太平洋戦争前半
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1941年(昭和16年)12月8日の太平洋戦争(大東亜戦争)開戦時、「秋風」は台湾の高雄市所在で、不時着機の救難任務に従事した。秋風駆逐艦長は、森卓次少佐(海兵56期)であった。緒戦における第34駆逐隊(羽風、秋風、太刀風)は第十一航空艦隊に所属し、南方作戦(マレー作戦、比島作戦、蘭印作戦)における輸送や海上護衛作戦など、おもに後方での支援作戦に従事する。この頃になると峯風型は老朽化が進み、各艦とも最大発揮速力32ノット前後まで落ち込んでいた。 1942年(昭和17年)2月、「秋風」は蘭印作戦にともないインドネシアバンダ海のアンボン島方面に進出した。4月22日、アンボンを出発して内地にむかう。5月4日、秋風は舞鶴に帰投して、舞鶴海軍工廠で修理と整備をおこなった。6月8日、舞鶴を出発する。船団護衛をおこないつつ南東方面にむかい、6月22日にニューブリテン島のラバウルに進出した。8月7日以降ガダルカナル島の戦いが始まると、第34駆逐隊(秋風、羽風、太刀風)もラバウルを拠点にして、護衛任務や強行輸送任務(鼠輸送)に投入された。第一次ソロモン海戦における「秋風」は、水上機母艦「秋津洲」と共に日本軍基地航空隊(十一航空艦隊)不時着機の救助任務に従事している。9月1日、「秋風」はブカ島近海で空襲を受け小破。10月25日、空襲を受け中破。本艦は損傷を受けながら、最前線で活動を続けた。 1942年(昭和17年)12月24日、日本海軍は南東方面艦隊(司令長官草鹿任一中将、参謀長中原義正少将)を編制するが、同艦隊司令部は第十一航空艦隊と兼務であり、「秋風」以下第34駆逐隊もひきつづき南東方面艦隊/第十一航空艦隊直属隊として行動した。12月17日、僚艦「太刀風」は空襲をうけて損傷、いったん佐世保に戻って修理をおこなう。 1943年(昭和18年)1月23日、第34駆逐隊僚艦「羽風」が水上機母艦「秋津洲」を護衛中に米潜水艦「ガードフィッシュ」に撃沈され、同隊は2隻編制(秋風、太刀風)となった。3月14日、「秋風」はニューアイルランド島要港カビエンを出発、15日にカイリル島、16日にロレンガンに立ち寄り、17日カビエン着、18日迄にはラバウルへ戻った。この航海中、下記の虐殺事件が発生した。
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太平洋戦争前半
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駆逐艦「時津風」は第二水雷戦隊(司令官・田中頼三)第十六駆逐隊(司令・渋谷紫郎)に属し、 駆逐艦長は中原義一郎であった。開戦後はフィリピン攻略戦に従い、レガスピー上陸作戦などに参加している。 1942年(昭和17年)1月、海軍大尉に進級していた川島は潜水学校特修科学生となった。日本海軍において潜水艦は海兵出身者に人気のある進路ではなく、戸高一成は、海兵首席で潜水艦を志望したものは川島だけではないかと述べている。5月には「伊31潜水艦」水雷長に補された。同艦は竣工したばかりの新鋭艦で、8月まで慣熟訓練を行ってから南方へ進出し、ガダルカナル島への輸送任務に就いた。
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太平洋戦争 前半
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1940年(昭和15年)7月、「呂64」潜水艦長に補される。同艦は第七潜水戦隊第三十三潜水隊に属し、僚艦の艦長には藤森康男などがいた。第七潜水戦隊は、開戦前には第四艦隊に属し、南洋に配置された。司令官の大西新蔵の元には9隻の呂六〇型潜水艦があったが、大西が「南洋に配備することすら無理」、「実撃は無理」と述べているように、旧式潜水艦で艦内の環境も忍耐を要するものであった。宇野は真珠湾攻撃時にハウランド島方面で偵察等を行い、のちラバウル攻略戦にも参加している。 1942年(昭和17年)3月、「伊175」潜水艦長に就任する。同艦は1938年(昭和13年)12月に竣工した新鋭艦であり、先遣部隊に編入される。第十一潜水隊に所属しクェゼリン環礁に進出した。ここで同潜水隊に第二次K作戦の実施命令が発せられる。この作戦は「二式大艇」をもって真珠湾を偵察することを目的としていた。連合艦隊司令部はミッドウェー島攻略を予定しており、米海軍の動静を事前偵察しようと図ったのである。「伊175」の任務はオアフ島の南西80マイルへ進出し、オアフ島を監視すること、また気象情報を通報することであった。しかし米海軍は暗号解読からミッドウェー方面で大作戦が行われること察知しており、給油地に予定されていたフレンチフリゲート礁に水上艦艇を派遣したため作戦は中止となった。ミッドウェー海戦が生起したのはそれから5日後のことである。海戦中の「伊175」は散開線に就いていた。その後、「伊175」は豪州方面で交通破壊戦に従い、2隻(3028t)を撃沈し、1隻(3279t)を撃破した。ガダルカナル島の戦いにも参戦したが、11月には「日新丸」と接触事故が起こり、修理のため横須賀に帰港した。12月、「伊175」潜水艦長の任を後任に譲り、潜水学校教官に転じる。なお「呂64」、「伊175」の両艦とも後任艦長は「リスカム・ベイ」を撃沈する田畑直(海兵58期)であった。
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