はんせき‐ほうかん〔‐ホウクワン〕【版籍奉還】
版籍奉還
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版籍奉還(はんせきほうかん)は、明治維新の一環として全国の藩が、所有していた土地(版)と人民(籍)を朝廷に返還した政治改革。明治2年6月17日(1869年7月25日)に勅許された[1]。
注釈
- ^ 奉還前の明治元年(1868年)10月28日に政府が布告した「藩治職制」により、従来の家老や年寄格は「執政」「参政」の職名とすることが命じられていた[11]が、これらの職が「大参事」「権大参事」「少参事」に改められた。
- ^ 日本は明治5年12月2日(1872年12月31日)まで旧暦を使用していた。
- ^ 盛岡藩15代藩主南部利恭は戊辰戦争で新政府軍に降伏、戦後7万石減封の上、明治政府が仙台藩から没収した所領の一部である白石に転封を命じられた。利恭は版籍奉還にともない白石藩知事となるが、重臣たちが国替停止の運動を繰り広げ、さらに領民からも新政府に対して利恭の盛岡復帰請願が続いた。その結果同年7月に上納金70万両の献納を条件に盛岡復帰が認められ、8月利恭は盛岡藩知事となる。しかし上納金は一部を支払ったのみで財政が破綻、明治3年7月に自ら廃藩したが、藩主家は華族に留まった(のち子爵)。
- ^ 米沢藩の内分分知による支藩。財政逼迫を理由に明治2年に廃藩して宗藩に統合されたが、藩主家は宗家とは別に華族に留まった(のち子爵)。
- ^ 鳥取藩の内分分知による支藩。定府だったが明治元年12月鹿奴陣屋が置かれ鹿奴藩となる。財政逼迫を理由に明治2年に廃藩して宗藩に統合されたが、藩主家は宗家とは別に華族に留まった(のち子爵)。
- ^ 鳥取藩の内分分知による支藩。定府だったが明治元年12月若桜陣屋が置かれ若桜藩となる。財政逼迫を理由に明治3年に廃藩して宗藩に統合されたが、藩主家は宗家とは別に華族に留まった(のち子爵)。
- ^ 明治4年4月に自ら廃藩したが、藩主家は華族に留まった(のち子爵)。
- ^ 尾張藩の支藩。明治3年に廃藩して宗藩に統合されたが、藩主家は宗家とは別に華族に留まった(のち子爵)。
- ^ 8000石交代寄合だったが、戊辰戦争の戦功により慶応4年の石直しで1万5200石となったことから諸侯に列して立藩。
- ^ 常陸松岡領2万石を知行する水戸藩の御附家老家が、慶応4年1月に新政府の特旨により諸侯に列して立藩。
- ^ 明治3年に自ら廃藩したが、藩主家は華族に留まった(のち子爵)。
- ^ 明治4年財政困窮を理由に自ら廃藩したが、藩主家は華族に留まった(のち子爵)。
- ^ 今尾領3万石を知行する尾張藩の御附家老家が、慶応4年1月に新政府の特旨により諸侯に列して立藩。
- ^ 明治4年7月に自ら廃藩したが、藩主家は華族に留まった(のち子爵)。
- ^ 8000石の交代寄合だったが、慶応4年の石直しで1万0110石となったことから諸侯に列して立藩。
- ^ 5000石の交代寄合だったが、慶応4年の石直しで1万1000石となったことから諸侯に列して立藩。
- ^ 6700石の交代寄合だったが、慶応4年の石直しで1万1000石となったことから諸侯に列して立藩。
- ^ 5000石の交代寄合だったが、慶応4年の石直しで1万2746石となったことから諸侯に列して立藩。
- ^ 盛岡藩の内分分知による支藩だった盛岡新田藩は、明治元年12月3代藩主南部信民が奥羽越列藩同盟に加わった咎で1000石の減知と隠居を命じられた。これに従い、信民は隠居して舎弟信方家督を相続したが、翌明治2年1月戦後の混乱による手違いから新政府は信方に信民の「遺領」1万石を改めて与えたことから、ここに七戸藩が再立藩した。
- ^ 水戸藩の内分分知による支藩だった宍戸藩は、元治元年(1864年)9代藩主松平頼徳が天狗党の乱に同情的だったことから切腹となり改易されたが、慶応4年(1868年)2月に新政府から特旨をもって頼徳の父で8代藩主の頼位の再襲が認められ再立藩した。
- ^ 明治元年9月遠州相良藩主田沼意尊が新政府により移封されて立藩。
- ^ 明治元年遠州横須賀藩主西尾忠篤が新政府により移封されて立藩。
- ^ 明治2年12月に自ら廃藩したが、藩主家は華族に留まった(のち子爵)。
- ^ 小浜藩の内分分知による支藩。明治3年9月に財政困窮を理由に廃藩して宗藩に統合されたが、藩主家は宗家とは別に華族に留まった(のち子爵)。
- ^ 明治2年12月に自ら廃藩したが、藩主家は華族に留まった(のち子爵)。
- ^ 明治4年6月に自ら廃藩したが、藩主家は華族に留まった(のち子爵)。
- ^ 明治4年2月に自ら廃藩したが、藩主家は華族に留まった(のち子爵)。
- ^ 大沢基寿は堀江領3550石を知行する高家旗本だったが、明治元年8月に行った検地で実高5485石に浜名湖の湖面の一部を「開墾予定地」として架空の新田内高4521石を計上、都合1万6石という虚偽の報告を行なった。これで万石以上となったことから諸侯に列して立藩。堀江藩主となった基寿は版籍奉還で華族に列したが、廃藩置県後の再調査で報告の虚偽が露見、基寿は士族に落とされたうえで禁固1年の実刑判決を受けた。
- ^ 岩国領6万石は江戸時代を通じて長州藩主毛利氏一門の吉川氏が領主だったが、成立時の複雑な事情から毛利氏はこれを支藩とは認めず単なる家臣扱いとした。その一方で幕府からは6万石の外様大名格として認められており、この変則的状態が慶応4年3月に新政府によって正式に岩国藩として認められるまで続いた。
- ^ 長州藩の支藩。明治4年5月に自ら廃藩して宗藩に統合されたが、藩主家は宗家とは別に華族に留まった(のち子爵)。
- ^ 下野国塩谷郡喜連川に5000石を知行した喜連川氏は室町幕府の古河公方の流れを汲む名家で、江戸時代には大名でも旗本でもなく、将軍家とは主従関係のない「客分」として10万石の国主格が認められていた特殊な藩だった。幕府崩壊後も万石に満たないにもかかわらず新政府により正式に喜連川藩として認められていたが、明治3年に自ら版籍を奉還して華族に列した(のち子爵)。
- ^ 会津藩松平家9代藩主松平容保は戊辰戦争で新政府軍に降伏、嫡男容大は戦後20万石減封の上、明治政府が盛岡藩から没収した所領の一部である三戸に表高3万石で立藩を認められる。のち斗南藩に改称。
- ^ 6000石交代寄合だったが、慶応4年6月本家筋の鳥取藩から廩米3500石を内分分知され、その後の石直しで都合1万0573石となったことから諸侯に列して立藩。明治3年11月藩財政困窮のため廃藩して宗藩に統合されたが、藩主家は華族に留まった(のち男爵、その後爵位返上)。
出典
- ^ 明治2年太政官布告第543、同第544 - 国会図書館近代デジタルライブラリー
- ^ 松尾正人『廃藩置県』, pp. 25–26.
- ^ 松尾正人『廃藩置県の研究』.
- ^ a b 「戊辰戦争と廃藩置県」『岩波講座日本歴史 第15巻 近現代1』.
- ^ 『忠義公史料』東京大学史料編纂所
- ^ 水谷憲二『戊辰戦争と「朝敵」藩 — 敗者の維新史』.
- ^ “明治2年(1869年)6月|薩長土肥の4藩主が版籍奉還を願い出る:日本のあゆみ”. 国立公文書館デジタルアーカイブ. 2018年2月1日閲覧。
- ^ 松尾正人『廃藩置県』, p. 38.
- ^ 松尾正人『廃藩置県』, pp. 36–37.
- ^ 松尾正人『廃藩置県』, pp. 38–45.
- ^ a b 明治元年太政官布告第902 - 国立国会図書館近代デジタルライブラリー
- ^ 明治3年太政官布告第579
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