昭和18年 (みずのとひつじ 癸未)
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年(年号) | |
●1923年 (大正12年) | ■関東大震災 |
●1928年 (昭和3年) | ■初の普通選挙実施 |
●1932年 (昭和7年) | ■五・一五事件 |
●1936年 (昭和11年) | ■二・二六事件 |
●1941年 (昭和16年) | ■対英米宣戦布告 |
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●1945年 (昭和20年) | ■ポツダム宣言受諾 |
●1946年 (昭和21年) | ■日本国憲法公布 |
●1951年 (昭和26年) | ■サンフランシスコ講和条約 |
●1953年 (昭和28年) | ■テレビ放送開始 |
●1956年 (昭和31年) | ■国際連合加盟 |
●1960年 (昭和35年) | ■東京タワー完成 |
●1960年 (昭和35年) | ■日米新安保条約調印 |
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1943年
(昭和18年 から転送)
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1943年(1943 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、金曜日から始まる平年。昭和18年。
注釈
- ^ 文庫化時に『凶鳥〈フッケバイン〉 ヒトラー最終指令』に改題。
出典
- ^ “世界的指揮者、マリス・ヤンソンスさんが死去 76歳:朝日新聞デジタル”. 朝日新聞デジタル. 2020年12月23日閲覧。
- ^ “『悪魔のいけにえ』のトビー・フーパー監督死去、74歳”. AFPBB News (2017年8月28日). 2020年12月16日閲覧。
- ^ “倉木麻衣父“倉木パパ”こと山前五十洋さん逝く「麻衣に会いたい」の言葉残し”. asagei biz (株式会社徳間書店). (2020年4月7日) 2020年10月28日閲覧。
- ^ "歌手の梓みちよさん死去 76歳「こんにちは赤ちゃん」「二人でお酒を」". Sponichi Annex. スポーツニッポン新聞社. 3 February 2020. 2020年11月20日閲覧。
- ^ “ブラックホール撮影「ありがとう」 翌日逝った天文学者”. 朝日新聞デジタル (2019年5月31日). 2020年10月31日閲覧。
- ^ “林隆三さん急死 先月28日、熱唱ライブ直後に突然倒れる”. スポニチ Sponichi Annex 芸能 (2014年6月10日). 2020年10月30日閲覧。
- ^ “サム・シェパードが死去。ライター、カウボーイ、真の意味での愛国主義者”. Yahoo!ニュース (2017年8月1日). 2020年11月13日閲覧。
- ^ ロバート・ウェストール『ブラッカムの爆撃機』岩波書店、2006年、28,30,34-40,59,74-103,108,124-127頁。ISBN 978-4-00-024632-3。
- ^ 小澤さとる『サブマリン707 3』ビーグリー、2016年、115-130,133,143,176,177,255頁。
- ^ 佐藤大輔『凶鳥〈フッケバイン〉 ヒトラー最終指令』角川書店、2003年、10,274,275,322,346頁。ISBN 978-4-04-373201-2。
- ^ 『ロケットの夏』オープニングの年表より。
- ^ foca『STARDUST SQUADRON 星空に一番近い場所1』エンターブレイン、2010年、86-88,243頁。ISBN 978-4-04-726777-0。
- ^ foca『STARDUST SQUADRON 星空に一番近い場所2』エンターブレイン、2010年、212-218,231頁。ISBN 978-4-04-726823-4。
昭和18年(1943年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2015/01/09 09:09 UTC 版)
「第五航空隊」の記事における「昭和18年(1943年)」の解説
1月24日、水戦でアムチトカ島コンスタンティン湾を偵察。翌日より3日連続、水戦2機でコンスタンティン湾爆撃。 2月1日、君川丸で水戦6・水偵2搬入。翌日全力でコンスタンティン湾爆撃。 2月14日、君川丸で搬入を図るが、キスカ島空襲のため沖合で射出。水偵5機のうち1機落伍。零式水上観測機2機ともキスカ島到達に失敗。 2月19日、コンスタンティン湾偵察に向かった水戦2機喪失。 3月10日、君川丸で水戦6・水偵3がアッツ島に到着。 4月、相次ぐ空襲により、アッツ島の稼動機は1機、キスカ島の稼動機は0となる。 5月12日、アッツ島地上戦開始、29日玉砕(四五二空の38名も玉砕)。 5月18日、第十二航空艦隊新編、隷下第二十七航空戦隊に転籍。 5月27日、キスカ島撤収開始。搭乗員を伊号第七潜水艦・伊号第二十一潜水艦で幌筵島に後送。 6月、幌筵島撤収完了。別飛沼に基地設営(水戦12・水偵8・水観8) 7月19日、占守島に敵機来襲。水戦で追撃したが会敵せず。 10月1日、水戦隊解散。上旬のうちに内地帰還。 11月、館山飛行場に帰還。再編・練成開始。 以後、内地近海の対潜哨戒・船団護衛に従事。 1945年1月1日、解隊。 館山撤退後は、日本近海の偵察部隊として平常の任務をこなした。要員は南方戦線に引き抜かれ、部隊の錬度は下がる一方であった。フィリピン陥落後に海軍航空隊の大規模な編成変更が実施され、戦力外となった四五二空は解散して実施部隊の補充に充てられた。
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昭和18年(1943年)
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「第九三八海軍航空隊」の記事における「昭和18年(1943年)」の解説
4月15日 特設水上機母艦国川丸、運送船に転籍。艦載機(零式水上観測機16機) はショートランドに残留し、九三八空を新編。 6月30日 レンドバ島にアメリカ軍上陸。第六空襲部隊を九五八空などと結成。 7月1日 レンドバ島を偵察。以後、9月まで偵察・銃爆撃に従事。 9月20日 コロンバンガラ島守備隊の撤退に協力。防空哨戒・魚雷艇掃討に従事。 11月1日 ブカ島に撤退。ソロモン諸島の哨戒は継続。 10月27日 モノ岬への連合軍上陸部隊を発見、翌日の「ろ号作戦」発動に貢献。 11月12日 第四次ブーゲンビル島沖航空戦に索敵隊として参加(これをもってろ号作戦終了)。
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昭和18年
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「第十四航空隊 (2代)」の記事における「昭和18年」の解説
9月1日 第十一航空艦隊第二十二航空戦隊に転属。 9月14日 マキンより1機でエスピリッツサント島を空襲。 9月18日 マキン空襲。機体全損。 10月21日 水上戦闘機隊を第九〇二海軍航空隊に移譲。 11月14日 ギルバート諸島・マーシャル諸島全土に大空襲。イミエジ基地で3機喪失、ウォッゼ環礁に撤退。 12月7日 二十二航戦所属部隊はマリアナ諸島に撤退・6機に回復、マーシャル防衛は第二十四航空戦隊が継承。 鴨遊波夫司令以下、司令部および基地要員の多くはウォッゼに残留。
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昭和18年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 05:21 UTC 版)
竣工後、横須賀鎮守府部隊に編入される。1943年(昭和18年)1月6日、涼月機関長は林崎武雄少佐に交代。本艦は佐世保から横須賀に回航され、1月9日に横須賀着。機銃増設工事を行う。秋月型2番艦照月沈没時主計長の高戸顕隆主計中尉も、第61駆逐隊附として涼月に着任した。秋月型2隻(涼月、初月)は1月15日付で第三艦隊(司令長官小沢治三郎中将・海軍兵学校37期)に編入され、第十戦隊(司令官木村進少将・40期)所属の第61駆逐隊(前年10月7日編制、駆逐隊司令則満宰次大佐、海兵46期)に配属される。第61駆逐隊は秋月型1番艦秋月、同型2番艦照月の2隻で編成されていた。だが照月(照月艦長折田常雄中佐)は前年12月12日に、ガダルカナル島輸送作戦従事中に米軍魚雷艇に雷撃されて沈没。涼月・初月の編入にともない第61駆逐隊から除籍されている。第61駆逐隊は秋月型3隻(秋月、涼月、初月)で編制されることになった。 1月15日、横須賀を出発して呉に回航。航海中の1月16日未明、61駆(涼月、初月)は潮岬沖で浮上していたアメリカ潜水艦ハダック (USS Haddock, SS-231) を発見するも逃げられた。同時期の1月19日、ソロモン諸島で行動中の秋月(第十戦隊旗艦)は米潜水艦ノーチラス(USS Nautilus, SF-9/SS-168)の雷撃で大破。秋月被雷時に木村司令官は負傷したため、1月21日附で第二水雷戦隊司令官小柳冨次少将が第十戦隊司令官に任命された。ひきつづき内地にあった涼月は、2月1日から15日まで呉海軍工廠において機銃増備などの工事を受ける。この間の2月3日、第61駆逐隊司令は則満大佐から大江覧治大佐(海兵47期、前職第19駆逐隊司令)に交代した。2月19日、第61駆逐隊(涼月、初月)は日本近海に進出、ガダルカナル島攻防戦を終えてトラック泊地から佐世保へ回航中の日本艦隊(第三戦隊司令官栗田健男中将、金剛型戦艦〈金剛、榛名〉、水上機母艦〈日進〉、利根型重巡洋艦〈利根〉、白露型駆逐艦〈時雨〉)を出迎えた。 3月上旬、涼月乗組の高戸主計中尉は横須賀鎮守府附となり、本艦を離れた。3月22日、駆逐艦4隻(第61駆逐隊〈涼月、初月〉、第15駆逐隊〈陽炎〉、第27駆逐隊〈夕暮〉)は、第二航空戦隊(司令官角田覚治中将・海兵39期)の空母2隻(隼鷹、飛鷹)、第八戦隊(司令官岸福治少将)の重巡洋艦2隻(利根、筑摩)を護衛して瀬戸内海を出撃し、3月27-28日にトラック諸島に到着。この頃、日本海軍はソロモン諸島、ニューギニア方面への航空攻勢作戦である「い号作戦」の計画を進めていた。同作戦実施に際し、パイロットはもちろんのこと、整備員など航空要員をラバウル(ニューブリテン島)に輸送する必要があった。4月2日、2隻(涼月、初月)はラバウルへの航空要員輸送のためトラックを出撃。4月3日にはカビエン(ニューアイルランド島)で重巡洋艦青葉が空襲を受け大破するなど、同方面も空襲に晒されていた。4月4日にラバウルに到着後、直ちに出港、4月6日にトラックに帰投した。4月中旬から5月中旬にかけては、トラックに出入りする艦船への護衛任務につく。 5月12日、連合軍はアリューシャン列島のアッツ島に上陸を敢行、アッツ島の戦いが始まった。連合艦隊は主戦力を東京湾に集結し北方作戦に備えることを決定。前連合艦隊長官山本五十六大将(元帥、海兵32期)の遺骨(4月18日海軍甲事件で戦死)内地帰還を兼ねて、大和型戦艦2番艦武蔵(古賀峯一連合艦隊長官座乗)がトラック泊地より内地へ帰ることになる。5月17日、駆逐艦5隻(第61駆逐隊〈涼月、初月〉、第24駆逐隊〈海風〉、第27駆逐隊〈時雨、有明〉)は戦艦3隻(武蔵、金剛、榛名)、空母飛鷹、重巡2隻(利根、筑摩)を護衛してトラック泊地を出発。5月22日、横須賀帰着(武蔵のみ木更津冲入泊)。5月29日、アッツ島の日本軍守備隊は玉砕。6月上旬、本艦は西日本へ移動し、6月19日から5日間、呉で入渠した。 6月21日、第十戦隊司令官は小柳少将から大杉守一少将に交代。6月30日、内地回航中に船体断裂に見舞われた秋月は長期修理を余儀なくされて第61駆逐隊から除籍(7月5日長崎到着)、同隊は秋月型2隻(涼月、初月)となった。 7月8-9日、南海第四守備隊(守備隊長道下義行陸軍大佐)を各艦に便乗させ、空母4隻(瑞鶴、翔鶴、瑞鳳、冲鷹)、水上機母艦日進、重巡洋艦3隻(利根、筑摩、最上)、軽巡洋艦2隻(大淀、阿賀野)、駆逐艦部隊(第4駆逐隊〈嵐、萩風〉、第17駆逐隊〈磯風〉、第61駆逐隊〈涼月、初月〉、夕雲型駆逐艦〈玉波〉)は日本本土を出発した。暗号解読や僚艦からの通報により、2隻の米潜水艦ティノサ(USS Tinosa, SS-283)とポーギー (USS Pogy, SS-266)がトラック諸島近海で小沢機動部隊を待ち伏せていた。ティノサは距離3500mで魚雷4本を発射するが回避され、小沢艦隊は被害なくトラック泊地に到着した。 トラック着後、第61駆逐隊は機動部隊第一部隊の指揮下に入る。7月17日、大本営は南海第四守備隊の南東方面転用(第17軍の戦闘序列編入)を発令する。7月19日、第61駆逐隊(涼月、初月)は第八戦隊(利根、筑摩)、第十戦隊旗艦阿賀野、巡洋艦2隻(最上、大淀)、第4駆逐隊(嵐、萩風)、第17駆逐隊(磯風)と共にトラックを出撃。ラバウル到着後、第十戦隊は二手にわかれてブイン輸送とブカ島輸送を実施する。7月21日夜、第十戦隊はラバウルを出撃。第61駆逐隊(涼月、初月)は南海第四守備隊を載せ、7月22日にブカ島に到着する。輸送任務を成功させ(南海第四守備隊はブーゲンビル島へ進出)、26日にトラック泊地へ戻った。なおブーゲンビル島のブインへ向かった日進隊(日進、萩風〔第十戦隊旗艦〕、嵐、磯風)はアメリカ軍機の空襲を受け、日進は撃沈された。 その後、第61駆逐隊(涼月、初月)は7月時下旬から9月上旬にかけてトラックとラバウル、クェゼリン環礁との間で輸送任務に従事しつつ、タンカーや練習巡洋艦鹿島などの護衛も行った。8月15日、第61駆逐隊に秋月型駆逐艦6番艦若月が編入され、同隊は秋月型3隻編制(涼月、初月、若月)となった。若月は第二水雷戦隊・第十戦隊の僚艦と共に主力艦部隊(大和、長門、扶桑、愛宕、高雄)等を護衛して8月23日トラック泊地に到着した。秋月型3隻を揃えた第61駆逐隊は、9月と10月、機動部隊(第二水雷戦隊、第十戦隊を含む)に随伴してマーシャル諸島方面へ出撃したが、会敵の機会がなかった。10月31日、修理を終えた秋月が第61駆逐隊に復帰、同隊はようやく秋月型4隻(涼月、初月、若月、秋月)編制となった。 11月10日、ラバウルからトラックに向かっていた輸送船団はアメリカの潜水艦スキャンプ (USS Scamp, SS-277) に襲撃される。輸送船東京丸(摂津商船、6,484トン)が被雷。救援のため、61駆(涼月、初月)はトラックを出撃した。現場に到着して東京丸の援護にあたったものの、同船は浸水がひどくなって11月12日に沈没した。東京丸の沈没に先立つ同じ11月12日の朝、スキャンプはラバウル空襲で損傷を受けトラックに戻る途中の軽巡洋艦阿賀野(第十戦隊旗艦)に魚雷を命中させ、同艦を航行不能に陥らせた(随伴艦浦風)。東京丸の援護を終えて間もなく涼月は阿賀野・浦風の救援に駆けつけ、軽巡2隻(能代、長良)、駆逐艦部隊(涼月、初月、浦風、藤波、早波)という戦力で阿賀野をトラックまで護衛した。11月15日、各艦に護衛され、阿賀野(長良曳航)はトラック泊地に到着した。 12月1日、秋月(61駆)がトラック泊地に到着する。12月3日、阿賀野損傷時に負傷した大杉司令官は第十戦隊司令官を退任、木村進少将(初代第十戦隊司令官)が再び第十戦隊司令官に任命された。12月7日、重永主計大佐(重巡筑摩艦長)指揮のもと、61駆(涼月、初月)は大型艦2隻(瑞鶴、筑摩)を護衛してトラックを出港。12月12日、艦隊(筑摩、瑞鶴、涼月、初月)は呉に到着、第61駆逐隊は再び分散した。
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昭和18年(1943年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/24 13:38 UTC 版)
「第二航空隊」の記事における「昭和18年(1943年)」の解説
1月2日 二〇四空と共同でネルソン岬沖の輸送船団を攻撃。 1月14日よりケ号作戦発動。ニューギニア戦線は小康。 2月1日 イサベル沖海戦に15機出撃。2機喪失。 3月28日 18機でニューギニアオロ湾の船団を攻撃。 4月7日 「い号作戦」発動。Y攻撃準備。 4月11日 Y攻撃に22機出撃。 4月14日 第二次Y攻撃に出撃。 4月16日 第三次Y攻撃中止、い号作戦終了。 6月16日 ルンガ沖航空戦 24機で対艦攻撃。13機喪失。 6月30日 レンドバ島上陸開始。翌日まで8機で泊地爆撃。5機喪失。 7月2日 龍鳳飛行機隊ラバウル着。以後、龍鳳艦爆隊と共同。 7月5日 ニュージョージア島上陸開始。7機で泊地爆撃。 7月 戦闘機隊は解散となり、純艦爆隊として再編成。戦闘機および搭乗員は201空・204空に編入。 8月1日 レンドバ島泊地を16機で爆撃。 8月15日 ベララベラ島に敵上陸。25機で爆撃。 9月4日 サラモア沖の船団を8機で爆撃。 10月15日 ブナ沖の船団を15機で爆撃。14機喪失。 10月18日 第五〇一海軍航空隊ラバウル着。以後、五〇一空と共同。 10月25日 ラバウルに敵機襲来。2機邀撃に参加。 10月28日 「ろ号作戦」発動。11月1日に第一航空戦隊飛行隊ラバウル到着。 11月8日 第二次ブーゲンビル島沖海戦。五〇一空と合同で38機出撃。 11月12日 一航戦撤退。 11月17日 第五五二海軍航空隊ラバウル着。以後、五五二空と共同。 12月15日 ニューブリテン島マーカス岬に敵上陸。7機で爆撃。 12月17日 陸軍舟艇機動部隊のマーカス岬逆上陸を12機で支援爆撃。 12月21日 マーカス岬沖の船団を爆撃。31日まで断続的に実施。
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昭和18年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 01:16 UTC 版)
1943年(昭和18年)4月15日、海軍は戦時編制の改定を実施する。まず第21航空戦隊を南西方面艦隊からのぞき、第11航空艦隊に編入した。また第二南遣艦隊司令部を設置し、岩村清一中将が第二南遣艦隊司令長官に任命された。高須中将は南西方面艦隊長官専任となった。9月20日、日本海軍は第23航空戦隊と第28航空戦隊で第十三航空艦隊(基地航空艦隊)を新編し、南西方面艦隊に編入した。高須中将(南西方面艦隊長官)が第13航空艦隊司令長官を兼任した。また連合艦隊の軍隊区分により、第13航空艦隊で第3基地航空部隊を編成した。 11月15日、海上護衛戦を統轄する海上護衛総司令部(司令長官及川古志郎大将)が新編されると、第一海上護衛隊は南西方面艦隊からのぞかれて、海護総司令部の麾下となった。11月30日、日本海軍は第二南遣艦隊を二分割し、東インドネシアに第四南遣艦隊(司令長官山縣正郷中将)を新設した。第二南遣艦隊の担当は、蘭印地区にかわった。第四南遣艦隊も南西方面艦隊に編入され、連合軍の北上に備えた。しかし連合軍は直接フィリピンに上陸、第三南遣艦隊隊のみが迎撃する事態となった。
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