米倉昌尹とは? わかりやすく解説

米倉昌尹

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 17:40 UTC 版)

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米倉 昌尹
時代 江戸時代前期
生誕 寛永14年(1637年
死没 元禄12年7月12日1699年8月7日
改名 牛助(幼名)、昌尹
別名 市左衛門(通称)、昌安
戒名 蔵林寺殿徳石道明大居士
墓所 神奈川県秦野市堀山下の蔵林寺
官位 従五位下丹後守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱綱吉
武蔵金沢藩主、下野皆川藩
氏族 米倉氏
父母 米倉昌純、簗田直次娘
金森重義
渡辺守
昌明、昌仲、女子
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米倉 昌尹(よねくら まさただ)は、江戸時代前期の旗本大名若年寄武蔵国金沢藩主、下野国皆川藩初代藩主。官位従五位下丹後守

生涯

寛永14年(1637年)、400石の米倉昌純(初名、政継)の長男として誕生。正室は金森重義娘、継室は渡辺守娘。

正保2年(1645年)6月9日、3代将軍・徳川家光に拝謁し、承応3年(1654年)2月23日に御小姓となる。貞享元年(1684年)7月19日に600石に登った米倉家の家督を継ぐ。

貞享2年(1685年)8月12日、御徒士頭となり、貞享3年(1686年)9月18日に目付となる。貞享4年(1687年)2月26日に番頭となり、元禄3年(1690年)3月27日に武蔵国内で500石を加増され、同年12月18日に叙任する。元禄5年(1692年)1月11日、上野国内で1000石を加増され、元禄7年(1694年)1月7日に武蔵国内で1000石を加増される。同年12月15日にも武蔵国内で1000石加増される。元禄9年(1696年)3月28日に若年寄に任じられ、それにより1万石を与えられたことで大名として諸侯に列し、武蔵金沢藩主となる。

元禄12年(1699年)1月にも5000石を加増され、下野皆川に移封されて1万5000石となるが、同年7月12日死去。

跡を長男・昌明が継いだ。





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