下間氏
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下間氏(しもつまし)は、日本の氏族。摂津源氏を自称する一族が著名であり、代々本願寺の坊官を務めてきた家柄で地下家である。戦国時代に一向一揆の指導者として活躍した者が一族に多い。なお加賀一向一揆の指導者の1人下間蓮崇は、本願寺8世法主蓮如から姓を下賜されたものであり、本姓も異なる。
注釈
- ^ 頼龍が奏者を罷免され、奏者が頼廉・仲孝の2人制になると下間頼承・頼純・頼芸を加えた年寄衆5人が本願寺中枢部を形成した。後に教如が法主を継ぐと仲孝を奏者から罷免して頼龍に代えたが、教如が短期間で法主を退隠すると頼龍が奏者の座を追われ、奏者は3人制に戻り頼廉と頼純および下間頼賑が就任した。その後慶長7年(1602年)にまた奏者の異動が行われ、仲孝が復帰し頼賑・頼芸が奏者となった[23][24]。
- ^ 文禄2年の教如から准如の法主継承について、裁定を下した秀吉から示された根拠は、顕如が准如に与えた譲状があることだった。頼廉はこれに反論、法主の譲状は教団の門下や大人に披露して初めて有効であるという本願寺の論理を持ち出し、教如は惣領であるから秀吉の意向は迷惑であるとも主張した。これが秀吉の怒りを買い頼廉は勘気を蒙り、教如も退隠させられた[26][27]。
出典
- ^ a b c d e f 国史大辞典 1986, p. 163.
- ^ 柏原祐泉 & 薗田香融 1999, p. 150.
- ^ 本願寺史料研究所 2010, p. 502-503.
- ^ 柏原祐泉 & 薗田香融 1999, p. 145,156.
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- ^ 峰岸純夫 1984, p. 37-38.
- ^ 柏原祐泉 & 薗田香融 1999, p. 154-155.
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- ^ 木村礎 & 藤野保 1989, p. 582.
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- ^ 本願寺史料研究所 2015, p. 116-119.
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- ^ 本願寺史料研究所 2015, p. 119-120.
- ^ 織田信時の娘。
- ^ 備前岡山藩家老 天城池田家・池田由孝の子。
- ^ 旗本・池田政森の子。
- ^ 三河奥殿藩主・松平(大給)乗友の子。
- ^ 武蔵金沢藩主・米倉昌寿の7男。
- ^ 西本願寺・法如(大谷光闡)の子。
- ^ a b 摂津麻田藩主・青木一典の子。
- ^ 蓮光寺・室度の子。
- ^ 丹波綾部藩主・九鬼隆郷の子。
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