木下昌利とは? わかりやすく解説

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木下昌利

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/11/06 19:53 UTC 版)

木下 昌利(きのした まさとし、生没年不詳)は、安土桃山時代武将。通称は将監半右衛門羽柴秀長の一族と伝わる。近江国出身。但馬国出石城有子山城)の城主を務め、賤ヶ岳の戦いなどで活躍した。

生涯

天正8年(1580年)5月、羽柴秀長(当時の名乗りは「長秀」))は主君織田信長の命により但馬国を平定した。従来の伝承では秀長は出石城主に任ぜられ、家臣の木下将監昌利が城代に任ぜられてとされてきたが、古文書の研究の進展などで、出石城(有子山城)と出石郡を与えられて支配を行っていたのは昌利本人で、秀長には『信長公記』に記されているとおり、朝来郡竹田城を与えられたと考えられている。このため、少なくてもこの段階において、昌利は秀長の家臣ではなく、羽柴秀吉の直臣になっていたと考えられている[1]

翌9年(1581年)3月9日付の「木下昌利書状」(総持寺文書)では、総持寺に対し夫丸諸役を免除する旨が記されており、出石城主として領内を統治していたことが確認される[2]

昌利は「羽柴秀長の一族」と伝えられるが、「羽柴秀吉の一族」ではなく、あくまで秀長の系統に属したとされる点が特筆される[2]。出生については諸説あるが、一説には羽柴秀長の実父竹阿弥(水野昌盛)の連れ子であり、秀長の異母兄にあたるとする見解がある。

天正4年(1576年)には、長浜城の留守居役として杉原家次一柳直次とともに名を連ねており、この頃すでに秀長の側近的な立場にあった。以後、三木合戦備中高松城の戦いなど各地の戦に従軍し、賤ヶ岳の戦い(1583年)でも活躍が見える。

同戦の3月11日の陣立てに「三番 木村隼人、木下昌利(半右衛門)」とあり、また『佐和山城物語』には、秀吉が敵方の動揺を察して木下昌利を神明山・堂木山の砦に入れ、山路将監・大金藤八郎らと共に布陣させたことが記されている[3][4]。このときの機動は秀吉本陣を支える重要な役割であった。

また『竹生島奉加帳』にも「木下将監」の名が見え、賤ヶ岳戦後の戦功を裏付ける資料とされている[5]

脚注

  1. ^ 柴裕之 編『豊臣秀長』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 14〉、2024年11月、16頁。ISBN 978-4-86403-547-7 
  2. ^ a b 兵庫県立歴史博物館 1987, p. 70.
  3. ^ 西川与三郎 1976, p. —.
  4. ^ イメーディアリンク 1992, p. 29.
  5. ^ 新人物往来社 1981, p. 33.

参考文献

  • 『出石の文化財:企画展』 兵庫県立歴史博物館、1987年、70頁。
  • 『賤ヶ岳戦記(第2版)』 西川与三郎、1976年。
  • 『佐和山城物語』 イメーディアリンク、1992年、29頁。
  • 『戦国大名家臣団辞典 西国編』 小和田哲男編、新人物往来社、1981年、33頁。



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