仙台藩
仙台藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 03:46 UTC 版)
伊達邦成 - 仙台藩一門 岩出山伊達家(1万4643石)に生まれ、仙台藩一門 亘理伊達家(2万4353石)を継いだ。 伊達邦直 - 仙台藩一門 岩出山伊達家(1万4643石) 四竃孝輔 - 仙台藩家老 富田鐵之助 - 仙台藩重臣(着坐、2千石) 山梨勝之進 - 仙台藩上士
※この「仙台藩」の解説は、「上士」の解説の一部です。
「仙台藩」を含む「上士」の記事については、「上士」の概要を参照ください。
仙台藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/12 21:27 UTC 版)
仙台藩では、延享4年(1747年)の洪水や寛延年間(1748年 - 1851年)の洪水と寒冷な気候、さらに疲弊した村々で流行病になるなどの被害が続いていた。 宝暦5年には、土用になっても綿入れを着なければならない冷夏で稲は青立ちとなり、刈り入れ期の10月には北上川で洪水が発生して大きな損害を被った。『東藩史稿』によれば表高62万石のうち損毛高は54万石に達した。早霜が降り、翌6年正月からの降雪もあって地方によっては交通も不可能となって被害を大きくした。 領内で雨水を農業用水としていた地域では、一面の青立ちとなった(『仙台飢饉の巻』)。蕨の根や葛、タニシなどを採取して食料にした者もいたが、翌年も大雪と余寒によって草木の芽生えは悪く、そのため新たに食料を採取することも困難になった。あらゆる草木を飯や粥に入れて食したが、胃腸で消化できずさまざまな病気になって苦しんだ。春になると野山の山菜などが採取できるようになったが、冬からの雑食のために暖かくなるにつれて流行病に罹って大勢が死んだ。飢渇に耐えかねて渇命願いをする者たちが検断や肝入の門前に市をなし、4月には城下の河原町地蔵堂辺に飢人が集まりだした。古川では玄米1升が100文に高騰し、米だけでなく食料全般が値上がりすると同時に銭価が下落したことで本格的な飢饉へと陥った(『小野田舎』)。 藩の飢民への救済は、仙台城下の河原町に住む岡右衛門による個人的な施行から始まった。宝暦5年11月ごろからから翌6年4月まで松原地蔵堂付近に集まった「物貰」や「菰かぶり」に対して「むすび飯」を朝暮与え、日中には「山」という字を書いた菅笠を飢民たちに被らせて城下を勧進させた。藩の施行が始まったのは同年5月からで、広瀬川の小泉河原に小屋を設けて施粥を始めたが、たちまち1000人余が「蝗」のごとく駆け集まり、このなかには盛岡藩などから流れてきた者たちも含まれていた 餓死者数については史料が少ないが、20000人から30000人ほどとされる。『仙台飢饉之巻』によれば、宝暦6年では気仙、胆沢、江刺、東山などの藩蔵入地だけで死者3800人、2000頭余の馬も餓死し、名子、水呑、町人の犠牲者も多かったと伝わる。 仙台藩領にある82の寺の過去帳の研究では、宝暦4年(1754年)の死者数を100とすると、宝暦6年の指数は仙台、宮城、亘理、名取で107。桃生、牡鹿、本吉では180。岩手県内にある旧仙台藩領は198におよぶ。内陸部をこの中間として計算して飢饉の死亡者は20000人程度と推定している。 「宝暦飢饉記録」によれば、宝暦5年から6年は、凶作の程度では元禄13年から14年(1700年から1701年)より収穫がよかったという記事がある。しかし、元禄期の凶作時には飢饉にまでは至らなかったが、宝暦期には餓死者が出るような飢饉になったのは「前年より御備米不足」のためだったという。御備米が不足した原因としては、仙台藩が財政再建策として、領内の余剰米を買い上げて江戸などの大都市に廻送・売却する買米仕法を行なっていたことが理由としてあげられる。この施策は財政策としては成功していたが、飢饉によって米の買い上げ資金の調達が困難になり、この後の買米政策は不調となった。
※この「仙台藩」の解説は、「宝暦の飢饉」の解説の一部です。
「仙台藩」を含む「宝暦の飢饉」の記事については、「宝暦の飢饉」の概要を参照ください。
仙台藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/05/22 23:55 UTC 版)
「歳三〜新撰組箱館戦記〜」の記事における「仙台藩」の解説
※この「仙台藩」の解説は、「歳三〜新撰組箱館戦記〜」の解説の一部です。
「仙台藩」を含む「歳三〜新撰組箱館戦記〜」の記事については、「歳三〜新撰組箱館戦記〜」の概要を参照ください。
仙台藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 02:04 UTC 版)
「仙台藩家臣」および「仙台藩の家格」も参照 仙台藩では東北地方特有の土地の広大さから地方知行制が根強く残り、半大名的な家臣、戦国時代の小大名が伊達家に服属して家臣となった家や、伊達家の分家一門(一門)、古くからの家臣や戦国時代以前に分かれた分家で戦国時代に在地領主であった家(一家、一族)、他の戦国大名の分家か有力家臣の出自を持つ者(準一家)などを多数抱えた。そのため、陪臣が家臣を抱えていることは珍しくなく、又家中とも呼ばれたこれら陪々臣がさらに家臣を抱える例もあった。一族以上のなかには万石以上の知行地を拝領した家が11もあり、表高以上の豊かさもあって可能となったのである。 著名な陪々臣として、吾妻謙(岩出山伊達家(一門)家老)、田村顕允(亘理伊達家(一門)家老)が挙げられる。
※この「仙台藩」の解説は、「陪臣」の解説の一部です。
「仙台藩」を含む「陪臣」の記事については、「陪臣」の概要を参照ください。
仙台藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 08:08 UTC 版)
仙台藩 仙台藩主伊達慶邦 元は会津藩、庄内藩の朝敵赦免を目的として結成された奥羽越列藩同盟だが、長州藩士世良修蔵の殺害によって新政府との対決に大きく舵をとり、北方政権の樹立を目指していた。仙台藩は実質石高100万石とも言われる国力と輪王寺宮公現法親王を領内に迎えたことから盟主となる。仙台藩は盟主として北越方面、秋田方面、白河口方面、磐城方面に兵を送っていたが、旧態依然の兵装、戦術だったこともあり各地で敗北を喫した。 磐城は全域が新政府軍の支配下に入り、白河口方面では須賀川に留まって白河城奪回を狙っていた会津藩、仙台藩、二本松藩の部隊があったが、守山藩、三春藩の寝返りによって敵中に孤立し、会津藩経由で仙台藩への撤退を余儀なくされていた。奮闘していた二本松藩は本城を落とされ、会津藩は直接侵攻可能な位置に新政府軍を迎えることになった。仙台藩も中村城という仙台領まで7kmという位置に新政府軍が入り、新政府軍の領内侵攻はもはや現実的な脅威だった。 中村城からは陸前浜街道が仙台藩へ向けて伸びており、街道は藩境で「駒ヶ嶺(標高50m内外)」を通過する。駒ヶ嶺はかつて伊達政宗が相馬氏から奪った要害であったが、今回は新政府を防ぐための重要防衛拠点となった。中村城の北西には標高260mの旗巻峠があり、旗巻峠からは中村城を眼下に一望できる上、峠を駆け下りれば一息に中村城を強襲できる位置にあった。仙台藩は駒ヶ嶺と旗巻峠の2ヶ所を重要な拠点と定め、それぞれに兵を配置した。
※この「仙台藩」の解説は、「旗巻峠の戦い」の解説の一部です。
「仙台藩」を含む「旗巻峠の戦い」の記事については、「旗巻峠の戦い」の概要を参照ください。
仙台藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/07 08:08 UTC 版)
仙台藩は駒ヶ嶺に駒ヶ嶺総督の石田正親を2,000の兵と共に配置。他にも中村城の北西にある標高260mの旗巻峠に本吉郡松岩領主の鮎貝太郎平を1,200の兵と共に配置、白河口から連戦を続ける鴉組の細谷直英も副参謀として加わっていた。旗巻峠からは中村城を眼下に一望できるため、新政府軍が駒ヶ嶺に兵を動かせば中村城へ強襲するか、もしくは駒ヶ嶺の援護に回って新政府軍を挟撃する役割が与えられている。 仙台藩は他にも武装(後装式銃、アームストロング砲)、戦術を洋化した額兵隊を星恂太郎の元で編成つつあったが、未だ兵備の途中であった。代わりに駒ヶ嶺への協力は元込め銃の一部の供給とアームストロング砲の貸与を行った。また、仙台藩は中村藩の降伏の動きを察して中村藩を牽制すべく北西2kmの黒木に一部兵力を集結させていたが、中村藩の降伏と新政府軍入城は迅速であったため、7日の時点で黒木に集結した仙台藩兵は進軍か退却か方針を決し得ない状態だった。。
※この「仙台藩」の解説は、「旗巻峠の戦い」の解説の一部です。
「仙台藩」を含む「旗巻峠の戦い」の記事については、「旗巻峠の戦い」の概要を参照ください。
仙台藩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/08 16:09 UTC 版)
「江戸時代の日本の人口統計」の記事における「仙台藩」の解説
以下に支藩の一関藩を含む仙台藩の身分別人口の変遷を示す。仙台藩は中世の地方知行制が幕末まで存続し、万石以上の家臣も5家存在した。その結果「一門・諸士・諸組・諸職人」と称される武家には相当数の陪臣が含まれる。なお享保2年(1717年)の陸奥領と一関藩領の郡方人口は、武家等除外人口を含めたものを掲載している。 仙台・一関藩の身分構成の変遷身分・地域寛文8年(1668年)延宝2年(1674年)貞享3年(1686年)元禄3年(1690年)元禄8年(1695年)元禄15年(1702年)享保2年(1717年)享保17年(1732年)寛保2年(1742年)宝暦7年(1757年)天明6年(1786年)寛政元年(1789年)享和2年(1802年)文政8年(1825年)文政11年(1828年)一門・諸士・諸組・諸職人 151,211 176,057 194,203 205,916 185,570 133,174 143,208 149,465 仙台藩 202,541 182,678 171,639 130,509 140,438 146,352 一関藩(支藩) 3,375 2,892 2,665 2,770 3,113 仙台町方 18,493 20,073 22,501 22,706 20,374 11,610 13,302 13,749 仙台寺院方 9,209 9,224 2,554 2,884 6,249 4,007 4,496 4,695 郡方 428,955 515,472 557,009 599,241 588,251 617,323 647,427 603,868 447,491 478,064 519,893 陸奥領 473,892 512,941 507,900 542,268 819,162 559,204 534,901 411,496 409,632 440,799 481,180 490,571 一関藩領 41,580 25,756 26,694 31,314 26,293 21,877 20,259 21,671 23,032 近江領 8,332 9,095 9,380 8,917 7,982 8,089 8,129 常陸領 9,980 10,194 9,840 9,299 7,611 7,358 7,402 下総領(正徳2年以降) 150 155 143 147 150 総数 607,868 720,826 776,277 819,749 869,846 816,061 596,282 598,001 639,070 687,802 699,334 男 349,841 414,558 443,060 498,846 464,356 317,460 340,762 363,225 女 258,027 306,268 333,217 371,000 351,705 278,822 298,308 324,577 城下町仙台以外の地方の町方、寺社方や穢多の人口は郡方人口に含まれる。なお仙台藩陸奥領内郡方人口に関しては、『伊達家勘定方』、『御分領惣人高調』などに寛保2年(1742年)より天保3年(1832年)までほぼ毎年分記載されている。以下一関藩を含め、記録に残っている郡方人口の変遷をまとめる。天明の大飢饉により大幅な人口減少が起こっている。 仙台藩陸奥領内郡方人口、一関藩村方人口の変遷元号西暦陸奥領一関藩元号西暦陸奥領一関藩元号西暦陸奥領一関藩寛文8年 1668年 428,955 明和元年 1764年 525,391 享和3年 1803年 440,769 21,753 延宝2年 1674年 473,892 明和2年 1765年 525,067 文化元年 1804年 436,763 天和2年 1682年 25,436 明和3年 1766年 524,845 文化2年 1805年 438,237 21,670 貞享3年 1686年 538,697 25,756 明和4年 1767年 525,595 文化3年 1806年 438,658 元禄3年 1690年 507,900 明和5年 1768年 524,023 22,290 文化4年 1807年 436,468 元禄8年 1695年 542,268 26,694 明和6年 1769年 522,759 文化5年 1808年 435,967 21,359 元禄11年 1698年 26,597 明和7年 1770年 520,485 文化8年 1811年 453,070 宝永元年 1704年 26,836 明和8年 1771年 519,557 文化9年 1812年 457,301 宝永3年 1706年 27,785 安永元年 1772年 522,346 文化10年 1813年 458,876 正徳元年 1711年 27,571 安永2年 1773年 519,714 文化11年 1814年 463,724 正徳2年 1712年 27,733 安永3年 1774年 518,691 文化12年 1815年 468,149 正徳4年 1714年 27,759 安永4年 1775年 516,062 22,737 文化13年 1816年 472,030 正徳5年 1715年 28,020 安永5年 1776年 516,481 文化14年 1817年 475,481 享保元年 1716年 28,307 安永6年 1777年 510,249 文政元年 1818年 477,013 享保9年 1724年 27,679 安永7年 1778年 509,112 文政2年 1819年 478,654 享保10年 1725年 27,694 安永8年 1779年 505,798 文政3年 1820年 478,372 享保13年 1728年 27,998 安永9年 1780年 503,931 文政4年 1821年 479,211 元文5年 1740年 26,569 天明元年 1781年 502,124 文政5年 1822年 477,637 寛保2年 1742年 559,204 26,293 天明2年 1782年 22,435 文政6年 1823年 480,670 寛保3年 1743年 26,130 天明3年 1783年 493,245 文政7年 1824年 482,200 延享2年 1745年 26,106 天明4年 1784年 478,894 文政8年 1825年 481,190 23,032 延享4年 1747年 556,887 天明5年 1785年 413,191 文政9年 1826年 482,884 寛延元年 1748年 551,796 天明6年 1786年 411,496 20,259 文政10年 1827年 486,640 寛延2年 1749年 550,158 天明7年 1787年 410,974 文政11年 1828年 490,571 寛延3年 1750年 551,875 25,009 天明8年 1788年 410,196 文政12年 1829年 宝暦元年 1751年 551,000 寛政元年 1789年 409,632 天保元年 1830年 495,744 宝暦2年 1752年 551,367 24,665 寛政2年 1790年 410,401 天保2年 1831年 494,080 宝暦3年 1753年 550,001 寛政3年 1791年 411,173 天保3年 1832年 495,501 23,180 宝暦4年 1754年 541,110 寛政6年 1794年 20,995 天保12年 1841年 19,305 宝暦6年 1756年 539,036 寛政7年 1795年 411,823 嘉永4年 1851年 21,541 宝暦7年 1757年 534,901 21,877 寛政8年 1796年 415,054 嘉永5年 1852年 478,613 21,654 宝暦8年 1758年 517,263 21,875 寛政9年 1797年 423,074 嘉永6年 1853年 486,609 22,227 宝暦9年 1759年 515,430 寛政10年 1798年 425,786 安政元年 1854年 492,988 22,418 宝暦10年 1760年 514,576 寛政11年 1799年 431,488 安政2年 1855年 500,149 22,751 宝暦11年 1761年 512,641 寛政12年 1800年 437,204 文久3年 1863年 540,176 宝暦12年 1762年 513,625 享和元年 1801年 439,125 慶応3年 1867年 556,983 宝暦13年 1763年 530,252 享和2年 1802年 440,799 21,671 以下に一関藩を含めた仙台藩の構成別人口の変遷を示すが、宗門改帳の研究により天保の大飢饉の際の大幅な人口減も示されている。 戊辰戦争による処分により仙台藩は内高28万石に減封となる。幕末の仙台藩士分(藩主家族、一関藩を除く)は直参家中9854家(一門11家、上士78家、中士(大番士)3314家、下士(諸組士)987家、卒族5464家)、陪隷2万4296家(一門陪臣9028家、上士陪臣8793家、中士陪臣6475家)、合計3万4150家という構成になっていたが、明治2年(1869年)5月の段階で士分3万3128家17万2239人(家中9651家5万6468人、陪隷2万3477家11万5771人)の内、家中1993家9965人と陪隷全員が帰農となった。明治3(1870)年の族籍別人口は以下の通りである。 仙台藩・一関藩の族籍別人口(明治3年)族籍二藩合計仙台藩一関藩華族 10 6 4 士族 31,066 29,408 1,658 卒 14,240 13,091 1,149 神職 830 683 147 僧尼 4,383 4,327 56 平民 214,357 191,244 23,113 穢多 427 396 31 非人 781 742 39 合計 266,094 239,897 26,197 (典拠は玉山勇(1942年)、『岩手県史』、『宮城県史』、高木正朗, 新屋均(2006年))
※この「仙台藩」の解説は、「江戸時代の日本の人口統計」の解説の一部です。
「仙台藩」を含む「江戸時代の日本の人口統計」の記事については、「江戸時代の日本の人口統計」の概要を参照ください。
「仙台藩」の例文・使い方・用例・文例
固有名詞の分類
- 仙台藩のページへのリンク