第二水雷戦隊
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第二水雷戦隊(だいにすいらいせんたい)は、日本海軍の部隊の一つ。略称は二水戦(にすいせん)[1]。略字は2Sd[2]。
- 1 第二水雷戦隊とは
- 2 第二水雷戦隊の概要
第二水雷戦隊
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冬月修理中の11月15日、日本海軍は第一機動艦隊および第三艦隊を解隊する。第一海上護衛隊の空母海鷹と神鷹以外の航空母艦は、第一航空戦隊(連合艦隊附属)にまとめられた。機動部隊の護衛をになっていた第十戦隊も解隊された。この措置により、第41駆逐隊は第二艦隊麾下の第二水雷戦隊に編入された。同日付で第61駆逐隊が解隊され、第41駆逐隊に秋月型2隻(涼月、若月)が編入される。ただし、若月は11月11日にレイテ島オルモック湾で島風などと共に沈没しており(第三次多号作戦)、第41駆逐隊への編入は書類上の事である。第二水雷戦隊は軽巡洋艦矢矧(内地待機)、第2駆逐隊、第17駆逐隊、第41駆逐隊となった。 冬月の修理は11月18日頃に終わった。11月20日、第一水雷戦隊の解隊と二水戦統合に伴い、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将は第二水雷戦隊司令官に任命される。11月23日、第41駆逐隊(冬月、涼月)はマニラ方面への『緊急輸送作戦』に従事する空母隼鷹(第一航空戦隊)を護衛して呉を出撃した。 隼鷹隊は11月30日にマニラに到着して軍需品を陸揚げしたあと、12月3日に馬公に到着した。ここで、日本に戻る途中の金剛型戦艦榛名 や松型駆逐艦槇と合流する。12月6日、榛名艦長重永主計大佐の指揮下で馬公を出港する。佐世保入港直前の12月9日未明、部隊は野母崎沖でアメリカ潜水艦のウルフパックに発見された。レッドフィッシュの魚雷が命中した隼鷹は、中破したが佐世保に帰投できた。続いて槇がアメリカ潜水艦シーデビル かプライス の雷撃で損傷した。この輸送作戦の際、涼月ともども荒天に見舞われた際に船体にシワが発生した。 当時、連合艦隊と第一航空戦隊は航空母艦から発進する特別攻撃隊について準備をすすめていた。最初の構想時点では龍鳳を母艦に想定していたが、雲龍型航空母艦に変更される。第一航空戦隊では神武特別攻撃隊と呼称しており、一航戦司令官古村啓蔵少将は雲龍型2隻(天城、雲龍)と秋月型駆逐艦4隻(当時、就役艦〈冬月、涼月〉。他は未就役)による機動部隊の出撃を連合艦隊に意見具申した。しかし一航戦の意見具申の段階で、連合艦隊はすでに神武特別攻撃隊の母艦運用を断念していたとみられる。 冬月の修理は呉海軍工廠で行われ、12月27日までに終了。その後は瀬戸内海で訓練を行った。艦長が酔ったまま操艦し、座礁する一幕もあったという。この頃、艦橋左右に機銃台を設置し、25mm3連装機銃2基を増設、全体で7基となった。電探も22号電探が1基、13号電探が2基となった。 1945年(昭和20年)1月3日、第二水雷戦隊司令官は木村昌福少将から古村啓蔵少将へ交代した。1月10日、第41駆逐隊から霜月と若月が除籍され、同隊は冬月と涼月の2隻になった。 3月1日付で作間大佐(冬月駆逐艦長)は第43駆逐隊司令へ転出、山名寛雄中佐(海兵55期。当時、霞駆逐艦長)が冬月二代目駆逐艦長に任命された。また第41駆逐隊司令として、夕雲型駆逐艦風雲初代艦長等を歴任した吉田正義大佐(海兵50期)が着任する。吉田司令は冬月に将旗を掲げた。 3月19日、呉軍港空襲 で対空戦闘を行った。3月23日から27日まで呉海軍工廠第四船渠に入渠する。出渠後は(第一航空戦隊)を中心とする海上特攻隊(指揮官伊藤整一中将・海兵39期)とともに三田尻沖に移動した。事前の研究会で、大和を護る能力を持つ艦は長十cm高射砲を装備する秋月型2隻(冬月、涼月)しかなく、輪形陣の防空に大きな期待をかけることは出来ないことが確認されたが、輪形陣の半径を1.5〜2kmとする以上の妙案はでなかった。対空戦闘に備え砲塔の外周をロープでかこむなどの準備を行う。29日、大和と冬月は紫電改(第三四三海軍航空隊所属)を敵機と間違えて誤射した。
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第二水雷戦隊
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9月下旬、連合艦隊は電令作第727号をもって戦艦山城、航空戦艦伊勢および第十一水雷戦隊により、「丁三号輸送部隊」を編成した。これは、日本陸軍の甲支隊の一部をカロリン諸島ポナペ島へ輸送する任務である。甲支隊の輸送は二回にわけて行われることになり、丁三号輸送部隊は第二次輸送であった。第二次進出部隊は、支隊本部の一部と陸軍兵約2000名および同行の海軍第一通信隊であった。 10月15日、丁三号輸送部隊(山城、伊勢、龍田、第32駆逐隊〈早波、涼波、藤波〉)は佐伯および豊後水道を出撃する。10月20日、トラック諸島に到着した。戦艦搭載の物件を、各艦と輸送船団に移載する。第十一水雷戦隊(龍田〔旗艦〕、早波、涼波、藤波)は三回次にわたり、ポナペ輸送を実施した。任務終了後の10月28日、丁三号輸送部隊は任務を解かれた。十一水戦は空母隼鷹や雲鷹等と共に内地へ戻っていった。 一方、第32駆逐隊は同28日付で第二水雷戦隊に復帰する。遊撃部隊警戒隊所属となった。第二水雷戦隊司令官と第二艦隊司令長官栗田健男中将は、それぞれ第32駆逐隊を視察した。 11月3日、二水戦の5隻(能代、早波、涼波、藤波、玉波)は、栗田中将指揮下の重巡洋艦部隊と共にトラック泊地を出撃する。南東方面部隊遊撃部隊として、北部ソロモン諸島周辺の敵艦隊撃滅を狙うことになった。トラック泊地を出撃、ニューブリテン島のラバウルに向け南下を開始する。途中、島風と天津風(第16駆逐隊司令)が護衛していたタンカー2隻のうち、「日章丸」(昭和タンカー、10,526トン)がニューアイルランド島カビエン北方約180浬地点で空襲を受け、損傷した。重巡鳥海と涼波は日章丸救援の命令をうけ、遊撃部隊から分離する。第16駆逐隊司令島居威美大佐の指揮下に入った涼波は、日章丸の救援を行った。このとき、ブーゲンビル島沖海戦で損傷した第五戦隊(妙高、羽黒)がラバウルを出発してトラック泊地にむかっており、羽黒が日章丸を曳航した。
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第二水雷戦隊
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略称は二水戦。前進部隊であり、強力な装備と長大な航続力が要求され、常に最新の駆逐艦が投入された。艦隊決戦における夜戦では、二水戦と第五戦隊(妙高、那智、羽黒)により第二夜戦隊を編成した。太平洋戦争開戦時は引き続き第二艦隊に所属し、南方作戦にともなう比島作戦や蘭印作戦に参加した。ミッドウェー作戦では輸送船団の護衛部隊となった。1942年(昭和17年)7月以降は、二水戦にも白露型駆逐艦が配備された。1943年(昭和18年)7月中旬のコロンバンガラ島沖海戦で旗艦神通が沈没し、二水戦司令部は全滅する。日本海軍は、二水戦と第四水雷戦隊を統合して二水戦を再建した(第四水雷戦隊司令官高間完少将が二水戦司令官に補職、旗艦長良)。1944年(昭和19年)11月中旬の多号作戦で旗艦島風が沈没して二水戦司令部は全滅し、第一水雷戦隊司令部を二水戦に転用した(第一水雷戦隊司令官木村昌福少将が二水戦司令官に補職)。また第十戦隊を解隊し、同部隊所属の陽炎型駆逐艦や秋月型駆逐艦を編入した。1945年(昭和20年)4月7日の坊ノ岬沖海戦で所属艦の大半を喪失し、4月20日付で第二艦隊と共に解隊された。所属艦の変遷や歴代司令官など、詳細は当該記事を参照のこと。 詳細は「第二水雷戦隊」を参照
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