米倉昌由
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ナビゲーションに移動 検索に移動時代 | 江戸時代中期 - 後期 |
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生誕 | 安永6年11月9日(1777年12月8日) |
死没 | 文化13年12月23日(1817年2月8日) |
改名 | 常菊(幼名)→昌由→栄寛斎(号) |
戒名 | 栄寛斎陽徳院 |
墓所 | 東京都渋谷区の長谷寺 |
官位 | 従五位下、丹後守、主計頭 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家斉 |
藩 | 武蔵金沢藩主 |
氏族 | 米倉氏 |
父母 | 父:米倉昌盈、母:米倉昌長の娘 養父:米倉昌賢 |
兄弟 | 男子、昌由 養兄弟:米倉昌胤室 |
妻 | 正室:米倉昌賢の長女・清凛院 |
子 | 養子:昌俊(水野忠鼎九男) |
米倉 昌由(よねくら まさよし)は、江戸時代中期から後期にかけての大名。武蔵国金沢藩の第5代藩主。六浦藩米倉家8代。
略歴
安永6年(1777年)11月9日、3000石の旗本である米倉昌盈の次男として誕生。昌盈は奥田忠英の次男であり、米津昌倫の長男・昌長の養子であった。
寛政10年(1798年)、第4代藩主・昌賢が死去すると、その婿養子として跡を継ぎ、9月に第11代将軍・徳川家斉に御目見し、12月に叙任する。そして馬場先門番、半蔵口門番、日光祭礼奉行、一橋門番などを歴任したが、享和3年(1803年)6月15日に病気を理由に養子・昌俊に家督を譲って隠居した。文化6年(1809年)5月には剃髪して栄寛斎と号した。
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