文久2年 (みずのえいぬ 壬戌)
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年(年号) | |
●1853年 (嘉永6年) | ■黒船来航 |
●1855年 (安政2年) | ■安政江戸地震 |
●1858年 (安政5年) | ■安政の大獄 |
●1860年 (万延元年) | ■桜田門外の変 |
●1862年 (文久2年) | ■生麦事件 |
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●1863年 (文久3年) | ■薩英戦争 |
●1867年 (慶応3年) | ■大政奉還 |
●1868年 (明治元年) | ■鳥羽・伏見の戦い |
●1869年 (明治2年) | ■版籍奉還 |
●1871年 (明治4年) | ■廃藩置県 |
●1871年 (明治4年) | ■解放令 |
●1873年 (明治6年) | ■徴兵制布告 |
●1876年 (明治9年) | ■廃刀令 |
●1877年 (明治10年) | ■西南戦争 |
●1877年 (明治10年) | ■東京大学設立 |
●1882年 (明治15年) | ■上野動物園開園 |
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1862年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/03/01 18:24 UTC 版)
1862年(1862 ねん)は、西暦(グレゴリオ暦)による、水曜日から始まる平年。
- 1 1862年とは
- 2 1862年の概要
- 3 誕生
- 4 死去
- 5 脚注
1862年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2014/02/28 14:26 UTC 版)
「マナサスギャップ鉄道」の記事における「1862年」の解説
南軍が鹵獲したボルチモア・アンド・オハイオ鉄道のレールおよび資材は、ウィンチェスター・アンド・ポトマック鉄道を利用してウィンチェスターに運ばれそこに保管されていたが、1862年の初頭、そのほとんどがセンターヴィル軍用鉄道建設を始めとする南軍の鉄道に使用された。シェナンドー渓谷からの物資はマナサスギャップ鉄道を利用してマナサス・ジャンクションに運ばれ、さらにセンターヴィル軍用鉄道でジョンストン大将の本営があるセンターヴィル(Centreville)まで運ばれた。 その後南軍がリッチモンド防衛のために南進したため、春先にはマナサスギャップ鉄道の西側とウィンチェスター・アンド・ポトマック鉄道は北軍の手に堕ち、ジョージ・マクレラン少将の作戦計画に利用されることとなった。マクレランはマナサスギャップ鉄道とウィンチェスター・アンド・ポトマック鉄道を連結し、首都ワシントンからボルチモア・アンド・オハイオ鉄道、ウィンチェスター・アンド・ポトマック鉄道、新連結線、マナサスギャップ鉄道、オレンジ・アンド・アレクサンドリア鉄道とつながる「鉄道の輪」を構築する計画だった。 ストーンウォール・ジャクソンのバレー方面作戦の一環として、1862年5月23日、ターナー・アシュビー大佐のバージニア第7騎兵連隊(7th Virginia Cavalry)はストラスバーグからのレールを引き剥がし、トーマス・マンフォード(Thomas T. Munford)大佐のバージニア第2騎兵連隊(2nd Virginia Cavalry)は、さらに東のサラフェア渓谷(Thoroughfare Gap)で、線路や橋を破壊した。
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1862年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 22:56 UTC 版)
ジョージ・マクレランを司令官とするポトマック軍は、アメリカ連合国の首都リッチモンドの攻略を目指す半島方面作戦のために、第1~第5軍団を編成した。第5軍団の軍団長はナサニエル・バンクスであった。しかし、南軍ストーンウォール・ジャクソンのバレー方面作戦に対応するために、バンクスの軍団は短期間でポトマック軍から離れた。この軍団は後に第12軍団と改称された。 続いて、半島方面作戦中の1862年5月18日、リッチモンドに迫ったポトマック軍は軍団再編を実施し、第3軍団の第3師団(フィッツ・ジョン・ポーター准将)とジョージ・サイクス(George Sykes)准将の正規軍予備師団からなる暫定第5軍団が編成された。ポーターは軍団長となり、後任の師団長にはジョージ・モレル(George W. Morell)准将が就任した。1862年7月22日、「暫定」が取れ、陸軍省は第5軍団を正式の軍団と認めた。 半島方面作戦中に第5軍団が参加した戦闘は、ハノーバーコートハウスの戦いに加え、1862年6月25日から7月1日の七日間の戦いの内のメカニクスビルの戦い、ゲインズミルの戦い、グレンデイルの戦い及びマルバーンヒルの戦いがある。七日間の戦いの4つの戦闘での軍団の戦死者は995人、戦傷3,805人で、2,801人が行方不明または捕虜となり、損害合計は7,061人であったが、これはポトマック軍全体のおよそ半数に相当した。この損害の内、6,387人はゲインズミルで生じた。ゲインズミルでの北軍戦力は第5軍団と第6軍団の1個師団のみであり、これで南軍の北バージニア軍のほぼ全軍と戦った。7月14日に、ジョージ・マッコール(George A. McCall)のペンシルベニア予備師団が加わり、軍団の戦力は一時的に強化された。この師団には、後にその才能を発揮するジョン・F・レイノルズ(後にポトマック軍第1軍団長)やジョージ・ミード(後にポトマック軍司令官)がいた。 半島方面作戦は結局失敗に終わった。ペンシルベニア予備師団はアービン・マクドウェルのバージニア軍第3軍団に所属替えとなった。第5軍団はポトマック軍傘下に留まったものの、ジョン・ポープのバージニア軍支援のために、ポトマック軍第3軍団及び第9軍団とともに北バージニア方面に派遣された。 マクレランは第5軍団を特に賞賛していた。特にポーターとは親友であり、他の陸軍が見習うべきモデル軍団だと宣伝していた。軍団の参謀は全員が陸軍士官学校の出身者であり、政治家軍人や非職業軍人はいなかった。正規軍師団が軍団に含まれていたことも、第5軍団にプロフェッショナルな雰囲気を与え、訓練は他の部隊よりも厳しかった。加えて、正規軍予備砲兵部隊が軍団に付属された。 8月28日 - 8月30日の第二次ブルランの戦いでは北軍の左翼として戦った。ポーターはポープから南軍ストーンウォール・ジャクソンを攻撃するよう命令されたが、その場合別の南軍部隊(ジェイムズ・ロングストリート)から自身の側面を攻撃される可能性があり、その命令を実行に移さなかった。結局その恐れていたことが起こり、はるかに優勢な南軍の攻撃を受けた。隷下の6個旅団の内戦闘に参加したのは4個旅団であり、人員は6,500人と比較的少なかった。これに対して、戦死331人、負傷1,362人、行方不明456人の合計2,151人の損害を出している。第2師団のガバヌーア・ウォーレン旅団は2個連隊(第5および第10ニューヨーク連隊)で構成されていたが、第5ニューヨーク連隊500名のうちほぼ300名が被弾し、そのうち120名は瀕死の重傷を負った。ポーターはこの敗北のためにポープから軍団長を解任されたが、まもなくマクレランによって復職し、引き続き第5軍団の指揮をとった。 9月のアンティータムの戦い直前にアンドリュー・A・ハンフリーズの師団が追加され、3個師団編成となった。この師団は主としてペンシルベニアで集められた徴兵期間9ヶ月の兵で構成されていた。アンティータムでは両軍ともに多くの部隊を予備にし、順次投入する戦術を取った。第5軍団第1師団(モレル)は中央予備とされ、最後まで戦闘には投入されなかった。サイクスの第2師団は戦闘に投入されたがいくつかの部隊がアッパーフォードで小さな戦闘に加わった程度である。ハンフリーズの第3師団も予備として戦闘には参加しなかった。アンティータムの戦いで北軍は勝利し、南軍の北上を阻止することに成功した。しかし、ポトマック軍司令官のマクレランは、積極性に欠けるとしてリンカーン大統領に解任された。 マクレランの解任後に、ポーターは第二次ブルランの戦いの際の抗命に関して軍法会議にかけられた。ポーターの行動は非難を受けるようなものではなかったが、バージニア軍を指揮していたポープはスケープ・ゴートを必要としていた。ポーターは有罪となり、軍を免職された。第1師団長のジョージ・モレルも法廷でポーターを擁護する発言をしたため、連座して免職となった。さらに、その後長期にわたって、陸軍省は第5軍団の士官の昇進をなかなか認めなかった。 マクレランの後を継いで、アンブローズ・バーンサイド少将がポトマック軍の司令官となった。第5軍団の軍団長には、ジョセフ・フッカー少将が就任したが、直後にバーンサイドは第3軍団と第5軍団から構成される中央「大師団(Grand Division)」を組織し、フッカーは中央大師団の司令官に任命されたため、ダニエル・バターフィールド少将が第5軍団長を引き継いだ。バーンサイドはリンカーンにせかされ、冬期にも関わらずリッチモンド攻略を目指す作戦を立案した。1862年12月のフレデリックスバーグの戦いでは、チャールズ・グリフィン(Charles Griffin)、サイクス及びハンフリーズが各師団長を務めた。フレデリックスバーグで北軍は敗北し、第5軍団の損害は戦死206人、戦傷1,699人、行方不明300人の合計2,175人であった。
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1862年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/03/16 15:52 UTC 版)
モスビーはその情報を集める能力をJ・E・B・スチュアート将軍に印象づけた後で、中尉に昇進しスチュアート騎兵隊の斥候を任された。スチュアート将軍の攻撃戦略を展開するのに貢献した。半島方面作戦の間にスチュアートの「マクレラン軍騎り回し」作戦にも功があった。 この際、モスビーは北軍騎兵に捕らえられ、ワシントンD.C.の古議事堂監獄に収監され、10日後に捕虜交換で釈放された。モスビーは捕虜であった間ですら敵状を探った。モンロー砦にちょっと立ち寄った間に、ハンプトン・ローズに異常なまでに艦船が集まっていることを見て取った。その艦船はノースカロライナ州にいたアンブローズ・バーンサイドの軍勢数千を北バージニア方面作戦にあるジョン・ポープ軍を補強するために送っているところだと分かった。モスビーは解放された後で歩いてリッチモンド郊外の作戦本部に向かい、ロバート・E・リー将軍に調べてきたことを報告した。
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1862年(24歳)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/25 14:31 UTC 版)
「フランツ・ブレンターノ」の記事における「1862年(24歳)」の解説
処女作『アリストテレスによる存在者のさまざまの意味について』(Von der mannigfachen Bedeutung des Seienden nach Aristoteles)を出版。当時の学界の大御所的存在であり、アリストテレス研究者として有名なトレンデレンブルグの賞賛を得た。テュービンゲン大学で学位を得る。
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1862年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/24 03:54 UTC 版)
「3フィート6インチ軌間」の記事における「1862年」の解説
1862年、ノルウェーの技師であるカール・アブラハム・ピルは、ノルウェーのレーロース線(英語版)において初めて1067 mm軌間の鉄道を建築した。
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1862年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/07 06:10 UTC 版)
詳細は「1862年」を参照 1月21日(文久元年12月22日) - 文久遣欧使節、欧州諸国との不平等条約解消交渉のため出発。 2月13日(文久2年1月15日) - 坂下門外の変。 3月11日(文久2年2月11日) - 和宮、将軍徳川家茂婚礼 5月1日 - 第2回ロンドン万国博覧会が開幕する。 5月21日(文久2年4月23日) - 寺田屋騒動。 6月5日 - フランスとベトナム間で不平等条約サイゴン条約締結 6月6日 - 両都両港開市開港延期問題に関し、日英間でロンドン覚書締結 文久2年8月21日 - 生麦事件。 9月22日 - リンカーン、奴隷解放宣言を出す。
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1862年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 03:52 UTC 版)
1862年の半島方面作戦で、フッカーはポトマック軍第3軍団の第2師団を指揮し、その任務を良くこなし、戦場において重要なポイントを積極的に求める戦闘指揮者としてその勇名をはせた。ウィリアムズバーグの戦い(その結果として1862年5月5日に少将に昇進した)と七日間の戦いを通じて頭角を現した。マクレランの慎重すぎる将軍ぶりにイライラし、リッチモンドを占領できなかったことについて明け透けに批判した。フッカーはその上官について、「彼は軍人ではないだけでなく、軍人とは何かを知らない」と言った。半島方面作戦でフッカーに関する2つの評判、すなわち部下の福祉と士気に気を遣うことと、戦場においてすら深酒をするということが固まった。 マクレランの軍が活動できなくなると、フッカーはジョン・ポープ少将のバージニア軍に転属になった。その師団はまずサミュエル・P・ハインツェルマン少将の第3軍団についたが、北バージニア方面作戦と第二次ブルランの戦いで北軍が大敗した後は、9月6日に軍団指揮(バージニア軍第3軍団)に就いた。ロバート・E・リーの軍隊が北のメリーランド州に入った(メリーランド方面作戦)とき、フッカーの軍団(9月12日に第1軍団に改組された)はポトマック軍の下に戻り、サウス山の戦いとアンティータムの戦いでは活躍した。アンティータムでは、アメリカ史の中でも最も流血の多い日の最初の攻撃を仕掛けたのがフッカーの軍団であり、ストーンウォール・ジャクソンの軍団を南へ追い遣り、そこで手詰まりとなった。フッカーは攻撃的であり、部下を奮い立たせていたが、足を負傷して早朝に戦場を離れた。自分が戦場に留まっておれば、決定的な北軍の勝利になったはずだと主張したが、マクレラン将軍の慎重さのために再度北軍は失敗し、勢力的に劣るリー軍が壊滅を免れた。リンカーン大統領は辛抱できなくなり、マクレランを解任してアンブローズ・バーンサイド少将を後任に据えた。 12月のフレデリックスバーグの戦いは北軍のもう一つの挫折だった。足の傷から快復したフッカーは短期間第5軍団の指揮を執ったが、続いて第3軍団と第5軍団を統括する「大師団」指揮官に昇進した。フッカーは市の背後にある防御が施された高台を攻撃するというバーンサイドの作戦をあざ笑い、それを「非常識」と見なした。その大師団(特に第5軍団)は、フッカーが抗議したにも拘わらずバーンサイドの命令によって14度の無益な突撃を行い、甚だしい損失を被った。バーンサイドはこの戦いの後1863年1月にも惨めな「泥の行軍」を行い、フッカーの上官に対する批判は公式の命令不服従の域まで達した。バーンサイドのことを「卑劣漢...失敗した犠牲の」と表現した。バーンサイドはフッカーを含み、部下の指揮官総入れ替えを目論み、大統領の承認を求める書面を作った。フッカーのことは、「現在のような重大な危機に重要な役割を任せるには不適」と述べた。しかし、リンカーン大統領は再度辛抱できず、反対にバーンサイドを解任した。
※この「1862年」の解説は、「ジョセフ・フッカー」の解説の一部です。
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1862年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/04/25 20:01 UTC 版)
1862年3月、ハンプトン・ローズ海戦がスーエルズポイント沖で起こった。これはCSSバージニアとUSSモニターとの間で初めての装甲艦同士の戦いとなった。結果としては引き分けたが、この戦闘で海戦の姿が変わり、木造戦闘艦の時代は終わった。 その春遅く、モンロー砦を基地とする北軍海軍が常駐することで、陸軍ジョージ・マクレラン少将の半島方面作戦を支援するためにワシントンD.C.から水路陸軍を運び、妨害されずにモンロー砦で上陸することが可能となった。マクレランの軍隊はモンロー砦で編成されて1862年春の間にバージニア半島を遡り、6月1日までに西に約80マイル (130 km) 進んでリッチモンドから数マイルの地点に達した。その後の30日間はリッチモンドを包囲した。続いての七日間の戦いではマクレランがリッチモンドからジェームズ川下流に後退し、この方面作戦が終わった。マクレランにとって幸いなことに、この間に北軍はノーフォーク、ハンプトン・ローズおよびドルーリーズブラフ(リッチモンドの南約8マイル (13 km)の戦略的地点) より下流のジェームズ川を再占領していた。
※この「1862年」の解説は、「モンロー砦」の解説の一部です。
「1862年」を含む「モンロー砦」の記事については、「モンロー砦」の概要を参照ください。
1862年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/30 23:05 UTC 版)
3月~5月 - アメリカ海軍でタデウス・ローが石炭運搬ハシケに水素発生器を設置し、「ジョージ・ワシントン・パーク・カスティス」号として、船上から偵察気球の運用を行った。「ジョージ・ワシントン・パーク・カスティス」は歴史上最初の航空母艦ともいえる。 9月5日 - イギリスの気象学者、ジェームズ・グレーシャーとヘンリー・トレーシー・コックスウェルが気球で高度8,000mを超えた。
※この「1862年」の解説は、「1860年代の航空」の解説の一部です。
「1862年」を含む「1860年代の航空」の記事については、「1860年代の航空」の概要を参照ください。
1862年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/06/29 22:58 UTC 版)
半島方面作戦終盤の7日間の戦いでは、その3つ目の戦闘である6月29日のゲインズミルの戦いにおいて、スローカムの第1師団はフィッツ・ジョン・ポーター准将の第5軍団の支援に派遣され、南軍と激しく戦った。この戦闘で、師団の実働8,000人弱の内、2,021人を失った。スミスの第2師団に属するバーモント旅団は6月29日のサベイジ駅の戦い(4つ目の戦い)で目覚しい活躍を見せ、第5バーモント連隊は209人を失っている。7日間の戦いの他の戦闘にも参加したが、最後の戦闘となったマルバーンヒルの戦いでは予備としておかれた。 半島方面作戦終了後、第6軍団は第3軍団及び第5軍団と共に、ジョン・ポープ少将のバージニア軍支援のために派遣された。北軍の大敗北に終わった第二次ブルランの戦いには一部の部隊が戦闘したのみであった。第1師団の第1ニュージャージー旅団は8月27日にブルラン橋で戦い、死傷者・行方不明合計339人の損害を出した。旅団長のジョージ・テイラー(George W. Taylor)も瀕死の重症を負った。 その後、第6軍団は再びポトマック軍に戻った。メリーランド方面作戦中の9月14日のサウス山の戦いではクランプトンギャップの攻撃を担当し、スローカム師団は有利な位置にあった南軍を排除した。スローカム師団の損害は533人であった(戦死113人、負傷418人、行方不明2人)。9月17日のアンティータムの戦いでは軍団全体としては大きな戦闘には参加しなかった。この中でスミスの第2師団の第3旅団は激しい戦闘を行い、特に第7メーン連隊と第20ニューヨーク連隊は大きな損害を被った。 アンティータムではダライアス・コウチ少将の第4軍団から1個師団が第6軍団に派遣されていたが、この師団は後に第6軍団の第3師団として編入され、師団長にはジョン・ニュートン(John Newton)が就任した。 マクレランに替わってアンブローズ・バーンサイドがポトマック軍の司令官に就任すると、それぞれ2個軍団から構成される大師団(Grand Division)を編成した。フランクリンは左翼大師団の司令官に昇進したため、スミスが第6軍団長となった。スローカムは第12軍団長に昇進した。第1師団長にはウィリアム・ブルックス(William T. H. Brooks)が、第2師団長にはアルビオン・ハウ(Albion P. Howe)がそれぞれ就任した。1862年12月13日のフレデリックスバーグの戦いでは、第6軍団は敵の砲火にさらされはしたが、戦闘に加わったのは数個連隊のみであった。ポトマック軍は敗北し、バーンサイドは解任された。
※この「1862年」の解説は、「第6軍団 (北軍)」の解説の一部です。
「1862年」を含む「第6軍団 (北軍)」の記事については、「第6軍団 (北軍)」の概要を参照ください。
「1862年」の例文・使い方・用例・文例
- 南北戦争の間の2つの戦いのどちらか(1861年および1862年)
- 南北戦争(1862年)の海戦
- メキシコ軍が1862年にフランス軍を破った戦い
- アメリカ南北戦争中の2番目に大きな戦い(1862年)
- フランスの作曲家で、音楽における印象派を作り上げたといわれる(1862年−1918年)
- 英国のオーケストラ作品の作曲家(1862年−1934年)
- のスコットランド人の作家で、リチャード・ホールデンとジョン・ホールデンの妹(1862年−1937年)
- フランスのオペラ作曲家(1799年−1862年)
- ドイツの数学者(1862年−1943年)
- 米国の法律専門家で、連邦最高裁判所の長官を勤めた(1862年−1948年)
- オーストリア人の画家で、アールヌーヴォーに影響を受けた(1862年−1918年)
- ドイツ人の物理学者で、陰極線を研究した(1862年−1947年)
- ベルギー人の劇作家(1862年−1949年)
- フランスの耳科医で、現在メニエール病として知られているめまいの種類について最初に説明し、病変部位が半規管であることを特定した(1799年−1862年)
- 米国の精神科医で、トピーカに彼の息子と共に有名な精神科診療所を設立した(1862年−1953年)
- 米国の短編小説の作家で、ペンネームはO.ヘンリー(1862年−1910年)
- 米国の福音伝道者(1862年−1935年)
- 米国の作家で社会的な評論家(1817年−1862年)
- 副大統領に選出され、ハリソンの死により、米国の第10代大統領に就任した(1790年−1862年)
- ドイツのロマンチックな詩人(1787年−1862年)
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