの割合で解消したためBMCではQ20-50を推奨、Q20-50を使用していない場合は補償を行わないとしたため英国で最も販売の多いオイルとなった。 1969(1970)年 - BPにより買収され、BPのブランドとなる
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歴史(「臨床心理士及び医療心理師法案」提出準備から「公認心理師法」公布まで)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/13 15:01 UTC 版)
「公認心理師」の記事における「歴史(「臨床心理士及び医療心理師法案」提出準備から「公認心理師法」公布まで)」の解説
2005年(平成17年)文部科学省と厚生労働省を交えた協議を経た上で、臨床心理職推進側と医療心理師推進側の合意により、「臨床心理士及び医療心理師法案」の国会提出を準備(2資格1法案) 日本医師会からの見解とともに、精神科医系団体(「日本精神神経学会」「日本精神科病院協会」「日本精神神経科診療所協会」)からの直前での反対声明及び衆議院解散(いわゆる郵政解散)により、国会提出が頓挫 以降、臨床心理職推進側と医療心理師推進側の協議自体も難航 2006年(平成18年)精神科医系団体(「精神科七者懇談会」=日本精神神経学会、精神医学講座担当者会議、国立精神医療施設長協議会、日本精神科病院協会、日本精神神経科診療所協会、日本総合病院精神医学会、全国自治体病院協議会)から再度の反対声明が発表 2008年(平成20年)日本学術会議が、「学士課程における心理学教育の質的向上とキャリアパス確立に向けて」という対外報告と、「医療領域に従事する『職能心理士(医療心理)』の国家資格法制の確立を」という提言を公表 日本精神科病院協会と日本臨床心理士会との意見交換会が初めて開催され、日本精神科病院協会は、日本臨床心理士会に対して、資格化の条件として、①1資格1法案であること、②医療の場における医師の指示の明示、③「臨床」という名称を使用しないこと、を提示 「日本心理学諸学会連合(日本の心理学系学会の連合体)」が臨床心理職推進側と医療心理師推進側の協議再開に向けて働きかけることを理事会で決議 2009年(平成21年)臨床心理職推進側と医療心理師推進側との間を取り持つ形で日本心理学諸学会連合が協議の席につき、以降はこの三団体で協議を再開・継続(三団体会談) 三団体会談において、「2資格1法案」の実現を図ることは困難であるため、新しい方向性「1資格1法案」を模索せざるを得ないとの認識を共有 臨床心理士関係3団体(日本臨床心理士資格認定協会、日本臨床心理士会、日本臨床心理士養成大学院協議会)と日本心理臨床学会による臨床心理士関係4団体会合が開始 教育・発達心理関連学会と「教育・発達」心理3資格(学校心理士、臨床発達心理士、特別支援教育士)を中心として、心理職の国家資格において特定の分野に偏ることなく、教育・発達分野が適切に位置づけられるようにすることを目的に、「教育・発達」心理資格連絡協議会が発足。その後、日心連に協力する形となったが、「三団体の協議に加えてほしい」との要望は日心連にて否決(但し、2012年より新たに資格メンバーを加えた「拡大三団体会談」が開始された際には、日心連側の一員として会談に参加) 日本臨床心理士資格認定協会は、日本臨床心理士会の(1資格1法案の)方向性に反対の意を込めた見解(「いわゆる国家資格問題に関する見解」)を公表 2010年(平成22年)精神科医系団体(精神科七者懇談会)からの申し入れにより、精神科七者懇談会と三団体との心理職の国家資格化問題意見交換会を開催 「臨床心理職の国家資格化の動向」に関する日本臨床心理士養成大学院協議会の見解(1資格1法案の方向性及び内容について再検討を求める見解)に対し、日本臨床心理士会が意見を公表 三団体会談において、「基本コンセプト共同見解案」に続いて、「国家資格についての三団体共同見解(修正案)」として【資格の基本コンセプト】と【補足事項】が取りまとめられ、臨床心理士と医療心理師を1つの法案内に併記する「2資格1法案」から、統合的な心理職国家資格を新しく創設する「1資格1法案」へと方針転換 2011年(平成23年)三団体会談において、「1資格1法案」とする「共同見解(修正案)」の【資格の基本コンセプト】部分について合意に達したため、心理職国家資格創設の「要望書」として発表し、各関係機関への発信とロビー活動を開始 この要望書では、新しい心理職国家資格と医師との関係性について、「各分野共通で医師とは連携」「医療機関内のみ医師からの指示」と規定 共同通信より、「臨床心理士の国家資格化を調整中」「2005年にも準備されていたが、精神科医から競合懸念の反対声明があり国会提出できず」などの記事が配信(誤報) 2012年(平成24年)三団体主催により、「心理職の国家資格化を目指す院内集会」を衆議院第一議員会館にて開催 自由民主党の「心理職の国家資格化を推進する議員連盟」が立ち上げ(会長:河村建夫、会長代行:鴨下一郎・岸田文雄、幹事長:加藤勝信) 「心理職の国家資格化についての実務者打ち合わせ」が3回にわたって開催。自民党、民主党の若手議員、厚労省・文科省、法務省、衆議院法制局、三団体関係者が参加。名称、類似名称、要望書に未記載の経過措置、試験実施機関などについて意見交換 民主党の「心理職の国家資格化を推進する民主党議員連盟」が立ち上げ(共同代表:高木義明・仙谷由人、事務局長:大塚耕平) 2013年(平成25年)精神科医系団体(精神科七者懇談会)が総会で「心理職の国家資格化に関する見解」を承認し、公表 三団体は試験実施機関に関して、日本臨床心理士資格認定協会との協議が叶わず、その結果、三団体関係者を中心に、心理職国家資格創設後の試験・登録機関指定を目的として、「一般財団法人 日本心理研修センター」を設立 自由民主党「心理職の国家資格化を推進する議員連盟」第2回総会において、三団体会談関係者及び日本臨床心理士会関係者へのヒアリング 精神科医系団体(精神科七者懇談会)から「心理職の国家資格化に関する提言」として、「各分野共通で医師とは連携」「医療分野(※医療機関内ではない)のみ医師からの指示」を提案する見解が発表 自由民主党「心理職の国家資格化を推進する議員連盟」第3回総会において、日本臨床心理士資格認定協会へのヒヤリング。 臨床心理士の歴史と養成制度の詳しい説明がなされ、出席議員からは心理職の数はもっと多くを必要とする状況であることについての質問、および国家資格創設への協力要請の意見として「早く国家資格を作ることが重要なのでそれを考えてほしい」旨の意見が出される 2014年(平成26年) 4月自由民主党「心理職の国家資格化を推進する議員連盟」所属議員、衆議院法制局、文部科学省、厚生労働省らにより、「公認心理師法案要綱骨子(案)」の三団体に対する説明会が衆議院議員会館にて開催(説明者[法案準備担当]:山下貴司)。 自由民主党「心理職の国家資格化を推進する議員連盟」第4回総会において、衆議院法制局・関係省庁(厚生労働省、文部科学省)出席のもと、「公認心理師法案要綱骨子(案)」が公表され、三団体と共に日本臨床心理士会、日本臨床心理士資格認定協会、日本臨床心理士養成大学院協議会が総会に招かれる この骨子(案)では、「医療分野以外の全分野でも、心理的支援の対象者に係る主治医がいる場合に限り、医師からの指示を受ける」と記載されており、三団体の「要望書(2011年版)」とも精神科医系団体の「心理職の国家資格化に関する提言(2013年版)」とも食い違いがあった そのため日本臨床心理士会から改めて、「各分野共通で医師とは連携」「医療機関内のみ医師からの指示」と記載を変更する要望書を、河村建夫、山下貴司(第4回総会より議員連盟の事務局長に就任)、文部科学省、厚生労働省らに提出し、また、医療心理師推進側の全国保健・医療・福祉心理職能協会は意見として、「医療関連領域において、心理的支援の対象者に係る主治医がいる場合に限り、医師からの指示」のように表現の変更を要望 加えて、2つの職能団体は、養成課程に関する内容についても、現行の臨床心理士や欧米諸国と比較してできる限り遜色のないように、実務経験の必要期間を養成大学院の所要期間よりも長く規定することも要望 骨子(案)公表以降、各都道府県臨床心理士会や開業臨床心理士協会より、「専門性の土台となる臨床心理学という表現が明記されていないこと」、「現行の臨床心理士、もしくは、2009年11月の日本臨床心理士会代議員会において【国資格に対する当会の考え方】として呈示・決議された受験資格要件と同等以上の要件が課せられていなく、また、免許更新制の規定もないこと」、「医師の指示が医療機関の外部にまで拡大されること」等を懸念する要望書や緊急声明が出される 刑事政策や刑事法制における整合性確保等の観点から、法務省刑事局刑事法制管理官室において罰則規定関係の審議受理 5月自由民主党「心理職の国家資格化を推進する議員連盟」第5回総会において、公認心理師法案を承認 精神科医系団体(精神科七者懇談会)から「心理職の国家資格化に関する要望書」として、「医療分野以外の全分野でも、心理的支援の対象者に係る主治医がいる場合に限り、医師からの指示を受ける」と記載された条文(案)に賛成する見解が発表 この見解の中での精神科七者懇談会の主張は、これまで同懇談会が発表していた「心理職の国家資格化に関する提言(2013年版)」における主張とは文脈が異なっており、条文(案)では医師からの指示を受ける範囲を医療機関の外部にまで拡大しようとする記載になっていることについて、異存なしとして賛成を表明している 自由民主党の文部科学・厚生労働両部会の合同会議において、質疑等が活発ですぐには了承されず、議員連盟は急遽関連団体(臨士会、三団体、日精協、資格認定協会)へ招集をかけ、経緯と今後の見通しの説明を行い、関連団体からの意見を聴取。その後、再度開催された合同部会において公認心理師法案を承認 6月各党の文部科学・厚生労働部会等において、公認心理師法案の審査。審査時に、精神科七者懇談会の他にスクールカウンセリング推進協議会や都道府県臨床心理士会等の関連団体に対してもヒヤリング・意見交換を実施 日本臨床心理士資格認定協会が、各党部会(部門会議)のヒヤリング・意見交換会において、「意見報告」資料を配布 超党派の公認心理師法案の実務者協議が開催 これらの審査や協議の中で、医師からの指示を受ける範囲を医療機関の外部にまで拡大しようとする記載になっていることについて、反対意見や修正要求が出るとともに、「議論を議事録に残すべき」との指摘 与党政策責任者会議において、公明党からの指摘を踏まえ、「医療機関内や医療分野だけでなく、あらゆる分野にまで医師からの指示の影響が拡がるとする場合、学校内や企業内などにおける公認心理師の活動や対象者の利益に支障が生じることがないように、文部科学省・厚生労働省からの省令で担保する」旨の委任規定を盛り込む方向で協議が進められ、第45条に第2項を追加 第186回通常国会において、衆議院議員提出法律案第43号として、6会派(自由民主党、公明党、みんなの党、結いの党、生活の党、社会民主党)共同で公認心理師法案を提出(提出者:河村建夫、鴨下一郎、山下貴司、古屋範子、稲津久、柏倉祐司、井坂信彦、青木愛、吉川元衆議院議員) 衆議院文部科学委員会において、公認心理師法案の趣旨説明が実施(委員長:小渕優子、説明者:山下貴司) 秋の第187回臨時国会において公認心理師法案の継続審議を行うため、衆議院文部科学委員会において閉会中審査の申出を決定(同日、衆議院本会議においても閉会中審査を議決) 7月以降継続審議となった法案に関して、三団体は早期成立を要望し、日本心理臨床学会とスクールカウンセリング推進協議会は賛成の立場で、また、日本臨床心理士会は支持の立場で、法案の成立を要望 三団体共催による「公認心理師法案実現のための説明集会」と、日本臨床心理士会主催による「地方(3都市)説明会」が開催 8月日本臨床心理士養成大学院協議会と日本臨床心理士資格認定協会は連名で、「主治医の指示条項が撤廃されるか、“医師の指導”に修正されない限り、(継続審議となった)法案そのものに反対せざるを得ない」とする見解を、法案審議に関係する衆議院文部科学委員会と厚生労働委員会の議員へ送付 日本心理臨床学会第33回秋季大会の加藤勝信(衆議院議員、自由民主党「心理職の国家資格化を推進する議員連盟」幹事長)の講演において、「公認心理師の業務は直接身体に危険[直接的・積極的な危険]を及ぼすものではないと認識しています」という報告に加えて、三団体の「要望書(2011年版)」と食い違いがあった経緯として、「例えば、これから“在宅医療”を進めていく上で、空間によって規制の在り方を変えることは法文上困難であるため、施設によって分けるということではなく、主治医の有無で分けることになった」という報告と、「主治医というのは外科や内科は全く対象外で、精神科ということになりましょう」という今後の課題を報告 9月三団体・日本心理臨床学会・日本臨床心理士会の5団体は、<『公認心理師法案』早期実現のお願い>を公表 11月第187回臨時国会において、「公認心理師法案に関する請願」、「公認心理師法案一部修正に関する請願」(紹介者:小川淳也衆議院議員)が、衆議院文部科学委員会へ付託(衆議院解散に伴って審査未了) 民主党の文部科学部門と厚生労働部門の合同会議が13日に開催され、文部科学部門座長の中川正春衆議院議員より改めて修正協議等の報告があり、公認心理師法案の内容や取り扱いについて、両部門座長一任となる 三団体が、「12日の時点では、衆議院文部科学委員会理事の民主党議員が1時間の確認質疑を行い、それを議事録に残し、原案のまま通すということで、各党の了解が得られていたことから、審議入りすれば衆議院は通る状況にあった」という国会動向を17日に報告 6会派共同提出の公認心理師法案の内容について、民主党が修正を提案し、与野党合意に至ったが、第187回臨時国会会期中における衆議院解散に伴って法案は廃案 日本精神神経学会が、公認心理師法案の無修正成立を迫る要望書を、厚生労働省など関係各所に提出 三団体は、翌年1月からの通常国会に法案が再提出されることを求めることを決め、「『公認心理師法案』再提出のお願い」を公表 12月日本心理臨床学会は、「『公認心理師法案』再提出のお願い」(三団体会談の文書と同内容)を公表 日本臨床心理士会は、「『公認心理師法案』再提出のお願い」(三団体会談の文書と同内容)を公表 精神科七者懇談会が、「公認心理師法案の無修正成立の要望書」を公表 2015年(平成27年) 3月平成26年度厚生労働科学特別研究事業「心理職の役割の明確化と育成に関する研究」(主任研究者:村瀬嘉代子)の総括・分担研究報告書がとりまとめられる 自由民主党「心理職の国家資格化を推進する議員連盟」総会において、山下貴司議員連盟事務局長の司会で、河村建夫議員連盟会長、鴨下一郎議員連盟会長代行、根本匠議員連盟会長代行の挨拶に始まり、続いて関連団体(三団体会談、日本臨床心理士資格認定協会、精神科七者懇談会)の各代表者が、謝意を表明しつつ挨拶。その後、山下議員より「心理職の国家資格化を巡るこれまでの経緯」・「公認心理師法案概要」の説明と、出席議員の推進了承の発言の後、第186回通常国会に提出され、第187回臨時国会で廃案となった『公認心理師法案』を、第189回通常国会で再提出することを承認 4月精神科七者懇談会が、「公認心理師法案の無修正成立の要望書」を、衆議院・参議院の文部科学委員会・文教科学委員会及び厚生労働委員会の委員に、2日付で送付 7月精神科七者懇談会が、「公認心理師法案の無修正成立についての声明」を、関係各所に提出 第189回通常国会において、衆議院議員提出法律案第28号として、4会派(自由民主党、維新の党、公明党、次世代の党)共同で、6会派共同提出の公認心理師法案に実質的な内容の変更を伴わない形式的な修正を行った法案を、衆議院事務総長に提出(提出者:河村建夫、鴨下一郎、山下貴司、古屋範子、浮島智子、河野正美、園田博之衆議院議員)(提出の立会者:石田昌宏参議院議員) 8月日本臨床心理士養成大学院協議会と日本臨床心理士資格認定協会は連名で、「公認心理師法案についての声明」(2点[受験資格(第7条)と主治医の指示(第42条第2項)]の要望事項)を関係議員へ送付 27日の民主党文部科学部門会議(座長=平野博文衆議院議員)において、4会派共同提出の法案について法案審議を行い、小川淳也衆議院議員からの修正要望に対する取り扱い等を座長一任としたのち、与野党修正協議へ入ることを了承 9月1日、4会派共同提出の法案の本則に定める内容そのものの変更は行わないものの、民主党の提案を取り入れて、法案の附則に「資質の水準を確保するために、所要の規定を整備する」旨の配慮規定[訓示規定]を置いて委員長提案とする「公認心理師法案」を、民主党の「次の内閣」会議で了承 2日、衆議院文部科学委員会において、自由民主党、民主党・無所属クラブ、維新の党、公明党及び社会民主党・市民連合の5会派共同提案により、起草案を委員会提出の法案とすべしとの動議が提出され、山下貴司議員から趣旨説明を聴取した後、全会一致で可決(同日、4会派共同提出の法案は、提出者からの申し出により、撤回) その際、省令等制定にあたって専門性や自立性を損なうことのないように第42条第2項の運用基準を明らかにする、第7条に関する留意事項など6項目の附帯決議を全会一致で採択 3日、衆議院本会議において、全会一致で可決 7日、参議院文教科学委員会に付託 8日、参議院文教科学委員会において、提出者福井照衆議院文部科学委員長から趣旨説明を聴き、山下貴司衆議院文部科学委員長代理、下村文部科学大臣及び政府参考人(文部科学省初等中等教育局長)に対し、田村智子参議院議員(日本共産党所属)より、第42条第2項の趣旨と心理専門職の国家資格化の意義等について質疑が行われた後、全会一致で可決 その際、省令等制定による第42条第2項運用基準の明確化、第7条に関する適切な留意事項など6項目の附帯決議を全会一致で採択 9日、第189回国会において、「公認心理師法」が参議院本会議で全会一致で可決、成立 (2017年度施行の見込み) 11日、「公認心理師法」公布のための閣議決定、上奏がなされる 16日、「公認心理師法」公布
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歴史(「公認心理師法」公布後)
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「公認心理師」の記事における「歴史(「公認心理師法」公布後)」の解説
2016年(平成28年) 3月15日からの「公認心理師法」の一部施行(附則第1条ただし書)により、公認心理師試験の実施に関する事務を行う指定試験機関に関する規定などが施行 4月「公認心理師法」第10条第1項の規定に基づき、1日付けで「一般財団法人 日本心理研修センター」を指定試験機関として指定 同日、「公認心理師法」に基づき、法の施行を推進する目的で、厚生労働省障害保健福祉部精神・障害保健課の下に、文部科学省初等中等教育局健康教育・食育課から併任発令を受けた係官を交えて、「公認心理師制度推進室」を設置 日本心理研修センターが指定試験機関となったことを契機に評議員・役員を補充(1日に日本臨床心理士資格認定協会の理事2名が日本心理研修センターの理事に就任し、併せて、22日に評議員体制も改定) 9月公認心理師カリキュラム等検討会(座長=北村聖・東京大学医学教育国際協力研究センター教授)の第1回が、20日に開催[検討会の事務局は、文部科学省健康教育・食育課の協力を得て、厚生労働省公認心理師制度推進室が行うこととされている](平成28年度中に報告書とりまとめの見通し) 10月公認心理師カリキュラム等検討会の第2回が、4日に開催 11月公認心理師カリキュラム等検討会ワーキングチーム(座長=北村聖・国際医療福祉大学大学院教授)の第1回が、4日に開催 公認心理師カリキュラム等検討会ワーキングチームの第2回が、16日に開催 12月公認心理師カリキュラム等検討会ワーキングチームの第3回が9日に、第4回が22日に開催 公認心理師の養成やカリキュラム等検討会・ワーキングチームでの議論に関して、日本心理臨床学会(10月7日から)、日本神経学会(11月25日から)、日本心理学会(12月14日から)といった各関係団体が意見募集を実施 2017年(平成29年) 1月公認心理師カリキュラム等検討会ワーキングチームの第5回が、12日に開催 6月7日、「公認心理師カリキュラム等検討会」報告書を公表 9月日本学術会議が、13日に「心理学教育のあるべき姿と公認心理師養成―「公認心理師養成カリキュラム等検討会」報告書を受けて―」という提言を公表 15日、「公認心理師法施行令」と「公認心理師法施行規則」の施行とともに、「公認心理師法」が全面的に施行 11月20日、「心理職の国家資格化を推進する議員連盟」総会開催、議員連盟の名称を変更し存続を了承 12月「公認心理師法」第36条第1項の規定に基づき、11日付けで「一般財団法人 日本心理研修センター」を指定登録機関として指定 2018年(平成30年) 1月31日付けで、文部科学省及び厚生労働省から「公認心理師法第7条第3号に基づく公認心理師試験の受験資格認定の取扱い等について」及び「公認心理師法第42条第2項に係る主治の医師の指示に関する運用基準について」の通知が発出 上記の運用基準に関して、「公認心理師が行う支援行為は、診療の補助を含む医行為には当たらないが、例えば、(略)等によって、結果として医行為が含まれる可能性がある」という趣旨の考え方ではなく、「公認心理師が行う支援行為は、診療の補助を含む医行為には含まれない」という誤った趣旨の考え方をされることに加え、主治の医師の有無の確認が「合理的に推測される場合」という曖昧な表現で公認心理師の判断に委ねられている点と、「合理的な理由がある場合を除き、主治の医師の指示を尊重するものとする」という表現により合理的理由がある場合は指示を受けなくてもよいと解釈できる点にあることを含め、日本精神神経科診療所協会は3月30日付けで、日本精神神経学会は5月19日付けで、「公認心理師法第42条第2項に係る主治の医師の指示に関する運用基準についての見解」を文部科学省と厚生労働省に送付 2月第1回公認心理師試験の施行について、2月2日、4月9日及び5月24日付けで官報に掲載 3月9日、平成30年版公認心理師試験出題基準(ブループリント(公認心理師試験設計表)を含む。)を公表 9月9日、第1回公認心理師試験を実施※平成30年北海道胆振東部地震の被災状況を踏まえて、第1回公認心理師試験のうち、北海道の試験会場で実施予定であった試験を中止したため、12月16日に追加試験を実施 10月文部科学省組織令の一部を改正する政令(平成30年政令第287号)の施行に伴い、16日より公認心理師に係る事務が初等中等教育局健康教育・食育課から高等教育局専門教育課に移管 11月30日、第1回公認心理師試験の合格発表が行われる※追加試験の合格発表については、平成31年1月31日に行われた 2019年(平成31年/令和元年) 2月18日より順次、5日付けの公認心理師登録証の発送を開始 6月20日、「心理職の国家資格化を推進する議員連盟」総会が開催され、議員連盟の名称が「国民のための公認心理師制度を推進する議員連盟」に変更 8月4日、第2回公認心理師試験を実施(合格発表は9月13日) 12月成年被後見人又は被保佐人を欠格条項とする「公認心理師法」第3条第1号の規定に関して、令和元年6月14日に公布され、12月14日から施行された「成年被後見人等の権利の制限に係る措置の適正化等を図るための関係法律の整備に関する法律」により削除され、心身の故障等の状況を個別的、実質的に審査し、必要な能力の有無を判断する規定(個別審査規定)へと改めるとともに、所要の手続規定を整備 2020年(令和2年) 3月厚生労働省 令和元年度障害者総合福祉推進事業「公認心理師の養成や資質向上に向けた実習に関する調査」(国立研究開発法人 国立精神・神経医療研究センター)の報告書がとりまとめられる 9月日本学術会議が、7日に「未来のための心理学の市民社会貢献に向けて」という提言を公表 2021年(令和3年) 3月厚生労働省 令和2年度障害者総合福祉推進事業「公認心理師の活動状況等に関する調査」(一般社団法人 日本公認心理師協会)の報告書がとりまとめられる
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歴史(校地)
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「岡山県立岡山朝日高等学校」の記事における「歴史(校地)」の解説
旧制第六高等学校跡に立地しており、当時の建物では、書庫・柔道場・校門が現存している。いわゆるナンバースクールである旧制高校の跡地を新制高校が使用しているのは岡山朝日高校が全国で唯一である。
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歴史(津軽今別駅を含む)
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「奥津軽いまべつ駅」の記事における「歴史(津軽今別駅を含む)」の解説
1987年(昭和62年)10月27日:自治省(当時)が青森県や今別町などによる新駅建設費約9260万円の財政負担を承認し、新駅開業が内定。この時点での仮称は「津軽二股駅」。 1988年(昭和63年)3月13日:JR北海道海峡線(津軽海峡線)の開通に伴い、津軽今別駅(つがるいまべつえき)開業。旅客のみ取扱い。当時は一部の快速「海峡」のみ停車し、特急「はつかり」は通過していた。 2002年(平成14年)この年、東北の駅百選に選定される。JR北海道の駅で東北の駅百選に選定された駅当駅が唯一であった。 12月1日:快速「海峡」が廃止され、津軽海峡線の普通列車が消滅したことに伴い、「はつかり」から改称された特急「白鳥」、「スーパー白鳥」のみの停車駅となる。 2007年(平成19年)9月28日:北海道新幹線の奥津軽保守基地造成などの工事安全祈願祭が行われる。 2010年(平成22年)12月4日:特急「白鳥」のみの停車駅となる。同列車の使用車両はJR東日本所属であるため、自社車両が停車しない駅になった。 2011年(平成23年)11月18日:北海道新幹線奥津軽駅(仮称)路盤他工事の安全祈願挙行。 2012年(平成24年)4月26日:鉄道建設・運輸施設整備支援機構が青森県および今別町に対し、駅舎デザイン案を提示。 5月29日:今別町が駅舎デザイン推薦案を決定し、青森県へ報告。 6月8日:鉄道建設・運輸施設整備支援機構が駅舎デザインを決定。 2013年(平成25年)4月26日:今別町がJR北海道本社に対して、駅名を奥津軽いまべつ駅にするよう要望。 6月4日:奥津軽駅(仮称)新築工事安全祈願挙行。 10月18日:上り線の線路を切り替え、上り仮設ホームの使用開始。 10月25日:下り線の線路を切り替え、下り仮設ホームの使用開始。 2014年(平成26年)3月15日:海峡線の竜飛海底駅、吉岡海底駅、知内駅の廃止により、海峡線唯一の途中駅となる。また、当駅 - 木古内駅間の駅間距離(営業キロ:74.8 km)が、JR旅客6社の鉄道路線における隣接駅間の最長距離となる。さらに、青森県内に所在する唯一のJR北海道の旅客駅となる。 6月11日:北海道新幹線開業後の駅名を奥津軽いまべつ駅に決定。 2015年(平成27年)6月30日:奥津軽いまべつ駅建築工事が竣工。 7月31日:「奥津軽いまべつ開業準備駅」設置。 8月10日:北海道新幹線関連工事に伴い、同日から津軽今別駅が全列車通過扱いとなり旅客営業休止、同月中に仮設ホームも撤去。 2016年(平成28年)3月22日:津軽今別駅を含む海峡線新中小国信号場 - 木古内駅間の架線電圧を交流20,000 V・50 Hzから交流25,000 V・50 Hzに昇圧し、自動列車保安装置をATC-L型からDS-ATCに変更。 3月26日:同日付で次のように改廃。海峡線津軽今別駅廃止 北海道新幹線の新青森駅 - 新函館北斗駅間開業に伴い、同一地点に奥津軽いまべつ駅が開業。当駅を含む新中小国信号場 - 木古内駅間の82.1 km区間が三線軌条による新幹線(標準軌、軌間:1,435 mm)・在来線(狭軌、軌間:1,067 mm)の共用区間となる。 2020年(令和2年)3月14日:新幹線eチケットサービス開始。 2021年(令和3年)度内:話せる券売機を導入。
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歴史(近代)
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明治時代になると、1885年に当時の文部卿森有礼によって、儒教的な道徳教育を規制する命令が出された。 「実学」の重視を主張する福沢諭吉は儒教を妄説とし、厳しく批判した。また、津田左右吉は『支那[シナ]思想と日本』『文学に現われたるわが国民思想の研究』などで儒教など中国の影響を排除した文化史を描こうとした。 ウェーバーやマルクスの研究が盛んになると「アジア的停滞性」を生んだ存在としての評価がされるようになり、歴史教科書等でもこうした評価が定着している。和辻哲郎は徳川家康の儒教政策や鎖国政策が最終的に敗戦につながったとした。 一方で、元田永孚ら宮中の保守的な漢学者の影響によって、1890年制定の教育勅語などに儒教の忠孝思想が取り入れられ、奨励された。井上哲次郎は江戸時代の儒学を扱った三部作『日本陽明学派[古学派,朱子学派]之哲学』を著して、この分野における研究を拓いた。 渋沢栄一は『論語と算盤』を著し、『論語』を拠り所に倫理と利益の両立を掲げる「道徳経済合一説」という理念を打ち出し、近代経済と儒教思想の融合を図ったが、広く普及することはなかった。また、戦前戦後の日本の政財界に隠然とした影響を与えた安岡正篤は、正統な儒教思想の後継であるとは言い切れないが、公的には陽明学者と称した。 当初から学問として紹介された日本では宗教として意識されることは少なく、道徳的・文化的な影響も韓国ほど強くはない[要出典]。儒教を宗教として捉える研究者は少数派であるが、学術研究において儒教の本質を宗教としてとらえる道を開いたのは、山下龍二・加地伸行である。山下は天地鬼神や祖先への祭祀を儒教の中心に据え、加地は宗教を死を語るものと定義して祖先崇拝を儒教の本質としている。ただし、こうした儒教への解釈については池田秀三などから批判が寄せられている。 『論語』の一節や朱子学の教えが引用されることは多く、道徳や倫理の古典として受け入れられている。特に『論語』は日本語訳や解説書が多数刊行されているなど人気が高い。 現代の文化人類学者ホフステッド(ヘールト・ホフステッド、オランダ人)などによる実証的研究などでは、東アジアの「儒教文化圏」が国際比較上は同種の文化圏として認識される。
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歴史(日本法人)
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1996年 - デジタルガレージが米国インフォシーク社と業務提携し、日本での事業を開始。 1998年11月 - 日本法人としてインフォシークジャパン株式会社を設立。 1999年6月 - 米インフォシーク社はデジタルガレージとの契約を解消し、新たに米国本社100%子会社として株式会社インフォシークを設立。 2000年12月 - 日本法人が楽天に買収され、同社の100%子会社となる。 2001年7月 - トライネット(後の平成電電)の無料ウェブサイトホスティングサービス"freeweb"を買収、「infoseek isweb」としてサービスを開始。 2002年10月 - 無料ウェブサイトホスティングサービス事業の株式会社フープス(サイバーエージェントとオン・ザ・エッヂの共同設立会社)を買収し、iswebに併合する。 2003年9月 - ライコス(日本法人)とともに親会社の楽天に吸収合併される。ポータルサイトはinfoseekブランドで継続。
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歴史(年表)
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1926年(大正15年)1月21日 - 各務原鉄道の補給部前駅(ほきゅうぶまええき)として開業。当時は終着駅で、現在地より岐阜方400mの位置にあった。 7月7日 - 各務野駅(かがみのえき・2代目)に改称。従来の「各務野駅」は「新那加駅」と改称。 8月1日 - 各務原鉄道の延伸開業により中間駅となる。 1931年(昭和6年)6月27日 - 各務補給部前駅(かがみほきゅうぶまええき)に改称し現在地に移転。 1935年(昭和10年)3月28日 - 合併により名岐鉄道の駅となる。 8月1日 - 社名変更により名古屋鉄道の駅となる。同時に航空廠前駅(こうくうしょうまええき)に改称。 1938年(昭和13年)12月1日 - 防諜のため三柿野駅(みかきのえき)に改称。 1945年(昭和20年)6月22日 - 各務原空襲により駅舎被災。 1958年(昭和33年) - 駐留軍側線廃止。 2007年(平成19年)3月14日 - 共通SFカードシステムトランパス導入。 2011年(平成23年)2月11日 - ICカード乗車券「manaca」供用開始。 2012年(平成24年)2月29日 - トランパス供用終了。 2021年(令和3年)5月22日 - ダイヤ改正に伴い、当駅を発車するミュースカイがなくなる。
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