予備艦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/07 05:21 UTC 版)
涼月の修理に必要な期間は約3ヶ月と算出された。5月5日完成を目標に、停泊に差し支えない程度のものが行われ、次いで本修理の施工に関しては昭和20年度中には実施しない事が決まった。破口はそのままに角材で補強され、一番砲塔と二番砲塔、機銃を撤去。5月5日、出渠。6月10日に佐世保を出発、後部砲塔二基のみ砲側照準で射撃可能な状態となって相浦に係留された。岸まで板桟橋を渡し、機関に火は入れず陸上より給電を行った。この頃、坊ノ岬沖海戦被弾時に焼失した涼月神社(艦内神社)を再建するため、若手士官を伊勢神宮に派遣して御神体を拝領した。 7月5日附で、涼月は第41駆逐隊から除かれた。同日附で第四予備艦となった。当時の涼月乗組員は約100名ほどで、農耕隊と漁労隊を編制すると、開墾や(カボチャやイモの栽培)、貰い受けた漁船を活用して食糧調達を行う。その間の7月と8月に対空戦闘を行い、うち8月の対空戦闘でP-51ムスタング1機を高射砲で撃墜した。11月20日、除籍。 戦後は損傷のため復員輸送艦としては使用されず、佐世保に回航されて冬月とともに係留された。1948年(昭和23年)4月1日から5月31日にかけて旧佐世保海軍工廠の佐世保船舶工業で上部構造物の撤去工事を実施する。船体は駆逐艦冬月、柳(桃型駆逐艦)とともに福岡県北九州市若松区若松港の防波堤として利用された。現地では軍艦防波堤と呼ばれ親しまれたが、その後完全に埋められた。現在は響灘臨海工業団地内の若松運河出口付近に、柳(初代)の船体の一部と案内板を見ることができる。一方、冬月と涼月の船体は暫くの間内部に入ったりすることが可能であったが、現在は完全に埋めたてられ確認することはできない。 「涼月」は戦争を通じて三度の被害にあったがいずれも生還し(昭和19年1月16日、同年10月16日、昭和20年4月7日)、「不沈艦」伝説も生まれた。秋月型駆逐艦の中で一番の長命であった。
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