戦果誤認の原因
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/14 07:04 UTC 版)
「ブーゲンビル島沖航空戦」の記事における「戦果誤認の原因」の解説
同航空戦などで発生した戦果誤認の原因には、まず艦形の誤認について、新造艦やこの当時米軍が大量に建造した輸送艦などはその情報も限られるため誤認しやすく、また、攻撃時の防御砲火の閃光や砲煙、煙突からの火炎や煙、煙幕展張時の炎や煙、高速航行による波浪や航跡流、また雷光なども搭乗員にとっては爆弾命中や魚雷命中と錯覚する可能性がある。攻撃時の自爆の火炎や水柱は魚雷命中と誤認しやすく、夜間において自爆機の火炎はその視線上にある敵艦船が火炎に包まれたように見えるのは当然であるとしている。また航走時における魚雷の自爆や至近弾の水柱も魚雷命中と誤認しやすく、演習時にこれらの経験を得ることはまずないので、最初の実見においてこれを識別することはほとんどできず、実戦経験の不足が原因であったという意見もある。 また、現地司令部も生命をかけて戦った部下の報告を無下に否定することは忍びがたく、戦果の証明も遠い将来は別として、早急には行われがたく、そのような時期がくるかどうかも当時はさだかではなかった。上級司令部および大本営は担当司令部が報告した内容に自己判断で変更するのは担当司令部に対する「不審」と考えられる可能性があり、客観的な証拠(連合国の発表は必ずしも正確ではないと当時思われていた)がない限り無修正という無難な方法をとりやすいのが実情だった。もっとも、参加搭乗員も上級司令部も、発表された戦果が真実と思っていたわけではなく、ある程度割り引いて考えられてはいたが、それでも現実との差があった。こうした戦果誤認がこれ以後の軍令部、連合艦隊の作戦指導に影響を与えたのは事実だったが、当時軍令部でも敵空母の見積もりには神経を使っており、1944年1月下旬に軍令部が判断していた、対日戦に使用されている米空母の見積もりは正規空母15隻、護衛空母15隻とあり、ほぼ実数に近い。また、敵空母の見積もりについては現地司令部も様々な情報を基に判断しており、当時南東方面艦隊の首席参謀であった佐薙毅の1943年12月17日付業務日誌によれば「固有及び改装計十二を対日戦に使用 特空母四五隻中一五 - 一六隻(改装空母とはインディペンデンス級を、特空母とは護衛空母をさすと思われる)が太平洋にあり、うち八隻が南太平洋方面にあり。計二〇隻が撃沈破、数が合わぬ。空母に似たもの戦車運搬艦なり」と記されている。ここに記されている「わが戦果」とは、11月から12月にかけて起こったブーゲンビル島沖、ギルバート諸島沖、マーシャル諸島沖の各航空戦の総合戦果をさす。 大本営発表で報じられた戦果は、第三艦隊司令長官小沢治三郎中将と南東方面艦隊司令長官兼第十一航空艦隊司令長官草鹿任一中将の名前で提出された報告によるものであり、この指揮官とその参謀長はいずれも航空の専門家ではなかった。 大本営軍令部作戦部長だった中沢佑少将は、同航空戦やギルバート諸島沖航空戦における大戦果に関し、当時、連合艦隊司令部の報告から不確実を削除し、同司令部に戦果確認に一層配慮するように注意喚起していたが、同司令部より「大本営は、いかなる根拠をもって連合艦隊の報告した戦果を削除したのか」と強い抗議電が参謀長名(福留繁中将)で打電され、結局反論できず、うやむやになったという(そのため、1944年10月に福留中将が第二航空艦隊長官として実施した台湾沖航空戦でも誤認戦果をそのまま報じることになった)。また、この報告に対し、情報担当の軍令部五課は戦果はほぼ無いと判断しており、中沢はこの経験から作戦部に現地戦果の三分の一が実際の戦果と考えるように指導した。 大本営参謀本部情報参謀だった堀栄三陸軍中佐は、1943年12月当時に米軍戦法の研究のため各種の統計をとっている際、ブーゲンビル島沖海戦とギルバート諸島沖航空戦の戦果に疑問を感じたという。戦果報告は合わせて撃沈だけでも戦艦3、航空母艦14、巡洋艦9、駆逐艦1、その他4。撃破は、戦艦2、航空母艦5、巡洋艦3、駆逐艦6、その他2。さらにマーシャル諸島沖航空戦の戦果は「撃沈 中型空母1 大破 大型空母1」であった。しかし、これらの戦果がすべて正しいとすると、この時点で計算上は米海軍に空母は一隻もなく、米機動部隊の活動能力はゼロであるはずだった。それならばもう太平洋の戦いの勝敗は決着しているはずであるにも関わらず、現実には米海軍の攻勢は奇襲が強襲に代わりむしろ勢いを増すばかりであった。「海戦」と名のつくものの戦果の歯切れの悪さに比べると、「航空戦」の戦果はいつも突出していた。そこに注目した堀は「第一線の航空部隊では、各飛行機の報告をどのように審査しているのだろう?」という疑問を持つようになった。調査した結果わかったことは、真珠湾攻撃の際は攻撃後に航空機による写真撮影が行われ、そこで戦果の確認がなされたが、その後の航空戦では真珠湾攻撃の時のような戦果の確認ができていないということだった。そのため現地の司令官も搭乗員の報告を信ずるより他なく、また搭乗員の報告も、戦闘参加者以外の誰かが写真撮影などで冷静に戦果を見届ける手段がない限り、極限に立たされた人間には微妙な心理が働き、誇大報告は避けられないと堀は結論づけている。
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