天正
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/02/07 07:58 UTC 版)
天正(てんしょう)は、日本の元号の一つ。元亀の後、文禄の前。1573年から1592年までの期間を指す。この時代の天皇は正親町天皇、後陽成天皇。征夷大将軍は足利義昭。
- ^ 天正から文禄への改元が行なわれたのはグレゴリオ暦1593年1月10日であり、和暦が新年を迎えないうちに西暦だけが新年を迎えている期間であった。文禄元年は西暦1593年1月10日から同2月1日までの短い期間であるため、和暦と西暦を一対一で対応させようとする場合、天正20年=文禄元年=西暦1592年、文禄2年=西暦1593年となって実際とはずれが生じる。ただしユリウス暦では1592年12月31日でずれは生じない。
- ^ 例えば、ヨーロッパでも、ロシアがグレゴリオ暦を実施したのは1918年2月14日、同じくギリシャは1923年3月1日など、日本よりも遅い。
- ^ 日本の現行暦はグレゴリオ暦そのものではなく、神武天皇即位紀元(皇紀)を元にした暦である(閏年ニ關スル件(明治31年勅令第90号))。もっとも、グレゴリオ暦の特長である閏年の計算は、神武天皇即位紀元年から660を減じた年数(グレゴリオ暦の年数に等しい)を元に行う。そのため、日本の現行暦はグレゴリオ暦と大差無い。
- ^ 神田裕理『戦国・織豊期の朝廷と公家社会』(校倉書房、2011年) ISBN 978-4-7517-4300-3 第一部第一章「織豊期の改元」
天正
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1578年 織田方の斎藤利治が越中に侵攻し、新庄村の地蔵堂坂口に至ったため、上杉方の兵が新庄城より出撃し戦う。(地蔵堂東坂口の合戦)その後上杉方の軍を破る(月岡野の戦い) 1580年 織田方の神保長住、新庄城を攻め、金山城下に到着。 1581年 上杉方松倉城主河田豊前守と富山城主佐々成政が荒川の河原で戦う(荒川の合戦) 1583年 土肥政繁の将、杵屋平左衛門に襲われ落城。佐々成政、越中を平定。 1587年 佐々成政の肥後転封により新庄城は前田利家の所有となる。
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