米倉昌寿とは? わかりやすく解説

米倉昌寿

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/06/14 13:17 UTC 版)

 
米倉昌寿
時代 江戸時代後期
生誕 寛政5年1月11日1793年2月21日
死没 文久3年3月20日1863年5月7日
戒名 金陵竜渓昌寿院
墓所 東京都港区西麻布長谷寺
官位 従五位下丹後守
幕府 江戸幕府 奏者番
主君 徳川家斉家慶家定家茂
武蔵金沢藩
氏族 朽木氏米倉氏
父母 朽木昌綱
米倉昌俊
兄弟 唯之助、朽木綱方昌寿、福寿太郎
間部詮熙娘・慶
板倉勝長娘・演暢院
朽木紘綱昌言、池田頼誠、昌慧、
安部信発、正直、昌邦、本多助実継室、
恒子ら
テンプレートを表示

米倉 昌寿(よねくら まさなが)は、江戸時代後期の大名武蔵国金沢藩7代藩主。六浦藩米倉家10代。官位従五位下丹後守

略歴

寛政5年(1793年)1月11日、丹波国福知山藩8代藩主・朽木昌綱の三男として誕生。文化9年(1812年)6月10日、6代藩主・米倉昌俊が死去したため、その養子として家督を継いだ。同年6月13日、11代将軍・徳川家斉御目見する。

一橋門番や馬場先門番、和田倉門番、田安門番、竹橋門番などを歴任し、天保7年(1836年)11月に大坂京橋口定番となるが、天保9年(1838年)に不手際を起こして処罰されている。安政4年(1857年)閏5月1日、奏者番に就任する。万延元年(1860年)6月24日に六男・昌言に家督を譲って隠居した。

文久3年(1863年)3月20日、死去。享年71。

系譜

父母

正室、継室

子女

脚注

  1. ^ 朽木綱張の養子
  2. ^ 池田頼方の養子
  3. ^ 安部信宝の養子

関連作品





固有名詞の分類


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「米倉昌寿」の関連用語

米倉昌寿のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



米倉昌寿のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの米倉昌寿 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS