昭和19年とは? わかりやすく解説

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昭和19年 (きのえさる 甲申)

昭和19年
年(年号)
1928年 (昭和3年) 初の普通選挙実施
1932年 (昭和7年) 五・一五事件
1936年 (昭和11年) 二・二六事件
1941年 (昭和16年) 対英宣戦布告
昭和19年
1945年 (昭和20年) ポツダム宣言受諾
1946年 (昭和21年) 日本国憲法公布
1951年 (昭和26年) サンフランシスコ講和条約
1953年 (昭和28年) テレビ放送開始
1956年 (昭和31年) 国際連合加盟
1960年 (昭和35年) 東京タワー完成
1960年 (昭和35年) 日米新安保条約調印
1964年 (昭和39年) 東京オリンピック


昭和19年
幸田 露伴 1867年1947年(慶応3年昭和22年) 77
川上 貞奴 1871年1946年(明治4年昭和21年) 73
長谷川 如是閑 1875年1969年(明治8年昭和44年) 69
荒木 貞夫 1877年1966年(明治10年昭和41年) 67
大河内 正敏 1878年1952年(明治11年昭和27年) 66
吉田 茂 1878年1967年(明治11年昭和42年) 66
鏑木 清方 1878年1972年(明治11年昭和47年) 66
永井 荷風 1879年1959年(明治12年昭和34年) 65
石井 柏亭 1882年1958年(明治15年昭和33年) 62
福原 信三 1883年1948年(明治16年昭和23年) 61
高村 光太郎 1883年1956年(明治16年昭和31年) 61
鳩山 一郎 1883年1959年(明治16年昭和34年) 61
石橋 湛山 1884年1973年(明治17年昭和48年) 60
東条 英機 1884年1948年(明治17年昭和23年) 60
安田 靫彦 1884年1978年(明治17年昭和53年) 60
三浦 環 1884年1946年(明治17年昭和21年) 60
武者小路 実篤 1885年1976年(明治18年昭和51年) 59
平塚 らいてう 1886年1971年(明治19年昭和46年) 58
山田 耕筰 1886年1965年(明治19年昭和40年) 58
谷崎 潤一郎 1886年1965年(明治19年昭和40年) 58
松旭斎 天勝 1886年1944年(明治19年〜昭和19年) 58
柳 宗悦 1889年1961年(明治22年昭和36年) 55
古今亭 志ん生 1890年1973年(明治23年昭和48年) 54
山川 菊栄 1890年1980年(明治23年昭和55年) 54
近衛 文麿 1891年1945年(明治24年昭和20年) 53
河合 栄治郎 1891年1944年(明治24年〜昭和19年) 53
西条 八十 1892年1970年(明治25年昭和45年) 52
早川 徳次 1893年1980年(明治26年昭和55年) 51
加藤 シヅエ 1897年2001年(明治30年平成13年) 47
淺沼 稲次郎 1898年1960年(明治31年昭和35年) 46
土方 与志 1898年1959年(明治31年昭和34年) 46
溝口 健二 1898年1956年(明治31年昭和31年) 46
近衛 秀麿 1898年1973年(明治31年昭和48年) 46
吉野 源三郎 1899年1981年(明治32年昭和56年) 45
田河 水泡 1899年1989年(明治32年平成元年) 45
阪東 妻三郎 1901年1953年(明治34年昭和28年) 43
小林 秀雄 1902年1983年(明治35年昭和58年) 42
近藤 真柄 1903年1983年(明治36年昭和58年) 41
古川 縁波 1903年1961年(明治36年昭和36年) 41
美濃部 亮吉 1904年1984年(明治37年昭和59年) 40
堀 辰雄 1904年1953年(明治37年昭和28年) 40
榎本 健一 1904年1970年(明治37年昭和45年) 40
朝永 振一郎 1906年1979年(明治39年昭和54年) 38
湯川 秀樹 1907年1981年(明治40年昭和56年) 37
大岡 昇平 1909年1988年(明治42年昭和63年) 35
黒澤 明 1910年1998年(明治43年平成10年) 34
三島 由紀夫 1925年1970年(大正14年昭和45年) 19才

1944年

(昭和19年 から転送)

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1944年(1944 ねん)は、西暦グレゴリオ暦)による、土曜日から始まる閏年昭和19年。


  1. ^ 第六垂水丸慰霊碑”. 垂水観光協会 (2012年9月1日). 2022年1月16日閲覧。
  2. ^ 猫田勝敏 日外アソシエーツ「20世紀日本人名事典」コトバンク 2021年2月13日閲覧
  3. ^ 早稲田大学百年史 第四巻/第八編 第十八章
  4. ^ 手塚治虫 『手塚治虫漫画全集 9 地球の悪魔』講談社、1977年、60,61頁。ISBN 978-4-06-108609-8 
  5. ^ アイザック・アシモフ 『アシモフ初期作品集3 母なる地球』早川書房、1996年、221-224,231頁。ISBN 978-4-15-011155-7 
  6. ^ アイザック・アシモフ 『アシモフの科学エッセイ7 たった一兆』早川書房、1985年、203-205,211,213頁。ISBN 978-4-15-050027-6 



昭和19年(1944年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2011/06/17 05:33 UTC 版)

第九三八海軍航空隊」の記事における「昭和19年(1944年)」の解説

1月18日 チョイスル島守備隊撤退協力21日まで防空哨戒魚雷艇掃討従事2月20日 第二五三海軍航空隊撤退をもってラバウル航空隊消滅3月10日 第十七軍のタロキナ攻撃上空支援3月15日 ブイン進出以後月2回程度ペースブーゲンビル島周辺の哨戒ラバウルへの物品輸送従事8月4日 連絡のためトラック環礁へ1機出発。無事往復九五八空と九三空のどちらの偵かは不明12月10日 解隊装備払底し機体九五八空に譲って解散した要員内地帰還ができず、ラバウルとどまり12月1日新編した陸戦隊の「第八警備隊」に編入され終戦迎えた。この八五警はニューギニアフィンシュハーフェンの戦い参加した初代はまった別物二代目である。

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昭和19年

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第十四航空隊 (2代)」の記事における「昭和19年」の解説

1月 クェゼリン環礁エニウェトク環礁攻略に備えてマーシャル諸島への空襲激化2月2日 トラック環礁に3機進出マーシャル諸島各地残存航空要員5日間で収容司令救出断固拒絶し40名の要員優先的に収容させ、2月13日艦砲射撃戦死2月12日 八〇一空2機と共同で1機がクエゼリン環礁ルオット島空襲4月1日 サイパン島解隊残存機八〇一空に合流。 飛行艇運用困難になったうえに、「あ号作戦準備のためにマリアナ諸島には多数陸上機部隊集結し飛行艇割く物資および人員確保しにくくなった。実戦向かない八〇二空内地送還され本土近海哨戒活動充てるために八〇一空に合流した

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昭和19年(1944年)

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第一四一海軍航空隊」の記事における「昭和19年(1944年)」の解説

10月11日南西諸島敵機部隊接近戦闘804飛行隊を含む派遣隊全機索敵

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昭和19年

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第三十一戦隊」の記事における「昭和19年」の解説

1944年(昭和19年)8月20日第三十一戦隊新編時、第三十一戦隊旗艦の「五十鈴」は横須賀での修理改造完了しておらず(9月14日改装終了)、第三十一戦隊司令部呉鎮守府一角借りして事務おこなった9月7日豊田連合艦隊司令長官連合艦隊電令作第292をもって敵潜掃蕩部隊 (SCB) を編成し第三十一戦隊第三南遣艦隊麾下の第21駆潜隊に対し(一)敵潜撃滅(二)機動部隊および補給部隊護衛(三)艦隊泊地警戒(四)海上交通保護 」を命じた。だが戦局急転により、統一行動をとったことはなかったと思われる10月17日連合軍フィリピン中部スルアン島大部隊展開し上陸作戦開始した連合艦隊司令部は、当時内海西部にあった第三十一戦隊機動部隊本隊指揮官小沢治三郎第三艦隊司令長官)の警戒部隊編入した(GF電令作第356号)。これは、機動部隊本隊警戒兵力であった第二遊撃部隊台湾沖航空戦における「残敵掃蕩」のため出撃させたため、機動部隊護衛足らなくなったための措置である。 10月18日午後5時日本軍捷一号作戦発動する翌日第三十一戦隊旗艦を「五十鈴」から軽巡洋艦大淀」に変更した10月20日夕刻小沢機動部隊として豊後水道出撃した。第三十一戦隊任務は、第三艦隊基幹とする機動部隊護衛であった軽巡洋艦駆逐艦機動部隊本隊の直衛を担当し海防艦部隊燃料補給部隊護衛おこなった第一補給部隊タンカーたかね丸、海防艦22号、29号、33号〉)・第二補給部隊タンカー仁栄丸、駆逐艦秋風海防艦31号、43号、132号〉)という編成である。10月25日エンガノ岬沖海戦で、小沢機動部隊空母含め7隻を喪失する第三十一戦隊損傷艦こそあったものの、沈没した艦はいなかった。第二補給部隊の仁栄丸は10月25日に米潜水艦スターレット)によって撃沈され、第一補給部隊のたかね丸も10月31日に米潜水艦複数隻の襲撃により撃沈された。 レイテ沖海戦後、「大淀」と「若月」は奄美大島からフィリピン再進出命じられたため、小沢機動部隊司令部は「大淀」から「日向」へ、第三十一戦隊司令部は「大淀」から「五十鈴」へ移動した第三十一戦隊小沢艦隊残存艦と内地戻って補給修理をおこなう。その後南方輸送部隊H部隊」として、南西方面への輸送任務従事する第三十一戦隊司令官指揮のもと、第四航空戦隊日向伊勢)と軽巡五十鈴」および駆逐艦複数隻(霜月)は再び南西方面進出する三十一戦隊はマニラ到着をもって南西方面部隊編入されることが発令されていた(11月5日)。 南方輸送部隊H部隊新南群島待機中、四航戦等はリンガ泊地へ、第三十一戦隊マニラ向かうことになった11月19日三十一戦隊旗艦「五十鈴」はコレヒドール島沖合で米潜水艦ヘイク雷撃により、艦尾切断大損害受けた11月20日第五艦隊麾下第一水雷戦隊司令官木村昌福少将)が第二水雷戦隊統合される形で解隊されると、第三十一戦隊一水戦の代わり駆逐艦部隊として第五艦隊編入された。以後第三十一戦隊本格的に多号作戦従事する多号作戦とは、ルソン島マニラからレイテ島西岸オルモックへの陸軍兵増援作戦である。 11月22日、「五十鈴」は駆逐艦」に護衛されてシンガポール到着した第三十一戦隊司令部秋月型駆逐艦の「霜月」(第二水雷戦隊・第41駆逐隊所属)に旗艦変更した24日午後江戸少将は「」を率いてシンガポール出発ブルネイに向かう11月25日未明、「霜月」は米潜水艦カヴァラ撃沈される。霜月沈没により、第三十一戦隊司令官江戸太郎少将をふくめ戦隊司令部全滅した。そこで同年12月1日鶴岡信道少将新任司令官として内地第三十一戦隊司令部再建され12月22日空路マニラ進出したこの間、「五十鈴」はシンガポールからスラバヤ回航され、同地修理おこなった同年12月5日北東方面艦隊解隊にともない第五艦隊南西方面艦隊編入された。12月8日には麾下の第933海軍航空隊ルソン島北部カナンカに進出したが、護衛関係航空部隊大規模な整理統合に伴い第三十一戦隊から除かれて第936海軍航空隊吸収された。多号作戦投入され第三十一戦隊駆逐艦次々に被害をうけた。同年12月15日連合軍ミンドロ島上陸してミンドロ島地上戦はじまり、多号作戦中止された。第三十一戦隊のうち3隻()は様々な事情経たあと、第二遊撃部隊および第二水雷戦隊司令官木村昌福少将指揮下に入り礼号作戦部隊として、12月28日深夜礼号作戦参加した

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昭和19年

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涼月 (駆逐艦)」の記事における「昭和19年」の解説

1943年昭和18年12月12日、第61駆逐隊司令大江大佐から泊満義大佐海兵46期)に交代した大江大佐12月26日附で重巡洋艦摩耶艦長)。 修理後12月23日-24日、第61駆逐隊涼月初月)はウェーク島当時の日本呼称大鳥島)に送られる独立混成第5連隊戦車16連隊主力九五式軽戦車装備)を乗せた特設巡洋艦赤城丸日本郵船、7,389トン)を護衛して瀬戸内海出撃し、1944年(昭和19年)1月1日ウェーク島到着した1月9日、呉に帰投して第一回ウェーク島輸送終えた1月10日附で、涼月駆逐艦長赤澤次壽雄大佐から瀬尾中佐海兵51期瀬尾は、太平洋戦争開戦時駆逐艦時雨艦長)に交代する1月15日夜、第61駆逐隊涼月初月)は砲兵大隊工兵隊衛生隊乗せた赤城丸護衛し瀬戸内海出撃第二回ウェーク島輸送実施する豊後水道通過後の1月16日10時45分ごろ、.mw-parser-output .geo-default,.mw-parser-output .geo-dms,.mw-parser-output .geo-dec{display:inline}.mw-parser-output .geo-nondefault,.mw-parser-output .geo-multi-punct{display:none}.mw-parser-output .longitude,.mw-parser-output .latitude{white-space:nowrap}北緯3215分 東経13226分 / 北緯32.250度 東経132.433度 / 32.250; 132.433もしくは北緯3215分 東経13229分 / 北緯32.250度 東経132.483度 / 32.250; 132.483、沖の島西方海上差し掛かったところでアメリカ潜水艦魚雷攻撃受けたスタージョン (USS Sturgeon, SS-187)は艦首発射管から魚雷を4本発射し4つ命中音を確認した魚雷涼月前部後部1本ずつ命中火薬庫誘爆させて前部二番砲塔後ろ61フレームから前を、後部第四砲塔後部の166フレームから後ろ失った。また前部被雷による大爆発艦橋破壊された目撃していた田口正一大佐初月艦長)は「涼月轟沈思った」と回想している。泊(第61駆逐隊司令)や瀬尾涼月艦長)以下約130名が戦死便乗陸兵150名中、89戦死重傷9名)。生存者100名の中で最上級者は掌機長機関特務中尉だった。大損害受けた涼月初月曳航されて退避開始宿毛湾到着後、電纜敷設艇釣島特設掃海艇第六玉丸(西大漁業275トン)の協力得て1月19日呉へ帰投した。調査した造船士官は、艦橋下方後部寄り第一缶室の隔壁設計通り強度示したため沈没免れた述べている。涼月修理担当した福井静夫当時造船設計担当部員)も、同様に沈まなかったのが不思議であった」と回想している。 1月19日から呉海軍工廠において復旧工事が行われた(8月3日まで)。この復旧に際し外見上の特徴となる直線形状の艦首角ばった艦橋持った涼月大破時に戦死した大佐海軍少将進級)の後任として3月20日附で天野重隆大佐海兵47期、前職第10駆逐隊秋雲風雲朝雲司令)が第61駆逐隊司令任命され後任第10駆逐隊司令赤澤大佐涼月初代艦長となった6月10日倉橋友二大尉ミッドウェー海戦時の駆逐艦萩風砲術長)は涼月砲術長任命される同月下旬吉岡一郎大尉涼月航海長澤岡信男大尉涼月水雷長に、それぞれ補職7月7日附で、天野大佐(第61駆逐隊司令)は、61司令涼月艦長兼務命じられた。7月10日涼月駆逐艦長杉谷永秀中佐海兵51期杉谷は、駆逐艦黒潮沈没時の艦長)とする人事発令される8月3日涼月修理完成した戦列復帰後の涼月は、瀬戸内海訓練を行う。 10月中旬61駆2隻(涼月若月)は第三艦隊司令長官小沢治三郎中将)より、大分から台湾基隆への輸送艦載機基地物件および人員)を命じられる台湾沖航空戦最中であり、また悪天候豊後水道夜間通過することになるため、涼月幹部達は小沢艦隊司令部に猛抗議したものの却下された。10月16日22時10分北緯3129東経13154分 / 北緯31.483度 東経131.900度 / 31.483; 131.900の都井岬沖を航行中61駆(若月涼月)は、アメリカ潜水艦ベスゴ (USS Besugo, SS-321) の雷撃遭ったベスゴ浮上攻撃にて「ジグザグ航行をしている2隻の重巡洋艦に対して艦首発射管から魚雷を6本発射、2分後、「重巡洋艦」の艦橋前に命中水柱が立つのを見た涼月側は電波探知機(逆探)でベスゴレーダー探知していたが、悪天候のため跡を発見するのが遅れたのである。この攻撃艦首と一番砲塔下左舷に魚雷命中し艦首部18番フレームから前を切断。一番砲塔下に命中した魚雷不発だったが、船体亀裂生じさせた。戦死者2名。涼月九州沿岸沿い北上して呉に退避する10月17日から11月11日まで呉海軍工廠修理受けたこの頃秋月型駆逐艦8番艦冬月(第41駆逐隊)もアメリカ潜水艦トレパン (USS Trepang, SS-412)の雷撃艦首喪失しており(10月12日被雷損傷)、秋月型2隻(涼月冬月)は並んで修理受けた修理中10月24-26日に起きたレイテ沖海戦日本海軍大敗。第61駆逐隊では小沢機動部隊所属していた2隻(秋月初月)が沈没し天野駆逐隊司令戦死した11月8日秋月型2隻(涼月霜月)は第四航空戦隊司令官松田千秋少将)の航空戦艦2隻(日向伊勢と共にシンガポールリンガ泊地進出予定であったが、出撃直前涼月新造艦首部分で浸水事故発生本艦出撃機会を逸したその後霜月(第41駆逐隊)は第三十一戦隊旗艦として行動中、11月25日ボルネオ島方面で潜水艦撃沈された。 11月15日附で第61駆逐隊解隊され、涼月若月多号作戦参加して11月11日沈没書類上在籍)は、秋月型2隻(冬月霜月)の第41駆逐隊編入された。第41駆逐隊司令脇田喜一大佐海兵48期であった。だが霜月11月25日に米潜水艦カヴァラ (USS Cavalla, SS-244) の雷撃撃沈され(前述)、第三十一戦隊司令官江戸太郎少将戦死脇田41司令)と畑野健二少佐霜月艦長)も戦死した。第41駆逐隊秋月型2隻(涼月冬月)で行動することになった。なお同日附で第十戦隊解隊されており、第17駆逐隊や第41駆逐隊等の残存部隊は以降第二水雷戦隊司令官不在)に編入された。上記のように被雷損傷修理のため、秋月型2隻(涼月冬月)はマリアナ沖海戦レイテ沖海戦には参加できなかった。また、多号作戦支援部隊編入されていたが、実際に作戦には投入されなかった。 11月中旬戦艦3隻(大和長門金剛)の内地帰投に際し、第41駆逐隊涼月冬月)は大和型戦艦1番大和艦長森下信衛大佐)を豊後水道まで出迎えた戦艦金剛台湾沖で沈没戦艦長門および第17駆逐隊横須賀回航)。大和便乗中の宇垣纏中将は「GFは特に文月涼月の二驅逐艦警戒派遣し呉れたるも、之字運動も十分出來ざる山船頭案山子にもならず。」と評している。 同月下旬駆逐艦3隻(秋月型涼月冬月〉、松型駆逐艦〉)はマニラ方面への緊急輸送作戦参加する空母隼鷹護衛することになった11月23日隼鷹隊は呉を出撃11月30日マニラ到着して軍需品陸揚げする12月1日出港12月3日馬公到着後、隼鷹隊は日本に戻る戦艦榛名艦長重永主計大佐)と合流する同艦シンガポール座礁し艦底損傷受けた態であった。12月6日馬公出港して日本本土に向かう佐世保入港直前12月9日未明艦隊野母崎沖でアメリカ潜水艦ウルフパック発見される涼月側は敵潜水艦待ち伏せ懸念される男女群島東方海面黎明航行避けるよう榛名意見具申したが、返答はなかったという。直後隼鷹レッドフィッシュ (USS Redfish, SS-395) の魚雷2本命中して中破続いてシーデビル (USS Seadevil, SS-400) かプライス (USS Plaice, SS-390) の雷撃により損傷した隼鷹佐世保帰投。この輸送作戦従事中、涼月冬月ともに、荒天見舞われた際に船体シワ発生した。呉に帰投後、12月27日まで呉海軍工廠修理が行われ、修理完了後瀬戸内海訓練行った

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昭和19年

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榛名 (戦艦)」の記事における「昭和19年」の解説

1944年(昭和19年)1月25日戦艦大和艦長へと転任した森下大佐後任として重永主計(しげなが・かずえ)大佐着任する反攻作戦によりサイパン島上陸したアメリカ軍及びそれを支援するアメリカ艦隊撃滅すべく「あ号作戦」が発動された。マリアナ沖海戦に、第三航空戦隊空母千代田千歳瑞鳳)及び第二艦隊旗艦愛宕司令長官栗田健男中将)・第一戦隊(大和、武蔵)、第二水雷戦隊能代島風等)を主力とする前衛部隊の一艦として参加した。しかし19日、米潜水艦雷撃により空母大鳳翔鶴沈没した20日アメリカ軍機動部隊艦載機攻撃により乙部隊では空母飛鷹沈没し隼鷹損傷甲部隊では瑞鶴損傷前衛部隊では千代田龍鳳摩耶損傷受けた榛名後甲板直撃弾を受け、火薬庫浸水する程の被害出した。この損傷により、修理完了後全速力を出す艦尾振動する態となる。最大発揮速力26-27ノット程度低下するなど、榛名戦力発揮影響与えた損傷修理と併せ舷窓閉塞など不沈工事対空火器大幅増強が行われている。 詳細は「レイテ沖海戦を参照 同年10月フィリピンレイテ島上陸したアメリカ軍に対し発令され捷一号作戦参加榛名栗田中将指揮第一遊撃部隊の一艦として上陸中のアメリカ陸軍部隊砲撃すべく進撃続け25日サマール島沖にて発見したスプレイグ少将指揮下の第77任務部隊との交戦いわゆるサマール島沖海戦ではアメリカ艦隊追撃したが、前述の艦尾振動影響より金剛ほどの戦果上げることができなかった。混乱する戦局の中で栗田中将より撤退命令下され榛名帰途スルー海フィリピン西方海上)においてアメリカ軍追撃により至近弾を受け損傷する

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昭和19年(1944年)

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第二航空隊」の記事における「昭和19年(1944年)」の解説

1月7日 ラバウル空襲激化19日までに艦爆15機に激減1月25日 第二航空戦隊ラバウル進出2月5日 五五二空撤退2月20日 二航戦撤退。 年2月28日 五〇一空撤退。 年3月4日 解隊2月17日トラック島空襲によって補給路断たれたことを機に、外南洋放棄決定進駐以来ラバウルに留まってい五八二空解散しトラック後退した上で残存していた九七艦攻6機を第五五一海軍航空隊移譲した

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昭和19年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/10 01:16 UTC 版)

南西方面艦隊」の記事における「昭和19年」の解説

1944年(昭和19年)3月25日南東方面艦隊より第九艦隊司令長官遠藤喜一中将ニューギニア北岸中部以西担当)が南西方面艦隊編入された。だが第九艦隊はまもなく玉砕し7月10日解隊された。 6月18日南西方面艦隊第二南遣艦隊司令長官人事おこなわれる南西方面艦隊司令長官高須中将から三川軍一中将当時第二南遣艦隊司令長官)に交代した後任第二南遣艦隊司令長官は、河瀬四郎中将であった8月15日より、三川中将南西方面艦隊司令長官)は第三南遣艦隊司令長官兼任することになった。 また同時期日本海軍テニアンの戦い玉砕した第一航空艦隊再編し8月7日司令長官寺岡謹平中将親補)、8月10日附で南西方面艦隊編入した。だが寺内中将第一航空艦隊9月10日ダバオ誤報事件起こしてしまう。10月20日より大西瀧治郎中将が一航艦司令長官となった10月中旬以降の連合軍反攻作戦および捷一号作戦時(フィリピンの戦い)、ルソン島マニラ司令部を置く南西方面艦隊麾下部隊展開しフィリピン配備日本陸軍南方軍第14方面軍と共に連合軍迎撃した。レイテ島地上戦にともなう緊急輸送作戦多号作戦実施中11月1日南西方面艦隊司令長官三川中将から大川内傳七中将交代した11月15日台湾フィリピン展開していた第二航空艦隊司令長官福留繁中将)が、南西方面艦隊編入された。この措置により、南西方面艦隊麾下航空艦隊は3個艦隊第一航空艦隊第二航空艦隊第十三航空艦隊となった12月5日戦時編制改定により北東方面艦隊所属第五艦隊司令長官志摩清英中将)が南西方面艦隊編入された。

※この「昭和19年」の解説は、「南西方面艦隊」の解説の一部です。
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