木下昌利
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木下 昌利(きのした まさとし、生没年不詳)は、安土桃山時代の武将。通称は将監、半右衛門。羽柴秀長の一族と伝わる。近江国出身。但馬国出石城(有子山城)の城主を務め、賤ヶ岳の戦いなどで活躍した。
生涯
天正8年(1580年)5月、羽柴秀長(当時の名乗りは「長秀」))は主君織田信長の命により但馬国を平定した。従来の伝承では秀長は出石城主に任ぜられ、家臣の木下将監昌利が城代に任ぜられてとされてきたが、古文書の研究の進展などで、出石城(有子山城)と出石郡を与えられて支配を行っていたのは昌利本人で、秀長には『信長公記』に記されているとおり、朝来郡の竹田城を与えられたと考えられている。このため、少なくてもこの段階において、昌利は秀長の家臣ではなく、羽柴秀吉の直臣になっていたと考えられている[1]。
翌9年(1581年)3月9日付の「木下昌利書状」(総持寺文書)では、総持寺に対し夫丸諸役を免除する旨が記されており、出石城主として領内を統治していたことが確認される[2]。
昌利は「羽柴秀長の一族」と伝えられるが、「羽柴秀吉の一族」ではなく、あくまで秀長の系統に属したとされる点が特筆される[2]。出生については諸説あるが、一説には羽柴秀長の実父竹阿弥(水野昌盛)の連れ子であり、秀長の異母兄にあたるとする見解がある。
天正4年(1576年)には、長浜城の留守居役として杉原家次・一柳直次とともに名を連ねており、この頃すでに秀長の側近的な立場にあった。以後、三木合戦・備中高松城の戦いなど各地の戦に従軍し、賤ヶ岳の戦い(1583年)でも活躍が見える。
同戦の3月11日の陣立てに「三番 木村隼人、木下昌利(半右衛門)」とあり、また『佐和山城物語』には、秀吉が敵方の動揺を察して木下昌利を神明山・堂木山の砦に入れ、山路将監・大金藤八郎らと共に布陣させたことが記されている[3][4]。このときの機動は秀吉本陣を支える重要な役割であった。
また『竹生島奉加帳』にも「木下将監」の名が見え、賤ヶ岳戦後の戦功を裏付ける資料とされている[5]。
脚注
- ^ 柴裕之 編『豊臣秀長』戎光祥出版〈シリーズ・織豊大名の研究 14〉、2024年11月、16頁。ISBN 978-4-86403-547-7。
- ^ a b 兵庫県立歴史博物館 1987, p. 70.
- ^ 西川与三郎 1976, p. —.
- ^ イメーディアリンク 1992, p. 29.
- ^ 新人物往来社 1981, p. 33.
参考文献
- 『出石の文化財:企画展』 兵庫県立歴史博物館、1987年、70頁。
- 『賤ヶ岳戦記(第2版)』 西川与三郎、1976年。
- 『佐和山城物語』 イメーディアリンク、1992年、29頁。
- 『戦国大名家臣団辞典 西国編』 小和田哲男編、新人物往来社、1981年、33頁。
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