岩崎一揆
岩崎一揆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/12/22 14:35 UTC 版)
慶長5年(1600年)の岩崎一揆において旧領・陸奥和賀郡を奪還しようとした和賀忠親に従って戦った。挙兵した和賀勢は現在の岩手県北上市にあった二子城を拠点として、花巻城とその周辺諸城を急襲(花巻城の夜討ち)し、三の丸、二の丸を攻略し本丸に迫った。しかし南部勢の奮戦により退けられ、さらに拠点の二子城も奪還されて同北上市の岩崎城に移り籠城戦となった。10月中旬には南部勢に南部利直ら主力が到着、和賀勢にも鈴木義信率いる部隊が到着して激闘となるが、最終的に岩崎城は陥落、敗色を悟った忠親とその主従は仙台領へ逃れた。忠親と主従は仙台領へ逃れる際、石名坂で追い来る南部勢に上から石を投げて攻撃した。南部勢も下から石を投げて応戦したが、上から石を投げられて恐れをなした南部勢との間に距離を作り、無事仙台領に入ったとされる。その後、仙台国分尼寺に逃げ延びた忠親と共に治道も他の家臣と互いに刺し違え自害した。
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岩崎一揆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/14 00:51 UTC 版)
慶長5年(1600年)、南部氏が最上出陣中、伊達氏の支援を受けた和賀忠親は再度旧領回復を目指して挙兵、忠親によって当城は修復され、その拠点として南部氏と戦った。和賀勢は花巻城を急襲(花巻城の夜討ち)し、三の丸、二ノ丸を制圧して本丸に迫ったが、援軍を得た南部勢に敗れて二子城を放棄、岩崎城で籠城戦となった。しかし翌慶長6年(1601年)に岩崎城は落城、忠親は主従らとともに仙台国分尼寺に逃れ、主従の蒲田治道、筒井喜助らとともに自害した。 鎮圧後は南部氏家臣の野田・大槌・栗谷川の諸氏によって修理され、慶長7年(1602年)には柏山明助が岩崎城代として入城、旧和賀氏勢力への押え、仙台藩領境の警護に当たったが、まもなく廃城となった。
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