はりま‐の‐くに【播磨国】
読み方:はりまのくに
⇒播磨
播磨国
播磨国
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/05/19 09:28 UTC 版)
播磨国では、藩札、旗本札、寺社札、町村札、私人札など、きわめて多様な札の発行が確認されている。播磨国は全国でも有数の穀倉地帯で、畿内諸国と同様に商品作物の栽培が盛んであり、人口も多く、姫路藩、明石藩、赤穂藩などがまとまった所領を有するほかは典型的な非領国地域であった。播磨国のほぼ中央部に位置する姫路藩は木綿の専売などで周辺経済に大きな影響力を有していたが、周辺地域の経済は、西国街道、美作・因幡街道などの街道や、加古川、市川、揖保川などの舟運といった物流経路に依存する形で、それぞれ緩やかな小経済地域を形成していた。旗本札の発行形態や図柄も、それぞれの小地域の影響が強い。 播磨国の藩札、旗本札の特徴としては銭匁札が広く発行されている点が挙げられる。銭匁札とは、額面表記は銀の単位である匁・分・厘であるが、一定の銀-銭相場に従って銭で兌換することが明記されたものである。備中国の永銭勘定や九州北部・四国西部の銭匁札などと並んで、江戸時代の貨幣経済システムを語る場合に興味深い商習慣である。 揖東郡新宮の池田氏は、もと東本願寺の執事であった下間氏の一族である。執事職相続の際の内紛が原因で、舅であった姫路藩主池田輝政の家臣となり、更に池田姓を名乗ることを許され、新宮藩を創設した。のちに無嗣改易となるところを、本家の岡山藩主・鳥取藩主家の奔走によって、減知の上で旗本としての存続が許された。陣屋は、新宮藩当時から引き続いて新宮(現・たつの市新宮町新宮)に置かれた。美作街道は姫路城の城下町のやや西で西国街道(山陽道)から分岐し、北西に伸びて美作国津山城下に達するが、新宮の町は美作街道と水運が盛んであった揖保川とが接近する位置にある。新宮池田氏は銀札及び銭匁札を発行した。 美作街道を更に下ると、佐用郡平福(現・佐用郡佐用町平福)、佐用郡長谷(現・佐用郡佐用町口長谷)、佐用郡佐用(現・佐用郡佐用町佐用)の松井松平氏3旗本の知行地がある。これらの家は、いずれも山崎藩主の松井松平氏から、佐用郡内の所領を同時に分知されて旗本家として成立した同族である。佐用は美作街道の宿駅で、更に佐用からは北に因幡街道が分岐する。因幡街道の次の宿駅が平福で、長谷は平福のやや南に位置する。また、これらの陣屋の近傍には千種川水系が水運に利用されていた。地理的にも近い3家であるが、いずれも独自に紙幣を発行した。 赤穂郡若狭野(現・相生市若狭野町若狭野)の浅野氏の知行地は千種川の下流の近傍に位置する。赤穂事件で著名な赤穂藩浅野家の分家で、本家が改易となって赤穂藩が永井氏、更に森氏の支配となっても、赤穂藩領が大部分を占める赤穂郡の只中に所領を有した。この若狭野浅野氏は大坂の両替商の天王寺屋などが引請人となった銀札、銭匁札を発行した。若狭野の陣屋跡地には紙幣関係業務を行った役所の建物が現存している。 播磨国東部の加東郡家原(現・加東市家原)の浅野氏もまた、赤穂藩主家の分家である。また、赤穂藩浅野氏は居城が存在した赤穂郡の他に、加東郡にも領地を有し、加東郡穂積(現・加東市穂積)に飛地陣屋を置いていたが、赤穂事件に伴う赤穂藩浅野氏の改易後、幕府に公収され、のちに穂積を含む村々が旗本八木氏の知行地となった。八木氏はこの浅野氏の穂積陣屋を利用して采地陣屋とした。なお、八木氏は、のちに戦国大名となった朝倉氏から鎌倉時代に分かれた支族で、織田氏の但馬国侵攻の際には八木城主であったが、織田氏と毛利氏との衝突により采地を失い、のちに関ヶ原の戦いでの戦功によって徳川家の旗本として取り立てられた家である。家原は加古川支流の千鳥川の近傍、穂積は千鳥川と加古川の合流地点付近に位置する。家原浅野氏及び穂積八木氏は、それぞれ銀札及び銭匁札を発行した。 美嚢郡高木(現・三木市別所町高木)の一柳氏は、伊予西条藩主家が改易となり、のち許されて旗本として取り立てられるにあたり、高木を中心とした村々に知行を与えられた。高木は別所氏が拠った三木城の城下町で、豊臣秀吉が免税地としたために金物の町として発展した三木町の近隣に位置し、少し北には加古川の支流である美嚢川が西行している。美嚢郡は木綿の生産地であり、高木一柳氏は木綿切手形式の紙幣を発行した。 神東郡福本(現・神崎郡神河町福本)の池田氏は、鳥取藩の支藩として立藩したが、のちに分家を創設した際に1万石を割ったために交代寄合表御礼衆の旗本となった。福本池田氏及びその分家2家(屋形池田氏・吉冨池田氏)の所領は、市川の上流域に当たる神東郡及び神西郡の北部を占め、福本は市川の東岸近傍にあった。幕末に鳥取藩から蔵米支給を受けて再度立藩したが、福本池田氏は旗本であった文政5年(1822年)及び立藩後の明治初年に銀札及び銭匁札を発行した。
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