豊臣秀長とは? わかりやすく解説

豊臣秀長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2026/10/08 08:34 UTC 版)

 
豊臣 秀長 / 羽柴 秀長
『豊臣秀長像』(梅軒員信画、春岳院所蔵、大和郡山市指定文化財) [注釈 1]
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 天文9年(1540年)[注釈 2]
死没 天正19年1月22日(1591年2月15日)[4]
改名 小竹(幼名)? → 木下長秀 → 羽柴長秀 → 秀長
本姓:豊臣秀長
別名 通称:小一郎、美濃守、大和宰相、大和大納言
戒名 大光院殿前亜相春岳紹栄大居士
墓所 奈良県大和郡山市(大納言塚)
京都市北区大徳寺大光院
官位 従五位下、美濃守、従四位上、参議、右近衛権中将、従三位、権中納言、正三位、従二位、権大納言
主君 織田信長 → 秀信 → 豊臣秀吉
氏族 木下氏 → 羽柴氏(豊臣姓)
父母 父:竹阿弥 / 木下弥右衛門[注釈 3]
母:大政所(天瑞院)
兄弟 日秀、秀吉、秀長、朝日姫
妻 正室:慈雲院
側室:光秀尼
子 与一郎、娘(豊臣秀保室)、大善院(毛利秀元室)
養子:秀保、藤堂高吉、智勝院 (名古屋山三郎の妹。羽柴与一郎室、のち森忠政室)
花押 豊臣秀長の花押
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豊臣 秀長(とよとみ ひでなが / とよとみ の ひでなが) / 羽柴 秀長(はしば ひでなが)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将・大名。豊臣秀吉の弟で、大和豊臣家初代当主。

秀長の出自や幼少期には、兄の秀吉と同様に不明な点が多いものの、当初は木下小一郎長秀(きのした こいちろう ながひで)を名乗り、秀吉とともに織田信長に仕えた。

織田政権下において、数々の合戦に従軍し、秀吉の補佐や代理も多く務めて、戦功を挙げていった。信長の横死後、秀吉が立てた豊臣政権においても、引き続いて内外の政務と軍事両面で活躍を見せ、秀吉の天下統一に貢献した。

秀吉の立身に伴って秀長も昇進し、最終的には大和・紀伊・和泉の3か国に河内国の一部を加えた約110余万石を領する大大名となった。それに合わせて、羽柴の名字や豊臣の姓を下賜され、諱も秀長へ改めている。官位は従二位・権大納言に栄進したことから、大和大納言とも尊称された。

徳川家康や毛利輝元など有力外様大名を多く抱えていた豊臣政権において、秀長は秀吉と大名の間を取り持ち、各大名間の調整役を果たすなど、政権前期の安定化には不可欠な存在だった。だが、天正18年(1590年)の小田原征伐前後から病が悪化し、翌天正19年(1591年)に、秀吉に先立って死去した。

生涯

誕生・出自

天文9年(1540年)[注釈 4]、秀長は尾張国愛知郡中村郷中中村(中村郷は上中下の三つの村に分かれていた。現・名古屋市中村区)で誕生した[3][7]。

秀長の母は仲(なか、大政所)[3]。『太閤素生記』による通説では、父はその再婚相手である竹阿弥とされている[8][9]。同記では、兄の秀吉は母と前夫である木下弥右衛門の間に生まれたと記されている[10]。

『太閤素生記』には、竹阿弥は織田信秀の同朋衆であったが[注釈 5]、病気を理由に出生地の中中村に戻り、未亡人の仲と結婚したとある[12]。そして、竹阿弥は仲との間に、「男子一人と女子一人を秀吉との種替わり(父違い)の子として持った」と記されている[8]。これが、秀長と妹の朝日に該当する[13][14]。

他方、秀長と秀吉の姉である日秀(とも)が建立した瑞龍寺に伝わる『瑞龍寺差出』[15]には、彼女の父親「妙雲院殿栄本」が「天文十二年癸卯一月二日逝去」と記されている。秀長ら兄弟の一番下とされる朝日の生年が天文12年(1543年)とされているため、これが正しければ、日秀から朝日までの兄弟は、秀長と同父とみて差し支えないことになる[16]。

ただし、『瑞龍寺差出』には父親の俗名が記載されていないため、「妙雲院殿栄本」を木下弥右衛門か竹阿弥のどちらかに確定させることができず[17]、秀長や朝日が弥右衛門の実子である可能性があると同時に、ともや秀吉が竹阿弥の実子である可能性も否定できない[18]。また、実は両者が同一人物(弥右衛門が出家して竹阿弥と称したなど)であったのが、誤って別人として伝わってしまった可能性まで考慮する[注釈 6]必要も浮上する[23][24]。

秀長は秀吉の弟であるので、その出自も秀吉と同じであるが、当時の史料からは見出すことはできない[25]。その幼少期も当時の史料に記載がなく不明であり、武士になるまでの経緯もまた不明である[26]。とはいえ、秀長や秀吉の少年時代はとても貧しく[注釈 7]、いろいろと苦労を重ねたとみられる[25][28]。

織田信長の時代

秀吉の弟として

羽柴秀吉

具体的な時期は不明であるが、秀長は織田信長の家臣として活躍するようになった秀吉に連れられて出仕し、兄と共に信長に仕官することとなった[29]。なお、秀長は信長に仕えた頃より、実名を「長秀」と名乗っているが、これは信長の偏諱をうけたものと考えられる[25]。

美濃の斎藤龍興との戦いでは、合戦に参加する秀吉に代わって、秀長が城の留守居役を務めることが多かった。

天正元年(1573年)9月、秀吉が小谷城の戦いで浅井氏を滅ぼした功により、長浜城主となると、秀長はその城代を務めることもあった[30]。

天正2年(1574年)、秀吉が越前一向一揆と対峙して出陣できなかったため、秀吉の代理人として長島一向一揆討伐に出陣する(『信長公記』)。これが記録上、秀長が最初に参加した合戦で、秀長は一揆勢が籠もる篠橋城の攻略を担当した[31]。

天正3年(1575年)、秀吉から羽柴の名字を与えられる[32]。

天正4年(1576年)、秀長の右腕となる藤堂高虎が仕官し、この主従関係は秀長の養子である秀保が早世するまで続いた。

中国攻め・但馬を拠点とする

竹田城跡

信長の命令により、兄の秀吉が毛利輝元ら毛利氏に対する中国攻めの総司令官となると、秀長は山陰道および但馬国平定の指揮を委ねられる[33]。黒田孝高宛の秀吉直筆の手紙に「其方の儀は、我ら弟の小一郎(秀長の通称)め同然に心安く存じ候 」と、信頼の代名詞としてその名が出るなど、当時の秀長は秀吉陣営における最重要人物に成長していた(『黒田侯爵家文書』)。

天正5年(1577年)10月、秀長は秀吉に従い、播磨国に赴いた[34]。

11月、秀長は但馬攻めに赴いた[34]。秀長は竹田城を攻略(竹田城の戦い)すると、秀吉から城代に任命される(『信長公記』)[35]。また、秀長は竹田城を修築し、城から生野銀山、播磨を結ぶ街道上の宿場町である山口町の住民の人夫役を免じている[36]。

天正6年(1578年)2月、東播磨地域で三木城主の別所長治が反旗を翻し、毛利氏につくと、秀長は兄と共に制圧に明け暮れることとなった(三木合戦)[37][38]。

6月頃、秀長が竹田城に在城していることから、支配の後退した但馬を固めるために、播磨から戻ったとみられる[39]。その後、秀長は三木城攻めに戻り、10月22日の攻撃に参加している[40]。

10月、摂津の荒木村重が織田方を離反し、毛利氏についた[41][42]。このため、秀長らは孤立する危機に陥りかけたが、信長の援軍が到来し、荒木方の中川清秀・高山右近を織田方に寝返らせることに成功したため、窮地を脱している[41]。

天正7年(1579年)5月、秀長は大軍を率い、丹波・丹後・但馬・播磨の国衆を先鋒として、西丹波に侵攻した[43]。秀長は西丹波において、久下城と氷上城を攻略し、丹波に兵を残したうえで播磨に帰国した[43]。

天正8年(1580年)1月11日、秀長は別所長治の三木城攻略のため、別所吉親の居城を攻略し、本丸を残すのみの状態にした[44]。その後、17日に長治ら別所一族が切腹し、三木合戦が終戦する[45]。

閏3月、秀長率いる羽柴軍が但馬に進軍し、その攻略を進めた[45]。

4月、秀長は山名祐豊が篭もる有子山城を攻め落とし[46]、5月16日には祐豊の子・山名氏政が籠もる出石城も落城させ[47][48]、但馬国平定を完了した[注釈 8]。その後、同月に秀長は有子山城に入った[46]。

戦後、秀長は但馬国7郡10万5千余石と播磨国2郡を与えられた[46]。同時代の史料を見ると、美含・城崎両郡は二方郡と共に宮部継潤が、出石郡は木下昌利が支配していることが確認されるため、実際の但馬国内の秀長領は残りの養父・朝来・七美・気多の4郡とみられ、本拠も『信長公記』が記すように朝来郡の竹田城であったと考えられている[49]。

天正9年(1581年)2月、但馬国七美郡南部の小代で小代一揆が発生し、藤堂高虎らを差し向けその鎮圧に当たる。秀吉も赤松広英、神子田正治、木下重堅、蜂須賀正勝らを伴い出陣し、一揆勢を鎮圧した[50]。

7月、秀吉が鳥取城を取り囲み、兵糧攻めが開始された(鳥取城の戦い)[51]。秀長も鳥取城の包囲する陣城の一つを指揮している[51]。

10月、吉川経家の切腹により、鳥取城での戦いが終戦し、秀吉は因幡を支配下に入れた[51][52]。その後、秀長は竹田城に帰還したとみられる[51]。

天正10年(1582年)4月、秀吉軍は備中高松城を包囲し、5月には水攻めを行う(備中高松城の戦い)[53]。秀長もこの戦いに参戦し、鼓山付近に陣を張った。ただし、秀長がこの水攻めにどのようにかかわったかは不明である[54]。

秀吉の時代

但馬・播磨の国主

天正10年6月2日、主君の織田信長が明智光秀による謀叛(本能寺の変)で横死した[55]。秀吉はすぐさま戦闘状態であった毛利氏と和睦協定を結び、高松城主の清水宗治を切腹させ、畿内へ撤退する(中国大返し)。秀長も秀吉に従って、備中を離れた[56]。

6月13日、秀吉が光秀と山崎で戦い、これに勝利した(山崎の戦い)[57]。秀長もこの戦いに参戦し、黒田孝高らと共に天王山の守備にあたっている[58]。

10月15日、秀吉が信長の葬儀を大徳寺で行った際、秀長はその警固の責任者を務めている[59]。

天正11年(1583年)3月、秀長は美濃守に任官した[60]。

4月、秀長は賤ヶ岳の戦いに参戦した[61]。秀長は田上山に布陣して、秀吉が「美濃大返し」を行うまで木ノ本の本陣を守備している[61]。

戦後、秀長は但馬・播磨の2ヶ国を拝領して、竹田城に代わり、姫路城を新たな居城とすることになった[62][63]。ただし、但馬の二方郡は宮部継潤が従前通りに、美含・城崎郡は木下助兵衛尉が、出石郡は青木重吉が支配しているために実質従前と変わらず、播磨国も三木城の前野長康、龍野城の蜂須賀正勝、広瀬城(長水城)の御子田正治は引き続き置かれていた[64]。

天正12年(1584年)3月、秀吉と織田信雄・徳川家康との間で小牧・長久手の戦いが起きる[65]。秀長は家康と連合を組んでいる信雄領の伊勢へ進軍し、松ヶ島城を落とすなどした[65]。なお、信雄との講和交渉では、秀長が秀吉の名代として直接交渉に赴いている。

この戦いでは、甥の羽柴秀次が失態により、秀吉に叱責されたが、その後の紀伊・四国への遠征では秀長と共に従軍し、秀長は秀吉に対する秀次の信頼回復に尽力した。またこの頃、「長秀」の名乗りを、「秀長」に改めている。

紀伊・和泉・大和の国主

郡山城

天正13年(1585年)3月、秀長は紀州征伐において、秀次と共に秀吉の副将に任命され、太田城攻めなどに参加する[66]。紀州制圧後、秀吉から功績として紀伊・和泉などの約64万石余の所領を与えられる[67]。

4月、秀長は秀吉より、雑賀衆の基盤であった和歌山平野を抑えるため、和歌山城の築城を命じられた[67]。その時に藤堂高虎を普請奉行に任命している。

6月、四国攻めでは秀吉の代理人として、10万を超える軍勢の総大将に任じられ、自らも阿波へ進軍する[68]。だが、長宗我部氏の抵抗も激しく、また毛利氏・宇喜多氏の合同軍のため、侵攻が遅れ気味となった。心配した秀吉から援軍の申し出がなされたが、秀長は断りの書状を秀吉に送っている(『四国御発向事』)。そして、秀長は阿波の一宮城を攻め、長宗我部元親を降伏させた[69]。

閏8月18日[70]、元親を降した功績を賞され、紀伊国・和泉国に、大和国を加増されて、合計100万石で郡山城に入城するが、実際の石高は73万4千石であった(『文禄検地帳』)[70]。なお、時期は不明であるが、秀吉の意向で和泉国は一旦接収されて石川吉輝や小出秀政・片桐且元らに分割され、改めて和泉・伊賀両国内に所領を与えられている[71]。

秀長の領国となった紀伊・大和・和泉地方は寺社勢力が強く、秀長はその支配力が薄い大和郡山に本拠地を置いた。また郡山振興のため奈良での商売を制限し、郡山城下の商家に独占権を与えることで城下町の商業を奨励した[72]。天正16年には綿町、紺屋町、今井町、奈良町、堺町、豆腐町、魚塩町、材木町、雑穀町といった箱本十三町が整備されていたことが確認される(春岳院文書)[72]。

現代に残る記録からは、大和入国と同時期に盗賊の追捕を通達し(廊坊家文書)、検地の実施(諸家単一文書)や、全5ヶ条の掟の制定(法隆寺文書)を行うなど多岐にわたる政策を実施したことが確認される[注釈 9]。このころ豊臣の本姓を与えられる[32]。

天正14年(1586年)2月8日、秀長は摂津国の有馬湯山(有馬温泉)へ入った(『多聞院日記』)[74]。この頃から体調が崩れやすくなったと思われ、この後も数度にわたり湯治に訪れている。また、湯治中に金蔵院・宝光院などが見舞いとして訪れており、本願寺顕如からも使者が訪れている。

4月、大友宗麟が島津氏の圧迫によって窮地に陥り、秀吉の参戦介入と救済を求めて上洛した。秀長は宗麟をもてなし、「内々の儀は宗易(千利休)、公儀の事は宰相(秀長)存じ候、いよいよ申し談ずべし」と述べた(『大友家文書録』)[75]。

8月、紀伊の奥熊野において、地侍たちによる一揆が発起した(北山一揆)。同月28日、秀長も出陣したが、9月9日の合戦では秀長方に多くの犠牲者を出した[76]。以後、秀長はこの一揆の鎮圧に手を焼くことになった。

10月26日、上洛を拒み続けてきた徳川家康が大坂に到着し、秀長邸に宿泊した。その晩、秀吉自らが家康の前に現れて、臣従を求める出来事が起きる。これを記す文献は多く存在する(『家忠日記』・『徳川実紀』)。

天正15年(1587年)2月、秀長は九州平定において、日向方面の総大将として、郡山城から出陣した[77]。

3月、秀長は九州に渡海し、豊前小倉に着陣した[78]。耳川の戦いの舞台となった高城を包囲すると、援軍として駆けつけた島津義弘が宮部継潤の陣に夜襲を仕掛ける(根白坂の戦い)。継潤が抗戦している間に、藤堂高虎・戸川達安らが合流する。島津軍の夜襲は失敗に終わり、島津軍が薩摩国に撤退する。

他方、秀長は島津氏との和平の道を模索し、同月に高野山僧の木食応其を豊後府内に派遣している[79]。また、秀長は島津氏と交渉するにあたって、毛利輝元に庇護されていた足利義昭の助力を得たが[79]、それは島津氏が義昭をこの時点でも主君と仰いでいたからであり、島津氏の面目が立つように配慮した秀吉の意向もあったとみられる[80]。

4月、島津義久が講和のため、秀長の本陣に家老を派遣してきたため、秀長の日向方面の進軍は終了した[81]。

大和大納言

毛利輝元

天正15年8月、秀長は九州平定の功績により、従二位・権大納言に叙任され、以後は「大和大納言」と称されるようになった[82]。

天正16年(1588年)4月、秀吉が聚楽第行幸を行うと、秀長も諸大名らと共に参加している[83]。

7月、毛利輝元が叔父の小早川隆景、従兄弟の吉川広家らを連れて上洛すると、9月4日に秀長は輝元らを郡山で迎え、5日から郡山城で接待している[84][85]。このとき、秀長は家中を挙げて輝元らを歓待し、秀長と輝元は双方で贈り物を交わしている[86]。

9月6日午前6時頃、秀長は輝元らを郡山城の茶の湯に招き、接待した[87][88]。午前8時頃、輝元らが観光のために奈良に向かうと、秀長もこれに同道し、興福寺や東大寺を参拝している[87][89]。そして、7日に輝元らが大坂に戻ると、秀長もこれに同行している[87][90]。

秀長は輝元らの接待を終えると、摂津の有馬温泉に湯治に向かった[91]。この湯治は9月23日まで行われたことから、秀長には相当疲労がたまっていたとみられる[91]。秀長は湯治を終えると、郡山城に帰還し、紀伊の熊野攻めを行った[91]。

12月5日、紀伊の雑賀で材木の管理をしていた代官の吉川平介が、秀長に売買を命じられた熊野の材木2万本の代金を着服したことで、秀吉の命により、西大寺で処刑される事件が起きた[92][93][94]。このとき、秀長の責任は問われなかったが[92]、『多聞院日記』天正16年12月7日条には「秀長は天下の名目を失った」と記されている[93]。なお、平介の同名の息子が事件後も、秀長に仕えていることが確認できる[95]。

天正17年(1589年)1月1日、秀長は聚楽第に秀吉への年頭の挨拶に赴いた[96]。『多聞院日記』天正17年1月5日条によると、秀長は先の吉川平介が起こした事件で秀吉の不興を買い、年頭の挨拶を拒否されたという[96][97]。

1月6日、秀長は郡山城に帰還した[98]。だが、秀長は秀吉の命を受け、懐妊した秀吉の側室茶々の産所とするため、30日から淀城の改修を担当している[98][99]。茶々は同年5月に、ここで秀吉の嫡男となる鶴松を生んだ。

4月、秀長は北山一揆をようやく鎮圧した[76]。秀長が多くの時間を費やしていることからも、熊野地域の制圧がいかに困難な事業であったかがうかがえる[76]。

10月17日、秀吉が奈良に赴き、18日には秀長のいる郡山城に移った[100]。秀吉が赴いた理由は定かではないが、秀次や宇喜多秀家ら諸大名、勧修寺晴豊や菊亭晴季ら公家衆を連れていたことから、奈良見物が目的であり、郡山城の滞在はその帰途であったとみられる[101]。無論、秀長もその接待に追われたようである[102]。そして、20日に秀吉は大坂に帰還した[100]。

10月29日、秀長は秀吉に呼び出され、上洛した[103]。『多聞院日記』によると、秀吉が呼び出した理由は、「東国検地」に関する相談のためであった[104]。

11月14日、秀長は摂津の有馬温泉に湯治に出かけ、その療養は12月3日まで続いた[104]。なお、秀長は前年9月にも湯治していることから、この頃より病を患っていたようである[105]。だが、秀長はこの湯治でも快復しなかったようで、病のために郡山城に帰還できず、京都に滞在している[106]。そのため、12月7日に勅使の勧修寺晴豊が秀長を見舞っている[107]。

晩年と最期

墓所「大納言塚」(奈良県大和郡山市)

天正18年(1590年)1月、秀長は病により、聚楽第での秀吉への年頭挨拶に参加できず、養子の秀保が代理として参加している[108]。そのため、興福寺で秀長快癒のための祈祷が行われている[108]。

3月1日、秀吉が後北条氏に対する小田原征伐のため、京都から関東に向けて出陣したが、秀長は病で出陣できず、在京している[108]。秀吉も秀長を心配し、京都から出陣する際に見舞っている[109]。

3月15日、秀長は静養のため、郡山城に戻った[110]。翌日、春日社に参篭している[110]。この頃、秀長は快方に向かっていたようで、4月10日に秀吉もそれを喜んでいる[109]。

7月25日、秀長は後北条氏の滅亡と秀吉の帰京の知らせを受けて、再び京都に戻った[111]。

8月9日、秀長は聚楽第の自らの屋敷において、津田宗及や島井宗室と茶会を催した[112]。

9月15日、秀長は母の大政所による屋敷訪問を受けている[111]。

9月19日、秀長は病のため、京都から郡山城に戻ることになった[111]。29日には郡山城にいることが確認できるので、その間に戻ったことになる[111]。

10月19日、秀吉が秀次ら諸大名と共に郡山城を訪れ、秀長を見舞っている[113][114][115][注釈 10]。だが、これが秀長と秀吉の最期の別れとなった[113]。

11月になると、秀長の死亡説が流れ始め、それまで秀長の花押が据えられていた発給文書に黒印が捺されるようになる。12月に入っても、秀長の死去の噂が収まることはなかった[116]。

12月10日、後陽成天皇が秀長を見舞うため、菊亭晴季ら四人の武家伝奏を郡山城に遣わした[117]。だが、秀長はもはや対応することが出来なくなっており、秀保らが代わりに対応している[117]。

天正19年(1591年)1月22日[118]、秀長は郡山城で病死した[119][120][121]。享年52[119]。

没後

1月28日、朝廷が秀長の死に伴い、天下触穢を令し、参内や神事などが停止された[121]。

1月29日、秀長の葬礼が郡山で行われ、諸大名や大和諸寺の僧侶、領民らが参列した[122][注釈 11]。蒲庵古渓が導師を務め、秀長の戒名を「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」と定めた。

秀長には男子がいなかったため、家督は養嗣子になっていた甥(姉・智の息子、秀次の弟)の秀保が継いだ[123]。だが、秀保は4年後の文禄4年(1595年)4月16日[124]に17歳で死去し、秀長に始まる大和羽柴家は2代で断絶した[125]。

人物像

秀長は兄の秀吉を補佐し、彼の天下統一達成に貢献した。また、温厚かつ寛仁大度の人物で、諸大名と秀吉の間を取り持つ調整役としても活躍した。秀吉からの信頼も厚く、もしその寿命が長ければ、豊臣の天下を長く継続させることができたかもしれないと評価されている[123]。

他方、秀長は金銭に関してやや強欲な側面があったことも伝わっており、九州征伐の際に参戦した大名へ割高な兵糧を売り付けようとして、秀吉に止められている。領地の奈良市中では、「ならかし(奈良貸し)」と呼ばれる強引な高利貸しが秀長主導で行われ、彼の死後も豊臣政権が横浜一庵ら旧臣を介して継続させていたことが判明している[126][127]。興福寺の僧・英俊は『多聞院日記』において、秀長死没時の大和郡山城には、金子は56,000余枚、銀子は2間四方の部屋が満杯になる程、銭は何万貫あるか数え切れない量が備蓄されていたと記し、城内に残されていた莫大な財産は、こうした行為の結果によるものであった可能性がある[128]。

英俊は秀長の死去について、その蓄財と絡めて皮肉交じりで以下のように評している。

…米銭金銀充満、盛者必衰ノ金口無疑、国之様如何可成行哉、心細事也…(中略)…一分一銭主ノ用ニハ不立、抑無限財宝也、サコソ命惜ルラン、浅猿々々…
(…米や銭、金銀などが(大和郡山城内に)充満していた。栄える者は必ず衰えるという仏の教えは疑いなく、(秀長が死去して)国の先行きはどうなるのだろうか。心配である…(中略)…(蓄えた財産のうち)一分一銭(といったわずかな金銭)であっても持ち主(死去した秀長)の役には立たない。そもそも財宝には限りがなく、だからこそ、それほどまでに命を惜し(んで蓄財に励)んだのだろう。まったく呆れ果てたことだ…) — 『多聞院日記』天正19年正月23日[129]

名称と官位の変遷

通説では、幼名を小竹(こちく)と称したとされるが、確認できる文書はない。『太閤素生記』には「是ハアダ名也」と書かれており、この記述に従えば小竹は渾名で、幼名は別に存在していたことになる[130]。

その後、小一郎(こいちろう)と改称し、織田氏に仕官した時には木下小一郎長秀と名乗った。小竹文生や柴裕之は、主君である織田信長から偏諱を与えられたとしている[131][29]。

秀吉が木下から羽柴に名字を改めたのは天正元年(1573年)以降であるが、秀長が発給した文書で羽柴を使用した初見は天正3年(1575年)11月11日付の発給文書からであり、羽柴小一郎長秀と署名している。次に(通称を)小一郎から美濃守へ代えているが、自己発給文書では小一郎の終見は天正10年(1582年)12月25日付、美濃守の初見は小牧・長久手の戦いの頃である天正12年(1584年)5月4日付である。他の文書から、賤ヶ岳の戦い後の論功行賞の一環により、天正11年(1583年)の5月から7月頃と考えられる。更に天正12年(1584年)6月8日から9月12日までの間に長秀から秀長へ改名し、以後、死ぬまで秀長を使用した。これは、小牧・長久手の戦いにより、信長の実質的後継者としての地位を兄・秀吉が揺るぎないものとしたため、秀の字を上に持ってきたものと考えられる(同時期に甥の信吉が「秀次」と改名しているのも同様の理由と思われる)[132]。

官位については、美濃守以降、天正13年(1585年)10月4日に従四位下・参議、天正14年(1586年)10月4日に従三位・権中納言、天正15年(1587年)8月8日に従二位・権大納言(義弟にあたる徳川家康と同位。同日に任官)に昇進して、以後天正19年(1591年)1月に没するまで代わることはなかった。また後陽成天皇の聚楽第行幸の際に、天正16年(1588年)4月15日付で天皇に諸大名が提出した起請文では、唯一豊臣姓を署名している[133]。

官歴

○出典:『公卿補任』[134]

  • 天正14年(1586年)1月5日 - 従三位・参議(従四位下)
    • 10月4日 - 権中納言
    • 11月5日 - 正三位
  • 天正15年(1587年)8月8日 - 従二位・権大納言

系譜

妻

実子

養子

天正16年(1588年)9月、秀長は長谷寺に釣燈籠を寄進しており、そこには「和州大納言秀長公姫君三八女」と刻まれている[152][153]。和田裕弘はこの三八(「みや」または「みわ」)について、どの娘に当たるか分からないとしている[152]。

家臣

「三家老」として横浜一庵(5万石)、羽田正親(4万8千石)、小川下野守(3万5千石)がいる。

木下昌利(将監[154])[注釈 13]は、秀長の但馬国有子山城主時代に、城代として配されていたようである[46]。昌利は「秀長の一族」と伝わる[154]。その一方で、秀長の家臣ではなく、秀吉から直接出石郡と有子山城を与えられて同地を支配していたとする説もある[49]。三木合戦においては三木城包囲に参加した。

その他に藤堂高虎(2万石)、宇多頼忠(1万3千石)、桑山重晴(2万石)、寺田光吉(1万5千石)、小堀正次(新介、5千石)、吉川平介(平助、7千石)、杉若無心、多賀秀種、多賀常則、本多利久・本多俊政親子(大和高取1万5千石)、疋田就長、福智長通、井上高清(3496石)、伊丹甚太夫(600石)、尾崎喜助、堀秀村、池田秀雄、黒田利則、黒田直之、紀州の国人である玉置直和や湯川光春[155]、賤ヶ岳の戦いで一番槍となった桜井家一(佐吉、3千石)、後に島津義弘に所望されてその家臣・鷹師になった広場重綱などがいた。

また、秀長は中井正清、小堀政一(遠州)など、築城、造園に長じた人物を多数登用した。特に、正清、政一らは秀長の死後、それぞれ徳川家康に召抱えられて栄達し、近世の建築に寄与した。

墓所・霊廟・菩提寺

大光院
  • 大納言塚
    • 大和郡山市箕山町14-8
    • 毎年4月22日に秀長の遺徳を偲ぶ大納言祭が開催されている。
  • 豊國神社
    • 大阪府大阪市中央区大阪城2-1
    • 1879年(明治12年)創建。兄・秀吉および甥・秀頼とともに祀られている。
  • 大徳寺塔頭大光院
    • 京都府京都市北区紫野大徳寺町92
    • 元は郡山にあったが、藤堂高虎によって大徳寺の塔頭として移された。
  • 如意山春岳院
    • 奈良県大和郡山市新中町2
    • 秀長の戒名「大光院殿前亜相春岳紹栄大居士」に由来する。
    • 家臣筋の藤堂家や、郡山藩主となった柳沢氏に庇護された。前年におきた飢饉や暴動による人心の荒廃を鎮める意図もあって、天明8年(1788年)には当時の藩主柳沢保光により、秀長二百回忌が執り行われた。また、柳沢家の依頼を受けた狩野派の画家・梅軒員信によって肖像画が描かれた[1]。

関連作品

小説

映画

豊臣秀長が登場する映画

テレビドラマ

豊臣秀長が主人公のテレビドラマ

豊臣秀長が登場するテレビドラマ

漫画

豊臣秀長が登場する漫画

アニメ

豊臣秀長が登場するアニメ

ゲーム

豊臣秀長が登場するゲーム

楽曲

テレビ番組

  • その時歴史が動いた「シリーズ秀吉の家族 前編「もう一人の秀吉 ~豊臣秀長 太閤記を演出した弟~」」(2006年9月13日放送、NHK)

脚注

注釈

  1. ↑ 天明8年(1788年)、郡山藩主の柳沢保光が秀長二百回忌を春岳院で執り行った際に制作されたもの[1]。
  2. ↑ 誕生した日は3月2日[2]とされることがあるが、これは江戸時代末期成立の『系図纂要』所収「豊臣系図」に基づくものであり、当時の史料では確認できない[3]。
  3. ↑ 竹阿弥と木下弥右衛門は同一人物とする説もある。
  4. ↑ 『多聞院日記』では、秀長の享年を「五十一」と記載しており、著者の英俊が秀長の領国である大和国にある興福寺多聞院の僧侶であることから、一時は同日記に記載された享年からの逆算によって天文10年(1541年)生まれではないかとする見方も浮上した。ところが、秀長が病死する前年の天正18年(1590年)10月付で秀長の病気平癒を願って作成された都状が奈良国立博物館に所蔵されていることが指摘され、そこには「五十一」と明記されている[5]。翌年正月に病死する直前に秀長は52歳になっている筈なので、そこから逆算すると従来の通説である天文9年生まれが正しいということになる[6]。
  5. ↑ 竹阿弥が本当に織田信秀の同朋衆だったかについては、疑問視する見方もある[11]。
  6. ↑ 黒田基樹は「弥右衛門と竹阿弥は同一人物で、清洲織田家に仕えた後に天文12年に死去したと考えるのが妥当」とした上で、『太閤素生記』の作者は弥右衛門を(出家後の呼称である)竹阿弥と名称が異なるために別の人物であると理解してしまったのではないかとしている(なお、黒田は「弥右衛門」の名前に関する史料の信頼性が落ちることに注意を促して、「弥右衛門」という名前に疑問を呈している)[19][20]。その上で、弥右衛門=竹阿弥の早すぎる死によって家が没落し、幼き日の秀吉が他所奉公の旅に出ることになったのではないかとしている[21][22]。
  7. ↑ 秀吉は後年、自身の少年期における暮らしぶりが非常に貧しかったと述懐している[27]。
  8. ↑ その後、山名堯煕は羽柴家家臣として召し抱えられ、鳥取城攻めに従軍する。それに伴い山名家旧臣但馬国人の多くは羽柴家家臣となった。
  9. ↑ 文化面では、尾張常滑から陶工の与九郎を大和に招き、赤膚焼を開窯させたとの伝承があるが、史実かどうかは疑わしい[73]。
  10. ↑ 10月頃、秀次が秀長の病気回復の祈願のため、多武峰に詣でており(談山神社文書)、両者の関係も良かったと思われる。
  11. ↑ ただし、秀吉と秀次、徳川家康はこの葬礼に参列していない[122]。
  12. ↑ 秀保室をおきくとする説があるが、『駒井日記』文禄三年三月三日の条に”大和御うへさま”(=秀保正室)と”大和おきく様”という言葉が同時に出てきていることから、秀保室と”おきく”が別人であることが分かる[145]。
  13. ↑ 阿部・西村編『戦国人名事典』では、「秀吉の臣」としている[154]。

出典

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  4. ↑ 渡辺 1981, p. 268; 新人物往来社 1996, p. 254.
  5. ↑ “羽柴秀長都状(収蔵品データベース)”. 奈良国立博物館. 2025年4月13日閲覧。
  6. ↑ 柴 2024, pp. 10–11.
  7. ↑ 新人物往来社 1996, p. 241.
  8. 1 2 渡邊 2013, pp. 60–61.
  9. ↑ 黒田 2025b, pp. 14–15.
  10. ↑ 渡邊 2013, pp. 27–28.
  11. ↑ 渡邊 2013, p. 56.
  12. ↑ 渡邊 2013, p. 55.
  13. ↑ 渡邊 2013, p. 61.
  14. ↑ 北川 2016, p. 43.
  15. ↑ 『大日本史料』第十二編之五、P18.
  16. ↑ 柴 2025, p. 27.
  17. ↑ 柴 2025, pp. 26–27.
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  19. ↑ 柴裕之「総論 羽柴(豊臣)秀長の研究」『豊臣秀長』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 14〉、2024年11月、14-15頁。 ISBN 978-4-86403-547-7。
  20. ↑ 黒田基樹「秀吉の出自と父母・きょうだい」『羽柴秀吉とその一族』KADOKAWA〈角川選書〉、2025年、28-38頁。 ISBN 9784047037397。
  21. ↑ 黒田基樹「総論 羽柴秀吉一門の研究」『羽柴秀吉一門』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 13〉、2024年11月、16頁。 ISBN 978-4-86403-546-0。
  22. ↑ 黒田基樹「秀吉の出自と父母・きょうだい」『羽柴秀吉とその一族』KADOKAWA〈角川選書〉、2025年、38-41頁。 ISBN 9784047037397。
  23. ↑ 黒田基樹「総論 羽柴秀吉一門の研究」『羽柴秀吉一門』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 13〉、2024年11月、9-16頁。 ISBN 978-4-86403-546-0。
  24. ↑ 柴裕之「総論 羽柴(豊臣)秀長の研究」『豊臣秀長』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 14〉、2024年11月、11-12頁。 ISBN 978-4-86403-547-7。
  25. 1 2 3 播磨 2025, p. 37.
  26. ↑ 播磨 2025, pp. 36–37.
  27. ↑ 渡邊 2013, pp. 28–29.
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  29. 1 2 柴 2024, p. 13.
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  34. 1 2 黒田 2025b, pp. 23–24.
  35. ↑ 黒田 2025b, p. 24.
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  38. ↑ 天野 2025, p. 46.
  39. ↑ 黒田 2025b, pp. 25–26.
  40. ↑ 黒田 2025b, p. 26.
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  43. 1 2 和田 2025, p. 37.
  44. ↑ 黒田 2025b, p. 27-28.
  45. 1 2 黒田 2025b, p. 28.
  46. 1 2 3 4 平凡社地方資料センター 1999, p. 801.
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  48. ↑ 和田 2025, p. 39.
  49. 1 2 柴 2024, p. 16.
  50. ↑ 天野 2025, p. 57.
  51. 1 2 3 4 黒田 2025b, p. 35.
  52. ↑ 天野 2025, p. 59.
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  54. ↑ 和田 2025, p. 47.
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  59. ↑ 黒田 2025b, p. 50.
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  83. ↑ 柴 2020, pp. 96–97.
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  94. ↑ 天野 2025, p. 196.
  95. ↑ 寺沢光世「紀州雑賀城主 吉川平助について」『歴史手帳』第8巻第20号、1992年。/所収:柴裕之 編『豊臣秀長』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 14〉、2024年11月、374-380頁。 ISBN 978-4-86403-547-7。
  96. 1 2 黒田 2025b, p. 238.
  97. ↑ 和田 2025, pp. 171–172.
  98. 1 2 黒田 2025b, p. 239.
  99. ↑ 天野 2025, p. 197.
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  103. ↑ 黒田 2025b, pp. 247–248.
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  105. ↑ 黒田 2025b, pp. 248–249.
  106. ↑ 黒田 2025b, p. 249.
  107. ↑ 天野 2025, p. 198.
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  122. 1 2 黒田 2025b, p. 266.
  123. 1 2 渡辺世祐『豊太閤の私的生活』講談社、1980年、245頁。(初版は創元社から1939年に発行)
  124. ↑ 新人物往来社 1996, p. 256.
  125. ↑ 黒田基樹『羽柴を名乗った人々』KADOKAWA〈角川選書〉、2016年、49頁。
  126. ↑ 永島福太郎「豊臣秀吉の都市政策一斑」『史学雑誌』59編4号、1950年
  127. ↑ 河内将芳「豊臣政権下の都市奈良に起こった一事件-「ならかし」「金商人事件」「奈良借」-」『史潮』36号、1995年/河内『中世京都の民衆と社会』思文閣出版、2000年
  128. ↑ 柴 2024, p. 53.
  129. ↑ 英俊、辻善之助編『多聞院日記 第4巻』、三教書院、1938年5月30日、2026年1月1日閲覧。
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  131. ↑ 小竹文生「羽柴秀長文書の基礎的研究」『駒沢大学史学論集』第27号、1997年。/所収:柴裕之 編『豊臣秀長』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 14〉、2024年11月、69頁。 ISBN 978-4-86403-547-7。
  132. ↑ 柴 2024, p. 21.
  133. ↑ 小竹 1997.
  134. ↑ 黒板 1936, pp. 493–502.
  135. 1 2 柴 2024, pp. 34–36.
  136. ↑ 木下浩良 (2021年2月6日). “高野山大学総合学術機構課長 木下浩良氏「高野山奥之院の『豊臣家墓所』について」”. ストーンサークル. 株式会社石文社. 2024年3月12日閲覧。
  137. ↑ 新人物往来社 1996, p. 220.
  138. ↑ 柴 2024, p. 36.
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  140. ↑ 新人物往来社 1996, pp. 58–64, 220; 柴 2024, pp. 36–37.
  141. ↑ 柴裕之 著「豊臣秀長・秀保―豊臣政権における「一門筆頭の執政」とその後継者」、黒田基樹; 柴裕之 編『戦国武将列伝 別巻2 豊臣編』戎光祥出版、2026年、81頁。 ISBN 978-4-86403-452-4。
  142. 1 2 3 4 柴 2024, p. 38.
  143. ↑ 黒田 2025, p. 241.
  144. ↑ 黒田基樹 著「総論 羽柴秀吉一門の研究」、黒田基樹 編『羽柴秀吉一門』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 13〉、2024年、54頁。 ISBN 978-4-86403-546-0。
  145. 1 2 3 柴 2024, pp. 38–39.
  146. 1 2 3 柴 2024, p. 39.
  147. 1 2 柴 2024, pp. 39–40.
  148. ↑ 柴 2024, p. 40.
  149. ↑ 柴 2024, pp. 38–39, 41.
  150. ↑ 黒田 2025, pp. 139–140.
  151. 1 2 柴 2024, p. 44.
  152. 1 2 和田 2025, pp. 208–209.
  153. ↑ 大橋宗舟「長谷寺秀長公寄進の燈籠に就て」『史迹と美術』第252号、140–141頁、1955年。 doi:10.11501/6067135。
  154. 1 2 3 阿部 & 西村 1987, p. 284.
  155. ↑ 小竹 1998.

参考文献

関連項目

外部リンク

先代
-
大和豊臣家
初代:1585年 - 1591年
次代
豊臣秀保

豊臣秀長

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/01/07 17:58 UTC 版)

「殿といっしょ」の記事における「豊臣秀長」の解説

秀吉の弟。頼りにはされているが極端に影が薄く、半兵衛はおねに指摘されるまで彼の存在に気付かなかった。存在感のなさから度々災難に遭うが、秀吉はそれを「その特徴を生かした笑い」と称している。

※この「豊臣秀長」の解説は、「殿といっしょ」の解説の一部です。
「豊臣秀長」を含む「殿といっしょ」の記事については、「殿といっしょ」の概要を参照ください。

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