和賀・稗貫氏の一揆
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/27 13:47 UTC 版)
天正18年(1590年)、豊臣秀吉の奥州仕置によって稗貫氏は没落し、鳥谷ヶ崎城には秀吉の代官浅野長政が入部、長政帰洛ののちは同族浅野重吉が目代として駐留した。しかし同年の冬、旧領を奪還しようとする和賀氏と稗貫氏が一揆を起こした(和賀・稗貫一揆)。これによって、鳥谷ヶ崎城を含め稗貫氏の旧領も和賀・稗貫勢の手に渡ったが、翌天正19年、再仕置軍の侵攻により一揆は鎮圧された。同年中に稗貫郡は南部領と決められ、南部信直の代官北秀愛が城代として入り、城の改修が行われ、名称も花巻城と改められた。 天正20年(1592年)の諸城破却書上には、「鳥谷崎 平城 南部主馬助 持分」とある。 慶長3年(1598年)に北秀愛が死去し、かわって父の北信愛が城代となる。同5年(1600年)に南部氏が慶長出羽合戦へ出陣している隙を狙い、和賀忠親が旧領・和賀郡の奪還を目指して一揆を起こした(岩崎一揆)。和賀勢は花巻城や、大瀬川館など周辺諸城を攻め、花巻城の三の丸、二ノ丸を攻略して本丸に迫ったが、援軍を得た北信愛はそれを撃退した。
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