戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/27 08:06 UTC 版)
テキサス・テック大学のフォーサイス准教授は、アレティウムでローマは敗北を被り、司令官一人と七人のトリブヌス・ミリトゥム (司令官に次ぐ地位)、13000人の兵士を失ったとした。彼はこの結論をヒッポの聖アウグスティヌスとパウルス・オロシウス(英語版)の著書から導き出している。しかしながら、この二人が書いたのはこの戦いから700年以上後の、五世紀前半である事を明記しておかなければならないだろう。 彼らはキリスト教の聖職者であり、この戦いについて書かれた二人の著書はそもそも、異教時代には多発していた災厄がキリスト教によっていかに改善したかを示すのが狙いであった。オロシウスはアウグスティヌスに勧められて『異教徒に反論する歴史』を書き上げ、その内容は『神の国』と酷似したものとなっている。 彼らはルカニア人、ブルティウム人、サムニウム人、エトルリア人、そしてセノネス族の大連合について書いているが、ありえない事で、サムニウム人、エトルリア人、ウンブリイ族とセノネス族の連合であればこの十数年前の第三次サムニウム戦争中に実現している。 これらのことや彼らの目的を精査すると、記述の信憑性には疑いの余地があり、更に付け加えると、その年の執政官については触れているものの、アレティウムの名は登場しない。 聖アウグスティヌス「ルカニア人、ブルティウム人、サムニウム人、エトルリア人、そしてガリア人セノネス族が一度に反ローマで立ち上がり、まずは使者を殺し、プラエトルの指揮するローマ軍を打ち倒し、司令官と七人のトリブヌス、兵士13000人を剣の餌食とした」 オロシウス「ドラベッラとドミティウスが執政官の年、ルカニア人、ブルティウム人とサムニウム人はエトルリア人、ガリア人セノネス族と連合し、ローマにまた反旗を翻そうとした。ローマはガリア人に思いとどまらせようとしたが、使節は殺されてしまった。プラエトル、カエキリウスはこの無法に報いるため軍団を率い、これらの蜂起を粉砕しようとしたが、ガリア-エトルリア連合軍に逆撃され、討ち死にしてしまった。七人のトリブヌスと多くの貴族が殺され、13000人の兵たちも同様に死を迎えた」
※この「戦果」の解説は、「アレティウムの戦い」の解説の一部です。
「戦果」を含む「アレティウムの戦い」の記事については、「アレティウムの戦い」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/06 04:26 UTC 版)
「ヴォルフ (仮装巡洋艦・2代)」の記事における「戦果」の解説
15ヶ月間の航海で「ヴォルフ」は、直接攻撃により14隻(38,391総トン)の船を、敷設した機雷により13隻(75,888総トン)の船を沈めた。 直接の戦果年月日船名形式国籍総トン数結果'17年1月27日 Turritella 貨物船 イギリス 5.528 拿捕後「イルティス」として機雷敷設に使用 英艦に発見されたため3月15日自沈 '17年3月1日 Jumna 貨物船 イギリス 4,152 3月4日に沈没 '17年3月11日 Wordsworth 貨物船 イギリス 3,509 3月18日に沈没 '17年3月30日 Dee 帆船 イギリス 1,169 沈没 '17年6月2日 Wairuna 貨物船 イギリス 3,947 6月17日沈没 '17年6月16日 Winslow 帆船 アメリカ 567 6月22日沈没 '17年7月9日 Beluga 帆船 アメリカ 507 7月11日沈没 '17年7月14日 Encore 帆船 アメリカ 651 沈没 '17年8月6日 Matunga 貨物船 イギリス 1,618 8月26日沈没 '17年9月26日 常陸丸 貨物船 日本 6,557 沈没 '17年11月10日 Igotz Mendi 貨物船 スペイン 4,648 拿捕後補給船として使用 '18年2月24日デンマーク海岸で座礁 '17年11月30日 John H Kirby 帆船 アメリカ 1,296 沈没 '17年12月15日 Marechal Davout 帆船 フランス 2,192 沈没 '18年1月4日 Storebror 帆船 ノルウェー 2,050 沈没 機雷による戦果年月日船名形式国籍総トン数位置'17年1月26日 Matheran 貨物船 イギリス 7,654 ケープタウン '17年2月12日 Cilicia 貨物船 イギリス 3,750 ケープタウン '17年5月26日 C. de Fizaguirre 貨物船 スペイン 4,376 ケープタウン '17年8月10日 City of Athens 貨物船 イギリス 5,604 ケープタウン '17年2月17日 Worcestershire 貨物船 イギリス 7,175 コロンボ '17年2月21日 Perseus 貨物船 イギリス 6,728 コロンボ '17年6月16日 第七雲海丸 貨物船 日本 2,143 ボンベイ '17年6月24日 Mongolia 貨物船 イギリス 9,505 ボンベイ '17年7月29日 Okhla 貨物船 イギリス 5,288 ボンベイ '17年11月17日 Croxteth Hall 貨物船 イギリス 5,872 ボンベイ '18年6月26日 ウィンメラ 客船 イギリス 3,622 オーストラリア '17年7月6日 Cumberland 貨物船 イギリス 9,471 オーストラリア '17年9月18日 Port Kembla 貨物船 イギリス 4,700 ニュージーランド この他大破2隻(24,000トン)
※この「戦果」の解説は、「ヴォルフ (仮装巡洋艦・2代)」の解説の一部です。
「戦果」を含む「ヴォルフ (仮装巡洋艦・2代)」の記事については、「ヴォルフ (仮装巡洋艦・2代)」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/08 10:13 UTC 版)
CAMシップ搭載戦闘機による初戦果は、1941年8月初旬に商船「マプリン」から発進したハリケーンによるもので、その後、年末までに6機を撃墜した。その他のCAMシップ搭載戦闘機による主な戦果には、以下のものがあげられる。 1942年6月 QP12船団に組み込まれた商船「エンパイア・モーン」搭載機が来襲したJu88爆撃機を撃墜した。パイロットは、海上にパラシュートで降下し駆逐艦に救助されたが死亡した。 1942年6月 PQ16船団に組み込まれた商船「エンパイア・ローレンス」搭載機が来襲したHe111爆撃機のうち1機を撃墜、1機に損害を与えたが、この戦闘により「エンパイア・ローレンス」は沈没した。パイロットは、海上にパラシュートで降下し駆逐艦に救助された。 1942年9月 PQ18船団に組み込まれた商船「エンパイア・モーン」搭載のハリケーンが敵編隊のうちHe111爆撃機1機を撃墜し、残りを撃退した。その後、機は燃料切れ寸前にソ連領のオストロフ飛行場に着陸した。
※この「戦果」の解説は、「CAMシップ」の解説の一部です。
「戦果」を含む「CAMシップ」の記事については、「CAMシップ」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/30 06:15 UTC 版)
「ネルトリンゲンの戦い (1634年)」の記事における「戦果」の解説
勝利の報を受け取った皇帝フェルディナント2世は、嬉し涙に咽んだと言う。 また、スウェーデンとハイルブロン同盟はこれ以降極度の相互不信に陥ってしまい、形骸化した。ドイツ中部や南部の帝国都市は次々と皇帝軍の手に落ちた。ザクセン選帝侯は皇帝との単独講和を模索し、スウェーデン軍はこの戦いで甚大な被害を受けた上に、本国と切り離されて戦費の調達が困難になり、勢力が減退した。 そして翌1635年2月、ザクセン選帝侯は皇帝と休戦し、5月30日には「プラハ条約」で和睦した。ハイルブロン同盟は、この戦闘の敗北と条約締結により事実上崩壊したが、敗戦直後に同盟軍はフランスに支援を要請している。この結果、フランスは帝国への軍事行動の権原を得ることとなった。条約締結は、皇帝に勝利の美酒を味わわせた。しかし、三十年戦争はまだ終わらなかった。
※この「戦果」の解説は、「ネルトリンゲンの戦い (1634年)」の解説の一部です。
「戦果」を含む「ネルトリンゲンの戦い (1634年)」の記事については、「ネルトリンゲンの戦い (1634年)」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/14 01:37 UTC 版)
「ブラックバーン ファイアブランド」の記事における「戦果」の解説
この機体は、6年もの歳月をかけたが結局第二次世界大戦に間に合わなかった。そのため、戦果は存在していない。ファイアブランドを受け取ったもっとも初期の飛行隊である第708飛行隊は1944年10月にリー・オン・ソレント基地において結成、実験行動を行った。この際の機体はTF.Mk.IIであった。その後11月には空母プレトリア・キャッスルやグローリーにおいて着艦試験を行っている。また、1945年に入ってからIII型を使用してストークス湾において魚雷投射実験も行われている。結局、空母艦載機として第一線で活動したのは第813飛行隊と第827飛行隊のみであった。なお、第813飛行隊は47年から50年の間インプラカブル艦載機として活動している。また、1949年7月23日には同隊に配備されたMk.5型がリー・オン・ソレント基地を離陸後エンジン故障に見舞われ、プール湾に着水するという事故が起こった。
※この「戦果」の解説は、「ブラックバーン ファイアブランド」の解説の一部です。
「戦果」を含む「ブラックバーン ファイアブランド」の記事については、「ブラックバーン ファイアブランド」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/14 03:02 UTC 版)
「ドイツ海軍小型戦闘部隊」の記事における「戦果」の解説
兵器種別ごとの戦果(フォックの著書に基づく):182 兵器種別 撃沈 損傷 人間魚雷 巡洋艦 x 1駆逐艦 x 2高速艇 x 3商船 x 1トロール船 x 1武装揚陸艇 x 1 – 特殊潜航艇 駆逐艦 x 1商船 x 9 商船 x3 特攻艇 – モニター艦 x 1 合計 19隻(18,451トン) 4隻(18,384トン) K戦隊はプロパガンダで語られたほど華々しい戦果を上げた部隊ではなかった。ゼーフントはK戦隊において最も有望な計画と考えられていたが、実際には設計上の欠陥も多く、期待されたほどの戦果を上げることはなかった。K戦隊の戦果についてはいくつかの異なった数字が主張されている。撃沈数は15隻から19隻とされ、撃沈トン数も大きく異なる。ローレンス・パターソン(Lawrence Paterson)の著書とヘルムート・ブロックスドルフ(Helmut Blocksdorf)の著書では、最終的な統計は示されず、個々の作戦における撃沈および損傷の記録が纏められている。別の出典には、1945年4月中にゼーフント部隊が上げた戦果についておよそ120,000トンという推測がある。これに類似したものとして、1944年12月から1945年4月にかけてビーバー部隊がおよそ95,000トンの戦果を上げたとする「楽観的」な推測もある:187。リンゼ部隊はノルマンディー方面において12隻を撃沈したと推測され、この中には4万トンのタンカーと英駆逐艦HMSクォーン(英語版)、英掃海艇HMSギアゼイ(英語版)が含まれる。2隻の英軍艦については撃沈が確認されているものの、タンカーについては不明である:67:81。 連合国軍の戦略に影響を及ぼさなかったことや、最終的な損害が戦果を上回っていることを考慮すると、K戦隊の戦力としての効率は非常に悪かったとされる:518。V・E・タラント(V. E. Tarrant)は稚拙な作戦計画を問題点として挙げ、「効率の悪さを疑う勇気」が欠落していたのだと指摘している:273。ゼーフントについても、開発時に期待された運用を誰も実現できなかったのだとしている:233。タラントの著書『Das letzte Jahr der deutschen Kriegsmarine Mai 1944 bis Mai 1945』では、K戦隊の戦果として42隻撃沈と6隻損傷という数字が推測されているが、撃沈トン数は計算されていない。この数字はウィリアム・L・シャイラーの著書『第三帝国の興亡』から引用されたものである。ヴェルナー・ラーン(ドイツ語版)はタラントの著書から数字を引用しつつ、1945年1月から5月にかけてのゼーフントによる撃沈トン数として18,451トンという数字を加えた:515。この差は1945年4月末までの記録を基に推測を行ったタラントに対し、ラーンが5月8日の降伏までの記録を基としたためだとされる。ハラルト・フォック(Harald Fock)は著書『Marine-Kleinkampfmittel』の中で、K戦隊が1944年4月から1945年5月にかけて駆逐艦ラ・コンバタントを含む19隻の船舶を撃沈し、4隻を損傷させたとしている:182。ただし、連合国側の記録では、ラ・コンバタントの沈没は触雷によるものとされている:152。 K戦隊の活動に関する月別統計 1944年4月:505 種別出撃損害撃沈損傷ネガー 23 10 – – 合計 23 10 – – 1945年1月:261 種別出撃損害撃沈損傷ゼーフント 44 10 1 – ビーバー、モルヒ 15 10 – – リンゼ 15 7 − – 合計 74 27 1 – 1945年2月:264 種別出撃損害撃沈損傷ゼーフント 33 4 2 1 ビーバー、モルヒ 14 6 – – リンゼ 24 3 – – 合計 71 13 2 1 1945年3月:268 種別出撃損害撃沈損傷ゼーフント 29 9 3 – ビーバー、モルヒ 56 42 3 1 リンゼ 66 27 – – 合計 151 78 6 1 1945年4月:272 種別出撃損害撃沈損傷ゼーフント 36 12 2 2 ビーバー、モルヒ 17 9 4 1 リンゼ 66 17 – – 合計 119 38 6 3 出撃数および損害(1945年1月 - 5月):273 種別出撃損害損失率(概数)撃沈損傷ゼーフント 142 35 25 % 8 (17,301トン) 3 (18,384トン) ビーバー、モルヒ 102 70 69 % 7 (491トン) 2 (15,516トン) リンゼ 171 54 32 % – – 合計 415 159 42 % 15(17,792トン) 5(33,900トン) K戦隊が失敗に終わった理由は多数指摘されている。例えば乗員の練度不足、技術上の問題、天候、物資不足、連合国軍の航空優勢などである。とりわけ1945年2月の戦線崩壊を受けた制空権喪失は、K戦隊の活動に深刻な悪影響を及ぼした。部品の供給も断たれ、活動に備えた最低限度の水準を維持するためには、各部隊で装備の一部を「共食い整備用」(Ausschlachtmodelle)に指定し部品取りを行うほかになかった。1945年1月以降は燃料の割当が削減され、頻繁な作戦展開は不可能となった。この時点で海軍総司令部は海軍全部隊に対し「貯蓄燃料の最大限の節減」、すなわち大部分の艦艇を繋留し活動を停止するようにと命じていた。K戦隊でも演習や定期航行は全て中止され、燃料は戦闘行為のみに割り当てられた。オランダでは海軍総司令部の命令のもと、多少の戦果を期待しうるとして貯蔵燃料全てがゼーフント部隊に割り当てられた。こうした状況下にあっても、少なくとも4月までは多くのK戦隊所属部隊が最低限の作戦遂行能力を有していた。アルベルト・シュペーア軍需相はK戦隊の支援に意欲的で、ゼーフント工場はドイツ政府における最優先の建築計画の1つと位置づけられていた。敗戦直前の段階ではほとんどゼーフント工場のみが独占的に建設されていた。 K戦隊は任務の性質上人員の消耗が激しく、戦争の経過に伴って人材不足が深刻化した。K戦隊では当初から自主志願制を採っていたものの、実際の志願者は常に募集数を下回っていた。ハイエは小型戦闘装備自体の不足や技術的問題についてはあまり懸念を抱いていなかったが、操縦員不足による作戦上の制限を常に心配していた:514:233。ゼーフントの乗員に特殊な操縦資格が必須とされていたことも人材不足の一員である。ミュルヴィク海軍学校(ドイツ語版)やその他の教導部隊では教育期間を大幅に短縮していたが、それでも十分に人材を供給することはできなかった。また、不十分な教育に由来する誤操作に基づいた事故も多発するようになった。 1944年5月から1945年4月にかけてドイツの軍需産業各社が製造した小型戦闘装備は各種あわせて2,676隻になる。これは激しい消耗を見越して大量生産を行ったためであり、各部隊とも小型戦闘装備自体の需要は満たされていた:170。スヘルデ河口や地中海での作戦において、K戦隊は大きな損害を被った。当時、既にドイツ空軍は制空権を喪失しており、K戦隊を十分に援護するだけの戦力を有してはいなかった。このため、多くのK戦隊将兵が連合国軍の空襲によって命を落とした。被害状況に関する報告を受けたヒトラーは空軍総司令官ヘルマン・ゲーリング元帥を個人的に招き、この敗北は港湾での活動を高射砲で十分に保護することができなかった事が原因なのか、またビーバーおよびゼーフントの入港および出発時に人工霧で保護することは可能か否かを尋ねたという。 他の国防軍部隊と異なり、K戦隊では士気の低下や軍紀の崩壊がほとんど見られなかった。これは一般の軍部隊と大幅に異なる体制で運営されていたことや、ハイエや指揮官の1人だったアルブレヒト・ブランディが隊員らに「精鋭特殊部隊」という身分を強調していたことが影響していたとも言われている:26–27。
※この「戦果」の解説は、「ドイツ海軍小型戦闘部隊」の解説の一部です。
「戦果」を含む「ドイツ海軍小型戦闘部隊」の記事については、「ドイツ海軍小型戦闘部隊」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/05 05:46 UTC 版)
3月14日早朝に突如襲撃を加えた抜刀隊は大きな戦果を挙げ、田原坂攻略の要となった。しかしながら勢いに乗って深入りしすぎたため、抜刀隊側も相当の損害を出している。全滅した分隊も少なくなかった。 旧会津藩士の隊員が、戊辰戦争で賊軍の汚名を着せられた雪辱を果たすべく「戊辰の仇、戊辰の仇」と叫びながら斬り込んでいったといわれている。これは、当時郵便報知新聞記者であった犬養毅によって報道された。『戦地直報』第二回 十四日、田原坂の役、我進んで賊の堡(とりで)に迫り、殆ど之を抜かんとするに当り、残兵十三人固守して退かず、其時故(もと)会津藩某(巡査隊の中)身を挺して奮闘し、直に賊十三人を斬る。其闘ふ時大声呼(よばわ)って曰く、戊辰の復讐、戊辰の復讐と。是は少々小説家言の様なれども、決して虚説に非ず。此会人は少々手負いしと言う。 ただし、この内容は公式記録には無く、また犬養自身も直接現場を見てはおらず、伝聞情報に基づいて報道したものである。この声の主は戦闘当時、抜刀隊分隊長として奮戦した元会津藩士田村五郎三等少警部ではないか、とする説もあるが、上記編成のとおり、田村三等少警部の分隊は「遊軍」であり、抜刀隊の本隊を指揮していたのは鹿児島県士族である。まさに田原坂での抜刀隊の戦いは「薩摩の人(官軍警察官中心)をもって薩摩の賊(西郷軍薩摩士族中心)を討つ」がその実態である。
※この「戦果」の解説は、「抜刀隊」の解説の一部です。
「戦果」を含む「抜刀隊」の記事については、「抜刀隊」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/29 10:05 UTC 版)
「フライング・タイガース」の記事における「戦果」の解説
AVGは「数的に常に劣勢であったにもかかわらず、敵機撃墜数は当時の空戦史上最高記録を出した」と報じ、最終的に18名のフライングタイガースのメンバーが5機以上を撃墜(と主張し)エースパイロットとなった。AVGの最終戦果は「日本軍の航空機を296機撃墜し1000名以上のパイロットを戦死させた」とされるが日本側の損失記録では、被撃墜または地上での被撃破115機、戦死約300名とある。 AVGと日本側で数値が食い違っているが、航空戦での戦果報告が現実の3~4倍に誤認されることは、どこの国でも珍しいことではない。特に過大な戦果が報じられたのは、AVG時代の1942年4月28日・ロイウイン迎撃戦における22機撃墜(実際は隼1機を撃墜、空中衝突で1機相打ち)と、CATF時代の1942年11月2日・桂林での空戦における22機撃墜(実際は戦果無し)であった。もっともこれらは単に誤認したというより、時期的に兵が隊を離れるのを防ぐため、あえて戦果の承認を甘くしたのではないかという指摘もある。双方の記録が一致することもあり、6月12日の戦闘では九七式戦闘機8機、九九式双発爆撃機5機、初陣となる二式複座戦闘機「屠龍」3機が10機のP-40と交戦し、九七式戦闘機1機、屠龍3機、爆撃機1機を撃墜し、AVGの損害はなかった。
※この「戦果」の解説は、「フライング・タイガース」の解説の一部です。
「戦果」を含む「フライング・タイガース」の記事については、「フライング・タイガース」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 13:37 UTC 版)
「フェアリー フルマー」の記事における「戦果」の解説
1940年に生産が始まったフルマーは次々と海軍に引き渡され、スクアや複葉戦闘機と交換され、最終的にはおよそ20の海軍航空隊がフルマーを配備した。1940年6月には空母イラストリアス艦載航空隊である第806飛行隊に配備され、8月には艦載された。フルマーの実戦初参加は、マルタ島への船団護衛時のイタリア軍機との戦闘であった。以降、主に地中海方面で戦闘を重ね、1940年10月のタラント湾奇襲に際してはイラストリアス艦載のフルマーが護衛にあたり、その直後には空母アーク・ロイヤル艦載機がマルタ島への輸送船団を護衛している。1941年3月のマタパン岬沖海戦では、空母フォーミダブルから発艦した攻撃隊を同空母艦載機が護衛している。 また、護衛空母がそろっていなかった大戦初期~中期の初めにおいて、CAMシップ (カタパルト装備商船)に搭載され敵機迎撃に当たった機体も存在するが、たとえ撃退できたとしてもCAMシップに着艦することは不可能なため機体は陸上基地まで飛んで着陸するか、もしくは着水し機体を放棄、パイロットのみ回収するかしかなく、芳しい成果は挙がらなかった。前線任務は1943年から徐々に交替していったが1945年2月8日の護衛空母カンパニアにおける着艦事故を最期に姿を消した。
※この「戦果」の解説は、「フェアリー フルマー」の解説の一部です。
「戦果」を含む「フェアリー フルマー」の記事については、「フェアリー フルマー」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/01/27 06:32 UTC 版)
フェニックス作戦はCIAの主導するCORDS(民間工作・都市開発支援)計画のひとつだったが、約7万人のヴェトコンやヴェトコンを支持するベトナム市民がこの作戦によって殺害された。
※この「戦果」の解説は、「フェニックス作戦」の解説の一部です。
「戦果」を含む「フェニックス作戦」の記事については、「フェニックス作戦」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/17 03:59 UTC 版)
1944年(昭和19年)10月30日 都井岬沖で海防艦第29号、第33号及び第22号がアメリカの潜水艦SS-182 サーモンに損傷を与えた。 1944年(昭和19年)11月8日 ミンドロ島沖で海防艦第19号が駆逐艦時雨、海防艦千振とともにアメリカの潜水艦SS-215グロウラーを沈めたと推測される。 1945年(昭和20年)3月28日 南西諸島沖で海防艦第33号及び第59号が同御蔵とともにアメリカの潜水艦SS-237 トリガーを沈めたと推測される。 1945年(昭和20年6月19日) 富山湾で海防艦第63号第75号、第207号、第158号及び同沖縄がアメリカの潜水艦SS-223 ボーンフィッシュを沈めたと推測される。
※この「戦果」の解説は、「丙型海防艦」の解説の一部です。
「戦果」を含む「丙型海防艦」の記事については、「丙型海防艦」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/13 12:16 UTC 版)
1944年(昭和19年)8月20日、2度目のB-29大挙来襲に対する邀撃戦において、屠龍戦隊は来襲した80機のうち23機撃墜を報じた。これに対して屠龍戦隊の損害は3機未帰還、5機が被弾という損害であった。一方、アメリカ側の記録では爆撃機61機のうち14機喪失(損耗率23%。交戦以外による損失を含む)で、そのうち航空機による損失が4機(空対空爆撃による1機と体当りによる1機を含む)、対空砲火による損失が1機としており、逆に日本機17機撃墜を報じている。仮に日本側の記録が事実とすればこの邀撃戦は来襲機の28%を撃墜したことになり、ヨーロッパ戦線でも例を見ない(従来の記録は来襲機の10~15%撃墜)大戦果となる。
※この「戦果」の解説は、「樫出勇」の解説の一部です。
「戦果」を含む「樫出勇」の記事については、「樫出勇」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/22 06:08 UTC 版)
第一次「ソ」作戦(6月7日) 日本の戦果報告 撃墜41機(内不確実8機) 日本の損失 未帰還:零戦9機 大破:零戦5機 第二次「ソ」作戦(6月12日) 日本の戦果報告 撃墜33機(内不確実8機) 日本の損失 未帰還:零戦6機 大破:零戦1機 「セ」作戦(ルンガ沖航空戦)(6月16日) 日本の戦果報告 轟沈:輸送船大型1隻、中型4隻、駆逐艦1隻 撃墜32機(内不確実5機) 日本の損失 未帰還:零戦15機、艦上爆撃機13機 大破:零戦3機 連合国の戦果報告 艦爆32機撃墜、戦闘機45機撃墜 連合国の損失 戦闘機6機損失、輸送船1隻擱座、LST1隻大破 「セ」作戦の大本営発表は6月18日に行われ、ルンガ沖において大型輸送船4、中型輸送船2、小型輸送船1、駆逐艦1を撃沈、大型輸送船1隻中破、飛行機34機以上撃墜と報じ、本戦闘を「ルンガ沖航空戦」と呼称すると発表した。連合軍側の戦果判定にも誤認があり、6月16日の日本海軍の攻撃に対し、艦爆32機、戦闘機45機を撃墜と発表していた。
※この「戦果」の解説は、「ルンガ沖航空戦」の解説の一部です。
「戦果」を含む「ルンガ沖航空戦」の記事については、「ルンガ沖航空戦」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/06 13:14 UTC 版)
※この「戦果」の解説は、「菊水作戦」の解説の一部です。
「戦果」を含む「菊水作戦」の記事については、「菊水作戦」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 16:08 UTC 版)
八路軍の戦果は、中国側の研究によれば、作戦回数は約99,800回、戦死または戦傷させた日本軍の合計人数は約401,600人、戦死または戦傷させた「偽軍(主に汪兆銘傀儡政府によって組織された軍を指す)」の合計人数は約312,200人となっている。
※この「戦果」の解説は、「八路軍」の解説の一部です。
「戦果」を含む「八路軍」の記事については、「八路軍」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/30 09:18 UTC 版)
ドイツ軍は膠着した戦況の打破を目指していた。1918年の春季攻勢は「特攻隊 (Stoßtrupp)」と呼ばれるMP18(短機関銃)などを装備した歩兵部隊による浸透戦術が予定されており、A7V はこの支援にあたることになっており、突撃戦車という名称もこれに基づくものだった。一般の歩兵や突撃部隊と共に浸透戦術を想定した訓練も行われ、1918年3月21日のサン・カンタン(St. Quentin)北部での戦闘が初の実戦参加となった。 世界初の戦車戦は1918年4月24日午前にフランス北部のアミアン近郊、ヴィレ=ブルトヌー付近でイギリス軍のMk.IV戦車三輌と A7V 「メフィスト号(sn. 506)」「エルフリーデ号(sn. 542)」「ニクス号(sn. 561)」三輌の間で行われた。(イギリス軍はMk.Vとする説もある。Mk.IVの改良型で、操縦手一人での運転が可能となり、機動力が向上している。)雌型(機銃搭載型)の射撃を物ともしない A7V の攻撃で二輌が撃破されたが、応援の雄型(6ポンド砲搭載型)が A7V 「ニクス号」に砲弾を三発直撃、五名を戦死させ、戦車を放棄させた。残りのドイツ戦車は後退した。このときドイツ側の歩兵部隊も後退しており、イギリス軍の戦車も放棄するには至らなかったため、戦闘の結果判定はイギリス軍の勝利とされている。なお、「ニクス号」は脱出した乗組員が再搭乗し、自力で帰投している。また「エルフリーデ号」も損傷を受けており、戦闘終了後に操縦ミスから転覆し行動不能となった。 同日、一輌の A7V と七輌のマーク A ホイペット中戦車との戦闘が発生した。やはり機銃しか持たないイギリス軍戦車は一輌が A7V の砲により破壊され、三輌がドイツ軍野砲の直接射撃で失われた。(逆に、 A7V が倒されたとする資料もある。) 結局、 A7V が実戦で使用されたのは50日あまりだった。協商国側が合計で6,000輌あまりの戦車を投入可能であったのに対し、ドイツ側は20輌の A7V と併せて鹵獲戦車部隊100輌弱程度しか投入出来ず、大きく戦局を転換させることはできなかった。1917年11月のカンブレーの戦いにおいても、イギリス軍は計324輌の戦車でもって膠着した戦線に突起部を形成することに成功したが、これは再びドイツ側に奪い返された。戦車の投入は前線では有効であったものの、戦争全般に与えるほどの影響力は持たなかった。
※この「戦果」の解説は、「A7V」の解説の一部です。
「戦果」を含む「A7V」の記事については、「A7V」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 04:00 UTC 版)
約9300発の放球のうち、アメリカ本土に到達したのは1000発前後と推定され(米西部防衛司令部参謀長W・H・ウィルバー代将の報告書要点抜粋から)、アメリカの記録では285発とされている。最も東に飛んだ記録としてミシガン州で2発が確認されている。アメリカの軍事評論家の調査(1951年)によれば、ミシガン州デトロイトまで到達した。 1945年5月5日、オレゴン州ブライで木に引っかかっていた風船爆弾の不発弾に触れたピクニック中の民間人6人(妊娠中の女性教師1人と生徒5人)が爆死した例が確認されている唯一の戦果である。放球は1945年3月が最終であるため、この5月の事故は冬の間に飛来したものが雪解けによって現れたのではないかと言われている。 また、プルトニウム製造工場(ハンフォード工場、ワシントン州リッチランド)の送電線に引っかかり短い停電を引き起こした。これが原爆の製造を3日間遅らせたという説がある。一方、実際には工場は予備電源で運転され、原爆の完成にほとんど影響はなかったという説もある。(「シカゴ・パイル1号」参照)焼夷弾は小規模の山火事を起こしたが、冬の山林は積雪で覆われていたため火が燃え広がりづらく、大きな戦果をあげたという記録はない。山田風太郎は1944年12月15日の日記に、九十九里浜方面に大要塞建設中にして、毎日早朝に風船爆弾を上げており、アメリカで頻々と山火事が起こりつつあることを雑談で聞いた、と書き残している。実際に1944年12月20日の時点で風船爆弾の存在自体はアメリカの新聞での報道が確認できる。アメリカで気象将校の訓練中に風船爆弾が飛来し、高層風の学習に用いられたことがある。 ただし、風船爆弾による心理的効果は大きく(日本側でもこの作戦自体が心理面での効果を期待していた。担当したのが参謀本部第二部第8課、情報や傍受、諜報に関わる部署であった。アメリカ国民は軍事施設への散発的な攻撃よりも、森林火災に心理的パニックを起こすため、これを利用した後方攪乱という意味合いがあった。藤田信雄も参照されたい)、アメリカ陸軍は、風船爆弾が生物兵器を搭載することを危惧し(特にペスト菌が積まれていた場合の国内の恐慌を考慮していた)、着地した不発弾を調査するにあたり、担当者は防毒マスクと防護服を着用した。調査に動員された細菌学者は4000名におよぶという。また、少人数の日本兵が風船に乗ってアメリカ本土に潜入するという懸念を終戦まで払拭することはできなかった。また、終戦後すぐに、細菌兵器研究者を日本に派遣し、風船爆弾開発に関わった研究者の調査を行っている。 風船爆弾対策のため、アメリカ政府と軍は大きな努力を強いられた。アメリカ政府は官民に厳重な報道管制を敷き、風船爆弾による被害を隠蔽した。上記の事故の一報を受けた電話交換手は決して口外するなと軍から口止めされた。これはアメリカ側の戦意維持のためと、日本側が戦果を確認できないようにするためであった。この報道管制は徹底したもので、戦争終結まで日本側では風船爆弾の効果は1件の報道を除いてまったくわからなかった。 終戦後の1945年10月、AP通信特派員は日本陸軍技術本部将校へのインタビューを交え風船爆弾の記事を世界に配信、同年10月3日付の朝日新聞でも報道された。記事によれば日本側は戦果の把握を重慶放送の傍受によって確認しており、ワイオミング州に到着した一つのみと判断していたことが明らかにされている。同年12月に放送された『眞相はかうだ』では、風船爆弾については明確に触れられておらず、「日本の潜水艦から発進した飛行機が、アメリカの都市を爆撃したというのは本当か」という質問の形式をとって曖昧な説明を行うにとどめている。また、連合国の占領下の1948年4月に日本劇場屋上に戦後初のアドバルーンが揚げられたが、GHQの指令で2日後に禁止となった。風船爆弾を連想させるため、という理由からである。
※この「戦果」の解説は、「風船爆弾」の解説の一部です。
「戦果」を含む「風船爆弾」の記事については、「風船爆弾」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/17 00:46 UTC 版)
パンジャンドラムの開発そのものは中止されたが、防御力の低いノルマンディーではなく、パ=ド=カレー沿岸を取り巻くコンクリート壁を攻撃する計画が立てられているとドイツ側に誤認させる、フォーティテュード作戦の一部として実験が行われたことが示唆されている。実験はわざと客のいる海水浴場で行われ、またその派手な見た目と動きは人々の耳目を引き付け、ドイツ側に嗅ぎ付けさせるにうってつけだった。そのため、パンジャンドラム自体が元より実用化を意図していない、実験失敗も織り込み済みのダミーの試作兵器であったとする説が有力である。 結果としてフォーティテュード作戦は成功し、ドイツ側は上陸地がノルマンディーではなくパ=ド=カレー沿岸だと思い込んだ(実際に連合軍側も陽動のためいくらかの部隊を向かわせている)ため、そちら側に戦力を割いてしまった。
※この「戦果」の解説は、「パンジャンドラム」の解説の一部です。
「戦果」を含む「パンジャンドラム」の記事については、「パンジャンドラム」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/15 13:48 UTC 版)
「ブーゲンビル島沖海戦」の記事における「戦果」の解説
日本海軍の損害 沈没:川内、初風 損傷:妙高(衝突による)、羽黒、五月雨(衝突による)、白露(衝突による) アメリカ海軍の損害(海戦後の空襲によるモントピリアの損傷は除く) 沈没:なし 損傷:デンバー、フート、スペンス(衝突と被弾)、サッチャー(衝突による) 本海戦は日本側の完敗(連合国軍輸送船団撃滅失敗、海戦による損傷沈没艦比較)であった。それでも日本側は、「重巡洋艦1隻轟沈、同2隻魚雷命中撃沈確実、大型駆逐艦2隻轟沈、重巡あるいは大型駆逐艦1隻魚雷命中撃沈確実、駆逐艦1隻同士討ちで損傷、重巡1ないし2隻および駆逐艦に命中弾」といった戦果判断をしていた。また、第二十七駆逐隊司令原為一大佐は「巡洋艦1隻轟沈、同2隻撃破、駆逐艦1隻轟沈、同1隻撃破」という判断であった。いずれにせよ実際の戦果とは相当な開きがあり、タロキナへの基地建設阻止および輸送船団撃滅は失敗した。この海戦後、大森少将は「拙劣な戦闘の実施に憤慨した(連合艦隊司令長官)古賀提督」により、11月25日付で第五戦隊司令官を解任されて海軍水雷学校長に左遷となり、11月30日に退任した。 海戦における連合襲撃部隊の戦闘については、開戦直後から批判の的であった。第三艦隊の長井純隆首席参謀は、当時もっとも批判されていた事として「戦闘隊形が複雑であったため、運動の自由がなかったこと」を挙げている。アメリカ軍(および指揮官メリル少将)の積極的な指揮と行動に対し、日本軍の指揮は稚拙かつ消極的であった。時雨が00時49分に敵艦隊発見を報じてから、主隊(妙高、羽黒)が砲撃を開始したのは26分後の01時16分である。第一警戒隊(川内、時雨、五月雨、白露)がアメリカ軍に対し苦戦する20分以上の間、主隊(妙高、羽黒)と第十戦隊(阿賀野、長波、初風、若月)は遊兵化してなんら支援行動を起こさず、適切な戦闘指導もなかった。第五戦隊による電探射撃についても羽黒の元砲術長と第五戦隊首席参謀の間で見解が分かれている。モントピリア乗組だったジェームズ・J・フェーイーは「あの海戦で日本軍はレーダーを使っていたにちがいない。あれほど砲撃が正確だったのだから。それに照明弾もすばらしくて、あたりを昼間のように明るくした。魚雷発射も熟練の腕だったが、不発もあった。もし魚雷全部が有効だったら、僕は生きてこれを書いてなんかいられなかった。僕らに命中したのみたいに、中には不発があるのだ」と回想している。モントピリアには魚雷が2本命中していたものの、2本とも爆発していなかった。 「ネルソン式の全滅戦闘」を採らず「攻撃部隊を単に撃退する」という使命を果たした第39任務部隊であったが、全ての戦闘がうまくいったわけではなかった。太平洋艦隊司令長官チェスター・ニミッツ元帥は後年の回顧で、メリル少将の失敗としてレーダー射撃の精度と目標配分の点がマイナスであったと指摘した。また、海戦においては第46駆逐群の行動が味方に少なからぬ混乱を与えていた。第46駆逐群は海戦当時、第39任務部隊に編入されたばかりで訓練の機会がなく、海戦では巡洋艦群の射線方向に入り込んで射撃を阻害し、前述のようにフートが巡洋艦群の前を横切ったため、デンバーがフートに衝突しかけるというアクシデントもあった。ニミッツ元帥によれば、メリル少将が「戦術上の教義と、その実行が適切であった」という。本海戦における勝敗の決定的な原因は「指揮官の差」にあったという意見もある。メリル少将と第39任務部隊は、“ザ・スロット”と呼ばれたニュージョージア海峡で艦を一隻も失わなかった唯一の提督と艦隊として名声を高めた。 ラバウルに接近中の栗田健男中将率いる、第39任務部隊よりもはるかに強力であるとみられた日本艦隊出現の報により、アメリカ軍は新たに起こった緊急事態に極めて迅速に対応しなければならなかった。日本軍は栗田艦隊を増援として、挺身輸送隊(第十戦隊司令官:若月《旗艦》、風雲、天霧、文月、卯月、夕凪)、護衛艦隊(第二艦隊司令長官栗田健男中将:愛宕、高雄、摩耶、鳥海、能代等)による挺身上陸作戦を予定していた。米軍の二隻の空母(プリンストン、サラトガ)は新手の艦隊をブーゲンビル島に近づけさせないよう、5日にラバウルを空襲し、攻撃を受けたラバウルの日本艦隊は第二艦隊を中心にほとんどがトラック泊地へとあっさり逃げ帰っていった。 「ラバウル空襲#11月5日の空襲」も参照 11月6日、日本海軍はタロキナ逆上陸作戦を開始、第一支援隊(阿賀野、若月、風雲、浦風)・第二支援隊(能代、大波、長波)・挺身輸送隊(大波、巻波、天霧、文月、卯月、夕凪)がラバウルを出撃した。揚陸作戦そのものは成功したが逆上陸した部隊は陸戦で敗退した。 詳細は「タロキナ逆上陸作戦(英語版)」を参照 陸上からは歩兵第23連隊による第一次タロキナ作戦が行われたがこちらも敗北し、後退した。
※この「戦果」の解説は、「ブーゲンビル島沖海戦」の解説の一部です。
「戦果」を含む「ブーゲンビル島沖海戦」の記事については、「ブーゲンビル島沖海戦」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/06 01:11 UTC 版)
「南西アフリカ警察対不正規戦部隊」の記事における「戦果」の解説
KOEVOETは解散までに1,615回の戦闘を経験し、3,225人ものゲリラを殺害もしくは逮捕したと推測されている。
※この「戦果」の解説は、「南西アフリカ警察対不正規戦部隊」の解説の一部です。
「戦果」を含む「南西アフリカ警察対不正規戦部隊」の記事については、「南西アフリカ警察対不正規戦部隊」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/19 14:01 UTC 版)
「綾波 (吹雪型駆逐艦)」の記事における「戦果」の解説
日本艦隊の中では際立つ、日本艦隊の戦果(撃沈破5)の半分を単艦で挙げ、活躍をした。戦艦を含む敵艦隊に単艦で挑み、敵駆逐艦2隻を屠り、1隻を炎上させ、戦艦サウスダコタの電気系統を断ち切り(「重巡」撃沈と判断した「重巡からの砲撃が止んだ」(実際はサウスダコタの両用砲だと思われる。)から。ただし明確な根拠が無いので異説扱い。)一時砲戦不能にさせたという、駆逐艦1隻としては異例の大戦果を挙げた。 自身は沈んだものの、それだけの奮戦に関わらず乗員の生存者が極めて多かった。乗員の8割以上が生還している上、特に艦長が生還したことにより、その証言が公になっている。 近藤中将の拙劣な指揮が目立ち、リー中将の名を上げる戦いとなり、日本軍は戦艦「霧島」を失い、さらにレーダー射撃の有効性を実証させてしまう戦い(これが後にスリガオ海峡海戦等の夜戦での日本海軍の一方的な敗北に繋がる)となったという、戦没艦の数以外では米軍に軍配の上がった(日本軍の戦術的勝利、米軍の戦略的勝利、総合的に見て米軍の勝利というのがこの海戦の一般的評価)この戦いで、際立った活躍をした。 等が挙げられる。
※この「戦果」の解説は、「綾波 (吹雪型駆逐艦)」の解説の一部です。
「戦果」を含む「綾波 (吹雪型駆逐艦)」の記事については、「綾波 (吹雪型駆逐艦)」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/17 09:33 UTC 版)
「MiG-23 (航空機)」の記事における「戦果」の解説
MiG-23は、対戦闘機戦闘においては、使用国自体の体制的な問題もあり、西側製の戦闘機に多くの場合敗れている。リビア空軍機をアメリカ海軍機が撃墜したことはアメリカ合衆国によって広く宣伝された。また、イスラエルも同様に自国の戦果を大きく宣伝しており、多数のMiG-23を撃墜し自らの損害はごく僅かであったとしている。中東戦争やその後の消耗戦、イラン・イラク戦争及び湾岸戦争以降のイラクでも多くの機体が撃墜・破壊されたとされている。一方で、主翼が前進状態であればそれなりに敏捷であり(後退して翼幅が狭くなっているとスポイラーの効きが悪くてロール率が低下するから)、アンゴラでは、ミラージュIIIやインパラとの至近距離(半マイル(およそ800m)程度と言われる)のドッグファイトで後ろに回りこみ、相手を撃墜している。実戦においてより大きな役割を果たしたのは攻撃機型で、インドやスリランカ、エチオピアなどでの働きが知られている。 リビア対アメリカ合衆国 1989年1月4日にリビア空軍のMiG-23MSがアメリカ海軍のF-14Aの攻撃により撃墜されるという事件が起こった。この事件は、1989年のシドラ湾事件と呼ばれる。 なお、このとき撃墜された機体がMiG-23MSであるとするのはロシア側の資料であり、アメリカ合衆国側の情報ではこれはMiG-23MLであったということになっている。 シリア対イスラエル 1982年6月のベッカー高原空中戦では、シリア空軍のMiG-23MSがF-16AやF-4Eなど12機を空中戦で撃墜したとシリアによって公表されている。なお、MiG-21もF-15をはじめとする5機を撃墜したとされている。一方、ソ連の資料に拠ればシリア空軍の空中戦の戦果はすべてMiG-23によるものであり、5機を撃墜、損失は6機であった。また、イスラエルに拠れば同国国防軍空軍は十数機のMiG-23を撃墜したとし、空中戦における損害は皆無であったとしている。 その後もイスラエルとシリア空軍はしばしば衝突を繰り返していたが、ソ連の資料に拠れば、シリア空軍に新型のMiG-23MLが供給されてより短期間のうちに3機のF-15を撃墜し、MiG-23MLの損失は皆無であったとされている。ただし、このF-15の撃墜に関しては、ミサイルが刺さったまま帰還した例など複数あり、これらの事象もあって、日本をはじめとする西側諸国では、F-15は自軍機による撃墜を除くと一度も撃墜されたことのない「無敵の戦闘機」であるとされており、イスラエルの記録ではMiG-23全機種を通算して20機以上の撃墜が報告されている。 イラン・イラク戦争 1982年9月22日から始まったイラン・イラク戦争では、イラク空軍のMiG-23MS/MLが7機のイラン空軍機を撃墜したと主張されており、そのうち一機はF-14であることが確認されている。 なお、イラクのMiG-23MLにはミラージュF1EQ-5/6からパイロンを流用し、エグゾセ対艦ミサイルを搭載できるよう改修された機体があった。この場合、エグゾセを機体中央線下に装着するため、本来の固定装備の連装機関砲は取り外されていた。 湾岸戦争 1991年1月17日から始まった湾岸戦争においては、開戦初日にイラク空軍のMiG-23MLがイタリア空軍のトーネード1機を撃墜したと主張されている。実際、同日にイタリアのトーネード1機が原因不明の未帰還となっているので、イラク側の主張が正しい可能性はあると思われる。但し、MiG-29によるとする説もある。一方多国籍軍は、合計8機のMiG-23を空中戦で撃墜したと主張している。 なお、湾岸戦争前に海外へ補修などに出されていたイラク空軍の機体は、東ドイツへ渡されていたMiG-21bisをはじめどれも本国に返還されなかったが、MiG-21bis/UMなどとともに1機のMiG-23MLAもユーゴスラビアから返還されなかった。この機体は他のMiG-21などとともにユーゴスラビア空軍及び防空軍に編入されたのち、現在ではセルビアの博物館に野外展示されている。 アンゴラ アンゴラでは、同国空軍及び支援していたキューバ空軍のMiG-23が南アフリカ共和国のインパラやミラージュF.1CZとしばしば空中戦を行った。こうした中、南アフリカもインパラ、ミラージュF1各1機の損失を認めている。 インパラは練習機兼用の攻撃機でMiG-23の方が圧倒的に高い能力を持っているものの、MiG-23とミラージュF1とでは機体の決定的な性能差はなく、むしろ南アフリカの搭載ミサイルであった短射程ミサイルR550マジックとアンゴラが使用したR-24の差異に拠るところが大きいと言われる。なお、アンゴラのMiG-23の機上レーダーは南アフリカの戦闘機のレーダーより高性能であったが、その稼働率は極めて低く、レーダーの性能差によるアドバンテージは得られていなかったと考えられている。また、これと関連し、レーダー誘導ミサイルの稼働状況も万全なものではなかったとの説もある。 戦果の一方で、当時最新型のMiG-23MLAをはじめ数機が南アフリカ共和国軍の戦闘機の機関砲によって損害をうけており、また、地対空ミサイルの攻撃により撃墜されている。なお、アンゴラではキューバ空軍のMiG-23BNも活動していた。 冷戦が終了するとキューバは撤退したが、そのためアンゴラ政府軍は苦境に立たされた。アパルトヘイトの廃止後南アフリカ共和国と停戦したアンゴラ政府は、1990年代半ばより南アフリカ共和国の元軍人の創設した民間軍事会社エグゼクティブ・アウトカムズ社に支援を求め、アメリカ合衆国のCIAの支援により政府に対するテロ行為を行ってきた反政府ゲリラに対する戦闘を続行した。その結果政府軍はゲリラ側を圧倒し、どうにか和平に漕ぎ着けることに成功した。この戦闘において、南アフリカ共和国空軍の元パイロットであった社員はかつての敵機MiG-23MLAに対し、特に23mm連装機関砲の対地攻撃における威力は素晴らしいという評価を下している。また、同じく傭兵としてMiG-23MLAに搭乗したオランダのパイロットは、自身が操縦したF-16Aと比べて、垂直面の運動性はMiG-23が勝り、水平面での運動性も劣らないと評している。 なお、アンゴラでは1990年代以降中古のSu-27SKやSu-25を導入しているが、これらは古いMiG-21MF/bisやSu-22(Su-17M2の輸出型)などの代替であり、MiG-23MLAはMiG-23-98仕様に改修されて今後も使用される予定である(MiG-23MLAより古いMiG-23MFについては不明) ソ連のアフガニスタン侵攻 MiG-23が実戦活動を行った軍事行動の中で最もよく知られているのはソ連のアフガニスタン侵攻である。この戦争では戦闘機型のMiG-23も主として地上目標に対する攻撃任務に投入されたが、空中戦における戦果も報告されており、ロシアの情報に拠れば、MiG-23MLDがR-60によってパキスタン空軍のF-16A 1機を撃墜したとされている。パキスタンはこの損失を認めているが、自軍機の誤射によるとしている。パキスタン側はこの時の空中戦でMiG-23MLDを二機とも撃墜したと主張しているが、実際はMiG-23は二機とも帰還している。 また、ソ連のアフガニスタン侵攻に際してはMiG-27各型が空軍戦力の主力として投入されたが、アフガニスタンの複雑な地形に悩まされ思ったような成果は挙げることができなかったようである。 大韓航空機撃墜事件 大韓航空機撃墜事件の際にはソ連防空軍のMiG-23P数機が迎撃に上がりSu-15TMを補佐、結果、Su-15のR-98ミサイルによる旅客機の撃墜に至った。一部では、MiG-23が撃墜したとする情報も流れたが、MiG-23は迎撃には参加したものの実弾は発射しなかった。 アフリカの角 エチオピアは隣国エリトリアとの戦争においてMiG-23BNを航空戦力の主力としていた。一方、エリトリアもMiG-23BNを用いエチオピア側を攻撃した。 スリランカ スリランカ空軍のMiG-27Mは、タミル・イーラム解放の虎(LTTE)への切り札としてMi-24V/Pなどとともにウクライナから輸入され、同じくイスラエルから輸入されたクフィルC7とともに主力爆撃機として使用された。 これら大幅な戦力の増強によりスリランカ政府軍はLTTEを力で屈させることに成功した。 インド対パキスタン インド空軍へは、それまでのSu-7BMKやHF-24マルートの代替としてMiG-23BNとMiG-27MLが配備されたが、そのうち1機のMiG-27MLがパキスタンとのカシミール地方を巡る紛争で対空砲火によって失われている。 リビア リビアとエジプトやチャドとの戦闘でもリビア空軍のMiG-23が使用されたとされている。2011年リビア内戦では、MiG-23MLなどが多国籍軍の戦闘機などと交戦し1機が空戦の末に撃墜されている。 朝鮮民主主義人民共和国 2003年3月に、2機のMiG-23がMiG-29 9-13と共同で米軍のRC-135偵察機に対しスクランブル発進を行い接近し威嚇した。
※この「戦果」の解説は、「MiG-23 (航空機)」の解説の一部です。
「戦果」を含む「MiG-23 (航空機)」の記事については、「MiG-23 (航空機)」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/05 23:39 UTC 版)
日付艦名艦種戦死者負傷者備考1945年4月12日 マナート・L・エベール 駆逐艦 84 35 真っ二つとなり轟沈 1945年4月12日 スタンリー 駆逐艦 0 3 艦首に命中したが、弾頭は艦内で爆発せず艦体を貫通し海上に落下。但し損傷は甚大で、その後除籍され予備艦行き 1945年4月12日 ジェファーズ 掃海駆逐艦 0 0 至近に落下し小破 1945年5月4日 シェイ 敷設駆逐艦 35 91 艦中央に命中し戦闘指揮所などの艦中枢を撃破後貫通して海上で爆発、沈まなかったが大破し終戦まで復帰できず 1945年5月4日 ゲイエティ 駆逐艦 0 3 至近で爆発、破片で40mm機関砲破壊 1945年5月4日 ヘンリー.A.ワイリ 駆逐艦 0 0 至近に落下し小破 1945年5月11日 ヒューW.ハドレイ 駆逐艦 30 121 大破・炎上し総員退艦命令出るも沈まず、しかし修理は困難と判断されそのまま除籍 合計 7隻 149名 253名 1隻撃沈 2隻大破除籍 1隻大破 3隻損傷
※この「戦果」の解説は、「桜花 (航空機)」の解説の一部です。
「戦果」を含む「桜花 (航空機)」の記事については、「桜花 (航空機)」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/19 08:39 UTC 版)
日本軍は、一式陸上攻撃機15機損失(不時着2機を含む)、九七式飛行艇3機損失、零式水上偵察機1機損失。 アメリカ軍は、航空母艦「レキシントン」(旗艦)1隻に至近弾があったが損害はなく、破片による軽傷数名、機銃弾による負傷者1名。F4F戦闘機は2機を喪失、7機が被弾した。日本軍陸攻部隊に大損害を与えたものの、作戦目的であったラバウル空襲を達成できずに撤退した。
※この「戦果」の解説は、「ニューギニア沖海戦」の解説の一部です。
「戦果」を含む「ニューギニア沖海戦」の記事については、「ニューギニア沖海戦」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/20 04:30 UTC 版)
1945年4月1日、徳本上飛曹の操縦する月光の偵察員として黒鳥少尉が出撃。時間は午前2時半。しかしながらB-29に接敵できずに帰還した。4月4日、13日にも第七飛行隊は邀撃を行ったが戦果はあげられなかった。これは電波誘導の不調が原因であった。茅ヶ崎の派遣隊は一一三号電波探信儀を装備し、月光にはFD-2レーダーが搭載されていた。また陸軍の機材からタチ一三号およびタキ一五号が支援に用いられたが、いずれも実用的な管制レベルに達していなかった。
※この「戦果」の解説は、「黒鳥四朗」の解説の一部です。
「戦果」を含む「黒鳥四朗」の記事については、「黒鳥四朗」の概要を参照ください。
戦果
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/21 15:05 UTC 版)
コルッカは単独での戦闘を得意としていたとされ、しばしば赤軍の進攻ラインの後方まで進出し、白夜と雪が覆う深い森で多数のソ連兵を狙撃した。敵軍の狙撃兵と1対1の決闘を行ったという逸話も残されており、数日間の追跡行の末、600ヤード (550m) の距離から放った一撃で敵狙撃兵を仕留めたという。 鹵獲したスコープ無しのモシン・ナガンM28狙撃銃の使用や、終戦までの105日間で達成した400名以上の狙撃による殺害、さらにスオミKP31サブマシンガンによる200名以上の殺害といった記録は、シモ・ヘイヘの装備や技術、戦果と重なる部分がある。また、軍に正式な記録も残されていないため、コルッカの戦績は、ソ連軍狙撃兵の好敵手として演出されたエルヴィン・ケーニッヒのように架空のものとする説がある。肯定的な説として、ケーニッヒ同様に、資料は意図的に抹消されたから残っていないとの主張もある。
※この「戦果」の解説は、「スロ・コルッカ」の解説の一部です。
「戦果」を含む「スロ・コルッカ」の記事については、「スロ・コルッカ」の概要を参照ください。
戦果
「戦果」の例文・使い方・用例・文例
- 戦果
戦果と同じ種類の言葉
- >> 「戦果」を含む用語の索引
- 戦果のページへのリンク