第十一航空艦隊 (日本海軍)
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第十一航空艦隊は、大日本帝国海軍の部隊。略称は11AF[1]。
注釈
出典
- ^ 戦史叢書91 1975, p. 002a付表第二 聯合艦隊編制推移表(昭和十四年十一月十五日~十六年十二月十日)
- ^ 戦史叢書91 1975, pp. 512a-513第六艦隊・第十一航空艦隊新編
- ^ 戦史叢書91 1975, pp. 371–373.
- ^ 戦史叢書91 1975, pp. 373–375対米支作戦―第五艦隊登場・聯合艦隊司令長官の東正面作戦統一指揮
- ^ 戦史叢書91 1975, p. 374.
- ^ a b 戦史叢書91 1975, p. 513.
- ^ 戦史叢書91 1975, pp. 500–502昭和十六年度帝国海軍作戦計画/年度戦時編制 ― 第一・第十一航空艦隊登場
- ^ 戦史叢書91 1975, p. 514.
- ^ a b c 戦史叢書91 1975, p. 002b付表第二
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 91頁
- ^ a b 戦史叢書79 1975, pp. 269–270聯合航空隊の改編
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 94-95頁
- ^ 戦史叢書79 1975, pp. 271–272〔六〇一号作戦〕
- ^ 戦史叢書79 1975, pp. 272a-276〔一〇二号作戦〕
- ^ 戦史叢書79 1975, p. 275a二 陸軍機の協同
- ^ 戦史叢書79 1975, p. 272b.
- ^ 戦史叢書79 1975, p. 275b三 一式陸上攻撃機の初出撃
- ^ 戦史叢書79 1975, pp. 274a-275一 ツツイラ号事件
- ^ a b c 戦史叢書79 1975, p. 274b.
- ^ 戦史叢書79 1975, pp. 275c-276四 オ号作戦
- ^ 戦史叢書24 比島・マレー方面海軍進攻作戦 94頁
- ^ 戦史叢書79 1975, p. 276五 一〇二号作戦の総合戦果
- ^ 戦史叢書79 1975, p. 279航空部隊の引き揚げと爾後の作戦
- 1 第十一航空艦隊 (日本海軍)とは
- 2 第十一航空艦隊 (日本海軍)の概要
- 3 歴史
- 4 編制
- 5 要職
第十一航空艦隊
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1941年1月15日、第十一航空艦隊参謀長。 1941年1月14日頃、連合艦隊司令長官山本五十六大将から第十一航空艦隊参謀長の大西へ手紙があり、1月26日、27日頃、大西は旗艦長門に座乗する山本を訪ねた。山本から大西が受け取った手紙は「国際情勢の推移如何によっては、あるいは日米開戦の已むなきに至るかもしれない。日米が干戈をとって相戦う場合、わが方としては、何か余程思い切った戦法をとらなければ勝ちを制することはできない。それには開戦劈頭、ハワイ方面にある米国艦隊の主力に対し、わが第一、第二航空戦隊飛行機隊の全力をもって、痛撃を与え、当分の間、米国艦隊の西太平洋進行を不可能ならしむるを要す。目標は米国戦艦群であり、攻撃は雷撃隊による片道攻撃とする。本作戦は容易ならざることなるも、本職自らこの空襲部隊の指揮官を拝命し、作戦遂行に全力を挙げる決意である。ついては、この作戦を如何なる方法によって実施すればよいか研究してもらいたい。」という要旨であった。山本は福留繁に対し「わざわざ傍系の大西に計画の検討をたのんだのは、自信がつくまで私個人の研究に止めておきたいからだ」と語っている。 大西は鹿屋司令部に戻り、幕僚の前田孝成に詳細を伏せて真珠湾での雷撃について相談するが、真珠湾は浅いため技術的に不可能だと言われた。2月初旬、今度は第1航空戦隊参謀源田実を呼びつけ、中旬に訪れた源田に大西は山本からの手紙を見せ同様の質問をする。源田は、雷撃は専門ではないから分かりかねるが研究あれば困難でも不可能ではない、できなくても致命傷を与えることを考えるべき、空母に絞れば急降下爆撃で十分。問題は接近行動にあるという回答をする。また大西は機密保持を第一にしたいとし攻撃は成果が確認できる昼がいいと考えを述べる。大西は源田に作戦計画案を早急に作るよう依頼して、源田は2週間ほどで仕上げて提出、それに大西が手を加えて作案して、3月初旬ごろ山本に提出した。大西は、戦艦には艦上攻撃機の水平爆撃を行うことにして、出発を択捉島単冠湾として案をまとめた。9月頃、源田が大西から参考のため手渡されたものには、雷撃が不可能でも艦攻は降ろさず、小爆弾を多数搭載し補助艦艇に攻撃を加え戦艦に致命傷なくても行動できなくするようにするとなっていたという。 一方で大西は、真珠湾内の魚雷発射は水深が浅いため不可能なこと、ハワイ周辺の哨戒圏から機密保持がむずかしいことの二点を山本に説明し、福留にも「長官にあの計画を思いとどまるようにいってほしい」と頼んでいる。大西は「日米戦では武力で米国を屈服させることができないから早期戦争終末を考え、長期戦争となることはできるだけ避けるようにする必要がある。そのためにも真珠湾攻撃のような米国を強く刺激する作戦は避けるべきである」との見解を吉岡忠一に漏らしている。1941年9月24日軍令部において大西は草鹿龍之介の真珠湾攻撃への悲観論に同調し、10月初旬には二人で山本にフィリピン作戦に支援すべきと具申するが大西は黒島亀人に説得される。山本は大西と草鹿に「ハワイ奇襲作戦は断行する。両艦隊とも幾多の無理や困難はあろうが、ハワイ奇襲作戦は是非やるんだという積極的な考えで準備を進めてもらいたい」旨を述べ、さらに「僕がいくらブリッジやポーカーが好きだからといってそう投機的だ、投機的だというなよ。君たちのいうことも一理あるが、僕のいうこともよく研究してくれ」と話した。 大東亜戦争開戦時にはフィリピン攻略戦に参加。10月初旬の鹿屋図演において第3航空隊は零戦によるマニラ周辺への直接攻撃を提案。計画していた小空母を使用した戦闘機隊の効率の悪さ、戦闘機と陸上攻撃機の協同の難から柴田武雄が提案した。日華事変の時、零戦は430海里進攻の経験があり燃料消費量を調整すれば500海里も可能と主張する。しかし第11航空艦隊参謀長の大西は「君の意見は飛行実験部的意見にすぎない」と一蹴し、司令部も実績がない、作戦を変更するには資料不足と却下した。そのため第3航空隊は航続力延伸の研究し、亀井凱夫司令が意見書として10月末に空戦、射撃訓練の時間さえ十分ではないので着艦訓練は不可能、空母使用はやめるべきという内容で提出され大西参謀長は作成者の柴田に直接読むように許し、「わかった。必ず山本五十六に納得させる。以後空戦、夜間編隊発進、遠距離侵攻に必要な訓練を行え」と内命した。柴田はこの時ほど人間大西の偉大さを感じたことはないという。 1942年3月1日、航空本部出仕として内地へ帰還途中、連合艦隊司令部のある旗艦大和を訪問してフィリピン、インドネシア方面の作戦状況を報告した。その際に所見として、軍備の中心は航空である、戦艦はこれまでとは違った役割に使える兵器に転落したと説いたが、連合艦隊参謀長宇垣纏からはフィリピンやインドネシアなどの陸続きの作戦から結論を出すのは早すぎると応酬された。 1942年3月20日、海軍航空本部総務部長に就任。5月に、陸海軍の将官や政界・財界の名士数十名で構成される「国策研究会」というグループが勉強会の講師として大西を招いた。大西はその席で「上は内閣総理大臣、海軍大臣、陸軍大臣、企画院総裁、その他もろもろの長と称するやつらは、単なる“書類ブローカー”にすぎない。こういうやつらは、百害あって一利ない。すみやかに戦争指導の局面から消えてもらいたい。それから戦艦は即刻たたきこわして、その材料で空軍をつくれ、海軍は空軍となるべきである」と持論である海軍不要論を唱えた。他の一同が白けた様子を見て大西はにやりとしていたとして、このような暴言を吐いても不問とされたのは大西ならではであったとする意見もある。 1942年9月、アメリカから交換船浅間丸で帰国した柏原中学の同級生徳田富二の慰労会を開催したさいに、徳田から「真珠湾攻撃はあれでよかったのか?」と聞かれた大西は、「いかんのだなぁ」「あれはまずかったんだよ。あんなことをしたために、アメリカ国民の意志を結集させてしまったんだ。それが、このごろの海戦に現れてきとるよ」と嘆いている。
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