冬月 (駆逐艦)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/05/19 09:12 UTC 版)
冬月 | |
---|---|
![]() |
|
基本情報 | |
建造所 | 舞鶴海軍工廠 |
運用者 | ![]() |
艦種 | 駆逐艦 |
級名 | 秋月型 |
艦歴 | |
計画 | 1941年度(マル急計画) |
起工 | 1943年5月8日 |
進水 | 1944年1月20日 |
竣工 | 1944年5月25日 |
除籍 | 1945年11月20日 |
その後 | 工作艦として運用後、1948年5月に上部構造物を撤去。船体は福岡県若松港の防波堤となる |
要目(計画) | |
基準排水量 | 2,701 トン |
公試排水量 | 3,470 トン |
全長 | 134.2 m |
最大幅 | 11.6 m |
吃水 | 4.15 m |
主缶 | ロ号艦本式缶×3基 |
主機 | 艦本式タービン×2基 |
出力 | 52,000馬力 |
推進器 | スクリュープロペラ×2軸 |
速力 | 33.0ノット (61.1 km/h) |
燃料 | 重油:1,080 t |
航続距離 | 8,000海里 (15,000 km)/18ノット |
乗員 | 263名/307名[1]/343名[2] |
兵装 |
|
レーダー | |
ソナー | 九三式水中探信儀×1基 (九三式水中聴音機×1基)[注 2] |
冬月(ふゆつき)[6][注 3]は、日本海軍が太平洋戦争後半で運用した駆逐艦[8]。秋月型駆逐艦の8番艦である[9]。艦名は「冬の月」より[7]。
秋月型は、この冬月以降で船体各部形状の簡略化・艦橋の大型化などの変更が加えられたため[10]、冬月型として区分する分類法もある[11][12]。
「つ」に濁点が付いた艦名が、海上自衛隊の護衛艦「ふゆづき」に継承された。
概要
日本海軍が舞鶴海軍工廠で建造した秋月型駆逐艦[9][13]。 1943年(昭和18年)5月8日、起工[13]。1944年(昭和19年)5月25日に竣工して[13]、訓練部隊の第十一水雷戦隊に所属した[8]。 6月末から7月初旬にかけて[8]、第五艦隊各艦とともに小笠原諸島および硫黄島方面への緊急輸送作戦に従事した[14][15]。 7月中旬には[8]、軽巡洋艦長良や練習巡洋艦鹿島等とともに、沖縄方面輸送作戦に従事した[16][17]。
7月15日、日本海軍は秋月型駆逐艦2隻(冬月、霜月)で第41駆逐隊を編制する[18][19]。 8月10日、第41駆逐隊は空母「雲龍」、軽巡洋艦「五十鈴」と共に東京湾方面の警戒任務に従事した[20]。
10月中旬、第41駆逐隊は軽巡「大淀」の横須賀~内海西部回航を護衛するが[21]、10月12日にアメリカ潜水艦「トレパン」に襲撃され[22]、被雷した「冬月」は艦首に損傷を受けた[23]。10月17日には姉妹艦の「涼月」もアメリカ潜水艦の雷撃で艦首を損傷し[24]、2隻ともレイテ沖海戦に参加できなくなった[25]。またレイテ島増援作戦(多号作戦)支援のため第二遊撃部隊に編入されていたが、戦闘には参加していない[26]。
11月15日、第61駆逐隊の解隊により、姉妹艦「涼月」が第41駆逐「隊に編入される[27][28]。また空母機動部隊と第十戦隊の解隊により[29]、第41駆逐隊も第二艦隊麾下の第二水雷戦隊に所属した[30]。 「冬月」の修理は11月18日に完成した[23]。修理後、「冬月」と「涼月」は空母「隼鷹」のフィリピン輸送作戦を護衛する[31]。戦艦「榛名」と駆逐艦「槇」を加えた内地への帰路ではアメリカ潜水艦の集団に襲われ、「隼鷹」と「槇」が被雷して損傷した[8][32]。
1945年(昭和20年)4月上旬、第41駆逐隊は第二艦隊[注 4]の沖縄水上特攻作戦に参加する[34][35]。4月7日の戦闘(坊ノ岬沖海戦)で「冬月」の損傷は軽微だった[36]。 4月20日、第二水雷戦隊の解隊にともない、第41駆逐隊は第三十一戦隊に編入される[37]。また第二艦隊の解隊により、第三十一戦隊も連合艦隊附属になった[38]。 5月20日、第三十一戦隊は新編の海上挺進部隊に編入された[39]。「冬月」は小規模な対空戦闘に参加したあと、終戦の日を迎える[8]。
8月20日、門司港で機雷により損傷[13][40]、艦尾を切断する[25]。特別輸送艦に指定されたが復員航海には従事せず、工作艦として掃海作戦を支援した[40]。任務終了後、佐世保に回航され上部構造物を撤去する[25]。1948年(昭和23年)5月より、「冬月」と「涼月」「柳」は北九州市若松区若松港の防波堤として利用された(軍艦防波堤)[41]。
艦歴
建造経緯
1941年(昭和16年)度計画(マル急計画)による乙型一等駆逐艦の第361号艦[42][43]。舞鶴海軍工廠で1943年(昭和18年)5月8日に起工した[43][44]。当初は三菱長崎造船所で建造される予定であったが、艦型変更と線表改訂により舞鶴での建造に変更された[45]。 10月1日、第361号艦は正式に「冬月」と命名され[6]、同日付で秋月型駆逐艦に類別された[9]。
1944年(昭和19年)1月20日、進水し[43][46]、同日付で横須賀鎮守府に入籍[47]。 4月21日付で、横田保輝少佐[注 5]が臨時艤装員長に任命される[48]。 5月5日、横田少佐は艤装員長の職務を解かれた[注 6]。 後任の艤装員長として作間英邇中佐[50]が着任した[51]。作間は駆逐艦「綾波」が第三次ソロモン海戦で沈没[52]した時の駆逐艦長で、その後は駆逐艦「玉波」艦長等を歴任していた[53]。 冬月は5月25日に竣工した[54][55]。同日付で、作間中佐は正式に「冬月」の初代駆逐艦長となる[56]。
第十一水雷戦隊
就役後、「冬月」は訓練部隊の第十一水雷戦隊に編入され[注 7]、瀬戸内海に回航されて訓練に従事する。 6月17日夜、大本営陸軍部(参謀総長東条英機陸軍大将)はサイパンの地上兵力を支援するため、第五艦隊と輸送艦によるサイパン島強行輸送作戦を決定、これを「イ号作戦」と呼称した[58][59]。 6月18日、東條参謀総長の指導下であらためてサイパン島奪還作戦が立案され、確保任務を「イ号作戦」(第五艦隊担当)、7月上旬予定のサイパン島地上総攻撃を「ワ号作戦」、全作戦を「Y号作戦」と呼称することになった[注 8]。その骨子は、戦艦「山城」と第五艦隊を基幹とする艦艇群でサイパン島周辺の米艦隊を突破し、陸軍増援部隊を同島へ強行輸送するというものだった[61][14][62]。「冬月」は小発動艇2隻搭載可能と判定され、横須賀海軍工廠での改造工事を下令される[注 9]。だが6月19日~20日のマリアナ沖海戦で日本海軍は大敗する[63]。大本営では激論が起きたが[64]、最終的にサイパン島奪還作戦は中止された[65][66]。
日本軍は、サイパン島向けに準備されていた兵力を[67]、後方要域[注 10]に転用することになった[66]。まず「イ」号作戦部隊として横浜に待機していた歩兵第145連隊・各種砲兵隊・戦車第26連隊等が小笠原兵団に編入された(大陸命第1038号)[66][69]。これら陸軍兵力を、第十一水雷戦隊と第五艦隊(「多摩」「木曾」など)が硫黄島方面に輸送する[67][70]。硫黄島方面作戦を「伊号作戦輸送/い号輸送作戦」と称し、高間完少将(第十一水雷戦隊司令官)が指揮官となった[14][15][71]。 作戦実施前の6月22日、「冬月」は「第4号輸送艦」と「第104号輸送艦」とともに呉を出撃して横須賀に向かい[72]、同地で機銃増備工事を受けた[73]。 第十一水雷戦隊旗艦の軽巡洋艦「長良」、駆逐艦2隻(冬月、松)、「第4号輸送艦」で第一輸送隊を編成し[74]、6月29日に横須賀を出撃した[75]。父島で輸送物件や部隊を揚陸後、7月1日に駆逐艦「清霜」など共に輸送艦を護衛して父島を出港し[76][77]、7月3日に横須賀へ帰投した[78]。同日付で、豊田副武連合艦隊司令長官は伊号輸送部隊の編成を解いた[14][15][注 11]。
「冬月」は「長良」や「清霜」とともに東京湾で短期間訓練を行った後[80]、7月9日に横須賀を出港して7月11日に呉に到着した[81]。
第四十一駆逐隊
1944年(昭和19年)7月15日付で、秋月型駆逐艦2隻(霜月、冬月)により第41駆逐隊が編成される[18][82]。駆逐隊司令には、駆逐艦「雪風」艦長や第21駆逐隊司令等を務めた脇田喜一郎大佐が任命された[50]。脇田は司令駆逐艦を「冬月」に指定した[19]。
同時期、日本海軍は南西諸島やフィリピン方面に増援輸送作戦を実施していた[83]。 7月中旬、第十一水雷戦隊(司令官・高間完少将)は軽巡洋艦「長良」、重重巡洋艦「摩耶」、練習巡洋艦「鹿島」、駆逐艦5隻(浦風、清霜、朝雲、竹、冬月)という艦艇で[84][85]、陸軍諸部隊の沖縄方面輸送作戦「ろ号作戦」を実施する[67][注 12]。出撃時の輸送部隊は、高間少将(十一水戦司令官)直率の主隊(長良、摩耶、鹿島)と「冬月」艦長指揮の警戒隊(冬月、清霜、竹、朝雲、浦風)という編成である[87]。小発動艇2隻を積んでいた「冬月」には[88]、兵員約250の搭載が見込まれた[89]。
北九州門司に集結した「ろ号輸送部隊」は、7月15日に中津湾を出港する[86][90]。7月17日に沖縄島南東部中城湾へ到着した[86][91]。ここで、先行した第二輸送隊(摩耶、朝雲、浦風)と、第三輸送隊(冬月、清霜、竹)に分離する[86][92]。第三輸送隊は南大東島への緊急輸送を行った[86]。宮古島に向かった第二輸送隊は内地に帰投せず[86]、そのままリンガ泊地へ向かった[93][94]。第三輸送部隊は、輸送任務を終えて7月18日夜に中城湾へ帰投した[86][91]。 7月19日、残りの輸送部隊は沖縄を出発する[86][88][95]。帰路、「冬月」で機関故障があったが[95]、翌日の内地帰投をもってろ号輸送部隊は解散した[96][97]。帰投後、「冬月」ではディーゼル発電機のクランクシャフト折損が判明する[98]。しかし、翌7月23日には出動訓練に加わった[99]。
同時期、アメリカ軍機動部隊が硫黄島や小笠原諸島に空襲を敢行していた[100]。これに対処するため連合艦隊は空母「雲龍」[注 13]を基幹とする急襲部隊(指揮官小西要人「雲龍」艦長、空母「雲龍」、軽巡洋艦「五十鈴」、第41駆逐隊(霜月、冬月))を編成した[102][103][104][103][105]。急襲部隊は第三航空艦隊(長官吉良俊一中将)[106] の指揮下に入り、「雲龍」は東京湾に進出した[101]。「冬月」も8月11日に呉を出港し、8月13日に横須賀に到着した[73]。当時シンガポール方面にいた「霜月」も内地に戻り合流、それぞれ訓練に従事した。連合艦隊旗艦の軽巡「大淀」も東京湾におり[107]、「大淀」の水上偵察機は急襲部隊の対空射撃訓練に協力した[108]。「雲龍」が出動する事態は生起せず、9月下旬には機動部隊に復帰命令が出される[109][110]。「冬月」は9月21日から25日の間に横須賀海軍工廠に入渠した[111]。9月26日に横須賀を出発、瀬戸内海に回航される[109]。翌日、「雲龍」と第41駆逐隊は呉に到着した[101][112]。
10月6日、第41駆逐隊(冬月、霜月)は横須賀に向かう[113]。10月12日、第41駆逐隊は軽巡洋艦「大淀」を護衛して横須賀を出港し、大分に向かう[114][115]。同日夕刻、御前崎の173度80海里の遠州灘に差し掛かったところで[114] アメリカ潜水艦「トレパン (USS Trepang, SS-412) 」の雷撃を受けた[116][117]。トレパンは相手を2隻の扶桑型戦艦と2隻の秋月型駆逐艦と判断し、魚雷を6本発射して戦艦と駆逐艦に1本ずつ命中させたと判定した[118]。続いて艦尾発射管から「大淀」に対して魚雷4本を発射したが[119]、この攻撃は失敗した[120]。魚雷は「冬月」の艦首に命中し、18番フレームより先が折損して垂下した[121][122]。戦死者1名[123]。沈没には至らなかったが[124]、発揮可能速力14ノットに低下する[113]。「大淀」と別れた「冬月」は自力航行で内海西部へ移動[125]。呉に入港し、呉海軍工廠にて修理が行われた[23][122]。脇田大佐(41駆司令)は司令駆逐艦を「霜月」に変更した[126]。「冬月」は捷号作戦に参加できなかった[25]。また修理の際、艦首形状は直線型に改められた[113]。
第二水雷戦隊
「冬月」修理中の11月15日、日本海軍は第一機動艦隊および第三艦隊を解隊する[30]。第一海上護衛隊の空母「海鷹」と「神鷹」以外の航空母艦[注 14]は、第一航空戦隊(連合艦隊附属)[127]にまとめられた[30][128]。機動部隊の護衛をになっていた第十戦隊も解隊された[129]。この措置により、第41駆逐隊は第二艦隊麾下の第二水雷戦隊[注 15]に編入され[132][30]、同日付で解隊された第61駆逐隊から「涼月」「若月」が編入される[28][82]。ただし、「若月」は11月11日にレイテ島オルモック湾で島風などと共に沈没しており[133][132](第三次多号作戦)[134]、第41駆逐隊への編入は書類上の事である[135]。第二水雷戦隊は軽巡洋艦「矢矧」(内地待機)、第2駆逐隊、第17駆逐隊、第41駆逐隊となった[30]。
「冬月」の修理は11月18日頃に終わった[23][136]。 11月20日、第一水雷戦隊の解隊と二水戦統合に伴い[129]、第一水雷戦隊司令官木村昌福少将は第二水雷戦隊司令官に任命される[131][137]。 11月23日、第41駆逐隊(冬月、涼月)はマニラ方面への『緊急輸送作戦』に従事する空母「隼鷹」(第一航空戦隊)を護衛して呉を出撃した[138][139]。
隼鷹隊は11月30日にマニラに到着して軍需品を陸揚げしたあと、12月3日に馬公に到着した[138]。ここで、日本に戻る途中の戦艦「榛名」[注 16] や駆逐艦「槇」と合流する[138][140]。 12月6日、「榛名」艦長重永主計大佐の指揮下で馬公を出港する[138]。佐世保入港直前の12月9日未明、部隊は野母崎沖でアメリカ潜水艦のウルフパックに発見された[141]。「レッドフィッシュ (USS Redfish, SS-395) 」の魚雷が命中した「隼鷹」は[141]、中破したが佐世保に帰投できた[142][143]。続いて「槇」が「シーデビル (USS Sea Devil, SS-400) 」か「プライス (USS Plaice, SS-390) 」の雷撃で損傷した[144][145]。この輸送作戦の際、「冬月」は「涼月」ともども荒天に見舞われた際に船体にシワが発生した[146]。
当時、連合艦隊と第一航空戦隊は航空母艦から発進する特別攻撃隊について準備をすすめていた[147]。最初の構想時点では「龍鳳」を母艦に想定していたが、雲龍型航空母艦に変更される[128]。第一航空戦隊では神武特別攻撃隊と呼称しており、一航戦司令官古村啓蔵少将は雲龍型2隻(天城、雲龍)と秋月型駆逐艦4隻(当時、就役艦〈冬月、涼月〉。他は未就役)による機動部隊の出撃を連合艦隊に意見具申した[注 17]。しかし一航戦の意見具申の段階で、連合艦隊はすでに神武特別攻撃隊の母艦運用を断念していたとみられる[128]。
「冬月」の修理は呉海軍工廠で行われ、12月27日までに終了。その後は瀬戸内海で訓練を行った[113]。艦長が酔ったまま操艦し、座礁する一幕もあったという[148]。この頃、艦橋左右に機銃台を設置し、25ミリ3連装機銃2基を増設、全体で7基となった。電探も22号電探が1基、13号電探が2基となった。
1945年(昭和20年)1月3日、第二水雷戦隊司令官は木村昌福少将から古村啓蔵少将へ交代した[149][150]。 1月10日、第41駆逐隊から「霜月」と「若月」が除籍され、同隊は「冬月」と「涼月」の2隻になった[132][151]。
3月1日付で作間大佐(「冬月」駆逐艦長)は第43駆逐隊司令へ転出[53]、山名寛雄中佐(当時、「霞」駆逐艦長)[152]が二代目艦長に任命された[50][153]。また第41駆逐隊司令として、駆逐艦「風雲」初代艦長等を歴任した吉田正義大佐が着任する[50][153]。吉田司令は「冬月」に将旗を掲げた[154]。
3月19日、呉軍港空襲[155][156] で対空戦闘を行った[157]。3月23日から27日まで呉海軍工廠第四船渠に入渠する[158]。出渠後は(第一航空戦隊)を中心とする海上特攻隊(指揮官伊藤整一中将)とともに三田尻沖に移動した[159]。事前の研究会で、戦艦「大和」を護る能力を持つ艦は長十センチ高射砲を装備する秋月型2隻(冬月、涼月)しかなく、輪形陣の防空に大きな期待をかけることは出来ないことが確認されたが[86]、輪形陣の半径を1.5〜2 kmとする以上の妙案はでなかった[160]。対空戦闘に備え砲塔の外周をロープでかこむなどの準備を行う[161]。3月29日、「大和」と「冬月」は紫電改(第三四三海軍航空隊所属)を敵機と間違えて誤射した[注 18]。
坊ノ岬沖海戦
1945年(昭和20年)4月上旬、第二水雷戦隊の健在艦は、菊水作戦にともなう海上特攻作戦(坊ノ岬沖海戦)に参加する[132][35][注 19]。出撃前の燃料・弾薬補給で、「冬月」と「涼月」は「花月」より各艦魚雷2本を受け取った[165][166]。 4月6日、水上特攻部隊は徳山沖を出撃した[167][168]。第二艦隊は連合艦隊より4月8日朝の沖縄突入を艦隊の航路と通過時刻付きで命令されており[169]、作戦の説明を受けた「冬月」の吉田司令は、僅か8隻の駆逐艦で白昼に敵の大艦隊に飛び込んでも潰されるだけなのに、「これは中央の命令だからしょうがない」と言われ、「ああ、そうかい、そうかい。それじゃあ行って潰れりゃあいいんだな」と最初から諦めていたという[170]。

翌4月7日、海上特攻隊はアメリカ第58任務部隊(マーク・ミッチャー中将)の艦上機による空襲を受けた[171]。本格的な戦闘になる前、機関故障により落伍していた「朝霜」[172][173][174]が集中攻撃を受けて撃沈されていた[175][176]。第二水雷戦隊の戦闘詳報には「冬月三〇度方向ニ朝霜交戦中ラシキ砲煙ヲ認ム」と記録されている[177]。8隻となった第二水雷戦隊は、軽巡(旗艦)「矢矧」が輪形陣の先頭に立ち、「大和」の右舷後方(左舷後方)に「冬月」(涼月)が占位した[178]。だが回避行動を優先するため、輪形陣はすぐに崩れ、個艦での対処を余儀なくされる[179][180]。「冬月」は戦闘開始からまもなくF4U戦闘機が発射したロケット弾2発を受けたがいずれも不発ですみ[25][181]、主砲発令所(戦死1名)と第一缶室(戦傷者なし)に被害が出た[182][183]。ジャイロコンパスも破損している[152]。被弾以降、「冬月」では長10センチ高角砲の統一射撃ができなくなり、各砲塔の独自照準となった[184]。戦闘詳報では「冬月」の戦死者12名・負傷者12名と記録されているが[185][186]、佐世保帰投後に20名が死亡したとされる[187]。また魚雷1本(5本とも)[152]が艦底を通過しており[184]、「冬月」を重巡洋艦と間違えて魚雷深度を5 - 6 m(「冬月」の吃水は4 m)に調整した為とみられる[188]。
アメリカ機動部隊艦載機・第二波攻撃隊によれば、13時30分時の水上特攻部隊は、「大和」と直衛4隻(冬月、初霜、雪風、霞)、孤立した軽巡洋艦(涼月)と駆逐艦(艦名不詳、「浜風」は既に沈没)、損傷した軽巡(矢矧)と随伴駆逐艦(磯風)の三群にわかれていた[189]という。「冬月」は「大和」の左舷に位置して米軍機と交戦したが、14時すぎになると、「大和」の沈没は時間の問題となった[190]。吉田司令によれば、「大和」が戦闘不能の場合、横付けして乗組員を救助する取り決めだったが、「大和」の転覆が近いと見た吉田は「様子を見る事にした」と回想している[182]。「冬月」は惰性で進む「大和」の後方を航行し、その転覆と爆沈を見届けた[191][192]。
14時23分に大和が沈没すると[193][194]、吉田司令(「冬月」座乗)は「冬月、初霜、雪風ヲ以テ生存者ヲ救助ノ後再起ヲ計ラントス」と発信した[195][196]。 古村二水戦司令官はこの時点で漂流中のため、吉田大佐(第41駆逐隊司令)が「冬月」より遊撃部隊の指揮をとった[195][197]。連合艦隊司令部から特攻作戦中止の命令が届いたのは約3時間後の17時50分で、この時点で作戦は中止されていなかった[198]。「雪風」(艦長寺内正道中佐)からは残存艦のみでの沖縄突入を促す意見具申があった[199][200]が、「冬月」(吉田司令)は「極力生存者ヲ救助セヨ 人員救助シ再擧ヲ計ラントス」と返信。「雪風」は「冬月」に「
戦闘終盤、2機のPBY飛行艇が着水して米軍墜落機の救助を始めると、これに対し「冬月」が発砲する一幕もあった[206][207]。「冬月」に救助された「大和」の副電測士も、「冬月」の米飛行艇への発砲を目撃しているが、対空戦闘が続けられていたという認識である[208]。アメリカ側では、PBYに救助されたパイロットの証言に「日本の駆逐艦は射撃しつつ近づいてきた」とあり、PBY搭乗者の証言に「日本の駆逐艦の主砲弾は海上の味方パイロットの200ヤード以内に落ちていた」とある。2機のPBYは味方パイロット1名のみ急いで救助し、そのパイロットの部下2名は発見できないまま飛び去ったが[209]、帰り際、大破炎上し航行不能状態の「涼月」へ機銃掃射を浴びせた。このPBYの報復行為は「雪風」艦上から目撃され、将兵らを激怒させたが、「雪風」は更なる報復行為を行わず味方の救助のみ行った[210]。
「冬月」は装載艇を降ろして森下信衛第二艦隊参謀長や吉田満少尉以下、「大和」の生存者約100名を救助した[211]。つづいて航行不能の「霞」の救援に向かい、接舷して乗員を救助後[212]、16時57分に雷撃で処分した[152][213]。 さらに健在3隻(冬月、初霜、雪風)は「矢矧」の沈没地点へ向かい、乗組員を救助した[214][215]。17時20分、二水戦司令官古村啓蔵少将は「初霜に救助され[206][216]、遊撃部隊の旗艦は「冬月」(吉田41駆司令)から「初霜」(古村二水戦司令官)に移った[197][217]。古村少将は「初霜」より「冬月」に「涼月ヲ護衛シ至急佐世保ニ回航セヨ」と命ずるが、同時に「状況ニ依リテハ涼月ヲ処分シテ差支ナシ」とも通達している[218][219]。「冬月」は「涼月」を発見できぬまま佐世保へ向かった[152][注 21]。 記録によれば、「冬月」は「大和」「矢矧」「霞」の乗組員合計約600名以上を救助した[225]。
4月8日朝、「冬月」は各隊に単独帰投中の「涼月」の掩護を要請した[226]。「初霜」「雪風」「冬月」は同日午前中に佐世保に帰投した[152][218]。午後、「涼月」は単艦で佐世保に帰投した[227][228]。「冬月」の修理は4月10日から16日まで佐世保海軍工廠で行われた[229]。 第二水雷戦隊の戦闘詳報において「冬月」は「大豆油は問題なく使用できた」と報告している[230][231]。また各艦含めて戦訓がまとめられたが、水中爆傷を防ぐため腹巻の有効性も確認された[232][231]。
第三十一戦隊
1945年(昭和20年)4月20日、大本営は第二水雷戦隊解隊を解隊し、残存駆逐艦[注 22]を第三十一戦隊(司令官鶴岡信道少将、旗艦「花月」)に編入した[233][234]。また第二艦隊の解隊により、第三十一戦隊と第十一水雷戦隊は連合艦隊附属となる[233]。連合艦隊は第三十一戦隊もしくは十一水戦による突入作戦を計画中であったという[233]。
5月20日、小沢治三郎中将(海軍総司令長官、連合艦隊司令長官兼務)は第三十一戦隊、駆逐艦「夏月」、軽巡「北上」、駆逐艦「波風」で海上挺進部隊(略号、KTB、司令官・鶴岡信道少将〔第三十一戦隊司令官〕)を編成した[39]。内海西部に配置された海上挺進部隊の任務は、邀撃奇襲作戦と作戦輸送であった(GB電令作第41号)[注 23]。 同日付で第41駆逐隊に「宵月」が編入された[235]。 5月25日には「夏月」が第41駆逐隊に編入され[236]、同日付で第41駆逐隊は第七艦隊(司令長官岸福治中将)の指揮下に入り、関門海峡と対馬海峡方面の哨戒に任じた[237]。6月1日に門司に回航された[25]。B-29の機雷封鎖戦術(飢餓作戦)により「冬月」の行動も制限され、航行した後に爆発した機雷もあったという[238]。 7月5日、「涼月」は第41駆逐隊から除籍され予備艦となった[25][239]。 7月23日夜、「冬月」は関門海峡への機雷投下作戦で飛来したB-29の編隊に対して対空射撃を行い、そのうちの1機を撃墜した[240]。夜間対空戦闘で1機を撃墜、1名を捕虜にしたとされる[241]。
8月15日、終戦の日に第17駆逐隊は解隊され、同隊所属だった陽炎型駆逐艦雪風が第41駆逐隊に編入された[242]。「冬月」は玉音放送を門司港で迎えた[243]。8月20日、呉へ移動を命じられ、門司を出港する[244]。曳船で埠頭から離れたたところ、直後に触雷して5名が戦死、負傷者多数[244]。後部兵員室より後方を亡失し、航行不能となった[40][245]。 9月20日付で第四予備艦となり[113]、11月20日に除籍[246][247]。
1946年(昭和21年)2月25日、「冬月」は特別輸送艦に指定された[248] が復員輸送に従事せず工作設備を搭載して工作艦となり、掃海部隊の支援任務に就いた[40][249]。門司港は機雷掃海艦の一大拠点だった[40]。 任務終了後の1947年(昭和22年)秋頃、「冬月」は佐世保へ回航されて[25]、その後は同地で「涼月」と共に係留された[250]。10月15日、防波堤沈設のため払下げの通達が出される[25]。 1948年(昭和23年)3月1日から5月3日にかけて[25]、旧佐世保海軍工廠の佐世保船舶工業で一部を解体後(上部構造物を撤去)、「冬月」の船体は「涼月」「柳」とともに福岡県北九州市若松区若松港の防波堤として利用された[249]。現地では軍艦防波堤と呼ばれたが、その後埋められた[251]。現在は響灘臨海工業団地内の若松運河出口付近に、「柳」の船体の一部と案内板を見ることができる。一方、「冬月」と「涼月」の船体は完全に埋め立てられていて、確認することは出来ない[251]。
歴代艦長
※脚注なき限り『艦長たちの軍艦史』358頁による。
艤装員長
駆逐艦長
(注)1945年12月20日以降は「艦長」[252]。
- 作間英邇 中佐:1944年5月25日[56] - 1945年3月1日[153]
- 山名寛雄 中佐:1945年3月1日[153] - 1945年9月21日[253]、以後1946年3月1日まで艦長を置かず。
- 山根灌 第二復員官/第二復員事務官:1946年3月1日[254] - 1946年4月16日[255]
- 玉井吉秋 第二復員事務官:1946年4月16日[255] - 1946年4月26日[256]
- 平山敏夫 第二復員事務官:1946年4月26日[256] - 1946年5月12日[257]
- (兼)由川周吉 第二復員事務官/復員事務官:1946年5月12日[257] - 1946年12月23日[258] (本職:博多上陸地連絡所長→博多運航部長)
脚注
注釈
- ^ 終戦時は22号電探1基、13号電探2基。
- ^ 秋月型駆逐艦では水中聴音機は後日装備とされたが、「秋月」が1943年10月末までに装備していることが確認されているので冬月は竣工時から装備済であると推定できる。[4][5]。
- ^ 片桐大自はその著書にて読みを「ふゆづき」としているが、その根拠は示していない。[7]
- ^ 第二艦隊司令長官伊藤整一中将、第一航空戦隊(戦艦大和)、第二水雷戦隊[33]。
- ^ 駆逐艦「太刀風」沈没時の駆逐艦長。
- ^ 5月15日付で「浦風」駆逐艦長へ転出[49]、「浦風」の沈没時に戦死した。
- ^ 十一水戦は前年4月1日に新編され、冬月編入時の司令官は高間完海軍少将であった[57]。
- ^ 派遣陸軍兵団長要員として長勇陸軍少将を内定していた[60]。
- ^ 横工廠の担当駆逐艦は、「曙」「潮」「不知火」「薄雲」「霞」「皐月」「初春」「若葉」「冬月」「清霜」「旗風」「松」であった[62]。
- ^ 小笠原諸島、硫黄島、南西諸島、台湾など[68]。
- ^ 本作戦で、陸軍部隊の大部分は父島に、一部は直接硫黄島に進出した[79]。父島に上陸した部隊は、機帆船で硫黄島に移動した[14][15]。
- ^ 大海指第421号による。第28師団の歩兵3個大隊、砲兵1個大隊、速射砲1個大隊、高射砲1個大隊、工兵、その他[86]。
- ^ 雲龍型航空母艦の「雲龍」は横須賀海軍工廠で建造され、1944年8月6日に竣工[101]。同日付で第一航空戦隊編入されていた[102]。
- ^ 信濃、天城、雲龍、葛城、隼鷹、龍鳳
- ^ レイテ沖海戦時の第二水雷戦隊司令官早川幹夫少将は11月11日の「島風」沈没時に戦死[130]、11月15日時点では司令官不在。後任の木村昌福少将は11月20日[131] 任命。
- ^ 「榛名」は11月22日にリンガ泊地で座礁[138]、艦底に損傷を受けていた。
- ^ 12月8日申請、翌年1月中旬以降作戦可能の見込み[128]。
- ^ 「冬月」乗組員の回想では「誤射により紫電改撃墜」としているが[162]、紫電改2機が損傷して高度を落とした。紫電改は遠方から見るとF6Fヘルキャットと似ている。
- ^
- ^ このやり取りについて、吉田は「雪風の艦長が『人員はこのままにして沖縄に突入すべし』と意見具申してきたので『人員を救え』と信号で叱った 」と語っている[196]。これに対し、寺内は「『沖縄(嘉手納湾)に突入する』と出撃前夜に全艦長間で打ち合わせてあり、たとえ雪風一艦となってもそれを遂行する意志だった」と証言している[202]。
吉田は出撃前の艦長間の申し合わせについて語っていないが、「磯風」の操舵員の回想記にも申し合わせが存在したことを裏付ける証言がある[203]。また「初霜」に救助された古村二水戦司令官も作戦続行を決意し、「我残存駆逐艦ヲ率イ沖縄ニ突入セントス」という電報を起案し、打電するよう準備させていたが、初霜から作戦続行の電文が発信される前に連合艦隊司令長官から「作戦中止 損傷艦を救助し佐世保に回航せよ」の命令が届き、沖縄突入は断念された。[204]。 - ^ また、「雪風」は「磯風」の曳航準備を進めていたが[220][221]、古村司令官からの命令により自沈処分にした[222][223][224]。
- ^ 昭和20年4月20日時点の駆逐隊編制は、第7駆逐隊(潮、響)、第17駆逐隊(雪風、初霜)、第41駆逐隊(冬月、涼月)。
- ^ ただし、第17駆逐隊(第三十一戦隊所属)は海軍砲術学校の練習艦任務のため舞鶴鎮守府部隊に編入されており、海上挺進部隊とは別行動である[39]。
出典
- ^ #S1812第11水戦日誌(4), p.53
- ^ #S1906十一水戦(2), p.8
- ^ a b c 福井、日本駆逐艦物語 1993, p. 281.
- ^ 歴群23、秋月型 1999, pp. 39, 98–99.
- ^ 写真日本の軍艦11 1990, p. 158.
- ^ a b #達昭和18年10月(1)、pp.1-2
- ^ a b 片桐 2005.
- ^ a b c d e f 重本ほか、陽炎型 2014, pp. 328–329.
- ^ a b c #内令昭和18年10月(1)、p.1
- ^ 歴群23、秋月型 1999, p. 11写真欄外解説より。
- ^ 歴群23、秋月型 1999, p. 10第361号艦型〔冬月型〕361号艦「冬月」
- ^ 歴群23、秋月型 1999, p. 144乙型駆逐艦概観
- ^ a b c d 福井、日本駆逐艦物語 1993, p. 205.
- ^ a b c d e 戦史叢書17 1968, p. 49.
- ^ a b c d 戦史叢書45 1970, pp. 55–56.
- ^ 日本軽巡戦史 1989, pp. 539a-540ロ号輸送の鹿島(八月)
- ^ 戦史叢書17 1968, pp. 48–49.
- ^ a b #内令昭和19年7月、p.21
- ^ a b 「昭和19年8月4日 海軍公報 第4759号 p.12」 アジア歴史資料センター Ref.C12070501700
- ^ 日本空母戦史 1977, pp. 680–682雲竜の急襲部隊編入(八月〜九月)
- ^ 佐藤和正 1993, p. 192.
- ^ 日本軽巡戦史 1989, pp. 454a-455大淀、危うし(十月)
- ^ a b c d 戦史叢書93 1976, pp. 30–34.
- ^ 重本ほか、陽炎型 2014, pp. 325–326.
- ^ a b c d e f g h i j 歴群23、秋月型 1999, p. 35a.
- ^ 戦史叢書54 1972, pp. 450–453.
- ^ 歴群23、秋月型 1999, pp. 179–181平山「凉月」艦長と山名「冬月」艦長
- ^ a b #秘海軍公報昭和19年11月(3)、pp.4-5
- ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 578a-579編成変と対潜作戦
- ^ a b c d e 戦史叢書93 1976, pp. 34–36.
- ^ 日本空母戦史 1977, pp. 795–800隼鷹の第二次輸送作戦(十一月~十二月)
- ^ 重本ほか、陽炎型 2014, p. 333.
- ^ 丸エキストラ、94号 1994, pp. 179–180影のうすかった特攻艦隊
- ^ 戦史叢書17 1968, pp. 6–7.
- ^ a b 戦史叢書93 1976, pp. 277–278.
- ^ #S2002第2水雷戦隊日誌(3), p.38
- ^ 戦史叢書93 1976, pp. 283–384.
- ^ 戦史叢書93 1976, pp. 283–284, 396–397.
- ^ a b c 戦史叢書93 1976, pp. 396–397.
- ^ a b c d e #終戦と帝国艦艇97頁「駆逐艦"冬月"」
- ^ 歴群23、秋月型 1999, pp. 35b–38a文・写真提供 上農達生〔防波堤となった「涼月」と「冬月」〕
- ^ 福井、日本駆逐艦物語 1993, p. 290.
- ^ a b c ハンディ判18 1997, p. 16.
- ^ #S1806舞鎮日誌、p.5
- ^ 遠藤 1975, pp. 213–214.
- ^ #S1901舞鎮日誌, p.9
- ^ #内令昭和19年1月(4), p.39
- ^ a b 「昭和19年4月21日(発令4月21日付)海軍辞令公報(部内限)第1436号 p.27」 アジア歴史資料センター Ref.C13072097400
- ^ 「昭和19年5月15日(発令5月15日付)海軍辞令公報(部内限)第1471号 p.8」 アジア歴史資料センター Ref.C13072098200
- ^ a b c d 歴群23、秋月型 1999, p. 175表1、防空駆逐隊の司令と艦長
- ^ a b c 「昭和19年5月5日(発令5月5日付)海軍辞令公報(部内限)第1461号 p.3」 アジア歴史資料センター Ref.C13072098100
- ^ 歴群18、水雷戦隊I 1998, p. 88綾波(あやなみ)
- ^ a b 歴群18、水雷戦隊I 1998, pp. 182–183.
- ^ 山本ほか、秋月型 2015, p. 81.
- ^ #S1905舞鎮日誌, pp7-8
- ^ a b c 「昭和19年5月28日(発令5月25日付)海軍辞令公報(部内限)第1486号 p.17」 アジア歴史資料センター Ref.C13072098300
- ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 294–296第十一水戦の創立
- ^ 戦史叢書6 1967, pp. 470–471.
- ^ 戦史叢書75 1974, pp. 470–472.
- ^ 戦史叢書6 1967, pp. 477–479.
- ^ 戦史叢書75 1974, pp. 472–476.
- ^ a b 戦史叢書45 1970, pp. 14–17.
- ^ 戦史叢書75 1974, pp. 480–483.
- ^ 戦史叢書45 1970, pp. 18–21.
- ^ 戦史叢書45 1970, pp. 36–37.
- ^ a b c 戦史叢書75 1974, pp. 483–487.
- ^ a b c 戦史叢書85 1975, p. 227.
- ^ 戦史叢書6 1967, pp. 485–486.
- ^ 戦史叢書13 1968, pp. 286–289.
- ^ 日本軽巡戦史 1989, pp. 536a-537小笠原へ
- ^ 日本水雷戦史 1986, p. 468.
- ^ #S1906十一水戦(1), p.19,20
- ^ a b 遠藤 1975, p. 214.
- ^ #S1906十一水戦(1), p.23
- ^ #S1906十一水戦(1), p.45
- ^ 日本軽巡戦史 1989, p. 536b.
- ^ #S1906十一水戦(2), p.3
- ^ 日本水雷戦史 1986, p. 469.
- ^ 戦史叢書13 1968, pp. 301–304.
- ^ #S1906十一水戦(2), pp.23-24
- ^ #S1906十一水戦(2), p.62
- ^ a b 歴群23、秋月型 1999, pp. 174–175防空駆逐隊―司令と艦長
- ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 471a-473続いてロ号輸送(八月)
- ^ 日本水雷戦史 1986, p. 471b.
- ^ #S1906十一水戦(2), pp.5-6〔 (四)麾下艦船部隊竝ニ訓練部隊一時加入艦船ノ行動 〕
- ^ a b c d e f g h i 戦史叢書17 1968, pp. 49–50.
- ^ #ろ号作戦, pp.29-30「(イ)第一軍隊区分」
- ^ a b 日本軽巡戦史 1989, p. 539b.
- ^ #ろ号作戦, p.26
- ^ #ろ号作戦, p.6
- ^ a b #ろ号作戦, p.7
- ^ #ろ号作戦, p.30〔 (ロ)第二軍隊区分 〕
- ^ #S1907十戦隊日誌(1), p.5
- ^ #S1907十戦隊日誌(1), p.37
- ^ a b #ろ号作戦, p.8
- ^ #S1904呉鎮日誌(4), p.39
- ^ #S1907十戦隊日誌(1), p.8
- ^ #S1906十一水戦(2), p.46
- ^ #S1906十一水戦(2), p.64
- ^ 戦史叢書45 1970, pp. 395–396.
- ^ a b c 写真日本の軍艦3巻、空母I、233頁〔 航空母艦『雲龍』行動年表 〕
- ^ a b 戦史叢書45 1970, pp. 67–68.
- ^ a b 日本空母戦史 1977, p. 681.
- ^ 戦史叢書45 1970, p. 67など
- ^ #S1907十戦隊日誌(2), p.4
- ^ 「昭和19年7月14日(発令7月10日付)海軍辞令公報(部内限)第1535号 p.16」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100000
- ^ 写真日本の軍艦9巻、軽巡II、158頁〔 軽巡洋艦『大淀』行動年表 〕
- ^ 大塚、錨と翼 1993, pp. 17–18要務飛行
- ^ a b 日本空母戦史 1977, p. 682.
- ^ #第1機動艦隊戦時日誌, p.7
- ^ 写真日本の軍艦11 1990, p. 173.
- ^ #S1907十戦隊日誌(3), p.22
- ^ a b c d e 遠藤 1975, p. 215.
- ^ a b #軍艦大淀戦時日誌, p.7
- ^ 大塚、錨と翼 1993, pp. 18–19.
- ^ 日本水雷戦史 1986, p. 627.
- ^ ハンディ判18 1997, p. 21.
- ^ 「SS-412, USS TREPANG, Part 1」p.49,50
- ^ 日本軽巡戦史 1989, p. 455.
- ^ 「SS-412, USS TREPANG, Part 1」p.51,52
- ^ 遠藤 1975, p. 166.
- ^ a b 歴群23、秋月型 1999, p. 160「冬月」(秋月型、二七〇一トン)
- ^ 倉橋友二郎 1967, p. 140.
- ^ 大塚、錨と翼 1993, p. 19a大塚によれば、冬月より「われ沈没のおそれなし、安心を乞う」の発光信号があった。
- ^ 大塚、錨と翼 1993, p. 19b.
- ^ 「昭和19年10月24日 海軍公報 第4833号 p.49」 アジア歴史資料センター Ref.C12070497500
- ^ 日本空母戦史 1977, pp. 809–812雲竜
- ^ a b c d 戦史叢書93 1976, pp. 97–98.
- ^ a b 日本水雷戦史 1986, p. 578b.
- ^ 戦史叢書93 1976, pp. 62–65.
- ^ a b 「昭和19年11月24日(発令11月20日付)海軍辞令公報(甲)第1651号 p.32」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102000
- ^ a b c d 歴群23、秋月型 1999, p. 179b.
- ^ 歴群18、水雷戦隊I 1998, pp. 93–94島風(しまかぜ)、長波(ながなみ)、浜波(はまなみ)
- ^ 戦史叢書93 1976, pp. 30–34, 62–65.
- ^ 倉橋友二郎 1967, p. 142早くも僚艦若月沈没
- ^ #S1907十戦隊日誌(3), p.52
- ^ 戦史叢書93 1976, pp. 67–68.
- ^ a b c d e 日本空母戦史 1977, p. 796.
- ^ 佐藤、艦長たち続編 1995, pp. 472–475.
- ^ 倉橋友二郎 1967, p. 147.
- ^ a b 日本空母戦史 1977, p. 797.
- ^ 日本空母戦史 1977, p. 799.
- ^ 航空母艦物語、309頁〔 海鷹と隼鷹 〕
- ^ 日本水雷戦史 1986, p. 589.
- ^ 最後の海空戦 2011, pp. 48–50艦首をもがれた「槇」
- ^ 倉橋友二郎 1967, p. 150.
- ^ 戦史叢書93 1976, pp. 97–98, 172–175.
- ^ 最後の水兵 2014, p. 46.
- ^ 「昭和20年1月9日(発令1月3日付)海軍辞令公報(甲)第1688号 p.37」 アジア歴史資料センター Ref.C13072102800
- ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 617–618.
- ^ #秘公報昭和20年1月(2)、p.7
- ^ a b c d e f 歴群23、秋月型 1999, p. 180.
- ^ a b c d 「昭和20年3月9日(発令3月1日付)海軍辞令公報(甲)第1741号 p.32」 アジア歴史資料センター Ref.C13072103700
- ^ 佐藤、艦長たち続編 1995, pp. 104–105.
- ^ 戦史叢書93 1976, pp. 251–252.
- ^ 戦史叢書17 1968, p. 291.
- ^ #S2002第2水戦日誌(1), pp.53-54
- ^ #S2002第2水戦日誌(1), pp.53-55,74
- ^ 戦史叢書17 1968, pp. 620–622.
- ^ 倉橋友二郎 1967, pp. 163、213冬月砲術長は集団防御について否定的で、個艦防御優先を主張した。
- ^ 最後の水兵 2014, p. 52.
- ^ 最後の水兵 2014, p. 53.
- ^ 磯風、特年兵 2011, pp. 360–363沖縄海上特攻発動まで
- ^ 戦史叢書17 1968, pp. 382–383.
- ^ 駆逐艦入門 2006, pp. 367–368.
- ^ 戦史叢書17 1968, p. 629.
- ^ 丸エキストラ、94号 1994, pp. 186–187最後の特攻隊に出撃命令
- ^ 歴群18、水雷戦隊I 1998, pp. 152–153酒匂艦長/沖縄水上特攻作戦
- ^ 倉橋友二郎 1967, p. 170、216森下信衛、第二艦隊参謀長談。
- ^ 佐藤、艦長たち続編 1995, p. 109.
- ^ ドキュメント戦艦大和 1986, pp. 108–110空母部隊戦闘準備完了
- ^ 慟哭の海 2017, pp. 69–70.
- ^ 豊田、雪風 2004, pp. 421–423.
- ^ ドキュメント戦艦大和 1986, pp. 103–105.
- ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 628–631.
- ^ ドキュメント戦艦大和 1986, p. 127「朝霜」攻撃から沈没まで(84爆撃機中隊)
- ^ 戦史叢書17 1968, p. 641.
- ^ 倉橋友二郎 1967, p. 179.
- ^ 倉橋友二郎 1967, p. 182輪形陣大混乱す
- ^ 歴群18、水雷戦隊I 1998, pp. 153–154酒匂艦長/熾烈な対空戦闘
- ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 633–634.
- ^ a b 佐藤、艦長たち続編 1995, pp. 106–107.
- ^ 倉橋友二郎 1967, pp. 198–200冬月・凉月の奮戦
- ^ a b 最後の水兵 2014, p. 57.
- ^ 戦史叢書17 1968, p. 648.
- ^ ドキュメント戦艦大和 1986, p. 327.
- ^ 倉橋友二郎 1967, p. 199.
- ^ 倉橋友二郎 1967, p. 200.
- ^ ドキュメント戦艦大和, 1986 & 第9雷撃機中隊が発見した時の日本艦隊の位置, p. 229.
- ^ 最後の水兵 2014, p. 59.
- ^ 倉橋友二郎 1967, pp. 208–209.
- ^ ドキュメント戦艦大和 1986, pp. 279–280.
- ^ 戦史叢書17 1968, pp. 643–644.
- ^ 歴群18、水雷戦隊I 1998, p. 154-155酒匂艦長/大和の最期
- ^ a b 戦史叢書93 1976, pp. 279–292.
- ^ a b 佐藤、艦長たち続編 1995, p. 108.
- ^ a b 戦史叢書17 1968, pp. 644–647.
- ^ #S2002第2水戦日誌(2), p.47
- ^ 日本水雷戦史 1986, pp. 638a-640作戦中止
- ^ a b 神風電探戦記 2011, pp. 149–150.
- ^ #S1911第17駆日誌(9), pp.31-32
- ^ #寺内雪風p.91
- ^ #海軍特年兵228-229頁
- ^ 佐藤、艦長たち続編 1995, p. 412.
- ^ #雪風手記472頁
- ^ a b 日本水雷戦史 1986, p. 638b.
- ^ #S2002第2水戦日誌(2), pp.45-46
- ^ スパー 1987, p. 313.
- ^ 全米大和 1975, pp. 321–322.
- ^ #帝国海軍航跡 p.207-208
- ^ 倉橋友二郎 1967, p. 211.
- ^ ドキュメント戦艦大和 1986, pp. 314–315.
- ^ 倉橋友二郎 1967, p. 222駆逐艦霞の処分
- ^ ドキュメント戦艦大和 1986, p. 312.
- ^ 歴群18、水雷戦隊I 1998, pp. 156–157酒匂艦長/初霜、味方救助に奮闘
- ^ 歴群18、水雷戦隊I 1998, pp. 157酒匂艦長/特攻作戦中止
- ^ #S1911第17駆日誌(9), p.33
- ^ a b ドキュメント戦艦大和 1986, pp. 317–318.
- ^ #S1911第17駆日誌(9) p.33
- ^ ドキュメント戦艦大和 1986, pp. 315–316.
- ^ #S1911第17駆日誌(9), p.33
- ^ 磯風、特年兵 2011, pp. 407–409.
- ^ 神風電探戦記 2011, pp. 151–153.
- ^ 丸エキストラ、94号 1994, pp. 184–185愛艦「磯風」との訣別
- ^ 最後の水兵 2014, p. 64a同著64頁では大和(士官8、兵97)、矢矧(士官22、兵254)、霞(士官15、兵277)
- ^ #S1911第17駆日誌(9), p.34
- ^ 歴群23、秋月型 1999, p. 189.
- ^ 日本水雷戦史 1986, p. 639.
- ^ #S2002第2水戦日誌(3), pp.78-79
- ^ #S2002第2水戦日誌(3), p.51
- ^ a b ドキュメント戦艦大和 1986, pp. 340–341駆逐艦戦訓
- ^ #S2002第2水戦日誌(3), p.52
- ^ a b c 戦史叢書93 1976, pp. 283–284.
- ^ #S1912第31戦隊日誌(2), p.81
- ^ #秘海軍公報昭和20年5月(4)、p.22
- ^ #秘海軍公報昭和20年5月(4)、p.29
- ^ #S2004第7艦隊日誌(2), pp.3,6,57
- ^ 最後の水兵 2014, p. 63.
- ^ #秘海軍公報昭和20年7月(3)、p.1
- ^ 遠藤 1975, p. 215、日本水雷戦史 1986, pp. 646–647。ただし、青森空襲を記録する会 本土空襲墜落機調査 には記載がない
- ^ 最後の水兵 2014, p. 64b.
- ^ #秘海軍公報昭和20年8月(2), p.28
- ^ 最後の水兵 2014, p. 66.
- ^ a b 最後の水兵 2014, pp. 68–70.
- ^ ハンディ判18 1997, p. 24.
- ^ 遠藤 1975, p. 216.
- ^ ハンディ判18 1997, p. 33.
- ^ 昭和21年2月25日付 第二復員省 内令第32号。
- ^ a b ハンディ判18 1997, p. 25.
- ^ 歴群23、秋月型 1999, pp. 20–21106号艦「涼月」と361号艦「冬月」
- ^ a b 歴群23、秋月型 1999, pp. 37–38.
- ^ 昭和20年12月20日付 第二復員省 内令第12号。
- ^ 昭和20年10月1日付 海軍辞令公報 甲 第1936号。
- ^ 昭和21年3月27日付 第二復員省辞令公報 甲 第93号。
- ^ a b 昭和21年4月30日付 第二復員省辞令公報 甲 第119号。
- ^ a b 昭和21年5月7日付 第二復員省辞令公報 甲 第125号。
- ^ a b 昭和21年5月22日付 第二復員省辞令公報 甲 第138号。
- ^ 昭和22年1月17日付 復員庁第二復員局辞令公報 甲 第121号。
参考文献
- 池田清『重巡 摩耶 元乗組員が綴る栄光の軌跡』学習研究社〈学研M文庫〉、2002年1月(原著1986年)。ISBN 4-05-901110-X。
- 井上理二『あゝ海軍特年兵 ある青春の死線彷徨』光人社〈光人社NF文庫〉、1996年3月(原著1972年)。 ISBN 4-7698-2118-2。
- 井上理二『駆逐艦磯風と三人の特年兵』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年10月(原著1999年)。 ISBN 978-4-7698-2709-2。
- 遠藤昭『高角砲と防空艦』原書房、1975年。
- 生出寿『戦艦「大和」最後の艦長 新装版』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年11月。 ISBN 9784-7698-2143-4。
- 大塚常夫『海軍十三期飛行予備学生 錨と翼の一年十ヶ月』アサヒ出版、1993年12月。
- 岡本孝太郎『舞廠造機部の昭和史』文芸社、2014年5月。 ISBN 978-4-286-14246-3。
- 片岡紀明「エンガノ岬沖の死闘―駆逐艦「槇」航海長・後藤英一郎」『最後の海空戦』光人社〈光人社NF文庫〉、2011年4月(原著2003年)。 ISBN 978-4-7698-2683-5。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝 ―全八六〇余隻の栄光と悲劇』光人社、2003年8月。 ISBN 978-4769811510。
- 倉橋友二郎『駆逐艦隊悲劇の記録 海ゆかば・・・』徳間書店、1967年6月。
- 倉橋友二郎『激闘駆逐艦隊』朝日ソノラマ、1987年12月。
- 木俣滋郎『日本空母戦史』図書出版社、1977年7月。 ISBN 978-4809900389。
- 木俣滋郎『日本水雷戦史』図書出版社、1986年。 ISBN 978-4809901089。
- 木俣滋郎『日本軽巡戦史』図書出版社、1989年3月。 ISBN 978-4809901331。
- 木俣滋郎『駆逐艦入門 水雷戦の花形徹底研究』光人社〈光人社NF文庫〉、2006年7月。 ISBN 4-7698-2217-0。
- 駆逐艦雪風手記編集委員会 編『激動の昭和・世界奇跡の駆逐艦 雪風』駆逐艦雪風手記刊行会、1999年9月。
- 久野潤『帝国海軍の航跡 父祖たちの証言』青林堂、2014年12月。 ISBN 978-4-7926-0510-0。
- 小池山三郎『帝国海軍最後の水兵さん』文芸社、2014年7月。 ISBN 978-4-286-15239-4。
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 34人の艦長が語った勇者の条件』光人社〈光人社NF文庫〉、1993年5月。 ISBN 47698-2009-7。
- 佐藤和正『艦長たちの太平洋戦争 続編』光人社〈光人社NF文庫〉、1995年(原著1984年)。 ISBN 4-7698-0231-5。
- 重本俊一 ほか『陽炎型駆逐艦』潮書房光人社、2014年10月。 ISBN 978-4-7698-1577-8。
- スパー, ラッセル 著、左近允尚敏 訳『戦艦大和の運命 英国人ジャーナリストのみた日本海軍』新潮社、1987年。
- 寺内正道『私は誇り高き雪風の艦長だった/丸 MARU エキストラ版 vol.49』潮書房、1976年。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。ISBN 4-7698-1246-9
- 豊田穣『雪風ハ沈マズ』光人社〈光人社NF文庫(新装版)〉、2004年11月(原著1983年)。 ISBN 978-4-7698-2027-7。
- 野元為輝ほか『航空母艦物語 体験で綴る日本空母の興亡と変遷!』潮書房光人社、2013年6月。 ISBN 978-4-7698-1544-0。
- 能村次郎『慟哭の海 戦艦大和死闘の記録』中央公論新社〈中公文庫〉、2017年4月。 ISBN 978-4-12-206400-3。
- 原為一『帝国海軍の最後 復刻新版』河出書房新社、2011年7月(原著1955年)。 ISBN 978-4-309-24557-7。
- 福井静夫『終戦と帝国艦艇 わが海軍の終焉と艦艇の帰趨』出版共同社、1961年5月。
- 福井静夫 著、阿部安雄・戸高一成 編『日本駆逐艦物語』光人社〈福井静夫著作集 軍艦七十五年回想記 第5巻〉、1983年1月。 ISBN 4-7698-0611-6。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書6 中部太平洋陸軍作戦(1) マリアナ玉砕まで』朝雲新聞社、1967年7月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書13 中部太平洋方面陸軍作戦 (2) ペリリュー・アンガウル・硫黄島』朝雲新聞社、1968年。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書17 沖縄方面海軍作戦』朝雲新聞社、1968年7月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書45 大本營海軍部・聯合艦隊<6> ―第三段作戦後期―』朝雲新聞社、1970年4月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書54 南西方面海軍作戦 第二段作戦以降』朝雲新聞社、1972年3月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書75 大本營陸軍部<8> ―昭和十九年七月まで―』朝雲新聞社、1974年8月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書85 本土方面海軍作戦』朝雲新聞社、1975年6月。
- 防衛庁防衛研修所戦史室 編『戦史叢書93 大本營海軍部・聯合艦隊<7> ―戦争最終期―』朝雲新聞社、1976年3月。
- 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦2 戦艦II』光人社、1989年8月。 ISBN 4-7698-0452-0。
- 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦3 空母I』光人社、1989年9月。 ISBN 4-7698-0453-9。
- 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦8 軽巡I』光人社、1990年3月。 ISBN 4-7698-0458-X。
- 雑誌『丸』編集部 編『写真 日本の軍艦9 軽巡II』光人社、1990年4月。 ISBN 4-7698-0459-8。
- 雑誌『丸』編集部 編『写真日本の軍艦11 駆逐艦II』光人社、1990年6月。 ISBN 4-7698-0461-X。
- 大木主計(編集人) 編『丸エキストラ版 陽春4月号 実録・太平洋海戦史 日本海軍がたどった勝利と敗北の記録』 丸エキストラ版 No.9494、潮書房、1984年4月。
- 雑誌『丸』編集部 編『駆逐艦秋月型・松型・橘型・睦月型・神風型・峯風型』光人社〈ハンディ判日本海軍艦艇写真集 18〉、1997年11月。 ISBN 4-7698-0819-4。
- 雑誌『丸』編集部『駆逐艦戦記 駆逐艦「神風」電探戦記』光人社、2011年7月(原著1990年)。 ISBN 978-4-7698-2696-5。
- 茂呂計造「第7章 「竹」実戦部隊編入」『南海の死闘 少年水兵の海戦記』近代文藝社、1994年9月。 ISBN 978-4773332629。
- 山本平弥 ほか『秋月型駆逐艦<付・夕雲型・島風・丁型>』潮書房光人社、2015年3月。 ISBN 978-4-7698-1584-6。
- 吉田満、原勝洋『ドキュメント 戦艦大和』文藝春秋社〈文春文庫〉、1986年4月(原著1975年)。 ISBN 4-16-734902-7。
- 吉田満 著、原勝洋 編『日米全調査戦艦大和』文藝春秋、1975年。
- 『歴史群像』編集部 編『水雷戦隊I 特型駆逐艦』学習研究社〈歴史群像太平洋戦史シリーズ Vol.18〉、1998年5月。 ISBN 4-05-601768--9。
- 『歴史群像』編集部 編『秋月型駆逐艦』学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ23〉、1999年10月。 ISBN 4-05-602063-9。
- 『歴史群像』編集部 編『軽巡球磨・長良・川内型』学習研究社〈歴史群像 太平洋戦史シリーズ32〉、2001年8月。 ISBN 4-05-601918-5。
- アジア歴史資料センター(公式)
- 『昭和18年9月~12月 達/10月(1)』。JACAR:C12070120400。
- 『昭和18年9~10月 内令4巻/昭和18年10月(1)』。JACAR:C12070181100。
- 『昭和19年1月~昭和19年7月 内令/昭和19年1月 (4)』。JACAR:C12070194100。
- 『昭和19年1月~昭和19年7月 内令/昭和19年7月』。JACAR:C12070195500。
- 『昭和19年9月~12月 秘海軍公報号外/11月(3)』。JACAR:C12070497900。
- 『昭和20年1月~昭和20年8月 秘海軍公報/1月 (2)』。JACAR:C12070503600。
- 『昭和20年1月~昭和20年8月 秘海軍公報/5月 (4)』。JACAR:C12070505100。
- 『昭和20年1月~昭和20年8月 秘海軍公報/秘海軍公報昭和20年7月 (3)』。JACAR:C12070505700。
- 『昭和20年1月2日~昭和20年8月30日 秘海軍公報/昭和20年8月 (2)』。JACAR:C12070530000。
- 『昭和18年6月1日~昭和18年6月30日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。JACAR:C08030356400。
- 『昭和19年1月1日~昭和19年1月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。JACAR:C08030359900。
- 『昭和19年5月1日~昭和19年5月31日 舞鶴鎮守府戦時日誌』。JACAR:C08030357700。
- 『昭和18年12月1日〜昭和19年5月31日 第11水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報 (4)』。JACAR:C08030127100。
- 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(1)』。JACAR:C08030127400。
- 『昭和19年6月1日~昭和20年6月30日 第11水雷戦隊戦時日誌(2)』。JACAR:C08030127500。
- 『昭和19年4月1日~昭和19年8月31日 第1水雷戦隊戦時日誌(5)』。JACAR:C08030086800。
- 『昭和19年4月1日~昭和20年2月28日 呉鎮守府戦時日誌(4)』。JACAR:C08030329600。
- 『昭和19年3月1日~昭和19年11月15日 第1機動艦隊戦時日誌』。JACAR:C08030036200。
- 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(1)』。JACAR:C08030050800。
- 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(2)』。JACAR:C08030050900。
- 『昭和19年7月1日~昭和19年11月15日 第10戦隊戦時日誌(3)』。JACAR:C08030051000。
- 『昭和19年11月1日~昭和20年5月31日 第17駆逐隊戦時日誌戦闘詳報(9)』。JACAR:C08030147800。
- 『昭和19年10月1日〜昭和19年11月5日 捷号作戦戦時日誌 (4) 軍艦大淀・軍艦鈴谷』。JACAR:C08030038300。
- 『昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報 (1)』。JACAR:C08030103000。
- 『昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報 (2)』。JACAR:C08030103100。
- 『昭和20年2月1日〜昭和20年4月10日 第2水雷戦隊戦時日誌戦闘詳報 (3)』。JACAR:C08030103200。
- 『昭和19年12月22日〜昭和20年4月30日 第31戦隊戦時日誌 (2)』。JACAR:C08030074900。
- 『昭和20年4月10日〜昭和20年6月30日 第7艦隊戦時日誌 (2)』。JACAR:C08030022100。
- SS-412, USS TREPANG, Part 1(issuuベータ版)
関連項目
- 冬月 (駆逐艦)のページへのリンク