ナポレオン【Napoléon】
読み方:なぽれおん
(〜 Bonaparte)(1世)[1769〜1821]在位1804〜1814、1815。コルシカ島の生まれ。砲兵将校としてフランス革命に参加。イタリア派遣軍司令官として勝利を得、1799年のクーデターで執政、1804年皇帝となる。ヨーロッパを征服したが、対英封鎖に失敗、ロシア遠征にも失敗。1814年退位してエルバ島に流される。翌年帰国し、皇帝に復したがワーテルローの戦いに敗れ、セントヘレナ島に流されて没した。ナポレオン法典の編纂、教育制度の設立など、近代化に功績を残した。
[補説] 「奈破崙」とも書く。
(Charles Louis 〜 Bonaparte)(3世)[1808〜1873]在位1852〜1870。
の甥(おい)。1848年に大統領。1851年クーデターで議会を解散。翌年、憲法を制定して皇帝となり第二帝政を開く。1870年普仏戦争に敗れて退位、英国に亡命。ルイ=ナポレオン。
フランス映画。ガンスの監督・脚本による白黒の無声映画。
の半生を描く。3台のカメラで撮影した映像を三つのスクリーンで上映する「トリプルエクラン」という手法で撮影された。1927年に撮影済み部分のみで初公開された後、オリジナルフィルムの多くが散逸。その後ケビン=ブラウンローにより収集・復元されたフィルムの配給権をフランシス=コッポラ監督が買い取り、フルオーケストラの音楽をつけ、1981年に公開した。
2 トランプゲームの一。中の一人がナポレオンとなって副官を指名し、他の者は連合軍となって対抗し合い、取り札の多いほうが勝ちとなる。
ナポレオン
ナポレオン
ナポレオン・ボナパルト
(ナポレオン から転送)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/07/18 07:11 UTC 版)
ナポレオン・ボナパルト(フランス語: Napoléon Bonaparte、別名(1794年以前): ナポレオーネ・ディ・ブオナパルテ、Napoleone di Buonaparte、1769年8月15日 - 1821年5月5日)は、フランス革命期の軍人、革命家で、フランス第一帝政の皇帝に即位してナポレオン1世(フランス語: Napoléon Ier、在位:1804年 - 1814年、1815年)となった。1世から7世まで存在するが、単にナポレオンと言えばナポレオン1世を指す。
注釈
- ^ フランス名ではシャルル・マリ・ボナパルト。しばしば貴族名の定冠詞をつけたディ・ブオナパルテまたはド・ボナパルトとも名乗ったり、署名したりしている。
- ^ コルシカ語: 「Nabulione Buonaparte」。コルシカ語はイタリア語系の方言のなかでもかなり特殊で、「p」表記がbの発音に、「o」表記がuの発音に、なるなど独特の発音になるために表音表記ではこうなる。当時、コルシカ島では文語はラテン語がまだ使われており、実際の表記は表音とさらに異なって書くときは「Nabulion」とラテン語風となり、家族の一般的呼び名は「ナブリオ」になる。幼くしてフランス本土に渡ってフランス語を勉強するようになってからフランス語で書くイタリア語人名表記を使うように指導された。
- ^ 「ナポレオン(ナブリオーネ)」との名が付けられた3番目の子供で、同名の夭折した長兄が一人いる。一つ上の次兄もジョゼフ・ナポレオン(ジュゼッペ・ナブリオーネ)。またこのナポレオンという名前は伯父からとったもの。
- ^ 騎兵科は主に裕福な名門貴族の登竜門であり、彼らと同じ土俵に立てば出世の見込みがなかったため。他にも後に友人となるマルモンなども中産階級出身であり、身分や財産よりも学業や実務能力が重んじられる道を選んでいる。他の選択肢としては、数学が得意だったことから、天文学や測量などの専門知識が求められる海軍も考えていた。
- ^ これはルソーが『社会契約論』の中で、コルシカ島を革命が起こり憲法が成立する余地があるとした。若い頃のナポレオンはコルシカ民族主義者であった。
- ^ ナポレオンのフランス語は青年期まで、イタリア語の一方言であるコルシカ訛りがかなりはっきりとあった。前述のようにコルシカ語ではいくつかのアルファベットの表記が音と異なるため、特に固有名詞で言い間違いが多かったが、皇帝になってからは特にそれを誰も注意しなかった。
- ^ この頃はまだ准将の扱いだった。(「ルイ=ニコラ・ダヴー」参照。
- ^ フランス革命軍では将軍のランクを廃止したため、少将、中将、大将といった階級は存在しない。
- ^ 国内軍は治安維持を任務とする方面軍と同格の軍組織であり、国軍の総司令官という意味ではないので注意されたい。
- ^ 当時の北イタリアはオーストリアの支配を受けており、市民革命を成し遂げた新しい秩序の国から来たナポレオンの軍隊は、市民から解放軍として大きな歓迎を受けたといわれる。
- ^ この遠征に関しては、イギリスの海軍の力をそぐための有効策であったかどうか疑問視する見方もある。対イギリス作戦のためというのは口実でこれまでの戦勝に自信を深めていたナポレオンが自らを古代ギリシアの英雄アレクサンドロス大王、古代ローマの英雄ユリウス・カエサルになぞらえたかったために言い出したものであり、イタリア戦線で独断でオーストリアとの講和交渉を始めるなどしたナポレオンを総裁政府も疎んじるようになっていたため厄介払いとしてそうした荒唐無稽な遠征を政府も容認したのだとみる見方もある。ナポレオンは、アレクサンドロス大王がしたのと同じように、考古学者を165人も同行させていた。このときにロゼッタ・ストーンが発見されたことはよく知られている。
- ^ 補給路も断たれペストなどの伝染病の中に残されたナポレオン軍の兵はこのあと2年近く抗戦した後、オスマン帝国軍とイギリス軍に降伏することとなる。
- ^ 1803年には、1フラン=10デシム=100サンチームという新しい通貨制度を制定した。1フランは純銀で約4.5グラムであった。この、いわゆるジェルミナール・フランは以後第一次世界大戦後まで採用されていた。
- ^ 1808年には刑事訴訟法、1810年には刑法を定めるなど法制を逐次整備し、1810年頃までには法体系を確立した。
- ^ 全国を数個の大学管区に分割し、大学管区の中に、県ごとに中等学校、師範学校を置き、さらに小学校を多数設置した。そして教員不足を補うために、政治的妥協を図って聖職者による教育活動を許した。
- ^ 道路網、運河、港湾などの改修は、商工業の発展だけでなく軍事活動にも関わるものであり、ベルギー・オランダ、イタリア方面にまでひろがった広大な領土を支配するため全国に派遣された100人近い知事の最大の業務のひとつは土木建設だった。知事たちの重要な業務には警察業務もあり、迅速な情報伝達のために「テレグラフ」網がパリを中心として東西、南北に敷設された。手動で腕木を動かして信号を送るシグナルが数キロメートルおきに立てられ、暗号文が伝達された。
- ^ 1808年にはナポレオン軍は再び教皇領に侵入し、この時には教皇領をフランス領に接収し、ティブル県およびトラジメーヌ県を置いた。ここに至ってピウス7世はナポレオンをローマ教会から破門とする。ナポレオンはこれに対してピウス7世を北イタリアのサヴォナに監禁した。教皇がローマへ戻れるのはナポレオン退位後、1814年になってからである。
- ^ かつて広大な領土を有していたスウェーデン王国は、カール12世の時代にロシアと戦ったものの、やはり焦土作戦と冬将軍に苦しめられた。そして、カール12世自身はポルタヴァの戦いに敗れて黒海北岸にあるオスマン帝国領に亡命した。1718年にカール12世が死ぬと、スウェーデンは一気に弱体化した。
- ^ 『所さん&おすぎの偉大なるトホホ人物事典』第24回ナポレオンと2人の妻 テレビ東京
- ^ ラス・カーズの『セント=ヘレナ覚書』は日本語訳が刊行されている(小宮正弘編訳、潮出版社、2006年3月、ISBN 978-4-267-01710-0)。ほか、ナポレオンの従僕のルイ・ジョゼフ・ナルシス・マルシャン(1791年-1876年)の回想も抄訳されている(『ナポレオン最期の日 皇帝従僕マルシャンの回想』(藪崎利美訳、MK出版社、2007年、ISBN 9784990208219)。
- ^ 「ナポレオン謀殺ミステリー」ディスカバリーチャンネルで放送。[要検証 ]
- ^ 戦略モードと会戦モードの二つがある
- ^ a b ナポレオンは登場するが、ナポレオニックゲームではない、またはその要素が極めて少ない
- ^ Talon soft社のBattlegroundシリーズの復刻・移植版
出典
- ^ “ナポレオンの冠から除かれた金細工の葉、8000万円超で落札 仏”. AFPBB News. (2017年11月20日) 2020年12月2日閲覧。
- ^ “19世紀後半、黒船、地震、台風、疫病などの災禍をくぐり抜け、明治維新に向かう(福和伸夫)”. Yahoo!ニュース. (2020年8月24日) 2020年12月2日閲覧。
- ^ a b c d ニューマン 2005, p. 47.
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- ^ 両角 1998, p. 260.
- ^ ヒルマン博士の「ナポレオン1世の神経性内分泌異常症候群」およびフリュジェ博士の「脳下垂体異常」[11]。
- ^ キャシー・ニューマン 著、長坂邦宏 編「毒をめぐる10の物語」『ナショナルジオグラフィック日本版』第11巻、第5号、日経BP、46-47頁、2005年5月。『2005年5月号』
- ^ “Napoleon 'killed by his doctors'” (English). BBC News. (2004年7月22日) 2014年4月12日閲覧。
- ^ 「没後200年 ナポレオン 揺れる評価」『読売新聞』朝刊2021年8月31日(文化面)
- ^ “犬の名前「イトラー」に町長が拒絶反応、その理由は フランス”. AFPBB News. (2014年9月6日) 2014年9月6日閲覧。
- ^ MUFFAT, Sophie (2018年10月). “LA VIE EXTRAORDINAIRE DU COCHON NAPOLÉON” (フランス語). Fondation Napoléon. 2021年5月30日閲覧。
- ^ 『アメリカ海軍――戦略と戦力の全貌』(教育社[入門新書]、1978年)
- ^ 『現代に生きる故事ことわざ辞典』(宮越賢編、旺文社)p.422
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- ^ 『現代に生きる故事ことわざ辞典』(宮越賢編、旺文社)p.433
- ^ 『現代に生きる故事ことわざ辞典』(宮越賢編、旺文社)p.435
- ^ a b 『世界の旅路 くにぐにの物語2 フランス』(千趣会 1978年6月1日)p.190
- ^ 『世界の旅路 くにぐにの物語2 フランス』(千趣会 1978年6月1日)p.191
- ^ 『ナポレオン言行録』(オクターヴ・オブリ編、岩波文庫)p.252。
- ^ 『ナポレオン言行録』(オクターヴ・オブリ編、岩波文庫)p.258
- ^ ヘーゲル 1975[要ページ番号]
ナポレオン(Napoleon)
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「フォスターズ・ホーム」の記事における「ナポレオン(Napoleon)」の解説
エドガーがダッチェスたちを捨ててきた郊外に住む老犬。ブラッドハウンド種。ラファイエットとどちらがリーダーであるか言い争っている。
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ナポレオン(Lilian Hale)
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「ウィッチ -W.I.T.C.H.-」の記事における「ナポレオン(Lilian Hale)」の解説
コーネリアの家で飼われている猫。原作コミックでは至って普通のネコ。アニメ版ではしゃべることができ、リリアンが地球の心だとコーネリアに教える。リリアンの力を分け与えられて大きな獣の姿に変身できるようになった。
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ナポレオン(NapoléonBonaparte)
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「テメレア戦記」の記事における「ナポレオン(NapoléonBonaparte)」の解説
フランス皇帝。史実のナポレオン・ボナパルトと同一人物。急進的かつ革新的な戦略によって戦果を上げ続けている。リエンの担い手となってからは、中国式のドラゴン活用術を自国の空軍に取り入れ、陸海に及ぶ多角的な戦術を展開し、形骸化した戦法に頼った諸外国の軍隊を圧倒している。
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ナポレオン(ハーフハンター、デミハンター)
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「懐中時計」の記事における「ナポレオン(ハーフハンター、デミハンター)」の解説
ハンターケースの中央部分がドーナツ型に抜けていて(またはガラス張りになっていて)、蓋を閉じた状態でも針の一部が見えて時刻を読めるタイプの蓋付き懐中時計の総称。名前の由来はナポレオン・ボナパルトが時間を見るためにいちいち時計の蓋を開けるいとまも惜しいほど多忙だったことから、蓋を閉じたまま時間が分かるハーフハンターの懐中時計を使用していたという逸話から(あるいはナポレオン自身が発案という説もあるが、史実から見てナポレオンが登場する前にすでにデミハンターは存在していた)。
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ナポレオン(Napoleon)
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「アウトロウズ」の記事における「ナポレオン(Napoleon)」の解説
本名Mutah Beale。ヤキ・カダフィの幼馴染で、名前はフランスのナポレオンから。
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ナポレオン(フランス・パリ駅)
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「桃太郎電鉄WORLD」の記事における「ナポレオン(フランス・パリ駅)」の解説
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「ナポレオン」の例文・使い方・用例・文例
- ナポレオンの統治下で
- ナポレオンの統治時代に
- ナポレオンは背が低かった
- ナポレオンと呼ばれている
- 彼はナポレオンと呼ばれている
- ナポレオンは権威がある男だった。
- ナポレオンは軍隊をロシアに進めた。
- ナポレオンはセントヘレナ島へ流された。
- ナポレオンはエルバ島に1814年に追放された。
- ナポレオンは、イギリス人を商人の国民と呼んだ。
- ナポレオンの軍隊はモスクワに進軍した。
- ナポレオンの軍隊は1815年にワーテルローの戦いに敗れた。
- ナポレオンの軍勢は今や進撃し、大きな戦いが始まる。
- ナポレオンの一生はすばらしいドラマだった。
- ナポレオンが今世紀に生まれていたら、何ができただろう?
- この戦いの後ナポレオンはヨーロッパの支配者になった。
- ナポレオンは 1814 年にエルバ島に流された.
- ウェリントンはワーテルローでナポレオンに立ち向かった.
- 野心を抱くナポレオン.
- ナポレオン軍は 6 月 24 日徒歩および馬でワルシャワを発した.
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