文化10年 (みずのととり 癸酉)
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年(年号) |
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●1797年 (寛政9年) | ■湯島聖堂を昌平坂学問所と改称 |
●1803年 (享和3年) | ■江戸開府200年 |
●1806年 (文化3年) | ■芝の大火 |
●1808年 (文化5年) | ■フェートン号事件 |
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●1825年 (文政8年) | ■異国船打払令 |
●1828年 (文政11年) | ■シーボルト事件 |
●1829年 (文政12年) | ■江戸大火 |
●1830年 (天保元年) | ■伊勢御蔭参り大流行 |
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1813年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/06 14:27 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動千年紀: | 2千年紀 |
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世紀: | 18世紀 - 19世紀 - 20世紀 |
十年紀: | 1790年代 1800年代 1810年代 1820年代 1830年代 |
年: | 1810年 1811年 1812年 1813年 1814年 1815年 1816年 |
1813年(1813 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。
他の紀年法
- 干支 : 癸酉
- 日本(寛政暦)
- 中国
- 朝鮮
- ベトナム
- 仏滅紀元 : 2355年 - 2356年
- イスラム暦 : 1227年12月27日 - 1229年1月8日
- ユダヤ暦 : 5573年4月29日 - 5574年4月8日
- ユリウス暦 : 1812年12月20日 - 1813年12月19日
- 修正ユリウス日(MJD) : -16756 - -16392
- リリウス日(LD) : 84085 - 84449
カレンダー
できごと
- 1月24日 - ロンドンでフィルハーモニック協会(現・ロイヤル・フィルハーモニック協会)発足[要出典]。
- 1月28日 - ジェーン・オースティンの小説「高慢と偏見」が出版。
- 6月6日 - 米英戦争: ストーニー・クリークの戦いでイギリス軍が勝利。
- 6月21日 - スペイン独立戦争: ビトリアの戦いでウェリントン率いる英西葡三カ国連合軍が勝利。
- 6月24日 - 米英戦争: ビーバー・ダムズの戦いでイギリス軍が勝利。
- 8月26日 - ナポレオン戦争: ドレスデンの戦いがはじまる。
- 9月10日 - 米英戦争: エリー湖の湖上戦で米軍勝利。
- 10月5日 - 米英戦争: テムズの戦いで米軍勝利。
- 10月16日 - ナポレオン戦争: ライプツィヒの戦いがはじまる。
- 10月24日 - ロシア帝国とガージャール朝がゴレスターン条約を締結。
- 11月11日 - 米英戦争: クライスラー農園の戦いで英国カナダ軍が勝利。
芸術・文化
1813年の音楽
誕生
- 1月4日 - アレクサンダー・フォン・バッハ、政治家(+ 1893年)
- 1月19日 - ベッセマー、イギリスの発明家(+ 1898年)
- 1月21日 - ジョン・C・フレモント、探検家(+ 1890年)
- 2月12日 - ジェームズ・デーナ、地質学者・鉱物学者(+ 1895年)
- 2月14日 - アレクサンドル・ダルゴムイシスキー、作曲家(+ 1869年)
- 3月11日(文化10年2月9日)- 藤堂高猷、第11代津藩主(+ 1895年)
- 3月17日 - カメハメハ3世、ハワイ王(+ 1854年)
- 3月18日 - フリードリヒ・ヘッベル、作家(+ 1863年)
- 3月19日 - リヴィングストン、イギリスの探検家・宣教師(+ 1873年)
- 4月7日(文化10年3月7日)- 真木保臣、尊皇攘夷派志士(+ 1864年)
- 4月23日 - スティーブン・ダグラス、アメリカ合衆国上院議員(+ 1861年)
- 4月27日(文化10年3月27日)- 溶姫、第13代加賀藩主前田斉泰の正室(+ 1868年)
- 5月5日 - キェルケゴール、デンマークの哲学者(+ 1855年)
- 5月10日 - モンゴメリー・ブレア、アメリカ合衆国郵政長官(+ 1883年)
- 5月13日 - ロト・モリル、第31代アメリカ合衆国財務長官(+ 1883年)
- 5月22日 - リヒャルト・ヴァーグナー、ドイツの歌劇作曲家(+ 1883年)
- 7月12日 - クロード・ベルナール、生理学者(+ 1878年)
- 8月4日(文化10年7月9日)- 酒井忠義、大名、小浜藩第12代藩主(+ 1873年)
- 8月5日 - イーヴァル・オーセン、言語学者・文献学者・詩人(+ 1896年)
- 8月18日(文化10年7月23日)- 池田草庵、儒学者(+ 1878年)
- 9月19日 - クリスチャン・H・F・ピーターズ、天文学者(+ 1890年)
- 10月2日(文化10年9月9日)- 伴林光平、国学者・歌人(+ 1864年)
- 10月5日 - エルンスト・ハーベルビアー、作曲家・ピアニスト(+ 1869年)
- 10月10日 - ヴェルディ、イタリアの作曲家(+ 1901年)
- 10月17日 - ゲオルク・ビュヒナー、劇作家(+ 1837年)
- 11月15日 - ジョン・オサリヴァン、コラムニスト(+ 1895年)
- 11月29日 - フランツ・ミクロシッチ、言語学者(+ 1881年)
- 11月30日 - シャルル=ヴァランタン・アルカン、作曲家(+ 1888年)
- 12月5日 - ゲンナジー・ネヴェリスコイ、航海者(+ 1876年)
- 12月19日 - トーマス・アンドリューズ、化学者(+ 1885年)
- 12月29日 - カレル・サビナ、作家、ジャーナリスト(+ 1877年)
- 月日不明 - スティーヴン・マロリー、アメリカ合衆国海軍長官(+ 1873年)
- 月日不明 - 月照、幕末の僧・尊皇攘夷派(+ 1858年)
崩御・死去
- 4月10日 - ジョゼフ=ルイ・ラグランジュ(* 1736年)
- 4月27日 - ゼブロン・パイク、軍人・探検家(* 1779年)
- 7月31日(文化10年7月5日) - 蒲生君平、儒学者(*1768年)
- 8月12日 - サミュエル・オズグッド、第4代アメリカ合衆国郵政長官(*1748年)
- 10月19日 - ユゼフ・アントニ・ポニャトフスキ、ポーランド出身のフランスの軍人・元帥(* 1763年)
- 12月24日(文化10年閏11月2日) - 後桜町天皇、第117代天皇(*1740年)
関連項目
1813年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/12 00:40 UTC 版)
1813年1月、アメリカ軍は2隻のブリッグ艤装コルベットと数隻の他種艦艇の建造をプレスク・アイルで始めた(プレスク・アイルは現在のエリー市にあり、フランス語で半島の意味、文字通り読めば「島と同様」である)。オリバー・ハザード・ペリー海軍大佐がこれより少し前にエリー湖の指揮官に指名されており、3月の末にプレスク・アイルに到着した。ペリーはプレスク・アイルの防御の手配をし、オンタリオ湖に行ってそこのアメリカ艦隊の指揮官であったアイザック・チョウンシー海軍准将から水兵を借りた。ペリーはアメリカ軍のスクーナーと砲艇でジョージ砦の戦いを指揮し、5月末にイギリス軍がエリー砦を放棄していたので、アメリカの艦船が自由に動けるようになったブラック・ロックに行った。ペリーは続いて船隊と共にナイアガラに向かい、数日間活発な作戦行動を起こった後に、プレスク・アイルの湖岸に戻った。 一方、イギリス海軍のロバート・ヘリオット・バークレイ中佐はエリー湖のイギリス船隊の指揮官に任命された。バークレイはアマーストバーグへの陸路を退屈な旅を強いられ、6月10日にやっと到着した。同行したのは一握りの士官と水兵のみであった。それにも拘わらず、バークレイは2隻の艦船で出港した。まずプレスク・アイルでペリーの基地を観察し、2,000名の民兵、大砲および堡塁で守られていることが分かった。続いてエリー湖の東端に向かい、ブラック・ロックから向かっているアメリカの艦船の動きを阻止しようとした。しかし霞が掛かっており、見落としてしまった。 7月から8月に掛けては、アマーストバーグでコルベット艦HMSデトロイトの完成を急ぎ、船隊戦力の増強を図った。バークレイは、オンタリオ湖で指揮を執っているジェイムズ・ルーカス・ヨー准将に対して、繰り返し兵士と物資を送ってくれるように依頼したが、送られてきたものはわずかであった。デトロイトの前線でイギリス陸軍を指揮するヘンリー・プロクター少将は、増援が無ければプレスク・アイルを攻撃しないと言って寄越し、挙げ句にステファンソン砦の戦いでは大きな損失を被ってしまった。 バークレイはプレスク・アイルの封鎖を続けていたが、物資の不足と悪天候のために7月29日に解除しなければならなくなった。バークレイが4日後に戻ってきてみると、港の入り口とは砂州を隔てた向こう側にペリーがその船隊の大半を率いて活動中であった。これは疲れる仕事であった。全ての舟艇から大砲を取り外し、その大半を「キャメル」(バラストを空にしたバージやはしけ)の間に上げなければならなかった。ペリーの2隻の大きなブリッグは戦闘の用意ができていなかったが、砲艇や小さなブリッグが自信ありげに戦列を形成していたので、バークレイはデトロイトの完成まで待つことにして引き上げた。 ペリーはその船隊の艤装を済ませ、大砲を搭載し終わると、湖を支配した。バークレイはアマーストバーグへ物資を運ぶことが出来なくなったので、その水兵、プロクターの軍隊および大部隊のインディアン戦士とその家族は直ぐに物資が不足するようになった。バークレイは再び出港してペリーと一戦を交えるしか選択肢が無くなった。
※この「1813年」の解説は、「エリー湖の湖上戦」の解説の一部です。
「1813年」を含む「エリー湖の湖上戦」の記事については、「エリー湖の湖上戦」の概要を参照ください。
「1813年」の例文・使い方・用例・文例
- 米国の牧師で、奴隷制度の廃止の指導者(1813年−1887年)
- フランスの生理学者で、消化管の分泌物と肝臓のグリコーゲン機能の研究で知られる(1813年−1878年)
- 英国の発明者、冶金学者で、ベッセマー法を開発した(1813年−1898年)
- イタリア人の印刷業者で、ボドニ体を考案した(1740年−1813年)
- アメリカの石版画家で、彼のパートナーのジェームズ・アイビスと、カリヤー&アイビスと署名した何千もの版画を製作した(1813年−1888年)
- 米国の探検家で、アメリカ西部とノースウェストの大部分の地図を作った(1813年−1890年)
- ドイツ人の劇作家(1813年−1863年)
- 一般的にニーチェと共に考えられる、実存主義の創始者であるデンマークの哲学者(1813年−1855年)
- ロシアの陸軍元帥で、ナポレオンに対するロシアの抵抗を指揮した(1745年−1813年)
- アメリカ革命の指導者で、大陸会議をフランス公使として務めた(1746年−1813年)
- スコットランド人の宣教師、探検家で、ザンベジ川とビクトリア滝を発見した(1813年−1873年)
- 米国の医師で、1863年に女性のための医学学校を設立した(1813年−1888年)
- 英国の教育者で、音声の速記システムを発明した(1813年−1897年)
- ショーニー族の有名な酋長で、増え続ける白人入植者に対抗するためインディアンの諸部族を結びつけようとした(1768年−1813年)
- イタリアのオペラ作曲家(1813年−1901年)
- ドイツ人のオペラ作曲家で、劇とショーと音楽を融合したミュージカル劇の創案者(1813年−1883年)
- 米国のスコットランド人の鳥類学者(1766年−1813年)
- 英国の建築家(1746年−1813年)
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